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「世界史の眼」No.75(2026年6月)

今号では、小谷汪之さんに、随時連載中の「蓼科の近代史」から、「蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」をお寄せ頂きました。また、東京外国語大学の小野寺拓也さんに、昨年白水社から刊行された、マイケル・マン(横田正顕監訳)『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』を書評して頂いています。さらに、米山宏史さんに、本年刊行された、茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房)の書評をお寄せ頂きました。また、藤田進さんには、「世界史寸評」として、イラン戦争へのアラブ世界の見方を伝える「米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)」の翻訳をお寄せ頂いています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち

小野寺拓也
マイケル・マン、横田正顕監訳『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』白水社、2025年。

米山宏史
書評:茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年3月)

藤田進 訳
世界史寸評 米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)

マイケル・マン(横田正顕監訳)『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』(白水社、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 戦前から戦後初めにかけて、長野県諏訪郡北山村(現、茅野市大字北山)には諏訪鉄山(諏訪鉱山)と総称される鉄鉱石採掘場が広く存在した。そこで産出された褐鉄鉱は茅野駅から専用貨車で中央線・横浜線を経由して、川崎の日本鋼管株式会社の製鉄所に直送されていた。『日本鋼管株式會社六十年史』(1972年、150頁)には、次のように書かれている。

 鉄鉱石については、鉱石自給の線に沿って可能なかぎり鉱山の開発を行った。そのおもな鉱山は、国内では諏訪鉱山、上岡鉱山[福島県富岡町]、中国では山東省金嶺鎮鉱山、江蘇省利国鉱山などであり、東南アジアではタマンガン鉄鉱山があった。

 諏訪鉄山(諏訪鉱山)は日本鋼管にとって国内の最も重要な鉄鉱山だったのである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、26~27頁)。

諏訪鉄山の褐鉄鉱(長尾根鉱床跡)

出典:伊藤編『平和を今こそ』所載の写真版

 諏訪鉄山の褐鉄鉱は「鉄バクテリアや緑そう類もその生成に関係していると考えられる一種のしょう鉄鉱てっこうで、鉄分に富む温泉あるいは池水より[鉄分が]沈殿し、層状の地表鉱床をつくっている」(『茅野市史 別巻 自然』1986年、85頁)。しかし、鉄の含有率はあまり高くなく、「基準品位Fe四五%を確保することはむずかしかった」(諏訪教育会編『諏訪の近現代史』1986年、612頁。Feは鉄の元素記号)。そのため、基準品位まで鉄の含有率を上げるには、焼結炉でコークスと混ぜて高温で焼結することが必要であった(同上)。第二次世界大戦、特に太平洋戦争が始まると、日本は鉄鉱石や屑鉄の輸入が困難となったために、このような低品位の国内鉄資源に頼らざるをえなくなったのである。

 本稿では、この諏訪鉄山に焦点を当てて、その歴史とともに、そこで働いていた人々の姿を追ってみたいと思う。その中には、「徴用」された朝鮮人約200人やアメリカ、イギリス、オランダなど連合国軍の俘虜たち約250人も含まれていた。

1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区

(1)金堀場鉱床

 諏訪鉄山は現在の茅野市大字北山の諸地域に広がる鉱床・鉱区の総称で、いずれも標高1,000メートルを越える高地にあった(以下の記述は「八ヶ岳総合博物館企画展 諏訪鉄山」茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号所載、その他に拠る。各鉱床・鉱区の位置については付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

 諏訪鉄山で最初に採掘が始まったのはかな堀場ほりば鉱床であった。現在、国道299号を走るアルピコ交通バスの麦草峠線(中央線茅野駅―麦草峠間)で茅野駅から麦草峠方面に向かい、茅野市大字北山の糸萱集落から糸萱大橋を渡って緩やかな上り坂を数百メートルほどいったところに「鉄山入口」というバス停がある。このバス停の西側、北にかけての一帯が金堀場鉱床であった。

 1937年、日本鋼管は諏訪鉄山の採鉱のために、諏訪鉱業所を設立した。同年、関東運輸株式会社の高野太治郎が日本鋼管・諏訪鉱業所の下請けとなって、金堀場鉱床で褐鉄鉱の採掘を開始した。金堀場鉱床の土地は外山とやま財産区(当時の北山村芹ヶ沢区・糸萱区と湖東村金山区・新井区・山口区・中村区・上菅沢区、合計7区の共有財産区)の所有地であった(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、523,692頁)。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行によって、それ以前に存在した村の多くが町村合併されて、町・村の下の区となったことに伴って作られた制度である。町村合併により、旧村(区)によって総有されていた入会地などの財産が町・村に移管されることに対して、旧村(区)の側から強い反発が起こった。財産区はそれに対応するために作られた制度で、これによって、旧村(区)の入会地が財産区の所有地として認められた(渡辺洋三「財産区の沿革と問題点」渡辺洋三編著『入会と財産区』勁草書房、1974年、所収。ただし、この時点では「財産区」という明確な呼称は使われていない)。財産区には、多数の区(旧村)の共有財産区とともに、一つの区(旧村)の単独財産区も設定された。外山財産区は7区の共有財産区であったが、この外山財産区の金堀場周辺の所有地が諏訪鉄山の採鉱のために「坪二円五〇銭くらいで買収され、当時の地価としては高価なものであった」(『諏訪の近現代史』610頁)。

 金堀場から糸萱集落までは石畳の道が敷設され、採掘された鉄鉱石はトラックで糸萱経由茅野駅まで運び出された。

 金堀場には、採掘事務所や診療所などが置かれ、諏訪鉄山の初期の中心であった。しかし、鉄鉱石埋蔵量が残り少なくなったため、1942年1月、諏訪鉄山が日本鋼管の直接経営となった頃には、諏訪鉄山の中心は後述の石遊場いしやすばに移っていた。

