世界史研究所の研究員が編纂、執筆に関わった書籍、南塚信吾、小谷汪之、木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』(岩波書店、2022年)が刊行されました。身近なできごとを題材に、私たちの暮らしが歴史の中で作り出されてきたことを解き明かそうとする意欲作です。
岩波書店の紹介ページは、こちらです。
世界史研究所の研究員が編纂、執筆に関わった書籍、南塚信吾、小谷汪之、木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』(岩波書店、2022年)が刊行されました。身近なできごとを題材に、私たちの暮らしが歴史の中で作り出されてきたことを解き明かそうとする意欲作です。
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今号では、小谷汪之さんに、「土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―」をお寄せ頂きました。本論考で、「土方久功と鳥見迅彦」は完結します。(上)はこちら、(中)はこちらに掲載されています。また木畑洋一さんに、今年刊行された、『グローバル開発史 もう一つの冷戦』を書評して頂きました。
小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
木畑洋一
書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)
サラ・ロレンツィーニ『グローバル開発史 もう一つの冷戦』の出版社による紹介ページは、こちらです。
はじめに
1 土方久功の戦中・戦後
(1) 戦中の土方久功
(2) 戦後の土方久功
2 鳥見迅彦の戦中・戦後
(1) 戦中の鳥見迅彦
(2) 戦後の鳥見迅彦
以上、既掲載
以下本号
3 土方久功と鳥見迅彦の交点
おわりに
こうして土方久功と鳥見迅彦の生の軌跡を辿ってきて、二人の交点はどうやら「耳の会」にあったのではないかという見通しに導かれた。それで、「耳の会」について、もう少し詳しく見ておきたいと思う。
1948年のある日、草野心平と松方三郎が銀座の民芸品店「たくみ」で偶然出会い、「たくみ」の中二階の喫茶室「門」で雑談しているうち、「毎月一回、日を決めて〔何人かで〕ここで会おう」ということになった(草野「後記」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、1973年12月、51頁)。松方三郎(1899-1973年)は明治の元勲、伯爵・松方正義の第15男(末子)であるが、松方家第二代当主、松方幸次郎(松方正義の三男)の養子となった。若いころ、ヨーロッパに遊学し、アルプスの山々を踏破して、アルピニストとして知られた。1926年9月3日には、槇有恒、松本重治と共に、アルプスを縦走していた秩父宮に随行してスイスのチナール・ロートホルン(4221メートル)に登頂している(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、25頁にその時の写真がある。図版5)。帰国後は実業界に身を置きながら、日本山岳会会長を務め、その間に松方家第三代当主となった。
この草野心平と松方三郎が始めた集まりには最初名前がなかったのだが、少し後に「耳の会」と名付けられた。この会名を言い出したのは島崎藤村の三男で画家の島崎蓊助であった。
草野が「耳の会」に最初に誘ったのは串田孫一と藤島宇内だったということである(草野「後記」)。宇佐美英治の場合は草野の宇佐美に会いたいという意向を串田から聞かされ、参加するようになった(宇佐美『辻まことの思い出』みすず書房、2001年、99-101頁)。坂本徳松によれば、坂本や鳥見迅彦も最初のころから「耳の会」に参加していたという(坂本「松方さんと『耳の会』」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、28頁)。坂本は別として、草野は主として『歴程』の同人たちを「耳の会」に誘っていたようである(坂本徳松は帝都日日新聞社で草野の同僚であったが、この新聞の大政翼賛的言論に荷担したとして、戦後、野依秀市とともに公職追放となった。その後、坂本はアジア・アフリカ連帯運動に携わり、ベトナム、カンボジヤなどとの友好にかかわった)。『歴程』は戦前の1935年、草野心平、中原中也、土方定一など8人の同人によって創刊された同人誌で、大きな影響を及ぼしたが、戦時下の1944年に終刊した。戦後の1947年、草野が中心となって復刊され、その同人には、串田孫一、藤島宇内、宇佐美英治、矢内原伊作、宗左近、辻まこと、山本太郎などがいた。前述のように、鳥見迅彦も『歴程』同人であった。
翌年、「耳の会」はメンバーが増え、より広い場所が必要になったのであろう、「日比谷の日産館の地階の畳の部屋」で開かれるようになった(草野「後記」)。日産館におけるある夜の「耳の会」の記念写真には、草野心平、松方三郎、串田孫一、宇佐美英治、藤島宇内、辻まこと、坂本徳松、鳥見迅彦などが写っている(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、31頁)。
