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「世界史の眼」No.61(2025年4月)

「世界史の眼」も6年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。今号では、南塚信吾さんに、「北前船・長者丸の漂流 その1」をご寄稿頂きました。随時連載して参ります。また、木畑洋一さんには、本年刊行された、秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)を書評して頂きました。

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その1

木畑洋一
書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)

秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』の出版社による紹介ページは、こちらです。

この度、世界史研究所の南塚信吾所長の関係する「一橋大学世界史・東欧史研究奨励基金」(通称:南塚基金)が設立され、併せて、学部生、大学院生を対象とした「世界史・東欧史研究優秀論文」の募集が開始されています。募集の詳細は、こちらをご覧下さい。

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北前船・長者丸の漂流 その1
南塚信吾

長者丸『日本庶民生活史料集成』

 北前船のなかには、いくつか広大な太平洋に漂流して、ハワイやアメリカやロシアで世界を体験し、世界についての情報を日本にもたらしたものがいた。その代表の一つが、長者丸である。

 以下の漂流の次第は、のちに長者丸の乗組員の一部が日本に帰還した時の聞き取りの記録である『蕃談』と『時規物語』と『漂流人次郎吉物語全』に拠っている。『時規物語』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に収録されている。『蕃談』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に原語の記録が収録されているほか、室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』にも現代語訳で収録されている。

1.越中から蝦夷へ 

 1838年(天保9年)4月23日(西洋歴で6月15日)、富山古寺町の能登屋兵右衛門(密田家)の所有する北前船・長者丸650石が、越中の加賀藩領にある東岩瀬より出帆した。長者丸は全長14間(25メートル余り)、21反帆で、10人の乗り組みであった。21反帆というのは、細長い帆が21枚繋がれている帆という意味である。

 乗組員は、雇われの沖船頭である船頭に、富山木町の吉野家平四郎(50歳くらい)、船のかじ取り役の親司(おやじ)に、加賀藩領射水(いみず)郡の京屋八左衛門(47歳)、同じくかじ取りの表(おもて)に、射水郡放生津(ほうじょうず)の片口屋八左衛門(50歳ぐらい)、荷扱いをする知工(ちく;岡使ともいう)に、新川郡東岩瀬の鍛冶屋太三郎、錨の操作をする片表(かたおもて)に、富山藩領婦負(ねい)郡四方(よかた)の善右衛門、雑用をする追廻(おいまわし)に、射水郡放生津の六兵衛と同放生津の七左衛門と東岩瀬の次郎吉、そして飯炊き担当の炊(かしき)に、四方の五三郎と放生津の金蔵の計10名であった。

出典:富山県立図書館「古絵図・貴重書ギャラリー」
―黄色の部分が富山藩領

 長者丸は、富山藩領の港である西岩瀬に廻り、そこで大坂へ運ぶ廻米を500石積んで、4月24日(6月16日)に出帆した。伏木、氷見、七尾、能登の珠洲を通って外海に出、能登半島、加賀、越前の沖を通って、山陰を過ぎ、関門海峡を抜けて、瀬戸内海に入った。そして、5月下旬には大坂に着き、富山御蔵の役人に米を渡し、越後新潟へ運ぶ綿や砂糖を積んで、6月半ばに大坂を出帆した。新潟には7月6日に着き、荷物を問屋唐銀屋に届け、空船にて、7月16日(9月4日)に新潟から出帆した。8月中旬には松前に到着、廻船問屋の上田忠右衛門方に止宿した。一行はここに9月まで逗留した(池田編 1968 14頁;『漂流人次郎吉物語全』7頁)。   

2.蝦夷から三陸へ「東回り」  

 船頭の平四郎は、長者丸が太平洋側を行く「東回り」の航路で「江戸」へ下るはずであることを、松前にいる時に乗組員たちに告げたようである。船主の能登屋(密田家)とはかねて打ち合わせてあったのであろう。ある専門家は、「長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです」と言っている(石森 2012)。これは史料的に確認できないが、大いにあり得えることではある。実は「江戸」にとどまらず「薩摩」まで行く「抜荷」であることは、明言されなかったにせよ、多くの乗組員にはなんとなく分かったのではなかろうか。1832年(天保3年)に薩摩藩による「差留」を解除してもらう代わりに、薩摩藩へ昆布などを献ずることになっており、薩摩組の中心人物である密田家は、少しでも多くの昆布を早く薩摩へ運びたい思いがあった。そのために今回は「東回り」を選択したと考えられる。

