書評:茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年3月)
米山宏史

 今年2026年は、戦後の高等学校社会科「世界史」の実施(授業開始)から77年目を迎えている。「世界史」の設置に関しては、その経緯などに未知の要素が多く、不明な部分が少なくない。そうした現状に対して、茨木智志氏(上越教育大学教授)が修士論文以来の多年にわたる「世界史」の成立事情に関する研究成果を集大成し、表記の大著を上梓した。本書の概要を紹介し、その研究成果を共有したい。本書の構成は以下の通りである。

  序章「本研究の課題と方法」
第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」  
  第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」
  第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」
第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」
  第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」
  第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」
第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」
  終章「本研究のまとめと意義」

 本書は436頁からなり、序章と9つの章、終章を置き、全体を3部で構成し、第9章で第Ⅰ部~第Ⅲ部のまとめを論じている。

 序章「本研究の課題と方法」では、研究目的として、戦後の教育改革で成立した新科目「世界史」を歴史科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)から社会科「世界史」教育への転換過程に位置づけ、「世界史」の設置理由と成立過程、実践方法、その特徴と意義、達成事項と今後の課題を総合的かつ実証的に解明することを挙げている。次に、通史的な一部の研究や個別な研究が存在するものの、戦後教育改革期に「世界史」設置を位置づけた全体的な考察がなされていないという先行研究の実情をふまえ、「世界史」の成立過程を日本側の史資料と占領軍の史料を併用して探究するとしている。

 まず「世界史」成立の複雑な過程の概略を確認する(1戦前の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、2戦後の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、3新制高校発足(1948年4月)後の社会科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、4社会科「世界史」教育(1948年10月、設置の発表、1949年4月、実施・授業開始、1952年3月、「世界史」学習指導要領の発行、4月、検定教科書の使用開始)。本書は、上記の複雑な「世界史」成立過程を、実に多様な史料の分析や聞き取り調査などを駆使し、緻密で実証的な論証を積み重ねて明らかにしている。

 第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」は、2つの章で組み立てられている。

 第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」では、1945年12月、占領軍の「修身」「日本歴史」「地理」停止指令がすでに1944年7月、米国国務省で決定されていたこと(「日本:軍政下における教育制度」)、逆に外国の歴史や文化を学ぶための外国史教育を推奨し、米国を模範となる外国、次に民主主義国として連合軍加盟諸国を挙げていたこと(1945年9月22日、「降伏後における米国の初期対日方針」)、それに対して、日本の文部省は1945年11月、「国史教育ノ方針(案)」を省議決定し、神話の扱い方の変更のみで皇国史観の脱却を求めなかったことなどを戦後初期の日米の歴史教育観の齟齬として紹介している。また、文部省とCIE(占領軍の民間情報教育局)教育課との協議で「教科用図書委員会」が設けられ、「教科用図書委員会」を通じての文部省主導の「教科書改訂」構想を進めたが、占領軍による教科書発行の許可という壁を打破できずに挫折した。他方で、この委員会のもとに位置づけられた「歴史科専門委員会」のみはいち早く組織されて、文部省による国史と外国史の暫定教科書作成の後ろ盾となり、「歴史科専門委員会」が国史と外国史の暫定教科書の作成に取り組んだ。国史は、文部省が神話の記載に固執しCIEとの合意が得られずに頓挫したが、外国史教科書は、東洋史・西洋史ともに「近世史」以後を全面的に書き直し『暫定中等歴史一・二』(一は東洋史、二は西洋史)として発行された(1946年)。こうして「東洋史」「西洋史」は戦後も存続を果たした。第1章は、戦後直後の混乱期における歴史教科書の作成をめぐる複雑な経緯を詳述している。

 第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」では、1946年6月から文部省内の教科課程改正委員会がCIE教育課と協議しながら新しい教科課程の検討を進め、初等・中等教育を貫く社会科の導入を主張するCIEと日本史の通史的系統学習を重視する文部省側の対立がおこり、9月に妥協が成立したこと(第7学年から10学年=中学1年~高校2年までは統合社会科を、第11~12学年=高校1~2年で「人文地理」「東洋史」「西洋史」「時事問題」を開設する)、文部省ではなく若手の歴史研究者が「東洋史」「西洋史」の学習指導要領と教科書を作成し、「東洋史」では従来の中国王朝史にインドや中央アジアを加え、西洋の文化の受容による東洋の近代化を明記し、「西洋史」では西洋文明と民主主義を強調したこと、両者ともに教員の講義式・知識の暗記の歴史学習を厳しく批判し、学習活動の例として生徒自身が調べたり、発表したり、討論したり、報告書や伝記を作成する活動などを提示し、社会科としての外国史学習を志向していたことが考察されている。

