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「世界史の眼」No.14(2021年5月)

今号では、小谷汪之さんに、秋田茂・細川道久『駒形丸事件―インド太平洋世界とイギリス帝国』(ちくま新書、2021年)を評して頂きました。また今号より、昨年筑摩書房より刊行されたシリーズ『世界哲学史』(全8巻)の書評を掲載して参ります。初回の今号では、大阪大学の栗原麻子さんに、古代にかかわる第1巻と第2巻を書評して頂きました。

『世界哲学史』シリーズの書評開始にあたって

栗原麻子
伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留編『世界哲学史1 古代1 知恵から愛知へ』(筑摩書房、2020年)、『世界哲学史2 古代2 世界哲学の成立』(筑摩書房、2020年)

小谷汪之
紹介・書評:秋田茂・細川道久著『駒形丸事件―インド太平洋世界とイギリス帝国』(ちくま新書、2021年)

筑摩書房によるシリーズ『世界哲学史』の紹介ページは、こちらです。秋田茂・細川道久『駒形丸事件―インド太平洋世界とイギリス帝国』の筑摩書房による紹介ページは、こちらです。

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『世界哲学史』シリーズの書評開始にあたって

 世界史研究所では、2020年に出版された『世界哲学史』(筑摩書房)のシリーズを数回にわたって全巻書評することにした。『世界哲学史』からは、哲学の分野においても、歴史の分野と同じような問題が生じていることが分かる。

 第一巻の序章「世界哲学に向けて」はその問題を率直に語っている。それによると、これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」という営みを根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」として呼ばれ、展開しているという。生活世界を対象とする哲学、多様な文化や伝統や言語の基盤に立つ哲学、自然環境や生命や宇宙から人類のあり方を反省する哲学が、「世界哲学」の名のもとに行われようとしているというのだ。

 では、何をするのであろうか。まず、地球上のあらゆる地域の哲学的な営みに注目し、 つぎに、人類・地球・宇宙という大きな視野と過去・現在・未来への時間の流れから、人間の伝統と知の可能性を見るのだという。

 このような「世界哲学史」の試みは、これまでの大学や学界での哲学の個別的専門化の伝統に反するものであり、「世界哲学史」は、哲学史を個別の地域や時代や伝統から解放して「世界化」する試みであるという。

 これまで「哲学史」は歴史学以上に「ヨーロッパ中心」であったようだ。それを乗り越えることがまず求められている。そして同時に、これまで哲学が扱ってこなかったか、十分には扱えなかった分野を、「世界哲学史」という場で扱っていこうとしている姿は、歴史にも通じるのではないかと思われる。それでは、どのような方法を取ろうというのであろうか。世界史でも方法は星雲状態である。

 編者によれば、「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならない。そこで、本シリーズでは、まず、
 ① 「異なる伝統や思想を一つ一つ丁寧に見ていくこと」を基本とする。
 ② 次いで、「それらに共通する問題意識や思考の枠組み、応答の提案など」を取り出して「比較」する。その一つは、「比較」を歴史の文脈の中で検討することであり、もう一つは、二者か三者の間の比較ではなく、「世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認」する。
 ③ その上で、「それら多様な哲学が「世界哲学」という視野のもとで、どのような意味を担うのかを考察するという。

 これを見ると、「世界哲学史」においても方法はまだ模索中であるようだ。「世界史」を考えるものとしては、「比較」に次いで、「関係」や「影響」や「相互作用」や「連動」という面も考えたいところではある。

 ともかく、こういう編者の狙い(というか「問題意識」)が本シリーズにいかに生かされてくるのか、「世界史」に関心を持つものとしては、注目せざるを得ないところである。

(南塚信吾)

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伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留編『世界哲学史1 古代1 知恵から愛知へ』(筑摩書房、2020年)、『世界哲学史2 古代2 世界哲学の成立』(筑摩書房、2020年)
栗原麻子

