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「世界史の眼」 お知らせ

 「世界史の眼」No.23とNo.24に掲載された、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」」に対して、小谷汪之さんに補遺をお寄せ頂きました。本論とあわせてお読み下さい。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)はこちら、戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)はこちらです。

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戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺
小谷汪之

 拙稿「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」(上・下)が「世界史の眼」に掲載された後、『真珠の世界史』(中公新書)の著者、山田篤美さんから、南洋庁の「部外秘」文書である『世界主要地に於ける眞珠介漁業』(1937年)のコピーを恵与いただいた。大変な苦労をして「発掘」されたこの「部外秘」文書のコピーを恵与いただいたことに深く感謝する。

 前記の拙稿は乏しい文献に依拠して書かれた部分があり、『世界主要地に於ける眞珠介漁業』に照らしてみると不正確あるいは不十分な点がいくつかある。以下では、真珠貝採取業と真珠養殖業に分けて、修正と補足を行いたい。

1 真珠貝採取業にかんして

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。

 この一文を以下のように修正する。

1931〔昭和6〕年末はじめて、日本の一隻の真珠貝採取船がパラオ諸島コロール島からアラフラ海方面に出漁した。その後、日本の真珠貝採取船の数は急増し、1936(昭和11)年には81隻に上った。水揚げされた真珠貝は三井物産株式会社神戸支店に委託販売され、大部分が神戸からニューヨークに輸出された(『世界主要地に於ける眞珠介漁業』2-3頁)。こうして、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(山田篤美『真珠の世界史』126頁)。

2 真珠養殖業に関して

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

 他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 この一文を以下のように修正する。

 他方、真珠養殖業では、1918年に南洋産業株式会社がパラオで真珠養殖試験を開始した。1926年、御木本真珠がこれを買収し、始めはアコヤ貝と黒蝶貝を使用していたが、1935年より白蝶貝(シロチョウガイ)の試験的養殖を始めた。これがパラオにおける白蝶貝養殖の始まりである。翌1936年、本稿の主題となる南洋真珠株式会社がパラオ諸島ウルクタベール(ウルクターブル)島の北岸(マラカル港岸)に白蝶貝を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 拙稿の「1 石川達三のパラオ行」中に次のような記述がある。

南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

 この一文を以下のように修正する。

南洋真珠は、1936年には、パラオ諸島のウルクタベール(ウルクターブル)島に真珠養殖場を開設した。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のパラオ真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

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『国際関係史から世界史へ』書評掲載のお知らせ

『現代史研究』67号(現代史研究会、2021年12月)に、南塚信吾編著『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2020年)への小澤卓也さんによる書評が掲載されています。ぜひご覧ください。

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世界史寸評
国連地図のなかのチャゴス諸島
木畑洋一

 国際連合の機関である国連地理空間情報セクション(The United Nations Geospatial Information Section、かつては国連地図セクションThe United Nations Cartographic Sectionと呼ばれた)が作っている世界地図がある。現在インターネットで見ることができるものは2020年10月のもので、以下のサイトにある。

https://www.un.org/geospatial/content/map-world

 本稿では、この地図が一般に見られる他の世界地図と違っている一つの点を紹介してみたい。それは、インド洋の真ん中にある島嶼の帰属国名である。今手元にある世界地図帳を開いてみると、チャゴス諸島(イ)、ディエゴガルシア島(イ)と書いてある。ディエゴガルシアはチャゴス諸島のなかの一つの島であるから、ディエゴガルシアを含むチャゴス諸島を領有しているのはイギリスであるということが示されているのである。これは、市販されている他のどの世界地図でも同じことである。ところが、上記のサイトを見れば分るように、国連地理空間情報セクションの作成にかかる地図では、この島嶼について、チャゴス諸島(モーリシャス)Chagos Archipelago (Mauri)と記されており、イギリスではなく、モーリシャスに帰属することになっているのである。一体どうしたのだろうか。

