蓼科の近代史 Ⅱ(下)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、前号)
2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと

(1)諏訪鉄山の労働者構成

 1944年4月、日本鋼管の子会社として日本鋼管鉱業株式会社が設立された。諏訪鉄山(諏訪鉱業所)はその傘下に入り、軍需会社法(1943年)に基づく軍需事業場に指定された。そのために、鉄鉱石の飛躍的な増産が要請され、徴用や学徒勤労動員や勤労奉仕などさまざまな形で、極めて多くの人々が諏訪鉄山で働くことになった(『諏訪の近現代史』611頁)。

 こうして、1944年8月の時点で、諏訪鉄山では以下のような人数の人々が就労していた(『諏訪の近現代史』612頁、『茅野市史 下巻』525頁。いずれも典拠は日本鋼管鉱業株式会社の社史であると思われるが、原本を見ることができなかった)。

表1 諏訪鉄山の労働者構成(1944年8月)

鉱山作業員
  鉱員          328人
  徴用工         221人
  臨時工          69人
建設作業員
  鉱員          339人
  徴用工         682人
 以上、総計 1,639人

 それ以外に、学徒勤労動員として、立命館大学採鉱冶金科の学生20人と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)の生徒100人ぐらいが採鉱業務などに従事していた。それに婦人会などの日帰り勤労奉仕者を加えると、毎日2,000人以上の人々が諏訪鉄山で働いていた(『諏訪の近現代史』612頁)。

(2)「徴用」された朝鮮人たち

 『茅野市史 下巻』(525頁)には、朝鮮人の「徴用工」に関する以下のような記述がある。

徴用工には兵役に服さない諏訪地方壮年男子のほか、朝鮮半島から青壮年二〇〇名が強制的に徴用され、緑山温泉に収容されて働いていた。

 『諏訪の近現代史』(611頁)にも、次のように書かれている。

既に日本鋼管直営のころから兵役に服さない諏訪地方の男子の中から毎日一〇〇名ほどが徴用工として採掘作業に従事するようになっていた。[昭和]十八年[1943年]には、更に朝鮮人の徴用工二〇〇名ぐらいが緑山温泉に強制収容され、主として採掘現場での作業を担当していた。

 このように、表1の徴用工の中には朝鮮人の「徴用工」200人ぐらいが含まれていたとされているのであるが、この朝鮮人の「徴用工」という表現には注意が必要である。というのは、朝鮮人(当時の行政用語では、「半島人」)を国民徴用令(1939年)によって実際に徴用して、日本国内に「移入」したのは1944年(昭和19年)9月からだからである。したがって、1944年(昭和19年)8月時点の諏訪鉄山には、厳密な意味での朝鮮人徴用工はいなかったはずである。しかし、諏訪鉄山で多くの朝鮮人が働かされていたことは事実である。とすると、このような朝鮮人たちはどのようにして諏訪鉄山に連れてこられたのであろうか

 1939年(昭和14年)7月4日、戦争遂行に要する労働力を計画的に動員するために、「労務動員実施計画」が閣議決定された。「そしてそのなかに、日本内地の炭鉱等に配置するべき労働力の給源として朝鮮半島からの労働者八万五〇〇〇人分が計上されたのである。これが日本帝国による日本内地にかかわる朝鮮人労務動員政策の最初の決定である」(外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年、42頁)。この1939年度の「労務動員計画」以降、毎年度ごとに労務動員計画が策定され(1942年度からは「国民動員計画」と改称)、動員するべき朝鮮人労働者の数が明記された。しかし、実際に動員された朝鮮人労働者の数は計画を下回り、1939年度で3万8,700人(1939年9月から翌年3月までの数)、1940年度では、計画の8万8,000人に対して実際の動員数は5万4,944人であった(外村前掲書、58,72,78頁)。

 1944年8月の時点で、諏訪鉄山で働いていた朝鮮人の「徴用工」というのは実際にはこの労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人労働者たちだったのであろう。ただし、労務動員計画によって朝鮮半島から日本に連れてこられたのではなく、「私的に」日本に移住していた朝鮮人も動員された。1943年(昭和18年)度の国民動員計画では、朝鮮半島から導入するべき労働者12万人以外に、日本内地在住朝鮮人労働者5万人の動員が計画されていた(外村前掲書、122頁)。諏訪鉄山で働いていた朝鮮人労働者の中には、このような日本内地在住朝鮮人もいたのであろう。

 このように、朝鮮人「徴用工」という表現には曖昧さがあるとしても、朝鮮人たちが諏訪鉄山で働かされていて、差別的な取り扱いを受けていたことは確かである。1995年6月に茅野市大字北山・糸萱公民館で開催された「諏訪鉄山を語りしのぶ会」において、かつて旧制諏訪中学校3年生の時に、学徒勤労動員によって諏訪鉄山関係の工事(花蒔から茅野駅までの鉄道敷設工事)で働いていた人が当時の想い出を次のように語っている。

