世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―
南塚信吾

2.《場所請負制》とアイヌ

(1)「場所」―商人の漁業経営

 享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)に、蝦夷の支配体制が「商場知行制」から「場所請負制」へ移行したと考えられている。商場知行制は、もっぱら交易を中心としていたが、場所請負制は、交易權と漁業権をふくみ、むしろ漁業経営が中心となった。そうなると、商人の性質が変わってきた。商場知行制のもとでは、蝦夷の物産を上方に輸送する本州商人が主役であったが、今や、松前藩の公商で、漁業を経営することもできる商人(主として近江商人)が主役となった。そして商人たちは近隣のアイヌなどを使役して漁場を直接経営するようになった(菊地 1994 111-112頁;淡海文化を育てる会 2001 117頁;神長 2022 54頁)。

 享保年間に「場所請負制」が始まると、近江商人は、松前氏の給人から「場所」を請負い、漁場経営を任された。近江商人たちは自らの裁量で漁場を運営し、干鱈、干鰯、干鮑、ニシン、昆布、わかめなどを入手した。同時に、かれらは、「場所」につくられた交易所において、アイヌから毛革や金や海産物を獲得した。かれらは、獲得したものを松前氏に上納したほか、「荷所船」によって近江を経て京・大坂に送り、逆に日用品や米、衣類を買い入れて、アイヌとの交易にあてたりした(淡海文化を育てる会 2001  115頁)。アイヌの漁民たちから言うと、かれらは、採取した毛皮や昆布などを交易所に持ち込み、そこで「運上屋」の商人を通して、内地などから来た米や雑貨の交易用品と交換した。この様子は、小説ながら鳴海章『密命売薬商』(集英社文庫 2017年)にたくみに描かれている。

 すでに見たように、1698(元禄11)年、幕府は海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てていた。このとき、昆布も諸色として認められ、以後、昆布は重要な産品となっていた。輸出用の国際商品としてコンブが「発見」されたのである。1785年(天明5年)には、幕府は長崎の会所の下に長崎俵物役所を置き、俵物や諸色を各地から直接買い集める体制を強化した(神長 2022 55頁)。近江商人の商いはこれに繋がっていった。

 しかし、18世紀半ば以後、近江商人の独占状態に変化が起こる。多くの近江商人は商場知行制の流通制度に拘束され、運上金の引き上げに耐え切れず、場所請負制に乗ることのできた近江商人以外は、生き残れず、非近江系商人が台頭してきた。例えば、淡路出の高田屋嘉兵衛は箱館を拠点に活躍し、択捉までの航路を開拓した(淡海文化を育てる会2001 117頁)。こうして、さまざまな出身の商人が場所請負制に入り込んできて、18世紀の末までには、場所請負制が蝦夷地(北海道)全域に行きわたり、請負人によるアイヌ支配が確立した(荒野 1988 51頁)。

 18世紀末から19世紀初めにかけて北の隣人であるロシア帝国との緊張が高まると、1807年に、幕府は松前藩から東蝦夷地、次いで西蝦夷地を召し上げて直轄した。そして、対外的な緊張が弱まった1821年に、幕府は松前藩に蝦夷地を返したが、幕末の1855年には北辺防備のために蝦夷地をふたたび直轄にした(神長 2022 56頁)。こういう直轄化をとおして、「場所請負制」は強化されていった。 

(2) 昆布漁場 

 17世紀末に幕府が俵物と諸色を対中貿易の重要品目と指定し、昆布も諸色として認められ、こうして新たな輸出用の国際商品としてコンブが「発見」された後、18世紀から19世紀半ばにかけて、蝦夷地の各地でコンブの新漁場が開発された。

 18世紀の前半は、おもに近江商人の手によって箱館周辺で生産されたコンブが松前から敦賀や近江、ないしは瀬戸内海を経由して大坂に運ばれていた。18世紀半ばまでの松前昆布の産地はおもに松前地の吉岡(現在の渡島地方)から東蝦夷地のエトモ(現在の胆振地方)あたりであったが、1780年代前半(安永末から天明初)にはそれがミツイシ(三ツ石=現在の日高地方)まで広がった。1780年代に幕府が密貿易を取り締まるためにコンブの集荷を強化すると、産地はさらに広がった。18世紀の末には和人とアイヌのコンブ交易の場が蝦夷地の北の端まで広がった。