(2)長尾根鉱床

 「鉄山入口」バス停から西側の谷あいに入り、金堀場鉱床を越えて北東に1キロメートルほど登った所の尾根筋が長尾根鉱床で、独立した鉱床としては諏訪鉄山の中で最も規模が大きかった。1940年頃から採掘が始まり、諏訪鉄山の一つの中心的な鉱床であったが、敗戦時にはほぼ堀尽くされていたとされる。

 金堀場鉱床と長尾根鉱床は隣接していたので、合わせて金堀場・長尾根鉱区(あるいは糸萱鉱区)と称された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(3)石遊場鉱区

 石遊場いしやすばは広範囲にわたる鉱床の総称で、1941年頃から本格的な採掘が始まった。石遊場の中心地は、10年ほど前まで別荘会社「蓼科ビレッジ」の管理事務所があった場所(現在はアルピコ交通バス・麦草峠線の緑山バス停付近)で、その周辺に広がる鉱床群が石遊場と総称された。それで、石遊場は石遊場鉱区と称された。

 石遊場には、日本鋼管の現地事務所、鉄含有率を上げるための焼結炉20基、焼結された鉄鉱石をトラックに積み込むための設備である「万石まんごく」などの諸施設が設置されていた。1942年には、採掘された鉄鉱石を運ぶ索道(4.6キロメートルの空中ケーブル)が石遊場と芹ケ沢地区の花蒔の間に架設され、1944年には同区間に第2索道も掛けられた。花蒔から茅野駅まではトラックで輸送されていたが、1944年9月には、茅野駅と花蒔駅を結ぶ鉄鉱石輸送専用の鉄道(鉄山鉄道と呼ばれた)が敷設された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。しかし、この頃からアメリカ軍による空襲が始まり、全国的に鉄道網が乱れたため、「鉄山鉄道」はあまり役に立たなかったとされている(伊藤編『平和を今こそ』90~91頁)。

(4)明治鉱区

 明治鉱区は諏訪湖にそそぐ上川かみがわの上流部である渋川に沿った標高1,500メートルほどの地域に散在する鉱床群からなる鉱区であった。鉱床は渋川右岸の渋川温泉と左岸の明治温泉を含む地域に広がっていた。明治鉱区の褐鉄鉱は硫黄や燐の含有率が低く、諏訪鉄山の中では比較的良質な鉄鉱石であった。1941年頃から本格的な採掘が始まり、1944年には、明治鉱区から石遊場までの索道(2.9キロメートルの空中ケーブル)が設置され、明治鉱区で採掘された鉄鉱石はこの索道によって石遊場まで運ばれた(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.75)

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マイケル・マン、横田正顕監訳『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』白水社、2025年。
小野寺拓也

 近年のファシズム研究では、定義や類型化、段階分けといった議論は低調である。「ファシスト・インターナショナル」論の近年最大の成果と言ってよいヘディンガー『枢軸』では、以下のように指摘されている。

 「枢軸に共有された歴史を見れば、「ファシズムの必要条件」や段階モデルの適用が、ファシズムのグローバル・ヒストリーにとってあまり生産的でないことがわかる。というのも、このようなチェックリスト、必要条件、典型性といったものは、その大部分がヨーロッパ中心主義的なものだからである」(ダニエル・へディンガー、清水雅大監訳『枢軸―ベルリン・ローマ・東京 一九一九――一九四六年』白水社、2025年、415ページ)。

 ファシズムを理念的にモデルしようとする試みは、へディンガーが指摘するようにヨーロッパ中心主義的であるだけでなく、偶発性や歴史的経緯を軽視することにも繋がりかねない。ファシズムという現象は「極めて偶発的な組み合わせ」によってもたらされたものであり、「意図的に再現できるものではない」(同書424ページ)からだ。パスモア『ファシズムとは何か』(原著は2014年刊行)による次の指摘は、そうしたモデル化にたいする歴史研究者の警戒感を端的に表している。

 「ファシズムの研究者とほとんど同じ数だけファシズムの定義がある。そして、それらのいずれが正しいかについての合意はない、という点だけを指摘しておこう。私見によれば、定義からアプローチするのは、そもそもそれ自体に欠陥を内在させているのである」(ケヴィン・パスモア、福井憲彦訳『ファシズムとは何か』岩波書店、2016年、9ページ)。

 その欠陥とは、「現実の運動や体制が持っていた豊かさや多様性」を「定義による特徴に合わせ」(同書27ページ)てしまう点にほかならない。

 そのため近年の研究では、ファシズムの一般的な定義(あるいはファシズムのミニマム・モデル)を求めたうえで各国のファシズムがそこからどの程度変化、逸脱していたのかを論じるのではなく、ファシズムとも権威主義とも保守主義とも明確に定義しがたい流動的な状況の中で、それぞれの国々や運動が自らの国々の文脈へとファシズム的な動きをどのように「翻訳」し、異なる文脈に位置づけ、あるいは違う形で表現していったのかを明らかにすることが目指されている。

