月別アーカイブ: 2025年8月

『世界史の中の「ガザ戦争」』が刊行されました

世界史研究所とそのメンバーが企画・編集に関わった、藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』が、大月書店から刊行されました。いまだ終わりの見えない「ガザ戦争」の根源を広く世界史の中に探ろうとする意欲作です。

大月書店の紹介ページは、こちらです。また、本書の目次は以下の通りです。

第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か――歴史から問う
第1章 「ガザ戦争」の真相……………………………………………………藤田進
 1 一〇月七日まで
 2 「ガザ戦争」
 3 高まる世界的批判 二〇二四年
 4 おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す…………………………木畑洋一・藤田進・平井文子
 1 パレスチナ問題の起源――イギリスの責任(木畑)
 2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争(藤田)
 3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降――ハマス政権下のガザ(平井)

第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧………………油井大三郎・木畑洋一・木戸衛一 
 1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム(油井)
 2 イスラエル批判と反ユダヤ主義(木畑)
 3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ(木戸)
第4章 イスラエルの岐路……………………………………………………清水学・鶴見太郎
 1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの(清水)
 2 イスラエルのユダヤ人問題(鶴見)
第5章 日本と「ガザ戦争」――中東での戦争と日本の戦争国家化…………………山田朗  
 1 中東の戦争と日本の関係性
 2 日本の中東政策の原点――オイルショック
 3 第一の転機としての湾岸戦争
 4 第二の転機としてのイラク戦争
 5 第三の転機としての集団的自衛権の容認
 6 おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化

第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革……………………………………松本耿郎・松下冽・堀内隆行
 1 滅ぶことなき抵抗者たち――不死なるものムスタズアフィーン(松本)
 2「ガザ戦争」と「グローバルサウス」――戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性(松下) 
 3 南アフリカのジェノサイド提訴(堀内)
第7章 アメリカとの対抗と「ガザ戦争」…………………………下斗米伸夫・久保亨
 1 「ガザ戦争」とウクライナ戦争、あるいは帝国とユダヤ(下斗米)
 2 中国と中東問題――パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に(久保)
第8章 国連の改革へ……………………………………………清田明宏・パトリック・マニング
 1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗――国連の現場で見た「ガザ戦争」の失敗(清田)
 2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革(マニング・南塚訳)

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『被爆者・切明千枝子さんとの対話』が刊行されました

桐谷多恵子『被爆者・切明千枝子さんとの対話—〈私たちの復興〉をめざして』が、彩流社より刊行されました。95歳になってもなお被爆証言を続ける切明千枝子さんとの対話を通して、戦後の広島の<復興>の姿を問う意欲作です。

彩流社の紹介ページは、こちらです。

本書の目次は以下の通りです。

はじめに
Ⅰ 序論にかえて
1 被爆者の孫として生まれて
2 被爆者切明さんとの出会い
3 戦争を通して人間をやめたくなった経験
4 眼差しの先
5 女性の被爆者の証言
Ⅱ 切明千枝子さんの生い立ち
1 切明さんの家系─祖父母の家族史
2 誕生から幼稚園まで
3 小学校から広島県立広島第二高等女学校まで
Ⅲ 軍都廣島の軍国少女
1 軍都廣島
2 軍都廣島の「軍国少女」
3 広島と軍隊と戦争
4 戦前の広島の持つ「加害」性 他
Ⅳ 切明さんの被爆体験
1 切明さん自身の被爆体験
2 後輩の被爆と看護
3 友達を焼いた日
4 「お手洗いに行きたい」という懇願
5 被爆地で生きていく覚悟
6 原爆症の発症と回復
Ⅴ 切明さんの戦後
1  「敗戦」と「棄民」
2  原爆の惨禍を目に医師を志す
3  県立女子専門学校にて
4  「社会」との出会い
5  「平和」との出会い
6  「民主主義」との出会い
7  切明悟さんとの結婚と出産
8  「東方出版」と教育の改革
9  本当の平和とは何か
10 被爆者への差別
11 近現代広島において女性であることの困難 他
Ⅵ  被爆体験を語ること
1  「生き残ってしまった」苦しみ
2  被爆体験を語り始めた契機
3  江口保氏との出会いと被爆証言
4  級友とチームを作って話す
5  証言行為と自身への影響
6  証言講話の頻度
7  病気の発症と被爆証言をめぐる周囲の心配
8  聞かせて欲しいと言う人の存在
9  「広島修学旅行」より後の証言活動
10 切明さんの涙と願い
11 切明さんの被爆体験講話の構成
Ⅶ  アメリカによる占領という経験
1  戦後の占領政策
2  被爆者と「空白の10年」
3  戦後の飢えと占領軍の配給
4  民主主義を広める担い手として
5  子供の人権―児童図書館での驚き
6  アメリカの豊かさと憧れ
7  ABCC(原爆傷害調査委員会)による被爆者調査
8  オバマ大統領の広島訪問
9  「アメリカ憎し」と嘆く祖母の涙
10 アメリカの見事な占領政策
Ⅷ  広島の「復興」と〈私たちの復興〉
1 復興とは何か
2 広島市における都市計画による「復興」
3 重ならない都市計画による復興と生活者としての復興
4 切明さんの語る〈私たちの復興〉
5 被爆者にとっての復興とは何か
6 切明さんにとって〈私たちの復興〉の意味するもの
7 あらためて切明さんと対話し、復興の課題を確認する
Ⅸ  終わりに
1 どうか書き残してください
2 「人間が変わる」ということ
3 平山郁夫「広島生変図」
4 自衛のための戦争
5 人間再生の壮絶な闘いの軌跡
6 被爆三世として
7 個人の尊厳について

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世界史寸評
参政党の歴史観を考える

 参政党は「日本人ファースト」などという借り物のスローガンで選挙民を引き付けたが、われわれはその考え方の基本となく歴史観をしっかりと把握しておく必要がある。参政党の歴史観を知るうえで参考になるのが、2025年7月19日の毎日新聞に出た日本近現代史家の山田朗さんのインタヴュー記事(栗原俊雄氏による)である。それは、《参政党の歴史観を「面白い」に危機感 史実無視した演説、歴史学者は》と題されていて、1930年代からの日本の戦争についての参政党代表の考えを批判的に論じたものである。

●治安維持法

 参政党は戦前の日本の政治体制について、どう考えているのか。神谷代表は、鹿児島市での7月12日の街頭演説で、1925年成立の治安維持法を巡り、こう語っていた。

<日本も共産主義がはびこらないように治安維持法って作ったんでしょ。(中略)悪法だ、悪法だっていうけど、それは共産主義者にとっては悪法でしょうね。共産主義を取り締まるためのものですから。だって彼らは皇室のことを天皇制と呼び、それを打倒してですね、日本の国体を変えようとしていたからです>

 これに対して、山田さんは、治安維持法というのは、「共産主義取り締まりを名目として『国体変革』を目指すとされたさまざまな反政府運動・思想を弾圧した」としたうえで、「朝鮮などでは独立運動家も治安維持法によって厳しく取り締まりを受けている。国内でも次第に自由主義者に弾圧が拡大された」と指摘した。つまり、治安維持法は、共産主義だけでなく広く思想や言論の自由を弾圧する法律であったと指摘した。

このような法律を駆使して、戦前の日本の支配層は日本が戦争へ進む歯止めをはずして行ったのである。

●日中戦争

 神谷代表は6月23日に、那覇市での街頭演説で、1931年の満州事変に始まる日中戦争についてこう語っていた。

<(日本は)中国大陸の土地なんか求めてないわけですよ。日本軍が中国大陸に侵略していったのはうそです。違います。中国側がテロ工作をしてくるから、自衛戦争としてどんどんどんどん行くわけですよ>

 満洲を侵略し支配していた日本の関東軍に対して、中国側が起こした抵抗を「テロ」と断定していたわけである。山田さんは「日中戦争は、近代日本の膨張主義の結果であり、とりわけ満州事変(1931年)を成功事例とみなした結果の侵略行為だった」と指摘した。さらに「日本には中国への勢力拡張を目指す勢力とそれを支持する人たちがいて、その結果が満州事変と満州国建国(32年)だった。そして満州国を足がかりに中国華北にさらに勢力を拡張しようとして『華北分離工作』を行っていた。その最中に起きたのが盧溝橋事件(37年)だった」と述べて、満州事変以後の日本軍の対中侵略戦争を「自衛戦争」とする見方を否定した。

●太平洋戦争

 神谷代表は、同じ演説で1941年からの太平洋戦争についても次のように述べていた。

<大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争ではありません。真珠湾攻撃で始まったものではありません。日本が当時、東条英機さんが首相でしたけど、東条英機を中心に外交で何をしようとしてたかというと、アメリカと戦争をしないことです。そして、中国と和平を結ぶ。当時、中国ってないですけどね、支那の軍閥、蔣介石や毛沢東、張学良、ああいった人たちと、いかに戦争を終わらせるか、ということをやるんだけど、とにかく戦争しよう戦争しようとする人たちがいるわけですよ。今も昔も>

