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「世界史の眼」No.22(2022年1月)

2022年最初の「世界史の眼」をお届けします。今号では、明治学院大学国際平和研究所研究員の舩田クラーセンさやかさんに、小倉充夫著『自由のための暴力−植民地支配・革命・民主主義』の書評を、木畑洋一さんに、北村厚著『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』の書評をそれぞれ寄稿して頂きました。

舩田クラーセンさやか
書評:小倉充夫著『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)

木畑洋一
書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)

小倉充夫『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)の出版社による紹介ページはこちら、北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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書評:小倉充夫著『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)
舩田クラーセンさやか

本書の特徴

 本書は、日本で国際社会学をうちたて、アフリカ地域研究に軸足を置き続けてきた小倉充夫氏のもっとも野心的な著作である。それは、タイトルに如実に表れている。英語では『自由と暴力』と訳されているこの本が、日本語ではあえて『自由のための暴力』とされている点に、小倉氏のさまざまな想いが込められていることを想像するのは難しいことではない。

 他方で、このタイトルに戸惑いを覚える人は少なくないだろう。

 まさに、それこそが小倉氏の狙いと考えられる。本書における文章の潔さも含め、小倉氏の過去の著作を知っていれば、氏によるディシプリンと地域研究を超えた長年にわたる探求が、読者を導くある種の到達点に、感嘆の声を漏らさざるを得ないだろう。後述するように、小倉氏は本書も途中経過と考えている。しかし、本書の「はじめに」で述べられているとおり、本書は過去に出された二冊の本と密接な関係にあり(『現代アフリカ社会と国際関係ー国際社会学の地平』有信堂、2012年、『解放と暴力ー植民地支配とアフリカの現在』東京大学出版会、2018年)。これら二冊とそのほかの過去の著作を眺めるとき、本書が小倉氏のこれまでの研究の集大成の大きな部分に位置づけられることに気づくだろう。

本書のねらい

 本書のねらいを一言で述べることは難しい。あまりに豊かな広がりの奥行き、深みのある議論を「一言」で表するなどということは、無謀かつ失礼極まりない。それでも、この書評を経由して本書に感心を持ってくれる人がいるかもしれないとの希望的観測から、あえて評者自身の言葉で本書のねらいを纏めてみる。

 本書は、抑圧からの解放と自由を実現する手法として民主主義を求め続けた人びとの葛藤を、世界における現実—とりわけ近現代史的展開の中—に位置づけ、そこから生まれてきた理論(たとえ、批判に満ちたものであろうとも)を丹念に検討しつつ、現在と未来を検討するための議論の土台を提供しようとした画期的な本である。そして、その議論の土台の提供先が、現在と未来の日本の人びとに向けられていることは、本書の「はじめに」と「おわりに」で明らかである。

 小倉氏を「アフリカ地域研究者」として認識してきた人は、「はじめに」が「日本における報道の自由世界ランキングの低下」から始まっていることには驚くかもしれない。小倉氏の懸念は、続く文章で具体的に示される。

「(日本の)戦後民主主義が成熟するどころか、残念ながら形骸化していることを示す一例なのではないか。特に今世紀になって、市民社会の未熟さを痛感させられることが多くなってきた。(中略)かつては権威主義体制のもとで苦しんできたアジアの諸国が、民主化するにつれ、今や市民社会の成熟度において、日本をあっという間に抜き去った感がある…(i頁)」。

 そして、「本書を構想した動機の一つ」として紹介される以下の文章をここで示しておくことは、本書を読み解くうえで重要であろう。

(日本の/で)「民主主義を鍛えることが難しいのは、それを勝ち取ったという経験にかけているからではないのか。天皇制ファシズムと闘った人々は決して少なくないが、その体制の崩壊と民主化は、基本的には敗戦と占領の結果であった。(中略)重要なことは、やはり変革と民衆との関わりにあるのではなかろうか。日本は他のアジア・アフリカ諸国のようには、外国による支配や独裁体制からの解放を民衆が自力で勝ち取ったという経験を持たない。このことは日本の問題を考える際に、いかなる意味を持つであろうか…(i-ii頁)」