 また、朝鮮の方々と一緒に働いていたわけです。時間をかけて長い石のノミで穴をあけるのに、まめが破れて血がしたたっていたけれども、それでも強制的に働かせられていた。

 また、発破(はっぱ)[ダイナマイト〕が爆発するときは鐘を鳴らして、我々中学生は早々と後方へ引き下がるわけですけれども、朝鮮から来た人たちはいっこうに下がらせていただけなくて、飛んできた石が頭や手にあたって、血が噴き出しているようなことも目撃いたしました。

 また、畑の中に種をとるために真っ赤になった大きな胡瓜かなんかあったのを、十七歳で徴発されてきたという我々と同じくらいか、あるいは一つだけ年上くらいの少年が、どうしても腹がすいていけないから胡瓜を食べたいということで、私がとってきて、その人にあげたところ、二十世紀梨を食べるように、むしゃぶりついて食べたのを今でも思い出します。(伊藤編『平和を今こそ』92~93頁)

 この「想い出」の最後に出てくる「十七歳で徴発されてきたという」朝鮮人少年は厳密な意味での徴用工だったのであろうか。それとも、労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人だったのであろうか。あるいは、日本内地在住朝鮮人だったのであろうか。

 朝鮮人「徴用工」たちには、金堀場に建てられた「飯場はんばと呼ばれる長屋があてがわれていた」(『諏訪の近現代史』612頁)。「飯場」の建物は1990年代半ばまで残っていたが、その後、取り壊された(茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号、35頁)。ところが、『茅野市史 下巻』や『諏訪の近現代史』には、朝鮮人「徴用工」たちは「緑山温泉」に収容されていたと書かれている。この「緑山温泉」というのが何を指しているのか、調べてみたが分からなかった。『茅野市史 下巻』と『諏訪の近現代史』がともに依拠していると思われる原資料(おそらく、日本鋼管鉱業株式会社の社史であろう)に、朝鮮人「徴用工」たちは緑山温泉に収容されていたという記載があるのだろうが、これは原資料の誤記あるいは誤認のように思われる(特に、『諏訪の近現代史』は、朝鮮人「徴用工」の宿舎について、611頁と612頁で矛盾した記述をしている)。

 日本の敗戦後、朝鮮人「徴用工」たちは「博多へ引きあげていった」(『茅野市史 下巻』527頁)。博多から本国に帰って行ったのであろう。

(3)北山俘虜収容所の連合国軍俘虜たち

 1945年6月4日、激しさを増すアメリカ軍の空襲を避けるために、東京俘虜収容所(大森俘虜収容所)から247人の連合国軍俘虜が当時の長野県諏訪郡北山村に設置されていた東京俘虜収容所・第6分所(北山俘虜収容所)に移送された(伊藤編『平和を今こそ』52頁)。ただし、資料により、俘虜の人数に若干の異同があり、伊藤編前掲書でも、他の箇所では243人(アメリカ人57人,イギリス人55人、オランダ人91人、カナダ人34人、オーストラリア人4人、その他2人)となっている(40頁)。

 北山俘虜収容所は長尾根鉱床の付近にあったから、連合国軍俘虜たちはそこから標高にして数百メートル高い石遊場鉱区に坂道を登って通っていた。主要な作業は低品位の褐鉄鉱にコークスを混ぜて焼結する作業で、極めて高温の環境での作業であった。以前は、学徒勤労動員された旧制諏訪中学校の生徒たちが行っていたのだが、彼らに代わって、連合国軍の俘虜たちが焼結作業に就かされたのである。

 前述の「諏訪鉄山を語りしのぶ会」には、諏訪鉄山で働かされていた一人のアメリカ軍俘虜が参加していた(彼がこの会に招待された経緯については伊藤編『平和を今こそ』各所を参照)。彼の名前はアルフレッド・マックグルー(Alfred Mcgrus)と言い、1922年10月、アメリカ合衆国オハイオ州で生まれた。1941年1月、18歳でアメリカ陸軍に入隊、フィリピン、マニラ湾口の要衝コレヒドール島の守備隊に配属された。1942年5月7日、日本軍の攻撃によりコレヒドール島が陥落した時、日本軍の俘虜となった。その後、日本に送致され、東京俘虜収容所に収容されていたが、1945年6月4日、北山俘虜収容所に移送された。

 アルフレッド・マックグルーが記憶を頼りに描いた北山俘虜収容所の図によれば、収容所の矩形の敷地は高い塀(TALL FENCE)と空壕(DITCH)によって二重に囲われていて、四隅には照明が設置されていた。その敷地の中に、二棟の俘虜宿舎(POW BARRACKS: POW=Prisoner Of War)と一棟の米・英将校(AMER. & BRITISH OFFICERS)用宿舎が建っていた。BENJO(便所)は別棟で、門のそばには看守たちなど日本人用の宿舎(JAPANESE BUILDING)があった(伊藤編『平和を今こそ』53頁)。

