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「世界史の眼」No.54(2024年9月)

今号では、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その3)―蝦夷とアイヌと昆布―」を、木畑洋一さんにクリシャン・クマーの『帝国 その世界史的考察』の書評をご寄稿頂いています。

南塚信吾
世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―

木畑洋一
書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)

クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―
南塚信吾

2.《場所請負制》とアイヌ

(1)「場所」―商人の漁業経営

 享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)に、蝦夷の支配体制が「商場知行制」から「場所請負制」へ移行したと考えられている。商場知行制は、もっぱら交易を中心としていたが、場所請負制は、交易權と漁業権をふくみ、むしろ漁業経営が中心となった。そうなると、商人の性質が変わってきた。商場知行制のもとでは、蝦夷の物産を上方に輸送する本州商人が主役であったが、今や、松前藩の公商で、漁業を経営することもできる商人(主として近江商人)が主役となった。そして商人たちは近隣のアイヌなどを使役して漁場を直接経営するようになった(菊地 1994 111-112頁;淡海文化を育てる会 2001 117頁;神長 2022 54頁)。

 享保年間に「場所請負制」が始まると、近江商人は、松前氏の給人から「場所」を請負い、漁場経営を任された。近江商人たちは自らの裁量で漁場を運営し、干鱈、干鰯、干鮑、ニシン、昆布、わかめなどを入手した。同時に、かれらは、「場所」につくられた交易所において、アイヌから毛革や金や海産物を獲得した。かれらは、獲得したものを松前氏に上納したほか、「荷所船」によって近江を経て京・大坂に送り、逆に日用品や米、衣類を買い入れて、アイヌとの交易にあてたりした(淡海文化を育てる会 2001  115頁)。アイヌの漁民たちから言うと、かれらは、採取した毛皮や昆布などを交易所に持ち込み、そこで「運上屋」の商人を通して、内地などから来た米や雑貨の交易用品と交換した。この様子は、小説ながら鳴海章『密命売薬商』(集英社文庫 2017年)にたくみに描かれている。

 すでに見たように、1698(元禄11)年、幕府は海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てていた。このとき、昆布も諸色として認められ、以後、昆布は重要な産品となっていた。輸出用の国際商品としてコンブが「発見」されたのである。1785年(天明5年)には、幕府は長崎の会所の下に長崎俵物役所を置き、俵物や諸色を各地から直接買い集める体制を強化した(神長 2022 55頁)。近江商人の商いはこれに繋がっていった。

 しかし、18世紀半ば以後、近江商人の独占状態に変化が起こる。多くの近江商人は商場知行制の流通制度に拘束され、運上金の引き上げに耐え切れず、場所請負制に乗ることのできた近江商人以外は、生き残れず、非近江系商人が台頭してきた。例えば、淡路出の高田屋嘉兵衛は箱館を拠点に活躍し、択捉までの航路を開拓した(淡海文化を育てる会2001 117頁)。こうして、さまざまな出身の商人が場所請負制に入り込んできて、18世紀の末までには、場所請負制が蝦夷地(北海道)全域に行きわたり、請負人によるアイヌ支配が確立した(荒野 1988 51頁)。

 18世紀末から19世紀初めにかけて北の隣人であるロシア帝国との緊張が高まると、1807年に、幕府は松前藩から東蝦夷地、次いで西蝦夷地を召し上げて直轄した。そして、対外的な緊張が弱まった1821年に、幕府は松前藩に蝦夷地を返したが、幕末の1855年には北辺防備のために蝦夷地をふたたび直轄にした(神長 2022 56頁)。こういう直轄化をとおして、「場所請負制」は強化されていった。 

(2) 昆布漁場 

 17世紀末に幕府が俵物と諸色を対中貿易の重要品目と指定し、昆布も諸色として認められ、こうして新たな輸出用の国際商品としてコンブが「発見」された後、18世紀から19世紀半ばにかけて、蝦夷地の各地でコンブの新漁場が開発された。