 これらの記述は、本書における小倉氏の問題意識の根底に、日本の戦後民主主義への懸念があり、課題の抽出において、アジア・アフリカ諸国、とりわけ被植民地支配や革命を経験した民衆による闘いから学ぶべきとの認識があることを示している。小倉氏は続けて、「闘う手段の選択を絶えず迫られてきた」民衆が手段としての暴力・非暴力を選択した要因、その実践の様相と結果に注目することの重要性を指摘し、「これらについて影響をおよぼしたと考えられる思想的背景、構造的要因、国際的条件など」を明らかにすることが本書のねらいであるという。

本書に先だっ

 この問題意識は、評者との共著『解放と暴力』(前述)でもすでに示されている。本書(『自由のための暴力』)は、先だって三年前に出版された同書の第1章「解放と暴力」で展開された議論を、格段に深め、広げたものである。同書出版後の本書に連なる小倉氏の取り組みについては、東京大学出版会が毎月発刊するUPの論稿において(「解放をめぐる暴力の諸相」2019年2月号、14頁)、以下のように紹介されている。

「退場しつつあると思われた偏狭な国家主義や人種主義が再び頭をもたげてきた。国際的な協調や多様な属性を持つ人々の共存の試みを否定するかのような言動や政策が、世界のあちこちで見られるようになた。(中略)しかし問題はもう少し根深いところにあると思われる。筆者は南部アフリカの植民地支配と解放、独立後の動向に注目し、それによって現代世界の問題を捉え、併せて専門諸科学を問い直すことを自らの課題としてきた。このような問題意識のもと(執筆されたのが)、…『解放と暴力』である。そこでは、帝国主義時代に強化された植民地主義と人種主義が過去のものではなく、近年危惧される傾向はそれらが継続・再編されたものであるという視点から論じた」。

 そのうえで、「鍵概念のひとつである暴力についての議論がやや不十分であった」ことから、同論考が準備されたという。同論稿では、本書の第1章で展開される議論が、「『自由を守る義務を負う名誉』とテロリズム」、「解放にとっての非暴力主義」、「革命批判と犠牲のピラミッド」、「合意なき国家の紛争」という小見出しにあわせて進められる。本書は同論考で示されたこれらの議論の骨子を、具体的な事例と豊富な理論的考察をもとに、さらに発展させたものである。

本書の構成

 本書は、以下のように構成される。

第1章 自由のための暴力

第2章 非暴力の理念と現実 

第3章 革命と暴力(1)― 理想と現実

第4章 革命と暴力(2)― 後進国革命と国家暴力

第5章 植民地支配と現代の暴力

第6章 民主主義と暴力

 以下、各章の特徴を、網羅的にではなく、評者の視点から重要と考える点を中心に取り上げていく。

(第1章 自由のための暴力)

 第1章では、本書の鍵概念である「自由」と「暴力」がさまざまな角度から論じられるが、とりわけ次の問いに根ざして議論が進められる。つまり、自由のための暴力行為は許されるのか?許されるとしたら、あるいは許されないとすれば、なぜか? 暴力の結果、生じた犠牲はどこまで許容されるのか、されないのか? つまり、本書のタイトルを見て感じるであろう読者の疑問に真正面から理論的に答えているのが本章である。いかなる批判もまずはこの章を読むところからしか始まらない。

 何より、本書においてもっとも重要であろう本章が、「抵抗と暴力」から始まっている点にこそ着目したい。小倉氏は次のように説明する。「政治的な暴力には様々な担い手があり、その特徴も異なる。そのことは国家権力による暴力とそれへの対抗暴力において典型的に示される」として、「抵抗」が「国家権力による暴力」を前提にしていることが示唆される。これは、本書が一貫として、①それが絶対王政のものであれ、全体主義や独裁国家のものであれ、共和国や議会制民主主義国家のものであれ、植民地支配下のものであれ、「国家権力による暴力」を問題としていること、②これに「抵抗」し、これを乗り越え、抑圧からの解放という「自由」を獲得するための「闘い」のあり方を考察の対象としていること—を明らかにする。つまり、小倉氏は、本章を通じて、被抑圧者による社会変革、ひいては世界変革に向けた闘いのあり方、現実の面での可能性と限界、その要因のおおまかな見取り図を示そうとしているのである。

