今号から、小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」を連載します。また、南塚信吾さんに、連載中の「北前船・長者丸の漂流 その4」をご寄稿頂きました。今号で完結です。
小谷汪之
敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて
南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その4
今号から、小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」を連載します。また、南塚信吾さんに、連載中の「北前船・長者丸の漂流 その4」をご寄稿頂きました。今号で完結です。
小谷汪之
敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて
南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その4
はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、次号)
2016年10月、沖縄に派遣されていた大阪府警の1機動隊員が、国頭郡東村高江の米軍用ヘリパッド建設に抗議する沖縄の人々に対して、「ボケ、土人が!」という罵声を浴びせかけた。この「土人」というもはや死語になっていたように思われた言葉を、20歳そこそこの機動隊員が使ったということに、多くの人たちは驚き以上の衝撃を受けた。戦前・戦中、「土人」という言葉は、主として、日本の国際連盟・委任統治領であった「南洋群島」や「南洋」(東南アジア諸地域)の現地民を指す言葉として広く使われていた。当時、「土人」とは、何よりも、「南洋の土人」を意味していた。その「土人」という言葉が、敗戦後70年も経って、亡霊のようによみがえって、沖縄の人々に対して投げつけられたのである。
この「土人」発言に触発されて、敗戦と「南洋」とがどうかかわっているのかということを、改めて考えてみたいと思う。
敗戦後数年間、まだテレビ放送はなく(NHKがテレビ放送を開始したのは1953年)、ラジオの時代で、「ラジオ歌謡」といった歌謡番組が多かった。そんなラジオ番組などで「酋長の娘」という歌をよく耳にした。
私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島
椰子の木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで
この歌は、旧制高知高校生の間で歌い継がれていた「ダクダク踊り」の歌をもとにして、1930年に、演歌師・石田一松により歌曲化され、レコード発売されたものである。第一次世界大戦において、日本海軍がドイツ領であった赤道以北の西太平洋・ミクロネシアの島々を占領したのが1914年10月であるから、その約15年後ということになる。この15年の間に、歌にうたわれるほど「南洋」は日本人にとって身近なものとなり、その過程でこの歌に表れているようなステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像が形成されていったのである。
この歌の「私」のモデルになったのは、森小弁だという話がある。森小弁は1869年、高知・土佐藩の小禄の士族の家に生まれ、若くして政治に志して、同郷の政治家、大江卓や後藤象二郎の世話になった。しかし、しだいに「南洋」に関心を持つようになり、1891年、22歳の時に、一屋商会(田口卯吉がつくった南島商会の事業を継承した会社)に入り、天祐丸という小さな帆船で「南洋」に赴いた。森は、一屋商会の支店を開設するために、当時スペイン統治下にあったミクロネシアのトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)に残り、その後、ドイツ統治期(1899-1914年)、日本統治期(1914-45年)を通して、トラック(チューク)諸島を拠点として商業活動などに従事した。その間に、森はトラック諸島・春島(ウェノ島)の首長の娘と結婚し、子ども12人をもうけた。森は1945年8月、日本敗戦の数日後にトラック諸島・金曜島(ポレ島)で死去したが、現在、その5世、6世の子孫は1000人以上にのぼり、モリ・ファミリーとしてチュークでは大きな経済力を持っているという(高知新聞社編『夢は赤道に―南洋に雄飛した土佐の男の物語』1998年、各所)。
