世界史研究所が関わった書籍、南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)の書評が、『西洋史学』274号(日本西洋史学会)の63〜65頁に掲載されました。評者は、蘇南高等学校校長の小川幸司さんです。
どうぞご一読ください。
世界史研究所が関わった書籍、南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)の書評が、『西洋史学』274号(日本西洋史学会)の63〜65頁に掲載されました。評者は、蘇南高等学校校長の小川幸司さんです。
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「世界史の眼」は、この4月から4年目に入りました。今号では、前号に続き小谷汪之さんに、「M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」の(中)を寄稿して頂きました。次号の(下)で完結の予定です。また、明治大学の山田朗さんに、昨年刊行のマイケル・S・ナイバーグ『戦争の世界史』を書評して頂きました。
小谷汪之
M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」(中)
山田 朗
書評:マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)
マイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。
はじめに
1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展
(以上、前号掲載)
2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展
(本号掲載)
(以下、次号掲載)
3「ビルトの体系」
おわりに
ビルトという言葉は、ザミーンダーリー・ビルトのような土地レンテ収取権を意味するだけではなかった。より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称されたのである。ウイルソンはこのような意味でのビルトの用法を挙げている。
birtあるいはbrit:ヒンディー語。サンスクリット語の vritti 〔から派生〕。〔中略〕世俗的と宗教的とにかかわらず、ある職に従事することから生じる権利、慣行〔的権利〕、特権。さまざまなカーストによって主張される、ある特定の職に従事する権利。〔例えば〕家庭司祭に対する手当。(注8)
先にも触れたが、ヴリッティvṛttiというサンスクリット語の言葉がブリットbritに変化し、さらにビルトbirtへと、より発音しやすい方へ変化したと考えられる。このことは、北インドにおいて、ヴリッティという言葉が、音韻変化を起こしながら、長く使用され続けてきたことを示している。
前出のチョードゥリーのような地域共同体の首長の職とそれに付随する取り分権(チョードゥラーイー)もビルトと称された。地域共同体は50カ村ぐらいの村々を束ねた上位の地縁共同体で、地域社会の再生産に重要な役割を果たしていた。(注9)
さらに、ウェーバーの前引の一文にあるように、「世襲村長」もビルトをもっていた。コートあるいはムカッダムと呼ばれた村長の職と取り分権(コーティー、ムカッダミー)もビルトだったのである。コーティー、ムカッダミーは、遅くとも16世紀までには売買可能な物件となっていた。1530年の一史料はある村のコーティーが700タンカで売却されたことを示している。(注10)村長職の取り分は実入りの良いものであったから、村落外の者がムカッダミーを購入するといったこともしばしばあった。(注11)
村落共同体のさまざまな職務に従事する手工業者たち(鍛冶屋、大工など)や床屋、洗濯人などのような村職人たち―ウェーバーは彼らを「村落エスタブリッシュメント」Dorf-establishmentと総称している(注12)―もそれぞれのビルトをもっていた。
このように、村落共同体―地域共同体を構成するさまざまな人々は、それぞれのビルトを所有していた。ビルトは村落共同体―地域共同体内の社会的分業関係の土台をなしていたのである。
