本書は、駒形丸事件というそれ自体を取れば小さな事件の中に、さまざまな地域や社会や国のつながりからなる世界史の全体像を見渡そうとする野心的な試みである。
1 駒形丸事件とは
駒形丸事件とは、1914年、北アメリカ(カナダ)へのインド人移民希望者を乗せた駒形丸がバンクーバー港への入港を拒否され、結局、インド・カルカッタ(今日のコルカタ)にインド人船客を輸送することを余儀なくされた事件である。
駒形丸は1890年にイギリス(グラスゴー)で建造された総トン数3058トンの貨客船で、1914年当時は日本の神栄汽船の所有であった。1914年3月、インド人実業家グルディット・シンが香港で神栄汽船と駒形丸の傭船契約を結び、カナダへのインド人移民希望者を輸送することになった。駒形丸の船長と乗員42人はすべて日本人であった。
1914年4月、駒形丸はインド人船客165人を乗せて香港を出港、上海、門司を経由して横浜に入港した。各港で船客を受け入れ、最終的に船客は376人に達した。船客全員がインド・パンジャーブ州の出身で、そのうちシク教徒が340人であった(シク教は16世紀のパンジャーブで、ヒンドゥーの諸宗教やイスラームを融合して創始された宗教で、総本山は後出アムリトサルの「黄金寺院」)。
5月3日、駒形丸は横浜を出港し、5月21日にはバンクーバー港外の検疫所に到着した。検疫所で燻蒸証明書が出されたので、23日、駒形丸はバンクーバー港に入港しようとした。しかし、移民局によって入港を拒否され、港外に停泊せざるをえなかった。船客、乗員は下船を認められなかった。その後、移民局との交渉が続けられ、一人の船客の入国をめぐって裁判まで行われたが、入国を認められなかった。そのため、他の船客は入国審査を拒否し、結局、駒形丸は7月23日にバンクーバーを退去することになった。駒形丸は横浜(8月15日)、神戸(8月20日)、シンガポール(9月16日)を経て、9月25日、英領インド・カルカッタ(今日のコルカタ)付近に到着した。途中、下船者などもあり船客は321人に減っていた。
9月29日、フーグリー川を遡上した駒形丸は、カルカッタ(コルカタ)の下流20キロメートルほどのバッジ・バッジ港に停泊した。フーグリー川はガンジス川から分流してベンガル湾に注ぐ川で、カルカッタはその左岸に位置する。バッジ・バッジ港で、インド政庁は船客に対して、特別列車に乗り換えてパンジャーブに行くよう要請したが、大部分の船客はそれを拒否して、徒歩でカルカッタに向かった。しかし、5キロメートルほど行ったところで警官隊や軍に阻止され、バッジ・バッジに戻ることになった。その夜、突然、銃砲の音が響き、双方の間に衝突が発生した。この衝突と銃撃により、船客20人などが死亡、多数の負傷者も出た。船客の多くは逮捕されたが、グルディット・シンなど28人は現場から逃亡した。
駒形丸事件にかんする本書の詳細な記述を要約すると以上のようになる。
2 駒形丸事件の世界史的背景
本書の特徴は、この駒形丸事件を「インド太平洋世界」の広い国際関係の中に位置づけることによって、第一次世界大戦前後の時代像を描き出そうとしている点にある。
駒形丸事件の一つの世界史的背景としては、19世紀後半から20世紀初頭の北アメリカ(アメリカ、カナダ)におけるアジア系移民排斥の動きがある。1848年、北米カリフォルニアで金鉱が発見されてゴールド・ラッシュが起こり、中国人移民が急増した。その後、1857年にはカナダ(ブリティッシュ・コロンビア)でも金鉱が発見されて、カナダへの中国人の移動が始まった。1870年代には、カナダの東海岸と西海岸をつなぐカナダ太平洋鉄道の建設が進められたが、その労働力として中国人移民は不可欠であった。しかし、1885年にカナダ太平洋鉄道が完成すると、中国人移民に対する制限措置が取られるようになった。同年7月、カナダに到着した中国人に50ドルの人頭税が課せられることになり、その額が1900年に100ドル、1903年には500ドルに引き上げられた。