こうして見ると、森小弁は「酋長の娘」の「私」のモデルにいかにも似つかわしく見えるが、その確証はないということのようである(『夢は赤道に』192‐193頁)。しかし、ここで問題としたいのはこの話の真偽ではない。
問題は、「酋長の娘」という歌が戦後になっても戦前と何ら変わることなく歌い継がれていたということである。一例を挙げれば、山田風太郎は、1946年11月、但馬に帰省した折に出席した親類の結婚式の宴会で、腰に蓑を巻いた男が「私のラバさん」と歌い、踊るのを見た(『戦中派焼け跡日記 昭和二一年』小学館文庫、2011年、393頁)。その後も、いくつかの映画などに、「酋長の娘」を歌い、踊る場面が登場した。こうしたことは、敗戦を通しても、日本人のステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像に本質的な変化がなかったということを示している(ただし、現在ではこの歌の差別的な表現が問題とされ、放送禁止歌となっている)。
しかし、これは「酋長の娘」のような大衆歌謡の世界だけに限られたことではない。日本の近代的知性を代表するような人々においても、敗戦は「南洋」を見る目を考え直す契機とはならなかったようである。
戦争中、戦争に反対であったり、戦争に疑問を持っていたりしながらも、それを表立って表明することができなかった人々がたくさんいた。そのような人たちの多くにとって、敗戦はむしろ一種の解放であったから、敗戦そのものは大きな衝撃ではなかった。彼らにとって衝撃だったのは、敗戦を機に一変した日本社会の風潮や日本人の言動の方であった。
フランス文学研究者として著名な渡辺一夫は、戦後の1945年8月21日、妻と「善後策」を打ち合わせるために、妻子の疎開先である新潟の燕町に行った。8月26日朝、汽車で帰京した渡辺は、車中で見た「デモラリゼされた(士気喪失した)兵士逹の群。妄動する民衆」の姿に衝撃を受けた(渡辺一夫『敗戦日記』博文館新社、1995年、75頁)。渡辺は同日付の串田孫一宛手紙に、次のように書いている。
これからの僕逹の生活の困難を思ふ時、悄然ともします。汽車の中などで見聞するデモラリゼした人々狂ひ立つた人々愚昧を更に深める人々……これらを向ふにまはして生き且戦ふのです。カタルシスがもつと深刻だつた方がよかつたかもしれぬとすら思ふことがあります。それ程同胞諸氏はいけません。(『敗戦日記』104‐105頁)
敗戦時、東京帝国大学文学部助教授であった渡辺は、復員して大学に通い出した学生などを見て、彼らがこれからどういう生活を送ることになるのかと考えこむことがあった。そんな時、「ある学校の口頭試問で『天皇は陸海軍を統率す〔統帥す―引用者〕』という文句が、新憲法にあるのか旧憲法にあるのか判らぬ青年が沢山いたという事実」を教えられて、「非常に愕然」とした(渡辺「非力について」〔1947年9月23日付〕、『敗戦日記』200頁)。考える力を持たない青年たちがたくさんいるのではないかということに気づいた渡辺は、学生たちに向かって語るかのように、次のようにのべている。
考えないのが悪いなどとは申しませんが、考えないと大損になると申せましょう。学生諸君に向かって、僕は何も要求できません。しかし、今申したような大損になるにきまっているようなことだけはしないようにとは言いたいのです。その上で、恋愛もよいでしょう。ダンスもよいでしょう。そして、深遠な形而上学や詩歌も結構です。しかし、恋愛もダンスも「文化」の所産として練磨され得ますが、それ自体は決して文化の条件ではないのです。犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします。そして深遠な形而上学や詩歌は、これを護り育てる地盤がなければ、いつでも抹殺され得るものであります。
これも恐らく、私と申す中老書生の泣言であります。その上に僕は、人間というものは自分の思いこんだことをなかなか棄てられぬと申しました。僕もそうなのでしょう。学生諸君もそうかもしれぬと思います。[中略]そう思う時、僕は、自らの非力を悟り、がっくりしますし、自分の思いこんだことをみつめて、ためいきをもらしてしまいます。
(「非力について」、『敗戦日記』201頁)。
