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「世界史の眼」No.19(2021年10月)

今号では、大門正克さんに浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」の(下)を掲載しています。

大門正克
書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

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ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1) ―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2) ―ホロンバイル草原行

(以上、前号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

 1994年6月、村上春樹は成田から大連に飛んだ。大連からは「便所にも立てないくらい満席」の「硬座(三等車)」に詰め込まれ、「一晩十二時間揺られてくたくたになって長春〔旧満洲国の首都、新京〕に到着」した。長春では、「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」。村上によれば、この動物園は満洲国時代の1941年に「新京動物園」(正式名は、新京特別市立南嶺動植物園)として開園されたが、満洲国崩壊後廃墟になっていたのを、1987年に長春市が「長春動植物園」として復興させたということである。1945年8月9日、ソ連軍が西、北、東三方から満洲国に侵攻し、満洲国の首都、新京に迫った。それを目前にして、「新京動物園」では虎や豹などの猛獣を安全上の予防措置として殺処分した。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』「10 動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」には、このことが「動物園襲撃」として書かれている(実際は毒殺だったのを銃殺としたり、実際にはいなかった象を登場させるなど、村上の記述にいろいろとフィクションが含まれていることについては、川村湊『満洲崩壊 「大東亜文学」と作家たち』文芸春秋社、1997年、68-74頁参照)。村上が「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」といっているのはこの「新京動物園」における猛獣殺処分にかかわることなのだろうが、具体的にどのような取材をしたのかはよく分からない。「でもこの動物園はなかなか面白かった。〔動物園の〕係員に『日偽時期』〔満洲国時代〕の話を聞くこともできた」ということであるから、「動物園襲撃」のネタになるようなことも聞けたのかもしれない。

 村上は長春からハルビン(哈爾浜)へも列車で行ったのだが、この時も「硬座」で、開けっぱなしの窓からいろいろなゴミが目に入って、痛くて目をあけていられなくなった。それで、「ハルビンでは〔目の治療のために〕心ならずも病院めぐりをすることになった」。ハルビンの病院や医師は村上にちょっと暗い印象を与えたようである。ハルビンからは、満洲里行き列車(旧東清鉄道)の「軟座の寝台」という「完全予約制のコンパートメント寝台席」で夕方出発、大興安嶺を越えて、翌日にはハイラル(海拉爾)に着いた。

 ハイラルでは、日本軍がソ連軍の侵攻に備えて、郊外の山に作った巨大な地下要塞の跡を見に行った。この要塞は、強制徴用された中国人労働者を使役して、突貫工事で建設され、その過酷な労働条件の下で、多くの中国人が命を落とした。完成後、秘密保持のために、建設にかかわった中国人は殺害されたという。ハイラルで村上の案内をしたガイドは、「その山の近くに死体をまとめて放り込んだ万人坑があり、そこにはまだ約一万人の中国人工人の骨が埋まっている」と言っていた。村上はこの死者の数が正確かどうかはともかく、ほかの事例から考えて、このようなことがあったのは事実だろうと思った。敗戦直前にハイラルを訪ねた飯塚浩二の旅行記では、この地下要塞について全く触れられていない。軍事秘密として秘匿されていたとしても、これだけの大工事を行っていたのであるから、何か風聞のようなものが聞こえてきてもよさそうなものであるが。

 ハイラルからはランドクルーザーで4時間かけて、新巴爾虎左旗(シンバルクサキ)という町に行った。ここは「旗」(地方行政区)の役所があるところで、いわゆる「未開放地域」とされ、政府の許可なしでは外国人は入れないところであった。ホテルなどはないので、中国軍の「招待所」に泊めてもらった。「便所は水洗なのだが」、夕方まで水が出ないので、「どこにも大便がそのまま残っていて、宿命的にその臭いがそこかしこに漂っている」。

