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「世界史の眼」No.72(2026年3月)

今号では、小谷汪之さんに、新たな連載「蓼科の近代史」の初回、「蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓」を寄せて頂きました。今後連載して参ります。また、多摩大学の桐谷多恵子さんに、昨年刊行された豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)を書評して頂きました。また、世界史寸評として、南塚信吾さんの「日本の自民党大勝を世界史的に考える」を掲載しています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓

桐谷多恵子
書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』

南塚信吾
世界史寸評 日本の自民党大勝を世界史的に考える

豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、本号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 蓼科湖畔に下の写真のような「拓魂」の碑が建っている。

この碑の文面は次のとおりである。

   建立趣意

第二次世界大戦は敗戦の
烙印の下に終った。これ
迠、海外に雄飛せし同胞
は全て帰国し国土は荒廃
し食糧欠乏す、ここに有
志相諮り食糧増産の為入
植に決す、苦節十年の後
昭和三十五年竣工検査の
結果各自の所有となる。
時恰も観光開発の脚光を
浴びた当地はその施設の
中央に位し、各自よすが
を観光面に切り替え開拓
の努力は報いられて今日
に至る。この開拓用地は
湯川・塩沢・両財産区の
ものであったが、昭和二
十四年の緊急開拓措置令
により国が買収したもの
である。その概要を記し
児孫に傳う。

昭和六十三年七月吉日
  中山開拓農業協同組合
(誤字三カ所を修正)

 「拓魂」の碑というのは全国各地にたくさんあるが、その多くは、満洲開拓に送り出され、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦前後、ソ連軍の侵攻や現地民の襲撃に遭って命を落とした約8万人の満洲開拓移民たちを悼む慰霊碑である。しかし、蓼科湖畔の「拓魂」の碑は、それとは異なり、敗戦後国策として推進された戦後開拓にかかわるもので、碑を建てた「中山開拓農業協同組合」は蓼科山南麓の長野県諏訪郡北山村湯川区(現、茅野市大字北山・湯川区)から蓼科高原に戦後開拓に入った人たちの開拓農業協同組合である。

 本稿では現在の茅野市域(諏訪郡の旧村名で言えば、永明村、宮川村、金沢村、玉川村、泉野村、豊平村、北山村、湖東村、米沢村。図1「茅野市域の村区分」参照)、特に北山村に焦点を当てて、この地域からの満洲開拓移民と戦後開拓の歴史を追ってみたいと思う。

1 茅野市域からの満洲開拓移民

 長野県は全国の都道府県の中で、満洲開拓移民を最も多く送り出した県である。当時の外務省の統計によれば、1945年5月現在で、長野県送出の一般満洲開拓団員は31,264人で、2位山形県の13,252人の2倍以上である。都道府県総計で220,359人の一般満洲開拓団員の約15%を占めている。ただし、これらの数値は渡満計画中の人数を含むので、実数とはいくらか開きがあるとされている(『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会編、1966年、396~397頁)。

 『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)では、「長野県単独開拓団」が次の5類型に分類されている(開拓団名の前に付された年次は送出された年次を示している。1932年(昭和7年)に最初に送出された「第1次弥栄村開拓団」以降、年度にしたがって第2次、第3次というように表記された)。

(1)「全県編成開拓団」:「第5次黒台信濃村開拓団」など4開拓団
(2)「分村移民開拓団」:「第7次四家房大日向村開拓団」など12開拓団
(3)「分郷開拓団」:「第8次小古洞蓼科郷開拓団」など24開拓団
(4)「集合・農工・帰農開拓団」:「集合第1次康平長野開拓団」など11開拓団
(5)「報国農場」:「長野県農業会窪丹崗報国農場」など4開拓団

 これらの他に、満蒙開拓青少年義勇軍が3年間の現地訓練期間を終えて入植した「長野県単独義勇隊開拓団」(11開拓団)などを加えれば、長野県から満洲開拓に参加した者は4万人をくだらないであろうとされている(『長野県満州開拓史 各団編』)。