敗戦後の青年たちのものを考えようとしない風潮を憂慮し、自らの「非力」にためいきをもらす渡辺の心意はよく分かるが、恋愛もダンスも文化の条件ではないことを説く文脈で、「犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします」という一文が出てくるのにはどうしてもひっかかる。犬猫の方はどういうことなのかよく分からないが、ダンスというと「ポリネシアの土人」を連想することにひっかかるのである。
渡辺は第一高等学校の学生時代にピエール・ロティ(Pierre Loti)のLe Roman d’un spahi,1881(直訳すれば、『あるシパーヒーの物語』。シパーヒーはペルシャ語・トルコ語で兵士の意。イギリスやフランスの植民地軍の兵士、特に傭兵もこう呼ばれた)を読んで「強烈な刺激と深刻な影響」を受け、その十数年後の1938年に同書を『アフリカ騎兵』(白水社)という訳書名で翻訳、刊行している。それは、こんな「物語」である。
ジャン・ペーラルはフランス中央部の高地セヴェンヌ地方の貧しい農夫の息子だった。彼には「許嫁」と言ってもいい娘がいたが、20歳の時、兵役により入営し、アフリカ大陸西海岸のフランス植民地、セネガルに派遣された。フランス軍の駐屯地はセネガル河が大西洋に注ぐ河口の町、サン・ルイにあった。ジャンはフランス軍の騎兵として、セネガルの南に位置するギネア地方などへの遠征に従軍した。しかし、戦闘のない時には、サン・ルイの地で放恣な生活に耽り、「黒人」の娘と同棲するようになった。ジャンの5年間の兵役がもう数カ月で終わろうとする時、サン・ルイのフランス駐屯軍はセネガル河を遡上して、アフリカ大陸内陸部に遠征することになった。その地の「黒人の大首領」・「ブゥバカール・セグゥー」が暴虐を極めているとして、討伐することになったのである。「ブゥバカール・セグゥーの國」に最も近い屯所まで進軍した時、ジャンなど12人の騎兵が斥候に出された。しかし、「ブゥバカール・セグゥー」の別動隊の待ち伏せに遭い、ジャンなどほとんどの斥候兵が戦死した。これより前、ジャンの家郷では、ジャンの「許嫁」が他の男と結婚式を挙げていた。他方、フランス軍を襲撃した「ブゥバカール・セグゥー」の本隊は撃退され、彼自身もフランス軍の銃弾に倒れた。こうして、「ブゥバカール・セグゥーの國」は崩壊した。
『アフリカ騎兵』の「後記」に、渡辺は次のように書いている。
後年同じ著者の他の作品を讀んでも常に見出された「現世のはかない營みの隙間から折あらば低く高く響いて來る永劫無や死滅の呼聲」が、『アフリカ騎兵』に於いては、アフリカの灼熱された不動の大氣の中にも、物質のやうに壓力のある烈光の中にも、硬い沈默を乘せてゐる砂漠の上にも、著實に又執拗に囁き、或は喚くのを感じ、当時の僕は異常な嚴肅さに擊たれ新しい感傷の波にもまれたやうに記憶してゐる。(『アフリカ騎兵』432頁)
日中戦争が泥沼化していく時代に、このようなロティの著書を翻訳、刊行したということは時局に対する渡辺の姿勢を示しているのであろう。
渡辺はロティの「他の作品」も読んだと書いているから、その中には、『ロティの結婚』も含まれていたに違いない。小説『ロティの結婚』の主人公は「イギリス海軍少尉候補生」とされている「ロティ」―作者と同じ名前だが―である。ロティは乗艦がポリネシアのタヒチ島に寄港した時、しばらくタヒチに滞在し、マオリ族の少女「ララフ」の魅力にとらわれて、「結婚」するという「物語」である。
『ロティの結婚』には、例えば次の一文のように、タヒチの人々が歌とダンス(ウパ・ウパ)に興じる姿がしばしば出てくる。
一千八百七十二年といへば、パペエテ[タヒチ王国の都、パペーテ]の最もすばらしい時期の一つであつた。こんなに多くの祭や、踊りや、饗宴の催されたことは未だかつて無かつた。
來る夕べごとに眼もくるめくばかりであつた。―夜になるとタヒチの女逹は見る眼も彩なとりどりの花で身を飾つた。急調子の太鼓の音は、彼女らをウパ・ウパへと誘うた。―みんな髪を解き亂し、ムスリンの胴著はほとんど胴も露はのままに駈け寄って―氣の狂つたやうな淫逸な踊りが、往々にして明け方までつづくのであつた。(『ロティの結婚』125頁)
タヒチの女たちは手を打ち鳴らして、急調子の熱狂的な合唱歌の銅鑼の音に合はせた。―順番が來ると、女たちは銘々ひとしきりの舞踏をやつた。足取りも音樂もはじめの中は緩やかであるが、果ては氣も狂はんばかりに次第にその速さを增してゆき、やがて疲れた踊子が、突然銅鑼の音高い一打ちに踊を止めると、前よりは一層猥雜な狂亂の踊子がつづいてそれに踊り出るのであつた。(同、126頁)