 しかし、表(おもて)の放生津八左衛門が、「東廻り」は嫌だと言い出して帰村し、下越後岩船郡早田村(現新潟県岩船郡朝日村)の金六に乗り替わった。金六は「東回り」に通じているというので、「道先」を務めることになったのである。船頭の平四郎は売薬あがりで船に詳しくなかったので、この後の航路は金六にかかることになった。 

 長者丸は、9月下旬ないし10月上旬に箱館に移り、ここでアイヌ労働などによって各地で取られ箱館の商人のもとに集められていた昆布から五六百石を買って船に積み込んで、10月10日(11月26日)ごろ、南部領の田の濱(岩手県船越湾内)へ向けて箱館を出帆した。「東回り」つまり太平洋航路の始まりであった。

 ただし、箱館を出る際、港がそう広くもなく風もよくなくて、船同士がぶつかり合い、長者丸に載せていた艀船(はしけ)が壊されてしまった。ようやく10月13、14日ごろに田の濱に到着、ここに14、15日逗留して、現地の大工にはしけの修理を依頼した。また、ここで、4斗俵で30俵の米のうち、20俵を売って、塩鮪(しび=塩漬けマグロ)100本余りを買い付けた。これは他の港で高く売るためである。こうして11月上旬に、仙台領の唐丹(とうに=釜石市唐仁町)湊に向けて出帆し、二日ほどかけて到着した。ここに11月22日まで逗留したが、その間に、近くの弁天島で火事が起きたり、いつもは聞えない鐘の音が聞こえたりして、まわりから気を付けるように言われたが、一行は深く気にも留めなかった。

 11月23日(1838年1月8日)は晴れていて、順風が吹いていた。30隻ほどいた船は次々と出帆した。長者丸は、船頭の平四郎が元は売薬商人であったせいで、「船方に疎く」、支払い作業が遅れ、朝8時ごろにようやく出帆した。この唐丹湊は奥行きが深く出口まで4里もあって、外海へ出るのに時間がかかった。外海へ出たところ、10時ごろから突然「大西風」になった。これはこの地方特有の北西季節風であった。これは南部地方では「あかんぼ風」と言われ、海水が赤く見えるといい、これによって沖へ2里も流されると陸地には帰って来れないと言われている西からの強風であった(池田編 1968 15‐16頁;室賀他編 1965 50―51頁;高瀬 1977 49-50頁)。

3.漂流する長者丸 

(1)嵐との戦い

 11月23日の朝、突然の「あかんぼ風」に当たった長者丸は、激しい嵐のなか次第に東の沖へ流された。みなが必死に帆を動かし、舵を操作したが、ダメだった。平四郎の決断で、23日に塩鮪と昆布100石、24日に昆布100石を海に捨てた(「荷打ち」という)。船の喫水を上げるためである。強い西風は収まらず、25日に遠くに金花山(金華山)が見えたのを最後に陸地は全く見えなくなった。ここで、みなはもはや陸地へは戻れないと、諦めた気持ちになった。金華山沖では、黒潮も東へと流れ、陸地から急に離れていくのである。ついに船の帆柱を切り倒し、船の舳(へさき)に錨を二本おろして、風に押し流されないようにした。みぞれが降って、寒くなった。27日には船に蔽いかぶさるほどの高波を受け、荷物がみな水浸しになった。27日に高波に襲われた後、金六は「辰巳(南東)の方に唐の国がある」はずだが、と言ったが、帆柱のない状態ではどうしようもなかった(室賀他編 1965 53頁では「南東の方にある異国」へ行きたいものだと言ったことになっている)。5日目の28日には少し晴れて東の風になったので、錨を上げ、帆桁(ほげた)を立てて、西の方を目指した。米を炊いて食べ、少し眠る事が出来た。しかし、29日には再び西風に変わりみぞれが降ってきた。12月1日には一時東の風になったが、また西風に戻った。この間に食べるものはとても乏しくなった。積んできた米もおかゆですするだけになった。