 毎日新聞は、日米開戦に至る経緯を次のように振り返っている。「日中戦争は欧米諸国が中国側を支援したこともあり、泥沼化した。さらに、日本は40年、米国の同盟国である英国と戦っていたドイツ、イタリアと三国同盟を結んだことから、英米との関係が悪化した。近衛文麿首相はルーズベルト米大統領との直接会談を模索するなどしたが、かなわなかった。鍵は米国が求めていた、中国からの日本軍撤兵だった。しかし東条英機陸相らが強硬に反対。近衛内閣は総辞職した。代わって誕生したのが東条内閣だ。」と。事実関係は、このとおりである。

 戻って、参政党代表の主張に対して、山田さんは「日米交渉の中で、米国が日本軍の中国からの撤退を要求すると、東条を中心とする陸軍が『日中戦争の成果を無にすることはできない』と主張し、英米との戦争に踏み切った」と反論したのだった。

●開戦

 神谷代表は、鹿児島市での7月12日の街頭演説で、太平洋戦争が始まった経緯についても、次のように述べていた。

<(共産主義者は国体を)自分たちだけでは変えられなかった。彼らは何をしようとしたか。政府の中枢に共産主義者とかを送り込んでいくんですね。スパイを送り込んでいくんですね。そして日本がロシアや中国、アメリカ、そういったところと戦争をするように仕向けていったんです。ロシアとされると困るんです。旧ソ連ですね、ソ連は共産主義だから。じゃあアメリカやイギリス、そのバックアップを受けている中国とぶつけよう。それで日本は戦争に追い込まれていったという事実もありますよね。教科書に書いてないですよ。なぜか。戦後の教科書は、彼らがチェックしてきたからです。こういうことをちゃんと、国民の常識にしないといけない>

 こうした歴史認識について、山田さんは「戦争は『共産主義者』の陰謀という見方は、戦前から存在する典型的な陰謀史観。事実認識としては全く誤っている」と指摘する。

 神谷代表は、こういう歴史観をどこから仕入れてきたのだろう。上の「陰謀史観」を事実でもって証明した議論を聞きたいものである。

●ユダヤ系国際金融資本

 毎日新聞は、神谷代表の演説の背後を探ろうと、彼の編著による「参政党Q&Aブック 基礎編」(2022年)に当たっている。そこでは、「ユダヤ系の国際金融資本を中心とする複数の組織」を「あの勢力」と呼び、太平洋戦争が起きたのは日本が「あの勢力」に逆らったためとする説を主張しているという。

 これに対し山田さんは、「(戦争は)『ユダヤ系金融資本』の陰謀とする見方も、世界に広く流布している典型的な陰謀論『ディープステート』論の一つ。実態はないが、人々にそのようなものが存在しているかもしれないと思わせ、被害者意識を膨らませ扇動する政治的手法だ」と批判した。

 当然ながら、なぜ、こうした「陰謀論」が公然と語られ、また、影響力を持ち続けるのかという疑問がわいてくる。これに対して、山田さんは、「真面目な歴史学者や地道なジャーナリズムの成果が、出版や教育を通じて一般化されておらず、歴史的事実を無視した極端な議論が『面白い』『新しい』と受け取られてしまう状態が広がってしまっている。戦後80年の節目に、こうした状態を転換したい」と話したという。このような山田さんの危機感をわれわれはどう受け止めていくべきであろうか。真剣に考えなくてはならないであろう。

(文責 南塚)

 

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世界史寸評
広島原爆投下直後の米軍メモ―国家安全保障アーカイブの新公表資料から
木畑洋一

 国家安全保障アーカイブ(The National Security Archive:NSA)は、1985年に米国のワシントンにあるジョージ・ワシントン大学で創設された民間組織であり、情報公開制度を用いて米国政府資料の発掘を積極的に行うなど、世界現代史に関わる資料の収集につとめ、それを公開する活動を展開してきている。そのNSAが日本への原爆投下に着目したのが、投下後60年目に当たる2005年であり、それ以降、この問題に関わる資料を公開してきている。投下後80年目の今年(2025年)にも、新たな資料の発掘・公開が行われているが、そのなかに、広島への原爆投下直後で長崎にはまだ投下されていない8月8日に、テニアン島(原爆を投下したエノラ・ゲイの出発地)の米空軍所属の誰か(人物の特定はできていない)がまとめた、原爆投下状況に関するメモが含まれている。きわめて興味深いメモであるため、その概要を紹介してみたい。

 なお、このメモは、Library of Congress Manuscript Division, Henry Arnold Papers, box 5, Chron Correspondence にあるもので、NSAの公開にかかるurlは以下である。

https://nsarchive.gwu.edu/document/33330-doc-71a-headquarters-20th-air-force-telecon-fn-08-21-comgenaaf-20-c0mgenustaff-rear

 以下は5頁強にわたるこのメモの骨子である。

 広島について今いえることは、Hiroshima is no more という4語で足りる。広島は、最大級の地震によるよりもさらに壊滅的な形で、地図から消し去られたのだ。火事の徴はないが、それは燃えるものが何も残らないような形で、核の力がすべてを粉砕したためである。

 爆発によるクレイターも存在しないが、それはそうした穴を残さないようにした爆弾投下計画の結果である。

 広島の人口は334000人である。その内、完全に破壊された地域に住んでいる20万人以上が命を失ったと考えられるが、最も控えめに推定しても、少なくとも10万人が「すでに負けたと知っている戦いを続けることにこだわった軍事指導者の犠牲」になった。彼らが米国などによる条件[ポツダム宣言]を受け入れない限り、近い将来、広島の何倍にも上る犠牲者が出ることになるだろう。

 8月6日に用いられた原爆のエネルギーは理論上TNT火薬100万トンに相当するが、現行知識の限界から、実際に用いることができたエネルギーはTNT火薬8000トンから2万トンに限られた。それでも、人間が作った武器としては最大の爆発力である。

 原爆投下の5時間後に行った偵察飛行によると、広島市の上空は爆発による雲に覆われたままだった。7月にニューメキシコで行われた実験の際には、5時間後に雲は消失したので、広島での爆発力がはるかに大きかったことが分る。これは、空爆の体験豊富な飛行士が誰も経験したことがなかった事態である。

 原爆を投下したエノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ大佐は、支給されていた色眼鏡をかけるのを忘れていて、まぶしさのために眼が見えなくなったと語っている。「眼の前が完全に真っ白になってしまった」のだ。

 同じくエノラ・ゲイに搭乗していた[副機長]ロバート・A・ルイス大尉は、「町のその部分は引き裂かれてしまったように見えた」と言い、「そんなものはこれまで見たことがなかった」という言葉を繰り返した。「[投下の]結果を見ようと機首を戻したところ、眼の前にあらわれたのは見たこともないような爆発だった。市の9割は煙に包まれ、それは3分もしない内に3万フィートの高さに達した。それは予想をはるかに超えていた。恐ろしいことが起こりそうだとは思っていたものの、実際に眼にしてみると、我々は皆、25世紀の未来の戦いを描いた映画バック・ロジャーズ[1939年に公開された映画]の戦士であるかのように感じたのだ。」

 原爆の開発にも関わり、エノラ・ゲイに搭乗していたウィリアム・S・パーソンズ大尉も、「ひどい光景」だったと述べる。「きのこ雲の下の方では直径3マイルにわたって紫がかった灰色のちり状の物体が煮えくりかえっていた。全地域が煮えくりかえっていたのだ。」「きのこ雲の頂上部分から大きな白い雲が離れて上昇していった。2番目の白い雲も空中に昇り最初の雲を追いかけていった。きのこ雲のてっぺんも煮えくりかえっていた。」「もしジャップが、隕石に打たれたと言ったりすれば、我々は、この爆弾の出発点にはこれがもっとあるのだと答えることになろう。」

 この間、この基地では、日本がポツダム宣言を受け入れなければさらなる攻撃にさらされることになると日本の軍部指導者を説得するための努力が払われ、これから36時間以内に「日本の人々」に宛てて投下される予定のビラの文言として次のようなものが考えられている。

我々が新たに開発した原子爆弾は2000機のB29に匹敵する爆発力をもつ。それに疑いをもつなら、広島で何が起こったか調べてみるといい。この爆弾を使って軍の資源を全滅させる前に、戦争を終わらせることをあなた方が天皇に請願するよう求めたい。今軍事的抵抗をやめなければ、戦争を速やかに無理矢理にでも終わらせるため、我々はこの爆弾や他のすぐれた武器を使っていくことになる。

 いうまでもなく、このメモが書かれた翌日の8月9日、同じテニアン島を飛び立った航空隊によって、長崎に二つ目の原爆が投下されたのである。

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世界史寸評
アメリカのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―
南塚信吾

