今号では、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その4)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。また、藤田進さんに、ガザ戦争を扱った「2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺」をお寄せ頂きます。
藤田進
2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺―4人のイスラエル人人質救出と引き換えのパレスチナ住民230人の殺害
(掲載準備中です。しばらくお待ち下さい)
今号では、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その4)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。また、藤田進さんに、ガザ戦争を扱った「2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺」をお寄せ頂きます。
藤田進
2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺―4人のイスラエル人人質救出と引き換えのパレスチナ住民230人の殺害
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北前船は、船主、船頭、知工(ちく)、表(おもて)、片表、親司(おやじ)、若衆(わかいしゅう)、炊等(かしき)から構成されていた。船頭が最高責任者で売買も差配した。船主が船頭になる直乗(じきのり)もあった。知工は事務長で、荷物の受け渡しを管理し、経理を司った。表は航海士、親司は水夫長、若衆が一般の水夫で、炊等は雑用をする水夫見習であった(牧野 1979 66-68頁)。ある湊で買い込んだ品を別の湊で高く売って利益を得ながら、下ったり(大阪から北国へ向かう)上ったり(北国から大坂へ向かう)したのである。これを買積みという。そして、その売買を指揮したのが、船頭であった。
19世紀の初めには北前船は以下のような買積み活動をしていたと考えられる。
《下り》
北前船は大坂で冬を越す。春になると、周辺でできる綿製品や京都でできる呉服や京焼などを積んで出発する。瀬戸内海を西進し、神戸、岡山、広島の諸港で綿製品や塩を買入れる。下関を経て、関門海峡を通って、日本海側に出る。島根の境(鉄)や石見(石見焼きと石州瓦と)や出雲(木綿と木材)で特産物を買入れて、北上する。能登半島の輪島では漆器を買い入れる。岩瀬では薬を仕入れる。新潟では鉄を売って米、むしろを買う、酒田では米や紅花などを買い入れる。途中で、高く売れる品を売りさばいていく。こうして夏に蝦夷に着く。松前の会所を経て、松前、箱館、江差などの港に入り、持ってきた品物を売りさばく。松前藩の入用なものを除いて、商人は、各自の「場所」へ持ち帰って、アイヌとの交易で、肥料用ニシンや昆布を入手する。
《上り》
松前、箱館、江差の港に入った北前船は、肥料ニシンや昆布などを仕入れて、秋口になると南下する。途中、酒田や新潟ではニシンを売って米を仕入れ、岩瀬ではニシンや昆布を売って薬などを仕入れる。能登では漆器などを仕入れる。そうして下関に戻る。ここではかなりの昆布を降ろし、大坂など瀬戸内各地の市場情報を入手する。それから、広島、岡山、神戸などで肥料用ニシンを売ったり、大阪で売れる品を入手する。そして、晩秋から冬に大阪へ戻り、ここの問屋を通して米や肥料用ニシンや昆布や各地で買った特産物を売りさばく。そして大坂で冬を越す。
《長崎》
一方、下関で降ろされた昆布などは、別の船で長崎に運ばれ、会所を経て、中国に売られ、代わりに生糸、薬種などの唐物を買い入れる。この唐物は、大阪の道修町(どしょうまち)へ運ばれ、そこの問屋から全国に販売される(植松 2023 89-90頁を参考に加工した)。
こういう物流の中で、長崎へのルートは対中国貿易として重要であった。
南方の中国への輸出入は基本的に長崎を経由した。1633年、35年、39年の幕府の指令により、ポルトガルなどとの貿易と人の往来が制限され、ついに長崎のみにおいてオランダと中国との交渉が認められるに至っていた。その長崎支配の中心は長崎奉行で、その下に町年寄を筆頭とする地役人の組織があった(荒野 2013 220-225頁)。これが「長崎口」であった。
