はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、前号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、本号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
中島敦に「Ⅾ市七月叙景(一)」という作品がある。第一高等学校『校友会雑誌』第325号(1930年1月)に掲載されたもので、「Ⅾ市」(大連)に関係する三題話といった趣の作品である。その三番目が大連港や大連の油房で働く「クーリー」(苦力)の話で、次のように始まる。
〔大連の〕「港は七月の午後の日ざしにあえいで居た」。「トロッコのレールを避けて、埠頭倉庫の日陰に荷揚苦力が二三十人も、ゴロゴロと死んだ様になって眠って居た」。「その中に、たった一人起きて居る男が居た。彼は右手で瓜のかけらをもって齧りながら、〔中略〕さっきからボンヤリと陸の方を眺めていた」。「しばらくすると、埠頭事務所の入口の扉硝子が内側から開いて、恐ろしく背の高い痩せた苦力が一人、元気なく出てきた」。「瓜を喰って居た男は鈍い黄色い目を上げて、その男を仰いだ」。「?」、「駄目だったよ。とても」、「何処もか?」、「ウン」。「二人は互にがっかりした顔を見合せた」。「二人は、ぐったりして暫くの間動かなかった」。「背の高い方が突然立ち上がった」。「おい何処かに行こう」、「こんな所に居ても、仕方がないじゃないか」。「歩きながら一人は、もう一度心配そうにたずねた」。「お前、どうする気だ?ほんとに」、「分らんよ、どうにか、なるだろう」、「営口へでも行くか。歩いて。あそこなら少しはいいかも知れんぞ」。「一人は、それには答えずに、不機嫌そうな顔をして黙々と歩み続けた」。(『中島敦全集1』筑摩文庫、364-367頁)
「クーリー」(苦力)たちは仕事を求めて大連市中をさ迷い歩くが、どこにも仕事は見つからない。その状況について中島は次のように書いている。
此の地方の主要工業製品である豆粕や豆油が、近来、外国のそれに圧倒されてきたこと。殊にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと。それに第一、肥料としての豆粕が、近頃は已に硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること。こんなことを彼等苦力が知ろう筈はない。七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった時、彼等は全く途方に暮れて了った。彼等は早速沙河口の〔満鉄の〕鉄道工場や、硝子工場に行って見た。だが、空いて居る筈はなかった。彼等は、それで波止場に来た。だが、今は一年中で一番ひまな時であった。六月から十月迄、――之が此の港でいう所の閑散期であった。(『中島敦全集 1』筑摩文庫、367頁)
中島のこの記述については、『満洲日報』の1929年の各号の記事に依拠したものであるとする指摘が出されている(安福智行「『D市七月叙景(一)』論―『満洲日報』を視座として」佛教大学国語国文学会『京都語文』、2001年)。『満洲日報』は1907年に満鉄初代総裁、後藤新平の肝いりで大連において発刊された『満洲日日新聞』の後身で、1927年に『遼東新報』を併合した際に『満洲日報』と改称された。『満洲日日新聞』(『満洲日報』)は満鉄の準機関紙的な性格の強い新聞であるが、当時の満洲においては有力な新聞であった。1935年、『大連新聞』を併合した際、『満洲日日新聞』という旧称に戻された。したがって、中島が資料として利用したとされる1929年の各号はたしかに『満洲日報』の名のもとに発行されていた。
上引の中島の記述のうち、『満洲日報』の記事に依拠しているのではないかとされているのは主に次の二点である。(1)「特にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと」、(2)「それに第一、肥料としての豆粕が、近頃は已に硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること」。(1)はドイツが大豆のまま大連港から本国に積み出し、ベンジン抽出法などの新技術で効率よく豆油や豆粕を製造するようになったということ、(2)は豆粕と同じ窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の使用が広がり始め、豆粕と競合状態になってきたということである。