その後、「耳の会」は何度か会場を変えたようで、世田谷、上野毛の尾崎喜八の家で開かれたこともあった。その時、鳥見迅彦は尾崎の詩集を何冊も持参して、尾崎に署名を請うたということである(尾崎実子「鳥見さんの懐かしい面影」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、29頁)。
他方、土方久功は、前述のように、1951年、学習院中等科で一学年上だった松方三郎に誘われて、「耳の会」に出席するようになった。宇佐美英治によれば、ある「耳の会」の帰り道、土方から「僕は南洋に長くいましてね」と声をかけられたのがきっかけとなって、宇佐美と土方は親しくなったという(宇佐美英治「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、137頁)。
1953年に開かれた土方久功の第二回個展の際、宇佐美英治が会場の設営に協力したことについてはすでに述べたが、この第二回個展の後、宇佐美は『同時代』同人の岡本謙次郎と共に、土方宅を訪問した。これをきっかけに、土方は『同時代』の他の同人たちとも親交を結ぶようになった(土方敬子「思い出」『同時代』34号〈特集土方久功〉、171頁)。『同時代』は1948年、矢内原伊作と宇佐美英治により創刊された同人誌であるが、7号で終刊となった。1955年、矢内原、宇佐美の二人に宗左近、安川定男らが加わり、第二次『同時代』が刊行され始めた。その他の同人には、串田孫一、辻まこと、伊藤海彦、池崇一らがいた。これらの同人たちとも親しくなった土方の家では、『同時代』の忘年会がよく開かれた。土方の妻、敬子は「暮れにはアトリエで一晩楽しく賑やかに忘年会を催しました。その時分が一番最良の時であったと思います」と書いている(土方敬子「思い出」)。常連は宇佐美英治、矢内原伊作、安川定男、宗左近、池崇一、伊藤海彦などであった(岡谷公二『南海漂泊』、202-203頁)。
「耳の会」で土方久功と鳥見迅彦が実際に同席したり、会話を交わしたりしたということを直接的に示す記録は見つけられなかったが、こうした経緯からして、その可能性は高いと思われる。そうでなくとも、宇佐美英治、串田孫一、辻まことなどのように『同時代』と『歴程』の同人を兼ねている人たちが多かったから、土方久功は鳥見迅彦についていろいろと聞き知っていたであろう。前述のように、その鳥見が『けものみち』で1956年度のH氏賞を受賞したので、土方はその同じ年に刊行した詩文集『靑蜥蜴の夢』を鳥見に寄贈することにしたのであろう。しかし、それを通して、土方と鳥見の間に交遊関係が生まれるということはなかったようである。どちらかというとノンポリ的で、政治にあまり関心がなかった土方と、友人たちから「社会主義者」とみられていた鳥見の間には思想の面でも、気質の面でも違いが大きかったからであろう。
「耳の会」はその後、一年に一回、赤坂、嶺南坂の松方三郎宅で開かれることになった(松方が多摩川左岸の瀬田に転居してからは、瀬田の松方宅で開かれるようになった)。松方生前最後の「耳の会」(おそらく1970年)には、草野心平、串田孫一、土方久功、宗左近、坂本徳松、棟方志功などが参加しているが、鳥見迅彦の姿は見られない(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、44頁)。この頃には、鳥見は「耳の会」から遠ざかっていたのであろうか。
土方久功は『靑蜥蜴の夢』刊行後も、南洋の人々や風景をモチーフとした多くの木彫や絵画を制作しつづけた。1965年に書いた「あの頃は」という詩では、「あの頃は楽しかりにき/南海に釣りし 泳ぎし/裸のくらし」(詩集『旅・庭・昔』大塔書店、1965年、所収)と南洋の生活を懐かしんでいる。しかし、土方は二度と南洋を訪れることはなかった。アメリカ信託統治下に入った南洋の島々の変わり果てたであろう姿を見るに忍びなかったからだと思われる。
他方、鳥見迅彦はその後次第に『歴程』よりも、雑誌『アルプ』との関係が深くなっていったようである。『アルプ』は1958年に創文社から発行され始めた山の文芸誌で、その中心となったのは串田孫一と尾崎喜八であった。創文社の編集者で、『アルプ』の編集を担当した大洞正典は、執筆者には「草野心平さんを始め、鳥見迅彦、辻まこと、山本太郎、矢内原伊作といった『歴程』と関わりの深い方々」が多かったが、「尾崎喜八さんと共に、鳥見さんは『アルプ』にとって、かけがえない詩人であった」と書いている(大洞正典「山の詩人として」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、27頁)。鳥見の第二詩集『なだれみち』(1969年)は大洞の協力で創文社から刊行された。
