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「世界史の眼」No.53(2024年8月)

今号では、小谷汪之さんに「大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―」を、また、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―」をご寄稿頂いています。「大連からの世界史」は今号で完結します。また、東京経済大学の早尾貴紀さんに、昨年刊行されたラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』を書評して頂きました。

小谷汪之
大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―

早尾貴紀
書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊

ラシード・ハリーディー(鈴木啓之、山本健介、金城 美幸訳)『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』(法政大学出版局、2023年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

世界史研究所のメンバーが中心になって企画した『歴史はなぜ必要なのか』(岩波書店、2022年)が、『立命館アジア・日本研究学術年報』第4号(2023年8月)にて書評されました。とてもしっかりとした書評で、ありがたく受け止めました。下記に公開されていますので、ご覧ください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ritsumeikanasiajapan/4/0/4_180/_pdf/-char/ja

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大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、前号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、本号)

3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」

 中島敦に「Ⅾ市七月叙景(一)」という作品がある。第一高等学校『校友会雑誌』第325号(1930年1月)に掲載されたもので、「Ⅾ市」(大連)に関係する三題話といった趣の作品である。その三番目が大連港や大連の油房で働く「クーリー」(苦力)の話で、次のように始まる。

 〔大連の〕「港は七月の午後の日ざしにあえいで居た」。「トロッコのレールを避けて、埠頭倉庫の日陰に荷揚苦力が二三十人も、ゴロゴロと死んだ様になって眠って居た」。「その中に、たった一人起きて居る男が居た。彼は右手で瓜のかけらをもって齧りながら、〔中略〕さっきからボンヤリと陸の方を眺めていた」。「しばらくすると、埠頭事務所の入口の扉硝子が内側から開いて、恐ろしく背の高い痩せた苦力が一人、元気なく出てきた」。「瓜を喰って居た男は鈍い黄色い目を上げて、その男を仰いだ」。「?」、「駄目だったよ。とても」、「何処もか?」、「ウン」。「二人は互にがっかりした顔を見合せた」。「二人は、ぐったりして暫くの間動かなかった」。「背の高い方が突然立ち上がった」。「おい何処かに行こう」、「こんな所に居ても、仕方がないじゃないか」。「歩きながら一人は、もう一度心配そうにたずねた」。「お前、どうする気だ?ほんとに」、「分らんよ、どうにか、なるだろう」、「営口へでも行くか。歩いて。あそこなら少しはいいかも知れんぞ」。「一人は、それには答えずに、不機嫌そうな顔をして黙々と歩み続けた」。(『中島敦全集1』筑摩文庫、364-367頁)

 「クーリー」(苦力)たちは仕事を求めて大連市中をさ迷い歩くが、どこにも仕事は見つからない。その状況について中島は次のように書いている。

 此の地方の主要工業製品である豆粕や豆油が、近来、外国のそれに圧倒されてきたこと。殊にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと。それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること。こんなことを彼等苦力が知ろう筈はない。七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった時、彼等は全く途方に暮れて了った。彼等は早速沙河口の〔満鉄の〕鉄道工場や、硝子工場に行って見た。だが、空いて居る筈はなかった。彼等は、それで波止場に来た。だが、今は一年中で一番ひまな時であった。六月から十月迄、――之が此の港でいう所の閑散期であった。(『中島敦全集 1』筑摩文庫、367頁)

 中島のこの記述については、『満洲日報』の1929年の各号の記事に依拠したものであるとする指摘が出されている(安福智行「『D市七月叙景(一)』論―『満洲日報』を視座として」佛教大学国語国文学会『京都語文』、2001年)。『満洲日報』は1907年に満鉄初代総裁、後藤新平の肝いりで大連において発刊された『満洲日日新聞』の後身で、1927年に『遼東新報』を併合した際に『満洲日報』と改称された。『満洲日日新聞』(『満洲日報』)は満鉄の準機関紙的な性格の強い新聞であるが、当時の満洲においては有力な新聞であった。1935年、『大連新聞』を併合した際、『満洲日日新聞』という旧称に戻された。したがって、中島が資料として利用したとされる1929年の各号はたしかに『満洲日報』の名のもとに発行されていた。