 評者もこうした近年の動向に基本的に賛成である。本書は2004年に刊行された本格的なファシズム研究であり、ヘディンガーからは二世代、パスモアからは一世代近く前の研究となるが、「戦間期ヨーロッパ全体を考える上で発見的な意義を持つ枠組みを探究しているのに過ぎない」のであって、「多くの時代や場所に適用できるような一般的な定義を最初から追求することはしない」(34ページ)のだと、定義に慎重な姿勢を見せている。とはいえ権威主義を、その度合いが高くなっていく順番に「準権威主義体制」「準反動的権威主義体制」「コーポラティズム体制」「ファシズム体制」の四段階に位置づけているように、モデル化・一般化という方向性が強いことは否めない。評者としては、こうした類型化は戦間期の複雑な事象を理解する助けになるというよりは、その急進性を序列化することで「ナチ体制に比べれば穏健」といったようなかたちで、あまり建設的とは言えない予断を生む可能性が高いと考える。たとえば本書でも、日本についてわずかに言及はあるものの、日本は「下からの大衆運動も、準軍事組織も欠いていた」(64ページ)のであり、1931年以降の日本はファシズムの要素を含んでいるものの「コーポラティズム体制」であったと分類される。しかしこれでは、ドイツやイタリアから何を学習し(あるいは逆にドイツやイタリアが日本から何を学び)どのように急進化していったのかという視点は抜け落ちてしまう。

 ただしそれでも、理論化を過度に忌避することにも問題はある。評者がそう強く感じたのは、歴史教育の文脈においてである。周知のように高等学校では2022年度から「歴史総合」、2023年度から「日本史探究」「世界史探究」が始まっている。これらの科目の軸の一つに、「世界史と日本史を概念でつなぐ」という点がある。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という三つの大きな概念、「工業化」「産業革命」「市民革命」といったさまざまな小さな概念を通じて、世界のさまざまな出来事を繋いでいくことが求められているのである。当然「ファシズム」もそうした小さな概念の一つになるが、いくらその定義が困難だからといって、また定義によって現実の多様性が見えなくなるからといって、教科書でミニマムな定義を示さないわけにはいかない。まずは歴史的事象を整理した上で定義は最後に行うという思考方法は、歴史研究者にとってはなじみのあるやり方かもしれない。しかし高校生が歴史事象を大づかみに理解する(あるいは高校教員がおおまかな全体像を示す)うえで、一定の定義は避けられないだろう。

 さらに「ファシズム」概念には、近年の新興右派や右派ポピュリズムなど、明らかに「ファシズム」と本質的な特徴を少なからず共有している現象をどのように理解するかという、「現代的な諸課題」もついてまわる。「ファシズム」という概念は戦間期に限定して使用すべきだというのが評者の立場であり、山口定が『ファシズム』で提唱した以下の「原則」はいまなお有効だと考えている。

 「『ファシズム』概念を現代史の分析や教科書の記述の中から追放しようとする動きには徹底してあらがうこと,しかし,いわゆる現状分析の一環としては,『ファシズム』概念はできるだけ使用しないように慎重に振る舞うこと,つまり,相手に対する批判と告発の中で『ファシズム』や『ファシスト』というレッテル貼りを行いたくなったときには,その言葉で言おうとした内容そのものをできるだけパラフレーズして表現すること」(山口定『ファシズム』岩波書店、2006年、ⅳページ)。

 だがそれでも、現代との相違点・共通点を考える上で、この概念を避けるわけにはいかない。そうした意味で、「ファシズムとは何か」という議論にはいまなお社会的重要性があり、それと取り組む上で本書には大きな意味があるだろう。

 本書ではファシズム運動と体制を、「極端なナショナリズム、権威主義的国家主義、階級闘争の超越の主張、政治・民族・宗教などあらゆる敵の浄化〔殲滅〕」、そして「直接行動の名の下の暴力」という五つの主要なイデオロギー的要素の結合という観点から定義する。多くの点で、現代の右派ポピュリズムと共通点を有することがここからも理解できるが、しかし相違点としてとくに重視せざるを得ないのが、五番目の「暴力」の問題だろう。ファシスト党の「黒シャツ隊」やナチ党の「突撃隊」のような政党所属の準軍事組織が路上でデモや行進、乱闘を行うというのは現代では考えにくく、「現代にファシズムが復活することはない」という主張の有力な根拠となっている。

 本書では、準軍事組織による活動の目的が三点挙げられている。まず、政敵を挑発して相手から暴力的反応を引き出すことを目的としており、そのことによって自らの暴力を「自衛」であると宣言すること。第二に、街頭で政敵を鎮圧することで、自分たちは「秩序」をもたらしているのであり「規律正しい暴力」なのだと主張すること。第三に、最後の手段としてクーデターを起こせるという選択肢を持つこと。このような準軍事組織の戦闘性や、それがもたらす同志的連帯感が、とくに若者を多く惹きつけた。本書で指摘されるように、ファシストの運動は伝統右派とは違って「ボトムアップ型」であり、自らを「人民の」運動と考えていた。権力の座につくうえで選挙を重視しており、その意味で大衆民主主義を基盤とする運動だった。こうした「草の根の暴力」は、大衆民主主義と相性が良かったのである。

 そう考えると、現代社会では路上での政治暴力にかわって、インターネットやSNS上での言葉の暴力が似たような役割を果たしていると考えることもできる。第三の点についても、2021年のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件を考えれば、決して無縁とは言えないだろう。他方で、第一次世界大戦という経験がなければ、暴力があれほど広範囲に共有されることも、ファシズムが急速に支持を集めることもなかっただろう。また、階級対立の激しさや、「赤の脅威」に対する「明らかな偏執狂」(145ページ)、容赦ない暴力行使などは、工業社会で労働者が社会の多数派を占めていたからこその状況であって、ポスト工業社会の現在とは質的に異なる。

 「歴史は同じようには繰り返さないが、韻を踏む」というマーク・トウェインの言葉にもあるように、つねに歴史にはこうした連続性と断絶という層が多面的に顔をのぞかせる。ファシズムが現代によみがえる可能性はあるのか。そのままのかたちではないとしても、別のかたちで登場する可能性はないのか。

