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「世界史の眼」No.59(2025年2月)

今号では、小谷汪之さんに、「島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。2回に分けての連載になります。また、南塚信吾さんには、連載してきた「世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―」をご寄稿頂きました。「その7」でひとまず完結となります。

小谷汪之
島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判

南塚信吾
世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―

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島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判
小谷汪之

はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 本号)
3 島木健作『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 次号)

はじめに

 島木健作(本名、朝倉菊雄、1903-45年)は札幌に生まれた。父・朝倉浩は北海道庁の官吏であったが、日露戦争時に道庁の仕事で満洲の大連に出張し、そこで病没した。島木2歳の時である。母・マツは朝倉浩の後妻であったが、自分の生んだ2人の子を連れて朝倉家を出た。そのため、島木は兄・八郎と共に、貧しい母子家庭で育つことになったのである。

 島木は14歳の時に、高等小学校を1年で中退し、紹介してくれる人があって、北海道拓殖銀行の「給仕」(雑用係)となった。16歳の時には銀行を辞めて上京し、書生の職を探して医師宅や弁護士宅に住み込んだ。勤務の傍ら、「夜学は正則英語学校に通った。中等部の一番上のクラスに入れてもらった」(島木健作「文学的自叙伝」、島木『第一義の道・癩』角川文庫、所収、198頁)。しかし、翌年、「肺がわるいといふことで、帰郷するのほかないことになった」(同前)。札幌に戻ったその日の真夜中、激しい喀血があり、それきり寝込んでしまった。病気は肺結核だったのである。静養の末、18歳の時、援助してくれる人がいて、旧制私立北海中学4年に編入され、1923年、20歳で同校を卒業した。その後、上京して、帝国電燈株式会社に入社したが、同年9月1日の関東大震災により職場で負傷し、再度札幌に戻った。負傷が癒えたのち、北海道帝国大学図書館に職を得た。

 1925年、22歳の時、北大の職を辞し、東北帝国大学法文学部専科に入学、東北学連の学生運動に参加し、留置所に入れられる経験もした。翌年には、大学を退学して四国に渡り、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として、農民運動に加わった。しかし、1928年、日本共産党に対する大弾圧事件である「3・15事件」に連座して逮捕、勾留された。勾留中に肺結核が悪化し、1929年には、「再び政治運動に携はることはないと転向の言葉を法廷に述べ〔た〕」(「文学的自叙伝」202頁)。しかし、翌年有罪が確定し、大阪刑務所に収監された。そこで激しい喀血があり、刑務所内の隔離病舎に移された。

1 作家・島木健作の誕生

 1932年、刑期を1年残して仮釈放された島木は、当時東京・本郷で古本屋を営んでいた兄のもとに身を寄せ、その手伝いをしながら、療養に努めた。その結果、「可能な程度で農民のための仕事に身を近づけようと準備する迄になってゐたが」、1933年12月、病気(流行性感冒)に倒れ、断念せざるを得なかった(「文学的自叙伝」203頁)。そのような状況の中で、「長い長い間忘れてゐた文学的な表現で何か書いて見たいといふ欲求がママへがたい強さで湧いて来た」(同前203頁)。こうして書かれたのが島木の処女作「癩」で、1934年に発表されると、大きな反響を呼んだ。「癩」は基本的には私小説で、その主人公「太田」は島木自身とほぼ重なる。

 「太田」が収監されていた刑務所内の隔離病舎には「一舎」と「二舎」という2棟があり、結核の服役者は「一舎」に入れられることになっていた。しかし、「太田」は「共産主義者」ということで、その影響が他の服役者に及ばないように、「癩病患者」用の「二舎」の独房に入れられた。その隣の房には1人の「癩病患者」がいて、そのさらに隣の雑居房には4人の「癩病患者」がいた。「太田」は彼らの言動を観察する中で、彼らが旺盛な食欲を持ち、性欲も持っていることを知った。「癩」は「太田」の見たそのような「癩病患者」たちの姿を描いた作品であるが、そのリアルな描写が読む人に強い衝撃を与えたのである。