 新巴爾虎左旗からまたランドクルーザーで3時間かけて、ノモンハン村を訪問した。ノモンハンというのは「とても小さな集落」だが、小さな「戦争博物館」があって、「銃器から水筒、缶詰、眼鏡といった」「日本軍の遺品みたいなもの」が展示されていた。ノモンハン戦争の激戦地はノモンハン村のすぐ南からハルハ河畔にかけての地域であるが、ノモンハン村から直接に行くことはできなかった。ノモンハン戦争後の国境画定交渉で、日本側はハルハ河を国境と主張したが、ソ連側の主張通りハルハ河右岸(東岸)から20キロメートルほど東の線が国境とされたからである(付図2参照)。その結果、ノモンハン村の北西から南東にかけて国境線が通ることになり、これが今の中国とモンゴル国の国境線となっている。村上がノモンハン村を訪ねた時には、この国境線は閉鎖されていたから、ノモンハン村からノモンハン戦争の激戦地に直接行くことはできなかったのである。村上が書いているように、中国側がモンゴル国と中国の内モンゴル自治区の「モンゴル民族の団結、あるいは融合傾向のたかまりを危惧」していたのが国境閉鎖の主因であろう。明確な国境標識があるわけでもなく、まして鉄条網などで区切られているわけでもない空漠たる国境線であるが、それでも、越えることはできないのである。

 村上は「その夜はノモンハン村で羊料理と白酒パイチュウをご馳走になり、生まれて初めて酔っ払って意識不明になる。〔中略〕話を聞くとその白酒はアルコード度が六十五度ぐらいあったということで、それを四、五杯ストレートで飲んだのだからたまったものじゃない。気がついたら翌朝で、新巴爾虎左旗の宿舎のベッドの中にいた。それから一か月近く経過した今でもビール以外のお酒がほとんど飲めない―飲みたくない、というまことにいたましい状況下にある。それくらいきつかったのだ」。

 その後、村上は、ノモンハン戦争の激戦地の跡を見るために、わざわざ北京に回り、そこからモンゴル国の首都、ウランバートルに飛んだ。ウランバートルで飛行機を乗り換え、ドルノド(東)県の県都、チョイバルサンに飛んだ。チョイバルサンは軍事的な要地で、交通の便は予想以上にいい。「チョイバルサンまでモスクワから直接列車が送り込めるようになっていて、この鉄道ルートはノモンハン戦争、あるいは満州侵攻の際にきわめて有効に利用された。チョイバルサンから『満蒙まんもう』国境付近のタムスク基地まで、かつては兵員と軍事物資を補給するための専用鉄道が敷設されていたらしい」。「とにかくこと兵站へいたんに関しては、ソビエト軍は関東軍とは逆におそろしく慎重に計算して行動した」。

 チョイバルサンからハルハ河までは距離にして約375キロメートル、「愛想もクソもないロシア製の軍用ジープ」で10時間ほどかけて行った。案内役(あるいは監視役)や運転手はモンゴル軍の軍人であった。「途中で軍隊の駐屯所によって、そこでミルク入りのお茶と、チーズ盛り合わせと羊肉入りギョウザを御馳走に」なったが、村上は「ノモンハン村の羊料理と白酒パイチュウの後遺症でほとんど食欲がなく」、「ほとんど手を付けなかった」。そうやってやっと着いたところが「三日前にいたノモンハン村のすぐ向かい側というのだからまったく世話はない」。

 その日は、スンブルにあるモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらった。スンブルは、ハルハ河とホルステン川の合流点(ノモンハン戦争の激戦地で、当時日本人は「川又」と呼んでいた)の南、10キロメートルほどの所に位置する小さな町である(付図1、2参照)。ここにはオボ(石積の祭壇で道標ともなる)があるので、スンブル・オボとも呼ばれる。スンブルでもモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらったが、ここも水が出なかったので、「持参した少量のミネラル・ウォーターを飲み尽くしたあとは、それから十二時間あまりただじっと渇きを我慢するしかなかった」。

 翌日、村上は軍用ジープであちこちとノモンハン戦争の戦跡を案内してもらった。「ハルハ河はまるで蛇がのたうつように、くねくねと曲がりくねった河だ。水の流れはけっこう早く、ところどころに中洲がある。〔中略〕川の西岸(ソ連・モンゴル軍側)は高い台地のようになっており、それに比べると東岸(日本軍側)は広い谷間のような低地になっている。そのためにとくに砲撃戦で日本軍は地形的に大きなハンディキャップを背負いこむことになった。台地の上からは、双眼鏡を使えば二十キロ向こうのノモンハン村までくっきりと見渡すことができるのだ」。