これら二点はたしかに『滿洲日報』1929年の各号に同様の記事が見られる。『満洲日報』は日本(東京)でも発売されていたから、中島が『滿洲日報』を購読し、これらの記事を見ていたということは考えられる。その場合、中島は植民地朝鮮の京城中学校を卒業後、第一高等学校に入学した後も満洲の政治・経済状況に深い関心を持ち、『満洲日報』といった一般の人が読まないような新聞を購読していたということになる。中島は、1925年、京城中学校4年の時の修学旅行で大連、奉天など満洲各地を旅行している。中島の満洲への関心はそこから芽生えたのであろう。
しかし、1920年代末から1930年代、満洲の豆油・豆粕製造業が不振に陥っていることを指摘し、その原因として上記二点を挙げる文献は他にもたくさんあった。したがって、中島の記述の素材として、『満洲日報』以外の文献を考えることも可能であろう。
中島の上引の文中、事実と大きく異なる箇所が1か所ある。それは、「七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった」という個所である。これでは、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったように読めるが、これはかなりの誇張である。当時、大連の油房が不況に苦しんでいたことは事実だが、1931年になっても、大連では52の油房が営業しており、その半数以上は大豆の破砕に水圧を用いる改良型の油房であった。また、豊年製油大連工場も稼働していた(満鉄商工課編「満洲大豆粕と其飼料化に就いて」)。
中島は大連の「クーリー」たちの窮状を強調したくて、このような誇張を行ったのであろう。
4 清岡卓行『アカシアの大連』
清岡卓行(1922-2006年)は大連で生まれ、旧制大連第一中学校卒業まで大連で過ごした。その後、東京に出て、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進学したが、敗戦間近の1945年4月初め、大連に戻った。その時のことを清岡は次のように書いている。
〔大連は〕東京のある大学の一年生であった彼〔清岡〕が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そしてやがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることになり、思いがけなくも結婚した町である。(清岡卓行『アカシアの大連』講談社、1970年、87-88頁)
清岡卓行『アカシアの大連』は数年間の東京生活を間に挟みながら、20数年に及んだ大連での生活やそこでの思索を50歳近くなった清岡が回顧した作品である。ただ、その中に1か所だけ、この作品の全体的な基調音とは際立って異なる部分がある。それは清岡が中国人労働者の集住していた寺児溝という地域を訪ねた時の体験と、大連港において大きな円盤状の豆粕を船に積み込む「苦力」たちの姿を描いた部分である。清岡は次のように書いている。
彼は小学校の六年生頃、大連の東部にあった中国人の居住地、寺児溝の一部における惨憺たる有様を眺め、ほとんど恐怖に近いものを覚えたことがあった。それは、たまたま、その地区にある大きな材木置場の中の日本人の番人の家に遊びに行ったときのことであった。その家の男の子が、彼と同級生で、その誕生日の祝いに招かれたのであった。
戸外で遊び廻っていたとき、彼は、中国人ふうの普通の家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、今にも潰れそうになっている家とか、そのほか貧困そのものの象徴であるような住居を、いろいろと沢山見た。山東から、芝罘で、戎克に乗って、直隷海峡〔渤海海峡〕を渡ってやってきている中国人の労働者、いわゆる苦力の多くはこのへんに住んでいるのだろうと彼は想像した。そして、共同便所にはいったとき、その壁の隅に「打倒日本」という文字がいくつか落書されているのを見て、もしかしたら自分はここで誘拐されるのではないかと不安を感じた。(『アカシアの大連』139-140頁)
町の中を走っている電車にも、苦力専用のものがあった。それは寺児溝に通じていた。ほんの少し料金が安いその電車に、彼は小づかい銭を倹約するために乗ったことがあった。そのとき、苦力たちは一様に黙っていたが、車内に漂っている、汗臭く、エネルギッシュな、そして少し大蒜の匂いが混じっているような空気に、彼はいくらか圧倒されるような気持になったものであった。