 「癩」は、1934年3月にナウカ社から刊行されはじめた『文学評論』の同年4月号に掲載された。ただ、掲載に至るまでにはいろいろな経緯があった。それまで出版界とまったく縁のなかった島木をナウカ社に取り次いだのは米村正一であった。米村はソビエト連邦(ソ連)で刊行されていたロシア語の経済書などの翻訳を通してナウカ社の社主・大竹博吉とは関係があった。他方、島木は香川県における農民運動を通して、日本農民組合香川県連合会の顧問弁護士であった米村と知り合った。二人の付き合いの中で、米村は島木に面と向かって、君には文才があるとよくいっていた。それで、島木は書き上げた「癩」の原稿を、読んでもらうために、米村の方に回したのである。「癩」の原稿は「米村正一の手から『文学評論』の発行者たるナウカ社の大竹博吉に手渡され、大竹は更に森山啓、徳永直の二人に、どんなものか読んで見てくれと送りつけた。森山、徳永はいずれも、これはいい作品だとして、『文学評論』に掲載することをすすめた」(高見順『昭和文学盛衰史 上』福武書店、1983年、286頁)。こうして、「癩」は『文学評論』に掲載され、島木は新進作家として華々しくデヴューすることができたのである。

 島木健作というペンネームは、「癩」を発表する時に、初めて使われた。その意味で、「癩」は作家・島木健作の誕生を印すものであった。

2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会

(1)農民文学懇話会

 1938年7月、東北地方を旅行していた「太田」は旅先に転送されてきた一通の手紙を受け取った(島木健作『或る作家の手記』創元社、1940年、94頁。この作品は小説の形を取っているが、すべて島木の体験にもとづいている。したがって、「太田」は島木自身と重なる)。それは作家の「井口」からだった。「手紙の文面は、今度農林大臣のA氏が、農民文学に関係のあるものを呼んで懇談しようといふことになった。ついては君にも是非出てもらひたいと思ふ」というようなことであった。「太田はすぐに返事を書いた。自分の帰京はその頃までには難しからうと思ふから、残念ながら出席することは出来まいと思ふ」と(『或る作家の手記』94-95頁)。

 この「農林大臣のA氏」というのは有馬頼寧のことで、有馬の意を体して、「太田」に手紙を書いた「井口」は徳永直であると考えられる。それは以下の一文から推測できる。

彼〔太田〕は井口とは、三四年前に井口がある文学雑誌の編輯者だった関係から面識があるだけだった。彼は関西の方の農村の事情に通じてゐて、此頃ぼつぼつ農民小説を書きだしてゐた。(『或る作家の手記』94頁)

 「井口」についてのこの文章は「癩」の『文学評論』掲載に至る経緯に関説したものに違いないが、その内容からいって、「井口」は森山啓ではなく徳永直だったと考えられる(「井口がある文学雑誌の編輯者だった」というのは島木の思い違いであろう。徳永は『文学評論』の編輯相談役といった立場で、編輯者はプロレタリア歌人の渡辺順三であった)。『太陽のない街』(1929年)で知られるプロレタリア作家・徳永直がどのようにして有馬頼寧とつながりをもったのかは分からないが、徳永は1933年には「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)を脱退し、実質的には「転向」していたから、こういうこともあったのであろう。

 有馬頼寧と農民文学作家たちとの懇談会は予定より遅れて1938年10月になって開かれたので、島木健作も出席することができた。その他の出席者は和田伝、丸山義二、打木村治など10名ほどであった。そこで、農民文学懇話会の結成、農民作家の大陸視察への派遣、農民文学賞の設立などについて話し合いが行われた(尾崎秀樹『近代文学の傷痕――旧植民地文学論』岩波同時代ライブラリー、1991年、272-275頁)。農民文学懇話会の発会式は1938年11月に行われ、島木健作など30名ほどの作家が参加した。

 島木は農民文学懇話会に参加した理由について、『或る作家の手記』の中で次のように書いている。

 このやうな会に出席することを承知した時の彼〔太田〕の気持はどのやうなものであったらう。それはただなんとなく勧誘に乗ったといふのでもなく、さういふ会のなかで何か一つ派手にやって見ようと思ったのでもなく、自分の文学をもって大いに政治に奉仕しようと思ったわけでもなかった。人として文学者として生きて行かうとするその頃の彼の気持なり態度なりの自然なあらはれにすぎなかったのである。(96頁)