 闘争の時間軸は、抵抗から解放に至ることで終わるわけではない。ここに、ザンビアの村からアフリカ大陸、第三世界までの「地域」に立脚して社会と国際関係の変容を研究してきた小倉氏の洞察がある。理論家が解放運動として成果を上げた組織や理論をどれほど賞賛しようとも、その先(解放後)の社会を誰がどのように導き、その結果として何が起こったのか、それはどこの誰の現実から、どのように分析されるべきなのか—これらの問いこそ、過去の著作ならびに本書における小倉氏の問題意識の根幹を成す。人によっては、これを、人びとの生きる現実により肉薄しようとする社会学的アプローチによるものと考えるかもしれない。しかし、本書を丹念に読み進め、読み通すことができた読者は、小倉氏がなぜ「解放後」にこだわったのか、ディシプリンを超えたところで理解できると思う。

 その一端を評者なりに捉えるならば、研究者がどれほど現実に肉薄しようとしても、最終的にはそれは不可能な試みである。それでも、研究者はさまざまな手法で現実に近づこうとする。そこで過去の人類の具体的な営みに基づいて生まれ出た思想や理論が与えてくれる示唆は重要な意味を持つ。他方で、だからといって研究がそこにとどまるとすれば、現実に害悪すらもたらしうる。研究が国際政治・経済に直接的な影響を及ぼすようになった20世紀においては、これは重要な点である。とりわけ二十世紀後半以降の冷戦期において、知的サークルにおける認識枠組みのあり方は、国際政治の場に強く深い影響を及ぼし、同時代を生きる「地域」の人びとの現在と未来に希望の一方で深い亀裂を作り出してきたからである。この点は、最終章にあたる第6章でより具体的に検討されるが、読者が第1章に示される理論上の射程を理解する助けになるだろう。

(第2章 非暴力の理念と現実)

 自由のための手段としての暴力を論じる点で避けて通れないのが、非暴力思想である。とりわけ、日本ではマハトマ・ガンディーの非暴力思想とインド独立への寄与が広く知られているため、暴力的手段による闘争は無意味なもの、あるいは「血に飢えた者の蛮行」として認識されやすい。しかし、小倉氏が指摘するように、ガンディーは暴力の一切を否定したわけではなかった。これは、同じく非暴力主義者として日本で認識されるネルソン・マンデラ(後に南アフリカ大統領)とて、同じであった。本書のタイトルに疑問を感じた読書こそ、この章を丹念に読んでほしい。

 小倉氏が、本章の第1節(「非暴力の主張と暴力批判」)の第1項(「非暴力思想の特徴」)で指摘するように、ガンディーが非暴力が内含する道徳的優位性が、暴力を振るう者への訴えにおいて一定の有効性を有していることは重要であるが、他方でこの非暴力は何もしないという消極的な非暴力ではなく、積極的な非暴力であった点は忘れてはならないだろう。ただし、小倉氏は、続く第2項(「非暴力の主張における問題」)で、非暴力思想への批判の紹介を怠らない。つまり、圧倒的な国家権力による暴力の実力行使の前では、非暴力による解決の主張が、現実から遊離し無力なばかりか、現状維持を長引かせることにつながるとの批判である。そのうえで、第2節(「手段としての非暴力」)では、解放運動の担い手たちにとって、「暴力を容認するか、それとも非暴力に徹するべきか」という原則主義的な議論ではなく、解放実現のための手段や戦略として非暴力が有用か否かこそが重要であったことが、「暴力も非暴力も」と名づけられた第一項で紹介される。