 その後しばらく静かだった海も、12月17日には大しけとなった。船は水浸しとなり、舵は壊れて、伝馬船も流されてしまった。船底の水をかきださねばならなくなった。皆が阿弥陀如来や金毘羅様に願をかけてお祈りをした。こうして、乗組員のあいだに絶望が拡がっていった。平四郎が持っていた梅干を一人2個ずつもらって元気を出し、昆布40-50把と塩鮪少しを残して、他は海に捨てた。食料はさらに乏しくなった。食べ物を巡って争いも起きたので、米は、各自に3合を分けて、自分の責任で食べるようにした。

 年が変わって1839年(天保10年)になると、少しずつ暖かくなった。1月は、故郷の3月ごろの暖かさになった。しかし、真水が尽きて、雨待ちの毎日だった。1月26日に久しぶりの雨が降り、雨水を必死に溜めた。2月になると、さらに暖かくなり、故郷の4月ごろになった。その分だけ水が欲しかった。船底の水かきはいよいよ欠かせなかった。幸い、船に着いた貝や藻、寄ってくるはまちなどを食べることができた(池田編 1968 16-18頁)。

(2)救助

 1839年1月24日(3月9日)ごろ、五三郎が塩水を飲んだために死亡し、4月12日(5月24日)ごろに善右衛門が死んだ。共に遺体は海に流した。そして4月15日(5月27日)ごろには、水先案内をする金六が、みなに難儀させたのは自分のせいだとして、最後に真水を飲んで、海に身を投げたのだった。残ったのは7人であった(池田編 1968 18-21頁;室賀他編 1965 51-62頁)。

 4月24日(6月5日)の朝、六兵衛が用足しに外に出ると、北の方に「山か嶋のやう成る物」が見えた。もはや足腰も立たぬようになっていた一同七名は、這って外へ出た。それは三本帆柱の異国船であった。船は止まってくれた。三千石程の大船であった。一同は、「黒んぼう」に助けてもらって、艀に乗り、異国船に移った。乗り移る時、船頭の平四郎は、弱った体に羽織袴をつけ、脇差を持って移った。七名はワインで歓迎され、柔らかいおかゆでもてなしを受けた。船はアメリカの捕鯨船「ゼンロッパ号」、キャップン(船長)は「ケツカル」であった。長者丸は燃やして処分された。

 こうして一同は、5か月ぶりに救助されたのである(池田編 1968 21—26頁;室賀他編 1965 62-66頁;『漂流人次郎吉物語全』11頁)。

(3)長者丸の行程(概略)

 アメリカの捕鯨船に救助された長者丸の一行は、このあと大きな世界史のうねりの中に巻き込まれていくことになる。それは順次見て行くことにして、あらかじめ、一行の行程を図示しておこう。

①1838年11月 漂流
②1839年4月 アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助される。
③1839年9月 サンドウィッチ諸島に到着。そこで帰国の機会を伺う。
④1840年9月 ロシア領カムチャツカに到着。
⑤1841年6月 ロシア領オホーツクへ移動
⑥1842年9月 ロシア領アラスカのシトカへ移動⑦1843年5月 エトロフ島に到着

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田晧編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
石森繁樹「富山湾―海に生きる人と暮らし」NPO法人富山湾を愛する会海洋講座「富山と日本海」13 2012年8月18日
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991

(「世界史の眼」No.61)

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書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)
木畑洋一

 本書は、1970年代を対象として、二度の石油危機に揺れた世界における国際秩序の変化の様相に取り組んだ国際的な共同研究の成果である。編者秋田茂は、これまでも精力的に、時代を輪切りにしてその世界史的相貌に迫るという研究を組織してきており、これはそうした試みの一環である。この日本語版に先立って、英語版が2024年に出版されているが(Oil Crises of the 1970s and the Transformation of International Order: Economy, Development, and Aid in Asia and Africa , Bloomsbury, 2024)、そちらではサブタイトルが「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助」とされおり、本書のサブタイトルとは異なっている。両者を合わせて、「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助の様相に「東アジアの奇跡」の起点を探る」とでもしてみれば、本書のねらいははっきりしてくるであろう。