 この曖昧模糊とした自己韜晦的な文章は、裏に何かを隠しているように感じられる。それは、おそらく、もっと政治的なことだったのであろう。これより2年前の1936年11月、思想犯保護観察法が施行され、島木健作はその対象者とされた。「偽装転向者」ではないかと疑われたのであろう。これにより、島木は1945年まで官憲の監視下に置かれることになった。そのような状況において、有馬頼寧を肝煎りとする農民文学懇話会に参加することは、いわば一つの政治的「保険」のような意味合いをもっていたのではないかと思われる。ちなみに、同じく思想犯保護観察法の対象者とされた高見順は戦後における伊藤整との対談で、次に取りあげる大陸開拓文芸懇話会に関説して次のように言っている。「大陸開拓文芸懇話会、あそこらへ籍を置いとかないと、ふん捕まっちゃうんじゃないかと、僕なんか特にそういう感じがして、いやだったな」(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」『昭和文学研究』25号、1992年、85頁)。島木健作も同じような恐れを感じていたのではないだろうか。

 農民文学懇話会は後に日本文学報国会(1942年5月結成、会長は徳富蘇峰)に吸収併合されたことから分かるように、本質的に国策文学団体であった。

(2)大陸開拓文芸懇話会

 農民文学懇話会の結成から約3か月後の1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が発足した。こちらは拓務省と満洲開拓に関心をもつ文学者の連携で結成された団体で、会長は岸田国士、委員は福田清人、田村泰次郎、湯浅克衛など6人であった。会員は伊藤整、丹羽文雄らに加えて、農民文学の和田伝、丸山義二など、そして「転向作家」とみなされていた島木健作、徳永直、高見順などで、全部合わせて29名であった。その事業としては、「大陸開拓に資する優秀文芸作品の推薦又は授賞」、「大陸開拓事業の視察並びに見学に対する便宜供与」、「大陸開拓文芸に関する研究会、座談会、講演会の開催並びに講演者、講師の派遣」などが掲げられていた(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」、各所)。その点では農民文学懇話会と共通する面が多かった。

 1939年2月18日、大陸開拓文芸懇話会の最初の活動として、満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(茨城県水戸市)を1泊で訪問した。参加したのは岸田国士、福田清人、伊藤整、島木健作、高見順、田村泰次郎など、十数名であった。その夜開かれた「懇談会」における島木健作の様子を田村泰次郎は次のように伝えている。

島木はつねに日本農民の大陸進出に関しては、彼らの擁護者であり、その立案者と実行者に対しては監視者であった。私がはじめて彼を知ったのは、〔大陸〕開拓文芸懇話会仲間で水戸の内原訓練所へ見学に行って、一泊した時である。その夜、訓練所側のひとたちや、満州の現地から内地へ出張してきたひとたちと、懇談会があった。その席上で、一座の空気は、開拓民の生活の前途を希望的に肯定した上で、話しあいがつづけられたが、彼ひとりは開拓民の生活の前途は必ずしも楽観できないと、どこまでも喰いさがって、相手側を手こずらせた。その言説は理論的で、その理論はまた、綿密に現地の生活の実態を調べてあるので、相手側にとっては不意を衝かれた感じであった。度の強い、細ぶちの眼鏡を光らせ、幾分、身体を猫背にして乗り出すようにしながら、加藤完治〔内原訓練所〕所長に喰ってかかる島木の姿は、恰度、豹が獲物に躍りかかろうとする姿を思わせた。(田村泰次郎『わが文壇青春記』新潮社、1963年、35頁)

 この時、島木はまだ満洲に行ったことはなかったのであるが、満洲行の準備として満洲や満洲開拓に関する文献を広く読み、さまざまな知識を身につけていた。それに依拠して、満洲開拓についての楽観的な観方を批判したのである。

 大陸開拓文芸懇話会も後に日本文学報国会に吸収併合された。拓務省と連携した国策文学団体であったから、そうなるのも当然だったのであろう。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.59)

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世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―
南塚信吾

4.琉球と中国の貿易  

(1)進貢貿易

 薩摩の対中貿易は琉球の進貢貿易を利用して行われてきていた。これまで、薩摩の観点から琉球の貿易を見てきたが、改めて琉球の側から見直してみよう。

 国内での生産に恵まれない琉球王国は、15-16世紀には、東アジアの国際交易のネットワークの中心として栄えた。中国、日本はもとより、朝鮮、安南、シャム、スマトラ、マラッカ、ジャワなどと貿易を繰り広げていた(宮城61-69頁;新里他 1975 66-72頁)。

 だが、琉球王国は1609年(慶長4年)に島津の薩摩藩によって制圧された。独立の王国から、薩摩によって支配されるようになった琉球王国は、他国へ商船を派遣することを禁じられ、それまでのように東アジアの国際交易から利益をあげることはできなくなった(新里他 1975 77-81頁)。