 本章では、小倉氏の著作に特徴的な議論の進め方の特徴がもっとも如実に示されている。以上のように、相反する認識や理論を真正面から突き合わせつつ、あまり知られてこなかった現実の具体的動きとその結果を紹介し、最後に筆者としての考えを示唆するスタイルである。本章においては、59頁に小倉氏の考えの一端が表されているが、明確には、次章以降に詳しく記される各革命の展開の中でさらに議論が深められていくので、読者はそれを待たなければならない。

(第3章 革命と暴力(1)理想と現実 /第4章 革命と暴力(2)後進国革命と国家暴力)

 本来、核となる第3章と第4章は、分けて丁寧に論じられるべきであるが、これらの章は相互に密接に関連しあっており、単体では扱うことが難しいため、あわせて紹介する。

 本書の最大の特徴は、理論を踏まえつつも各地における「後進国革命」の具体的事例に注目し論じている点にある。現在の日本で、かつ日本語で本書が出版されることの積極的なねらいと意義について、これら二章を読めば明らかと考えるが、評者の受け止めを少しだけ紹介したい。

 日本は自らを「先進国」と呼びながら、民衆の覚醒という意味でも、闘いという意味でも、到底「先進国」の名を掲げることはできない。経済的に「後進国」とされ、かつての被植民地主義国にあった人びとの変革への欲求と圧倒的な力の差における不断の努力がもたらした体制転換—それは植民地にとどまらず、「地域」全体、あるいは/そして宗主国側社会、さらには国際関係や世界史に影響を及ぼしたこと—から、日本の人びとと社会はたくさんの学びを得られるだろうし、得るべきである。本書全体の中にこの二章を位置づけることで、そんな想いが伝わってくる。

 またこれら二章においては、革命とその後に対するアプローチにおける国際関係の重要性が、豊富な具体的な事例をもとに示される。つまり、理想と現実が、革命が生じた社会内部の構成体や原初蓄積の状況にとどまらず、国際的な経済政治関係の推移の中で互いに影響を与え合いながら進んでいく様相である。

 国際的条件やその相互影響を考慮に入れない革命理論は多い。特に、「比較」という一見学術的に真っ当な手法によって、覆い隠されてしまう運動ならびに「地域」の現実、革命を取り巻くさまざまなレベルの主体との関係、ならびに歴史的に醸成された関係性の網を明らかにすることは、小倉氏による研究手法の基本にあり続けた。これは、共著『現代アフリカ社会と国際関係』において、小倉氏が担当した第1章により詳しい。

 これまでの小倉氏の注目してきた地域や現象を考えれば、キューバ革命に相当の紙幅が割かれていることは新鮮であった。なぜキューバ革命でなくてはならなかったのか? キューバ革命が、冷戦期の米ソの対立と世界戦略という冷戦状況下で起こり進展していくこと、また1960年代を通じて、とりわけラテンアメリカとアフリカにおける「後進国革命」に具体的に及ぼしていく世界史的かつ地理的拡大を影響を考えれば、これは納得がいくものである。とはいえ、キューバ革命の課題(エリトリア独立へのネガティブな影響を含む)の紹介を怠らない点に、先に紹介した小倉氏らしさが表される。

 なお、これらアジア・ラテンアメリカ・アフリカにおける革命を「後進国革命」とする整理は独特のものである。これには、本書の「あとがき」に出てくる学術的背景—津田塾大学国際関係学研究科での勤務—の影響を考えずにはいられない。これについては、最後に検討する。

 なお、第4章はエチオピア革命が中心に扱われている。小倉氏は、アフリカ解放後の社会主義革命を分析した際にタンザニアと並んでエチオピアを扱った後も、エチオピア革命とその後の国家暴力、国家分裂に関心を持ち続けた。この具体的事例の展開に基づく理解こそ、続く第5章の総括につながっていく。

(第5章 植民地支配と現代の暴力)