 ディエゴガルシアは知る人ぞ知る島であるが、それは米国の軍事基地の所在地としてきわめて重要な島だからである。そこに置かれた基地は、湾岸戦争やアフガニスタン攻撃、イラク戦争など米国が中東地域で行った戦争できわめて大きな役割を演じた。そのため、島の名前を知る人も、島の帰属国は米国であると思いがちである。しかし、実際に領有している国はイギリスであり、米国はイギリスから島を借り受けた上で、そこに基地を建設しているのである。

 イギリスはチャゴス諸島を英領インド洋地域(British Indian Ocean Territory、略称BIOT)と呼んでいるが、BIOTが作られたのは1965年であり、米国に貸与するための協定が結ばれたのは1966年のことであった。その後、米国が基地建設に着手するまでに、チャゴス諸島に住んでいた人々は、島から放逐されて、モーリシャスやセイシェル、さらにイギリスで苦しい生活を送ることを強いられてきた。

 その問題について筆者は関心をもち、その全体的経緯と、60年代の英米交渉とについてそれぞれ論文にまとめたことがある。[1] それらで扱った時期以降も含めて、チャゴス諸島問題を簡略にまとめてみれば、以下のようになる。

 1960年代初頭、冷戦下でインド洋に軍事基地を作ろうと思っていた米国は、インド洋でのイギリス領に眼をつけた。ディエゴガルシアも早くからその候補と考えられたが、問題はイギリス帝国のなかで、チャゴス諸島はモーリシャスの一部とされていたことである。当時は脱植民地化が加速化しており、モーリシャスも独立への道をたどっていたが、チャゴス諸島の帰属をそのままにしてモーリシャスの独立が実現すれば、イギリスにはその島の利用を米国に許す権限がなくなってしまう。そこで英米両国が考えたのが、モーリシャスが独立する前にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離し、新たなイギリス領土としてしまうことであった。こうして作られたのがBIOTである。脱植民地化に全く逆行するこの措置をモーリシャスに呑ませるために、米英両国はモーリシャスにお金を支払うことにした。こうしてBIOTを作った上で、イギリスはそれを米国に貸与したのである。

 これに伴って島から放逐された人々は、20世紀が終わる頃からその不当性を司法の場で訴えてきたが、イギリスの司法プロセスのなかで途中までは勝訴した彼らの訴えは、最終的には却下されてしまった。2012年には欧州人権裁判所も彼らの提訴を受理しないという判断を下し、解決の道は行き詰まったと思われた。しかし、モーリシャス政府が、独立時のチャゴス諸島切り離しはモーリシャスの脱植民地化を不完全なものにしたとして、国連に提訴したことにより、新たな局面が生まれることになった。2017年、国連総会はその問題についての判断を国際司法裁判所に求める決議を採択、2019年2月に国際司法裁判所は、①モーリシャスからチャゴス諸島が切り離された後、1968年にモーリシャスが独立を付与されたことは、合法的な脱植民地化であったとはいえない、②イギリスがチャゴス諸島の統治を継続したことから生じた国際法のもとでの諸結果(島から放逐された人々を島に再定住させる計画をモーリシャス政府が遂行しえないという点を含む)に鑑み、イギリスはできる限り速やかにチャゴス諸島の統治を終了させる義務を負う、という見解を公表した。

 その見解を受けて、2019年5月、国連総会は、チャゴス諸島はモーリシャスに帰属すべきであるとしてイギリスによる統治の終結を求める決議を、賛成116か国、反対6か国の大差で可決した。反対に回ったのは、イギリス、米国という当事国の他にオーストラリア、イスラエル、ハンガリー、モルディヴの諸国であり、日本は棄権した56か国のなかに含まれている。その結果、翌20年に上記の国連世界地図におけるチャゴス諸島の所属表記変更が行われたのである。

 これは、チャゴス諸島をめぐる統治の現実が変化したことは意味しない。イギリスは相変わらずBIOTとしてこの島嶼を統治し、米国は重要な基地としての利用を続けている。しかし、国連が脱植民地化という世界現代史の大きな流れにいかに関わっているかということは、ここにはよく示されている。一見短期的・現実的には効力が小さいと思われる国際司法裁判所や国連総会の判断であるが、そこで改めて確認された国際的な規範の力は長期的には強いものになっていくと考えられる。ロシアのウクライナ侵攻をめぐって国連の役割に注目が集まっている現在、国連のこうした面を紹介することの意味はあるであろう。