 しかし、中国との進貢貿易は維持・継続された。琉球から中国へ貢使が派遣され、琉球産やその他の品物を貢いだり、販売したりした。お返しに中国から金銭や生糸が与えられた。薩摩藩は膨大な財政赤字を抱え、その立て直しにこの進貢貿易を利用しようとした。琉球は貿易のための資金に不足していて、薩摩から借り入れねばならなかった。琉球の進貢貿易に薩摩が積極的に介入したのは1631年(寛永8年)からであった。この年、薩摩藩は琉球の那覇湊(首里王府のある首里ではなく)に薩摩仮屋(かいや)と琉球在番奉行所を置き、進貢貿易を手中に置こうとした(徳永 2005 31-33頁)。琉球王国においては、国王の下に摂政と三司官が置かれ、その下に申口(もうしくち)と物奉行が置かれ、申口の下の鎖之側(さしのそば)が船の点検や外国使者の接待や那覇・久米村の行政監督をすることになっていたが、薩摩はその権力ルートとは別のルートを設けたのである(新里他 1975 89,102頁)

 1633年(寛永10年)に琉球王は、明の冊封を受け、中国より「琉球国中山王」として認められた。ここに、琉球は、中国との関係で、両属状態に置かれた。薩摩はそれを承認していた。そして同年、明からの冊封使船(冠船)が来た際、貢期を二年一貢と貢船二艘の制を認めてもらった(新里他 1975 89頁)。

 1639年(寛永16年)にポルトガルが追放されたのち、ポルトガルがもたらしていた中国産品の輸入が停滞した。そこで、薩摩は、琉球に中国から生糸、巻物、薬種などを輸入させることを幕府に請け合った。その後、1644年に明が滅びて、清が中国を支配するようになると、1663年(寛文3年)には、琉球と清朝との冊封関係が成立し、従来通り二年に一回の貢使派遣が定められた(上原 2016 19-25頁)。幕府と薩摩藩は、この冊封関係に基づく進貢貿易を介して唐物を輸入するために、琉球口を長崎口を補助するものとして位置づけた。

 琉球は、二面の貿易を行っていたわけである。対中国と対薩摩である。この時期、中国との進貢貿易では琉球は生糸・薬種などを輸入し、銀を輸出していた。一方、薩摩藩には中国から入手した生糸の他に、琉球産の砂糖や鬱金を輸出して、銀を輸入したのである。琉球では砂糖や鬱金は農民の労働によって生産されていたが、それへの統制が強まった。また琉球に銀は産しなかったので、薩摩との貿易で入手するか、長崎・大坂から直接入手した。実際には、琉球は貿易で利益を得ることはなかった。わずかに、朝貢使節や進貢船の船頭・水主(かこ)らが私的に品物を持っていって売り捌く利益が認められていたことがメリットであった(上原 2016 27-37頁)。

 しかし、琉球をめぐる薩摩藩と幕府の関係は単純ではなかった。琉球口貿易は幕府の直接的支配はなく、薩摩藩の裁量にゆだねられていたかのようであるが、一方で幕府の統制は長崎貿易の統制に伴い次第に強化された。他方、薩摩藩は琉球王国側からも絶えず抵抗に遭っていた。

(2)幕府の圧力 

 琉球口貿易に対する幕府の統制は1686年(貞享3年)から始まった。1685年に幕府は、長崎口での貿易輸入量を規制・縮小していたが、翌年にはこれは琉球口の貿易にも及び、幕府は薩摩への琉球口貿易品輸入量の減額を命じた。これは1688年(元禄元年)から琉球の進貢貿易にも影響して、その貿易額が削減され、中国へ渡す銀(渡唐銀)の量が減らされたり、毛織物輸入が禁止されたりした(徳永 2005 111―115頁;新里他 1975 91-92頁)。

 さらに、幕府は銀に代えて銅を使うようにしていたが、琉球の場合現地では銅も産しなかったので、大坂で入手した。そして、1698年(元禄11年)以後は、幕府は、銅とともに、俵物(煎海鼠、干鮑など)と諸色(昆布など)を輸出することに力を入れたが、これに合わせ、琉球でも俵物・諸色が輸出に使われるようになった。ただし、それは、私貿易品として船頭・水主(かこ)らが持ち出すものであった(上原 2016 44-46頁)。  

 18世紀になると、中国からの輸入品に変化が現れた。それは生糸輸入の減退であった。1710-30年代になると、国産生糸が出回り、販路が狭まって、中国からの生糸輸入に影響を及ぼしたが、1760年代に中国が朝貢国琉球に対してまで生糸輸出を制限するようになった(上原 2016 47頁)。このため、中国からの薬種輸入の意義が増大した。こうして、琉球の進貢貿易において、中国からの薬種輸入、中国への俵物・諸色輸出が支配的な形になってきた。しかし、幕府の干渉によって、これは円滑には動かなかった。

