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「世界史の眼」No.62(2025年5月)

今号では、前号に続き南塚信吾さんに、「北前船・長者丸の漂流 その2」をご寄稿頂きました。また、油井大三郎さんに、本年刊行された、藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』(彩流社、2025年)を書評して頂いています。

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その2

油井大三郎
書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年

藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』の出版社による紹介ページは、こちらです。

世界史研究所では、ガザ戦争の開始以来、パレスチナとガザの問題に関して多くの論考を掲載して参りました。必ずしも十分に報道されているとは言えないガザの現状に関して伝える、「アハリー・アラブ病院を支援する会ニュース・レター」の最新号を転載します。こちらよりご覧下さい。

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北前船・長者丸の漂流 その2
南塚信吾

1.捕鯨船にて   

 長者丸は1839年(天保10年)6月6日(旧暦4月24日)、マサチューセッツ州のナンタケットNantucket島から来た捕鯨船ジェームス・ローパー号(ゼンロッパ)に救助された。船長はオベット・キャスカート(ケツカルないしケスカ)、乗員は30人ほどであった。船巾22間、長さ70間の船であった。救助された地点は、東経169度、北緯33度、ミッドウエー諸島の近く、太平洋の真ん中であった(池田編 1968 22-24頁;室賀他編 1965 62-63頁;Plummer 1991b p.13,144)。すでに五三郎、善右衛門、金八が亡くなって、残りは船頭の平四郎以下七名であった。

ゼンロッパ号  『日本庶民生活史料集成』 22頁

 ゼンロッパ号では、一同は親切なもてなしを受け、体力も回復してきた。おかゆ状のものから順に普通の食事に移行し、食事には肉が提供されるようになった。また行水もする事ができた。そして、一か月が過ぎた5月中旬、7人は3艘の捕鯨船に分かれて乗ることになった。すなわち、六兵衛は船長「ジャイキ」の船へ、太三郎は「ボーシタ」の船へ、八左衛門と七左衛門は名前は不明だが別の船へ分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の三人はゼンロッパ号に残ることになった。これはゼンロッパ号以外の捕鯨船から申し出があったためであった。 

 この後、平四郎、次郎吉、金蔵の3人を乗せたゼンロッパ号は、捕鯨を続け、やがてハワイに着くまでの五か月の間に、クジラを八頭もしとめた。平四郎らはその際多少の手伝いをしたが、多くは手持無沙汰で、服を縫ったりして過ごした。10月中旬(陰暦9月上旬)、ゼンロッパ号は、「エギリス」領「サノイツ」(サンドウィッチ島つまりハワイ島のこと;『漂流人次郎吉物語全』では「サントイチ」;なおイギリス領というのは誤り)の「ウワヘ」(ハワイ島:当時は英語でOwyheeと呼ばれていた)の「ヘド」(ヒロ)に着船した。

 ここには現地人(土人)の外、広東人(華僑)もおり、アメリカの寺(教会)もあった。3人は、広東人の家に止宿した。3人は、これより日本国へ2、3千里もあると聞いている(『漂流人次郎吉物語全』18頁)。 

 六兵衛の乗ったジャイキの船は、乗員が34-35人で、クジラをこれまでに2頭、この後に4頭しとめた。そして、同じころ「サノイツ」の「ワホ」(オアフ島)に着いた。六兵衛が上陸して、広東人のパピユ(バビユ、パペーヨとも)という人物のところへ行くと、八左衛門、七左衛門の二人が先に来ていた。もう一つ太三郎の船も31,32人乗りで、クジラを6頭取った。この船は10日遅れて到着した。太三郎も六兵衛、八左衛門、七左衛門と同じところで過ごすことになった。そして、平四郎らも10月下旬(9月下旬)にはこの「ワホ」の4人のところへ合流することになる。

 ともかく、ここに7人はまた陸上に戻ったのであった。1838年4月に東岩瀬を出帆、11月に唐丹湊を出て沖に流され、5ケ月間海上に漂い、1839年4月(西洋歴6月6日)に捕鯨船に助けられて、その船中に5ケ月を過ごし、今や18ケ月ぶりに陸地に上がったのであった(池田編 1968 26-27頁;室賀他編 1965 70-72頁)。