 この長野県全体から送出された満洲開拓移民の数と比べた時、現在の茅野市域から送出された満洲開拓移民はあまり多くないという印象を受ける。この地域からは第7次四家房大日向村開拓団(長野県南佐久郡大日向村の全村民の半数ほどが満洲に渡り、現地で大日向分村を形成した。伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年、参照)のような「分村移民開拓団」が送出されなかったこともその一因であろう。現在の茅野市域からの満洲開拓移民は以下の各開拓団に分散して参加していた。

(1)第5次黒台信濃村開拓団 7世帯
(2)第6次南五道崗長野村開拓団 4世帯
(3)第7次中和鎮信濃村開拓団 4世帯
(4)第8次張家屯信濃村開拓団 1世帯
(5)第8次富士見分村王家屯開拓団 8世帯
(6)第10次孫船八ヶ岳郷開拓団 66世帯
(7)第11次旭日落合開拓団 1世帯
(8)長野県農業会窪丹崗報国農場 1世帯
(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、446~447頁)

 これらの中で、例外的に茅野市域からの開拓移民が多かったのは「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」である。この開拓団は、1939年、農林次官だった小平権一(諏訪郡米沢村出身。図1「茅野市域の村区分」参照)が諏訪郡町村長会などに結成を呼びかけた「分郷開拓団」で、諏訪郡の2市18町村から団員が集められた。入植地は満洲最北部、ソ連国境の町・黒河に近い訥謨爾ノモルで、入植時には219世帯(戸)、746人が在籍していた。その後、軍隊への現地召集などで団員が減少したが、敗戦時にも554人が在団していた(『長野県満州開拓史 各団編』356~365頁)。

 この「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の団員のうち、66世帯(戸)が現在の茅野市域からの入植者で、その中には北山村出身の7世帯が含まれていた。その他の「長野県単独開拓団」には、北山村出身者はいなかった。ただし、「第3次瑞穂村開拓団」(1934年入植)には1世帯4人の北山村出身者が在籍していた(『茅野市史 下巻』446~447頁)。しかし、この開拓団は「第1次弥栄村開拓団」や「第2次千振開拓団」と同様のいわゆる「試験開拓団」(「武装開拓団」)の一つで、長野県を含む22県の在郷軍人会によって選抜された在郷軍人から構成されていた。したがって、この開拓団に在籍した北山村出身の1世帯も在郷軍人の世帯だったのであろう。その点では、1936年に広田弘毅内閣の下で満洲移民政策が本格化する前の初期的開拓団であった(『長野県満州開拓史 各団編』34~45頁)。

2 敗戦前後の満洲開拓移民

 1945年8月9日、ソ連軍が東、西、北の三方から満洲に侵攻し、それに呼応するように現地民が開拓村などを襲撃した。開拓民たちは南方に向かって避難したが、その過程で多くの死者が出た。『満洲開拓史』はその死者、未帰還(不明)者、帰還者を以下のように算出している(436~437頁)。

開拓団(928団)    死者67,680人 未帰還者9,550人  帰還者118,970人
義勇隊開拓団(102団) 死者3,200人  未帰還者1,000 人 帰還者17,800人
報国農場(74カ所)   死者1,120 人  未帰還者450人   帰還者3,200人

 これらの死者総計72,000人に未帰還(不明)者のうち死亡したと考えられる者6,500人を加えると、開拓団関係の死者は約8万人となる。これは敗戦時における満洲全体の日本人居留民死者約18万人の45%ほどにあたる。敗戦時における、在満日本人居留者総数は約150万人とされている(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』中公新書、2016年、104頁)。

 敗戦時の死者、未帰還者、帰還者の数を現在の茅野市域からの入植者がいた開拓団について見ると、次のようになる(敗戦時に在団していた人々に関する数で、応召者などを除く)。

(1)第5次黒台信濃村        死者967人 未帰還者91人  帰還者277人
(2)第6次南五道崗長野村   死者759人 未帰還者38人 帰還者332人
(3)第7次中和鎮信濃村    死者599人 未帰還者42人 帰還者351人
(4)第8次張家屯信濃村    死者690人 未帰還者17人 帰還者277人
(5)第8次富士見分村王家屯  死者189人 未帰還者2人    帰還者582人  
(6)第11次旭日落合開拓団   死者69人  未帰還者 0人    帰還者67 人
(7)窪丹崗報国農場       死者58人  未帰還者0人  帰還者207人
(『長野県満州開拓史 各団編』各所)