 財政難にあった薩摩は、なんとしても琉球の進貢貿易からの利益を拡大しようとした。1800年(寛政12年)、薩摩は、唐物の薬種・器材類の他領売り捌きの許可を幕府に願ったが、1802年に、幕府は、琉球の進貢貿易での薬種の輸入を厳禁し、唐物器材類の販売も薩摩藩内に限ることとし、他領での販売を認めなかった(新里他 1975 92)。そこで薩摩藩は長崎商法に頼らざるを得なくなった。薩摩藩主家豪は11代将軍家斉の岳父(家豪の三女が家斉夫人)としての権威をよりどころに、長崎の会所貿易に食い込んで、1810年(文化7年)には、紙、鉛、羊毛織など琉球の輸入産物を「琉球物産」として長崎で販売することを5年間にかぎり認めさせた(上原 2016 111頁)。これは進貢貿易で入手した唐物を長崎商法で販売する道を開いたことを意味した。このあと藩はさらに長崎商法を拡大するよう画策するとともに、琉球唐物を一括買い上げて藩の専売下に置こうとした。しかし、琉球側ではこれに容易に応じなかった。

(3)琉球の抵抗

 琉球は、東アジア世界の中で最も旺盛な通交・貿易を展開し、貿易こそが国家の維持と繁栄の鍵であった。

 そのような琉球を仲介とした進貢貿易は薩摩の思うようにはいかなかった。その理由の一つは、進貢貿易における進貢使節は慣例として使節者個人の私交易が認められていたことで、二つは、琉球から薩摩への貿易品輸送は商船を所有する商人(海商)が担ったことである。そして、進貢使節がもたらした私交易品はまさに抜荷であり、それを購入した海商は領内を始め江戸・大坂で販売する抜荷を行なっていた(徳永 2005 94-95)。これらは、琉球の王府の黙認する抜荷であった。唐物の一括買い上げはこういう慣例を脅かすものであった。加えて、琉球の唐物貿易は、王府に資金がないので、貿易に関係する役人や船方の負担のうえで成り立っていて、かれらに利益を還元せねばならなかった。したがって、琉球側は薩摩の買い上げには容易に応じなかった(徳永 2005 94-95頁;上原 2016 111-133頁)。

 結局、1819年(文政2年)には、琉球はついに薩摩藩による琉球唐物の一手買入制を認めさせられた。同時に、薩摩藩は琉球の救済を名目に、長崎で販売できる「琉球物産」の品を拡大することを幕府に認めさせた(上原 2016 134-142、158頁)。こうして薩摩は幕府に唐物の扱いをかなり任されたことになり、それを制度的に確定すべく、1826年(文政9年)に、琉球に「唐物方御座」を置き、琉球における貿易関係の事項はすべてこの座が扱い、決定をその琉球に下していく体制を整えた(上原 2016 162-167頁)。

 薩摩の支配のもと琉球は、本土から薩摩を経由して得られる昆布などを中国に輸出し、薬種など唐物を輸入して薩摩に引き渡すという立場に置かれたのである。

(4)薩摩の圧力  

 1827年(文政10年)から始まる薩摩藩での調所の財政改革は、琉球にとっては、まずは砂糖の作付け拡大要求として現れた。すでに奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島は、これを受け容れていたが、琉球は、百姓の負担増を理由に、なかなか受け入れてこなかった。しかし、1830年(文政12年、天保元年)にはついにこれを受け入れた。そして、琉球が輸出する砂糖の三分の一程度を薩摩藩が安く買い入れることとなった(上原 2016 173-203頁)。

 調所改革の今一つの重要なポイントは、対中貿易の拡大であった。しかし、琉球側から見ると、薩摩が対中貿易を強化することは、決して利益にはならなかった。つまり、慢性的に財政赤字の琉球にとって、対中貿易は十分な資金をもって行われていたのではなく、中国側も品物の質や量や値段を駆使して輸出を操作しようとしたから、薩摩が思うような量と質の唐物を琉球が獲得できないこともあった。また、関係役人や船頭は、身銭を工面して唐物を買ったり、俵物・諸色と交換に唐物を買ったりして、帰国後にそれを売って、ある程度の利益を得ることは黙認されていたが、薩摩の監督が厳しくなると、そういう利益は得られなくなった。そこで、抜荷に走る者が絶えなかった(上原 2016 231-237頁)。