 18世紀の前半は、おもに近江商人の手によって箱館周辺で生産されたコンブが松前から敦賀や近江、ないしは瀬戸内海を経由して大坂に運ばれていた。18世紀半ばまでの松前昆布の産地はおもに松前地の吉岡(現在の渡島地方)から東蝦夷地のエトモ(現在の胆振地方)あたりであったが、1780年代前半(安永末から天明初)にはそれがミツイシ(三ツ石=現在の日高地方)まで広がった。1780年代に幕府が密貿易を取り締まるためにコンブの集荷を強化すると、産地はさらに広がった。18世紀の末には和人とアイヌのコンブ交易の場が蝦夷地の北の端まで広がった。

 19世紀前半の西蝦夷地では、トママイ(現在の苫前)とテシホ(現在の天塩)もコンブの産地として知られるようになった。東蝦夷地のコンブ業は18世紀の末にクスリ(現在の釧路)やアツケシ(現在の厚岸)に達していた。そして19世紀初めにはネモロ(根室)で高田屋がコンブ漁業をはじめて試みた(神長 2022 57-58頁)。

 7月ごろに漁場で採られた2メートルから3メートルの長さの昆布は、乾燥させて、長さを揃えて束にし、8-9月に場所に出され、場所の商人に買い付けられた。対価は、本土からの日常用品などの原物であった。

(北海道漁連)https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html

(3) 労働力としてのアイヌ  

 「場所」では商人が近隣のアイヌなど使役して漁場を直接経営するようになった。場所の中核施設は運上屋であり、ここで支配人・通詞・帳役などが場所を管理した。場所の労働者はおもに番人・職人・漁民からなり、漁民としてはアイヌと、定住ないし出稼ぎの和人が働いた。

 18世紀末までの松前藩は、蝦夷地への和人の立ち入り(蝦夷地往住)を厳しく規制していたが、実際には遅くとも18世紀後半から多くの和人の出稼ぎ労働者が蝦夷地で漁業に携わっていた。厳しい取り締まりのなかでも、漁業の発展とともに和人の人口が増え、アイヌの人口が減っていった。そして、幕府による直轄が始まった19 世紀初めから、幕府は和人に対して蝦夷地への積極的な移住と出稼ぎを勧め、出稼ぎ労働者は東西蝦夷地ともにいちじるしく増えた。松前藩による支配が復活した後もこの傾向は続いた。その結果、和人地に近い蝦夷地ではアイヌ人口が激減した。和人との雑居を好まないアイヌたちの移住が一つの要因だが、和人との雑居による感染症の蔓延も大きく影響したのだった(神長 2022 60-61頁)。

 しかし、アイヌの人口が全体として減ったとはいえ、昆布獲りについては、冷遇されたアイヌの労働力に依ることが大きかった。アイヌは男も女も昆布獲りに働かされた。昆布を取るアイヌは、各「場所」に組織され、交易所で取り締まられていた。各漁場では、アイヌは、酋長(おとな)、小使(こづかい)、土産取(みやげとり)という役を置いて、共同体をなしていた。昆布獲りには、アイヌは、場所のアイヌ部落だけでなく山の方からも降りてきて、漁場近くの海岸に小屋を設けて働いていたという。アイヌが「漁業や昆布とりに雇われてよそに行く」こともあった(松浦 2018 66,299頁)。

 19世紀以前のアイヌにはそもそも季節ごとに生活の本拠地を替える習慣があり、蝦夷地の各地で多くのアイヌが春から秋にかけての集落(サクコタン)と冬の集落(マタコタン)を行き来していたが、和人による労働者としての使役が各地で広がった19世紀半ばにこうした習慣がほぼ消滅したという(神長 2022 62頁)。

