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「世界史の眼」No.7(2020年10月)

「世界史の眼」第7号をお届けします。南塚信吾さんの、神川松子と測機舎に関する連載論考(全6回)のその3、並びに山崎による『情報がつなぐ世界史』の文献紹介を掲載します。

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)

山崎信一
文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)

秋となり暑かった夏が嘘のような涼しさが続きます。コロナ禍がおさまらぬ中、みなさまそれぞれに「新しい日常」を模索していらっしゃることと存じます。どうぞ健やかにお過ごし下さい。

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その3)
南塚信吾

3. 翻訳家松子と末三の「転機」 1914-1920年 

 松子は、帰国後は、新たな水を得た魚のようであった。まずは、詩人であり小説家でもあったロシアのイワン・ブーニン(1870-1953年)の作品を次々と翻訳した。1914年6月ごろから、『早稲田文学』、『第三帝国』、『創造』、『新潮』などに発表していった。後に1933年にノーベル文学賞を受賞するブーニンの作品を、受賞はもとより彼が1920年に亡命する前に、日本で初めて紹介したのである。松子がこのロシアの自然派詩人にどうして関心を持ったかは不明であるが、今日の日本でのブーニン研究では松子の存在が忘れ去られている。

 同時に、松子はロシア文学以外についても発言していた。大木は、松子が結婚後、「家庭の中での男女平等の実現に満足し、対社会的にはロシア文学を通じての発言に限定されていたとは思わない」と述べている(大木「神川松子論」16頁)。松子は、1916年1月に創刊された『婦人公論』の10月号に「自由離婚論」という論説を発表して以降、自由恋愛、ロシアの「婦人解放運動」、「奴隷的婦人道徳の撲滅」など、女性の生き方についての発言を続けた。折から女性問題が社会問題の一つとしてクローズアップされてきた時であった。自由恋愛論では、放縦な恋愛は否定するが、自由恋愛による結婚を勧め、自由離婚論では、旧来の結婚制度による結婚については自由離婚を認める反面、自由恋愛による場合には自由離婚を認めないという立場に立っていた(鈴木『広島県女性運動史』58-64頁;大木「神川松子論」18-19頁)。また、1917年1月には「露西亜に於ける婦人開放運動」という論稿を『第三帝国』に載せ、ゲルツェンとチェルヌイシェフスキーから始めて、アナスタシア・ベルビーツカヤに至るまでの婦人解放の運動取り上げた。そして、狭く女性のみの解放を考えた初期から、広く虐げられた人間の解放の一環として女性解放を考える時期へ、さらにベルビーツカヤのような性の極端な解放を唱える虚無的個人主義の時代への変化をあとづけた。

(1916年1月 創刊号)

 そういう時におきた1917年のロシア革命は、松子の強い関心を引いて、革命後のロシア研究と親善を目的とする露西亜研究会に寄付をしている。当然ロシア文学への関心は高まり、ブーニンの翻訳はもちろん、トルストイの翻訳も手掛け、『トルストイ全集』6巻(春秋社、1919年)に「児童の為めに説かれたる基督の教」「十二使徒に依りて伝へられたる主の教」「福音書は如何に読むべき乎併に其の本質如何」「簡易聖書」を訳している(早稲田大学文化構想学部の南平かおり先生のご教示)。

 同時に、相変わらず女性解放に向けての評論を多数発表し、まず、革命直後の1918年1月には「革命史上に現はれたる露西亜婦人」という論稿を『第三帝国』に載せ、ナロードニキのブレシコフスカヤ、ナロードニキ出身マルクス主義者のヴェラ・ザスーリッチなどの革命的婦人の紹介をした。続いてその後『婦人公論』を中心に注目すべき記事を次々と発表した。その1、2を挙げるならば、まず、1919年1月には、『婦人公論』において、「富山で起こったカミサン達の米一揆」は「地位も智識もない低級な彼女等に依って演出せられた」たんなる「茶番事」ではなく、「我が賢明な為政者の蒙昧を啓発するに至った」ではないかと述べていた(鈴木『広島県女性運動史』59-60頁)。また、女性の政治参加を強く求め、『婦人公論』の1918年9月号では、「婦人を侮辱せる法律」と題して、女性を隷属的に取扱っている法律は変更されねばならないとして、婦人参政権を要求した。婦人参政権は、外的には、男女の同権を実現するものであり、内面的には、女性が自分自身人間として自覚し、精神的に自立し、そして自立的に生きる「自由」を与えるものであると主張した(大木「神川松子論」22頁)。また、同じく『婦人公論』の1920年2月号では、「私が若し政治に参与することが出来たなら、私は男女同権の見地から従来の日本の法律の如く、徒に婦人を弱者とし或は無能力者として制定せる婦人に関する各法律規則に対して、全部これが修正なり或は削除なりを請願したいと思ふ」と述べていた(鈴木『広島県女性運動史』61頁)。