 (1)~(4)の「全県編成開拓団」における死者数が突出していることが分かる。もともと規模の大きな開拓団だったこともその一因であろう。

 現在の茅野市域からの入植者が例外的に多かった「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の場合、敗戦時の在団者554人のうち、死者269人、未帰還(不明)者7人で、278人が帰還した(『長野県満州開拓史 各団編』357頁)。そのうち、茅野市域出身の66世帯の人々だけについて見れば、死者114人、未帰還(不明)者5人で、帰還したのは119人であった。さらにそのうち、北山村からの入植者7世帯では、死者3人で、帰還者は11人となっている(『茅野市史 下巻』447頁)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.72)

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書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』
桐谷多恵子

 本書『核抑止論の虚構』は、核兵器の存在が戦争を抑止してきたという広く共有された通念に対し、その理論的前提と政策的実態の双方を精査することで、核抑止論が内包する不安定性を明らかにしようとする著作である。著者は序章において、映画『博士の異常な愛情』を引き合いに出し、核戦略が前提としてきた「合理性」が、いかに容易に狂気と隣り合わせのものとなりうるかを象徴的に示している。

 続く第1章では、内部告発者として知られるダニエル・エルズバーグの証言を手がかりに、核抑止論の中核をなしてきた「公式政策」そのものに鋭い疑問が投げかけられる。エルズバーグが強調するのは、米国が表明し、また広く信じられてきた、ソ連による第一撃を抑止し、仮に攻撃を受けた場合には第二撃によって報復するという核戦略が、「意図的な偽り」であったという点である。すなわち、そのような抑止政策が実際の意思決定において主要な目的となったことは「一度たりともなかった」とされるのである。著者はこの指摘を通じて、核抑止論が想定する透明で合理的な戦略像と、現実の政策運用とのあいだに横たわる深刻な乖離を浮かび上がらせる。

 第2章以降で著者は、核抑止論を支えてきた核戦略論の理論的前提を精査し、その内在的な問題点を明らかにしていく。核戦略論は、国家を一貫して合理的に行動する主体として想定し、相手国もまた同様の合理性に基づいて行動すると仮定することで、抑止の安定性を説明してきた。しかし著者が指摘するように、この前提は、危機状況における誤認や偶発、さらには組織内部の混乱や判断の分断といった現実の要因を著しく過小評価している。

 この問題が最も端的に示されるのが、第3章および第5章で論じられる、いわゆる「狂人理論」である。著者は、リチャード・ニクソン政権期の対ベトナム政策を取り上げ、指導者が非合理的で予測不能な人物であるかのように振る舞うこと自体が、相手国に譲歩を迫る戦略として構想されていたことを明らかにする。ニクソンは側近を通じて、「ニクソンは共産主義のことで思い詰めている。怒り出したら手がつけられない。しかも彼は核のボタンに手をかけているのだ――こうすればホー・チ・ミンは二日も経たずに和平を請い願って自らパリに出向くだろう」との認識を意図的に流布させたとされる。

 著者が強調するのは、このような「狂人」を演じる戦略が、抑止の信頼性を高めるどころか、むしろ核使用の可能性を現実のものとして相手に意識させる点にある。そこでは、理論上想定されてきた合理的な計算や安定した均衡は成立せず、個人の感情や演出に依存した、きわめて不安定な抑止関係が生み出される。核抑止論が前提としてきた合理性は、この段階で自ら放棄されているのであり、非合理性を装うことで均衡を保とうとする論理そのものが、深刻な危うさを孕んでいることが示される。