 アルフレッド・マックグルーもこの収容所で起居しながら、諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター[smelter])で「俘虜としての労働を強いられ、食糧難と戦い、のみしらみに苦しみながら、約五〇〇メートルの高低差、四分の三マイルの山道を[石遊場の]作業場に通勤した」(伊藤編『平和を今こそ』76頁)。

諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター)

出典:マックグルー手書きの絵(伊藤編『平和を今こそ』97頁)
図中の英文:IRON ORE SMELTER SUWA PRISONS CAMP 

 1945年8月、戦争が終わると、連合国軍俘虜たちは横浜に集結して、帰国の途に就いた。北山俘虜収容所にいた俘虜たちも、同年9月6日、茅野駅から横浜桜木町に引き揚げた。アメリカ人54人、イギリス人55人、オランダ人89人、カナダ人25人、オーストラリア人4人、その他2人の計229人、1人病院送達であった(伊藤編『平和を今こそ』74頁)。

 アルフレッド・マックグルーはその引き揚げ時の様子を次のように語っている。

 トラックが朝早くに収容所に来ました。それは、九月六日でした。私は三番目のトラックに幸運にも乗ることができました。駅に着いた時、トラックから飛び降りて、それから列車に乗ろうとしました。誰も日本人は付き添っていませんでした。一時間以上そこで汽車が来るのを待ちました。汽車はいっぱい人がいたんですけれども、そこになんとか乗り込みました。汽車に乗っていた日本人の人たちはみんな自分たちを見てびっくりした様子でした。[中略]

 北山で、[俘虜たちのための救恤]物資が[米軍機B29によって]投下されたときに、別にチラシもありまして、そこに「戦争が終わった、今、アメリカ軍が横浜にいる」ということが書いてあったそうです。

 でも、自分たちが茅野から乗って行った汽車は、横浜までは行きませんでした。それで東京で汽車を降りました。どうやったら横浜まで行けるかと聞きました。小さな電車が、たった一台の電車が来ました。それから、乗れるだけその電車に乗って横浜まで行きました。(伊藤編『平和を今こそ』122~123頁)

 当時、連合国軍俘虜とかかわりを持つと、俘虜収容所関係者とみなされて戦犯容疑をかけられる恐れがあったので、北山俘虜収容所の俘虜たちも日本人に敬遠され、ほとんど自力で横浜まで行かざるをえなかったようである(伊藤編『平和を今こそ』123~124頁)。実際、北山俘虜収容所の所長だった人はアメリカ軍の横浜BC級戦犯裁判で有罪とされ、服役した(同、60頁)。

 それから約50年後の1995年6月、諏訪鉄山跡を訪れたアルフレッド・マックグルーは、最初、そこが俘虜生活を送った場所であると信じることができなかった。戦後50年の年月は周囲の状況をすっかり変えてしまっていたからである。しかし、マックグルーが描いた石遊場の焼結炉の絵が、当時旧制諏訪中学校4年生で学徒勤労動員されて焼結炉で働いていた人の記憶と一致したことから、そこがマックグルーの作業していた場であると確認された。また、マックグルーなどの俘虜たちは、夜間、フェンスの緩んだところから収容所の外に出て、付近の畑のジャガイモなどを掘り取って、食べていた。その畑の持ち主と出会えたこともマックグルーの記憶をよみがえらせた(伊藤編『平和を今こそ』100~103頁、147~148頁)。

おわりに

 諏訪鉄山は敗戦とともに一時閉山された。しかし、1948年、日本鋼管は諏訪興業株式会社を設立し、諏訪鉄山の採掘を再開した(1950年、同社は諏訪鉱業開発株式会社と改称)。社長には、日本鋼管鉱業株式会社の諏訪鉱業所(諏訪鉄山)・所長だった高野太治郎が就任した。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると鉄鉱需要が増大し、諏訪鉄山も活況を呈した。従業員は1951年の最盛期には150人を越えた。しかし、朝鮮特需が終わり、諸外国からの鉄鉱石輸入が盛んになると、諏訪鉄山の低品位の鉄鉱石は需要がしだいに減少して、1965年、最終的に閉山となった(『茅野市史 下巻』527~528頁)。

 いま、別荘地やゴルフリゾートとして知られ、鬱蒼とした山林の中に瀟洒な別荘や広大なゴルフ場などが広がる蓼科も、70年ほど前は鉄鉱石採掘場として、裸の山肌を曝していたのである。

(完)

(「世界史の眼」No.76)

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