その後、中国人移民に代わって、日本人移民が増大したので、1908年、カナダ政府は日本政府と日本人移民を年間400人に制限する協定を結んだ。当時、イギリスは日本と日英同盟を結んでいたので、イギリスの自治領としてのカナダもこれに拘束されていたから、中国人移民に対するような一方的な政策をとることができなかったのである。インド人移民の制限には、さらに複雑な問題があった。イギリスは、「1857年インド大反乱」が終息した1858年、インドを直轄植民地とした。これによって、インド人はイギリスの「帝国臣民」として、イギリス(大英帝国)版図内を自由に移動することができるようになった。したがって、カナダ政府もインド人移民を拒否することができないはずであったが、当時、イギリスからの自立を志向していたカナダはさまざまな方法でインド人移民を制限しようとした(本書には、その過程が詳述されているが、複雑なので省略する)。駒形丸事件はこのような状況の中で起こった事件で、結局、カナダ側のインド移民制限政策が成功したということができる。
カナダによるインド人移民排斥にはもう一つの要因があった。1900年代初頭、アメリカ東海岸のインド人の間で反英民族運動が始まり、それが西海岸のシク教徒を中心とするインド人移民労働者の間にも広がっていった。1913年には、サンフランシスコで彼らの運動組織ガダル党(Ghadar Party)が結成された(「ガダル」はアラビア語起源の言葉で、「反逆」の意)。ガダル党の組織はカナダにも広がっていったために、カナダ政府もインド人移民の動向に注意を払っていた。駒形丸の船客とガダル党の間には直接的な関係はなかったようであるが、ガダル党の中心になったのがパンジャーブ出身のシク教徒だったので、カナダ政府は駒形丸のシク教徒船客に対して厳しい対応をしたのであろう。
このシク教徒の問題は、イギリスにとって、さらに大きな広がりを持っていた。イギリス・インド軍(Indian Army)は1914年の第一次世界大戦勃発時、約20万人の兵員で構成されていたが、その主力がパンジャーブのシク教徒だったからである。ガダル党員はインド、特にパンジャーブに潜入するとともに、武器弾薬などをインドに密輸して、イギリス・インド軍兵士に反乱を呼び掛ける活動などを行った。インドに入ったガダル党員の数は8000人に上ると推定されている。このガダル党員の動きを遠因として、1915年2月、シンガポールでイギリス・インド兵の反乱が起こった。パンジャーブ出身のムスリムの兵士800人ほどが兵営を占拠し、捕虜とされていたドイツ人兵士などを解放した。イギリスは反乱鎮圧のために日本の援助を求め、日本の軍艦二隻がシンガポールに急行した。反乱は一週間後にほぼ制圧された。
第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力の見返りとして、戦後に大幅な自治権を認めると約束していたが、それを反故にして、インドの自治要求運動に対する弾圧を強化した。それにより、インドの反英民族運動は逆に激化し、特にイギリス・インド軍兵士を多く出したパンジャーブでは大きなデモや集会が繰り返され、一部には暴力行為も起こった。そんな中、1919年4月13日の夕方、アムリトサルのジャリヤーンワーラー・バーグ広場での集会に参加していた約二万人の大群衆に対して、ダイヤー准将率いる軍隊が無差別の発砲を行い、死者1200人、負傷者3600人を出す大惨事を引き起こした。このいわゆる「アムリトサル事件」によって、インドの反英民族運動はさらなる高揚を見せた。
3 インド史における駒形丸事件
駒形丸事件とその世界史的背景について、日本におけるインド(南アジア)通史ではどのように扱われてきたのかを、以下の3冊を取り上げて検討してみたい。①山本達郎編『世界各国史Ⅹ インド史』(山川出版社、1960年)、②辛島昇編『新版世界各国史7 南アジア史』(山川出版社、2004年)、③長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社、2019年)の3冊である。