土地レンテ収取権としてのビルトとは区別される、「村落エスタブリッシュメント」を構成する人々のビルトはジャジマーニーjajmānīとも称された。ジャジマーニーという言葉は仏教やヒンドゥー教において、施主あるいは祭主を意味するサンスクリット語のヤジャマーナyajamāna(転訛してジャジマーンjajmān)という言葉から派生した語であるが、「村落エスタブリッシュメント」を構成する村職人などの世襲的顧客関係を指す言葉として広く用いられていた。
ウェーバーは『ヒンドゥー教と仏教』の各所で、バラモン家庭司祭や大工などの職人が世襲的な「ジャジマーニー関係」jajmani-Beziehung(顧客関係Kundschaft)をもち、それを売却することもできたということを指摘している(Hinduismus und Buddhismus, pp. 63, 103-104, 352)。
顧客関係保護の原則Prinzip des Kundschaftsschutzes、すなわちジャジマーニー関係jajmani-Beziehung確保の原則は、これら村落職人の範囲を越えて、今日でも多くの手工業カーストにおいて強力に実施されている。我々はすでにこのジャジマーニーの保護をバラモンに関して知ったのであるが、〔祭主、施主という言葉から派生した〕この語の意味が示すように、この概念はバラモン・カーストの諸関係に起源を持ち、そして個人的管轄区域≫Sprengel≪とでも訳すべきものである。〔中略〕たとえばチャマール〔不可触民の皮革工カースト〕は、世襲的に特定の諸家族から死んだ家畜を受け取り、彼らに対して靴などに必要とされる皮革を納める。同時に彼の妻は同じ顧客の助産婦である。乞食の諸カーストは、西洋の煙突掃除人のように、(世襲である点が異なるが)特定の乞食区域を持ち、ナーイー〔床屋〕は、自分の世襲の顧客に対して、理髪師、マニキュア師、ペディキュア師、外科医および歯科医であり、バンギー〔不可触民の一カースト〕は特定区域の清掃人である。多くのカーストについて―したがって、ドーム(家僕、乞食)やバンギーについても―顧客関係Kundschaftは譲渡できるし、しばしば婚資〔嫁買金〕の一部であると報告されている。かかる制度が存在する場合には、他人の顧客関係に侵入することは、今日でさえカーストからの追放の理由になる。(Hinduismus und Buddhismus, pp.103-104.深沢宏訳、137頁)
ウェーバーはジャジマーニーに関するこのような知識を、‘Blunt im C. R. 1911 für die United Provinces und Oudh (altklassischer Hinduboden!) p. 223’から得たと注記しているが(Hinduismus und Buddhismus, p.104, n. 2)、この出典表記には誤りがある。正しくは、E.A.H. Blunt, Census of India, 1911, Vol. 15, United Provinces of Agra and Oudh, Part 1, p. 332の以下の記述である。(注13)
(C) ジャジマーニーJajmani―バラモン以下多くのカーストは「ジャジマーニー」jajmani(注1)という言葉で表される慣行をもっている。字義どおりには、ジャジマーンjajmanという言葉は「供犠を行う人」、すなわち、司祭を雇って自分のために供犠を行い、もちろん、供犠に必要なものを司祭に提供する人、を意味する。しかし、〔ジャジマーンという言葉は〕今ではあらゆる種類の顧客を意味する。バラモンのプローヒトpurohitすなわち家庭司祭のジャジマーンは彼の教区民たちであり、教区民たちの誕生祝、入門式、結婚式といった儀式を管掌することが彼の職務である。同様に、チャマール〔皮革工〕、ドーム、ダファーリー、バート〔家系図作り〕、ナーイー〔床屋〕、バンギー〔清掃人〕、バダイー〔大工〕、ローハール〔鍛冶屋〕、これらすべてのカーストがそれぞれのジャジマーンを持ち、ジャジマーンに定められたサーヴィスを提供する代わりに、〔ジャジマーンから〕所定の手当を受け取る。顧客関係は世襲的で、父から子へと受け継がれる。チャマールはジャジマーンから死んだ家畜を受けとり、〔ジャジマーンに〕皮革や靴を提供する。