 上引の中島の記述のうち、『満洲日報』の記事に依拠しているのではないかとされているのは主に次の二点である。(1)「特にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと」、(2)「それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること」。(1)はドイツが大豆のまま大連港から本国に積み出し、ベンジン抽出法などの新技術で効率よく豆油や豆粕を製造するようになったということ、(2)は豆粕と同じ窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の使用が広がり始め、豆粕と競合状態になってきたということである。これら二点はたしかに『滿洲日報』1929年の各号に同様の記事が見られる。『満洲日報』は日本(東京)でも発売されていたから、中島が『滿洲日報』を購読し、これらの記事を見ていたということは考えられる。その場合、中島は植民地朝鮮の京城中学校を卒業後、第一高等学校に入学した後も満洲の政治・経済状況に深い関心を持ち、『満洲日報』といった一般の人が読まないような新聞を購読していたということになる。中島は、1925年、京城中学校4年の時の修学旅行で大連、奉天など満洲各地を旅行している。中島の満洲への関心はそこから芽生えたのであろう。

 しかし、1920年代末から1930年代、満洲の豆油・豆粕製造業が不振に陥っていることを指摘し、その原因として上記二点を挙げる文献は他にもたくさんあった。したがって、中島の記述の素材として、『満洲日報』以外の文献を考えることも可能であろう。

 中島の上引の文中、事実と大きく異なる箇所が1か所ある。それは、「七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった」という個所である。これでは、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったように読めるが、これはかなりの誇張である。当時、大連の油房が不況に苦しんでいたことは事実だが、1931年になっても、大連では52の油房が営業しており、その半数以上は大豆の破砕に水圧を用いる改良型の油房であった。また、豊年製油大連工場も稼働していた(満鉄商工課編「満洲大豆粕と其飼料化に就いて」)。

 中島は大連の「クーリー」たちの窮状を強調したくて、このような誇張を行ったのであろう。

4 清岡卓行『アカシアの大連』

 清岡卓行(1922-2006年)は大連で生まれ、旧制大連第一中学校卒業まで大連で過ごした。その後、東京に出て、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進学したが、敗戦間近の1945年4月初め、大連に戻った。その時のことを清岡は次のように書いている。

〔大連は〕東京のある大学の一年生であった彼〔清岡〕が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そしてやがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることになり、思いがけなくも結婚した町である。(清岡卓行『アカシアの大連』講談社、1970年、87-88頁)

 清岡卓行『アカシアの大連』は数年間の東京生活を間に挟みながら、20数年に及んだ大連での生活やそこでの思索を50歳近くなった清岡が回顧した作品である。ただ、その中に1か所だけ、この作品の全体的な基調音とは際立って異なる部分がある。それは清岡が中国人労働者の集住していた寺児溝という地域を訪ねた時の体験と、大連港において大きな円盤状の豆粕を船に積み込む「苦力」たちの姿を描いた部分である。清岡は次のように書いている。