 多くの場所でのアイヌの労働条件はきわめて悪く、「場所」を管理する和人たちから長らく暴力的な支配と差別的な扱いを受けていた。アイヌの労働に対する対価は不当に少なかった。場所での労働の対価としてアイヌに支給された賃金は最大でも和人の4 分の1だったし、和人がアイヌから海産物を買い取る場合は、同じ海産物でもアイヌからの買上げ価格は和人からの買上げ価格の3 分の1 だった。この時期のアイヌの生活には、日本製の商品が欠かせないものになっていたが、場所での和人との交易では、これらの商品の価格が不当に高く設定されていた(神長 2022 64頁)。

 このようなアイヌの労働力に支えられて獲られた昆布などは、どのように取引されたのか。

3. 蝦夷から見た交易

(1)「荷所船」

 松前藩は藩の内外に行き来する人と物を厳しく管理した。内地から蝦夷地へ来る船が入る港は、福山(松前の港)、江差、箱館に限られ、これ以外の港での交易を禁じられた。それぞれに「沖口番所」が設けられて、船舶・積荷・旅人の出入りが取り締まられ、規定の税が徴収された。密貿易はきびしく禁止されていた。さらに三港には、それぞれ問屋(商人)があって、他国よりの貨物、他国への貨物は、必ず問屋を通して売買することになっていた。問屋は貨物の売買を仲介し、売買代金の一定額を口銭として受け取った。そのほか、問屋は、船出が移入したり移出したりする貨物を沖口番所に届け出て検査を受け、沖口口銭(つまり関税)を船主から取り立てて、役所へ届けた。これらの問屋を松前氏が統括していたのである。奥蝦夷地へ往来する船も必ずこの三港のいずれに寄って、こうした手続きを経なければならなかった。こうして蝦夷地に入った貨物は、和人地で必要なものを除くと、蝦夷地の各「場所」に送られて、蝦夷交易用品として使われた(越崎 1972 16-17頁)。

 これに伴って、近江商人らの「荷所船」の動きも変化した。「荷所船」はこれまでは賃積みであったが、いまや場所請負人が船を所有して直接輸送したり、北陸の船主・船頭が松前・江差・箱館で自ら取引を行ったりする買積み船が登場してきた。ここに「北前船」の素地が生まれることになるのである。買積みというのは、運賃を取って依頼荷物を運ぶ運賃積みに対して、船主・船頭が、商い荷物を自ら買い込んで自分の船で運び売り捌くもので、相場の地域間格差を利用して儲けを得るのであった(菊地 1994 118,165-167頁)。 

 福山(松前の港)、江差、箱館の湊はこのあと繁栄を迎えるが、それぞれに違った役割を持っていた。松前は、船の出入りする湊としては、江差・箱館に劣るが、城下町として当初は沖の口改めを独占していた。場所請負制の下で発展した江差と箱館の間では、箱館が大坂、長崎向けの昆布の積出、江差が木材と鰊の積出で栄えた(菊地 1994 119-121頁)。逆に、内地から蝦夷地への移出品は、津軽、羽後、越後、越中などからの米、出羽大山、越後、大阪からの酒、敦賀、津軽よりの縄筵、瀬戸内海各地よりの塩、大阪などからの木綿その他雑貨類がおもなものであった(越崎 1972 16頁)。  

 やがて1850年代になって、越中の売薬行商人も蝦夷地に入り込んでくる。彼らは、近江の売薬商と競争しつつ、渡島、釧路など蝦夷地に入り込むのだった(植村 1959 129-131頁)。

   (菊地 1994 150頁)

(2) 北のルート

 ここで無視できないのは、北の交易ルートである。北の交易ルートには、二つのものがあった。一つは、西蝦夷地から樺太、山丹、満洲へとつながるもので、いま一つは、東蝦夷地から千島、カムチャツカへとつながるものであった。これらのルートは17世紀の初めには幕府と松前藩によって認知されていた。これらのルートは、松前藩の交易船が直接取引をし、そこには家臣も商人も入れなかった(菊地 1994 151-155頁)。山丹ルートでは宗谷が、千島ルートでは厚岸が松前藩の交易船が行く最果ての「商場」であった(菊地 1994 151-155頁)。