 さらに著者は、こうした「狂人理論」が突発的に生まれた発想ではなく、1950年代後半以降に蓄積されてきた核戦略研究の文脈のなかで形成されてきたことにも目を向ける。キッシンジャーやシェリング、エルズバーグらは、「非合理性の理論」を参照しつつ、核抑止や核開発競争が本質的に不安定な均衡の上に成り立っていることを理論的に検討してきた。しかし、ニクソン政権の具体的政策をいかに評価するかをめぐって見解の相違が顕在化し、最終的にはキッシンジャーのみが政権中枢で重責を担い、「狂人理論」を実際の政策構想として展開するに至ったのである。著者は、この理論がその後も各国の指導者によって参照されていく過程を描き、核抑止が制度ではなく、個人の演出や性格に依存する実践へと傾斜していったことを浮かび上がらせている。

 著者が高く評価するのが、第4章で論じられるゴルバチョフによる「新思考外交」の意義である。ゴルバチョフは、軍事的均衡を安全保障の中心に据える発想から、相互依存と理性に基づく国際秩序の構想へと視座を移し、核抑止論が当然視してきた前提そのものを相対化しようとした。さらに、レーガンとの間で締結された中距離核戦力全廃条約(INF条約)は、単なる軍備管理の成果というよりも、恐怖による均衡を合理的安定とみなす思考に対する実践的な問いかけであったと言える。かつてソ連を「悪の帝国」と位置づけたレーガンとの交渉は、「精神病理的な論理」に裏付けられた「核抑止論」の枠組みを超える政治的可能性を示したものとして、本書では積極的に評価されている。

 しかし、ジョージ・W・ブッシュ政権の発足と同時多発テロ以降、状況は再び大きく転換した。「ミサイル防衛」の強化とともに、「我々を防衛するために先制的に行動すること」が必要であるとする「先制攻撃論」が前面に押し出され、核兵器の使用可能性は現実的な選択肢として再浮上することとなった。

 これを受けて、オバマ大統領は核の「先制不使用」に言及し、「核なき世界」を目指す姿勢を打ち出したが、その構想は十分な支持を得られず、その後の国際政治は「第二の核時代」と呼ばれる状況へと移行していく。第6章「核の復権」が論じるのは、まさにこの局面である。それまで核兵器は「存在すること」によって抑止を担うと理解され、その意味で「核兵器の役割が縮小」も語られてきた。しかし現在では、中小規模の核保有国の増加により、地域紛争の文脈で核兵器が使用される危険性が現実味を帯びている。

 この「第二の核時代」においては、仮に核兵器が使用されたとしても必ずしも「人類絶滅」に直結するとは想定されず、地域的優位を追求する国家にとっては「体制の存亡をかけた戦争」という文脈で計算されうる。大国による核の威嚇も、かつてほど自動的に抑止として機能するとは限らないとされる。こうして従来型の「核抑止」は効力を弱め、核兵器は使えない兵器から使用を想定せざるを得ない兵器、つまり使える兵器へと位置づけが変化しつつある。その象徴が、「低出力核兵器(戦術核)」の開発である。こうした情勢のもとでは、原子力発電所さえも攻撃対象となりうる現実が浮かび上がる。本書は、このような現在進行形の核をめぐる状況を理論的に論じている。

 本書の強みは、核抑止論を外部から規範的に否定するのではなく、その内部論理を丹念に検証することによって、理論と現実の乖離を可視化している点にある。本書後半において著者は、核抑止論の不安定性が過去の理論的問題にとどまらず、現代の国際政治においても繰り返し現れていることを示す。第7章では北朝鮮やイスラエルの事例を通じて、核兵器の保有が地域の安定をもたらすどころか、むしろ緊張と不確実性を恒常化させてきた実態が描かれる。第8章で検討される「トゥキュディデスの罠」をめぐる議論もまた、大国間競争を歴史的必然として捉える単純化が、軍事的緊張を過度に自然化してしまう危険性を孕んでいることを示している。

 さらに第9章では、「トランプの傘」という表現を用い、拡大抑止が特定の指導者の性格や演出に依存する構造的脆弱性が浮き彫りにされる。核抑止が合理的計算に基づく安定した仕組みであるという前提は、ここにおいて再び大きく揺さぶられる。著者が示すのは、核抑止が制度としてではなく、個々の指導者の判断や感情に左右される実践として機能してきた現実である。