彼は小学校の六年生頃、大連の東部にあった中国人の居住地、寺児溝の一部における惨憺たる有様を眺め、ほとんど恐怖に近いものを覚えたことがあった。それは、たまたま、その地区にある大きな材木置場の中の日本人の番人の家に遊びに行ったときのことであった。その家の男の子が、彼と同級生で、その誕生日の祝いに招かれたのであった。
 戸外で遊び廻っていたとき、彼は、中国人ふうの普通の家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、今にも潰れそうになっている家とか、そのほか貧困そのものの象徴であるような住居を、いろいろと沢山見た。山東から、芝罘チーフで、ジャンに乗って、直隷海峡〔渤海海峡〕を渡ってやってきている中国人の労働者、いわゆる苦力の多くはこのへんに住んでいるのだろうと彼は想像した。そして、共同便所にはいったとき、その壁の隅に「打倒日本」という文字がいくつか落書されているのを見て、もしかしたら自分はここで誘拐されるのではないかと不安を感じた。(『アカシアの大連』139-140頁)
 町の中を走っている電車にも、苦力専用のものがあった。それは寺児溝に通じていた。ほんの少し料金が安いその電車に、彼は小づかい銭を倹約するために乗ったことがあった。そのとき、苦力たちは一様に黙っていたが、車内に漂っている、汗臭く、エネルギッシュな、そして少し大蒜にんにくの匂いが混じっているような空気に、彼はいくらか圧倒されるような気持になったものであった。
 大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。その光景は、いつまでも繰返される苦役のような感じであった。それが、日本人とは差別された実に安い報酬によるものであるということを、そのときの彼は知らなかった。(『アカシアの大連』140-141頁)

 この清岡の記述は彼が小学校6年生頃のこととして書かれているので、おそらく1930年代半ばの状況を示しているのであろう。

 前述のように、日露戦争後、遼東半島が日本の租借地となると、多くの中国人が仕事を求めて大連に流入した。彼らは大連港や油房の人夫、人力車夫、馬車夫などとして働いていた。1909~10年のペスト流行を機に、彼らをそれぞれの職種ごとに1か所に集住させることを目的として、民間の手で「クーリー収容所」、「人力車夫収容所」などが設営された。「クーリー収容所」は大連埠頭の荷役を一手に引き受けていた満鉄の子会社、福昌公司が経営する収容人員一万人の大収容所であった(「福昌公司 華工収容所」)。この収容所は壁に囲まれまさに隔離の状態にあった(水内俊雄「植民地都市大連の都市形成――1899~1945年」『人文地理』37-5、1985年、62、64頁)。この「クーリー収容所」には、大連港の荷役人夫だけでは無く、油房の中国人労働者も多く居住していたのであろう。「クーリー収容所」に隣接する「大連東部」は油房工場地区だったからである。

 しかし、その後も中国人労働者の流入は続き、大連の都市計画地域の外に、自然発生的に中国人労働者の集落ができていった。清岡がその悲惨さに「ほとんど恐怖に近いものを覚えた」と書いている「寺児溝」もその一つであった。寺児溝は「大連東部」地区よりさらに東南の海岸に近い崖の多い所である。それで、清岡が書いているように、「崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家」が多かったのであろう。寺児溝の人口は、1935年には、約24000人になっていた(水内前掲論文、64頁)。

 清岡が一度乗ったことがあると書いている「苦力専用」の電車というのは中国人労働者の就業場所と居住地域を往復する電車で、当時、「労工車」と呼ばれていた(水内前掲論文、65頁)。清岡によれば、そのうちの一つの路線が寺児溝まで通っていたということである。「苦力専用」といっても、少年清岡が乗れたのだから、日本人が全く乗れなかったということではないのであろう。

 「大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた」と清岡は書いている。これは人力あるいは水圧で大豆を破砕して豆油を抽出する在来型の油房で産出される豆粕で、大きな円盤状に固められていた。それで、「円糟」(「円粕」)と呼ばれていた。それに対して、ベンジン抽出法により産出される豆粕はバラバラで固められていなかったので「撒糟」(「撒粕」)と呼ばれていた(前掲『満洲大豆』、32頁)。大連埠頭では、1930年代になっても、「円糟」(「円粕」)を何枚も背負って歩く中国人労働者の姿がよく見られたのである。

おわりに

 大連における豆油・豆粕製造業は20世紀初めに始まり、第一次世界大戦期に急速に発展した。しかし、戦後の不況期に衰勢に向かい、大恐慌期には不振状態に陥った。だからといって、衰退しきってしまったわけではなく、1930~40年代にも豆油・豆粕の生産は続けられていた。