チャマールの妻は同様に彼女自身の顧客関係を持ち、〔顧客=ジャジマーンの家で〕産婆の役割を果たし、結婚式や祝祭などの際に下働きとして働く。ドームのジャジマーニーは物乞い区域begging beatで、その範囲内では、彼だけが乞食をしたり、盗みをしたりすることができる。ダファーリーも物乞い区域を持っている。ダファーリーは乞食をする以外に、悪霊を払い、邪視を無力にする役割を果たさなければならない。ナーイーは顧客の髯をそり、〔顧客の家の〕結婚仲介人となり、ちょっとした外科手術(抜歯、骨接ぎ、できものの切開、等々)を行う。一方、ナーイーの妻は顧客の家で、産後の主婦のために子守を世襲的に行う。バダイー〔大工〕とローハール〔鍛冶屋〕は村々において、犂や砕土機やその他の農耕具を作ったり修理したりする顧客圏を持っている。バンギー〔清掃人〕はある一定の数の家々を顧客としている。ジャガ・サブカーストのバート(注2)は彼等の顧客の巡回家系図作りとして、二、三年毎に顧客の家を訪ねて、家系図を最新の状態にする。
これらの顧客圏は収入の貴重な源泉であり、世襲され、売買することもできる(ドームの物乞い区域やバンギーのジャジマーニーは、しばしば、婚資代わりになる)。このようなものとしての顧客圏は厳密に境界が定められ、同じカースト仲間の顧客圏に侵入すると激しい怒りを買う。多くの場合、カースト・パンチャーヤト〔長老会議〕の主要な職務はこの種の違反に対処することである。ドームは、彼の物乞い区域内で盗みを働いた他のドームを警察に引きを渡すことを躊躇しない。(注3)
注
1. ジャジマーニーはブリトbritあるいはビルトbirtの同義語である。(以下略)
2. (略)
3. もし、ある顧客が彼の家の世襲的なドームあるいはバンギーあるいはバダイーに仕事を頼むのを拒否したらどうなるかという問題がある。その場合、多分彼はボイコットされ、誰も彼のために仕事をしないであろう。(以下略)
上引文中の注1に見られるように、バラモン家庭司祭、バート、チャマール、ドーム、ダファーリー、ナーイー、バンギー、バダイー、ローハールなどの場合、ビルトとジャジマーニーが同義であることは1911年国勢調査(Census of India)の段階ですでに知られていたのである。ウェーバーはこの国勢調査報告書を読んで、ジャジマーニーについての知識を得たのであるから、当然、これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義であることも知っていたはずである。
これらの人々のビルトとジャジマーニーが同義語となった経緯は次のように考えられる。ジャジマーニーという言葉は、前述のように、サンスクリット語で祭主(仏教的にいえば、施主)を意味するヤジャマーナという言葉から派生したもので、もともとは、バラモン家庭司祭の顧客関係(ビルト)のみを表す言葉であった。しかし、このジャジマーニーという言葉がしだいに一般化して、チャマールやバンギーなどの顧客関係(ビルト)までジャジマーニーと呼ばれるようになり、結局、これらの人々のビルトとジャジマーニーは同義とみなされるようになっていったのである。ただし、ザミーンダーリー・ビルトなど、土地レンテ収取権としてのビルトがジャジマーニーと表現されることはなかった。ビルトとジャジマーニーが同義だったのは、あくまでも、共同体的分業関係の場においてだったのである。
なお、ブラントは自らが委員長を務めた連合州銀行業調査委員会United Provinces Banking Enquiry Committee, 1929-1930の報告書に依拠して、連合州のある三つの県(district)で、バンギーやマハーブラーフマン(葬式を行うバラモン)などのジャジマーニー80件が抵当に入れられていたことを指摘している。その中の1件はプローヒティー、すなわちバラモン・プローヒト(家庭司祭)のジャジマーニーであった。(注14)このことは、1930年頃になっても、ビルト(ジャジマーニー)が現実的な資産としての価値をもっていたことを示している。
W・H・ワイザーが『ヒンドゥー・ジャジマーニー制度』(1936年)(注15)と題された著書で、ジャジマーニー制度という概念を提起したことはよく知られている。その副題には、「ヒンドゥー村落共同体の構成員たちをその職務において相互に結び付ける社会経済的制度」とある。ジャジマーニー制度とは、換言すれば、村落共同体内分業の制度だということである(ただし、村が小さい場合などには、1カ村を越える分業関係もあり得た)。