 この時期の松子の言論活動について、大木は興味深いことを二点、指摘している。一つは、松子は、運動に携わる者にとって、その運動への世人の支持を得るために「人格の修養」が必要だと説いていたという。そして、大木は、この「人格の修養」を説くのは、女性解放運動に携わる者だけでなく、「平民社を中心とする明治社会主義運動」に対しても向けられていたのだという(大木「神川松子論」19-20頁)。これは平民社を中心とする人的集団の内外での放縦な男女関係を念頭に置いているのであろう。二つには、この時期、松子は平民社のことや社会主義のことに全く触れていなかった。たしかに「結婚を機にして社会主義運動から身を引くと同時に社会主義そのものも捨てたということも考えられないわけではないけれども、むしろこの点について沈黙を守ることによって、内心ぎりぎりのところで守ろうとしていたとも思われる」と、大木は言う(大木「神川松子論」19、23頁)。折から、社会主義にとっての「冬の時代」が過ぎたとはいえ、まだ全面的に社会主義を語ることが解禁されたわけでもなかったのである。しかし、むしろ大木が簡単にふれているように、「社会変革以前に為すべきこと及び為しうることが山積しているという判断」を松子がしていただろうことが重要であったように思われる。

 松子の最後の社会的活動として知られているのは、1920年3月28日に平塚らいてうらの始めた女性の政治的自由を求める新婦人協会の発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となったことである(折井『新婦人協会』16、148頁)。だが、翌月の測機舎の設立以後、松子は再び積極的な女性運動家へ戻ることはなかった。わずかに、1921年3月号『女性同盟』の「貴女は選挙権を如何に行使なさいますか」というアンケート、1921年11月号『婦人公論』の「小売商人の不正事実」をどう考えるかというアンケートに回答しているのみである。台湾行きの時と同じく、これ以後の松子の進路も社会主義や女性解放運動を放棄した「転向」ととることはできるが、見方によってはこれからが、松子がその本領を発揮した時期なのだとも言える。

(『女性同盟』創刊号)

 一方、末三は、帰国後は、大学に戻ったが、「平凡な生活」であったと、回顧している(末三『測機舎と共に』9頁)。第一次世界大戦の時期をどう過ごしたのであろうか。ただ、この時期であろう、世田谷の三宿に敷地230坪の自宅を手にしていた(松子『測機舎を語る』166頁)。戦争が終わって1919年、末三は、大学の職を辞し、「先輩の切なる懇請」によって合名会社玉屋商店に入社した。銀座の玉屋商店は、測量機器、教育学術機器、製図機器などの販売を行っていたが、日露戦争後原宿に日本最初の測量機製造の工場を作り、当時輸入に頼っていた測量機を日本人の手で製作していた。

 末三はそこに工場長の次長として入ったのだった。ところが、半年後には大事件が待っていた。玉屋商会の原宿の工場は第一次世界大戦中に大量の発注を受けて従業員に過度の労働を強いていたにも関わらず、約束の報奨を払わず、従業員の給料も引き上げなかったため、労働者からの強い不満を招いていた(松子『測機舎を語る』31-32頁)。1919年11月7日、優れた技術者であった細川善治、三上綱男、松崎茂雄をリーダーとして従業員たちがまとまって、「23か条」の要求を作成した。これをまとめるならば、