 この点について、著者はやや楽観的である。「右派ポピュリズムは、移民の生活を不快にすることはあっても、ファシズムその他の包括的イデオロギーを生み出す可能性は低い。これらの急進右翼政党は憂慮すべき存在かもしれないが、ヨーロッパの「システム政党」がマクロ環境の変化に適応しながら市民の要求に応え続ける限り、ヨーロッパのファシズムは打ち負かされ、死に絶え、埋葬されたままである」(579-580ページ)。だが、現在のヨーロッパの政治状況は楽観を許さない。フランスでは、2027年の大統領選挙で、国民連合の候補が決選投票でも勝利する可能性が高いと報じられている。イギリスでは、2026年の地方選挙でリフォームUKが第1党に躍進を遂げた。ドイツでは、AfD(ドイツのための選択肢)が支持率で第1位になるばかりでなく、9月に行われるザクセン=アンハルト州議会選挙では単独政権の可能性すら囁かれている。議会に入り込みながら議会制度そのものを廃止し、基本法を形骸化し、「外国人のいない国」を実現したいという主張がAfDの政治家によって公然となされているにもかかわらず、支持率が低下する兆しはまったく見えない(Philipp Ruch, Es ist 5 vor 1933. Was AfD vorhat und wie wir sie stoppen, München, 2024)。既存政党が市民の要求に応えられていないという失望感が、あまりにも大きいのである。もちろん、日本の政治状況も他人事ではない。

 本書が投げかける「ファシズムとは何か」「ファシズムを支えたのは誰か」という問いは、著者が想定する以上に現代的な緊張をはらんでいる。刊行から20年以上が経った現在、著者が示す楽観は素直には受け入れがたい。もちろん、本書が詳述するように、第一次世界大戦の経験や階級対立の激しさ、準軍事組織による路上の暴力といった諸条件が今日そのまま再現されることはないだろう。そして、「ファシスト」という言葉が「もっぱら自分が嫌いな人々に浴びせかける不正確な罵倒語」(572ページ)に成り下がらないためにも、「ファシズム」という言葉を、現代の問題に安易に持ち込むことにも慎重でなければならない。その一方で、歴史が踏む「韻」の部分は見極める必要がある。戦間期とは違うかたちで、しかし類似の構造をもつ問題が生じる可能性があるからだ。「ファシズム」という概念を厳密に歴史的文脈に位置づけながら、同時に現代との連続性と断絶を問い続けること—その困難な作業に取り組む上で、本書は今なお重要な出発点となりうる。

(「世界史の眼」No.75)

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書評:茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年3月)
米山宏史

 今年2026年は、戦後の高等学校社会科「世界史」の実施(授業開始)から77年目を迎えている。「世界史」の設置に関しては、その経緯などに未知の要素が多く、不明な部分が少なくない。そうした現状に対して、茨木智志氏(上越教育大学教授)が修士論文以来の多年にわたる「世界史」の成立事情に関する研究成果を集大成し、表記の大著を上梓した。本書の概要を紹介し、その研究成果を共有したい。本書の構成は以下の通りである。

  序章「本研究の課題と方法」
第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」  
  第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」
  第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」
第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」
  第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」
  第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」
第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」
  終章「本研究のまとめと意義」

 本書は436頁からなり、序章と9つの章、終章を置き、全体を3部で構成し、第9章で第Ⅰ部~第Ⅲ部のまとめを論じている。

 序章「本研究の課題と方法」では、研究目的として、戦後の教育改革で成立した新科目「世界史」を歴史科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)から社会科「世界史」教育への転換過程に位置づけ、「世界史」の設置理由と成立過程、実践方法、その特徴と意義、達成事項と今後の課題を総合的かつ実証的に解明することを挙げている。次に、通史的な一部の研究や個別な研究が存在するものの、戦後教育改革期に「世界史」設置を位置づけた全体的な考察がなされていないという先行研究の実情をふまえ、「世界史」の成立過程を日本側の史資料と占領軍の史料を併用して探究するとしている。

 まず「世界史」成立の複雑な過程の概略を確認する(1戦前の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、2戦後の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、3新制高校発足(1948年4月)後の社会科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、4社会科「世界史」教育(1948年10月、設置の発表、1949年4月、実施・授業開始、1952年3月、「世界史」学習指導要領の発行、4月、検定教科書の使用開始)。本書は、上記の複雑な「世界史」成立過程を、実に多様な史料の分析や聞き取り調査などを駆使し、緻密で実証的な論証を積み重ねて明らかにしている。

 第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」は、2つの章で組み立てられている。

 第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」では、1945年12月、占領軍の「修身」「日本歴史」「地理」停止指令がすでに1944年7月、米国国務省で決定されていたこと(「日本:軍政下における教育制度」)、逆に外国の歴史や文化を学ぶための外国史教育を推奨し、米国を模範となる外国、次に民主主義国として連合軍加盟諸国を挙げていたこと(1945年9月22日、「降伏後における米国の初期対日方針」)、それに対して、日本の文部省は1945年11月、「国史教育ノ方針(案)」を省議決定し、神話の扱い方の変更のみで皇国史観の脱却を求めなかったことなどを戦後初期の日米の歴史教育観の齟齬として紹介している。また、文部省とCIE(占領軍の民間情報教育局)教育課との協議で「教科用図書委員会」が設けられ、「教科用図書委員会」を通じての文部省主導の「教科書改訂」構想を進めたが、占領軍による教科書発行の許可という壁を打破できずに挫折した。他方で、この委員会のもとに位置づけられた「歴史科専門委員会」のみはいち早く組織されて、文部省による国史と外国史の暫定教科書作成の後ろ盾となり、「歴史科専門委員会」が国史と外国史の暫定教科書の作成に取り組んだ。国史は、文部省が神話の記載に固執しCIEとの合意が得られずに頓挫したが、外国史教科書は、東洋史・西洋史ともに「近世史」以後を全面的に書き直し『暫定中等歴史一・二』(一は東洋史、二は西洋史)として発行された(1946年)。こうして「東洋史」「西洋史」は戦後も存続を果たした。第1章は、戦後直後の混乱期における歴史教科書の作成をめぐる複雑な経緯を詳述している。