ワイザーの調査村であるカリームプル村(仮名)は、ガンジス川とジャムナー川に挟まれた、いわゆる両河地方に位置し、以下のような24のカーストから成っていた。(注16)
1. バラモンおよびそれに近似した階層(2カースト)
バラモン(家庭司祭)、バート(家系図作り)
2. クシャトリヤおよびそれに近似した階層(2カースト)
カーヤスタ(書記)、ソーナール(金工)
3. シュードラ階層(12カースト)
マーリー(野菜作り)、カーチー(野菜作り)、ローダー(米作り)、バダイー(大工)、ナーイー〈床屋〉、ダルジー(仕立屋)、クムハール(陶工)、テーリー(油屋)、その他。
4. 被差別民階層(8カースト)
ドービー(洗濯人)、チャマール(皮革工)、バンギー(清掃人)、その他。
ワイザーはこれらの諸カーストの間の関係について、次のようにのべている。
村のそれぞれのカーストは一年のどこかの時期にお互いの間で固定されたサーヴィスの授受を行うことが求められる。〔中略〕〔例えば〕村大工は彼の顧客clientele全体を彼のジャジマーニーあるいはビルトと呼ぶ。これらの言葉は同じ意味である。大工がサーヴィスを提供する個々の家、あるいはその家の家長は大工のジャジマーンと呼ばれる。(注17)
同様に、バラモン家庭司祭(パンディト)、金工、鍛冶屋、床屋などの諸カーストの人々もそれぞれ自分の家の世襲的な顧客をもち、それぞれの顧客の全体が彼の「ジャジマーニー」あるいは「ビルト」と称されていたのである。
このジャジマーニーあるいはビルトが単に世襲的な権益(資産、家産)であっただけではなく、譲渡可能な物件であったことについて、ワイザーは大工を例として、以下のようにのべている。
それぞれの大工は自分自身の顧客を持っている。この顧客関係は慣習によって確立され、世代から世代へと引き継がれる。村が大きい場合には、顧客は村の境界内に限られる。もし村が大きくなかったり、大工家族の成員が村の必要を満たす以上に多い場合には、近隣の大工のいない小村にまで、顧客の範囲が広がる。この顧客関係はひとたび確立されると、大工自身によってしか破棄されえない。彼は彼の諸権利を他の大工に売ることもできる。この顧客関係は世襲的であるのみならず、譲渡可能なのである。(注18)
ワイザーが見た1920-30年代北インドの村落社会では、バラモン家庭司祭、大工などの村職人、その他多くの人々が一定の範囲の顧客を自らの世襲的なジャジマーニーすなわちビルトとしてもち、そのジャジマーニー(ビルト)を物件として売却したり、譲渡することができた。この社会関係は、まさにウェーバーがブラントの国勢調査報告書に基づいて記述している「ジャジマーニー関係」jajmani Beziehungそのものである。
(次号に続く)
※注はまとめて(下)に掲載します。
(「世界史の眼」No.37)
2022年2月に始まったウクライナ戦争。その時以来、私たちは、「戦争」「侵攻」「戦闘」という言葉をテレビ・新聞や様々なネットメディアで聞かない(あるいは読まない)日はない。もっとも、米ソ冷戦終結後も「戦争」は常にどこかで起きていた。湾岸戦争、旧ユーゴスラビア地域における内戦、9.11を発端とするアフガニスタン戦争、イラク戦争、シリアやアフリカにおける内戦、世界に拡散したテロと対テロ戦争……。これらは、多くの場合、地域における内戦・紛争に大国が介入したもので、どちらかと言えば非対称戦争の様相を呈する傾向が強かった。しかし、ウクライナ戦争は、軍事大国ロシアとNATOの支援を受けたウクライナとの間の、古典的な主権国家同士の戦争であり、また、真相は次第に明らかになるであろうが、少なくとも見た目には、絵に描いたような侵略戦争を国連安保理常任理事国が正面切ってやってしまったという点で世界に大きな衝撃を与えた。
戦争とは殺戮であり、恐怖であり、とてつもない破壊である。大多数の人間が望むものでないことが、「正義」や「正統性」の名の下に、「合法的」に遂行される。人類にとって戦争とは何なのか、戦争は社会をどう変えてきたのか、また社会の変容がどのように次の戦争を生んできたのか、おそらく一国レベルでも戦争の歴史を考察しようとすると、あるいは概観しようとしただけでも、私たちは多くの書物にあたらなければならない。例えば、『戦争の日本史』(吉川弘文館、2006~2009年)は倭国(邪馬台国)大乱からアジア太平洋戦争まで全23巻・約7,000ページもある。ましてや、世界の戦争の歴史を概観しようとすれば、大変な労力を要すると覚悟しなければならない。