長崎貿易においては、中国からの薬種や雑唐物(紙、羊毛識、生糸、絹織物)などの産品と交換に、日本からは銀が輸出されていた。だが、銀の国内産出が減退した結果、17世紀中頃から銀に代わって銅が輸出された。しかし数年間好調だったこの銅輸出も17世紀末には頭打ちとなり、銅を補うために俵物・諸色海産物が登場した。海産物の中国向け輸出は少なくとも1660年代に始まっていたという。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。これら三品のうち、中国向けで最も重要な産品が昆布であった(菊地 1994 185-189頁;上原 2016 44頁;函館市地域史料アーカイヴ)。
長崎貿易は幕府が貿易のすべてを管理する幕府の官営商業であった。中国との貿易については、1688(元禄元)年、幕府は貿易を管理するために長崎郊外に「唐人屋敷」を建て、翌年から5000人近くの中国人(唐人)をここに収容し、出入りを厳しく制限した。ついで、1698(元禄11)年、幕府は銅輸出の陰りを踏まえ、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。この年、幕府は俵物支配役と俵物総問屋を置いて各地から俵物を集荷する仕組みを整え、長崎には奉行所の監督の下で貿易の事務を扱う長崎会所を置いた。18世紀にはいると、銅輸出は停滞し、俵物・諸色の需要がますます高まった。中国ではとくに風土病のためにヨードを含む昆布への需要が大きかったのである(荒野 1988 99頁;神長 2022 54―55頁)。
このように管理された長崎貿易に対して抜荷(密貿易)が横行し、1686-91年、1704-10年、1720-31年と頻発していた。抜荷とは、幕府によって管理された長崎貿易を通さない貿易がすべてそうであった。それは主に長崎の下層住民を中心にして、長崎沖で、中国船を相手に行われていた。扱われる品は、中国からの生糸、紗綾(さや=絹織物)、薬種といった唐物と、蝦夷からの俵物・諸色であった。このうち、生糸、紗綾などの品質が悪化し価格も高騰すると、薬種や荒物などが増えた。抜荷に対して、まず、幕府は唐物の輸入を管理しようとした。とくに唐薬種はそうで、幕府は享保年間(1716-35年)に、長崎に入った唐薬種をすべて大坂に集荷させ、そこから問屋を通して全国に売り捌く統制体制を整備した。しかし、18世紀半ばには、このルートを経ない不正の唐薬種が出回った。唐薬種は長崎から大阪へ回らず、一部が長崎で売られたり、大坂の問屋が幕府の了解を得ずに勝手に各地へ売り払ったりした(荒野 1988 67-112頁;上原 1990 97-103;161-165頁)。これは薩摩が長崎を経ずに唐薬種を売りさばくもので、薩摩藩営の密貿易(抜荷)であった。一方、俵物・諸色の抜荷については、幕府は、取り締まりをさらに強化し、1785(天明5)年には会所の下に長崎俵物役所を置き、この役所が俵物や諸色を各地から直接集荷するようにした。同時に幕府は各地に俵物巡見使を派遣して抜荷を厳しく取り締まった(菊地 1994 186頁;神長 2022 55頁)。北前船の多くは、蝦夷から大坂へ俵物や諸色を持ち込んだが、大坂と長崎を経ないで、直接薩摩へ持ち込む場合も現れ、ここでも抜荷は消えなかった。
この長崎貿易と直接競合する関係にあったのが、薩摩藩の支配する琉球を経た対中貿易(進貢貿易)であった。
《琉球口》
琉球は、1609年(慶長14年)に薩摩の島津氏に制圧されて以来、17世紀の前半に、島津氏の直接支配を受けながら、明と徳川幕府の両方に朝貢する地位を確定していた。その中で、島津氏は琉球への渡航やキリスト教国の船の寄港禁止など「海禁」の体制を整備した(荒野 2013 150-152頁)。これが「琉球口」であった。
薩摩藩も琉球王国もともに財政難にあった。薩摩藩は、財政難を乗り越えるために、安易な方法として、琉球などを犠牲にした。まず、薩摩は、琉球や奄美諸島で産する黒糖から藩の収入を得ようとした。とくに黒糖は奄美諸島に特化させて、琉球から切り離し、島津の直轄とした。つぎに、1631年(寛永8年)以後、琉球王国が中国と行う進貢貿易に積極的に介入して、生糸、巻物(織物)、薬種など唐物を入手した(荒野 1988 140-145頁;上原 2016 19-23頁)。藩は、琉球貿易に必要な経費の半分を負担し、対中貿易による利益を自分のものにした。
しかし、薩摩藩・琉球と幕府の関係は微妙であった。そもそも輸出も輸入も長崎以外での取引は抜荷であったが、幕府は琉球と中国の進貢貿易は容認していた。とくに生糸と薬種の輸入を確保しておきたかった。ただ、幕府は薩摩が琉球を通して行う対中貿易と国内販売の品目と数量を制限し、長崎貿易に一本化しようとした。また薩摩が、生糸などを除いて、琉球貿易で輸入した品を他領で販売することを禁止した(菊地1994 189-190頁;上原 2016 35-42頁)。