 『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房)で、ギリシアの世界像・世界史像についての一章を担当したご縁で、この度完結した『世界哲学史』の古代編について論評するようにおすすめいただいた。『世界哲学史』は、①世界史上の思想文化圏における「哲学史」を俯瞰し、②これまで人類が、通時代的・通文明圏的に、何を哲学の問題としてきたのかを比較し、③思想文化圏相互の影響を問う、という3つの側面を持っているように思われる。近年の潮流を新書でまとめて知り、ソフィストの活動の見直しが進んでいることなど、情報を手軽にアップトゥデートすることができる啓蒙書としても魅力的だが、ここでは、「世界哲学史」が、歴史学の「世界史」へのまなざしとどのように交錯するのかを、西洋古代史研究者による読書ノートとして書き留めておきたい。

 第1巻「知恵から愛知へ」では、哲学者ヤスパースのいう「枢軸の時代」、すなわち紀元前5世紀を中心とする数世紀間に、世界哲学上の主要な思想が同時発生的に勃興した状況が、「世界と魂」を共通テーマとして、西アジア、旧約聖書、ギリシア、インド、中国といった地域ごとに描かれる。ここではギリシア、中国、インドという3つの思想文化圏の相互交渉は、この時期には未だ控えめであるが、アショーカ王碑文や「ミリンダ王の問い」のような事例が、ヘレニズム期のインド哲学とギリシア哲学が「翻訳」によって相互に交流していたことを伝えている。大戸千之『ヘレニズムとオリエント』(ミネルヴァ書房)が論じたように、ヘレニズムがギリシア文明の波及ではなく、各地の文化との相互交渉であることは、いまや共通認識といってよい。本書が際立つのは、ヘレニズムという外的枠組に依存するのではなく、あくまでテキスト内部の解釈と「翻訳」に基づいて、体系化された思考がほかの文化圏に移植される様相を検証する点にある。第2巻「世界哲学の成立と展開」では、「善悪と超越」を共通テーマとして、ヨーロッパの思想的基盤が形成される後6世紀ごろまでが扱われる。ローマ帝国でギリシア哲学とキリスト教が交錯し、西アジアでゾロアスター教とマニ教が成立し、インドで大乗仏典が成立し、中国で「古典中国」が成立するなど、思想文化圏の姿がはっきりしてくる。この時期は、ビザンツ帝国でのキリスト教の東方拡大や、インドで成立した大乗仏教と中国の儒教との出会い、プラトン主義哲学の影響など、相互影響が顕著となり、「翻訳」を通じて哲学が「世界化」する時期として描かれ、全体として古代における思想のグローバルヒストリーとなっている。

 相互影響への注目だけでなく、「哲学史」を俯瞰し、脱西洋中心的な哲学体系を構築しようとする点でも、本書は、近年の歴史学と通じるところが大きい。本書は、神話や宗教儀礼から発展したものも含む「宇宙を含む世界の全体と私たち自身のあり方」を問う知的行為を哲学とみなす。この極めて広義の対象設定のもとでは、韻文も考察対象から排除されない。古代インドにおける世界と魂を扱う第1巻第5章では、叙事詩「マハーバーラタ」の哲学テクストも含めた、対話的な「哲学の技法」が取り上げられる。また、認識論と並んで、神学も考察対象となる。第1巻では、ヘブライズムへの目配りがなされ、第2巻では、世界を理解するための営みとしての神学が扱われる。大乗仏教も「東洋における哲学という名にふさわしい思想」である。ところが、弁論術を広義の哲学史に含めることが検討されるといった柔軟さをみせながらも、西洋哲学史の殻は固い。ヘシオドスの思想は「数学的素養」に乗っ取っていないので考察対象から除外され、キリスト教学は、窮理という意味での哲学ではないという但し書きつきで扱われる。世界を対象として哲学史を語るために、それぞれの研究領域において哲学の対象範囲をどこまで広げることが有効なのか、執筆者それぞれの判断が問われているのである。