 第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は3つの章で構成されている。

 第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」では、「世界史」設置に関わった研究者、文部省の担当者の証言や回想の信憑性を検証したうえで、1948年4月の新制高等学校教科課程研究委員会の発足から、普通教育分科会での「世界史」を含む素案の作成と承認(5月18日)、「新制高等学校教科課程改正案」の文部大臣への提出(8月),「新制高等学校教科課程の改正について」の通達(10月11日)という「世界史」設置の決定プロセスを精査し、「東洋史」「西洋史」に代わる「世界史」の導入の経緯を詳論している。そして、「世界史」設置の意義として、1「国民の共通教養」の提供、2その後の世界史の探究の起点、3「世界史」という名称の普遍性を挙げ、「世界史」と併せて「国史」(1949年度から「日本史」)の導入が歴史科目を2科目に限定したいという意図と相まって「世界史」設置の直接的契機になったことに言及している。私は、上原専禄が同1948年に刊行した『歴史的省察の新対象』(弘文堂、1948年2月)で主張した国史・東洋史・西洋史の三区分の批判と世界史的観察方法の採用の必要性が後付けながら「世界史」設置の理論的な支柱とみなされたという著者の指摘に大きな感銘と深い示唆を得た。

 第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」では、1949年4月の「世界史」の実施から1952年3月の「世界史」学習指導要領の発行に至る時期における行政の「世界史」教育への対応を「世界史」教科書検定基準(1949年3月)や「高等学校社会科日本史、世界史の学習指導について」の通達(1949年4月11日)を分析して明らかにしている。何も準備が整わない状態での「世界史」実施=授業の開始にあたり、文部省が出した上記通達には、社会科歴史学習の目標達成のための留意事項として、社会科の一般目標との合致、現代社会の諸問題の意義の認識、歴史の発展の必然性の理解、歴史の進歩・発展の理解による社会発展に対する自己の責任と情熱、現在の社会・経済・政治の問題解決に必要な能力の発達、学習形態として一般社会科に準拠し、概説の学習に陥らない留意と生徒の自主的学習活動を刺激するための単元学習の推奨などが示されている。この通達は、文部省が高橋磌一(文部省で中学校「国史」教科書編集に従事、のちに歴史教育者協議会第2代委員長(1971~1985年))と協議して作成したとされるが、戦後の新教科 社会科の教育理念と「戦後歴史学」の学風が看取されて興味深い。

 次に、「世界史」実施後、「世界史」検定教科書の使用までの長く複雑な道のりが詳述されている。「世界史」実施初年度には、「世界史」の検定教科書もその他の準教科書も存在せず、教科書『西洋の歴史 (1)』(1947年発行)のみが存在した。そこで文部省は従来の歴史教育を容認し暫定的な措置を取り、「世界史」検定教科書の発行と旧来の外国史教科書(『西洋の歴史(2)』『東洋の歴史(1)』『東洋の歴史(2)』)の刊行をめざしたが、後者は実現できなかった。さらに、文部省は1950年秋、教科書出版3社の「世界史」教科書を公的な了承のもとで準教科書として発行させ学校で使用し、その後、「世界史」教科書検定基準(1949年2月、1950年11月に改訂)にもとづき検定教科書の使用が1952年4月にようやく開始された。「世界史」の実施から検定教科書の使用に至る3年間の試行錯誤のプロセスが著者の緻密な論証を通じて丁寧に記されている。

 第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」では、「世界史」学習指導要領の作成の経過を検証し、その内容を詳細に分析している。1949年度の編集委員が「新学期に発表すべき試案」(要綱)の作成をめざしたが、東アジア情勢の変化(中華人民共和国の建国や朝鮮戦争勃発に至る東西対立)や米国内の事情(日本の歴史教科書に対する占領軍の責任回避)にともない公表を停止されたという。そして1950年度の編集委員(高校教員が4名、研究者が2名)が作業を受け継ぎ、1949年の暮れに大体の案を作成し、1950年9月に指導要領の中間発表(要綱)を通達し、実施から3年後の1952年3月に学習指導要領が発行された((昭和26(1951)年 )「中学校高等学校学習指導要領 社会科編I(a)日本史(b)世界史」、詳細は国立教育政策研究所教育研究情報データベースで同指導要領を参照)。著者は、「世界史」学習指導要領の「まえがき」(「日本史」「世界史」共通)、「I 世界史の特殊目標」、「II 世界史各時代指導上の参考目標および参考内容」「 III 世界史の参考単元例」を丁寧に分析し、「世界史」最初の指導要領(のちに「官報」で公示され、法的拘束力をもつとされるが当時は「試案」のまま)が「高い理想をもって、社会科としての世界史教育の実現を図るための学習指導の在り方を示そうと努めていた」「社会科「世界史」の出発点を象徴するものとなっている」として評価を与えている。同時に、欧米近代の民主主義の賛美=模範としての西洋、「アジア社会の後進性」、「先進」と「後進」を前提とした安易な比較、日本史を部分的に含みながらもヨーロッパ史と中国史を基本軸にした構成、その結果、東洋史と西洋史の枠をなくすはずの「世界史」、とくにその近代が東洋史と西洋史の峻別を主張している点など、様々な問題点を指摘している。「まえがき」では、教員が教科書記載の歴史的事実を頁ごとに講義することや生徒に歴史的事実の暗記を押し付けることを戒め、歴史的思考力の養成のための問題解決学習を求めていること、「学習活動の例」として「話し合い」「検討」「発表」「報告」「討論」「作文」などが例示されていることは、現在の「歴史総合」「世界史探究」の学習方法との親和性が認められる点で注目に値する。上記の内容が記載された背景には、この学習指導要領の作成に(2名の歴史研究者のほかに)4名の東京都立高校の教員が関わったことの意義と、当時の「初期社会科」の理念の影響があることを強く感じた。