だが私は、つい最近、世界の戦争の歴史を実にコンパクトにまとめた本に出会った。それが、ミネルヴァ世界史(翻訳)ライブラリー第1巻として2022年11月に刊行されたマイケル・S・ナイバーグ(稲野強訳)『戦争の世界史』、原著:Michael Scott Neiberg, Warfare in World History (NewYork, London: Routledge, 2001)である。
『戦争の世界史』の章立ては以下のとおりである。
はじめに/謝辞
序 章 1944年6月5日
第1章 古典時代–紀元500年まで
第2章 ポスト古典時代–紀元500~1450年
第3章 火器の出現–1450~1776年
第4章 ナショナリズムと産業主義
第5章 第1次世界大戦
第6章 第2次世界大戦
第7章 冷戦とその後
第8章 結論
訳者解説/索引
四六判、viii+208+10頁
実にオーソドックスな章立てで、ギリシャ・ローマ時代から冷戦後までを描き、それを邦訳本文わずか208頁でまとめている。だが、本書は、いつ、誰(どの国)が、どこで戦い、その勝敗がどうであったのか、ということをただ単に時系列的に羅列したものでもなければ、英雄・将軍の決断の成功・失敗のエピソード集でもない。もちろん、世界の戦争全体の通史とは言えないが、それでも本書は、古典古代以来、現代までの戦争の特徴と戦争を生み出した社会的背景、戦争では誰がどのような兵器を使って戦い、さらに戦争が社会をどう変化させたのかを考える上での不可欠の知識を私たちに与えてくれる。大づかみであるが、決して抽象的ではなく、その時代に生き、戦った人間(男・女)の存在に目配りが利いた叙述となっている。実に無駄がない。訳文も非常にこなれているし、訳者による補足・補訂も親切に施されている。
本書は、コンパクトであるにもかかわらず、各時代の戦争の特徴と時代間の関係性がよくわかる。それは、その章内構成がたくみであるからだ。第1章から第7章には、必ず共通の小見出し(節)が設定されている。それは 【代表的戦場】【兵士】【兵器】【戦闘】【遺産】である(なお、著者が序章で明示しているのは【兵士】【兵器】【戦闘】の3つの小見出し(節)であるが、実際の章には3つの前に【代表的戦場】というべき節が、後に【遺産】と題された節が設けられている)。
【代表的戦場】には、第1章【テルモピュレ—紀元前480年】、第2章【マラーズギルド—1071年】、第3章【ケベック—1759年】、第4章【対馬海峡—1905年】、第5章【ガリポリ—1915年】、第6章【スターリングラード—1942~43年】、第7章【ディエンビエンフー—1953~54年】という具合に、それぞれ具体的地名と年代が入っていて、いきなり読者を各時代の戦場へと連れていく。そして【兵士】の節でどのような人が(第5章以降ではどのような男・女が)戦場で戦い、銃後を支えたのか、【兵器】の節でその時代に使われた兵器体系を示し(火器の普及が戦争を大きく変えた)、【戦闘】の節で人と兵器がどのような形態の戦闘に投げ込まれたのか叙述し、【遺産】の節でその時代の戦争がどのような社会構造を前提にし、さらに戦争がそれをどう変化させたのかをまとめている。簡にして要を得た、無駄のない骨太な叙述は、著者の大きな力量を感じさせる。
著者マイケル・S・ナイバーグは、戦争が社会や技術を進歩させてきたとか、兵器性能が戦争の勝敗を決するといった単純な結論を出していない。戦争は基本的に人類の愚行であり、火器の発展とその大量配備を可能にした産業主義は、戦場(戦略爆撃は戦場と銃後という境界さえなくした)における無意味な大殺戮を生み出したことを直視している。
『戦争の世界史』を読むと、戦争を世界史として把握することの重要性に改めて気づかされる。著者も強調しているように、兵器体系はたいていの場合、文明圏・文化圏の境界線を容易に突破して伝播する。また、比較的短期間に射手を養成できる火器の普及は、封建制度を急速に不安定なものにさせ、次第に、中央集権国家による暴力の独占へと進ませる。巨大な組織的暴力を統制・運用するために参謀システムが導入され、戦争はシステマティックな、生産力と輸送力と国民の主体性を喚起する宣伝力に支えられたものになっていく。こうしたことがグローバルなスケールで展開された。