 調所改革は、1830年代に入ると一層加速されたが、複雑な問題も抱えた。薩摩藩は、1834年(天保5年)に翌年から20年間にわたって、長崎での唐物の販売許可を幕府からとりつけ、これにより事実上、藩は長崎で自由に売買ができるようになった。だが、それは琉球から得る唐物の一層の増大を必要とするようになった(上原 2016 229頁)。同時に薩摩藩は、昆布と薬種の長崎を通さない抜荷を拡大させたが、1835年(天保6年)に新潟で抜荷摘発事件を引き起こし、それにより幕府が1836年(天保7年)に松前と薩摩に対して抜荷取締り令を出すことになった。   

 これは、琉球にも知らされ、中国との進貢貿易が厳しく取り締まられることになり、唐物の抜荷対策が強化された。渡唐船入港に際しての荷改め、積荷の保管、薩摩への積荷輸送などの過程で取り締まりが強化された。輸入された唐物はすべて唐物方御用掛で荷改めされることになった。例えば、中国へ行って帰ってきた渡唐人たちのもたらした積荷は、これまでは荷改めが済み次第、唐物方が独占的に取り扱う品を除いて、荷主に引き渡されていたが、今後は、荷主に引き渡されていた品のうち、個人的な使用物やお土産などを別にして、売却用に使われていた品は、当局に届け出ることになった。これは、貧しい渡唐人たちの収入源を押さえることになった。琉球では、唐物の輸入と薩摩藩への提供には、関係の役人や船頭の身を削るような貢献を必要としていたが、そのような犠牲をさらに強めることになった。こうして、琉球は唐物の御用改めを受けつつ長崎販売用に唐物を多く提供しなければならなくなった(上原 2016 278-286、293-296頁)。

 薩摩藩は御製薬方を創設し、自前の製薬をめざしたが、それには中国の薬種が必要であった。また、1846年(弘化3年)には幕府に上述の長崎商売差し止めを解除してもらったが、長崎商売を拡大するためにも、唐物の輸入の拡大が必要であった。だが、唐物の輸入拡大は琉球をさらに犠牲にするものに他ならなかった。このように琉球を踏み台にして拡大する薩摩藩の唐物商売に、富山の薩摩組が組み込まれることになったのである。1849年に、組として蝦夷の昆布の輸送を引き受けた薩摩組は、唐物輸入のために琉球で必要な蝦夷の昆布を北前船で薩摩へ輸送し、琉球から得られる中国の薬種を、薩摩藩で使う分を除いて、長崎や北陸方面へと運んだのである(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁;上原 2016 319-320年)。

 だが、こういう形で進んだ薩摩組の昆布輸送は、1854年(安政元年)には終わった。同年、薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。日本から中国への昆布輸出量の変化はその後も増加したが、琉球からの昆布輸出は1854年以後(1857年を除いて)減少した。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/0669.html

まとめ

 こうして、18世紀の初めには、北前船を介して、北は蝦夷を通して樺太、カムチャツカ、南は薩摩、琉球を通して中国へとつながる世界的な交易ルートができることになり、その重要な流通品が琉球の犠牲の上に得られる中国からの薬種と、蝦夷のアイヌの労働によって取られる昆布なのであった。そして、その昆布―薬種交易を仲介するのが、越中の売薬を背景に持つ薩摩組であり、種々の北前船であった。ここに松前口貿易と長崎口貿易と琉球口貿易が越中売薬を通して繋がったのである。

 なお、1854年以後の日本はますます世界的動向に巻き込まれていく。1853年には、アメリカのペリーが浦賀に来て、1854年に日米和親条約が結ばれて、箱館が下田とともに開港した。昆布は箱館から直接中国に送られ、蝦夷では中国向け輸出の昆布の生産が増加した。薩摩・琉球経由の中国貿易は衰退していった。富山の薬種輸入も、薩摩経由はなくなり、大坂経由に一本化された。北前船は開国以降、一層の発展を見せるが、それは蝦夷(北海道)と大坂の間を結ぶルートで発展した。こうして、1854年以後は、四つの口の議論とは別の舞台の上で、論じられる必要がある。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
新里恵二・田港朝昭・金城正篤著『沖縄県の歴史』山川出版社 1975年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
宮城栄昌『沖縄の歴史』日本放送出版協会 1974年

(「世界史の眼」No.59)

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