 2025年6月21日、アメリカが突然イランの核施設3か所を攻撃した。イスラエルに続いてアメリカがイラン攻撃に参戦したわけである。この問題をめぐって、ネット上に登場した日本の主要新聞の「社説」「主張」を比較点検してみた。比較したのは、日本経済新聞6月22日社説、読売新聞、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、信濃毎日新聞、東京新聞、北海道新聞、神戸新聞の各6月23日社説・主張である。すでに、イスラエルのイラン攻撃についての各紙の社説などは、比較して検討してみたが、それを受け継いで、アメリカのイラン攻撃についての社説などを検討しようというのである。なるべく重複は避けるようにしてみた。

 論点は多岐にわたるが、以下では主なものについてのみ、検討の対象としている。

1.国連憲章との関係について

(1)アメリカのイラン攻撃が国連憲章と国際法への明白な「違反」「暴挙」であると厳しく批判しているのは、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、東京新聞、信濃毎日新聞、北海道新聞、神戸新聞、赤旗である。
 例えば、北海道新聞は、「最大限に非難する」とし、毎日新聞は、「ルールや手続きを一切度外視し、思いのままに他国の領土を攻撃するトランプ氏の行動は、道理に反し、看過できない」とし、朝日新聞は、「法の支配」の揺らぎは深刻だと警戒している。東京新聞は、「米政権は4月以降、核開発を進めるイランとの交渉を続け、軍事介入とは距離を置いてきたが、イスラエルのイラン攻撃を受けて、攻撃を準備しつつ、イランに無条件降伏を迫る姿勢に転換した」として、イラン攻撃の根拠の曖昧さを突いた。

(2)これに対し、読売新聞、産経新聞は、アメリカの攻撃は国連憲章への違反だという批判はしていない。読売新聞は、「国連憲章や国際法に違反している」というのは、イランの主張だという。では、イスラエルの攻撃にどういう正当な理由があるというのだろう。読売新聞は、「ウクライナやパレスチナ自治区ガザでの停戦はめどが立たず、イランとの核交渉も行き詰まっていた。外交で実績が乏しい中、トランプ氏は成果を急いでイラン攻撃を決断した」とするだけで、正当な理由は示していない。
 産経新聞は、アメリカは「核武装を阻止するとしてイランを攻撃中のイスラエルに加勢した」のであり、「核兵器級の90%へ近づく行動で、イスラエルなどがイランは短期間で核兵器を生産できると危機感を強めたのは当然だろう。」とする。
 両紙とも、国際法上の理由は示していない。この論理では、自国の都合や判断で、いつでも他国を武力攻撃できることになる。

(3)この問題は「自衛権」の有無に関係している。一主権国家が他の主権国家を武力攻撃するというのは、国連憲章に認められた「自衛権」の行使以外にはありえないわけであるが、アメリカがイランのために自国の危機が差し迫っているわけではないので「自衛」ということは当てはまらないというのが、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞などの主張である。
 毎日新聞は、「国際法上、他国への武力行使が認められるのは、自衛権の行使か国連安全保障理事会の決議がある場合に限定されている。自衛権の行使は、攻撃を受けた後に反撃する場合や、差し迫った脅威があることが前提となるが、いずれにも当たらない。」と厳しい。したがって、「国連のグテレス事務総長が「深刻な懸念」を示し、「世界の平和と安全に対する直接的な脅威だ」と警告したのは、当然だろうという。
 朝日新聞も、アメリカの攻撃は、「自衛権の行使を例外に紛争の武力解決を禁じた国連憲章に反する。グテーレス国連事務総長が「国際の平和と安全に対する直接的な脅威だ」と批判したのは当然だと言う。 
 日本経済新聞も、「国連憲章は武力行使を原則として禁じる。例外として自衛権の行使を認めるが、米国に正当化できる差し迫った脅威があるのだろうか。軍事介入を認める国連安全保障理事会決議も得ていない。」と批判する。
 6月15日から6月17日に開かれたカナダでの主要7カ国首脳会議(G7会議)nには期待する面もあったが、その共同声明は米国への配慮からイスラエルの自衛権を支持したのだった。東京新聞は、「誤りは明白だ」と厳しく批判した。そして、「米国の軍事行動を厳しく非難し、国際秩序を守る決意の言葉を発するよう求める」と強い論調を張った。
 これら各紙は、イスラエルについてさえ、そのような自衛権は認められないとしていたわけであるから、ましてアメリカについては、自衛権などは問題外だということである。
 一方、読売新聞の議論では、アメリカは、イスラエルの「自衛権の行使」を認め、自らはイスラエルに加担したのだと、説明している。産経新聞は、自衛権の問題にはまったく触れていない。
 この問題は、さらにイランの核開発の評価に関係している。

2.イランの核兵器開発について

(1)朝日新聞、日本経済新聞、東京新聞、北海道新聞、神戸新聞は、イランの核開発が核兵器の保有近くにまで進んでいたからと言って、アメリカが攻撃したことは非難すべきだとしている。とくに日本経済新聞、東京新聞、神戸新聞は、アメリカはイランが核を保有しているという「根拠」を示すべきだと主張している。
 この問題では、日本経済新聞が厳しい姿勢を取っている。同紙は、国際原子力機関(IAEA)のグロッシ事務局長は、イランの核兵器開発に向けた組織的取り組みの証拠はないとしていたことを指摘し、イランが核兵器を持っているという「根拠はあやふやだ」と批判する。東京新聞も、イランの核兵器製造の「証拠がない」と指摘する。
 日本経済新聞は、ギャバード米国家情報長官が3月時点で、イランは核兵器を製造していないとの見解を示していたのに、トランプ氏がその分析を否定すると、同氏と足並みをそろえて説明を翻したとして、トランプの圧力を示唆する。同じく、朝日新聞も、アメリカの情報局長がイランの核保有を否定しているのに、トランプがそれは嘘だと否定した件を取り上げている。
 以上の新聞や赤旗は、すべて2003年にアメリカのブッシュ大統領がイラクを攻撃した時、イラクが大量破壊兵器を持っていると主張して攻撃したが、のちにイラクは大量破壊兵器を持っていなかったことが判明したことを引き合いに出して、その轍を踏まないよう警告していた。例えば、「2003年のイラク戦争の教訓を米国は忘れてしまったのか」と、日本経済新聞は驚きを隠さない。イラク攻撃のときも安保理決議はなかったが、パウエル米国務長官が安保理で報告するなど一定の手続きを踏む姿勢をみせた。それに比べ、トランプ政権は軍事介入につき国連安全保障理事会に報告さえしようとしていないという。毎日新聞も同様の主張である。

(2)これに対して、読売新聞と産経新聞は違った議論をしている。産経新聞は、イランの核武装を前提にして、アメリカはイランの核武装を阻止するためにイスラエルに加勢したのだとし、イランは速やかに核兵器を放棄すべきだと主張する。「核兵器級の90%へ近づく行動で、イスラエルなどがイランは短期間で核兵器を生産できると危機感を強めたのは当然だろう。」「イランはイスラエルの生存権を認めないと公言する唯一の国である。イランが核兵器を持てば、直接または親イラン武装勢力によって、イスラエル攻撃に用いられる恐れがあった。それは核戦争の勃発につながる」と、理解を示した。しかし、これはアメリカの危機ではないのではなかろうか。
 このようなイスラエルやアメリカの危機対応を理解してあげる教訓として、産経新聞は、2003年のイラク戦争ではなく、1994年の北朝鮮問題を挙げる。1994年に北朝鮮の核武装をめぐってアメリカが北朝鮮に妥協して、その後の北の核武装を許してしまったと主張して、そのような失敗をするなと言うのである。「1994年当時の米国や日韓は北朝鮮の核武装を見過ごしたが、現代のイスラエルや米国は核武装に進むイランの行動を傍観しなかったことになる」と、正当化するのである。
 一方、読売新聞は、アメリカは、イランとの核交渉も行き詰まり、外交で実績が乏しい中、トランプが成果を急いでイラン攻撃を決断したとする。イスラエルは、米国に軍事介入するよう求めていたが、トランプは当初、否定的だった。だが、イスラエルの攻撃が成果を上げたとの見方が広がると、一転してイラン攻撃へと傾いたのだという。だが、これは攻撃の正当化にはならない。
 いずれも、核兵器保有の「根拠」などは必要なかったと見ているわけである。恐ろしいことに、この二紙によれば、核兵器保有の可能性があれば、大国は自由に他国を攻撃できることになる。

3.イランの反応について 

 アメリカの攻撃を受けたイランについては、各紙はどのように論じているのだろうか。

 第一に、アメリカの攻撃を受けたイランの自制を求めるのが多い。例えば、日本経済新聞は、「イランは米国の軍事介入があれば報復する構えを示してきた。中東の米軍基地に反撃し、周辺のアラブ諸国に戦火が広がりかねない。報復の連鎖は危険だ。イランに慎重な行動を求めたい」と述べた。