 本書が繰り返し問いかける核抑止論の虚構は、理論的検証や政策史の分析にとどまらず、核兵器をいかに人間的に考えるかという根源的な問題へと読者を導く。評者自身、13年にわたり55回に及ぶ聞き取りを重ねてきた広島の被爆者・切明千枝子氏は、核兵器の存在が核戦争を防ぐとする核抑止論について、「信じられませんね」と静かに語った(2025年6月26日、切明氏自宅での聞き取り)。切明氏はまた、「やっぱり、あくまでも核兵器廃絶ですね。なくしてほしいですね」と断言し、核兵器を保有し続ける限り、いずれ使用への誘惑が生じること、そして現在地球上に存在する核兵器の破壊力は、広島で経験された被害をはるかに超える規模の惨禍をもたらしかねないと指摘している。

 私たちは、核戦争を実際に体験させられた被爆者たちの言葉を通してこそ、核兵器を抽象的な戦略や理論の対象としてではなく、人間の生と死に直結する問題として考えることができるのではないだろうか。核戦争を経験していない世代にとって、その現実はしばしば想像の外に置かれてしまう。本書『核抑止論の虚構』は、そうした想像力の欠如に抗い、核兵器をめぐる思考を理論の内部から崩しつつ、人間的な問いとして回復させる重要な試みである。そして、核抑止の「虚構」が再び現実政治の言説空間を規定しつつある現在、本書は核兵器をめぐる理論的枠組みを再検討するための基準点を提示する重要な研究成果である。

(「世界史の眼」No.72)

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世界史寸評
日本の自民党大勝を世界史的に考える
南塚信吾

1)世界的な保守化・右傾化の流れ       

 2026年2月8日の総選挙で、高市自民党が歴史的な大勝利を収めた。これは実は最近の世界的な保守化・右傾化の傾向が日本にもやってきたという事ができる。

 保守化・右傾化とはなにかということは、必ずしもコンセンサスがあるわけではないが、筆者は①ナショナリズム、「伝統的」価値観、「・・・ファースト」、反移民、②力の政治、軍事力重視、③議会制度軽視、④メディア等の自由規制、⑤多様性の否定を内容とする政治傾向と考えておきたい。これは要するに、「反リベラリズム」と言ってもよい。単に反新自由主義ではなくてリベラリズムそのものへの反動である。

 こういう政治傾向は21世紀になって西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、ロシア、イスラエル、南北アメリカに見られていて、それがついに日本にも及んできたということができる。ハンガリーの場合はオルバーン、アメリカ合衆国の場合はトランプ、日本の場合は高市である。とくにオルバーンは、「非リベラル・デモクラシー」を主張し、西欧のリベラリズムを批判し、ネイションや家族やキリスト教を強調して、ヨーロッパ内やアメリカに静かな影響を及ぼしている。日本では、①と②を内容とする保守化・右傾化が進んでいるという事ができる。

2)新自由主義によるグローバリゼーションの諸問題

 なぜこういう保守化・右傾化が生じたのかという原因は、特に論じられていないが、筆者は、1990年以降進展した新自由主義によるグローバリゼーションの生み出した諸問題がその原因であろうと考えている。その諸問題というのは、①格差、経済的弱者、②人の移動による価値の変容、③ナショナルな枠組みの動揺(国家財政危機、国民経済停滞)などである。

 これらの問題を、保守・右翼が救い上げているのである。そして、保守・右翼は、それを単に反新自由主義ではなくてリベラリズムそのものの問題と捉えるようにと訴えているのである。1980年代ならば格差、経済的弱者は、社会主義がすくい上げるはずであるが、いまやそういう社会主義は弱体化しているのである。

 世界的に見て、こういう諸問題を抱えていない国はないほどである。アメリカ合衆国の場合、ラストベルトなどの労働者にしわ寄せがきていたが、グローバリゼーションによるアメリカ経済全般の空洞化が深刻であった。先のオルバーンのハンガリーの場合、1990年以後の新自由主義によるグローバリゼーションのもとで、外国資本の流入の反面、農村部が疲弊して深刻な社会・経済的困難を抱えたのである。日本では、②の中の外国人問題や、③の経済的停滞などが切実な問題である。

