1.捕鯨船にて
長者丸は1839年(天保10年)6月6日(旧暦4月24日)、マサチューセッツ州のナンタケットNantucket島から来た捕鯨船ジェームス・ローパー号(ゼンロッパ)に救助された。船長はオベット・キャスカート(ケツカルないしケスカ)、乗員は30人ほどであった。船巾22間、長さ70間の船であった。救助された地点は、東経169度、北緯33度、ミッドウエー諸島の近く、太平洋の真ん中であった(池田編 1968 22-24頁;室賀他編 1965 62-63頁;Plummer 1991b p.13,144)。すでに五三郎、善右衛門、金八が亡くなって、残りは船頭の平四郎以下七名であった。
ゼンロッパ号 『日本庶民生活史料集成』 22頁
ゼンロッパ号では、一同は親切なもてなしを受け、体力も回復してきた。おかゆ状のものから順に普通の食事に移行し、食事には肉が提供されるようになった。また行水もする事ができた。そして、一か月が過ぎた5月中旬、7人は3艘の捕鯨船に分かれて乗ることになった。すなわち、六兵衛は船長「ジャイキ」の船へ、太三郎は「ボーシタ」の船へ、八左衛門と七左衛門は名前は不明だが別の船へ分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の三人はゼンロッパ号に残ることになった。これはゼンロッパ号以外の捕鯨船から申し出があったためであった。
この後、平四郎、次郎吉、金蔵の3人を乗せたゼンロッパ号は、捕鯨を続け、やがてハワイに着くまでの五か月の間に、クジラを八頭もしとめた。平四郎らはその際多少の手伝いをしたが、多くは手持無沙汰で、服を縫ったりして過ごした。10月中旬(陰暦9月上旬)、ゼンロッパ号は、「エギリス」領「サノイツ」(サンドウィッチ島つまりハワイ島のこと;『漂流人次郎吉物語全』では「サントイチ」;なおイギリス領というのは誤り)の「ウワヘ」(ハワイ島:当時は英語でOwyheeと呼ばれていた)の「ヘド」(ヒロ)に着船した。
ここには現地人(土人)の外、広東人(華僑)もおり、アメリカの寺(教会)もあった。3人は、広東人の家に止宿した。3人は、これより日本国へ2、3千里もあると聞いている(『漂流人次郎吉物語全』18頁)。
六兵衛の乗ったジャイキの船は、乗員が34-35人で、クジラをこれまでに2頭、この後に4頭しとめた。そして、同じころ「サノイツ」の「ワホ」(オアフ島)に着いた。六兵衛が上陸して、広東人のパピユ(バビユ、パペーヨとも)という人物のところへ行くと、八左衛門、七左衛門の二人が先に来ていた。もう一つ太三郎の船も31,32人乗りで、クジラを6頭取った。この船は10日遅れて到着した。太三郎も六兵衛、八左衛門、七左衛門と同じところで過ごすことになった。そして、平四郎らも10月下旬(9月下旬)にはこの「ワホ」の4人のところへ合流することになる。
ともかく、ここに7人はまた陸上に戻ったのであった。1838年4月に東岩瀬を出帆、11月に唐丹湊を出て沖に流され、5ケ月間海上に漂い、1839年4月(西洋歴6月6日)に捕鯨船に助けられて、その船中に5ケ月を過ごし、今や18ケ月ぶりに陸地に上がったのであった(池田編 1968 26-27頁;室賀他編 1965 70-72頁)。
2.ハワイでの長者丸の乗組員たち
ハワイに1839年10月中旬(旧暦9月上旬)に上陸したあと7人が10月下旬(9月下旬)に合流するまでの動きは、平四郎、次郎吉、金蔵の三人についてのみ、知られている(なお、ハワイなどの地名は『蕃談』や『時規物語』などで違って表記されているが、本稿では、原則として、初出を除いて、現在の地名を使うことにする)。
ヒロ(ヘド)では広東人の家に止宿した。しかし、家人との折り合いが悪かった3人は、10月18日(旧暦9月12日)(『時規物語』は着後3、4日という。池田編 1968 41頁)ごろ、「ケツカル」船長に連れられて、ムマヲイ(マウイ)島のラハイナへ行った。ラハイナは、この時期、ハワイ王国の首府であった。ここには、広東人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、「バンガラ人」(ベンガル人=インド人か)、イスパニア人がいた。