 第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は、第6章から第9章で組まれている。

 第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、教育行政が具体的な措置を講じないまま実施された「世界史」に対する教員たちの模索と苦労、生徒たちの受け止め、2名の教員(橘高信、上野実義)の意欲的な取り組みが詳論されていて興味深い。とくに、「世界史」実施から4年を経過した1952年になっても高校教員の間には「東洋史と世界史の分離」を希望する意見が少なくなく、「世界史」は、教えにくく、むずかしい科目と見なされ、若い教員ほど苦労したという記録や回想は、学習指導要領が掲げた「世界史」の高い理想と現場の意識の乖離を暗示している。それに対して、学習者の高校生にとって「世界史」への関心は高く、1952年の文部省の調査(308頁、表6-3-2)では生徒数43,193名のうち、「世界史」の履修率は71.1%に達しており(「日本史」65.9%、「人文地理」53.6%、「時事問題」22.0)、「世界史」が高校生に支持され期待された科目であることがわかる。上記のデータから察すれば、のちに「世界史未履修問題」がおこる(2006年)とは、予想さえできないであろう。

 「世界史」が教員には教えにくく、むずかしい科目でありながら、生徒には期待を集めた科目であったという一見矛盾した関係の中で良心的な教員が独自の授業実践を模索していた。その一人である橘高信(東京都立文京高校)が授業を、単元への導入、個人の学習、班の学習、学級全体の学習(発表と質疑)という段階的な発展学習として構想・実践していたことは、現代のアクティブラーニングの先駆けとも思われ、示唆に富む。他方、上野実義(広島大学附属高校)は、「西洋世界の発展を尺度」にして世界史を先史から現代までの6つに分け、「社会、経済、政治、宗教、文化」の5項目の中から各時代の特色を1つ選び、検討するという学習を通じて社会科としての「世界史」を追究した。橘や上野の構想と実践は、「世界史」の草創期の模索として再評価すべきであろう。

 第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、「世界史」の実施後、未だ検定教科書が存在しない194951年度に活用された「準教科書」(30種50冊)について、その位置づけと資料的価値、発行状況や作成主体、準教科書における世界史の構成や学習の意味が幅広く考察されていて、多くの事実を学ぶことができる。準教科書は、位置づけや基準の曖昧さ、使用状況の情報量の少なさ、体系的な収集・所蔵機関の不在などの点で「世界史」教育史研究で未知な部分が多いという。戦前の「東洋史」「西洋史」検定教科書の執筆者が歴史研究の権威的人物であったことに対して、準教科書では40歳代を中心とする比較的若手の研究者であったこと、さらに、個人の高校教員や日教組近畿協議会などの組合団体、信濃教育会など地域の教育団体などが執筆の主体であったという事実に新鮮な感銘を受けた。新科目「世界史」への当時の人々の期待と課題意識などが強く感じられる事例である。また、「世界史」準教科書には、戦前・戦後の外国史教科書(国定・検定)とは異なり、多くの設問や学習課題を設け、参考文献が掲載されていたことも、生徒の自主的な学習を謳う社会科「世界史」学習の特色として興味深い。

 次に、内容と構成に関しては、「内容の伝達を重視した準教科書」(世界史を1つにまととめたタイプと東洋史・西洋史に区分したタイプなど)や「単元にもとづいて構成した準教科書」など様々な構成が現れたが、西洋史を中心にして東洋史を融合・統合することに苦慮していたこと、そしてモデルとしての西洋近代が世界史学習の主軸になる起点が形成されたことを指摘している。それは、敗戦後のGHQの占領統治が続く中、模範としての西洋近代の大きさと、世界史を構成する作業の困難を示している。