『ロティの結婚』のこのような叙述から、渡辺は「ダンスに明け暮れるポリネシアの土人」というイメージを持ったのであろう。
しかし、そんなイメージとは裏腹に、『ロティの結婚』からは渡辺の言う「永劫無と死滅の呼聲」が響いてくる。というよりは、『ロティの結婚』は、著者である生き身のロティが2度のタヒチ滞在(1872年1-3月、6-7月)の中で、タヒチ王国の発する「永劫無と死滅の呼聲」を聴き取り、それを文学的に表現したものと言った方がいいであろう。
それは、フランスなど欧米列強の圧力によって、タヒチ王国が衰亡へと向かい、それとともにタヒチ的文化が荒廃していく響きであり、現実的には、肺結核など欧米由来の病気による多くのタヒチ島民の死の響きである。
『ロティの結婚』(94頁)にも出てくるように、1842年、タヒチ王国はフランスとの間に保護条約を結び、フランスの保護国となった。フランスによる圧迫に対抗するために、イギリスの介入を求めたが、イギリスが静観するだけだったので、タヒチ王国はフランスの強圧に屈服するほかなかったのである。タヒチの女王ポマレ4世(在位、1827-1877年)の時代のことであった。女王ポマレ4世は「文明に侵蝕されては潰滅してゆく自分の王國―賣淫の場所となつては頽廢してゆく自分のうるわしい王國を眺めなければならぬ憂鬱」にとりつかれていた(『ロティの結婚』148頁)。1877年、ポマレ4世が死去すると、その次子がポマレ5世として即位した。しかし、1880年には、フランスと併合協定を結ぶことを強いられ、タヒチはついにフランスの植民地となった。こうして、約90年続いたタヒチ王国は滅亡したのである。
欧米人たちの到来は「數年このかたこの不動のポリネシアに、かくも多くの未聞の變化と、豫想だもしなかつた新奇とをもたらした」(『ロティの結婚』73頁)。その一つが肺病という未知の病気の蔓延であった。女王ポマレ4世は何人かの男子を生んだが、「ちやうど或る季節に生ひ出でてその秋には朽ち斃れる熱帶植物のやうに、みな同じ不治の病氣で亡くなられた。/みな胸で亡くなられたのである」(同、31‐32頁)。女王ポマレ4世の孫娘の「姫君―タヒチの玉座の推定相續者」はまだ幼年であったが、「すでに世襲的疾患の徴候」を示していた(同、32頁)。この「姫君」も数年後には死去した。「ララフ」にも、「女王の息女のそれのやうな微かな空咳」が時々起こるようになった(同、128頁)。「ロティ」が「ララフ」をタヒチに置き去りにして、イギリスへ帰航する軍艦でタヒチを去った後、「ララフ」は生き方が崩れていった。タヒチにいる「ロティ」の友人からの通信によれば、彼女は「胸の病氣でだんだん弱つていつたのだが、火酒をあふりはじめたので、病勢は急に進」み、18歳で世を去った(同、280頁)。
もし、渡辺一夫が『ロティの結婚』から、このようなタヒチの発する「永劫無と死滅の呼聲」を聞きとっていたとするならば、渡辺はどうして「ポリネシアの土人もダンスをします」などと書いたのであろうか。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.66)
1843年(天保14年)5月21日(新暦6月18日 旧暦を先にして新暦を( )にいれて表示する)の午後2時ごろ、長者丸の一行6人を乗せた船は厚岸沖の大黒島に近づいた。一行は、八左衛門、七左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の6人であった。船長はシトカのカーロヴィッチ長官の意を受けて、一行を厚岸に下ろそうとしてくれたのであった。しかし、人影が見えないので上陸は諦め、エトロフに向った。
5月23日(新暦6月20日)、船はエトロフ島のフルベツの沖に着いた。すると一隻のアイヌの小舟が漕ぎよせてきた。異国の衣類を脱いで、ずっと持ち続けていた漂流時の衣服を着ていた一行が、「我々は越中放生津岩瀬の者にて、6年前奥州唐丹湊出帆の所漂流いたし、此度「ロシア」より送り返されたる」ところだと伝えると、小舟の連中が縄梯子を伝って乗り移ってきた。松前藩の足軽小林朝五郎、エトロフ島場所請負人林右衛門の使いの三吉、清蔵、又兵衛、それにアイヌ人3人の、計7人であった。7名は歓待を受け、最後に朝五郎が長者丸6人の受取書をしたためた(池田編 1968 146-147頁;高瀬重雄 1974 152-153頁)。