 哲学史において哲学とは何かを問うことは、史学史において歴史とは何かを問うことに似ている。かつてギリシア史家村川堅太郎は、中国には自由な探求の学問としての歴史学が成立しなかったと述べた。それにたいして川勝義雄が、司馬遷の例を引いて反論したことはよく知られている(『中国人の歴史意識』(平凡社))。論争の焦点は、司馬遷に自発的探究心と独自の歴史意識を認めることができるのか、という点にあったが、歴史叙述についてのあまりにギリシア中心的な価値評価にも問題があった。今日、ギリシア史研究者のあいだでは、ヘロドトスによる世界像の集成やトゥキュディデスによる批判的叙述といった大歴史家の仕事とならんで、編年体で書かれた各地の年代記や金石文によるローカルな記録行為に注目が集まっている。柔軟で包括的な対象理解が、比較史的な考察を可能とするのである。哲学史も同様であろう。

 最後に、『世界哲学史』の構想は、先行する複数の哲学史をひとつに収斂することを目指しているのだろうか。おそらくそうではない。編者は、「世界哲学史」を構想するにあたって、哲学の「始まり(アルケー)」を問いなおす。それは、哲学とは何かを問うことに他ならない。「始まり」を問い直すことで、ヨーロッパ標準の哲学史の規範性を相対化し、「多元的で普遍的な「世界哲学」の起源論」を模索しようとする姿勢を見て取ることができる。『世界哲学史』の「多元性」と「普遍性」が、比較と関係性のもとに、立ち現れることになる。

 各思想文化圏に固有の「哲学史」もまた、大乗仏教成立史の批判的再検証(第2巻第5章)が示すように、それ自体がメタな分析の対象である。歴史学の場合にも、各思想圏のなかで形成されてきた史学史の系譜それ自体が批判的な検証に値する。一例を挙げるならば、羽田正は、近代歴史学の成立過程のなかで、マホメット以降の中東が「イスラーム世界」として、歴史を持たない文明を扱う東洋学のなかに投げ込まれ、すでに西洋的な世界史叙述のなかに組み込まれていたエジプト文明やメソポタミア文明、旧約聖書の世界と分断された、と指摘する。『世界哲学史』は、このような史学史上の枠組上の分断に制約されない。エジプト・メソポタミア文明からヘブライズムとヘレニズムへ至る、伝統的な地中海古代史の流れを踏襲しながらも、ギリシア哲学の影響下に、グノーシス派による二元論的なキリスト教が出現し、それがマニ教においてペルシア的な二元論と結合して、中国にまで伝播し、イスラーム化した西アジア内部で生き続けた継けたことが語られる。ミッシングリンクの復元には限界もあるが、テキストに記された思想によって文明をつなぐ手法が、説得的である。

 このように単線的でない系譜を描くことが可能となったのは、『世界哲学史』が、共通テーマによって各時代を輪切りにする構成をとっているためである。そこに、既存の世界史のストーリーから個々の事象を切り離そうとする意図を窺うことも許されよう。それは奇しくも羽田正が『新しい世界史へ: 地球市民のための構想』(岩波書店)において、世界史の再構築のために提唱した方法でもある。

 ラファエロの描く「アテナイの学堂」が西洋哲学史を体現しているとすれば、これからの『世界哲学史』は、どのような絵図を描くことになるのだろうか。『世界哲学史』の再編は、狭い意味での思想史にとどまらず、受容と伝播をめぐる現行の世界史を書き換えることにつながることが予感される。歴史学研究者の注視が必要となる所以である。

(「世界史の眼」No.14)

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紹介・書評:秋田茂・細川道久著『駒形丸事件―インド太平洋世界とイギリス帝国』(ちくま新書、2021年)
小谷汪之