2.ハワイでの長者丸の乗組員たち 

 ハワイに1839年10月中旬(旧暦9月上旬)に上陸したあと7人が10月下旬(9月下旬)に合流するまでの動きは、平四郎、次郎吉、金蔵の三人についてのみ、知られている(なお、ハワイなどの地名は『蕃談』や『時規物語』などで違って表記されているが、本稿では、原則として、初出を除いて、現在の地名を使うことにする)。

 ヒロ(ヘド)では広東人の家に止宿した。しかし、家人との折り合いが悪かった3人は、10月18日(旧暦9月12日)(『時規物語』は着後3、4日という。池田編 1968 41頁)ごろ、「ケツカル」船長に連れられて、ムマヲイ(マウイ)島のラハイナへ行った。ラハイナは、この時期、ハワイ王国の首府であった。ここには、広東人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、「バンガラ人」(ベンガル人=インド人か)、イスパニア人がいた。

 3人は、「ケツカル」船長の友人であるアメリカ人「ミヒナレ」(ミッショナリー)のドワイト・ボールドウイン牧師の家に泊まった(『蕃談』では、牧師パラオイナンとある)。「ケツカル」船長は、牧師に3人を日本に送るよう頼んで、鯨漁に出かけた。エール大学とオーバーン神学校を卒業し、1835年からラハイナに来ていたボールドウイン牧師(1870年までラハイナに滞在する)は、日本人に興味を持って、日本の事を知りたがり、中国語と日本語の文字や、数字、お酒、食事、宗教などについて学んだりする人物であった。かれは三人を教会のミサに連れて行ったりした。この時、一行は初めてアメリカの婦人と子供を見たのだが、次郎吉は婦人は美しくしとやかで、その衣裳もきらびやかだったという。ここにいる間に、太三郎らがオアフ島(ワホ)に着いたことを知ったので、3人は「ミヒナレ」にオアフ島へ行けるようにしてほしいと頼んだ(Plummer 1991b p.142,145,150-151;Plummer 1991app.126-128;プラマー 1989 161頁)。

 ラハイナに数週間いたあと(『時規物語』では、14,5日いた後という。池田編 1968 41頁)、11月1日(旧暦9月26日)、3人はオアフ島のホノルルへ行った。ここで太三郎、八左衛門、六兵衛、七左衛門の4人と合流した。7人は久しぶりに一緒になった。太三郎ら4人は富裕な広東人商人パピユのところに宿を取っていたが、平四郎ら3人は、ラハイナのボールドウイン牧師の紹介した「ベイネム」(ハイラム・ビンガム)というハワイ宣教師団の中心人物である牧師を訪ね、かれの家の向かいにいる医者のG.P.ジャド博士宅に止宿した。ここで、数人のアメリカ人牧師と知り合った。

 ハイラム・ビンガム(1789-1869)は、1820年にアメリカからの第一次宣教師団の一員としてハワイに来ていて、団の中心人物で、聖書などを現地語に翻訳したりして、「宣教師運動の父」と呼ばれていた。G.F.ジャド(1803年生まれ)は、1828年に長老派教会の医療使節としてハワイに来ていて、医療支援に当たっていた(Plummer, 1991b pp.152-154)。

ワホ(ホノルル) 『日本庶民生活史料集成』 254頁

 ホノルルにいる間に、一行が、アメリカの軍艦に載せてもらって、ロシア、オランダを経由して長崎へ送り届けてもらうという話があり、そうなればフランスやイスパニアや「天竺」を始め広東にも行けると思ったこともあった(池田編 1968 43頁)

 だが、11月5日(旧暦9月30日―『蕃談』では旧暦10月23,24日ごろという)、一行の中心で、アメリカ人からも最も男らしくて誠実な人物と評価されていた平四郎が病死した。読み書きのできたかれは仲間から「ご老体」と呼ばれて敬意を持って親しまれていた。11月5日付の『ポリネシア誌』に出たレヴィ・チェンバレンの記事では、かれがこの日に発見された時、平四郎はすでに死後数日が過ぎていたという。そして死因は胃か腸の炎症ではないかという。このチェンバレンは、1822年に第二次宣教師団の一員としてやってきていて、宣教団の世俗的な問題を担当し、経理を扱っていた。宣教師たちから非常に尊敬されていたという。翌日ジャド医師によって検視が行われ、ビンガム牧師のもとで丁寧な葬儀が執り行われ、平四郎は棺に入れて埋葬された(Plummer 1991b p.146、154-156)(『漂流人』は平四郎の葬儀を比較的詳しく述べていて、棺を行列で山へ運んで土葬したという)。平四郎は日本に妻と子供五人を残して死んだのである。次郎吉が墓碑をカタカナで書いた。次郎吉は、十分な教育を受けていなかったが、好奇心と記憶力にすぐれ、いくらか文字が書け、英語とハワイ語を覚え、絵もうまく、何よりも力が強かった。プラマーは「スーパーマン」とさえ称している(Plummer, 1991b p.147;Plummer 1991a  pp.119-120)。このあと次郎吉と金蔵は、太三郎らのいるオアフ島の広東人パピユのところへ合流した。