 本章で取りあげた3人のうち、夏目漱石は大連のきわめて初期の油房を観察していて、その記述は貴重ということができる。それに対して、中島敦が描いている状況は大恐慌期直前の大連である。まだ大恐慌の直接的な影響が及んでいるようではないが、大連をめぐるある変動を感じ取ることができる。ただし、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったかのような記述は文学的潤色としても問題であろう。少年清岡は父が満鉄の技師だったから、南山麓という日本人用の高級住宅地に住んでいたので、大連の「恐怖をも誘う汚い部分」(『アカシアの大連』140頁)に触れることは少なかったが、寺児溝での体験や大連埠頭で働く中国人労働者の姿を通して、「植民地都市」大連における民族的矛盾にうすうす感づいていた。しかし、それを意識化することができたのは大学を休学して、大連に戻ってからであった。

(「世界史の眼」No.53)

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世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―
南塚信吾

1. 蝦夷地における《商場知行制》 

 北前船は、蝦夷では松前において、南から運んできた品々を売りさばいて、代わりに昆布などを買い付け、それを南へ運んだ。では、蝦夷ではどのように昆布などが入手できたのだろうか。誰が、どこで、どのような方法で昆布が取れ、売られたのだろうか。それはアイヌの人々を抜きには考えられない。(本稿では、北海道全体を「蝦夷」とし、その中で松前氏を中心とする「和人地」と区別されたアイヌの地を「蝦夷地」と記すことにする。)

(1) 松前藩 

13世紀以降、アイヌの人々は、北はサハリンからアムール川流域の地に始まり、千島、蝦夷を経て、南は津軽・下北半島までを生産と生活の場とし、「交易の民」として活発な活動を行っていた。これに刺激されて、和人も蝦夷に流入し、道南と津軽の地は、アイヌ集団と和人の混在する境界の地として意識されていた。1457年(長禄元年)、渡島半島のアイヌの首領コシャマインの蜂起がおこり、圧倒的なアイヌの攻勢によって、和人はわずかに松前と天の川に集住することになった。この和人の中では、蠣崎氏が勢力を伸ばし、アイヌとの交易を独占する体制を作り、蝦夷地とは区別される「和人地」の原型を作っていった(荒野他編 2013 277―282頁;淡海文化を育てる会 2001 96-98頁)。

(荒野 2003 147頁)

 蠣崎氏は1593年(文禄2年)に豊臣政権より松前での船役徴収権(松前に入る船への徴税権)を認められ、蝦夷松前につき事実上大名領主権を与えられたが、1604年(慶長9年)には松前氏(1599年に蠣崎氏を改め松前氏)は徳川家康によって蝦夷松前での独占的な交易權を認められ、ここに松前藩が確定した。これ以後、松前氏以外のものは松前氏の許可なくアイヌとの交易ができなくなった。アイヌの人々は、交易品を松前城下に持ち込み一定の儀礼を踏まえて藩主に贈り物をし、藩主がアイヌに必要なものを贈るという関係が続いた。「朝貢」的な城下交易であった。アイヌと松前氏の間に何等の支配関係はなく、アイヌは旧来の風俗習慣を守り、コタン(部落)の自活を行ない、もちろん租税などは納めず、松前藩主と直接的なつながりはなかった。

 しかし、1630年代に「和人地」が確定すると城下交易は廃止され、交易は、和人地の外、つまり蝦夷地に設定された「商場(あきないば)」に限定された。松前氏は蝦夷地のアイヌとの通商や漁業をする縄張を「商場」として独占権利化し、アイヌとの交易の権利を「知行」として上級の家臣(給人)に分け与えた。この各地の「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行った。この利益が給人の封建給付となった。これを「商場知行制」と言った(白山 1971 9-10、17、31頁;菊地 1994 70-71頁;80-81;荒野編 2003 146頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