 本章は、ここまでの理論と現実、特に第4章のエチオピアの事例に関するの検討を踏まえつつ、先に紹介した共著本『解放と暴力』をより普遍化したものといえる。本章では、 「1. 支配の正当化と暴力」、「 2. 独立と解放の乖離」、「 3. 国家暴力の正当化 」、「4. 『合意なき国家』の形成と暴力」との見出しで筆が運ばれていく。ここでは、解放を実現し、国家権力を手に入れた運動体が、植民地支配などでもたらされた社会内の分裂傾向と厳しい国際環境に直面する中で、暴力に加担していくプロセスが、多様な事例に基づきつつも、驚くようなシャープさで纏められている。植民地支配からの脱却という目標を超えて、新しい社会の創造を前提とした社会変革を目指す解放運動ならではの課題が、過去の革命の盛衰や課題、第4章におけるエチオピア革命史を土台にしつつ、繰り広げられており、本書の中でもっともダイナミックな章といえる。ある意味で、「自由のための暴力」(そして「革命を取り巻く暴力」)をテーマとした本書の終章に位置づけられる本章における手堅い整理は、本書全体だけでなく、過去の小倉氏の著作における取り組みを振り返る際に役に立つ。

 本章最後の節となる「『合意なき国家』の形成と暴力」は、そのタイトルに示されるように、見かけ上の民主化を遂げてなお、アフリカの民衆が苦しむ国家権力による暴力とそれへの対抗暴力、そしてそれらが織り混ざって生じる暴力の蓄積と連鎖の苦しみが記される。同時代に生きる私たちが、現代世界の各地で生じ続ける暴力を理解するために不可欠な視点が披露されるとともに、その解決の難しさを実感させる中身となっている。

 革命後に薔薇色の社会が待ち受けるわけでも、革命崩壊後に自由が訪れるわけでもないという19世紀から現在までの教訓の先に、何があるのか? 誰の何からの解放・自由こそを、問題にすべきか? そんな問いが胸に重くのしかかってきたところで、本書の本来の最終章(第6章)の出番となる。

(第6章 民主主義と暴力)

 最後に、小倉氏は以上の議論を、「民主主義と暴力」という題目の下、西欧社会や日本に広げる。本章には、小倉氏が古今東西、「後進国革命」を通じて日本の読者と議論したかったであろう論点が、そこかしこに提示されている。また、なぜ本書が、暴力を真正面から取り上げ、「後進国革命」を問題にしたのか、そしてこのようなアプローチをとったのか、本章を読んでいくうちに明らかになるだろう。この章こそ、まさに小倉氏の本書の根底にある問題意識の在処が如実に示された章といえる。もう一点重要なことは、本章に、小倉氏の次の研究の方向性が示されている点である。

 本章の第1節「民主主義の暴力」で、冒頭に「構造的暴力と暴力批判」が取り上げられている点に注目したい。『解放と暴力』の第1章でも検討された点であるが、本章では、とりわけ暴力が民主主義体制下(見かけのものであれ)の社会で発現し続けていることに注目する重視性が指摘され、そこに引きつけた議論が展開される。革命達成を終着点とせず、その後の社会変革—故に人びとの解放と民主主義の可能性—に重きをおく小倉氏ならではの議論の展開である。本章では、一見民主主義的な制度をいくつか紹介しつつ、このような制度上の工夫すら、暴力と抑圧を生み出し続ける近代国家や集団主義の現実が炙り出される。

 小倉氏は、問題の本質が暴力行為を許容すべきか否かではなく、構造的暴力をどう捉え、これをどのように乗り越えるべきかにあるという。結局のところ、「民主主義の制度に集団主義的な原理を加えるだけでは不十分であること」、また「この原理はかえって対立を強め、暴力を増長することがあること」が指摘される。これに新たに移民の問題が加わる。