 第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」では、1946年6月から文部省内の教科課程改正委員会がCIE教育課と協議しながら新しい教科課程の検討を進め、初等・中等教育を貫く社会科の導入を主張するCIEと日本史の通史的系統学習を重視する文部省側の対立がおこり、9月に妥協が成立したこと(第7学年から10学年=中学1年~高校2年までは統合社会科を、第11~12学年=高校1~2年で「人文地理」「東洋史」「西洋史」「時事問題」を開設する)、文部省ではなく若手の歴史研究者が「東洋史」「西洋史」の学習指導要領と教科書を作成し、「東洋史」では従来の中国王朝史にインドや中央アジアを加え、西洋の文化の受容による東洋の近代化を明記し、「西洋史」では西洋文明と民主主義を強調したこと、両者ともに教員の講義式・知識の暗記の歴史学習を厳しく批判し、学習活動の例として生徒自身が調べたり、発表したり、討論したり、報告書や伝記を作成する活動などを提示し、社会科としての外国史学習を志向していたことが考察されている。

 第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は3つの章で構成されている。

 第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」では、「世界史」設置に関わった研究者、文部省の担当者の証言や回想の信憑性を検証したうえで、1948年4月の新制高等学校教科課程研究委員会の発足から、普通教育分科会での「世界史」を含む素案の作成と承認(5月18日)、「新制高等学校教科課程改正案」の文部大臣への提出(8月),「新制高等学校教科課程の改正について」の通達(10月11日)という「世界史」設置の決定プロセスを精査し、「東洋史」「西洋史」に代わる「世界史」の導入の経緯を詳論している。そして、「世界史」設置の意義として、1「国民の共通教養」の提供、2その後の世界史の探究の起点、3「世界史」という名称の普遍性を挙げ、「世界史」と併せて「国史」(1949年度から「日本史」)の導入が歴史科目を2科目に限定したいという意図と相まって「世界史」設置の直接的契機になったことに言及している。私は、上原専禄が同1948年に刊行した『歴史的省察の新対象』(弘文堂、1948年2月)で主張した国史・東洋史・西洋史の三区分の批判と世界史的観察方法の採用の必要性が後付けながら「世界史」設置の理論的な支柱とみなされたという著者の指摘に大きな感銘と深い示唆を得た。

 第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」では、1949年4月の「世界史」の実施から1952年3月の「世界史」学習指導要領の発行に至る時期における行政の「世界史」教育への対応を「世界史」教科書検定基準(1949年3月)や「高等学校社会科日本史、世界史の学習指導について」の通達(1949年4月11日)を分析して明らかにしている。何も準備が整わない状態での「世界史」実施=授業の開始にあたり、文部省が出した上記通達には、社会科歴史学習の目標達成のための留意事項として、社会科の一般目標との合致、現代社会の諸問題の意義の認識、歴史の発展の必然性の理解、歴史の進歩・発展の理解による社会発展に対する自己の責任と情熱、現在の社会・経済・政治の問題解決に必要な能力の発達、学習形態として一般社会科に準拠し、概説の学習に陥らない留意と生徒の自主的学習活動を刺激するための単元学習の推奨などが示されている。この通達は、文部省が高橋磌一(文部省で中学校「国史」教科書編集に従事、のちに歴史教育者協議会第2代委員長(1971~1985年))と協議して作成したとされるが、戦後の新教科 社会科の教育理念と「戦後歴史学」の学風が看取されて興味深い。

 次に、「世界史」実施後、「世界史」検定教科書の使用までの長く複雑な道のりが詳述されている。「世界史」実施初年度には、「世界史」の検定教科書もその他の準教科書も存在せず、教科書『西洋の歴史 (1)』(1947年発行)のみが存在した。そこで文部省は従来の歴史教育を容認し暫定的な措置を取り、「世界史」検定教科書の発行と旧来の外国史教科書(『西洋の歴史(2)』『東洋の歴史(1)』『東洋の歴史(2)』)の刊行をめざしたが、後者は実現できなかった。さらに、文部省は1950年秋、教科書出版3社の「世界史」教科書を公的な了承のもとで準教科書として発行させ学校で使用し、その後、「世界史」教科書検定基準(1949年2月、1950年11月に改訂)にもとづき検定教科書の使用が1952年4月にようやく開始された。「世界史」の実施から検定教科書の使用に至る3年間の試行錯誤のプロセスが著者の緻密な論証を通じて丁寧に記されている。