 「商場」が設定されたのはアイヌが生活し生産をする場である河川流域の漁猟場の中であった。そこに知行主が毎年交易船を派遣して、アイヌと物々交換をした。これはアイヌの漁猟場を破壊することを意味し、アイヌは、特定の商場で特定の知行主としか交易ができなくなり、受動的な立場に置かれた(白山 1971 29-31頁;白山は商場知行制とのちの場所請負制とをはっきりとは区別していない)。

 これは、松前氏及びアイヌが徳川幕府の支配体制に組み込まれたことも意味した。こういう体制の下で、アイヌは次第に従来の生活・交易様式を続けられなくなった。とくにアイヌの交易相手が特定の商場知行主に限定され、交易の自由が奪われた。それへの反発として日高地方で起きたのが、1669年(寛文9年)のシャクシャインの蜂起であった。この蜂起が鎮圧されると、アイヌ社会は崩壊に向かったのである(荒野編 2003 148-149頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

(2) 近江商人 

 「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行ったが、「商場知行制」のもとでは、知行主の武士(給人)は不得手な漁業経営をし、複雑化したアイヌ社会を相手に苦手な商業をせざるを得なくなった。そこで漁業経営と交易の権利を内地から来た商人に委ね、商人は一定の金額(運上金)のもとにそれを請け負った。実際に交易を主として請け負ったのが、近江の商人たちであった。

 そもそも松前に近江商人が着いたのは1588年(天正16年)と言われる。その後寛永年間(1624-44年)に集中的に近江商人が松前や江差に入った。建部七郎右衛門、岡田弥三右衛門(八十次)や西川伝右衛門などの近江商人は、はじめは松前城下に住んで、呉服、太物、荒物を商い、日常生活に必要なものを上方から仕入れて販売し、松前の物資を上方に売るという商いをした。やがて、かれらは「商場」を請け負ったのである。たとえば岡田家は小樽、西川家は忍路(オショロ)に「商場」を得た。かれらは自分の裁量で漁場を運営し、アイヌを使役して経営を行い、そこで獲れた干鱈(ひだら)、干鰯(ほしか=ほしいわし)、干鮑(ほしひ=ほしあわび)白子、昆布、わかめなどを、近江を経て京・大坂に送り、日曜品や米や衣料を持ち込んだ。松前氏にとっても商人は大事な存在であった。近江商人達は,「両浜組」という仲間組織をつくって,松前藩から,通行税の免除などの特権を与えられた(白山 1971 66-67頁に西川家の忍路の例あり;淡海文化を育てる会 2001 108-111;115頁)。こうした近江商人は、商場知行制の中で蝦夷地産物の商品化に道を開いた。

 近江商人らが「商場」での取引で内地へ送る荷は「荷所荷」と呼ばれ、それを運ぶ船を「荷所船」と呼んだ。「荷所荷」は松前から敦賀ないし小浜の港を経て近江へ運ばれた。そこから、京・大坂へさらに運ばれたわけである。「荷所船」には敦賀から石川の橋立にいたる地域の船主の船が雇われ、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野 1979 41頁;菊地 1994 117-118頁;淡海文化を育てる会 2001 121-127頁)。この「荷所船」がやがて北前船に取って代わられることになる。

(3) 昆布とアイヌ  

 松前の近江商人らがアイヌから入手したのは、干鱈、干鰯、干鮑、昆布、わかめなどであったが、やがてニシンや昆布や木材となり、とくに〆粕として肥料に使われたニシンと、中国向け輸出用の昆布が重要な産品となっていった。

 昆布の生育地は、南部・津軽地方の沿岸以北、主として北海道であった。また、昆布の採取は、おもに先住民族であるアイヌによって行われていた。「昆布」の語源は、やはりアイヌ語にあると言われている(函館市地域史料アーカイヴ)。

 日高の方では、アイヌは、昆布はカミサマのお髭だから取ってはいけないと言われていたという(「名勝襟裳岬」《風の館》)。昆布を商品として大量に取るようになったのは、和人が入ってからではないだろうか。