大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。その光景は、いつまでも繰返される苦役のような感じであった。それが、日本人とは差別された実に安い報酬によるものであるということを、そのときの彼は知らなかった。(『アカシアの大連』140-141頁)
この清岡の記述は彼が小学校6年生頃のこととして書かれているので、おそらく1930年代半ばの状況を示しているのであろう。
前述のように、日露戦争後、遼東半島が日本の租借地となると、多くの中国人が仕事を求めて大連に流入した。彼らは大連港や油房の人夫、人力車夫、馬車夫などとして働いていた。1909~10年のペスト流行を機に、彼らをそれぞれの職種ごとに1か所に集住させることを目的として、民間の手で「クーリー収容所」、「人力車夫収容所」などが設営された。「クーリー収容所」は大連埠頭の荷役を一手に引き受けていた満鉄の子会社、福昌公司が経営する収容人員一万人の大収容所であった(「福昌公司 華工収容所」)。この収容所は壁に囲まれまさに隔離の状態にあった(水内俊雄「植民地都市大連の都市形成――1899~1945年」『人文地理』37-5、1985年、62、64頁)。この「クーリー収容所」には、大連港の荷役人夫だけでは無く、油房の中国人労働者も多く居住していたのであろう。「クーリー収容所」に隣接する「大連東部」は油房工場地区だったからである。
しかし、その後も中国人労働者の流入は続き、大連の都市計画地域の外に、自然発生的に中国人労働者の集落ができていった。清岡がその悲惨さに「ほとんど恐怖に近いものを覚えた」と書いている「寺児溝」もその一つであった。寺児溝は「大連東部」地区よりさらに東南の海岸に近い崖の多い所である。それで、清岡が書いているように、「崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家」が多かったのであろう。寺児溝の人口は、1935年には、約24000人になっていた(水内前掲論文、64頁)。
清岡が一度乗ったことがあると書いている「苦力専用」の電車というのは中国人労働者の就業場所と居住地域を往復する電車で、当時、「労工車」と呼ばれていた(水内前掲論文、65頁)。清岡によれば、そのうちの一つの路線が寺児溝まで通っていたということである。「苦力専用」といっても、少年清岡が乗れたのだから、日本人が全く乗れなかったということではないのであろう。
「大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた」と清岡は書いている。これは人力あるいは水圧で大豆を破砕して豆油を抽出する在来型の油房で産出される豆粕で、大きな円盤状に固められていた。それで、「円糟」(「円粕」)と呼ばれていた。それに対して、ベンジン抽出法により産出される豆粕はバラバラで固められていなかったので「撒糟」(「撒粕」)と呼ばれていた(前掲『満洲大豆』、32頁)。大連埠頭では、1930年代になっても、「円糟」(「円粕」)を何枚も背負って歩く中国人労働者の姿がよく見られたのである。
おわりに
大連における豆油・豆粕製造業は20世紀初めに始まり、第一次世界大戦期に急速に発展した。しかし、戦後の不況期に衰勢に向かい、大恐慌期には不振状態に陥った。だからといって、衰退しきってしまったわけではなく、1930~40年代にも豆油・豆粕の生産は続けられていた。
本章で取りあげた3人のうち、夏目漱石は大連のきわめて初期の油房を観察していて、その記述は貴重ということができる。それに対して、中島敦が描いている状況は大恐慌期直前の大連である。まだ大恐慌の直接的な影響が及んでいるようではないが、大連をめぐるある変動を感じ取ることができる。ただし、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったかのような記述は文学的潤色としても問題であろう。少年清岡は父が満鉄の技師だったから、南山麓という日本人用の高級住宅地に住んでいたので、大連の「恐怖をも誘う汚い部分」(『アカシアの大連』140頁)に触れることは少なかったが、寺児溝での体験や大連埠頭で働く中国人労働者の姿を通して、「植民地都市」大連における民族的矛盾にうすうす感づいていた。しかし、それを意識化することができたのは大学を休学して、大連に戻ってからであった。
(「世界史の眼」No.53)