朝五郎がしたためた覚書は次のようであったという。
覚
一.六人 大日本国之者
右の者共無相違請取申所如件
松前志摩守内
小林朝五郎判
年 号 月 日
ナチヤネヤカ城主
アドロフカロ兵衛様御内
ニカライアルキサンダロ殿
これを見て、ロシア人が日本の文字に大変興味を持ったので、朝五郎は、人麻呂の歌、
ほのぼのと あかしの浦の朝霧に
島かくれ行く 舟をしぞおもふ
と、もう一首を書いてあげたところ、ロシア人は大いに悦んで、お礼の紙をくれたり、酒宴を催してくれて、大いに交歓したのだった。
岸では、「打払令」に基づいて砲撃の用意をしていたが、朝五郎はそれを押さえてきたのだとのことであった。「打払令」は1842年に廃止され、「薪水給与令」が出されていたはずであるが、ロシア船の水の補給要求も拒否された。その後、6人は、船長らに別れを惜しんで、2隻のボートに分乗して、船を離れた。離れる際に、「時規」(時計)を渡してもらった(池田編 1968 143-148,251頁;高岡市立中央図書館 1973 35-36頁;室賀他編 1965 123-129頁)。
フルベツ港に上陸した長者丸一行は、1838年1月23日に漂流し始めてから、実に4年半ぶりに日本へ帰ってきたのであった。まず台場で漂流の年月などを聞かれたのち、漂流時の衣服を脱いで、新しい着物や下帯などをもらった。それからフルベツの会所で重役の小笠原判平らに漂流の次第を聞かれたりして、しばらくここに逗留した。フルベツには、大坂や松前から来ている船が5、6艘もあった。一行は、ここでは、越中伏木の徳三郎という船頭に赤飯や酒でもてなしてもらった。
7月20日ごろ、松前から来た役人とともに、6人はフルベツを出帆した。そのあと、クナジリ島を経て、ネモロ(根室)、アッケシ(厚岸)に至った。このアッケシで一行は、越中東水橋の石黒屋権吉と会った。かれは1200石積という大きな北前船でこの地に来ていたのである。東水橋は、大坂への廻米、蝦夷からのニシンなどの肥料を運ぶ船で栄えていた港である。石黒家はそこの大きな船主であった。権吉は、一行に煙草、手拭、足袋などを差し入れ、平四郎など海外で亡くなった者たちの法事を営んでくれた。このあと、一行は陸路をたどり、クスリ(釧路)、ヒロウ(広尾)、ミツイシ、シラヲイ、モロラン、ヲシャマンベなどを通って、9月6日ごろ松前に至った。
松前では、4年半前に泊まった上田屋忠右衛門という廻船問屋のところに宿が与えられた。松前には、越中東岩瀬の猪嶋久作というものが住んでいて、一行6人に饅頭、煙草、手拭、足袋などを差し入れてくれた。6人は町奉行所に数回呼び出され、取り調べられたが、とくにエトロフの小林朝五郎がロシア船に行った件につき、江戸で公儀から尋ねられない限りは、申し出ることは無用との申し渡しを受けた。
9月21日、松前の役人以下足軽など11人の付き添いで、6人は松前を出帆し、津軽半島の三厩(みんまや)に上陸、その後陸路で青森、一ノ関、福嶋、宇津宮、越ケ谷を経て、閏9月14日(この年は閏年で9月を繰り返した)、武州千住に着いた(池田編 1968 148-150頁;高瀬重雄 1974 95-105、152-155、182-193頁)。
長者丸一行は、翌9月15日に江戸下谷の松前藩邸に出頭し、翌16日に勘定奉行所に呼ばれた。松前藩の役人も同行し、ロシアからの土産の「時規」を含め、異国装束などを台に乗せ、30人余りの行列で向かった。この日は奉行の佐々木近江守に、庭先でそれぞれ名前などを尋ねられただけで、小石川春日町の大黒屋長右衛門という加賀藩領越中水橋出身の者の営む宿屋へ預けられた。これは1836年に越後早川村の五社丸の漂流民らが預けられたのと同じ宿屋であった。その時、シトカでもらった「時規」も大黒屋へ引き取った。その後、一行は大黒屋にて、不自由なく過ごすことになった。ただ、この賄料はだれが出すのかという問題があったが、結局船主の能登屋兵衛門が出すことになった(高瀬保 2006 53頁)。この後、別の勘定奉行の戸田播磨守から3、4度呼び出しがあり、漂流の様子などを聞かれたが、しかし、なかなか越中へ帰る許しは得られなかった。
その間に、七左衛門の病状が悪化し、10月13日に病死してしまった。検視を受けた後、浄土宗浅草誓願寺宗周院に埋葬した。残ったのは八左衛門、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛の5名であった。