だが、18世紀にはいると日本国内で生糸や絹織物の生産が広がり、18世紀後半には中国産の生糸の質が低下すると、琉球貿易で入った生糸などの市場が縮小し、薩摩にとっての利益も上がらなくなった。この貿易不振に対する対策の一つが、輸入品の生糸から薬種などへの転換であり、いま一つが、銀や銅での支払いに代えて、俵物や昆布をあてることであった。俵物や昆布が長崎を経ないで、薩摩から琉球を経て中国へ輸出されるようになった。そういう抜荷が広がったために、上述のように幕府は1785年(天明5年)、俵物と昆布を長崎会所が独占的に仕入れる体制をうちたてたのである(上原 2016 44-48頁)。幕府は、琉球口を長崎口を補完するものとして組み込もうとしたのである。しかし、薩摩藩はそれに対抗し、琉球王国も独自の貿易を追求しようとした。
こうして幕府は薩摩藩、琉球王国、そして長崎会所の間で、やり取りをしながら、統制された長崎貿易体制を維持しようとしたが、綻びは各所にあった。その最大の問題が抜荷であった。薩摩藩は様々な形で抜荷を行ったのである(徳永 1992 5頁)。
コラム:平岩弓枝は、1787年(天明7年)に新潟で薩摩の抜荷が摘発された事件を巡って、『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』という興味深い小説を書いているが、この抜荷摘発は確認できない。
《薩摩藩と琉球》
薩摩藩は、秀吉の九州征伐、江戸城修復の手伝い、参勤交代などによって、おおきな財政赤字を抱えていた。それを緩和するために、琉球王国が中国と行う進貢貿易で得られる生糸や薬種の販売から利益を得ようとした。
琉球口の進貢貿易で輸出する物産では、長崎口と同様、18世紀にはいると、銅が不足し、かわりに昆布が重視された。しかし、輸出用の昆布はどのようにして薩摩が入手し、それが琉球に運ばれたのか。それは海商たちの抜荷によるところが大きかった。海商たちは大坂や下関で蝦夷から来る昆布を買い取り、それを琉球へ運んだりした。大阪の問屋を通さずに買い付けたのである(上原 1990 178-182頁)。
一方、中国からの輸入では、唐薬種が中心であった。1780年代から、薩摩は、琉球に入る唐薬種も含めた薬種を、長崎へ持ち込まず、大坂などで販売していたが、そこには抜荷の薬種も入る余地があった。また、琉球王国自身も直接大阪へ売ろうとしたり、抜荷を認めたりしたので、薩摩は琉球と幕府の双方に対応しなければならなかった。幕府は不正品の流通を絶つべく1803年には長崎から大坂などへの流通の管理を強化した(上原 1990 169-177頁)。
幕府と薩摩藩の争いは続いたが、薩摩藩は、1792年のロシア使節ラクスマンの根室到来以来の北方の危機を材料に、南方での政策転換を求め、ついに1810年(文化7年)に長崎貿易に割り込み、翌年には5年期限ではあるが、生糸、絹織物の外に唐物販売権の数量増加(8品目)を幕府に認めさせた。その後1818年(文化15年、文政元年)にはさらなる増加(3品目)を3年期限で勝ち得て、1825年(文政8年)には琉球口の公許唐物免許品は合計16品目となった。これには長崎貿易の主力品である薬種も加わっていた(深井 2009 69頁;上原 2016 186-188頁;徳永 2005 118-120頁はやや違う)。同時に、薩摩藩は琉球に対しては、朝貢貿易で入手した唐物の一手買い入れを求めた。琉球側は、中国との貿易は、渡唐役者(中国貿易に携わる役人)や船主たちが貿易から得られる儲けの一部を得られる形で行われているので、薩摩による一手買いはその儲けをなくすという理由で、これを拒否した。しかし、薩摩は強硬にこれを求め続け、ついに1819年に強行した(上原 2016 130-133頁)。
19世紀の初頭から始まる藩の改革は、財政赤字を補填するために、藩内の農民負担を増加したり、奄美諸島の黒糖を買い上げたりしたが、琉球を経由した中国貿易は薩摩藩にとって藩財政を建て直す重要な事業であった。それは、長崎商法の拡大と、唐物の一手買いによって進められたが、この間に薩摩藩は天草の豪商石本家を取り込んで、同家の資金力で借金をしたり、幕府その他を買収したりして、事を進めたのであった(上原 2016 142-157頁)。
そして、薩摩は、文政期(1818-29年)以降、抜荷を推進していたようである。これが次に問題となる。