[1] 木畑洋一「覇権交代の陰で―ディエゴガルシアと英米関係」木畑・後藤春美編『帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容』ミネルヴァ書房、2010;Yoichi Kibata, ”Towards ‘a new Okinawa’ in the Indian Ocean: Diego Garcia and Anglo-American relations in the 1960s”, in: Antony Best, ed., Britain’s Retreat from Empire in East Asia, 1905-1980, Abingdon, Oxon: Routledge, 2017.

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「世界史の眼」No.25(2022年4月)

「世界史の眼」4月号では、前号に続き、小谷汪之さんに、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)」を寄稿して頂きました(「(上)」はこちら)。また今号より、藤田進さんによるシリーズ「アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン」を連載します。今号では、第1回「2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察」を掲載します。さらに稲野強さんに、「1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―」をお寄せ頂きました。今号ではその前半を掲載いたします。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)

藤田進
アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察

稲野強
1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)

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戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)
小谷汪之

はじめに

1 石川達三のパラオ行

(以上、前号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

おわりに

(以上、本号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

 1941年7月20日、後に独自の人類学者として著名になる今西錦司(当時、京都帝国大学理学部無給講師)を隊長とするポナペ島学術調査隊の一行がパラオに着いた。この調査隊は京都探検地理学会が派遣したもので、今西に近い京都帝国大学助手や学生などから構成される、きわめて若い調査隊であった。その一員に当時理学部学生だった梅棹忠夫がいて、この調査隊の記録である今西錦司編著『ポナペ島―生態学的研究』の「第四部 紀行」の執筆を担当した。梅棹は最初の寄港地パラオの状況について、「現在の、国内の盛り上がる強烈な南進熱の反映でもあろう。今や、この事情は全面的に表面化して、パラオ全島は勿論のこと、内南洋〔日本の国際連盟・委任統治領の南洋諸島を指す〕全体には、『より南に!』、『赤道を越えて!』の声が、外南洋〔日本委任統治領より南方、ニューギニア、ジャワなどを指す〕を目指して滔々と渦まいているのであった」と書いている(408頁)。パラオのコロール島の「とある街角の黒い板塀にも、朱の破線で筆太に傍線を施した扇情的なポスターが、『若人よ、立て、蘭印〔オランダ領インドネシア〕の陽は招く!』と呼びかけている」(409-410頁)。こうしたパラオの「南進熱」の推進力となった真珠貝採取業について、梅棹は次のように書いている。

驚くべき小船を操って、アラフラ海に真珠〔貝〕を求めてゆく多数の潜水夫たちが根拠地としているのも、このパラオの地であることを忘れてはならない。これらの船は、一般にダイヴァー・ボートとよび慣わされているが、昭和11年〔1936年〕頃には全盛に達し、所謂、「ダイヴァー景気」を現出するに至り、今コロールの町にある料理屋やカフェーなどの、殆ど全部がその時にできたものであるという。思えば赤道をへだてて目と鼻の先に、暗黒の大陸ニューギニアが横たわっているのである。ダイヴァーたちがもたらすニューギニアの諸種の情報、そしてそのお土産の極楽鳥など、せまい内南洋から溢れかかっている日本人の血を、どうして刺激しないでおこうか。〔中略〕われわれの会った島民公学校〔現地民子弟用の初等学校〕の校長先生は、談たまたまニューギニアのことに及ぶや、烈々として、ニューギニア進駐を語り、それに対処すべき教育の理想を語るのであった。(409頁)

 1939年1月、南洋庁ヤップ支庁の離島サテワヌ島から約7年ぶりにパラオに戻った土方久功ひじかたひさかつ―後に南洋の民族誌研究者・彫刻家として高く評価されることになる――はパラオ(コロール島)の変わりようにびっくりしたが、その一つが「ダイバー船」の多さであった。土方は次のように書いている。