パラオから帰国するや否や、北ボルネオに占領地司政官として派遣され、現地で病を悪化させた土方久功。日本の傀儡、汪兆銘政権の宣伝活動のために5年間にわたって中国に滞在し、その後の半年以上、国民政府の捕虜収容所に入れられていた草野心平。天皇制ファシズムの狂暴な拷問によって、終生消えることのない精神的「傷痕」を負い、それを詩に昇華させようとした鳥見迅彦。そして、戦時下、戦意高揚のための詩を大量に発表し、戦後はそのみそぎのように、岩手の山中に粗末な山小屋を建てて、7年間も独居した高村光太郎。これらの人々の存在はまさに「日本の中の世界史」の現れということができるであろう。世界史は近代という時代を生きた人々の生の中に深く浸透していたのである。
(「世界史の眼」No.31)
第二次世界大戦終結後1990年前後までの世界史は、冷戦の歴史として描かれることが多い。しかし近年では、この時期に同時に進行していた脱植民地化に重点を置く視点も浮上してきている。評者も『二〇世紀の歴史』(岩波書店、2014年)で、帝国主義世界体制の解体過程を軸としてこの時代の世界史を捉えていくという見方を提示した。冷戦史自体についても、脱植民地化との関連を考慮して再検討するという試みが、O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史:第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)、同『冷戦:ワールド・ヒストリー』(岩波書店、2020年、本書については「世界史の眼」No.9, 2020年12月、で紹介した)などによって成されてきている。
冷戦と脱植民地化の絡み合いには、冷戦下の「熱い戦争」と植民地解放戦争の関連、冷戦イデオロギーと脱植民地化をめぐる諸思想との関連など、さまざまな側面があるが、一つのきわめて重要な要因が、旧植民地諸国を対象とする開発援助の問題である。脱植民地化によって新たに独立した国々が経済的に自立し発展していく(経済的脱植民地化)ためには、外からの支援を必要としたが、そうした支援策としての開発援助に、冷戦の東西両陣営にまたがる「先進国」側はさまざまな思惑を抱きながら取り組んでいった。この問題への関心も近年広がっており、そうした問題意識に発する研究として、日本でも、渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア:1960年代を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)や秋田茂『帝国から開発援助へ:戦後アジア国際秩序と工業化』(名古屋大学出版会、2017年)などの成果が生まれている。
本書評の対象である『グローバル開発史』は、この問題にがっぷりと取り組んだ研究書であり、広い視野で冷戦期の開発援助問題に歴史的分析のメスを入れている。原著の副題「一つの冷戦史 A Cold War History」が訳書の副題では「もう一つの冷戦」と若干のニュアンスを加えたものにされているが、本書が行っているのは、まさに冷戦史の見直しであり、訳書の副題はそれにふさわしいといえよう。
本書の内容の詳しい説明は、本書巻末の「訳者解説」のなかで要を得た形でなされているので、ここではごく簡単な紹介にとどめておきたい。
まず第1章では、第二次世界大戦までの植民地支配のもとであらわれてきた植民地開発思想と大戦期における開発への取り組みが概観される。第2章からが冷戦期を扱う本論となり、第2章では1949年に公表されたポイント・フォア・プログラムを軸としてトルーマン政権期の米国における経済開発計画の様相が紹介される。次の第3章で開発援助に対するソ連側の姿勢が論じられた後、第4章の対象は再び西側に戻り、1950年代、米国のアイゼンハウアー政権が開発援助に消極的であったのに対し、60年代に入って登場したケネディ政権が近代化論を掲げつつ、援助に積極姿勢を示したことが強調される。さらに、58年のEEC結成に示されたヨーロッパ統合の動きが、開発援助と密接に関わっていたことが指摘される。このEECの問題は、国際機関に焦点を合わせた第5章でも引き続いて取りあげられるが、ここでは他に、西側の機関として経済協力開発機構(OECD)に作られた開発援助委員会(DAC)が、東側の機関として経済相互援助協議会(コメコン)の技術援助常設委員会が、分析の対象となる。国際機関の検討は第6章にも続き、国連での議論や世界銀行の活動が紹介された後、64年における国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が取りあげられる。次の第7章では70年代の展開が扱われ、社会主義圏の見方が改めて論じられた上で、援助の対象とされていた国々による新国際経済秩序(NIEO)の要求が取りあげられる。70年代には先進国において環境問題が浮上し、経済成長への疑義も出てくるが、その状況下での開発援助をめぐる議論を対象とするのが第8章であり、さらに第9章では世界銀行によるベーシック・ニーズという考え方の提唱や人権思想との関連が扱われる。続く第10章で、開発思想が新自由主義によって攻撃され、経済成長が重視される方向が再び強まった80年代の状況を描いた後、終章で援助をめぐる最近の状況に触れながら、著者は本書を閉じるのである。