 第二に、アメリカの攻撃がイランの核開発を刺激することを怖れる声が多い。例えば、同じく日本経済新聞は、イランが通常兵器だけでは抑止力を回復できないとみて、核兵器の製造に傾くかもしれない。そうなれば不安定な中東に大きな火種を残す。イランが核拡散防止条約(NPT)からの脱退に動けば、世界の核不拡散の努力に向かい風が強まるという議論を展開している。信濃毎日新聞も同様にイランの核開発に懸念を表明している。

 第三に、朝日新聞は、「イランに非がなかったわけではない」とする。イランは、「原発の燃料などに必要な濃度をはるかに上回る高濃縮ウランの貯蔵量を増やし続けた。これが、トランプ政権と距離を置いていた欧州の疑念も呼び、イスラエルに攻撃の口実を与えた」というのである。たしかにそうではあるが、このような「非」を主張しているのは、同紙だけであった。

 第四に、イスラエルのイラン攻撃に際しては、イランの体制危機を問題にしていた毎日新聞などは、今回は、それを問題にしなかった。代わって、東京新聞がこう述べていた。「軍事的にはイランの劣勢は明白だが、最高指導者ハメネイ師にとってイスラム革命体制の維持が最優先で、体制崩壊につながる降伏は選択肢になり得ない。」と。

 体制の危機を意識したのか、ともかく、イランの報復は限定的で、戦火は当面拡大はしなかった。しかし、イランの体制にどういう問題が生じたのか、またイランが核開発をどのように再開したのかなどは分からない。

4.イスラエルの対応について

 アメリカのイラン攻撃に関連して、イスラエルがどのように論じられたのだろうか。

(1)イスラエルの動きを最も厳しく批判するのが、北海道新聞である。国際法違反の主権侵害を先に行ったのはイスラエルだ。そのイスラエルの要請に応じ、世界最大の軍事大国が歩調を合わせたことを国際社会は最大限非難しなければならない。アメリカは、国連決議や正当な根拠もなく、一方的に先制攻撃を加えた。こうアメリカを批判した後、同紙は、イスラエルについて、イスラエルのネタニヤフ首相は米国の攻撃を称賛した。イスラエルはガザで非人道的な攻撃を続けている。同国は、事実上の核保有国であるにもかかわらず核拡散防止条約(NPT)に非加盟で、国際原子力機関(IAEA)の査察も受けていないと批判する。そのイスラエルに肩入れする米国のこうした中東地域での偏った対応は、国際テロ組織アルカイダや過激派組織イスラム国(IS)などの憎しみの連鎖を生むことにもつながったのだと指摘した。
 日本経済新聞も厳しい。今回のトランプのアメリカのイラン攻撃は、「イスラエルと一体化した軍事行動を急いだ場当たり的な対応との印象が拭えない」という。そして、イスラエルのネタニヤフ首相が「強さこそが平和を生み出す」とトランプ氏をたたえたこと、同国はパレスチナ自治区ガザへの攻撃を1年半以上も続ける傍ら、今月になって一方的にイラン攻撃を始めたこと、国際法違反との非難が周辺国から相次いだことを指摘したうえで、米国はイスラエルに強い影響力を持つのに自制させず、イラン攻撃に加担したと批判した。

(2)ネタニヤフへの直接的な言及をしないが、イスラエルの立場を基本的に批判するのが、多い。朝日新聞は、「イスラエルが一方的にイランの核保有が間近だと主張して先制攻撃した。そして、イスラエル単独では破壊できない地下施設などの攻撃に米国が協力した」とし、その正当性の欠如を指摘した。だが、主要7カ国(G7)首脳会議は、戦線を広げるイスラエルに自制を求めず、むしろ「自国を守る権利」を認めたと批判した。
 信濃毎日新聞は、イスラエルは、イランの核開発が自国への脅威だとして一方的な攻撃を仕掛けたのであり、武力行使の禁止を原則とする国連憲章に違反し、「自衛」は正当化できないと批判する。そのうえで、今回、米軍がイスラエルに加勢し、イランの核施設を攻撃したのであるとする。したがって、正当性はまったくないことになる。そして、日本を含む国際社会は、米国とイスラエルの攻撃を厳しく非難した上で、イランを含めた当事国に強く自制を促すべきだと警告した。
 毎日新聞は、米軍による核施設攻撃は、「イスラエルが要請していた」と断言する。そしてネタニヤフ首相はアメリカのイラン攻撃を「大胆な決断」とたたえ、「米国は無敵だ」と述べた。そもそもイランに対するイスラエルの先制攻撃が国際法に抵触する。米軍の攻撃はその違法行為に加担したも同じだと厳しく批判する。
 神戸新聞は、アメリカは、イスラエルが仕掛けたこのたびの戦闘に、核兵器開発の根拠を示さず加担したという。そして、イランだけでなく、イスラエルの核兵器開発の実態も解明してもらいたいと、ポイントを突いた注文を出していた。同紙は、覇権主義こそが今の世界情勢を危機にさらしている元凶だとして、イスラエルとアメリカなどの覇権主義を批判する立場を取っている。

(3)読売新聞は、ややあいまいな姿勢を取った。イランを巡ってはイスラエルが今月中旬、核施設を空爆し、米国に軍事介入するよう求めていた。トランプ氏は当初、否定的だったが、イスラエルの攻撃が成果を上げたとの見方が広がると、一転してイラン攻撃へと傾いた。トランプ氏は以前から、他国の紛争に米国は関与すべきではないという立場を取り、武力行使には慎重とみられてきた。だが今回は、イスラエルの「自衛権の行使」を認め、自ら加担した、というのである。ただ、これを正当だとも、誤りだとも明言していない。

(4)産経新聞はアメリカ、イスラエルの攻撃を正当化している。アメリカは、核武装を阻止するとしてイランを攻撃中のイスラエルに加勢したのである。イランはイスラエルの生存権を認めないと公言する唯一の国である。イランが核兵器を持てば、直接または親イラン武装勢力によって、イスラエル攻撃に用いられる恐れがあった。それは核戦争の勃発につながる。産経新聞は、こうして正当化した。
 ともかく、今回のアメリカの攻撃は、イスラエルと通じた両国の連携攻撃であると各紙のいうところから確定することができる。残念ながら、その後イスラエルやアメリカの攻撃を諸国は押しとどめることはできていない。イラン攻撃をめぐる両国の動きが当たり前になって、その結果、イスラエルは、核兵器の有無などに関係なく、ユダヤ教徒の保護を口実に他国を武力攻撃することを「自由」に行うようになっている。それは、7月16日のシリア攻撃に明確に表れている。

5.国際的対応

 アメリカのイラン攻撃が世界全体に与える影響については、各紙はどのような点を指摘しているのだろうか。

(1)核不拡散条約(NPT)の信頼崩壊を懸念

 朝日新聞は他紙とは違って、NPTの信頼崩壊を懸念している。曰く、「今回の攻撃で破壊されたのは、半世紀以上にわたり核軍縮に重要な役割を果たしてきた、核不拡散条約(NPT)への信頼だ。NPTは、米英仏中ロの5カ国にだけ核兵器を持つことを認めている。不平等だが、ほとんどの国連加盟国が批准し(ている)・・・ところが今回、NPTに加盟せずに核兵器を持つとされるイスラエルが、加盟国イランの核関連施設を攻撃した。これに核大国である米国も加勢した」。「核保有国は、条約が定める軍縮努力を怠るどころか、軍拡に転じている。自国の安全を守るには、NPTを脱退して核保有を目指すほうが得策だと考える風潮すら高まりかねないことを危惧する」。こうして、「法の支配」の揺らぎは深刻だと捉えている。

(2)第三国

 第三国の役割の重要性に言及する紙がある。朝日新聞は、米ロ中の3大国が既存の秩序に挑んでいると捉え、新たな「戦間期」を生まないために求められるのは、「ミドルパワーの西欧や日本が軸となり、多国間協調を築く覚悟」であるという。神戸新聞は、「今後の停戦や核に関する協議は、中立的な第三国が仲介し、国際協調下で行う必要がある」という。 
 一方、日本経済新聞は、「大国間の競争から距離を置くグローバルサウス(新興・途上国)が米国に向ける視線は厳しさを増す可能性が高い」とし、グローバルサウスに注目している。同じく毎日新聞も、「欧州や中東の戦争により、経済的なしわ寄せを受けているグローバルサウス(新興・途上国)の不信感も増大するに違いない」と注目している。
  大国への不信は北海道新聞も明言している。「先進7カ国首脳会議(G7サミット)は米国の離反を避けようとして、イスラエルの攻撃を容認する共同声明をまとめた。腰の引けた姿勢では米国の暴走を止めることはできまい。」とし、「国連は、欧州やアジア各国だけではなく、中ロも巻き込み事態収拾を急ぐ必要がある。」と主張した。そして、北海道新聞は、「中東情勢の激化により、原油高など日本だけでなく米国や世界の経済活動も不確実性が増す。日本は在留邦人の保護に万全を期すとともに、米国の攻撃を支持しない姿勢を明確にして仲介に動くべきだ。」と行動を求めた。