それからマラカルの港の中は大小の舟船が沢山もやって居り、ことにアラフラ海に出かけるダイバー船が、ある岩山のかげに、あっちこっちに何十となくつながれているのでした。(土方久功「僕のミクロネシア」243頁)

 これらに出てくる「ダイヴァー」(真珠貝採取潜水夫)や「ダイヴァー・ボート(ダイバー船)」は、「パラオ小唄」にも歌われていた。

島で暮らすならパラオ島におじゃれ

北はマリアナ、南はポナペ

浜の夜風に椰子の葉ゆれて

若いダイバ〔ダイヴァー〕の舟唄もれる

波のうねりに度胸がすわりゃ

海は故郷パラオの王者

アンカ〔アンカー〕おろしてランタンゆれて

帰るダイバは人気者

海で暮らすならダイバ船〔ダイヴァー・ボート〕にお乗り

男冥利に命を懸けて

サンゴ林に真珠とりするよ

ダイバ愛しや舟唄歌う

 この「パラオ小唄」は、敗戦後、宮城県蔵王町北原尾地区に再入植したパラオからの引揚者たちの間で伝承されてきたものである(斎藤由紀、335頁)。パラオにおける真珠貝採取業の繫栄をしのばせるものであろう。

 石川達三は今西錦司を団長とするポナペ島学術調査隊がパラオに着く10日ほど前に帰京したのだが、梅棹忠夫と同じようにパラオにおける真珠産業と「南進熱」についての記述を残している。石川の弟、石川伍平も真珠養殖を通して一種の「南進熱」をもっていたようである。

北にグアムがあり西にフィリピンがあり、東にはウエエキ〔ウエーク〕島がある。世界の動乱のうちにあって、南洋群島は緊張している。しかし彼〔石川伍平〕は内地に職を求めて帰ろうとは言わない。むしろ、真珠の養殖にパラオよりも好条件をそなえているセレベス〔スラウェシュ〕島を覘っているのであった。それは彼のみならず、この街の商人たちのすべてが、ジャワとボルネオとニューギニアとを覘っているのであった。南進論はここまで来てはじめて実感をもって考えられていた。(『赤虫島日誌』78頁)

 梅棹忠夫が書いているように、当時日本国民の間では「強烈な南進熱」が盛り上がっていたといえるのかもしれない。しかし、それは実際には多くの人々の生活から縁遠い、非現実的な「夢」のようなものに過ぎなかったのではないだろうか。その「南進熱」が、パラオのような南方では、人々の生活そのものに根差す「実感」を伴っていたと石川達三はいうのである。「パラオに住む人たちがひとしく眼をむけているのは、赤道以南の島々、ジャワでありニューギニアでありボルネオである。ここでは日本の南進政策が、個人個人のものであった。彼等の個人的な野心のひとつ一つが南進であった」。しかし、同時に、石川は「南進熱」の行き詰まりのようなものも看取していた。石川は「コロールには一種沈滞の空気がみなぎって」いるように感じた。その「一つの原因は国家的なものであった」。パラオの人たちの個人的野心の「はけ口を堅く閉ざしているものは現在の国際関係である」(『赤虫島日誌』119頁)。太平洋戦争勃発に先立つ、フランス領インドシナやオランダ領インドネシアにおける国際関係の緊張、それによって日本の南進政策が行き詰まり、パラオに「一種沈滞の空気」を生み出していると石川は感じ取ったのである。それに比べると、まだ学生であった梅棹忠夫のパラオにおける「南進熱」の観察はいささか一面的であったといえるであろう。