 1643年(寛永20)の『新羅之記録』には、「1640年(寛永17)6月13日、駒ヶ岳が突然噴火して大津波がおこり、百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」とある。ただし、『松前年々記』の寛永17年の記には、夏6月に「津波、商船の者ども並びに蝦夷人ども人数七百人死」と記され、松前家の記録である『福山舊記録』にも「津波、商船・夷舶夷船、船人数七百余人溺死」と記されている。文中の商船とは、昆布採取の出稼ぎ、あるいは商(あきな)いに来ている和人の船で、夷舶夷船は、アイヌの船(チップ)と解される。この両書とも和人、アイヌ合わせて七百余人溺死とある(『松前年々記』)。

 上の史料からは、昆布取りには和人、アイヌを含め大勢の漁民が船で乗り出して作業をしていたことが分かる。そこで取れた昆布は乾かして交易所へ持ち込まれ、商人を介して、松前に送られたわけである。

 昆布は長崎における対中貿易と関連していた。1698(元禄11)年、幕府は対中貿易における支払い手段としての銅の生産が減ったので、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。各地から俵物を集荷する体制を整え、長崎には奉行所の監督下で貿易事務を扱う長崎会所が置かれた。このとき、昆布も諸色として認められた。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。昆布は蝦夷の特産であったから、これ以後、蝦夷にとって昆布が重要な産品となった(菊地 1994 185-186頁;神長 2022 55頁)。

 荒野の言う松前口はこのように始まり展開していった(荒野 2003 146-149頁)。そして、このような昆布を提供するための蝦夷地と和人地の関係は、18世紀の前半、享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)以降、根本的に変化するのである。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の研究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
函館市地域史料アーカイヴ
https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040
『松前年々記』
https://jmapps.ne.jp/hmcollection1/pict_viewer.html?data_id=214242&shiryo_data_id=160688&site_id=SIM003BLA&lang=ja&theme_id=SIM003&data_idx=0

(「世界史の眼」No.53)

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書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊
早尾貴紀

 本書は2020年に刊行されたRashid Khalidi, Hundred Years’ War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917-2017の全訳である。著者のラシード・ハーリディーはアメリカ合衆国生まれのパレスチナ人で、近現代アラブ・パレスチナ史の研究者である。そして本書の内容をまずは目次で確認すると以下のとおりである。

序章
第1章 最初の宣戦布告 1917~1939年
第2章 第二の宣戦布告 1947~1948年
第3章 第三の宣戦布告 1967年
第4章 第四の宣戦布告 1982年
第5章 第五の宣戦布告 1987~1995年
第6章 第六の宣戦布告 2000~2014年
終章 パレスチナ戦争の1世紀

 こうして見るとシンプルに通史的であること、各章がひじょうに明確に、1917年のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設への英国の支持表明)、1947年の国連パレスチナ分割決議(および48年のイスラエル建国宣言)、1967年の第三次中東戦争(西岸・ガザ地区の全面占領開始)、1982年のレバノン侵攻(難民キャンプの虐殺とPLOの追放)、1987年の第一次インティファーダ(被占領地からの抵抗運動)、2000年の第二次インティファーダ(オスロ体制の欺瞞への抗議)をそれぞれ起点とした、一般的な時代区分となっていること、が読み取れる。

 しかしそう書くと、よくある概説書とどう違うのかと思われる向きもあるだろう。しかし、本書は以下の3点において、比類のない書物となっている。

 1点目としては、著者がエルサレムの名門一家ハーリディー家(学者や法律家を輩出してきた)の子孫であることから、「曽祖父の叔父」の代からシオニスト(ユダヤ人国家推進者)らと直接の交渉があったり、以降それに抵抗するパレスチナ・ナショナリスト内で「伯父」など親族が重要な役割を果たしたりするなど、深くこの地の政治史に直接関わった家系をもち、それに関する私的な歴史資料への特権的なアクセスを得ていることが挙げられる。その史料は、ハーリディー家の私設図書館に収蔵されており、そこには当事者の日記や書簡などの非公式文書も含まれる。さらには生前に親族から直接聞いていた証言も本書を支える貴重な史料を構成しており、本書はオーラルヒストリーとしての側面も有している。