3人は、「ケツカル」船長の友人であるアメリカ人「ミヒナレ」(ミッショナリー)のドワイト・ボールドウイン牧師の家に泊まった(『蕃談』では、牧師パラオイナンとある)。「ケツカル」船長は、牧師に3人を日本に送るよう頼んで、鯨漁に出かけた。エール大学とオーバーン神学校を卒業し、1835年からラハイナに来ていたボールドウイン牧師(1870年までラハイナに滞在する)は、日本人に興味を持って、日本の事を知りたがり、中国語と日本語の文字や、数字、お酒、食事、宗教などについて学んだりする人物であった。かれは三人を教会のミサに連れて行ったりした。この時、一行は初めてアメリカの婦人と子供を見たのだが、次郎吉は婦人は美しくしとやかで、その衣裳もきらびやかだったという。ここにいる間に、太三郎らがオアフ島(ワホ)に着いたことを知ったので、3人は「ミヒナレ」にオアフ島へ行けるようにしてほしいと頼んだ(Plummer 1991b p.142,145,150-151;Plummer 1991app.126-128;プラマー 1989 161頁)。
ラハイナに数週間いたあと(『時規物語』では、14,5日いた後という。池田編 1968 41頁)、11月1日(旧暦9月26日)、3人はオアフ島のホノルルへ行った。ここで太三郎、八左衛門、六兵衛、七左衛門の4人と合流した。7人は久しぶりに一緒になった。太三郎ら4人は富裕な広東人商人パピユのところに宿を取っていたが、平四郎ら3人は、ラハイナのボールドウイン牧師の紹介した「ベイネム」(ハイラム・ビンガム)というハワイ宣教師団の中心人物である牧師を訪ね、かれの家の向かいにいる医者のG.P.ジャド博士宅に止宿した。ここで、数人のアメリカ人牧師と知り合った。
ハイラム・ビンガム(1789-1869)は、1820年にアメリカからの第一次宣教師団の一員としてハワイに来ていて、団の中心人物で、聖書などを現地語に翻訳したりして、「宣教師運動の父」と呼ばれていた。G.F.ジャド(1803年生まれ)は、1828年に長老派教会の医療使節としてハワイに来ていて、医療支援に当たっていた(Plummer, 1991b pp.152-154)。
ワホ(ホノルル) 『日本庶民生活史料集成』 254頁
ホノルルにいる間に、一行が、アメリカの軍艦に載せてもらって、ロシア、オランダを経由して長崎へ送り届けてもらうという話があり、そうなればフランスやイスパニアや「天竺」を始め広東にも行けると思ったこともあった(池田編 1968 43頁)
だが、11月5日(旧暦9月30日―『蕃談』では旧暦10月23,24日ごろという)、一行の中心で、アメリカ人からも最も男らしくて誠実な人物と評価されていた平四郎が病死した。読み書きのできたかれは仲間から「ご老体」と呼ばれて敬意を持って親しまれていた。11月5日付の『ポリネシア誌』に出たレヴィ・チェンバレンの記事では、かれがこの日に発見された時、平四郎はすでに死後数日が過ぎていたという。そして死因は胃か腸の炎症ではないかという。このチェンバレンは、1822年に第二次宣教師団の一員としてやってきていて、宣教団の世俗的な問題を担当し、経理を扱っていた。宣教師たちから非常に尊敬されていたという。翌日ジャド医師によって検視が行われ、ビンガム牧師のもとで丁寧な葬儀が執り行われ、平四郎は棺に入れて埋葬された(Plummer 1991b p.146、154-156)(『漂流人』は平四郎の葬儀を比較的詳しく述べていて、棺を行列で山へ運んで土葬したという)。平四郎は日本に妻と子供五人を残して死んだのである。次郎吉が墓碑をカタカナで書いた。次郎吉は、十分な教育を受けていなかったが、好奇心と記憶力にすぐれ、いくらか文字が書け、英語とハワイ語を覚え、絵もうまく、何よりも力が強かった。プラマーは「スーパーマン」とさえ称している(Plummer, 1991b p.147;Plummer 1991a pp.119-120)。このあと次郎吉と金蔵は、太三郎らのいるオアフ島の広東人パピユのところへ合流した。