 19世紀前半の西蝦夷地では、トママイ(現在の苫前)とテシホ(現在の天塩)もコンブの産地として知られるようになった。東蝦夷地のコンブ業は18世紀の末にクスリ(現在の釧路)やアツケシ(現在の厚岸)に達していた。そして19世紀初めにはネモロ(根室)で高田屋がコンブ漁業をはじめて試みた(神長 2022 57-58頁)。

 7月ごろに漁場で採られた2メートルから3メートルの長さの昆布は、乾燥させて、長さを揃えて束にし、8-9月に場所に出され、場所の商人に買い付けられた。対価は、本土からの日常用品などの原物であった。

(北海道漁連)https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html

(3) 労働力としてのアイヌ  

 「場所」では商人が近隣のアイヌなど使役して漁場を直接経営するようになった。場所の中核施設は運上屋であり、ここで支配人・通詞・帳役などが場所を管理した。場所の労働者はおもに番人・職人・漁民からなり、漁民としてはアイヌと、定住ないし出稼ぎの和人が働いた。

 18世紀末までの松前藩は、蝦夷地への和人の立ち入り(蝦夷地往住)を厳しく規制していたが、実際には遅くとも18世紀後半から多くの和人の出稼ぎ労働者が蝦夷地で漁業に携わっていた。厳しい取り締まりのなかでも、漁業の発展とともに和人の人口が増え、アイヌの人口が減っていった。そして、幕府による直轄が始まった19 世紀初めから、幕府は和人に対して蝦夷地への積極的な移住と出稼ぎを勧め、出稼ぎ労働者は東西蝦夷地ともにいちじるしく増えた。松前藩による支配が復活した後もこの傾向は続いた。その結果、和人地に近い蝦夷地ではアイヌ人口が激減した。和人との雑居を好まないアイヌたちの移住が一つの要因だが、和人との雑居による感染症の蔓延も大きく影響したのだった(神長 2022 60-61頁)。

 しかし、アイヌの人口が全体として減ったとはいえ、昆布獲りについては、冷遇されたアイヌの労働力に依ることが大きかった。アイヌは男も女も昆布獲りに働かされた。昆布を取るアイヌは、各「場所」に組織され、交易所で取り締まられていた。各漁場では、アイヌは、酋長(おとな)、小使(こづかい)、土産取(みやげとり)という役を置いて、共同体をなしていた。昆布獲りには、アイヌは、場所のアイヌ部落だけでなく山の方からも降りてきて、漁場近くの海岸に小屋を設けて働いていたという。アイヌが「漁業や昆布とりに雇われてよそに行く」こともあった(松浦 2018 66,299頁)。

 19世紀以前のアイヌにはそもそも季節ごとに生活の本拠地を替える習慣があり、蝦夷地の各地で多くのアイヌが春から秋にかけての集落(サクコタン)と冬の集落(マタコタン)を行き来していたが、和人による労働者としての使役が各地で広がった19世紀半ばにこうした習慣がほぼ消滅したという(神長 2022 62頁)。

 多くの場所でのアイヌの労働条件はきわめて悪く、「場所」を管理する和人たちから長らく暴力的な支配と差別的な扱いを受けていた。アイヌの労働に対する対価は不当に少なかった。場所での労働の対価としてアイヌに支給された賃金は最大でも和人の4 分の1だったし、和人がアイヌから海産物を買い取る場合は、同じ海産物でもアイヌからの買上げ価格は和人からの買上げ価格の3 分の1 だった。この時期のアイヌの生活には、日本製の商品が欠かせないものになっていたが、場所での和人との交易では、これらの商品の価格が不当に高く設定されていた(神長 2022 64頁)。

 このようなアイヌの労働力に支えられて獲られた昆布などは、どのように取引されたのか。

3. 蝦夷から見た交易

(1)「荷所船」

 松前藩は藩の内外に行き来する人と物を厳しく管理した。内地から蝦夷地へ来る船が入る港は、福山(松前の港)、江差、箱館に限られ、これ以外の港での交易を禁じられた。それぞれに「沖口番所」が設けられて、船舶・積荷・旅人の出入りが取り締まられ、規定の税が徴収された。密貿易はきびしく禁止されていた。さらに三港には、それぞれ問屋(商人)があって、他国よりの貨物、他国への貨物は、必ず問屋を通して売買することになっていた。問屋は貨物の売買を仲介し、売買代金の一定額を口銭として受け取った。そのほか、問屋は、船出が移入したり移出したりする貨物を沖口番所に届け出て検査を受け、沖口口銭(つまり関税)を船主から取り立てて、役所へ届けた。これらの問屋を松前氏が統括していたのである。奥蝦夷地へ往来する船も必ずこの三港のいずれに寄って、こうした手続きを経なければならなかった。こうして蝦夷地に入った貨物は、和人地で必要なものを除くと、蝦夷地の各「場所」に送られて、蝦夷交易用品として使われた(越崎 1972 16-17頁)。