 本書は、駒形丸事件というそれ自体を取れば小さな事件の中に、さまざまな地域や社会や国のつながりからなる世界史の全体像を見渡そうとする野心的な試みである。

1 駒形丸事件とは

 駒形丸事件とは、1914年、北アメリカ(カナダ)へのインド人移民希望者を乗せた駒形丸がバンクーバー港への入港を拒否され、結局、インド・カルカッタ(今日のコルカタ)にインド人船客を輸送することを余儀なくされた事件である。

 駒形丸は1890年にイギリス(グラスゴー)で建造された総トン数3058トンの貨客船で、1914年当時は日本の神栄汽船の所有であった。1914年3月、インド人実業家グルディット・シンが香港で神栄汽船と駒形丸の傭船契約を結び、カナダへのインド人移民希望者を輸送することになった。駒形丸の船長と乗員42人はすべて日本人であった。

 1914年4月、駒形丸はインド人船客165人を乗せて香港を出港、上海、門司を経由して横浜に入港した。各港で船客を受け入れ、最終的に船客は376人に達した。船客全員がインド・パンジャーブ州の出身で、そのうちシク教徒が340人であった(シク教は16世紀のパンジャーブで、ヒンドゥーの諸宗教やイスラームを融合して創始された宗教で、総本山は後出アムリトサルの「黄金寺院」)。

 5月3日、駒形丸は横浜を出港し、5月21日にはバンクーバー港外の検疫所に到着した。検疫所で燻蒸証明書が出されたので、23日、駒形丸はバンクーバー港に入港しようとした。しかし、移民局によって入港を拒否され、港外に停泊せざるをえなかった。船客、乗員は下船を認められなかった。その後、移民局との交渉が続けられ、一人の船客の入国をめぐって裁判まで行われたが、入国を認められなかった。そのため、他の船客は入国審査を拒否し、結局、駒形丸は7月23日にバンクーバーを退去することになった。駒形丸は横浜(8月15日)、神戸(8月20日)、シンガポール(9月16日)を経て、9月25日、英領インド・カルカッタ(今日のコルカタ)付近に到着した。途中、下船者などもあり船客は321人に減っていた。

 9月29日、フーグリー川を遡上した駒形丸は、カルカッタ(コルカタ)の下流20キロメートルほどのバッジ・バッジ港に停泊した。フーグリー川はガンジス川から分流してベンガル湾に注ぐ川で、カルカッタはその左岸に位置する。バッジ・バッジ港で、インド政庁は船客に対して、特別列車に乗り換えてパンジャーブに行くよう要請したが、大部分の船客はそれを拒否して、徒歩でカルカッタに向かった。しかし、5キロメートルほど行ったところで警官隊や軍に阻止され、バッジ・バッジに戻ることになった。その夜、突然、銃砲の音が響き、双方の間に衝突が発生した。この衝突と銃撃により、船客20人などが死亡、多数の負傷者も出た。船客の多くは逮捕されたが、グルディット・シンなど28人は現場から逃亡した。