 第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」では、「世界史」学習指導要領の作成の経過を検証し、その内容を詳細に分析している。1949年度の編集委員が「新学期に発表すべき試案」(要綱)の作成をめざしたが、東アジア情勢の変化(中華人民共和国の建国や朝鮮戦争勃発に至る東西対立)や米国内の事情(日本の歴史教科書に対する占領軍の責任回避)にともない公表を停止されたという。そして1950年度の編集委員(高校教員が4名、研究者が2名)が作業を受け継ぎ、1949年の暮れに大体の案を作成し、1950年9月に指導要領の中間発表(要綱)を通達し、実施から3年後の1952年3月に学習指導要領が発行された((昭和26(1951)年 )「中学校高等学校学習指導要領 社会科編I(a)日本史(b)世界史」、詳細は国立教育政策研究所教育研究情報データベースで同指導要領を参照)。著者は、「世界史」学習指導要領の「まえがき」(「日本史」「世界史」共通)、「I 世界史の特殊目標」、「II 世界史各時代指導上の参考目標および参考内容」「 III 世界史の参考単元例」を丁寧に分析し、「世界史」最初の指導要領(のちに「官報」で公示され、法的拘束力をもつとされるが当時は「試案」のまま)が「高い理想をもって、社会科としての世界史教育の実現を図るための学習指導の在り方を示そうと努めていた」「社会科「世界史」の出発点を象徴するものとなっている」として評価を与えている。同時に、欧米近代の民主主義の賛美=模範としての西洋、「アジア社会の後進性」、「先進」と「後進」を前提とした安易な比較、日本史を部分的に含みながらもヨーロッパ史と中国史を基本軸にした構成、その結果、東洋史と西洋史の枠をなくすはずの「世界史」、とくにその近代が東洋史と西洋史の峻別を主張している点など、様々な問題点を指摘している。「まえがき」では、教員が教科書記載の歴史的事実を頁ごとに講義することや生徒に歴史的事実の暗記を押し付けることを戒め、歴史的思考力の養成のための問題解決学習を求めていること、「学習活動の例」として「話し合い」「検討」「発表」「報告」「討論」「作文」などが例示されていることは、現在の「歴史総合」「世界史探究」の学習方法との親和性が認められる点で注目に値する。上記の内容が記載された背景には、この学習指導要領の作成に(2名の歴史研究者のほかに)4名の東京都立高校の教員が関わったことの意義と、当時の「初期社会科」の理念の影響があることを強く感じた。

 第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は、第6章から第9章で組まれている。

 第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、教育行政が具体的な措置を講じないまま実施された「世界史」に対する教員たちの模索と苦労、生徒たちの受け止め、2名の教員(橘高信、上野実義)の意欲的な取り組みが詳論されていて興味深い。とくに、「世界史」実施から4年を経過した1952年になっても高校教員の間には「東洋史と世界史の分離」を希望する意見が少なくなく、「世界史」は、教えにくく、むずかしい科目と見なされ、若い教員ほど苦労したという記録や回想は、学習指導要領が掲げた「世界史」の高い理想と現場の意識の乖離を暗示している。それに対して、学習者の高校生にとって「世界史」への関心は高く、1952年の文部省の調査(308頁、表6-3-2)では生徒数43,193名のうち、「世界史」の履修率は71.1%に達しており(「日本史」65.9%、「人文地理」53.6%、「時事問題」22.0)、「世界史」が高校生に支持され期待された科目であることがわかる。上記のデータから察すれば、のちに「世界史未履修問題」がおこる(2006年)とは、予想さえできないであろう。

 「世界史」が教員には教えにくく、むずかしい科目でありながら、生徒には期待を集めた科目であったという一見矛盾した関係の中で良心的な教員が独自の授業実践を模索していた。その一人である橘高信(東京都立文京高校)が授業を、単元への導入、個人の学習、班の学習、学級全体の学習(発表と質疑)という段階的な発展学習として構想・実践していたことは、現代のアクティブラーニングの先駆けとも思われ、示唆に富む。他方、上野実義(広島大学附属高校)は、「西洋世界の発展を尺度」にして世界史を先史から現代までの6つに分け、「社会、経済、政治、宗教、文化」の5項目の中から各時代の特色を1つ選び、検討するという学習を通じて社会科としての「世界史」を追究した。橘や上野の構想と実践は、「世界史」の草創期の模索として再評価すべきであろう。

 第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、「世界史」の実施後、未だ検定教科書が存在しない194951年度に活用された「準教科書」(30種50冊)について、その位置づけと資料的価値、発行状況や作成主体、準教科書における世界史の構成や学習の意味が幅広く考察されていて、多くの事実を学ぶことができる。準教科書は、位置づけや基準の曖昧さ、使用状況の情報量の少なさ、体系的な収集・所蔵機関の不在などの点で「世界史」教育史研究で未知な部分が多いという。戦前の「東洋史」「西洋史」検定教科書の執筆者が歴史研究の権威的人物であったことに対して、準教科書では40歳代を中心とする比較的若手の研究者であったこと、さらに、個人の高校教員や日教組近畿協議会などの組合団体、信濃教育会など地域の教育団体などが執筆の主体であったという事実に新鮮な感銘を受けた。新科目「世界史」への当時の人々の期待と課題意識などが強く感じられる事例である。また、「世界史」準教科書には、戦前・戦後の外国史教科書(国定・検定)とは異なり、多くの設問や学習課題を設け、参考文献が掲載されていたことも、生徒の自主的な学習を謳う社会科「世界史」学習の特色として興味深い。

 次に、内容と構成に関しては、「内容の伝達を重視した準教科書」(世界史を1つにまととめたタイプと東洋史・西洋史に区分したタイプなど)や「単元にもとづいて構成した準教科書」など様々な構成が現れたが、西洋史を中心にして東洋史を融合・統合することに苦慮していたこと、そしてモデルとしての西洋近代が世界史学習の主軸になる起点が形成されたことを指摘している。それは、敗戦後のGHQの占領統治が続く中、模範としての西洋近代の大きさと、世界史を構成する作業の困難を示している。