 序章は、曽祖父の叔父ユースフ・ディヤー・アル=ハーリディーが「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルとやり取りをした書簡の分析から始まっており、すでにヨーロッパからの集団入植や土地の大規模購入が、先住民社会への壊滅的打撃を与える可能性について、緊迫した交渉がなされている。冒頭からその展開に引き込まれて読んだ。ヘルツルの『ユダヤ国家』は1896年の刊行、ユースフ・ディヤーの書簡、ヘルツルの返信は1899年。このやり取りの分析のなかに、本書の基底をなす「入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)」の本質がすでに現れている。その点で、本書の起点は副題にある1917年よりも実際さらに20年は遡る。ともあれ、本書が他の誰にも書き得ない特別な性格を持っているのは、この特権的な史料アクセスによる。(とりわけ第1・2章)

 2点目としては、アメリカ合衆国へ留学し国連で働いていた父のもとで生まれた著者自身が米国で学び学位を取り、そしてレバノン侵攻を挟む時期にはベイルート・アメリカン大学で教員をしながらPLOの活動にもコミットし、その後また米国に戻って米国の大学で教授職を得ながら、PLOと国連や米国政府との交渉にも関わったといった諸経験が、本書の論述の随所に描かれている。その意味で本書は「自伝」という側面も持つ。ハーリディー家という名門出という事情に加えて、パレスチナ人として最初期の米国留学者である父を持つという僥倖も手伝い、PLOの古参の活動家たちが無知ゆえに軽視した米国の圧倒的なシオニズムに対する影響力を間近で冷徹に見極めるという、その世代では稀有な分析力を著者にもたらした。しかも1976年から83年という決定的な時期を家族とともに活動家としてベイルートで暮らしたことは、単なる米国の知識人ではなく、イスラエルによる攻撃の凄まじさ、PLOの過ちや内紛、周辺アラブ諸国政府や党派の脆弱さを、身を以て知る当事者という要素を著者にもたらした。

 その後著者は、米国やパレスチナで交渉の場に立ったりアドバイザーになったりしながら、PLOないし自治政府が苦境に追い込まれていく過程にも立ち会っており、本書にはそうした時代の証言という意味合いもある。(とりわけ第3・4・5章)

 3点目として、分析や論述の内容に関わって。「宣戦布告」という各章のタイトルから年代区分の最初の出来事を焦点化しがちだが、本書においては各章で最も深く注目するのはそこではない。1章では、1922年からの国際連盟のもとでのイギリス委任統治のもとで実質的に「委任統治」の理念を全く逸脱し、先住民のパレスチナ人を無視してシオニスト入植者のユダヤ機関のみに代表性と自治を認めたことが、すでにパレスチナ人の「追放」を前提とした入植者植民地主義の制度化であると指摘している。2章で最も紙幅を割いているのは、アラブ新興独立国の脆弱性(旧宗主国英国への依存と新覇権国米国への無知)と相互の対立とパレスチナの利用である。分割決議とナクバだけで語れる問題ではない。3章で繰り返し焦点化されるのは安保理決議242号の罠である。一見「1967年占領地からの撤退」を求めた文面でありながら、その真意の一つは分割決議を大幅に逸脱したイスラエル領「1948年占領地」(1949年休戦ライン)の自然化・固定化であり、もう一つは撤退のためにイスラエルとアラブ諸国との和平条約を促すことであった。すなわちイスラエルの存在をアラブ諸国に認めさせつつ、パレスチナ問題を消去する狙いがあり、実際これ以降、この決議242が中東和平を規定していく。