 ハルハ河を越えて最初に行ったのは、激戦地として知られる「ノロ高地」(図2参照。これは日本側の呼称)かその近辺と思われる場所で、そこには砲弾の破片や銃弾や臼砲弾の一部などがところ狭ましと散らばっていた。それは村上には「ノモンハンの鉄の墓場」のように見えた。村上はこう書いている。「我々は歴史的に分類すれば、たぶん『後期鉄器時代』というような時代に属しているのだろう。そこでは、有効に大量の鉄を相手側にばらまいた側が、そしてそれによって少しでも多く相手の肉を切り裂いたほうが、勝利と正義を得るのだ。そしてぱっとしない草原の一角をめでたく手に入れることができるのだ」。

 村上は打ち捨てられたソ連軍の戦車などの遺物を見て回った後、「スンブルの立派な戦争博物館を見学した」。スンブルは「地の果てのような貧相な町」だが、この博物館は「実に堂々たる建築物で、展示物も豊富で、当時の貴重な資料や各種武器、軍用品などが手際よく整理保存されている。それを見るとモンゴル人たちがノモンハン戦争=ハルハ河戦争〔モンゴル側の呼称〕における勝利を……どれほど重要なものとして考えているかということがよくわかる」。

 その後、帰路に就いたが、「スンブルからチョイバルサンまでの長い帰り道の途中で、草原の真ん中に一匹の狼をみつけた。モンゴル人は狼をみつけると、必ず殺す」。軍用ジープの運転手は道からそれて狼を追い回し、疲れ切って立ち止まった狼を案内役(監視役)のモンゴル軍人が撃ち殺した。「狼を殺してしまうと、そのあと我々はみんな不思議に無口になった」。「僕らがチョイバルサンの町にようやく帰りついたのは結局夜中の一時だった」。

 その夜はチョイバルサンの「ろくでもないホテルのろくでもない部屋」に泊まったのだが、真夜中、目が覚めると、世界中が激しく揺れ動いていて、その衝撃で立っていることもできないような状態になった。村上は「なんとか必死でドアの前までたどり着き、手探りで壁の電灯のスイッチを入れた」。「その途端に、その振動はさっとやんだ」。「まるで嘘のように、物音ひとつ一つしなかった。何も揺れていなかった」。「それから僕ははっと気づいた。揺れていたのは部屋ではなく、世界ではなく、僕自身だったのだということに」。それは、「ノモンハンの鉄の墓場」を見たことによって、村上の精神に走った激震だったのであろう。

 翌日、村上はチョイバルサンからウランバートルを経由して北京に飛び、そのまま空港で飛行機を乗り換えて日本に帰った。

おわりに

 飯塚浩二と村上春樹の「満蒙」旅行記を読み比べてみると、1945年2月から6月にかけて、敗戦直前の満洲国と「北支」を旅行した飯塚の方が、1990年代に中国とモンゴル国を旅行した村上より、はるかに優雅な旅をしている。敗戦直前とはいえ、実質的な植民地支配者としての立場にあった日本人にとっては、満洲国や「北支」の方が「内地」よりも自由で、物資も豊かだったということであろう。他方、まだ経済的発展が緒に就いたばかりの頃の中国と途上国のモンゴル国を旅行した村上は、今日ではちょっと考えにくいような苦労をせざるをえなかったのである。

 しかし、二人の間の本質的な違いは、飯塚が、意図的かどうかはともかく、ノモンハン戦争についてまったく触れていないのに対して、村上はノモンハン戦争に徹底的にこだわっているということである。村上はノモンハン戦争における日本の敗戦を極力隠蔽しようとした天皇制国家や帝国陸軍と同じ隠蔽(密閉)体質が、今日の日本の国家や社会の中にも厳然と存在しているのではないか、いいかえれば、「この五十五年前〔今から言えば、80年前だが〕の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか」という思いをもって、ノモンハン戦争にこだわり続けているのである。「モリ・カケ」問題や「桜を見る会・前夜祭」問題などに見られた旧安倍政権や、それを引き継いだ今の自民党政権の隠蔽(密閉)体質を見ていると、村上の危惧が決して杞憂ではないことを強く感じざるをえない。そして、これが日本だけの問題ではないことは北朝鮮などを見れば明らかであろう。問題は国家というものの本質にかかわっているのである。飯塚には、この国家というものに対する懐疑が本質的に欠如していたように思われる。

(「世界史の眼」No.19)

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