 駒形丸事件にかんする本書の詳細な記述を要約すると以上のようになる。

2 駒形丸事件の世界史的背景

 本書の特徴は、この駒形丸事件を「インド太平洋世界」の広い国際関係の中に位置づけることによって、第一次世界大戦前後の時代像を描き出そうとしている点にある。

 駒形丸事件の一つの世界史的背景としては、19世紀後半から20世紀初頭の北アメリカ(アメリカ、カナダ)におけるアジア系移民排斥の動きがある。1848年、北米カリフォルニアで金鉱が発見されてゴールド・ラッシュが起こり、中国人移民が急増した。その後、1857年にはカナダ(ブリティッシュ・コロンビア)でも金鉱が発見されて、カナダへの中国人の移動が始まった。1870年代には、カナダの東海岸と西海岸をつなぐカナダ太平洋鉄道の建設が進められたが、その労働力として中国人移民は不可欠であった。しかし、1885年にカナダ太平洋鉄道が完成すると、中国人移民に対する制限措置が取られるようになった。同年7月、カナダに到着した中国人に50ドルの人頭税が課せられることになり、その額が1900年に100ドル、1903年には500ドルに引き上げられた。その後、中国人移民に代わって、日本人移民が増大したので、1908年、カナダ政府は日本政府と日本人移民を年間400人に制限する協定を結んだ。当時、イギリスは日本と日英同盟を結んでいたので、イギリスの自治領としてのカナダもこれに拘束されていたから、中国人移民に対するような一方的な政策をとることができなかったのである。インド人移民の制限には、さらに複雑な問題があった。イギリスは、「1857年インド大反乱」が終息した1858年、インドを直轄植民地とした。これによって、インド人はイギリスの「帝国臣民」として、イギリス(大英帝国)版図内を自由に移動することができるようになった。したがって、カナダ政府もインド人移民を拒否することができないはずであったが、当時、イギリスからの自立を志向していたカナダはさまざまな方法でインド人移民を制限しようとした(本書には、その過程が詳述されているが、複雑なので省略する)。駒形丸事件はこのような状況の中で起こった事件で、結局、カナダ側のインド移民制限政策が成功したということができる。

 カナダによるインド人移民排斥にはもう一つの要因があった。1900年代初頭、アメリカ東海岸のインド人の間で反英民族運動が始まり、それが西海岸のシク教徒を中心とするインド人移民労働者の間にも広がっていった。1913年には、サンフランシスコで彼らの運動組織ガダル党(Ghadar Party)が結成された(「ガダル」はアラビア語起源の言葉で、「反逆」の意)。ガダル党の組織はカナダにも広がっていったために、カナダ政府もインド人移民の動向に注意を払っていた。駒形丸の船客とガダル党の間には直接的な関係はなかったようであるが、ガダル党の中心になったのがパンジャーブ出身のシク教徒だったので、カナダ政府は駒形丸のシク教徒船客に対して厳しい対応をしたのであろう。

 このシク教徒の問題は、イギリスにとって、さらに大きな広がりを持っていた。イギリス・インド軍(Indian Army)は1914年の第一次世界大戦勃発時、約20万人の兵員で構成されていたが、その主力がパンジャーブのシク教徒だったからである。ガダル党員はインド、特にパンジャーブに潜入するとともに、武器弾薬などをインドに密輸して、イギリス・インド軍兵士に反乱を呼び掛ける活動などを行った。インドに入ったガダル党員の数は8000人に上ると推定されている。このガダル党員の動きを遠因として、1915年2月、シンガポールでイギリス・インド兵の反乱が起こった。パンジャーブ出身のムスリムの兵士800人ほどが兵営を占拠し、捕虜とされていたドイツ人兵士などを解放した。イギリスは反乱鎮圧のために日本の援助を求め、日本の軍艦二隻がシンガポールに急行した。反乱は一週間後にほぼ制圧された。

 第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力の見返りとして、戦後に大幅な自治権を認めると約束していたが、それを反故にして、インドの自治要求運動に対する弾圧を強化した。それにより、インドの反英民族運動は逆に激化し、特にイギリス・インド軍兵士を多く出したパンジャーブでは大きなデモや集会が繰り返され、一部には暴力行為も起こった。そんな中、1919年4月13日の夕方、アムリトサルのジャリヤーンワーラー・バーグ広場での集会に参加していた約二万人の大群衆に対して、ダイヤー准将率いる軍隊が無差別の発砲を行い、死者1200人、負傷者3600人を出す大惨事を引き起こした。このいわゆる「アムリトサル事件」によって、インドの反英民族運動はさらなる高揚を見せた。

3 インド史における駒形丸事件

 駒形丸事件とその世界史的背景について、日本におけるインド(南アジア)通史ではどのように扱われてきたのかを、以下の3冊を取り上げて検討してみたい。①山本達郎編『世界各国史Ⅹ インド史』(山川出版社、1960年)、②辛島昇編『新版世界各国史7 南アジア史』(山川出版社、2004年)、③長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社、2019年)の3冊である。