 4章では、いかにPLOがレバノン国民の反感を買い戦略的に失敗し撤退に至ったのかを、5章では、いかにインティファーダを担った被占領地内のパレスチナ民衆と在外指導部のPLOとが乖離していたか、そしてPLO指導部の判断の誤りと甘さでオスロ体制という壊滅的な罠(パレスチナ自治など実質皆無なままイスラエルは存在を承認され占領・入植も自在にできる仕組み)に陥ったのかを、6章では、第二次インティファーダでそのオスロへの抵抗の仕方において、PLOもハマースも勝ち目がないどころか逆効果しかない貧弱な武力に頼って自滅していったのかを論じている。総じて、自らも深く関与したPLOに対する批判は辛辣を極める。

 大きく3点、形式と内容から本書の特質を概観した。パレスチナ/イスラエル(シオニズム)の100年史を深く知るうえで、類書を見ない特異な書物であると言える。

 著者の論述に対して違和感を覚えたところを2箇所、触れておきたい。一つは6章の西岸・ガザの分断体制に至った経緯のところで、シオニズム・イスラエルの周到さと米国の影響力を訴える著者にしては、この分断の原因を、内部批判の誠実さとはいえ、PLOとハマースにのみ帰した論述は、分析として甘いと思う。著者は触れてはいないが、西岸地区ではイスラエルがハマースの議員と活動家をあらかた逮捕・一掃し、収監するかガザ「流刑地」送りにしたことからも、西岸地区=PLO支配の継続、ガザ地区=ハマースの封じ込め、という政治体制状の分断構図はイスラエルと米国が意図的に生み出したことである。「その手に乗らない」という抵抗ができなかった責任はパレスチナ側にもあるだろうが、分断体制の創出こそが、それ以降現在まで繰り返し続くガザ地区の封鎖攻撃を可能にしている以上、軽視はできない点である。

 もう一つの違和感は、終章のナショナリズムについての論述である。シオニズムを「血と土」を重視する中央ヨーロッパに由来するものとし、フランス革命やアメリカ革命を支えた自由主義の思想には反する、それゆえ現在のシオニズムも西洋民主主義の価値に反する、としているところは、フランス革命後のユダヤ人解放と市民社会化の失敗・挫折、排外主義的国民主義と反ユダヤ主義からシオニズムが生まれ出ていることを忘れてしまっている。現在のガザ攻撃においてネタニヤフ首相とヘルツォーグ大統領が揃って繰り返し「これは西洋文明を守る戦争だ」と欧米諸国に支援を求めていることもそこに繋がっている。

 またこのナショナリズム観と関わり同箇所において、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが生まれたことと、パレスチナ・ナショナリズムが生まれたことも、ともに「同様に偶然の積み重ね」であり、「入植者か先住者かといった違いは意味を持たない」という相対化をしているのは、著者が反論を予期しながら書いているとはいえ、やはり過度な短絡と感じる。イスラエルとパレスチナの相互承認と平等な共存を求めるためのレトリックという要素も認めるが、しかし著者自身のとりわけ序章・1章・2章の「入植者植民地主義」をめぐる周到な論述・分析を自ら無化させかねない性急さであると言わざるを得ない。

 最後に翻訳について。訳者たちの正確でかつ読みやすい翻訳を迅速に完成させ、大規模なガザ攻撃という事態のさなかに世に出されたことに感謝したい。一点だけ、本書の日本語訳タイトルは『パレスチナ戦争――入植者植民地主義と抵抗の百年史』であるが、直訳は『パレスチナ百年戦争――入植者植民地主義と抵抗の歴史』であり、「百年」の場所が主題から副題に移されている。訳者らで熟考した末に、よりシンプルな主題にしようという判断であろうが、主題だけを見た場合は、『パレスチナ戦争』(つまり副題まで見ないと「百年」が出てこない)よりも、やはり原書どおりに『パレスチナ百年戦争』のほうがよかったと私は思う。

(「世界史の眼」No.53)

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