 山丹ルートは、松前から宗谷を経て、樺太の南端ノトロ岬の白主(しらぬし)に至り、樺太を経て、北方の黒竜江(アムール川)下流の住民である山丹(サンタン)人を通じて満州にいたる日満貿易のルートであった。樺太では、樺太アイヌが交易を担っていたが、山丹人が入り込むこともあった。やがて交易が広がるにつれ、1790年(寛政2年)に、このルートの会所は、宗谷から白主に移っていくことになる。そこでは、アイヌに漁法を教えたりした(白山 1971 863頁;菊地 1994 155-158、161-163頁)。このルートから「蝦夷錦」などの唐衣やラッコなどが入ってきていた。

 千島ルートは、千島アイヌに担われて、厚岸から南千島のクナシリを経てさらに北千島の占守(シュムシュ)、さらにはカムチャツカにまで至り、猟虎などをもたらしていた(菊地 1994 158-161頁)。ここにはロシア人も入ってきていた。大黒屋光太夫が漂流し帰国した後の1799年に、ロシア帝国の国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、19世紀には、同社はアリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を与えられて、イルクーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動していた。毛皮の入手には現地のアイヌとも接触していた。こうして、ロシア、シベリア、アラスカへの口は繋がっていた。

 やがて北前船は、この二つの北方ルートから運ばれた「蝦夷錦」その他の品を、昆布など蝦夷の物産と共に本土へもたらすのであった。また、のちに漂流した北前船の長者丸は、最後にはシトカから、千島列島を経て、帰国することになるのだった。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年}
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年

(「世界史の眼」No.54)

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書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)
木畑洋一

 帝国というものへの関心は、第二次世界大戦後における脱植民地化進展の結果薄れたと思われたが、冷戦の終結による東欧社会主義圏とソ連の解体以降高まりを見せ、21世紀に入ると、「アメリカ帝国」論の浮上によってさらに強まっていった。そして最近では、ウクライナ戦争やガザ戦争の勃発によって、帝国に関する議論は新たな盛行を見せている。

 この間、世界史のなかでの帝国の歴史を鳥瞰し、それがもってきた意味を論じようとする著作も、いろいろとあらわれてきた。すぐ頭に浮かぶすぐれた作品をあげてみただけでも、ロシア帝国史の研究者ドミニク・リーベン(『帝国の興亡』日本経済新聞社、2002)やイギリス帝国史の専門家ジョン・ダーウィンの著書(『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』国書刊行会、2020)、ロシア帝国史のジェイン・バーバンクとアフリカ史のフレデリック・クーパーの共著(Jane Burbank and Frederick Cooper, Empires in World History: Power and the Politics of Difference, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2010)などがある。歴史社会学者としての仕事を積み上げてきた著者クリシャン・クマーによる本書も、そうした系列に連なる本である。

 本書は、時間的にみても空間的にみても多様な存在である帝国という政体の性格に、広い視野のもとで迫ろうとする試みである。限られたスペースでそれを行うことは至難の技であるが、本書はその課題に果敢に取り組んで刺激的な議論を展開している。

 本書は時間的には、二つの「裂け目」もしくは「分水嶺」(第一は紀元前1000年頃で世界宗教が登場してくる時期、第二は15~16世紀のヨーロッパにおける「発見の旅」とともに始まる征服と植民地化の時期)を設定しつつ、古代から現在までを対象としている(vii、以下カッコ内の数字は本書の頁数を指す)。一方空間的には、ヨーロッパに重点を置きつつも、それ以外の帝国にもかなりの関心を払っている。とりわけ中華帝国が詳しく扱われているのが特徴的である。