 第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、1949年度の「世界史」実施と、同年度に発足した新制国立大学の入学試験の関係を実証的に論じている。「世界史」は新科目であるため、1948年度の選択科目「東洋史」「西洋史」「国史」が受験科目となり、1949年6月に入試が行われた。文部省は「出題方針と問題例」を配付し、社会科の学力検査について、知識の記憶量や些末で特殊な専門的な事項の出題、従来の論文テストを避け、客観的なテスト(組み合わせ法、選択法など)の作成を指示した。また、「問題例」として3つの「テストすべき能力」(A 重要な概念および原則の理解、B データを正しく処理し解釈する能力、C 基礎的な知識や原則を応用する能力)を提示した。しかし、国立大学入試の実施後、全国の高校教員からは、入試とそのための暗記学習が「世界史の学習にわざわいしている」「世界史(学習)の発展にブレーキをかけている」という多くの批判が出されたという。これは、「世界史」実施の初年度からすでに「社会科としての「世界史」授業と入試の試験問題との乖離」が顕在化したことを意味し、現在に至る学校教育での授業と大学入試の関係・接続の困難を実感させる。翌1950年度入試では初めて「世界史」が入試科目になり(「東洋史」「西洋史」は1951年度入試まで残る)、文部省は大学側に「世界史学習上の重要概念(試案)」を「学力テスト出題の参考」として提示したが、高校側(学習指導要領も検定教科書も未発行状態)には提示されず、しかも挙げられた概念が極めて西洋史に偏り、「アジヤ社会発展の特殊性」などが含まれていたと指摘している。ここには、文部省と大学側、高校側との連携の不足、根強い西洋中心史観の刻印がうかがわれる。その後も文部省は大学入試に対する具体的な施策を重ね、1955年度入試対応として「客観テスト」と「論文体テスト」の併用へと方針をシフトさせるが、試験の形式面の改革が先行し、受験生に過重な記憶を強いる出題が後を絶たず、従来の知識偏重を助長する結果を招いたという。著者は「世界史」がその実施とともに大学入試に組み込まれ、「世界史」学習の内容を問う検討と入試問題の検討が別々になされ、教育の理想と入試の現実のはざまに立たされた「世界史」教員の苦悩が「世界史」実施直後に始まっていたと述べている。私は上記の事実を知り、小川幸司氏が名づけた「嫌われる“暗記地獄”としての高校世界史」「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」という言葉(『歴史学研究』2009年10月増刊号、のちに『世界史との対話(上)』地歴社、2011年に再掲)を想起し、2006年の高校世界史未履修問題の原点を垣間見たような印象を覚えた。

 第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」では、8章までの考察をふまえ、「世界史」新設の意義を総括している。「世界史」設置は、新制高等学校の発足に伴う新しい教育課程とその理念を実現するための教育的要請にもとづくこと、戦中・戦後直後(1945~1946年)の歴史科外国史教育から社会科「世界史」教育への転換には2つの課題(1歴史科の教育から社会科の教育への移行、2「東洋史」「西洋史」の外国史教育から「世界史」教育への転換)を内包したこと、しかも、社会科の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)は形式的で内容が不十分だったため「世界史」教育への転換は一足飛びの飛躍が求められ、「世界史」の実施後、学習指導要領も検定教科書も未発行の「何もない状態」のなか手探りで授業がスタートした事実を再記している。現在の社会科教育・歴史教育が「世界史」の実施期にその目的、内容と構成、方法などを根本から検討していた取り組みに学ぶことが多いという指摘に強く共感した。

 終章「本研究のまとめと意義」では、各章の考察・分析の結果を再度紹介していて、本書の研究の全体像と到達点を理解することができる。従来、未解明の要素の多い「世界史」設置の具体的な経緯と意味をはじめ、敗戦後の外国史教育の状況、教育行政による「世界史」への対応、教員たちの授業づくりと実践、「世界史」の大学入試の諸問題などを一次資料や多数の教科書(準教科書を含む)、回想やインタビュー調査を通じて明らかにした著者の研究業績は極めて大きい。

 最後に、著者は、今後の課題として、当時の授業状況のより広範な追究、未見の準教科書の分析をはじめ、対象を広げ明治期以降の歴史教育、1950年代後半以降の歴史教育の探究を挙げている。本書の刊行を通じて、高校「世界史」の成立過程の諸問題が広く社会に理解されるとともに、著者の今後さらなる研究の進展を心から期待したい。

(「世界史の眼」No.75)

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世界史寸評
米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)
藤田進 訳

2003年のイラク自由作戦の一環としてイラクで展開する米海兵隊(写真:USMC/ウィキメディア・コモンズ)

 3月22日(日)にイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、世界の指導者たちに米イスラエルによるイランに対する軍事作戦への参加を呼びかけ、テヘランを世界的な脅威として位置づけた。

  「もし誰かが、なぜイランが文明の敵であり、世界全体の敵であり、危険なのかの説明が必要ならば、過去48時間以内にすでに入手できている」と、ネタニヤフはイスラエルの南部都市アラドのイランのミサイル爆撃現場を訪問した際に語った。

 数日前の3月17日、アメリカ大統領ドナルド・トランプはNATO同盟国が戦争に参加を拒否していることを批判し、その立場を「非常に愚かな誤り」と呼んだ。その後、3月20日には批判をエスカレートさせ、彼らが戦いから外れたことを「臆病者」と非難した。 こうした訴えーそしてその後の明らかな消極的姿勢―は、自制や中立に関する公式声明よりも、はるかに、多くのことを物語っている。