 小倉氏は、このような現代的課題を乗り越えんとする努力がすでに脱植民地化のプロセスと新国家形成期のアフリカであったことを、ザンビアのカウンダ初代大統領とタンザニアのニエレレ初代大統領の試み通じて明らかにしようとする。パン・アフリカズムのリーダーでもあった二人が、植民地支配によってつくり出された分裂を避け国民的な統合を実現・維持するという課題と、さまざまな地域や民族の共存を図るという二つの課題を抱えていたばかりか、冷戦とアパルトヘイト下という厳しい国際・地域的(南部アフリカ)条件に直面していた点も指摘されている。なお、これらの点に関しては、『解放と暴力』により詳しい。

 冷戦後、とりわけ西側諸国が、このような苦悩と試みを矮小化したまま、形ばかりの民主化を押しつけた結果として生じた社会的亀裂、それに続く大規模な虐殺や戦争に、小倉氏は警鐘を鳴らす。いつの間にか忘れられてしまったこの論点は、本書が一貫して注目する国家暴力と抵抗暴力の綱引きにおいて、民衆の熱望を誰がどう刈り取る(ってしまう)のか、民衆の覚醒と主体化はどのように/どこまで可能なのかに関する疑問に読者を誘う。この問いの根底に、日本の国家、市民社会、民衆の過去・現在・未来が、小倉氏の念頭にあることについては、「あとがき」に明らかである。

(あとがき)

 以上との関係で、そもそも小倉氏がなぜこのテーマに取り組んできたのかについて、次のように述べていることは重要であろう。

「日本が他の社会の革命、解放闘争、民主化にネガティブな意味で関わってきたからである。例えば、日本はイギリス・フランス・アメリカと共にロシア革命に対する軍事介入に加わったばかりか徴兵した最後の国だった。東アジア・東南アジアにとって日本は、いうまでもなく帝国主義的侵略国であった。戦後の冷戦期には、民主勢力を弾圧する独裁政権を援助で支え続けた。日本の関わりを一面的に性格づけることはできないが、解放の主体からすれば、長らく日本はたぶんに解放を妨げる存在であり、闘う相手であった。このように解放とのネガティブな関係の認識を踏まえることが、本書のようなテーマに取り組むための第一歩であろあう」

 そして、本書の最後の最後に読者は、小倉氏の眼差しの向こうに、「ある村の人びと」がいたことを知る。

「サラエヴォも沖縄もそこに住む人にとっては世界の中心である。(中略)自分もペタウケにいると世界の中心にいるとの感覚を持つようになった。常識的には、政治でも経済の面でも、世界の辺境とされる地で生活している人びとのそばにいると、様々な不条理に嫌でも気づかざるを得ない。ペタウケから、物理的な空間としてはザンビアが、南部アフリカが、そしてアフリカと世界が、そして歴史的には、帝国による侵略以来の支配・服従と解放、その痕跡と現状が見えてくる」

 この文章に込められた想いについては、新たに付け加えるべきことはないだろう。

 なお、評者があえて「地域」と「」付きで紹介してきた理由は、小倉氏にとって「地域」が、地域社会からアフリカ地域までを含む多元的なものであることを示すためであった。

 もう一点、本書を可能にした「場の存在」について。小倉氏にとっての勤務校・津田塾大学の国際関係学研究科ならびに研究所の重要性である。小倉氏は、そこに集う同僚や研究員たちから受けた刺激を繰り返し語ってきた。共著『現代アフリカと国際関係』は、そんな小倉氏が退任を迎えるにあたって、感謝の気持ちを込めて準備した本であった。多くが知るところであろうが、同研究科・研究所は、江口朴郎氏が開設したものである。同時代の国際関係という横軸と、世界史的展開という縦軸が交差しながら網の目のように関係しながら育まれていく民衆の意識と構造の変容、革命と反革命の綱引き—江口氏に特徴的な分析視点は、これまで小倉氏をはじめとする多くの研究者に大きな影響を及ぼしてきた。また、本書が「問題意識に沿って必要であれば学問領域の垣根を乗り越える、そのことの危うさを自覚しつつ、同時にそれが不可避であることを意識したことの賜である」との説明は、社会学を学問的出発点にしながらも、その垣根を越え続けた小倉氏ならではの総括といえる。