本書は戦争の世界史的把握という点で、私たちを大いに触発するものであるが、克服すべき問題点がないわけではない。本書は、中国・インド・日本など非ヨーロッパ世界における戦争・軍事思想にも目配りをしているものの、やはりヨーロッパとアメリカにおける戦争史中心の歴史叙述であることは否めない。また、原著が「9.11」の2001年に刊行されていることから止むを得ない部分もあるのだが、第7章では第2次世界大戦後を基本的に植民地支配から脱するための、反帝国主義ゲリラ戦争を軸として描いている。しかし、ゲリラ戦争(非対称戦争)の様相は、冷戦終結前から急速に変貌を遂げていたことを本書は捉え切れていないように思われる。ISなどゲリラ勢力に対する大国の支援・介入が、結果的にさらなる秩序の崩壊を招いていることをどう捉えたら良いのか、これは私たちにも課せられた課題であろう。
ところで、世界史の大づかみにした著作に対して、「これが欠けている」とか「この事件の叙述が正確ではない」といった批判は、いささか気が引けるが、世界の戦争史で初めて起きた事件に関することなので、野暮を承知で1つだけ指摘しておきたい。日本軍による真珠湾攻撃の2日後、1941年12月10日(日本時間)、マレー半島沖で日本海軍は航空攻撃のみで、イギリス戦艦2隻を撃沈した。本書では、「日本の空母を基地にした艦載機は、イギリスの誇るプリンス・オブ・ウェールズ号〔東洋艦隊の旗艦〕とレパルス号の二隻の戦艦を沈めた〔マレー沖海戦〕」(159頁、〔 〕内は訳者による補足)とある。だが、この時点で日本海軍の6隻の主力空母はハワイからの帰投中で、この戦場には存在しない。イギリス2戦艦を沈めたのは、「空母を基地にした艦載機」ではなく、仏印の地上基地を発進した双発の「陸上攻撃機」(陸上から発進する攻撃機=雷撃・爆撃両用機)であった。この違いは、一見するとどこから発進したのかという些細な違いに見えるが、日本海軍の作戦構想と兵器体系の構築に関わる大きな相違なのである。一般に、地上基地から発進する双発の爆撃機(大きさからいって空母に搭載できない)の類は、空軍が独立していない場合、どの国でも陸軍に所属するものだ。だが、日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で空母の保有量が制限されたことへの抜け道として空母に搭載できない、地上発進の「陸上攻撃機」という独特の機種を1930年代に開発し、来攻する米艦隊を迎撃する地上部隊(第11航空艦隊)に配備していた。マレー沖海戦に参加した日本海軍の航空機は、96式陸上攻撃機と1式陸上攻撃機のみで、これらが雷撃と爆撃で英2戦艦を沈めた。96式陸攻開発の主導者こそ山本五十六で、航空主兵論者である彼が最もやりたかったタイプの海戦こそが、量的に制約があった空母艦載機に頼らずとも、地上発進の「陸上攻撃機」で、敵戦艦を迎え撃つというものであったのだ。マレー沖海戦は、空母の数的劣勢を補おうとして構築した、独特な航空戦力による戦いであり、また外洋を自由に航行する戦艦が航空攻撃のみによって撃沈された、世界最初の事例であった。だが実は、重要なのは、山本がやりたかった「陸上攻撃機」による敵戦艦撃沈は、これが最初で最後になったということなのである。マレー沖海戦において、英側は戦艦に1機の護衛戦闘機もつけていなかった。それだからこそ、戦闘機に対してはほぼ無力な、双発の「陸上攻撃機」のみの攻撃で、2戦艦は討ち取られてしまった。この海戦以後、戦艦が航空部隊の護衛なく行動するということはなくなり、また対空火力も強化されたので、鈍重な双発機が、戦艦に接近して沈めるなどということは2度と起こらなかったのである。こういう意味で、マレー沖海戦における日本海軍の航空機がどこから発進したかという問題は、日本海軍の戦略と構築した独特な兵器体系を語る上で、それなりに重要な問題なのである。
変なところにケチをつけた形になってしまったが、本書の価値をいささかも揺るがすものではない。戦争に対する深い考察がなされるべき、現在においてこそ、広く読まれるべき著作だと思う。
(「世界史の眼」No.37)