 しかし、誇大宣伝を信じてはならない。もしヨーロッパやアラブ諸国政府が、2月28日に開始された米イスラエル戦争が本当に成功する可能性があると信じたなら、多くの国はすでに参加していただろう。

 これは、ヨーロッパや中東の指導者たちが「これは我々の戦争ではない」と主張している中で、厳しい結論に聞こえるかもしれないが、歴史はまったく異なる物語を語っている。スペイン、オマーン、その他いくつかの例外を除き、西側諸国や親米アラブ政権は原則に基づいて導かれることはほとんどなかった。彼らの記録は、リスク、リターン、勝利の可能性によって形作られた計算された日和見主義的なものである。 彼らの現在のためらいを理解するには、時を巻き戻す必要がある。

 1990年から91年にかけてイラクがクウェートに侵攻した際、ワシントンは現代史上最大級の軍事連合を迅速に結成した。国際法の名の下に、国連安全保障理事会の明確な支持のもと、米国は介入を限定的な任務、すなわちクウェート解放として位置づけた。

 その枠組みが重要だった。ヨーロッパ列強や主要なアラブ諸国も熱心に参加した。この戦争は正当で勝てるものと見なされ、アメリカの指導のもとで中東における新たな「ポストソ連秩序」形成の基盤と見なされた。

  しかし2003年までに状況は変わった。アメリカのイラク侵攻はもはや侵略を覆すためではなく、それは「テロとの戦い」というレトリックに包まれた政権交代に関するものだった。今回は、特にフランスやドイツといった主要なヨーロッパ列強が公然と抵抗した。その時、アメリカ国防長官ドナルド・ラムズフェルドは異議を唱える同盟国を「旧ヨーロッパ」だとして一掃し、東欧のより従順な政府グループ、すなわち「新しいヨーロッパ」を高めた。

 1991年の正当性を再現できなかったため、ワシントンは「意志の連合」と呼ばれる、軍事的貢献は限定的だが象徴的価値を持つ国々を含む緩やかで政治的に構築された同盟をまとめ上げた。トニー・ブレア政権下のイギリスは最も著名なパートナーとなり、ワシントンの数十年ぶりに最も物議を醸した戦争にその運命を結びつけた。 しかし、それでもためらいは原則とは一致しなかった。イラクが侵攻され国家が解体されると、同じ国際的な関係者たちが—戦争を支持していたかどうかにかかわらず—迅速に動き、自分たちの影響力を確保しようとした。エネルギー契約が締結され、復興協定が配分され、外国政府が侵攻後のイラクの管理に介入した。戦利品の方が、それに先んじるリスクよりもはるかに魅力的だったようだ。

 アフガニスタンの戦争も同様のパターンを反映していた。9.11以降、米国は対テロと集団防衛の言葉のもと、NATOや数十のパートナー国を成功裏に結集させた。最盛期には50か国以上の兵士が参加した。再び、同盟国は任務が「正当化」され、調整され、戦略的成果が見込めそうな場合にコミットする意欲を示した。

 しかし、イラン戦争はこれらの保証を一切提供していない。 これは、中東における最近の米国主導の軍事作戦の中で最も非合理的で防御に乏しく、最も危険な戦争である。 イラクやリビアとは異なり、イランは孤立しているわけでも構造的に弱いわけでもない。人口は約9300万人、広大な地理的環境、そして長期的な対立を持続させる国内の軍産能力を持つ大きく結束した国家である。 イランは地域内外で標的を攻撃する能力を示しつつ、地域の同盟国やパートナーシップのネットワークを維持し、中国やロシアなどの主要世界大国との強い政治的結びつきを維持している。

  同様に重要なことは、信頼できる政治的枠組みが欠如していることである。国連の権限も、一貫した連合も、明確な最終目標もない。代わりに存在しているのは、衝動的な米国大統領とイランをはるかに超えた野望を持つイスラエル指導部との不安定なパートナーシップである。

 ドナルド・トランプは長年にわたり伝統的な同盟国間の信頼を損ない、世界の経済関係を不安定化させ、予測不能な統治を続けてきた。このような指導の下では、戦争は計算された戦略ではなく危険な賭けとなる。 

 欧州およびアラブ諸国政府にとって、問題はもはやイランに対峙すべきかどうかではなく、ワシントンがそのような対立の結果を管理できるかどうかである。ますますその答えは「ノー」である。

  ベンヤミン・ネタニヤフの目的は限定的でも隠蔽的でもない。これは単にイランの能力を無力化するだけの問題ではない。それは、最終的にはワシントンの最も緊密なアラブのパートナーさえも従属させ、トルコのような地域大国の自治に挑戦するような形で、中東地域の秩序全体を再構築することに関わっている。

 したがって、現在のヨーロッパとアラブ政権の距離を説明しているのは、抑制ではなく計算である。

 もしこの戦争が正当性、勝利の約束、物質的または政治的利益の見込みを持っていれば、馴染み深い連合はすでに形成されていただろう。 もしより予測可能なアメリカ政権――同盟を動員し、介入を法的正当性で隠す能力のある政権――が政権を握っていたなら、対応は異なっていたかもしれない。しかし、この戦争にはそれらが何も与えられていない。

  だから幻想は捨て去らなければならない。ヨーロッパは戦争を拒否しているわけではない。アラブ諸国政府も道徳的変革を遂げているわけではない。彼らはこれまで通りリスクを評価しているのである。

 そして今回の結論は明白である。彼らが戦争に加わらないのは、それに反対しているからではなく、失敗すると信じているからだ。

https://www.palestinechronicle.com/this-is-how-we-know-the-iran-war-is-failing-and-not-for-military-reasons/

(「世界史の眼」No.75)

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