 そのねらいは、秋田による序章で詳論されている。その柱は次のようになろう。従来、石油危機によるインパクトは先進工業国について論じられることが多かったが、本書ではアジア・アフリカの非ヨーロッパ諸国へのインパクトが重視される。非ヨーロッパ諸国の経済開発、発展の様相、さらにそれに関わった援助の問題を検討することによって、冷戦と脱植民地化という二つの視角から議論されてきた国際秩序論に今一つの視角を加えることが目指される。それによって、「東アジアの奇跡」(世界銀行が1993年に用いた表現)という状況が生まれてくる過程の起点も確認されることになるのである。以下、各章の内容を簡単に紹介しつつ、若干のコメントを加えていきたい。

 本論は、三つの章から成る第Ⅰ部「石油外交と冷戦」で始まる。

 第1章「石油危機とグローバル冷戦」は、このテーマに関する研究者として世界の第一人者であるといってよいデーヴィッド・ペインターの筆になり、62頁と最長の章である。著者は、これまでの冷戦研究が石油問題を十分に位置づけているとはいえず、他方石油危機に関する歴史研究も冷戦状況を看過している、という問題意識のもとで本章を執筆しており、第一次石油危機から第二次石油危機の後に及ぶまでの期間を対象に、国際政治経済の動態を、石油問題を軸とし、米国の姿勢を中心として描いている。さらに、本書の後の部分での主役となるオイルマネーの問題も丁寧に論じられており、いわば序章に次ぐ第二の総論としての性格をもっている。ただ冷戦との関わりで石油をめぐるソ連の政策についてもかなりの言及がなされているものの、米国についての分析と比べると物足りないという感が残る。また、第一次石油危機を扱った部分においては、国家と企業の関係に踏み込んだ立体的な議論がなされているのに対し、第二次石油危機に関わる部分では国家の政策に視線が集中して議論がやや平板になっているという感を抱いた。

 第2章「第三世界プロジェクト盛衰の支柱としての石油危機」の筆者デーン・ケネディは、米国におけるイギリス帝国史研究の第一人者であり、最近では、脱植民地に関する著書が、『脱植民地国家―帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社、2023年)として邦訳されている。筆者は、脱植民地化の進展の様相を描いた後、それによって生まれた国々を主力とする国家群が「第三世界プロジェクト」と呼びうる国際体制改革に向けての動きを起こしたことの重要性を指摘する。そうした動きを背景として、第一次石油危機が生じるとともに、1974年に国連での「新国際経済秩序樹立宣言」の採択が実現したのである。しかし、国際経済秩序の改変が進まぬまま、石油価格の高騰で苦境に陥った非産油国は、イラン革命によるイラン石油産業の混乱を起点とする第二次石油危機でさらに衝撃を受けることとなり、「第三世界プロジェクト」はついえてしまった。このように、脱植民地化過程のなかから生まれた「第三世界プロジェクト」に焦点をあてて70年代の時代像に迫ろうとする本章の議論に、筆者は大いに共感を抱くものである。ただ、国際経済秩序の提起に対抗する先進国側の動きが今少し書きこまれていれば、「第三世界プロジェクト」盛衰の動態がより明確になったのではないだろうか。

 第3章は、わが国における米外交史研究の泰斗で、秋田と長く共同研究をつづけてきた菅英輝の筆になる「東南アジア開発におけるアジア開発銀行の役割―冷戦と石油危機の文脈」である。ここでは、1966年に設立されたアジア開発銀行(ADB)が、第一次石油危機とほぼ軌を一にする形で、アジア開発基金(ADF)を設置した経緯が述べられた後、ADFの増資をめぐるドナー加盟国間のかけひきが、米国の姿勢を中心に据えながら描写される。ADBにおいて影響力をもった日本が、ADBの意向と「日米協力」のもとでの米国の意向との間で微妙な立場に立たされた状況の分析も興味深い。米国の動きが詳論されることで、ADBの活動を冷戦の文脈で考察するというねらいは達成されている。