1)「人格」を認めた扱い。秘密主義の廃止。

2)「組長制」の採用。「事務長」の設置。

3)合理的な工場拡張

4)決算の明確化、決算への労務員代表の参加、「工場全員に対し利益分配する」こと。

5)「経営上の方策に対しては、一々会議を開き、工場長、事務長、工作主任及び評議員に諮り決定すること」。

6)「評議員は従業員中勤続十ケ年以上なる者総てその資格を有するものとすること」

などであった(全文は松子『測機舎を語る』33-35頁)。これは当時としては、驚くほど革新的な内容であった。

 松子は、この要求を次のように高く評価している。「氏等の改革方針の重点は所謂世間にありがちな労働賃金の値上げとか或いは労働時間の短縮等のごとき皮相浅見なものに非ずして、寧ろお互いに一歩進んで資本主も労働者も協力一致して工場の繁栄と能率の前進を計り、それに依って得たる利益を従業員も分配に預かって、而して各自の生活の安定を計りたいといふ」ものであった(松子『測機舎を語る』32頁)。

 「23か条」は労働者の経営参加を求めた画期的な要求であった。ロシア革命後、私的企業を認めたうえで、それへの労働者の積極的関与を導入した「労働者統制」を想起させるものである。細川善治、三上綱男、松崎茂雄らはこのような発想をどこから得たのであろうか。これは残念ながら、まだ辿れない。ともかく、このような要求を労働者たちは、工場長が不在だったため、次長の末三に依頼して玉屋本店へ提出させた。ちなみに松子はこれに関与してはいないようであるが、上のように高く評価していた。

 これに対して、会社は11月24日に回答し、1)2)3)は受け入れたが、4)の「決算への労務員代表の参加」は認めず、「工場全員に対し利益分配する」のは賞与で十分だとし、5)6)についてはすべてこれを認めなかった。加えて、このような労働者の行動は末三が扇動したものであろうとして、1920年1月28日、かれに退社を勧告し、2月1日から出社せぬよう命じた。末三は迷ったが、2月2日、ついにこの「不名誉」な退社を受け入れた(2月5日に退社)。末三は従業員たちの「23か条」要求の作成にはまったく関与していなかったわけであり、従業員たちはこれに憤慨した。しかも末三の馘首とともに、「23か条」の要求も葬り去られた。このような玉屋の対応に、従業員たちの有志は会社を辞めて新しい組織を作る工作をひそかに開始した(松子『測機舎を語る』36-40頁;樋口『労働資本』29-39頁は『測機舎を語る』に依っている;この騒動期間1919年10月から20年2月までの経過を記した末三の手記が松子『測機舎を語る』1-21頁に収録されている)。当時見習工だったが、のちの末三を支えた鹿子木は、末三の「管理者としての傑出した能力」、従業員からの「信望」、「視野の広さ、民主的な寛容さ」を指摘している(鹿子木『いのちの軌跡』61-71頁)。これゆえに、労働者たちは末三を離さなかった。

(続く)

参考文献

著書

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文

鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号 (1980年3月)

鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号 (1983年3月)

大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)

吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.7)

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文献紹介:南塚信吾(責任編集)『情報がつなぐ世界史』(ミネルヴァ書房、2018年)
山崎信一

 本書は、全16巻よりなるシリーズ、MNINERVA世界史叢書の第6巻として刊行されたものである。叢書の中では、『人々がつなぐ世界史』、『ものがつなぐ世界史』と並んで、「第II期 つながる世界史」を構成するものと位置付けられている。序論によれば本書の狙いは、文字、画像、音声などの「メッセージ形態」と印刷物、テレビなどの「メディア=情報伝達手段」の二つの側面から、情報がどう世界をつなぎ、どのように世界を変化させたのかなどを論じることにある。全体は、「第I部 文字と図像による伝達」、「第II部 印刷物による伝達」、「第III部 信号・音声・映像による伝達」の3部から構成されており、第I部には「第1章 写本が伝える世界認識」、「第2章 世界図はめぐる」、第II部には「第3章 書籍がつなぐ世界」、「第4章 近代的新聞の可能性と拘束性」、「第5章 イギリスのイラスト紙・誌が見せた19世紀の世界」、「第6章 反奴隷制運動の情報ネットワークとメディア戦略」、第III部には「第7章 海底ケーブルと情報覇権」、「第8章 アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界」、「第9章 サイゴンの最も長い日」、「第10章 衛星テレビのつくる世界史」が置かれ、これに加えて、全体に6のコラムが配されている。古代から現代まで広く扱われているが、その多くを占めるのは近代以降に関する論考となっており、情報に関わる技術やメディアの進化や拡大がこの時代に集中していることを、間接的にも示すものとなっている。