 時間的な議論に関して言えば、19世紀におけるいわゆる「帝国主義の時代」の画期性が等閑視されていることに、評者として不満をもつが、その点については後で触れたい。また空間的には、著者自身断っているように(viii)、コロンブス到達以前の南米の帝国やアフリカの帝国がほとんど扱われていないし、さらに評者としては、日本帝国にも今少しスペースが割かれて然るべきであったとも思うが、これらについての議論を求めるのは、ないものねだりの類であろう。

 ここで本書各章の内容を簡単に紹介しておこう。

 まず序文では、世界的な体験として帝国の歴史を扱う本書の意図が示され、二つの分水嶺と、「帝国移動」という概念とが紹介される。

 第1章「時間と空間のなかの帝国」では、二つの分水嶺の意味が論じられる。第一の分水嶺については、それ以前の旧帝国(エジプトなど)と異なり、この時代に生まれた「古典文明」時代の帝国(ローマなど)が、普遍主義的なイデオロギーを伴っていたことで大きな影響力をもった点が強調される。第二の分水嶺に関しては、その後に展開しはじめた「海外帝国」の性格に注意が促され、スペイン帝国に比べて軽視されがちなポルトガル帝国の重要性が再評価される。

 第2章「東洋と西洋の帝国の伝統」は、「帝国移動」概念を用いてローマ帝国の伝統を軸とするヨーロッパにおける帝国の系譜を論じた後、中華帝国の歴史をかなり詳細に論じる。その上で、西洋におけるローマ帝国とその後継者と同じような意味で中国は帝国だったのかと問い、それに肯定的な答えを与えている。さらにイスラームの帝国についても述べているが、中国に比べてその扱い方は軽い。

 「支配者と被支配者」と題される第3章では、帝国では国民国家においてよりも支配者と被支配者の関係が対立的であるとする通念への疑問が出され、両者間に対立も当然見られたものの、協力や共謀、実際的な妥協といった多様な関係が存在したことが説明される。

 評者の見る所では、本書の中心部分と言えるのは、次の第4章「帝国、ネーション、国民国家」である。本書の帯にある「多くの国民国家は帝国のミニチュアである」という印象的な一文も、この章から採られている(127)。この章で著者は、普遍主義的でマルチナショナルな帝国と均一性・均質性の達成をめざす国民国家との間の原理的な差異を前提としつつも、実際の歴史的様相においては帝国と国民国家の間に類似性が存在し、「帝国から国民国家へ」という変化の過程もはっきりしたものではないと主張する。その際著者が着目するのは、国民国家の内部の多様性(「国内植民地化」という考え方の援用など)であり、帝国の時代と呼ばれる時代が終わった後にも、アメリカやソ連が帝国的権力として存続していることである。現在の中国についても、それが中華帝国の姿を回復していることが指摘されている。

 それに次ぐ第5章「衰退と滅亡」では、帝国の衰退・崩壊をもたらした要因が分析される。ここでもまず中国の例が詳しく取りあげられ、清帝国を崩壊させた中心的要因が、ナショナリズムではなく清帝国を巻き込んだ戦争であったと主張される。その考え方は、第一次世界大戦を通じての各陸上帝国の解体、第二次世界大戦後の各海外帝国の解体(脱植民地化)にも適用され、ナショナリズムの意味が相対化されて「帝国のおもな解体要因は戦争だった」(177)という断言がなされるのである。

 本書の最後の部分である第6章「帝国後の帝国」では、それぞれの帝国が解体した後も、その影響がさまざまな形で世界に残ることが説明された後(ここで最も詳しく扱われるのはハプスブルク帝国である)、脱植民地化後の「逆植民地化」と著者が呼ぶ旧帝国支配地域への移民の問題が論じられる。さらに現在の世界において、ロシアやアメリカ、中国に加えて、EUについても帝国性の存続が指摘され、「混乱の度を深めていく世界において、帝国が何らかのかたちで、秩序にとって必要だと考える人も出てくるだろう」(241)という観測が述べられるのである。