3)ポピュリズム

 では、保守・右翼はどのような方法で人々に訴えているのだろうか。それは、基本的にポピュリズムという方法を活用しているという事ができる。

 ポピュリズムとはなにか、これに諸説があるが、筆者は、一般大衆の感情や不満に訴え、大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動と考えておきたい。冷静な事実に基づいた論理的な議論をしないで、感情や印象や不満感に訴えるのである。イメージ、感情、第一印象が大切になる。

 これは、1980年代から広がったポストモダンの考え方の影響といってもいい。言葉と事実との関係を疑い、言葉自体を現実と考えるポストモダンは、フェイクニュースを生み出す素地を準備し、2016年のブレグジット問題やトランプ大統領就任あたりから、「ポスト真実」を一人歩きさせた。そこにポピュリズムの広がる余地が生まれたのである。

 実は、21世紀の世界を見てみると、各地で政治がポピュリズムで覆われている。西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アメリカ合衆国、ラテンアメリカなど、広く見ることができる。その際、政府与党を批判する勢力がポピュリズムを利用して伸びているケースと、与党自体がポピュリズムを駆使して支配しているケースがある。前者はヨーロッパの英仏独などに見られるが、後者はアメリカのトランプ、ヨーロッパのハンガリーなどのほか、各途上国に見ることができる。ハンガリーのオルバーンの場合、ハンガリー・ナショナリズムとキリスト教を掲げて、選挙で圧倒的な勝利を収めてきた。

 日本の場合、高市総理がポピュリストであるかどうかに議論はあるようだが、自民党はうまくポピュリズムを使ったといえる。女性首相、対中国強硬姿勢、積極財政、移民問題など、イメージ、感情、第一印象に訴えたのである。

4)SNSの役割―ポピュリズムが活用

 ポピュリズムが事実に基づいた冷静で論理的な議論をしないで、感情や印象や不満感に訴える際に、最も広く容易に使う手段がSNSである。SNSを活用したポピュリズムは「デジタル・ポピュリズム」ないし「テクノ・ポピュリズム」と言われる。

 2000年代から広がり始めたSNSは現役世代においては公的情報を入手する日常的な手段になっていて、テレビや新聞はマイナーになっている。そのSNSには、「フィルター・バブル」(自分と同じ意見や趣味のものばかりになり、異なる意見や趣味が見えなくなる現象)や「エコー・チェンバー」(閉鎖的な情報空間内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込む現象)や「アルゴリズム」(ユーザーの興味や関心に合わせた投稿が表示される仕組み)と言われる効果がある。これらの効果を熟知した人員や企業が選挙事業を請け負う。また、「アテンションエコノミー」で生きる企業が選挙を利用する。こられに多額の選挙資金が投下されるのである。

 これは国境を越えた世界的な動きである。とくに2016年あたりから、SNSは「カオスの仕掛け人」によって操られるようになった。

 今回の選挙では、メディアを使った政治に日本の自民党は本格的に参加した。自民党は何億と言われる資金を選挙に投下したと言われるが、SNSや関連企業とどういう関係にあったかは、不明である。これは今後解明されていくと思われるが、ある野党党首は、「カネの多寡によって発信できる情報に差が付くのはどうなんだ」という疑問を提起している。ともあれ、自民党は見事に世界的な動きに乗っていたわけである。反面、非ポピュリズム勢力はSNSの活用に乗り遅れたのである。

 このように今回の日本での自民党の大勝は、近年の世界史の動きの一環として考えていく必要がある。

参考文献

「高市一強 衆議院選関連You Tube分析」『毎日新聞』2026年2月17日

山腰修三「SNS政治への転換―「カオスの仕掛人」の実態 可視化を」『朝日新聞』2026年2月18日

南塚信吾「『ポスト真実』の魔術を超えて―「考える人」を取り戻す」南塚信吾・小谷汪之・木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか―「脱歴史時代」へのメッセージ』岩波書店 2022年

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