 「情報」を切り口として世界史を論じる書籍があまり見当たらないことを考えても、また、私たちの暮らす現在において、「情報」というものの持つ意味が、暮らしそのものにも深く関わるような大きなものとなっていることを考えても、本書には多くの意義があるだろう。以下に筆者なりにその意義をまとめてみる。

 まず気付かされるのは、情報の形態の多様性である。歴史学において、図像史料など、非文字史料の重要性が言われて久しいが、やはり一義的には文字による情報に重きを置いてきたことは否めないであろう。本書では、1章(図表)、2章(地図)、5章(イラスト)、10章(衛星テレビ)などにおいて、文字によらない情報情報を扱っており、非文字情報や史料の重要性を改めて認識させられる。

 また、本書で扱われる、歴史上のさまざまな情報の姿が、現在の情報をめぐるさまざまな課題とも通底するものであるという点を強く意識させられた。1990年代以降、インターネット技術が一般化する中、インターネットとそれに関連する技術は、現代に暮らす私たちにとって、不可欠なインフラとなっている。インターネット時代の訪れを同時代に経験した筆者の立場から見ても、それがもたらした変化の大きさは改めて驚きであるし、すでにデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代にとっては、それが存在しない世界はもはや想像しえないものかもしれない。本書では、インターネットの普及以後を扱う部分は多くはないが、しかし本書の取り上げるさまざまな問題が、実は現在ともつながっているという点は、重要であろう。

 3章では、『千一夜物語』を題材に、印刷技術の確立後の情報の広範な伝播と、「翻訳」による情報の変質について論じている。現在も大きく取り上げられる伝播の過程における情報の変質や意図的な歪曲の問題もまた、より長い時間軸の中で分析しうることを示唆している。

 近代以降のマスメディアにおける報道、とりわけ戦争報道の問題が、4章(日露戦争)と9章(ヴェトナム戦争)で取り上げられている。1990年代の湾岸戦争や旧ユーゴスラヴィア紛争に際してのセンセーショナルな報道姿勢や、事実関係への理解を失わせるような相互に矛盾する報道の存在は筆者も身近に経験した。その後においても、イラク戦争からウクライナ紛争に至るまで、こうした点はますます広く見られている。こうした問題の一端もまた、より深い歴史的な根を持つことが確認できる。

 また、現在においては、「フェイク・ニュース」に代表されるように、意図的な情報操作、あるいは人々の情報受容のあり方に対する操作が日常的に見られる。6章(メディア戦略)と8章(広報映画)に扱われるのは、広い意味での情報戦略に関してであり、「フェイク・ニュース」もまた、突然の現象ではなく情報戦略を追求した帰結として産まれた側面のあることを示唆しているとは言えないだろうか。

 7章では、海底ケーブルを題材に、情報伝達手段の所有・統制が、情報覇権の確立につながり、支配の道具として機能したことを明らかにしている。情報技術の進歩が、必ずしも人々に幸福をもたらすばかりのものでないという点は、コラム6に扱われる情報の資源化とGAFAに代表される多国籍巨大IT企業による情報と富の独占の問題、10章に付記される国家による個人情報利用の問題ともつながっている。

 インターネット時代以降の情報をめぐる技術の進展は、市井の人々を情報の受け手であるばかりではなく、発信者ともなることを知らしめた。スマートフォンとSNSの普及を背景に、既存のメディアを介さずに人々が相互にやり取りをし、ネットワークを形成するようになった。SNSを基盤とする人々のネットワークは、フェイク・ニュースの温床ともなりうるが、一方で、「アラブの春」や旧ソ連における「カラー革命」に見られるように、政治的な力を持ちうるものでもある。そうした現象を分析してゆく上でも、「情報の世界史」を切り開く本書の意義は大きい。

(「世界史の眼」No.7)

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