 このような内容の本書は、かなりの包括性をもって世界史のなかの帝国を論じた研究として、重要な意味をもっている。なかでも、本書の中心的主張であると思われる帝国と国民国家の間の類似性や継続性という点は、それを著者ほど強調しすぎることには問題があるとしても、重要な議論であり、さまざまな研究の展望を開くものである。

 ただし、本書で提示されている帝国像、とりわけ第二の分水嶺以降の帝国像について、評者は大きな疑問を抱いており、その点を以下で述べてみたい。この疑問は、本書に関するものであるばかりでなく、本書が一つの代表例となっている近年の帝国史研究の全体的趨勢にも関わるものである。

 第一の疑問点は、帝国支配のもとで見られ、帝国支配の根幹をなした暴力性というものを、著者が過小評価している点である。帝国における暴力的契機についての著者の考えは、「帝国には暴力が入り込む余地があったが、帝国は暴力を引き起こすのと同じくらい、それを抑制する機能も有していた」(226-227)という一文に集約される。もちろん帝国支配のあらゆる局面が暴力でいろどられていたわけではないし、帝国支配の成立・存続に際しては同意・協力といった契機も必要であり、そうした行為による秩序の維持は重要であった。しかし、著者の帝国論においては、また近年の帝国論の多くのなかでは、この後者の側面が過度に前面に押し出されて、暴力的契機が後景に退けられるきらいがある。著者が重視するのが帝国における秩序であることから、内容紹介の最後で触れた一文につながる帝国支配評価の姿勢が生まれてくるのである。

 本書の第3章で支配者と被支配者の間の対立面が軽視されているのも、著者のこの基本姿勢のあらわれであり、植民地の成立や維持過程の節目節目で生じた対立やそれに伴う暴力が軽視される形で、帝国が論じられている。

 先に「帝国主義の時代」の画期性への着目が必要だったのではないかと記したが、暴力軽視の問題はその点にも関わる。この時代は帝国主義列強によって世界が分割され尽くした時代であったが、そこではヨーロッパで「平和」が続いていったのと対照的に、植民地世界では数多くの戦争(植民地戦争)が生じていた。本稿執筆時に続いている「ガザ戦争」でも見られる犠牲者数の極端な非対称性などを特色とするこうした戦争が頻発するなかで、世界史のなかの帝国は新たな段階に入っていったと評者は考えている。こうした植民地戦争は帝国を論じる上で重要な要素であるが、著者の議論のなかでは軽視されており、それと連動する形で「帝国主義の時代」における世界の変容も看過されていると思われる。

 第二の疑問点は、第5章における、帝国の衰退・滅亡要因の検討に際しての、ナショナリズムの位置づけ方である。前述したごとく、著者はナショナリズムが果たした役割を相対化しつつ、戦争(両世界大戦)による帝国支配国側の変化という要因を重視している。もとより、脱植民地化が実際に展開していた時期の議論に見られたように被支配側のナショナリズム、民族運動の力をもっぱら強調することは、バランスを失しており、帝国支配国側の要因を十分に考慮することは必要であるが、著者はそちらの要因を過大評価しているのである。しかも、本書ではそうした戦争要因の内実に踏み込んだ分析はなされておらず、「すべてのヨーロッパの大国が、戦争によって経済的、軍事的、心理的に疲弊した」(179)といった一般論が述べられるのみである。その一方で、戦争といっても、植民地支配の暴力性に対する形で被支配側が引き起こした独立戦争の意味(これは当然ナショナリズム評価に関わる)は軽視されている。

 このような問題をはらむ本書は、著者が何度か好んで引用しているニーアル・ファーガソン(イギリス帝国の歴史を称揚し、アメリカもそれをモデルとすべきであるとの主張を展開したことで知られる)に似て、支配する側からの視線で帝国の歴史をポジティブに描き、そうした帝国性をもつ国際秩序をこれからの世界でも追求していこうとする試みに堕しかねない危うさをもっている。豊富な内容をもつだけに、その点によく注意しつつ接するべき書であろう。

(「世界史の眼」No.54)

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