おわりに

 1941年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が勃発すると、パラオの真珠産業は致命的な打撃を受けることとなった。パラオを根拠地とする日本の真珠貝採取船が、日本と交戦状態に入ったオーストラリアの西海岸やアラフラ海に出漁することは不可能になった。真珠貝採取業に雇用されていたオーストラリア在住の日本人潜水夫などはオーストラリア政府によって強制収容所に入れられ、戦争が終わるとそのほとんどが日本に強制送還された。パラオでの真珠養殖業はオーストラリアからの白蝶貝の輸入が途絶えたため、事業継続が困難になった。御木本真珠はすでに1940年にパラオでの真珠養殖業から撤退していたが、南洋真珠株式会社も1941年にパラオの真珠養殖場を閉鎖した。こうして、パラオの真珠産業は終焉を迎え、「パラオに住む人たち」の「個人的な野心」としての「南進熱」も雲散霧消したのである。その後に続いたのはアメリカ軍による激しい空襲や艦砲射撃であった。

参考文献

石川達三『赤虫島日誌』八雲書店、1943年。

今西錦司編著『ポナペ島――生態学的研究』彰考書院、1944年。

梅棹忠夫「第四部 紀行」、今西編著『ポナペ島―生態学的研究』所収。

斎藤由紀「第7章 歌がつなぐ過去といま―パラオ引揚者の暮らしが語りかけてくるもの」島村恭則編『叢書 戦争が生みだす社会Ⅱ 引揚者の戦後』新曜社、2013年、所収。

坂野徹『〈島〉の科学者――パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年。

司馬遼太郎「木曜島の夜会」『別冊文芸春秋』第137号、1976年9月号(司馬『木曜島の夜会』文春文庫、2011年、に収録。アラフラ海などで真珠貝採取ダイヴァーとして働いた紀州・熊野出身の人々からの聞き取りや司馬自身の木曜島訪問をもとにしたドキュメンタリー風の読みもの。その後半に出てくる「藤井富三郎」は「最後の真珠貝ダイヴァー、藤井富太郎」とほぼ重なる。なぜ本名を書かなかったのかはよく分からないが)。

土方久功「僕のミクロネシア」(初出、1974年)『土方久功著作集6』三一書房、1991年、所収。

山田篤美『真珠の世界史―富と野望の五千年』中公新書、2013年。

リンダ・マイリー(青木麻衣子他訳)『最後の真珠貝ダイヴァー 藤井富太郎』時事通信社、2016年。

(「世界史の眼」No.25)

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アメリカの中東戦略に翻弄されるアフガニスタン(1)
2021年米軍のアフガニスタン撤退とタリバーン政権復活をめぐる考察
藤田進

 2021年7月、バイデン米大統領は「我々は国家を建設するためにアフガニスタンに行ったのではない。自分たちの未来と国の運営方法を決めるのは、アフガン人だけの権利であり責任だ」[1]として、米軍を秋までにアフガニスタンから完全撤退させることを表明した。

 2001年タリバーン政権崩壊後米軍が「タリバーン掃討戦争」を開始した中で02年12月、アメリカが信任するカルダイ・アフガニスタン政府はトルクメニスタン・パキスタン両国と、中央アジアのトルクメニスタン天然ガスを輸送するためのアフガニスタン・パキスタンを経由しインドに至るパイプライン(TAPI Pipeline)を建設することで合意し、TAPI建設計画は05年アメリカが参加を表明したことで具体的に動き出した。米軍は06年頃から「くすぶる反米感情を土台に攻勢を強めはじめたタリバーン」[2]に苦戦を強いられ、タリバーンが支配するアフガニスタン南部がパイプライン通過予定地域のため、このときパイプライン建設計画も行き詰った。09年米兵3万人が増派されたがタリバーン反攻阻止につながらず、巨額の戦費拡大と米国厭戦世論の高まりのなかで11年6月オバマ米大統領は米軍撤退戦略発表を余儀なくされた。タリバーンの反攻が高まっていく中で10年6月、カルザイ・アフガニスタン政府はタリバ―ンとの和解路線を模索し始める一方、同年12月のTAPI国際建設計画協定調印を受けてアフガニスタン政府議会も12年5月同協定を承認し、15年からトルクメニスタンで開始されたTAPIパイプライン建設工事は18年2月からアフガニスタンでもスタートした。タリバーン侵攻とパイプライン建設計画が進展する中で、アメリカは2020年11月から翌21年5月にかけてドイツの仲介でタリバーンとの3度にわたる和平交渉に臨み[3]、その結果冒頭のバイデン表明に至った。