12月になって、八左衛門、六兵衛、七左衛門、次郎吉の4人は、パピユの弟「ジョン」という広東人に連れられて、マウイ島のラハイナにある「ジョン」の農場へサトウキビのしぼりを手伝いに行かされた((Plummer, 1991, p.157;「ジョン」は時にはパピユの甥とも言われる)。広東人は労働力を必要としていたのである。ここで1840年の正月も過ごし、アメリカ人やフランス人や現地人の正月の過ごし方を目にした(太三郎と金蔵の2人はオアフ島に残っていて、広東人宅で正月を過ごしていた)。そこからまたワイロク(ワイルク)というところへ連れられて行って、4人は、サトウキビしぼりや小屋作りのために3か月ほど働いた。1840年6月(陰暦5月)になって、オアフ島から軍艦が入港したとの知らせを聞いて、4人は、オアフ島へ帰りたいと頼んだが、「ジョン」は引き留めようとした。そこで逃げるように「ジョン」の家を去り、陸路を歩いたり、小舟に乗ったりしてラハイナを経てオアフ島のホノルルへ戻った。
オアフ島にはフランスの軍艦が来ていた。一行は軍艦の見学はできたが、帰国のための乗船はできなかった。アヘン戦争が起きて、広東には行けないというのであった。たしかに中国の広州湾では1839年11月からイギリス海軍の清国船への砲撃が始まっていて、1840年5月からは本格的な戦争になっていたのである。広東などを経由して長崎へ行くことは不可能と考えられた。
『蕃談』は次郎吉の言として次のように記している。
「サンイチ」にて風説に聞けば、広東は只今「オツペン(opiumアヘンか)」の一件にて「イギリス」と合戦最中にて、只今広東に往きては混雑して日本に帰る事には迚(とて)も至るまじとなり」(池田編 1968 301頁。これは『蕃談』に付けられた附録)。
それでも6人はビンガム牧師とジャド博士に帰国を強く願い出た。アメリカの軍艦が来るのを待っていたが、来なかった。そのうち、ロシア領へ送れば帰国が早くできるかもしれず、「カムサツカ」(カムチャツカ)へ行く船があればそれに乗せようという事になった。この時、ビンガム牧師は2、3年前にアメリカからカムチャツカヘ渡り布教をしたことがあったので、カムチャツカの様子は分かっていた。また、3年前に早川村の船が漂着した時、乗員をハワイからシトカに送って帰国させたことも想起された。十数年前に越後早川村の船が漂着した時は、舟子の伝吉と長太らは「セツカ」(シトカ)経由で帰国したので、今回もその道で帰ることが考えられたのである。
はたしてカムチャツカへ行くイギリス船が見つかった。アメリカの商人キャプテン・カータ(元船長)の周旋により、イギリス人船長センの船に便乗してカムチャツカに行くことになった。1840年8月3日(陰暦7月6日)、セン船長の貨物船「ハーレクイーン号」はホノルルを出港した。船は2本マストの2000石積みであった。カータは、オアフ島に店を持っていて、妻子同伴で船に乗り、雑貨、砂糖、メリケン粉などを積み込んでいた。総人数21人、他に長者丸の6人であった(プラマーは、船を世話したのはPeirce & Brewer社のH.A.Peirceであるという。ボールドウインは、モリソン号の例を見ると、一行は日本に帰っても温かく迎えられる可能性はほとんどないとコメントしている)(池田編 1968 39-54、246頁;室賀他編 1965 74-90頁;笠原96―99頁;プラマー 1991b 162頁)。
こうして、6人は、1839年10月から1840年8月まで、計11か月を過ごしたサンドウィッチ諸島を去ることになったのである。
参考文献
室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年 池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年 『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年 笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁 高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年 プラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年 Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific , The Oregon Historical Society, 1991a Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska , The Limestone Press, 1991b
(「世界史の眼」No.62)