 以上の三つの章を承けて第Ⅱ部「国際金融秩序と開発金融の変容」の二つの章が配置される。

 第4章は、やはり秋田と息のあった共同研究を行ってきた山口育人による「石油危機と「民営化された国際開発金融」」と題する章である。タイトルの「民営化された国際開発金融」という表現は、田所昌幸が用いた「民営化された国際通貨システム」という言葉を意識したものであり、そこで大きな役割を演ずるのは、第一次石油危機によって生み出された膨大なオイルマネーである。このオイルマネーが主として流入していった先が、西側先進国の民間金融市場であり、そうした民間資金が、60年代末に停滞をみせはじめていた先進国のODAに代わって、途上国に対する開発金融で大きな役割を担っていくことになったのである。そのような状況が進むなかで、民間金融市場に対応できる途上国とそれができない途上国との間の違いが広がっていった。さらに山口は、ともにその前者の途上国であった韓国とブラジルが、第二次石油危機に際して、工業化戦略の違いからさらに分化していく様相をも扱う。それにより、ケネディが指摘した「第三世界プロジェクト」衰微の要因に迫っているのである。

 第5章「1970年代の大循環―ユーロダラー、オイルマネー、融資ブーム、債務危機、1973-82年」は、国際経済史の専門家として日本の問題にも通暁したマーク・メツラーが執筆している。山口が強調していたオイルマネーの国際的な動きの具体像はこの章で描かれており、「オフショア・米ドル・システム」の問題として詳述されている。それを軸としてこの章で提示される1970年代像はかなり包括的であり、序章、第1章とならんで、本書の全体像をつかむ上で重要な章となっている。最後の部分で、クリスチャン・ズーターなどの研究を引きつつ、長期的な資本主義の歴史のなかに1970年代の変化を位置づける試みを行っていることも、重要である。ただ、第一次産品産出国が置かれた位置については、しばしば言及されるものの、突っ込んだ議論はなされていない。たとえば、ささいな表現の問題であるかもしれないが、「オフショア・米ドル・システム」による「信用拡大は、新植民地主義によるある種の「トロイの木馬」として理解されるようになった」と述べつつ、それ以上の議論がなされていない、といった点に食い足りなさが残るのである。

 これに次ぐ最後の三つの章が、第Ⅲ部「冷戦、開発と経済援助」を構成する。三つの章は、それぞれ特定の国家を対象としている点で、第Ⅱ部までとは異なる様相を呈している。

 まず検討されるのが、中国であり、新進気鋭の研究者南和志による第6章「世界エネルギー危機と中国石油外交」である。本章の分析対象は石油政策に絞られており、60年代に産油国としての相貌を明らかにしていた中国が、石油生産量増加を図るために、技術輸入や海底油田開発に力を入れつつ、その過程で資本主義圏、とりわけ米国との結びつきを進めていった様相が描かれる。中国の石油政策がある意味場当たり的であったからこそ、金融危機で改革開放路線が終焉に追い込まれることもなく、他方で世界経済から孤立してしまうこともなかった、という結論部分での議論は、一見意表をつくものであるが、同時に説得的でもある。

 本書の編者秋田が、次の第7章「インドの「緑の革命」・世界銀行と石油危機―化学肥料問題を中心に」を担当している。この章の対象はインドの農業問題であり、60年代末にはじまった「緑の革命」のもとでの農業振興の重要な条件となった化学肥料の集中的な大量使用を実現するために、インド政府がとった政策が分析されている。化学肥料のための最大の資金源はインド政府自体であったが、国際金融機関としては世界銀行がきわめて大きな役割を演じ、また第二次石油危機後の国際収支危機をめぐってはIMFからの金融支援が重要な意味をもった。この問題の検討を通じて、秋田は、インドにおける「緑の革命」の意義の再評価という年来の主張を改めて展開する。それは確かに首肯できるものであるが、インド経済のパフォーマンスについての政府自身による評価には、今少し批判的な検討を加えることが必要ではないであろうか。