しかし、1844年(弘化元年)も1845年(同2年)も、それぞれ一度呼び出しがあっただけで、吟味はなかった。1846年(同3年)に入って、春と秋9月に、小林朝五郎の件で聞き取りがあったが、松前で打ち合わせておいたとおり、朝五郎らはロシア船には来ていなくて、一行は艀にて上陸したと言い通した。これ以外は、公儀からのお調べはなかった(池田編 1968 150頁;室賀他編 1965 19頁)。
ただし、表向きの動きはなかったが、実は、江戸へきて1年ばかり過ぎた1844年9月ころから、一行への私的な聞き取りが始まっていた。中でも次郎吉への聞き取りが多かった。9月、かれは水戸藩の江戸屋敷にて藩主徳川斉昭ほか家来4、5人に異国の様子を聞かれた。当時斉昭は、幕命により強制隠居の身にあったが、改革志向が強く、異国の事情にも関心が強かったと思われる。1845年に老中首座となった阿部正弘に仕える儒者の石川和介、越後長岡藩の藩主で時の老中牧野忠雅の儒者宅にも数度招かれた。次郎吉はまた、肥前守の蘭学者伊東玄朴のところにも出向いて、4、5人の人に異国の事を話した。そのほか儒者やオランダ語のできる医者や画家たちにも呼ばれて話をした。次郎吉に比べて、長者丸の他のメンバーは呼ばれることは少なかった。太三郎は医者の伊東玄朴、六兵衛は古賀謹一郎宅へ一度ずつ呼ばれただけであった。金蔵は一度も呼ばれなかった。
次郎吉は、とくに幕府の書院番古賀謹一郎の屋敷(昌平黌内の役宅に住んでいた)には、1844年(弘化元年)秋から翌年秋にかけて30回も呼ばれた。古賀謹一郎は、昌平黌の儒学者古賀侗庵の息子で、のちに1855年に蕃書調所を作りその頭取になる人物であった。考えるに、当時、異国帰りの者との接触は厳しく警戒されており、このように何度も聞き取りに屋敷に出入りするには、家老筋からの了解があったとしか考えられない。石川和介―安部正弘の線が強く考えられる。間もなく1846年12月に昌平黌の儒者見習となった古賀謹一郎は、次郎吉らから聞いたことを、1849年(嘉永2年)12月に『蕃談』という書籍にしてまとめることになる(池田編 1968 233頁)。
ようやく1846年(弘化3年)10月23日に、長者丸一行がいったん帰村して、来年5月に再度江戸に来るようにとの御沙汰が出た。ただし、その間親戚の外には対面すべからずとの条件が付いていた。11月6日に足軽の同行で、江戸を出て、越中に着き、17日に加賀藩東岩瀬の役所に太三郎、次郎吉がまかり出で、18日に加賀藩小杉の役所に八左衛門、六兵衛、金蔵がまかり出て、そのあと帰宅が許された。
5人は、1838年4月23日に東岩瀬を出てから10年半ぶりに帰郷したのだった。だが、帰ってきた一行には苦しい生活が待っていた。「異国へ漂流いたし候」ゆえ、家族まで調査され、奉行所に届けられた。分かっている限りでは、太三郎は、一家7人の主として戻ったが、暮らしにゆとりはなかった。次郎吉は、独り身であったので、兄の七郎右衛門のところに世話になったが、兄は小舟で能登方面への運賃積をして細々と稼いでいるだけで、弟の面倒は見切れなかった。治郎吉が江戸へまた呼び出された時には、兄は旅費を村の肝煎から借りてやらねばならなかった(高瀬重雄 1974 165-167、170-171頁)。
帰村して半年して一行は江戸へ帰ることになった。1847年5月23日、足軽たちの付き添いで、八左衛門、六兵衛、金蔵が放生津を出発、翌24日に太三郎と次郎吉が東岩瀬から、再び江戸へ向けて出発し、6月7日に江戸に着いた。そして、11月11日に奉行所に呼び出された。だが、1848年正月より八左衛門の病気が悪化し、ついに3月5日に死去した。七左衛門と同じく浅草誓願寺宗周院に火葬した。残るは、4人、太三郎、次郎吉、金蔵、六兵衛となった。6,8月に再度小林朝五郎の件につきお尋ねがあったが、この度は詳細な文書を見せられて審議を受け、4人はついに朝五郎がロシアの船に来たことを認めた。そこで「公儀に偽りを申し上げた」というので一時的に手鎖をかけられて大黒屋へ戻された。9月4日、4人は勘定奉行のもとに呼び出され、海防掛を兼ねた勘定奉行の石河土佐守より、各自が漂流したことに相違なく、お咎めはないことに落着したことを告げられ、絵の類は取り上げられたが、「時規」は引き渡された。そして4人は、10月16日、足軽の付き添いのもと、江戸を出発、帰村した(池田編 1968 150-151頁)。