①には、駒形丸事件とシンガポールのインド兵反乱についての記述はない。ガダル党については、「北米のインド人移民・亡命者たちが祖国のパンジャーブと連絡を取って、インド各地に革命を起こそうと試みたテロリストの流れをくむ運動—北米で発行した機関誌の名をとってしばしば『ガーダル』(反乱の意)運動とよばれる—もたしかに存在した」(314頁。松井透執筆)という記述がある。ただ、インドの反英民族運動「本流」からは外れた動きという印象を受ける書き方である。①に特徴的なのは、「アムリトサル事件」について4ページにわたって極めて詳細に記述されていることである(371-374頁)。
②にも駒形丸事件への言及はないが、ガダル党とシンガポールのインド兵反乱については、次のような記述がある。「暴力革命派の活動も活発であった。インド人兵士が武装反乱を起こし、イギリス支配の転覆をはかるという、一八五七年の大反乱モデルにならった反乱党の計画も立てられた。この計画は一九一五年二月、政府に摘発されて国内では未遂に終わる。〔中略〕シンガポールでも一五年、反乱党の計画につながるインド兵士の反乱がおこり、イギリスは日英同盟を利用して、日本軍の援軍によってやっと鎮圧したほどであった」(379—380頁。長崎暢子執筆)。ただし、ガダル党そのものについては何の説明もないので、一般の読者にはちょっと分かりにくいであろう。②における「アムリトサル事件」の記述は、①とは対照的に極めて簡略で、数行にとどまる(386頁)。
③の該当箇所の執筆者は②と同じなので、記述内容だけではなく、文章そのものもほぼ同じである。ただし、②の近・現代南アジア史の部分がB6版で123頁なのに対して、③はA5版468頁全体が近・現代南アジア史である。それにもかかわらず、ガダル党、シンガポールのインド兵反乱そして「アムリトサル事件」に関する記述の量は両書で同じである。ということは、③ではこれらの出来事に関する記述の比重が極めて低下しているということである。
以上のような状況は、次のように理解することができるであろう。①が書かれた段階では、まだ現地南アジアにおけるインド(南アジア)研究が十分に発達していなかったので、イギリス人研究者による英印関係史やインド国民会議派的なインド民族運動史に依拠せざるをえなかった。そのため、「アムリトサル事件」に多くのページが割かれ、ガダル党のようなインド国民会議派とは異なる路線の運動は軽視された。それに対して、②が書かれた段階になると、南アジア史の多様な側面が研究対象となり、英印関係史(国際関係史)的な記述が後景に退き、インド国民会議派以外の政治団体や社会運動にも多くの紙面が割かれるようになった。③が書かれた段階では、その傾向が一層顕著に進み、社会史、女性史、ジェンダー史などの記述が大幅に増大した。その結果、英印関係史(国際関係史)的記述の比重が極めて低下したのである。
これら3冊のインド(南アジア)通史の性格の変化を上のようにとらえられるとすると、そこには次のような一般的な問題があるように思われる。それは、歴史研究が国家や社会の内部やさらには個人の内面にまで深く入って行けばいくほど、それらを取り巻く外部の世界への関心が希薄化していくという問題である。あるいは、歴史の研究が精緻になって行けばいくほど、全体への関心が後退する傾向といってもいいかもしれない。
本書のような諸地域、諸社会、諸国家のあいだを結ぶつながりを重視するグローバル・ヒストリーの歴史記述は、そのような歴史研究の趨勢に対する批判となりうるであろう。しかし、同時に、一個人、一地域、一社会、一国家の歴史の中に深く沈潜しようとする歴史研究との間をどう架橋するかという課題が今後に残されているということができると思う。人々の幾重にも重層化した生活世界の最も外側の層がグローバルなつながりなのであるから。
(「世界史の眼」No.14)