(3)アジア諸国

 アジアへの影響については、毎日新聞が、「アジアでは北朝鮮が核弾頭を製造し、搭載可能な弾道ミサイルを多く配備する。脅威の度合いはイランより深刻だ」と警戒している。朝日新聞は、「欧州、中東、アフリカの戦乱に加え、先月は南アジアの核保有国であるインドとパキスタンの軍事衝突も起きた。日本が位置する東アジアも、台湾海峡と朝鮮半島の緊張が続く。大戦終結から80年の今年、国際社会は未踏の危険水域に進みつつある」と警戒する。産経新聞はよりリアルに、「中東方面への米軍出動の間隙(かんげき)を突いて、北東アジアで中国が軍事的圧迫を強めてくる事態への警戒も怠れない」として、警戒を強調した。これらは、どこまで根拠のある警戒なのであろうか。あるいは、どこまですぐに軍事的に対応しなければならない脅威なのであろうか。

(4)アメリカの暴走

 実は、朝日新聞が、一言、「イラク戦争時から未解決な国際問題は実は、中東の混迷だけでなく、米国の暴走に対処するすべを世界が見いだせていない現実だ」と述べている。この指摘は重要である。同紙は、2025年6月のアメリカのイラン攻撃だけでなく、2003年の大量破壊兵器の保有という間違った口実に下で始めたイラク戦争以来のアメリカの「暴走」ということを言っている。しかも、アメリカの「暴走」については、「中東の混迷だけでなく」と言って、ウクライナ問題もそこに含めているのである。同様の指摘は、神戸新聞にも見られ、同紙は、トランプ氏は、イランが和平に応じなければ「将来の攻撃はさらに強大になる」と威嚇し、イスラエルのネタニヤフ首相も「力による平和を」と歓迎したが、しかし、「覇権主義こそが今の世界情勢を危機にさらしている元凶だ」と指摘していた。

6.日本の対応

 アメリカのイラン攻撃にたいする日本の対応について各紙はどのような問題を指摘しているだろうか。

(1)まずは、アメリカの同盟国としての日本の役割という観点から、毎日新聞は、「日本は、同盟国として米国の身勝手な軍事力の行使を見過ごすようなことがあってはならない。欧州とも連携して自制を促すべきだ。」と論じた。同じく、日本経済新聞も、「日米同盟への配慮が必要とはいえ、安易に支持するのは控えるべきではないか。」とやんわりと日本の姿勢を批判した。
 この延長線上で、日本の責任を問い、警告したのが、朝日新聞と信濃毎日新聞で、朝日新聞は、「戦禍への懸念よりも、イスラエル寄りの米国への配慮を優先した欧州、カナダ、日本は、重い責任を負ったことを自覚せねばなるまい」と警告した。また信濃毎日新聞は、「
 日本を含む国際社会は、米国とイスラエルの攻撃を厳しく非難した上で、イランを含めた当事国に強く自制を促すべきだ。(日本は)歴史的にイランと友好関係を築いてきた立場を踏まえ、米国とは距離を置き、緊張を緩和する役割を主導すべきだ。」と指摘した。
 北海道新聞は、上述のように、「日本は在留邦人の保護に万全を期すとともに、米国の攻撃を支持しない姿勢を明確にして仲介に動くべきだ。」と行動を求めた。

(2)この間の日本政府の主張の矛盾をついているのが、赤旗で、同紙は、石破政権はイスラエルがイランに先制攻撃を加えた際、「核問題の平和的解決に向けた外交努力が継続している中、軍事的手段が用いられたことは到底許容できず、極めて遺憾であり、今回の行動を強く非難する」との外相談話を発表していました(13日)が、ところが、石破首相を含めた主要7カ国(G7)首脳の声明(16日)はトランプ大統領の意向をくんで、イスラエルの「自国を守る権利」を認め、「(同国の)安全に対する支持」を表明しましたと、日本政府の立場の二面性を指摘した。

(3)このような問題には触れず、イラン攻撃の日本人への影響を具体的に論じたのが、読売新聞であった。同紙は、「イスラエルとイランから在留邦人とその家族計100人以上が周辺国にバスで出国した。多くは民間機で日本に向かうという。政府は、民間機が使えなくなる場合などに備えて、自衛隊の拠点があるアフリカ東部・ジブチに空自の大型輸送機「C2」を2機派遣した。円滑に任務を果たすことを期待する。」と述べた。産経新聞は、軍事的対応にもっと踏み込んで、「機雷除去へ海上自衛隊の派遣は必要ないのか。世界の米軍基地や米国民へのテロ攻撃もあり得よう。在日米軍基地や空港の警備強化も急ぎたい。」と述べた。

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「世界史の眼」No.65(2025年8月)

今号では、前号に続き小谷汪之さんの「湯浅克衛の朝鮮と満洲(下)―「植民地文学」の変質」を掲載しています。今号で完結となります。また、南塚信吾さんに、連載中の「北前船・長者丸の漂流 その3」をご寄稿頂きました。

小谷汪之
湯浅克衛の朝鮮と満洲(下)―「植民地文学」の変質

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その3

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湯浅克衛の朝鮮と満洲(下)―「植民地文学」の変質
小谷汪之

はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、前号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、本号)

4 満洲移民村歴訪

 湯浅克衛は、その後、日本人移民たちの後を追うように、満洲の移民村を歴訪した。1939年4月末から6月半ばにかけては、大陸開拓文芸懇話会から派遣された使節団の一員として、満洲各地を訪ね歩いた。湯浅はその後ほとんど毎年のように、満洲に行き、日本人移民の村や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所などを訪ね歩いた。湯浅が満洲旅行について書いた旅行記風の文章の多くは湯浅克衛『民族の緯絲』(育成社弘道閣、1942年)に収められているが、年月日、旅程、同行者などについて不明確な部分がきわめて多い。ここでは、そのうち比較的よく分かる二つの旅行について、いくらか詳しく見ていきたい。

 前述のように、湯浅たちは1939年に大陸開拓文芸懇話会から派遣されて満洲各地を旅行した。10人ほどの視察団であったが、常に全員そろって行動したわけではなく、数人ずつに分かれて行動することもあった。

 湯浅は南満洲鉄道(満鉄)で奉天、新京、ハルビン(哈爾浜)と北上し、ハルビンからは松花江を船で下って、5月8日にジャムス(佳木斯)に着いた。伊藤整、福田清人との三人旅であった。ジャムスからは、ジャムスと図門を結ぶ図佳線で南下し、弥栄村と千振村を訪ねた。次に、図佳線の勃利駅で下車して、満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所に行った。勃利訓練所では島木健作と行き違って、ほとんど話もできないまま別れた。その後、林口駅で林口と虎頭間を結ぶ虎林線に乗り換えて、沿線の村(1936年、第四次入植。前号付図の⑤)、城子河村(第四次入植)を訪れた。そこから林口駅に引き返して、龍爪村(1937年、第六次入植。前号付図の④)に行った。最後に、牡丹江駅で視察団の他のメンバーと合流し、浜綏線(北満鉄路[旧東清鉄道本線]の東部線)でハルビンに戻った。

 湯浅はこれらの開拓村(開拓団)で団長などと話し合ったが、彼がもっとも関心を持ったのは共同経営(集団経営)と個人経営の問題だったようである。島木健作とは異なり、湯浅は共同経営の問題点をいろいろと指摘している。例えば、団全体の組合がかなり高度に発達している弥栄村でも、「Sと云ふ人が班單位で漬物の工場をやつてゐる」。しかし、「組合の機構から離れ勝ちになつて、班又は個人で企業的になつて行くことは、全體の均衡を破るし、危險率も大きいので注意され、摩擦も大きい」。このSのような人たちも「他の團や機構の中でなら大いに生かせるであらう」(『民族の緯絲』68頁)。また、「第六次龍爪[村]のやうに、集團經營を恒久的に續けて、土地の分割をせず、収穫物の管理を團、組合でやると云ふ場合に、現金収入を入れて郷里に送金したいなどと云ふ人が居たらどうだらう」(『民族の緯絲』67頁)。このように、湯浅は開拓団内の「班」や個々人の創意や意向を重視する考え方を取っていたようである。