一行が東岩瀬を出帆してから帰国するまでは5年であったが、帰国してから最終的に帰郷ができるまでには、5年半かかったことになる。
ここで気になるのは、なぜ江戸での取り調べがほとんど実質的になかったにも拘わらず5年もかかってしまったのか、なぜエトロフの小林朝五郎の件だけが実質的な取り調べの対象であったのかということである。幕府として、なにか気にすべき大問題がこの時期に起きていたのだろうか。対外的に危機的な問題が起きていたのだろうか。とくにロシアとの関係で問題が起きていたのだろうか。
たしかに、アヘン戦争のもたらした対外的危機は、国内における政治的危機と「天保の改革」の重要なきっかけになった。1841年(天保12年)に水野忠邦のもとで開始された「天保の改革」によって、幕府は国内の改革とともに、1842年に、異国船打払令を撤廃し、薪水給与令を発し、海防を強化した。そういう折、1844年に、オランダ国王の使節が「大日本国君」にあてた「親書」を携えて長崎へやってきて、幕府に開国を勧告した。また1844年には斎藤竹堂の『鴉片始末』が出て、イギリスの接近に注意を喚起していた。しかし、1845年2月から老中首座となった阿部正弘のもとで、幕府はオランダ国書の忠告を拒否し、同年7月、「通信は朝鮮・琉球に限定し、通商は貴国と中国にかぎる」と返答した。幕府にとって幸いにも、このような動きの後「約3年のあいだ、対外関係は小康を保っていた」のである(南塚 2018 31-32頁)。
したがって、もちろん海外事情の聞き取りということは必要ではあったが、切羽詰まった課題ではなかった。現に長者丸一行への聞き取りは数回でしかなかった。とすると、考えられるのは北方でのロシアの動きであろう。木崎が言うように、蝦夷地支配をめぐる幕府と松前藩の微妙な関係が問題であったと思われる(木崎 1991 169頁)。とくに、長者丸一行をエトロフにおいてプロミセル号に乗り込んで受け取った小林朝五郎らの行動が問題視されたようである。上述のように、一行は当初、松前での打ち合わせの通り朝五郎らがロシア船には来なかったと述べていたが、幕府が三吉らをも江戸に呼び寄せて調べた結果、真相が明らかになり、一行は処罰を受けることになったのだった。
1848年(嘉永元年)10月に長者丸一行4人は最終的に越中に帰郷した。江戸を出たのが10月16日であるから、28日前後には着いていると思われる。先ず、富山藩の取り調べを受けた。一行全員が取り調べられたのかどうかは不明だが、次郎吉の口述は、『漂流人次郎吉物語全』という40頁あまりの小さな書類として残っている。また、六兵衛と金蔵が小杉岩瀬の郡奉行所で述べた口述も、10月29日の日付で残っている。
だが、一行4人はさらに加賀藩の聞き取りを受けねばならなかった。東岩瀬も放生津も加賀藩領だったからである。放生津からは六兵衛と金蔵、東岩瀬からは太三郎と次郎吉であった。4人は1849年(嘉永2年)3月に出府し、家臣遠藤数馬宅へ行った。そして3月17日に藩主前田斉泰(なりやす)が漂民たちを、庭のうすべりに侍らせ、障子を隔てて、「引見」した。これは昼過ぎから夕方まで続いた。この時、六兵衛と金蔵はロシア風の衣装をつけ、ロシア風のあいさつをしてみせた(池田編 1968 225頁)。さらに5月26日にも藩主別邸の金谷御殿へ召し出された。この時には一行は3人であった。この間に太三郎が病気で、3月25日には東岩瀬へ帰って、ついに5月9日に肺患で死亡していた。だから、5月26日には不在であった(高瀬重雄 1974 83,167、170-172頁)。
この間、定番頭御算用場奉行を務める遠藤数馬高環(たかのり)のもとで、熱心な聞き取りが行われた。次郎吉は、1849年3月11日から3度にわたって、計81日も金沢に滞在して、聞き取りに応じた。そして、遠藤高環は、1850年(嘉永3年)6月1日、『時規物語(とけいものがたり)』全10巻、25冊(10巻で1冊)を、藩主斉泰に献上した。編集作業は高環の息子等、遠藤家を中心に行われた(高瀬重雄 1974 174-176頁)。