 タリバーンに対する事実上の“敗北宣言”である米軍完全撤退表明によって、20年間にわたりアメリカ主導の「アフガニスタン民主化」のもとで築かれてきたアフガニスタン政府と政府軍はにわかに崩壊の危機に直面した。8月15日、米軍が首都カブールから撤退するなかでタリバーン武装勢力が登場するや、「アフガニスタン民主化」の恩恵を受けてきたカブール住民に「タリバーンの恐怖政治」の悪夢がよみがえり、「タリバーンの支配するアフガニスタン」では人権が守られない、女性は解放されない、世界的な「テロ活動」の温床になる等々の言説が渦巻くなかで多くの人々が国外脱出へと駆り立てられ、アフガニスタンは大混乱となった。

 タリバーンがアフガニスタン政権の座につく直前に、スポークスマンのスヘイル・シャヒーンが「アフガニスタン国家権力掌握後のタリバーンにとってTAPIパイプライン建設計画を支援することは重要取り組み事項の一環である」と発言し、この発言はタリバーン政権再登場によるパイプライン建設計画の挫折を危惧してきた計画関係者を安堵させた。タリバーン新政権は諸外国経済使節団と頻繁に交渉していることが報道されており、「女性と民主主義の仇敵」と非難されてきたかつてのタリバーンとの違いが注目された。

 バイデン米大統領は米軍撤退が完了すると、タリバーン政権に対して「民主化」を要求しそれが実現するまでアフガニスタンを経済封鎖すると決定し、アメリカの経済封鎖宣言によって諸外国の支援金やNGOの寄付金・食料・医薬品支援などすべてのアフガニスタン流入が停止した。「民主化」の内容はアメリカが決めることであり、外国占領体制を打破すべくイスラム統治方式を打ち出すタリバーンにとり「民主化」実現は容易なことではない。経済封鎖が長引くにつれてアフガニスタン国民の生活のひっ迫、食料欠乏状態は悪化の一途をたどり、さらに悪いことに、人々には長期にわたる米軍攻撃や大旱魃による打撃が重くのしかかっている。経済封鎖開始から5か月の2022年初頭の極寒のアフガニスタンでは、国民全体が餓死・凍死の危険にさらされた。

 イスラム諸国政府、国連、全世界の市民からの経済封鎖非難と封鎖解除要求の圧力が強まるなかで2022年2月11日、バイデン米大統領はアメリカ国内で凍結されているアフガニスタン中央銀行の準備金70億ドルの半分の35億ドルだけをアフガニスタンにおける人道支援に使うことを許可したが、その一方で残りの35億ドルの取り扱いについて、アメリカ政府が理不尽な理屈を持ち出したことが次のように伝えられている。「2001年の米同時多発テロの遺族らがタリバーンに対する訴えを米連邦裁判所に起こし、凍結資産からの補償金支払いを求めている。この訴訟での判断に備え、残りの35億ドルの扱いは保留されるという。米政府高官は『(凍結されている)準備金は、基本的には過去20年間で米国やほかの援助国が与えた収益のようなものだ』として、人道支援に充てるのは正当性があると説明した。」[4]

 アメリカが20年をかけてもアフガニスタンで実現できなかった「民主化」要求をタリバーンに、実現できない限り経済封鎖を続けるという条件で突きつけ、さらに経済封鎖で戦争の犠牲になった住民を痛めつけた。また米軍アフガニスタン侵攻によってアフガニスタン住民の生命・生活圏を犠牲にした責任は一切問わないばかりか、アメリカの多発テロの遺族にあてるために凍結しているアフガニスタンの資産を流用した。バイデン米政権のそれらの対応は、アメリカが軍事介入失敗後に非軍事的な方法であらたにアフガニスタン介入へ踏み出していることを示唆している。

[1] 「朝日新聞」2021年8月11日

[2] 「朝日新聞」2021年7月14日

[3] 同上

[4] 2022年2月13日「朝日新聞」ワシントン=高野遼

(「世界史の眼」No.25)

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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

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