 1941年には、湯浅は南満洲の新台子・「紀州村」を訪ねた。新台子駅は南満州鉄道(満鉄)の奉天と鉄嶺の間にある駅で、「紀州村」は新台子駅から4、5キロメートルのところにあった。「紀州村」というのが正式の名前なのかどうか、湯浅の記述からははっきりしないが、和歌山県最南部・串本町沖合の大島から分村移民してきた村である。1939年9月に先遣隊が入り、翌1940年4月に、本隊53人が入植したということであるから、きわめて新しい移民村であった。自由移民として入ったので、拓務省からの補助はなく、和歌山県庁が移住費用を立て替えた。「紀州村」は奉天や鉄嶺などの都会に近いので、大根、白菜、ネギなどの蔬菜栽培を主としていたが、最初の年は気候の関係もあって失敗だった。しかし、翌年は気候にも恵まれ、大豊作で、人々は蔬菜栽培に自信を持てたようである。その夜には湯浅を囲んで座談会が講堂で開かれ、多くの人たちが集まって、いろいろと語りあった(『民族の緯糸』96‐110頁)。

 湯浅は、このように、あまり視察団が行かなかった南満洲の移民村を含めて、満洲各地の移民村を歴訪していた。しかし、その関心はほとんど日本人移民の動向に限られていて、日本人の入植によって生活の基盤を破壊された満洲人や在満朝鮮人あるいは漢族の農民などにはほとんど目が届いていない。

5 『長篇小説 鴨緑江』

 1942年5月、湯浅克衛は朝鮮総督府拓務課から派遣されて、東北満洲の亮子嶺新興農村を視察した。亮子嶺新興農村は、中国(当時は「満洲国」)と朝鮮の国境を流れる大河・鴨緑江に建設された巨大な水豊ダムによって土地が水没した朝鮮人農民たちが入植したところである。亮子嶺はハルビンと綏芬河を結ぶ北満鉄路・浜綏線のハルビンと牡丹江駅の間にある駅で、その西隣が亜布洛尼ヤプロニ(ロシア語で「リンゴ」の意)駅である。この二つの駅の中間、北側一帯が亮子嶺新興農村であった(前号付図の⑥)。亮子嶺新興農村は新興屯、昌坪屯、昌城屯、双河屯、栄山屯、錦河屯、楚山屯の6集落から成り、それぞれ戸数90戸前後、村民数400人前後であった(佐々木甚八他「濱江省葦河縣亮子嶺新興農村の衞生状態に就て」『昭和醫學會雜誌』2巻4号[1940年]の各所)。

 水豊ダムは朝鮮半島西南端の新義州で黄海に注ぐ鴨緑江の河口から80キロメートルほど上流の地点に建設された。「満洲国」や東洋拓殖株式会社(東拓)などの出資により、1937年に着工され、1941年8月に第1号発電機が送電を開始した。その後、他の発電機も順次発電を始めていったが、第二次世界大戦下、完成には至らなかった。

 湯浅克衛は水豊ダムや亮子嶺新興農村における見聞などにもとづいて『長篇小説 鴨緑江』(晴南社、1944年)を書いた。『鴨緑江』の主人公は「大山英章」であるが、これは創氏改名した名前で、本名を崔英章という朝鮮人とされている。彼は亮子嶺新興農村・「昌平屯」(昌坪屯を指すのであろう)の「指導者」ということになっている。朝鮮人農民の満洲への移民(移住)を取り扱っている点で、この小説は湯浅の後期の作品の中では珍しいもののように見える。しかし、問題なのはそこに描かれた朝鮮人像である。以下、この点に絞って、『長篇小説 鴨緑江』を検討していくことにしたい。

 「大山英章」は自分の村が水豊ダムの建設によって水没することを知ると、いち早く村人たちを説得して満洲・亮子嶺新興農村への移民(移住)に踏み切った。その「英章」が親戚の者を満洲に連れていくことを目的として、鴨緑江の故地に戻ったところからこの小説は始まる。

 「大山英章」は新義州の港から定期船に乗って鴨緑江を遡り、水豊ダムに向かった。その込み合った船中で、「工科の學生」らしい一団がしゃべっているのを聞いた(『長篇小説 鴨緑江』6‐14頁)。

「湖底の村の連中はどうしたのかな、立退いたものだけで七萬人と云ふぢやないか」
「さうかね、七萬人もかね」[中略]
「水豊の湖底の村の立退き[先]も満洲ださうだな」
「よく靜かに行つたね。何も新聞に出なかつたぢやないか」
「七萬人と云つたら、大した數だぜ」
「小河内貯水池なんて比べものにも何にもならないのだからな。その六十倍あるんださうだ。[後略]」
「しかし、あと、六つ、貯水池が出來るんだらう」
「もう始まつている筈だ」
「上流は名にし負ふ、白頭山を頂く長白山系、あの蓋馬高臺だらう。鴨緑江はこんな大河で、そのくせ、まるで急流なのも、河がまるで傾斜してゐるんだね。それを階段式に、七ツのダムにしやうと云ふわけだ」[中略]
「すると、その湖底になる面積はどうなんだ」
「知らないね。何だか、流域面積は九州全體よりも大きいとか云ふんだがね」

 「學生達の會話が續いてゐる間中、大山英章は緊張して、固くなつてゐた。頬がかあつと熱くなつたり、心臓がどきどきと鳴り出したり、はたと頬をたたかれたやうな思ひにもなつた」。「ああ、俺達は追拂はれる,何代も何代も、父が、祖父が、そのまた祖父が住み、永久だと思つてゐた土地から追拂はれる」、「さう云ふ氣持が何としても抜けなかつた」。「そこを、先程の學生達の會話でどやされたのである」。「英章」はこう思い至った。

自分達が移住して來たことが、そんな途方もない大きな計畫の中の一部分で、それが世界に示し得るやうな仕事になつてゐると云ふことを知つたときには、自分達もその一員であることが誇りたい氣持になつた。

 鴨緑江ダム計画について「學生達」の言っていることはほぼ正確であるが、水豊ダム以外の六つのダムは結局完成しなかった。水豊ダム建設のために立ち退かされた朝鮮人の数が約7万人で、ダムの「流域面積」(降った雨や雪がその川に流れ込む地域の総面積)が九州全体より大きいというのもその頃よく言われていたことのようである。

 しかし、朝鮮人「大山英章」が、先祖代々の土地を立ち退いたことによって、自分たちもこの「世界に示し得る」巨大なダム建設の「一員である」と思い至り、「誇りたい氣持」になったというのは、あまりにも身勝手な日本人作家の発想であろう。『長篇小説 鴨緑江』は国策文学以外の何物でもないのである。それは次のような個所では、さらに露骨な形で現れている。

 「大山英章」は水豊ダムの内部を案内してくれた日本人事務員にこう語った(『長篇小説 鴨緑江』74‐75頁)。

「私達のやうに開拓團としてレツキとしてやつて行くと、倉庫だつて何だつて永久的なものを建てますし、それだけ匪賊達にも、大きくねらはれるわけです。もう匪賊は少なくなりましたが、對抗するだけの用意をして行つて居るのです。開拓團をやつてみると、まつたく計畫性がなければいけないことがわかります。その計畫性と云ふのは、何かに信頼なしには出來ないことなのです。その何かが、お恥ずかしい話ですがわからなかつたのです」
「何か……つて云ひますと」
案内の人は、やゝ不審氣であつた。
「え、その何かとは、國家なのですね」
「あゝ國家」
「 天皇陛下様のことを、私達は實感として知らないで來たのです。あなた達は、それは小さい頃から、衣食住全體を通じて、わかつてゐられるけれども、私達は、今から、生活の全部をあげてわからなければ、ならないところに來ています」

 国家を信頼しなければ計画性をもって事に当たることができない、その国家とは「 天皇陛下様」のことだ、と朝鮮人「大山英章」に語らせる日本人作家・湯浅克衛は「カンナニ」の著者・湯浅克衛とはまるで別人のように感じられる。

〈付記〉
 亮子嶺新興農村のその後については、資料がないようで、よく分からない。特に、1945年8月9日、ソ連軍が満洲に侵攻してきたとき、亮子嶺新興農村の人々がどうなったのかはまったく分からない。

おわりに

 1942年5月、日本文学報国会が設立されると、大陸開拓文芸懇話会はそこに吸収併合され、その事業は日本文学報国会の大陸開拓文学委員会によって継承された。湯浅克衛も日本文学報国会に加わり、大陸開拓文学委員会の一員となった。1943年になると、日本文学報国会内に皇道朝鮮研究委員会が設立され、湯浅はその常任委員に任命された。小説「オリンポスの果実」で知られる田中英光もその一員であった。田中は横浜護謨株式会社の京城支店に長く勤務していたので、皇道朝鮮研究委員会に加わることになったのであろう。皇道朝鮮研究委員会の一つの活動は埼玉県入間郡高麗村(現、埼玉県日高市新堀)の高麗神社に参詣することであった。湯浅自身も1943年10月と1944年1月に、皇道朝鮮研究委員会の他の会員たちとともに高麗神社に参詣している。高麗神社は、湯浅や田中英光も鼓吹していた日鮮同祖論の象徴と見なされていたのであろう。