 最終章となる第8章は、イギリスでのアフリカ経済史研究を代表する研究者の一人、ギャレス・オースティンによる「商品価格高騰に直面したガーナとケニヤ―ナショナルとグローバルの交錯」と題する章である。オースティンは、ともにイギリスの植民地としての位置から独立したガーナとケニヤの70年代における経済状況を比較し、比較的安定した経済活動を示したケニヤと、大幅なインフレに見舞われたガーナの違いを生み出した背景を、為替レートの問題をはじめとして、多様な要因にわたって検討している。政治指導層内部における農業利害関係者の有無が問題になるという点の指摘など、興味深い論点も多いが、結局のところは、「石油価格の衝撃自体よりも、ナショナルな対応の方がより重要であった」という一文で結ばれていることに示されるように、両国内での政策選択が最大の問題であるという結論となっており、章のサブタイトルの「ナショナルとグローバルの交錯」という視角が後景に退いているという感は否めない。

 以上、本書の内容を評者なりに要約し、簡単なコメントを加えてきた。全体としてみた場合、二度の石油危機が非ヨーロッパ諸国にもたらしたインパクトに重点を置いて、1970年代における国際秩序の変容に新たな光をあてようとする本書のねらいは、かなり達成されていると思われる。石油危機で生み出されたオイルマネーの動きが浮き彫りにされている点など、この課題に迫る上で大きな効果をもっていると感じた。ただ、「東アジアの奇跡」の起点を探るという点に絞ってみると、確かにかなりの示唆はえられるものの、「奇跡」の主体となった国・地域の様相について、本書の枠組みのなかでの分析が今少し欲しかったという感はぬぐえない。その点で、英語版には収録されている佐藤滋によるマレーシアとシンガポールを扱った章が、本書には掲載されていないのが残念である。

 本書の各章は、それぞれ独立した内容をもつものであるが、章同士の連関を各筆者がよく意識しつつ執筆しているということが随所で感じられることも、本書の大きなメリットであるといってよい。共同研究の組織者であり本書の編者である秋田の労を多とするものである。

(「世界史の眼」No.61)

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「世界史・東欧史研究優秀論文」学部卒業論文/大学院生論文の部 募集について

  一橋大学大学院社会学研究科秋山晋吾研究室は、2024年度に世界史・東欧史研究者である南塚信吾氏(千葉大学・法政大学名誉教授、NPO法人世界史研究所元所長)からの寄附金を基に、「一橋大学世界史・東欧史研究奨励基金」(通称:南塚基金)を設立しました。基金では、世界史・東欧史研究の発展のために、大学院生を対象とした優秀論文の表彰、ならびに、大学院生の日本国外への調査研究渡航費の助成をおもな事業として実施します。

 この度、第1回目となる2025年度の「世界史・東欧史研究優秀論文」(大学院生対象)の募集を開始しました。多くの応募をお待ちしています。また、関心のある方への情報提供にもご協力いただければ幸いです。

【対象となる論文】

・学部卒業論文の部: 
 日本国内の大学の学士課程を2024年度末までに卒業した者で、2024年度または2025年度に大学院修士課程(博士前期課程)に進学し、在籍中の者(年齢・国籍は問わない)が執筆し、提出・受理された学士課程卒業論文(日本語または英語)。ただし、世界史または東欧史をテーマとするもの。

・大学院生論文の部: 
 応募時に日本国内の大学院修士課程(博士前期課程)または博士後期課程に在籍する者(年齢・国籍は問わない。ただし、在籍している課程以外の大学または課程において博士号をすでに取得、または、単位取得退学した者は除く。)が執筆し、2024年度(2024年4月から2025年3月まで)に日本国内で刊行された学術雑誌に掲載された研究論文(日本語または英語)。ただし、世界史または東欧史をテーマとするもの。

※実施主体は一橋大学ですが、応募資格は、いずれも一橋大学大学院の在学生に限定されません。

2025年度「世界史・東欧史研究優秀論文」ウェブサイトhttps://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin.html
 募集要項 (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/ronbun-2025.pdf
 別紙様式A(学部卒業論文の部) (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/yoshiki-A.docx)
 別紙様式B(大学院生論文の部) (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/yoshiki-B.docx)

応募締め切り:2025年5月20日(メール添付での提出)

詳細は、上記ウェブサイト・募集要項をご覧ください。

問い合わせ・提出は、akiyama.shingo@r.hit-u.ac.jp(一橋大学:秋山晋吾)まで。(@を小文字にして下さい)

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