最後に

 以上から、第三者的な書評を認めるには、評論者の属性(博士後期課程以降、小倉氏に学び、過去に出された二冊の共著者)は、あまりに不適切なため、本稿は本の紹介にとどまるものとなってしまったことをお詫びしたい。各章で取り上げられている理論や現象、そしてその解釈について、何百もの付箋を付けたものの、それらを事細かに紹介するよりは、これまで小倉氏の研究姿勢と著作に大きな影響を受けてきた者として、なぜ氏が本書を書くに至り、このような構成を用い、またこれらの事例をこのような形で取り上げたのかを分析・紹介することで、研究者以外の一般の人を含む多くの人に興味を持って本書を手にとってもらえたらと考えた。

 本書で包括的かつ弁証法的な議論が展開されている以上、詳細は各自で読んでもらい、紙面上での対話を試みてもらうべきだろう。

 最後に、第6章では、小倉氏が今後このテーマで議論をさらに深め、進めようとしている論点がいくつか示唆されている。そして、本書は過去のいずれの著作よりも、また第6章はいずれの章よりも、躍動感を持って描かれており、長年にわたり小倉氏の文章に慣れ親しんできた者としては、ある種の清々しさを感じずにはいられない。恩師の瑞々しい文章に触れ、背筋を伸ばしたのは評者だけではなかったろう。

【参考図書】

・小倉充夫・眞城百華・舩田クラーセンさやか・網中明世・セハスモニカ『現代アフリカ社会と国際関係—国際社会学の地平』(有信堂、2012年)

・小倉充夫・舩田クラーセンさやか『解放と暴力—植民地支配とアフリカの現在』(東京大学出版会、2018年)

(「世界史の眼」No.22)

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書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)
木畑洋一

 先に『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』(ミネルヴァ書房、2018年)という本を上梓して高い評価を得た著者が、その手法を引き継ぐ形で対象とする時代を20世紀から現在までに限定して著した本が、ここで取り上げる『20世紀のグローバル・ヒストリー』である。その手法とは、高校の歴史教育で用いられている教科書の内容にあくまで即しながら、著者なりの歴史像を提示していくというやり方である。参照された教科書は、前著においては「世界史B」(古代から現代までを詳細に扱う科目)の教科書であったが、本書では、それに加えて「世界史A」(近現代を中心に比較的簡潔に扱う科目)、「日本史B」、「日本史A」(BとAの違いは世界史と同じ)も参照されている。換言すれば、高校での歴史関係の教科書すべてを素材にしているわけであるが、それは、2022年から高校において新科目「歴史総合」が導入されるということに関わっている。従来の世界史と日本史を融合させる形で18世紀以降の歴史を扱うというこの新科目を見据えて、本書は書かれているのである。

 また前著と本書のタイトルがともにグローバル・ヒストリーという語を含んでいることから分かるように、著者が目指しているのは、グローバル・ヒストリーを意識した通史的叙述である。この点に関していえば、前近代についてもネットワークという考え方を適用して斬新な歴史像を提示した前著の方が刺激的であったとも感じられるが、本書でもさまざまな工夫が凝らされている。「はじめに」で著者が示している、グローバル・ヒストリーとして20世紀史を再構築する際のポイントは以下の5点であり、きわめて要を得ている。①人類共通の問題群を主軸にする、②国境をこえる関係性や結びつきを積極的に取りあげる、③地理的に広い範囲での歴史の動きを把握する、④大国よりもその周縁部に焦点を当てる、⑤「下からの」エネルギーに注目する。問題はこうした視点が貫徹した叙述になっているかどうかである。この内、③から⑤については、それなりに著者の努力がみられるものの(ただ③の広域性という視角は、前著においては非常に明示的に打ち出されていたが、本書ではそれほどでもないという印象をもった)、本書の「売り」となるのは、①と②ではないかと思う。それに関して例をあげてみたい。