 1943年、朝鮮文人報国会が結成され、1944年6月、決戦態勢即応在鮮文学者総蹶起大会を開催した。湯浅はこれに日本文学報国会の代表として参加し、朝鮮文人報国会の幹事となった。その後、湯浅は朝鮮総督の文化顧問に任命された。この間に、湯浅は妻子を伴って朝鮮・水原に疎開した。1945年8月15日、日本の敗戦を迎えた湯浅は朝鮮に残留することを望んでいたが、結局、同年9月家族ともども日本に帰った。その後の湯浅については、ここでは省略する(湯浅の経歴に関しては、池田浩二編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に収載されている梁禮先「湯淺克衞年譜」を参照した)。

(「世界史の眼」No.65)

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北前船・長者丸の漂流 その3
南塚信吾

1.カムチャツカ 

 1840年8月3日(旧暦7月6日)にホノルルを出港したセンの貨物船「ハーレクイーン号」は、長者丸の6人を乗せて、9月下旬(『蕃談』では旧暦8月下旬、『時規物語』では旧暦9月上旬)、カムサツカ(カムチャツカ)のガウイニア(ペトロパヴロフスク 『時規物語』はガウエニア)港に到着した(池田編 1968 78、246頁)。

 この時期のカムチャツカの状況を見ておこう。カムチャツカはアイヌやカムチャダール人などが住む半島であったが、17世紀の中頃にロシアが領有し、カザークが入植していた。1740年にデンマーク人のベーリングによって港町ペトロパヴロフスク・カムチャツキーが作られて、それ以後カムチャツカ半島は流刑の島となって開けた。この間、1696年には大阪から江戸に向っていて漂流した伝兵衛ら13人がカムチャツカに漂着していた。そのうち伝兵衛はモスクワへ送られ、ペテルブルグでピョートル一世にも会って、同地で日本語を教えたりして生涯を終わることになる(木崎1991 2-12頁)。また、1783年には、伊勢の白子の船頭大黒屋光太夫らを乗せた神昌丸が、江戸へ行く途中で漂流して、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、カムチャツカ、オホーツクを経て、1791年にペテルブルグへ送られたが、エカチェリーナ2世の許可で帰国を許され、1792年にアダム・ラクスマン使節一行と共にカムチャツカから帰国していた(木崎 1991 52-71頁;森永 2008 17-19,25-26頁)。

 その直後1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。そして1804年には、ロシアは通商を求めてロシア・アメリカ会社支配人レザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナデジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった。しかし、交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にした。のちに、交渉に失敗したレザノフの部下が1807年にサハリン、エトロフを襲撃して、日本の側に対露緊張感を惹き起こしていたのだった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 当時カムチャツカは、イルクーツク総督府の下のオホーツク州、カムチャツカ郡であった。この町の役所の長官(ナチャニカ=ナチャルニク)はメッテレと言った。役所にはアメリカ生まれの通訳がいた。この町では、長者丸一行6人は、まずは「兵舎」に住まわされた。しかし、食事がまずいので文句を言うと、長官は民家で世話してもらうようにしてくれた。八左衛門は通訳の家、太三郎は豪商カルマコーフの家、六兵衛もカルマコーフの家(6,7か月後にウチラシ宅)、次郎吉は呉服屋のペヤジミシコー(ペヤジンス)の家(40-50日後に長官宅)、金蔵はあるカザーカ(足軽小頭=カザーフ)の家(30日後に船長ニコライの家、次いでヒチャパン・ニコライの家、そしてカルマコーフの家)に引き受けてもらった。食事は向上したが、すべて無給で家事働き(奉公)をさせられた。ただ、七左衛門は病気だったので、ずっと病院にいた。かれの陰嚢が張れたが、医者が手当てをしてくれてなんとか平癒した(池田編 1968 78-85、246-249頁)。

 到着して1か月たったころ、「イルコツカ」(イルクーツク)の総督から知らせが来て、「近日中に帝都から命令があるはずであるから、漂民は手厚くもてなし、新任の長官が貴地に着任した折、あらためてその指揮を受けよ」と言ってきた。それ以後は6人に対する待遇はいっそう丁寧になった。やがて新任の長官ニカライ・ニカライウイチが到着し、長者丸一行も大勢の人に交じって、新任祝いのあいさつに行った。そして、このあと、次郎吉はこの長官宅で世話になる事になったのである(室賀他編 1965 100頁;池田編 1968 249頁)。

ペトロパヴロフスク 『日本庶民生活史料集成』 256頁

 カムチャツカに滞在して10か月あまりになったが、日本への送還は首都からの命令がないとできないとの事であった。そこで、オホツカ(オホーツク)のほうが首都との連絡もよく、中央からの指示が届きやすいからというので、オホーツクへ移動することになり、1841年7月下旬(旧暦6月上旬)、一行5人はオホーツク行きの便船「ニカライ」号に乗せてもらった。舩の乗組員は17人ばかり、毛皮を大量に積んでいた。ただ、七左衛門は病気のため、20日ばかり遅れて出発した(池田編 1968 86、249頁;室賀他編 1965 103、105頁)。

2.オホーツク  

 1841年6月にカムチャツカを出た船は、風向きが悪くて、30日ばかりかかかって、8月下旬(旧暦7月上旬)に「ヲホツカ」(オホーツク)に着いた。

 長者丸一行はまずカンパニア(ロシア・アメリカ会社)の「ナチャニカ」(支配人)のところへ行った。次いで、オホーツクの州長官「ナチャニカ」のニコライ・ペコロウェチ(『蕃談』ではニカライ・ウェコロシ)の家に行った。そこはカンパニアとは離れたところにあり、そのあいだの野原には砲台が設けられていた。長官は「モスコウ」(モスクワ)から7年任期で派遣されてきていて、すでに3年が過ぎていた。一行は丁寧に慰労され、この長官の館に世話になることになった(池田編、1968 94-96、250頁;室賀他編 1965 105―106頁;Plummer 1991b、p.165は、ニコライ・ペコロウェチは1840年に赴任してきたヴァシーリー・スチェパノヴィッチ・ザヴォイコではないかという)。ここでも最初は召使として働かされた可能性がある。

オホーツク 『日本庶民生活史料集成』 257頁

 一行は、ロシア・アメリカ会社の支配人にも州長官にも今来た船で日本へ返してくれと頼んだが、ペテルブルグから紙面が到着するまで見合わせるという事であった。一行が到着したあと、ペテルブルグへ「飛脚」を送ったようで、8月中旬(旧暦6月下旬)に飛脚は帰ってきたようだが、それがどういう内容だったのかは不明であった。しかし、その後衣食がよろしくなり、生活が楽になった(池田編、1968 96頁。この件は『蕃談』にはない)。

 さらに、高田屋嘉兵衛とゴロヴニンの話題が、ロシア人と一行を結びつけた。ここの長官ペコロウェチはゴロヴニンの甥であり、年老いた次官の「ペットロ、イワンチ」は「ゴロベニア」(ゴロヴニン 『時規物語』ではゴロベナ)の副官だった「イリコルト」(リトルド)の部下であった。ゴロヴニン事件というのは以下のような事件であった。 

 19世紀初め日露の関係は動揺していた。上述のように、1804年(文化1年)、ロシア・アメリカ会社の総支配人であったレザノフが、ロシアの使節として仙台の出の漂流者津太夫らを返還するために長崎に入港、通商を求めたが、これを拒否された。そのため、レザノフの部下は、1806年、07年に、樺太やエトロフを砲撃して腹いせとした。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出したが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)にはロシア船打払い令を出していた。こういう中、1811年(文化8年)、千島列島を測量しながら国後島に来たディアナ号の艦長V.M.ゴロヴニンらが、上陸中に日本側に捕らえられた。代わってディアナ号を指揮した次官のリコルドは、カムチャツカに戻ったが、ナポレオンの侵攻が迫っていたため、ロシア政府は軍隊を派遣してゴロヴンを奪回するというリコルドの請願を却下した。リコルドは1812年に交渉のため国後へ出直したが、成果はなかった。しかし、その際たまたま近くを通りかかった日本の観世丸を拿捕し、船頭の高田屋嘉兵衛らを捕虜にして、カムチャツカへ戻った。高田屋嘉兵衛は既述の通り、千島ルートを開拓した商人で、1810年には国後の場所請負人となっていた。この時観世丸は、エトロフのシャナから国後に向けて航行していたのである。1813年にリコルドは国後を訪れて高田屋嘉兵衛を解放し、翌年にはゴロヴニンらを取りもどした(木崎 1991 120-130頁;森永 2008 36-39頁)。

 オホーツクの長官は、叔父のゴロヴニンが日本で丁重に扱われていたと、長者丸一行に感謝した。また60歳過ぎの次官はゴロヴニンの副官であったリコルドの部下で、高田屋嘉兵衛を日本へ送り届けた人物であった。なお一行は念のため、ゴロヴニン事件の記録を見せてもらったが、日本側はそんなに丁重にはゴロヴニンを扱っていないことが知れて、大いに当惑したという(池田編 1968 115、117、250頁;室賀他編 1965 106―108頁)。 