 これに伴って、近江商人らの「荷所船」の動きも変化した。「荷所船」はこれまでは賃積みであったが、いまや場所請負人が船を所有して直接輸送したり、北陸の船主・船頭が松前・江差・箱館で自ら取引を行ったりする買積み船が登場してきた。ここに「北前船」の素地が生まれることになるのである。買積みというのは、運賃を取って依頼荷物を運ぶ運賃積みに対して、船主・船頭が、商い荷物を自ら買い込んで自分の船で運び売り捌くもので、相場の地域間格差を利用して儲けを得るのであった(菊地 1994 118,165-167頁)。 

 福山(松前の港)、江差、箱館の湊はこのあと繁栄を迎えるが、それぞれに違った役割を持っていた。松前は、船の出入りする湊としては、江差・箱館に劣るが、城下町として当初は沖の口改めを独占していた。場所請負制の下で発展した江差と箱館の間では、箱館が大坂、長崎向けの昆布の積出、江差が木材と鰊の積出で栄えた(菊地 1994 119-121頁)。逆に、内地から蝦夷地への移出品は、津軽、羽後、越後、越中などからの米、出羽大山、越後、大阪からの酒、敦賀、津軽よりの縄筵、瀬戸内海各地よりの塩、大阪などからの木綿その他雑貨類がおもなものであった(越崎 1972 16頁)。  

 やがて1850年代になって、越中の売薬行商人も蝦夷地に入り込んでくる。彼らは、近江の売薬商と競争しつつ、渡島、釧路など蝦夷地に入り込むのだった(植村 1959 129-131頁)。

   (菊地 1994 150頁)

(2) 北のルート

 ここで無視できないのは、北の交易ルートである。北の交易ルートには、二つのものがあった。一つは、西蝦夷地から樺太、山丹、満洲へとつながるもので、いま一つは、東蝦夷地から千島、カムチャツカへとつながるものであった。これらのルートは17世紀の初めには幕府と松前藩によって認知されていた。これらのルートは、松前藩の交易船が直接取引をし、そこには家臣も商人も入れなかった(菊地 1994 151-155頁)。山丹ルートでは宗谷が、千島ルートでは厚岸が松前藩の交易船が行く最果ての「商場」であった(菊地 1994 151-155頁)。

 山丹ルートは、松前から宗谷を経て、樺太の南端ノトロ岬の白主(しらぬし)に至り、樺太を経て、北方の黒竜江(アムール川)下流の住民である山丹(サンタン)人を通じて満州にいたる日満貿易のルートであった。樺太では、樺太アイヌが交易を担っていたが、山丹人が入り込むこともあった。やがて交易が広がるにつれ、1790年(寛政2年)に、このルートの会所は、宗谷から白主に移っていくことになる。そこでは、アイヌに漁法を教えたりした(白山 1971 863頁;菊地 1994 155-158、161-163頁)。このルートから「蝦夷錦」などの唐衣やラッコなどが入ってきていた。

 千島ルートは、千島アイヌに担われて、厚岸から南千島のクナシリを経てさらに北千島の占守(シュムシュ)、さらにはカムチャツカにまで至り、猟虎などをもたらしていた(菊地 1994 158-161頁)。ここにはロシア人も入ってきていた。大黒屋光太夫が漂流し帰国した後の1799年に、ロシア帝国の国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、19世紀には、同社はアリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を与えられて、イルクーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動していた。毛皮の入手には現地のアイヌとも接触していた。こうして、ロシア、シベリア、アラスカへの口は繋がっていた。

 やがて北前船は、この二つの北方ルートから運ばれた「蝦夷錦」その他の品を、昆布など蝦夷の物産と共に本土へもたらすのであった。また、のちに漂流した北前船の長者丸は、最後にはシトカから、千島列島を経て、帰国することになるのだった。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年}
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年

(「世界史の眼」No.54)

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