1827年(文政10年)に調所笑左衛門が薩摩藩の財政再建を担うようになってから、対中貿易は促進された。調所は農民収奪を効果的にするために農政改革を行い、南島の黒砂糖の生産・流通管理を強化したが、もっとも頼りにしたのが、対中貿易であった。藩は従来の路線で、長崎での唐物の売り捌き品目と数量の拡大を求め続け、1825年(文政8年)に5年限りで許可品目が合計16品目になっていた(これは1829年には5年間延長となる)。同時に、薩摩は琉球での買い占めも強化し、1826年に、藩から人員を派遣して、琉球に唐物方御座を設置して、長崎商法で認められた計16品目の調達と、一手買入れを確実にしようとした(上原 1990 209-213頁;上原 2016 162―165頁)。
だが、薩摩にとっても利益の多かったのが、藩営の抜荷(密貿易)であった。琉中間の進貢貿易は幕府によって認められていたが、そこで薩摩の得た薬種など唐物は、長崎の会所での手続きをして、その後大坂などへ運ばれて売買されるのが、規則に沿った売買ルートであった。そのようなルートにのらない交易は抜荷なのである。薩摩は、進貢貿易によって得た薬種などの唐物を、長崎を経ないで、大坂のほか、新潟へ運んで、抜荷として売りさばいた。一方、この時期、薩摩藩は、なんらかのルートで蝦夷からの俵物などを密売買していた。
肥前平戸藩主松浦静山が書いた『甲子夜話』に1826-27年の出来事が記されている。それによると、1826年(文政9年)、越前の蓬莱屋の持ち船寳力丸が3月に松前行き、そこから蝦夷地の三ツ石に入り、昆布を仕入れ、それから8月に松前を出て、9月に薩摩へ向かったが、長崎の松島沖で暴風雨に遭って、遭難したという(上原 1990 214頁)。これは、越前の北前船を利用して松前から昆布を薩摩へ直接運んでいたことを示すものである。ここにやがて新潟が重要な拠点となってくる。
幕府が貿易独占のために行っていた長崎貿易に薩摩藩は対抗していたのであるが、このため長崎貿易に依存していた中国商人からは不満が寄せられていた。しかし、それでも薩摩が琉球をとおして抜荷する昆布は、品質が良く、しかも安価であったから、中国では広く流通していた(徳永 1992 4-5頁;徳永 2005 167―168頁)。
この間じょじょに北前船が活躍するようになってきた。
すでに述べたように、北前船が長崎まで行くようになって、長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)。長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。
ところが北前船が蝦夷の昆布を直接薩摩に運ぶようになったのはいつか。はっきりしない。量的にはっきりしているのは1799年頃からである。薩摩藩は、1804年頃から新潟の廻船問屋を介して、北前船で買い込んだ大量の昆布などを、琉球を通して中国で売りさばいた。あるいは、北前船は蝦夷で昆布を積んで薩摩まで行った。ただし薩摩で北前船は終わり、そこで積み替えて、薩摩の船で琉球へ運んだ。琉球は異国であり、また琉球への渡航は禁止されていたのである(読売新聞 1997 62-63、73頁)。北前船はここでは抜荷に関係していたわけである。
昆布が薩摩へ運び込まれていた様を、松浦静山の『甲子夜話』が記録している。1826年(文政9年)3月、越前国丹生郡下海浦の蓬莱屋庄右衛門の持ち船寶力丸700石が、沖船頭喜右衛門以下9人で、蝦夷の松前へ行き、三ツ石で昆布を仕入れ、8月に出発した。西回り航路を取って、若狭国丹生浦(にうのうら)、但馬国柴山を経て、9月に薩摩へ向かった。しかし、薩摩の松島沖で嵐に遭遇して漂流した。そして清国に漂着したが、漁民に助けられて、1827年8月に生還した(上原 1990 213-214頁)。
このように、薩摩藩の密貿易には、越前のほか、越中、越後の北前船が関係し合っていた。越中の売薬がここに入ってくるのは、この後である。
荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』エイチアンドアイ 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
北日本新聞社編集局編『昆布ロードと越中 海の懸橋』北日本新聞社 2007年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
平岩弓枝『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』講談社 2006年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部 1997年
函館市地域史料アーカイヴ
https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040
(「世界史の眼」No.55)