 この時期にオホーツクにいたと思われるスコットランドの冒険家でハドソン湾会社の総督であったジョージ・シンプソン(1792?―1860年)は、こう記録している。かれはカナダから、アラスカ、シベリア経由でイギリスに向っていたのである。

「わたしは、すでに前にサンドウイッチ島で聞いていた日本人に、オホーツクで会った。かれらは、政府の費用でもてなされていて、帰国できる機会を待っていた。この事が結局どういう結末になるのか分からないが、当時は、この不幸な流浪者たちが日本に帰れるとか、日本まで行ったとして上陸が許されるかどうかについてははっきりとした見込みはなかった。同じような前例として、ロシア人が送り返した船乗りたちが、用心深い日本政府によって追い返されたことがあった。この例のせいで、ロシア人は同じことを繰り返したくないと思っている」(高瀬重雄 1974 133-134頁;Plummer 1991b p.166)。

 これが外から見た日本であった。

 オホーツクに13ケ月も滞在した1842年(天保13年)7月(旧暦6月)の下旬、長官の命により、一行はシトカヘ移ることになった。これは、一行がオホーツクに着いた時、一行の扱いについて、首都ペチャルポル(ペテルブルグ)へ問い合わせの使者が遣わされたが、その使いが7月に帰ってきたことによるようである。オホーツクにいるロシア船は4隻しかなく、日本へ一行を送っていくゆとりがないためであった(池田編 1968 96,250頁;室賀他編 1965 110―111頁)。シトカはロシア・アメリカ会社の本部のある所であった。

 ロシア側の史料によると、6人の漂流民がアメリカ船でオホーツクに着いた後、この知らせは皇帝に伝えられ、皇帝は露米会社ないしは他の道で6人を日本に送るよう指示を出して、この指示は1842年5月2日に海軍大臣からオホーツクへ伝えられていた。これに応じて、6人はシトカに送られることになったという(Plummer, 1991b p.171,173)。これが上述の「飛脚」の話と同じであるのか否かは不明である。

 冬は海上が凍るので、氷が解けたあと、船でシトカより荷物をオホーツクヘ運び、帰りにペテルブルグより来た荷物をシトカへ運ぶのであったが、そのような船に乗せてもらうことになったのである(池田編 1968 96頁)。

3.シトカ

 長者丸一行を乗せた船は、1842年8月上旬(旧暦6月下旬)にオホーツクを出帆、9月14日ごろ(8月10日ごろ。『時規物語』は8月上旬としている)、ロシア領アラスカの「スエツカ」(シトカ、ロシア語ではシトハ)に着いた。アラスカは1741年にベーリングが探検してロシア領とされていた。

 シトカは、ロシア・アメリカ会社の本部がある所で、「ナチャニカ」(ロシア・アメリカ会社の支配人)はアードフ・カーロウェチ(アドフ・カルロウイチ。アードルフ・カーロヴィッチ・エトーリン)という人で、フィンランド生まれであったが、スウェーデン語とロシア語に長けていて、ロシア海軍で昇進して、1840年にシトカの長官(―1846年)になった人であった。シトカは立派な港町で、市易が盛んで、建物も商品もカムチャツカやオホーツクに比べて、数等優れていた。一行は、長官の居館から少し離れたところにある別邸に住むことになった。衣食住の心配もなく、酒も振舞われ、手厚くもてなされた。一行はロシア人たちと交遊し、越中の盆踊りを披露したりした(池田編 1968 118,250頁;室賀他編 1965 112-113頁;Plummer 1991b, p.108,168)。費用は会社もちであったという。

アラスカ湾・シトカ(シトハ)  (森永 2008 140頁)  

 シトカは、もともとトリンギット族が定住していたところである。トリンギット族は広くアラスカの太平洋岸に住む狩猟採集民族で、その居住地域へ18世紀の末から、ロシア、イギリス、アメリカの船と漁師がやってきて、要塞を作ったり、ラッコなどの毛皮を取って広東などへ運びだしたりするようになっていた。

 ロシアは、商人アレクサンドル・バラノフのもと、アリューシャン列島沿いに西からやってきて、1792年以来、カディヤク島、クック湾、ヤクタート湾を獲得していた。イギリスはクイーン・シャーロット諸島を領有し、アメリカはヴァンクーヴァー島を手に入れていた。こうして、トリンギット族の土地に英米ロが争って入り込もうとしていた1799年、バラノフがシトカ島にやってきて町を作った。この年、国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、バラノフはその総支配人となった。しかし、1802年、シトカのロシア人は、トリンギット族の一部族コロシ族の攻撃を受け、いったん撤退した。しかし、バラノフは改めてシトカを取り返し、そこにノヴォ・アルハンゲリスクという町を作った。そして、そこをロシア・アメリカ会社の本部とし、またロシア領アメリカ総督の拠点として、バラノフが総督となった(森永 2008 138―154頁)。

 バラノフは1819年に亡くなり、そのあとをスウエーデン出身のカーロヴィッチが勤めていたのである。長者丸一行はそこへ来たわけである。一行は、ロシア人がコロシ(コルシ)族という「野蛮人」と緊張した関係にあることを目の当たりにした。コロシ対策に準備されている種々の武器に驚いた。また、一行は、蒸気船「ステンボル(スチームボート)」というものを始めて見た。このほか、一行は、時計、望遠鏡、温度計などの器具にも驚いた。さらに長官の館では毎月盛大な宴会が催され、そこでは出席者はみな夫婦同伴で、宴も盛り上がってくると男女でダンスをしたのであった(池田編 1968 118-127、250-251頁;室賀他編 1965 112―120頁)。

シトカ 『日本庶民生活史料集成』 259頁

 1843年(天保14年)、イルクーツクから「漂民を日本に衛送すべし」という指令が届いた。また「ナチャニカ」より呼び出しを受けて「最早十日ばかり」もすれば日本へ送り返すと言われた(池田編 1968 127,251頁)。

 はたして、1843年4月14日、ロシア・アメリカ会社の支配人エトーリンは、プロミセル号の船長ガヴリロフにたいして、日本人を日本へ送り返すよう命令を発した。その際、北海道(松前島としている)のアトキズ(厚岸)湾に入って、二艘のボートに3人ずつ乗せて、上陸させるか、天候次第では、エトロフ島のサノ湾で上陸させるように指示していた。また、いずれにせよ、日本の岸に近づきすぎないように、大砲が届かない距離を保つように注意していた。このほか、カーロヴィッチは、ガヴリロフに対して、1835年11月19日付で皇帝が確認しているアジア委員会の規則に沿って行動し、日本人が接触して来たら、丁寧に友好的にこれを迎えるのがいいが、いかなる「公的」な関係を持ってはならず、かれらには隣国としての友情の念から漂流民を暖かくもてなして送り届けたのだと告げるようにと、細かく指示していた(Plummer, 1991b p.171-172)。実は前年1842年8月(旧暦7月)には日本の幕府は異国船打払令を撤廃し、「天保の薪水給与令」を発していたが、これはまだ知られていなかったわけである。

 出発6,7日前に、カーロヴィッチ長官が一行を蒸気船に乗せて、近くの島まで遊覧に連れて行ってくれた。この蒸気船は「エギリス」の工夫であるとのことであった。出帆の3日前には長官の家に呼ばれ、2日後に一行を日本へ送り返すと告げられた。長官は、都よりエトロップヘ送るよう申してきたが、そこからは松前に行くのに難儀であるから、アツケシへ送るようにすると言った。その時、一行が部屋の「時規」(時計)に気づいて感心すると、長官は、それを取り下ろして、日本へ持ち帰って「ナチャニカ」に献上するようにと、プレゼントしてくれた。この時、一行が、日本には、「ヲソダリ」(至尊)は京都、「エゲラ」は江戸、「ナチャニカ」は国々にいると言うと、長官は、それぞれ国も違い「ナチャニカ」も違うのかと尋ねるので、そうでないと答えると、一行の「ナチャニカ」に献上せよと何度も言い聞かせた(池田編 1968 217-131,251頁;室賀他編 1965 117-120頁)。

蒸気船 『日本庶民生活史料集成』 129頁

 いよいよ1843年4月20日(旧暦3月下旬)、長者丸一行はシトカを出帆した。船は、二本マスト、乗組員約30人、3000石の大船で、名をプロミセル号と言い、船長はアレキサンダロ・ニコライウェチ(Plummer, 1991b, 173はガヴリロフ;Plummer 1991a p.134はニコロヴィッチ)、24,25歳。商人も乗っていて、医者も二人乗船していた。船には、セキサン(六分儀)、船時計(羅針盤)が備わっていて、絶えず自船の位置を確認することができた。途中でアメリカ船に出会ったりして、およそ63日の航海ののち、6月20日(旧暦5月23日)にエトロフ島フルベツに着くことになる(池田編 1968 134,143頁;『漂流人』34頁;室賀他編 1965 120,122頁)。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.65)

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