加賀藩ではこのころ藩政改革が叫ばれ、西洋の砲術などを取り入れるよう動きが高まっていた。だから、海外への関心は強かったと思われる。長者丸の帰還者がもたらした情報に関心がないはずがなかった(木越 2001 168-169頁)。しかし、折から、1849−52年には、すでに述べたように、銭屋五兵衛をめぐって、河北潟埋め立て問題が起きて、藩政が揺れていた。また、藩主の前田家は折からの開国論議にはあまり関心を示さず、どちらかといえば消極的であった。そういうわけで、『時規物語』の価値が評価されるゆとりはなかった。『時規物語』は広く写本が出回ることもなく、藩の書庫にしまわれたままであった。また、人的にも、帰還者への待遇は悪かった。藩主は帰還者に障子越しに対面しただけであるし、彼らを藩の組織内に位置づけることもなかった。
長者丸一行は1838年(天保9年)4月に東岩瀬を出た時は、船頭の平四郎、親司(おやじ)の八左衛門、表(おもて)の八左衛門、知工(ちく)の太三郎、片表(かたおもて)の善右衛門、追廻(おいまわし)の六兵衛と七左衛門と次郎吉、そして炊(かしき)の五三郎と金蔵の10名であった。松前で表(おもて)が八左衛門に代わって金六になっていたが、10名で漂流したわけである。結局、越中へ帰京したのは、八左衛門、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の5名であった。だが、帰郷してから八左衛門は死去したので、残るは、六兵衛、金蔵、太三郎、次郎吉の4名であった。1849年に加賀藩の聞き取りを受けた後の4人のうち、太三郎は、加賀での聞き取りの最中に体調を悪くして、1849年5月には亡くなっていた。したがって、『時規物語』ができ上って藩主に献上されたときに生き残っていたのは、六兵衛、金蔵、次郎吉の3名であった。
このうち、放生津の六兵衛は、1857年(安政4年)の12月に、享年51歳で亡くなった。同じく放生津の金蔵は、1848年の帰郷後「金蔵一代限り御塩小売人」となることを認められていた(高瀬重雄 1957 48―49頁;高瀬重雄 1974 89-91頁)が、1863年(文久3年)に、43歳で亡くなったと言われる。
東岩瀬の次郎吉は、その後のことがよく分からない。1850年には38歳であったはずで、眼の病気にかかっていたようだ(高瀬重雄 1974 85-89,164-167,179-178頁)。ところが、近年、新たな発見があった。1852年(嘉永5年)6月10日に、越後国出雲崎湊の廻船問屋「佐野屋」の「諸国御客帳」に「水橋 米田屋治郎吉」が入津しているとの記載がある。このときは「空船」であったとある。水橋は東岩瀬のすぐ隣の湊である。さらにもう一つ、1857年(安政4年)6月18日に、同じ「佐野屋」の「諸国御客帳」に「東岩瀬 米田屋治郎吉」の名があり、「穴水すみ(炭)500俵」「かたすみ(堅炭)200俵」の取引があったことが記されている。「米田屋治郎吉」は「米田屋次郎吉」と考えてよい。ということは、次郎吉は、小規模ながら、船の仕事に戻っていたことを物語ることになる。この「佐野屋」の「諸国御客帳」には、越中からも多くの船が入っていることが記載されていて、次郎吉の兄の「岩瀬 米田屋七右衛門」の名も数回(嘉永6年5月3日、安政3年5月22日)見えていて、米田家のよく行く問屋であったようである(https://ameblo.jp/kitamaebune2/entry-12469628925.html;小村弌 1992 74,77頁)。しかし、次郎吉がいつ、どのように亡くなったのか、次郎吉の墓がどこにあるのかなどはわからない(高瀬重雄 1974 88-89頁)。いずれにせよ、プラマーは、次郎吉は「歴史上名前の残るべき人物」であると、高く評価している(Plummer 1991a p.119)。 〔完〕
室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
高岡市立中央図書館『漂流人次郎吉物語全』高岡市立中央図書館 1973年
笠原潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
木越隆三『銭屋五兵衛と北前船の時代』北國新聞社 2001年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
小村弌『近世日本海海運と港町の研究』国書刊行会 1992年
高瀬重雄「漂流記蕃談に関する考察」『史林』1957年
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b
(「世界史の眼」No.66)