 本書のプロローグ「20世紀前夜の世界」は、前著で著者が強調していたグローバル・ネットワークの完成についての議論から始まるが、そこで中心に据えられるのが、列強による植民地支配の拡大であり、さらにその支配を支えた人種主義である。人種主義は、上記の①にある人類共通の問題の一つであり、本書を貫く主軸の一つとなっている。著者は、1990年代初めのアパルトヘイト諸法の廃止に触れた個所で、「20世紀は人種主義の世紀だった。…人種主義が国家政策として公然と実施される時代はこれで終わった」と述べるのである。もとより人種主義そのものがそれで完全になくなったわけではないと著者は続けて論じるわけであり、このような形での20世紀論に評者は強い共感を覚える。

 また移民という問題も、「人類共通の問題」として重視されている。これをめぐっては、満洲国の建国後、日本が満洲移民を推進していく背景に、それまで日本人移民が多かったブラジルで強圧的な民族主義政策が開始されて移民が圧迫され始めたという要因も存在していたとの指摘が興味深い。これについての叙述に踵を接する形でナチ・ドイツのもとでのパレスチナへのユダヤ人移民問題を取り上げるといったところに、著者の巧みな工夫をうかがうことができる。

 ②の論点に関わる例としては、たとえば日露戦争とイラン立憲革命の関係をあげることができる。1906年のイラン立憲革命に日露戦争での日本の勝利が大きな影響を及ぼしたことは、これまでも教科書のなかで書かれてきたが、その様相を著者は簡潔ながら具体的に説明している。さらに、教科書ではお目にかかることはない指摘として、インドでのベンガル分割への反対運動に日露戦争が影響を与えた可能性が指摘されている。また、1960年代の世界の若者たちのカウンター・カルチャーと中国の文化大革命の同時性に着目し、前者への後者の影響に触れているところなども、印象に残った。

 こうした内容をもつ本書は、読みやすい文体で書かれており、教科書でおなじみのゴシック体による重要語句の強調も適度になされているなど、歴史教育のために使われるにふさわしい本になっている。ただ、注文したい点も若干存在するが、ここでは一点のみあげておこう。

 先に①から⑤というポイントを挙げたが、著者はそれに加えてあと二つの点を提示している。一つは、20世紀の世界史を10年毎に切り取る形で本書を構成するという点であり、いま一つは世界史と日本史の総合を意識するという点である。後者に関しては、ない物ねだりはいくらでもできるものの、本稿で指摘してきたような叙述など、工夫の努力がよく見られる。 

 一方、前者については、1930年代とか1960年代とか、確かに10年区分で議論をする意味がある場合も20世紀には多かったが、それでよいのかと思われる時期もある。たとえば1940年代である。これを一つの章にまとめてしまうと、1945年における第二次世界大戦終結の意味合いは、どうしても相対的に低められてしまうのではないだろうか。それは戦後変革の評価にも連動する。このことは、本書が念頭に置いている「歴史総合」での時期区分にもあてはまる問題である。「歴史総合」では、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」という大項目とが、1945年ではなく、1950年代初めで区切られているのである。もちろんその区切り方を正当化する理由もありうるが、こうした点について何らかの説明が欲しかったところである。

 最後に一つ述べておきたいことがある。著者がこのような形で一書を著わすことができるというのは、日本の高校で使われている歴史教科書の中身がかなり標準化されていることの反映であるとも考えられる。叙述の中身にはそれぞれの特色が出されているとしても、頁数にせよ、用語にせよ、教科書がかなり似通ったものになっていることは否めない。固有名詞でも概念でも、従来の教科書で馴染みがないものは避けられがちであるし、頁数の制約のために叙述の密度も限られがちになる。本書は、そうした日本の教科書を素材にしながら、20世紀の世界史像をどこまで描けるか試した成果であるが、本書を読んだ上で、このような日本の歴史教科書のあり方自体を改めて問うてみることもできるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.22)

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