 ①には、駒形丸事件とシンガポールのインド兵反乱についての記述はない。ガダル党については、「北米のインド人移民・亡命者たちが祖国のパンジャーブと連絡を取って、インド各地に革命を起こそうと試みたテロリストの流れをくむ運動—北米で発行した機関誌の名をとってしばしば『ガママダル』(反乱の意)運動とよばれる—もたしかに存在した」(314頁。松井透執筆)という記述がある。ただ、インドの反英民族運動「本流」からは外れた動きという印象を受ける書き方である。①に特徴的なのは、「アムリトサル事件」について4ページにわたって極めて詳細に記述されていることである(371-374頁)。

 ②にも駒形丸事件への言及はないが、ガダル党とシンガポールのインド兵反乱については、次のような記述がある。「暴力革命派の活動も活発であった。インド人兵士が武装反乱を起こし、イギリス支配の転覆をはかるという、一八五七年の大反乱モデルにならった反乱ガダル党の計画も立てられた。この計画は一九一五年二月、政府に摘発されて国内では未遂に終わる。〔中略〕シンガポールでも一五年、反乱党の計画につながるインド兵士の反乱がおこり、イギリスは日英同盟を利用して、日本軍の援軍によってやっと鎮圧したほどであった」(379—380頁。長崎暢子執筆)。ただし、ガダル党そのものについては何の説明もないので、一般の読者にはちょっと分かりにくいであろう。②における「アムリトサル事件」の記述は、①とは対照的に極めて簡略で、数行にとどまる(386頁)。

 ③の該当箇所の執筆者は②と同じなので、記述内容だけではなく、文章そのものもほぼ同じである。ただし、②の近・現代南アジア史の部分がB6版で123頁なのに対して、③はA5版468頁全体が近・現代南アジア史である。それにもかかわらず、ガダル党、シンガポールのインド兵反乱そして「アムリトサル事件」に関する記述の量は両書で同じである。ということは、③ではこれらの出来事に関する記述の比重が極めて低下しているということである。

 以上のような状況は、次のように理解することができるであろう。①が書かれた段階では、まだ現地南アジアにおけるインド(南アジア)研究が十分に発達していなかったので、イギリス人研究者による英印関係史やインド国民会議派的なインド民族運動史に依拠せざるをえなかった。そのため、「アムリトサル事件」に多くのページが割かれ、ガダル党のようなインド国民会議派とは異なる路線の運動は軽視された。それに対して、②が書かれた段階になると、南アジア史の多様な側面が研究対象となり、英印関係史(国際関係史)的な記述が後景に退き、インド国民会議派以外の政治団体や社会運動にも多くの紙面が割かれるようになった。③が書かれた段階では、その傾向が一層顕著に進み、社会史、女性史、ジェンダー史などの記述が大幅に増大した。その結果、英印関係史(国際関係史)的記述の比重が極めて低下したのである。

 これら3冊のインド(南アジア)通史の性格の変化を上のようにとらえられるとすると、そこには次のような一般的な問題があるように思われる。それは、歴史研究が国家や社会の内部やさらには個人の内面にまで深く入って行けばいくほど、それらを取り巻く外部の世界への関心が希薄化していくという問題である。あるいは、歴史の研究が精緻になって行けばいくほど、全体への関心が後退する傾向といってもいいかもしれない。

 本書のような諸地域、諸社会、諸国家のあいだを結ぶつながりを重視するグローバル・ヒストリーの歴史記述は、そのような歴史研究の趨勢に対する批判となりうるであろう。しかし、同時に、一個人、一地域、一社会、一国家の歴史の中に深く沈潜しようとする歴史研究との間をどう架橋するかという課題が今後に残されているということができると思う。人々の幾重にも重層化した生活世界の最も外側の層がグローバルなつながりなのであるから。

(「世界史の眼」No.14)

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