 第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、1949年度の「世界史」実施と、同年度に発足した新制国立大学の入学試験の関係を実証的に論じている。「世界史」は新科目であるため、1948年度の選択科目「東洋史」「西洋史」「国史」が受験科目となり、1949年6月に入試が行われた。文部省は「出題方針と問題例」を配付し、社会科の学力検査について、知識の記憶量や些末で特殊な専門的な事項の出題、従来の論文テストを避け、客観的なテスト(組み合わせ法、選択法など)の作成を指示した。また、「問題例」として3つの「テストすべき能力」(A 重要な概念および原則の理解、B データを正しく処理し解釈する能力、C 基礎的な知識や原則を応用する能力)を提示した。しかし、国立大学入試の実施後、全国の高校教員からは、入試とそのための暗記学習が「世界史の学習にわざわいしている」「世界史(学習)の発展にブレーキをかけている」という多くの批判が出されたという。これは、「世界史」実施の初年度からすでに「社会科としての「世界史」授業と入試の試験問題との乖離」が顕在化したことを意味し、現在に至る学校教育での授業と大学入試の関係・接続の困難を実感させる。翌1950年度入試では初めて「世界史」が入試科目になり(「東洋史」「西洋史」は1951年度入試まで残る)、文部省は大学側に「世界史学習上の重要概念(試案)」を「学力テスト出題の参考」として提示したが、高校側(学習指導要領も検定教科書も未発行状態)には提示されず、しかも挙げられた概念が極めて西洋史に偏り、「アジヤ社会発展の特殊性」などが含まれていたと指摘している。ここには、文部省と大学側、高校側との連携の不足、根強い西洋中心史観の刻印がうかがわれる。その後も文部省は大学入試に対する具体的な施策を重ね、1955年度入試対応として「客観テスト」と「論文体テスト」の併用へと方針をシフトさせるが、試験の形式面の改革が先行し、受験生に過重な記憶を強いる出題が後を絶たず、従来の知識偏重を助長する結果を招いたという。著者は「世界史」がその実施とともに大学入試に組み込まれ、「世界史」学習の内容を問う検討と入試問題の検討が別々になされ、教育の理想と入試の現実のはざまに立たされた「世界史」教員の苦悩が「世界史」実施直後に始まっていたと述べている。私は上記の事実を知り、小川幸司氏が名づけた「嫌われる“暗記地獄”としての高校世界史」「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」という言葉(『歴史学研究』2009年10月増刊号、のちに『世界史との対話(上)』地歴社、2011年に再掲)を想起し、2006年の高校世界史未履修問題の原点を垣間見たような印象を覚えた。

 第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」では、8章までの考察をふまえ、「世界史」新設の意義を総括している。「世界史」設置は、新制高等学校の発足に伴う新しい教育課程とその理念を実現するための教育的要請にもとづくこと、戦中・戦後直後(1945~1946年)の歴史科外国史教育から社会科「世界史」教育への転換には2つの課題(1歴史科の教育から社会科の教育への移行、2「東洋史」「西洋史」の外国史教育から「世界史」教育への転換)を内包したこと、しかも、社会科の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)は形式的で内容が不十分だったため「世界史」教育への転換は一足飛びの飛躍が求められ、「世界史」の実施後、学習指導要領も検定教科書も未発行の「何もない状態」のなか手探りで授業がスタートした事実を再記している。現在の社会科教育・歴史教育が「世界史」の実施期にその目的、内容と構成、方法などを根本から検討していた取り組みに学ぶことが多いという指摘に強く共感した。

 終章「本研究のまとめと意義」では、各章の考察・分析の結果を再度紹介していて、本書の研究の全体像と到達点を理解することができる。従来、未解明の要素の多い「世界史」設置の具体的な経緯と意味をはじめ、敗戦後の外国史教育の状況、教育行政による「世界史」への対応、教員たちの授業づくりと実践、「世界史」の大学入試の諸問題などを一次資料や多数の教科書(準教科書を含む)、回想やインタビュー調査を通じて明らかにした著者の研究業績は極めて大きい。

 最後に、著者は、今後の課題として、当時の授業状況のより広範な追究、未見の準教科書の分析をはじめ、対象を広げ明治期以降の歴史教育、1950年代後半以降の歴史教育の探究を挙げている。本書の刊行を通じて、高校「世界史」の成立過程の諸問題が広く社会に理解されるとともに、著者の今後さらなる研究の進展を心から期待したい。

(「世界史の眼」No.75)

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