 12月になって、八左衛門、六兵衛、七左衛門、次郎吉の4人は、パピユの弟「ジョン」という広東人に連れられて、マウイ島のラハイナにある「ジョン」の農場へサトウキビのしぼりを手伝いに行かされた((Plummer, 1991, p.157;「ジョン」は時にはパピユの甥とも言われる)。広東人は労働力を必要としていたのである。ここで1840年の正月も過ごし、アメリカ人やフランス人や現地人の正月の過ごし方を目にした(太三郎と金蔵の2人はオアフ島に残っていて、広東人宅で正月を過ごしていた)。そこからまたワイロク(ワイルク)というところへ連れられて行って、4人は、サトウキビしぼりや小屋作りのために3か月ほど働いた。1840年6月(陰暦5月)になって、オアフ島から軍艦が入港したとの知らせを聞いて、4人は、オアフ島へ帰りたいと頼んだが、「ジョン」は引き留めようとした。そこで逃げるように「ジョン」の家を去り、陸路を歩いたり、小舟に乗ったりしてラハイナを経てオアフ島のホノルルへ戻った。

 オアフ島にはフランスの軍艦が来ていた。一行は軍艦の見学はできたが、帰国のための乗船はできなかった。アヘン戦争が起きて、広東には行けないというのであった。たしかに中国の広州湾では1839年11月からイギリス海軍の清国船への砲撃が始まっていて、1840年5月からは本格的な戦争になっていたのである。広東などを経由して長崎へ行くことは不可能と考えられた。

 『蕃談』は次郎吉の言として次のように記している。

「サンイチ」にて風説に聞けば、広東は只今「オツペン(opiumアヘンか)」の一件にて「イギリス」と合戦最中にて、只今広東に往きては混雑して日本に帰る事には迚(とて)も至るまじとなり」(池田編 1968 301頁。これは『蕃談』に付けられた附録)。

 それでも6人はビンガム牧師とジャド博士に帰国を強く願い出た。アメリカの軍艦が来るのを待っていたが、来なかった。そのうち、ロシア領へ送れば帰国が早くできるかもしれず、「カムサツカ」(カムチャツカ)へ行く船があればそれに乗せようという事になった。この時、ビンガム牧師は2、3年前にアメリカからカムチャツカヘ渡り布教をしたことがあったので、カムチャツカの様子は分かっていた。また、3年前に早川村の船が漂着した時、乗員をハワイからシトカに送って帰国させたことも想起された。十数年前に越後早川村の船が漂着した時は、舟子の伝吉と長太らは「セツカ」(シトカ)経由で帰国したので、今回もその道で帰ることが考えられたのである。

 はたしてカムチャツカへ行くイギリス船が見つかった。アメリカの商人キャプテン・カータ(元船長)の周旋により、イギリス人船長センの船に便乗してカムチャツカに行くことになった。1840年8月3日(陰暦7月6日)、セン船長の貨物船「ハーレクイーン号」はホノルルを出港した。船は2本マストの2000石積みであった。カータは、オアフ島に店を持っていて、妻子同伴で船に乗り、雑貨、砂糖、メリケン粉などを積み込んでいた。総人数21人、他に長者丸の6人であった(プラマーは、船を世話したのはPeirce & Brewer社のH.A.Peirceであるという。ボールドウインは、モリソン号の例を見ると、一行は日本に帰っても温かく迎えられる可能性はほとんどないとコメントしている)(池田編 1968 39-54、246頁;室賀他編 1965 74-90頁;笠原96―99頁;プラマー 1991b 162頁)。

 こうして、6人は、1839年10月から1840年8月まで、計11か月を過ごしたサンドウィッチ諸島を去ることになったのである。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
プラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.62)

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書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

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