以下、本書について評者が抱いたいくつかの感想を述べてみたい。
本書の特徴としてまずあげるべき点は、開発援助を行う側の思惑と姿勢について、実に幅広い検討が行われていることである。従来の開発援助研究では西側諸国、とりわけ米国やイギリスについてはかなり周到な分析がなされてきたものの、冷戦におけるもう一方の陣営であるソ連や東欧に関しては、十分な検討が行われてこなかったという感がある。それに対し、本書の著者は、ソ連側を扱うに際しては史料的制約が大きいことを認めつつ、その姿勢を明らかにすることに相当程度成功している。スターリンがこの問題に関心を抱いていなかったこともあって、ソ連の関わりが積極化したのはスターリン死後であったが、その場合も、開発問題は帝国支配の遺産であるという基本的な認識があり、援助の対象となる独立国は基本的に西側陣営に属するという見方が継続したのである。
帝国支配から開発援助へという流れは、著者がヨーロッパ統合の動きのなかに開発援助問題を位置づける努力を払っていることによって、本書ではっきりと看取することができる。「ヨーロッパ統合は、帝国の共同経営のための事業だった」(79頁)といった大胆な言明も、本書の叙述のなかでは十分に生きている。ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立時の議論や、その後のEEC、ECの「第三世界」政策は、近年日本でも本格的な研究の対象となり、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦:第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店、2018年)というすぐれた業績などが出されているが、本書は、その歴史的位置づけが説得的になされているのである。
著者はまた、中国の対アフリカ援助政策も一定の紙幅をさいて検討している。中国のアフリカへの関わりが最近になって出てきたわけでなく、すでに冷戦期から見られていたことは、タンザン鉄道の事例でこれまでも知られていた点ではあるが、ソ連・東欧の姿勢と並べて論じられることによって、それについてのイメージはきわめて明確になった。
このように、従来の開発援助研究で周縁部に置かれていた主体についての議論がなされている一方、評者の問題関心から若干の不満を覚えた点がある。それは、イギリスやオーストラリアを軸とするコロンボ・プランの扱い方の軽さである。本書の主題を論じる上でこのプランはきわめて重要な意味をもつにもかかわらず、本書での言及は2箇所のみで、しかもその中身に詳しく立ち入ることはされていない。すでにいろいろ議論がなされている対象であるという理由からかとも考えたものの、この欠落はやはり問題であろう。
それはさておき、このように開発援助にかかわった多様な国々に眼を配ることによって、本書は冷戦と脱植民地化の間の関係の複雑さに光をあてることに成功している。帝国主義の遺産を否定しながらグローバルな冷戦のイデオロギーとして近代化論を掲げた米国と、帝国支配の時代からの継続的要素を強く残しつつ援助にあたった西欧諸国の様相が大きく異なっていたということや、社会主義国が被援助国側の事情にほとんど関心を払わなかったために東南関係が悪化していったことなど、多くの論点が提起されている。評者としては、60年代中葉に米国の政治家のなかに東欧諸国を巻き込んで南の国々を開発する共同戦略を考える者がいたとか(107、123頁)、70年代に東西南三者間産業協力という構想が社会主義陣営の側に存在し、実際に協力活動や東西両陣営の合弁事業のための国家間協定が増えていったとかいう(155頁)指摘にも、関心を抱いた。
さらに、開発援助に関わった人々が、開発問題をめぐる国際的な知識共同体とでも呼ぶべきものを作り上げていたという著者の指摘も、刺激的であった。本書では、国際連合や経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の役割も重視されるが、そこでは「科学的手法に基づく知識共同体が形成」(239頁)されていたのである。本書には、ラウル・プレビッシュとかW.A.ルイスとかいった、この問題に関わるいわばお馴染みの人々に加えて、ECのクロード・シェイソンやフランスのジャック・フェランディなどといった、少なくとも評者にとっては初耳の人々の活動が紹介されている。重要な人物について訳者が「人物紹介」を作成して巻末に置いているのはきわめて有益であるが、望むらくはシェイソンやフェランディなど名前が全く耳慣れない人々も取りあげていただきたかった。
最後に、本書全体の問題と感じる点として、開発援助が被援助国側に具体的に何をもたらしたかということの扱いがある。被援助国側について相応の議論は行われていることは事実であるし、途上国側から示された「第三世界主義」は、74年に国連の資源特別総会で採択された「新国際経済秩序」(NIEO)にも関わらせながら確かに強調されている。しかし、援助の実態についての踏み込んだ分析にもう少し接したかったという気持ちが読後感として残ったのである。
(「世界史の眼」No.31)