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文献紹介:平和憲法をつくった男 鈴木義男

 福島県出身の法学者・弁護士・政治家である鈴木義男は、東北帝国大学教授を務めるも、軍事教練に反対して教壇を追われ弁護士に転身。河上肇ら治安維持法違反者の弁護などで活躍後、戦後は衆議院議員として帝国憲法改正案の審議に携わる。鈴木の提案から第九条に平和の文言が加わり、GHQ草案にはなかった第二五条の生存権が追加された。「ギダンさん」と呼ばれ親しまれた鈴木義男の、平和憲法成立への知られざる努力を含む多方面の活躍と、その波乱の生涯を描く初めての本格評伝。

略目次  はじめに/第一章 キリスト教的環境の中で/第二章 大正デモクラシーとの出会い/第三章 欧米留学とその「成果」/第四章 弁護士として/第五章 新憲法制定・司法制度整備/第六章 左右対立の社会党の中で/第七章 晩年―新たな目標へ/結びにかえて/あとがき  各章ごとにエピソード №1~7

       

判型: 四六判 並製 350頁

本体価格:1800円

著者紹介

仁昌寺 正一(にしょうじ・しょういち)

1950年、岩手県に生まれる。

1979年、東北学院大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。同年より、東北学院大学経済学部助手。その後、講師、助教授、教授を経て、2020年より東北学院大学名誉教授。専門は東北経済論、地域経済史。

著作一覧 『社会科学概論』(共著、日本評論社、1981年)、『地域再構成の展望』(共著、中央法規出版、1991年)、『大正デモクラシーと東北学院―杉山元治郎と鈴木義男―』(「鈴木義男」の項を執筆、学校法人東北学院)など。

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世界史研究所のウェブサイトにようこそ

世界史研究所は、2004年7月10日の設立以来16年間に渡って、世界史研究とそれにかかわる情報交換の拠点として活動して参りました。2020年4月1日からは、母体となっていた「歴史文化交流フォーラム」の解散に伴い、ウェブサイトでの活動を主とする研究所として新たにスタートしています。毎月1日に「世界史の眼」と題する論考・コラムを掲載している他、世界史に関する情報の発信・集積や出版活動に努めています。具体的な活動方針に関しては、こちらをご覧ください。また、世界史研究所が関与した書籍に関しては、こちらをご覧ください。

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「世界史の眼」No.38(2023年5月)

今号では、前号に続き小谷汪之さんに、「M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」の(下)を寄稿して頂きました。この論文は今号で完結します。また、南塚信吾さんに、「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)をお寄せ頂いています。

小谷汪之
M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」(下)

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(下)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、前々号掲載)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

(以上、前号掲載)

(以下、本号掲載)

3 「ビルトの体系」

おわりに

3 「ビルトの体系」

 マックス・ウェーバーはインド的社会発展の固有性を、(1)土地レンテ収取者層の重層化、(2)「ジャジマーニー関係」とウェーバーが呼んだ共同体的分業関係の発展、これら二点に求めた。このことは、その後の実証的インド史研究の成果に照らしても、肯定的に受け止めることのできることである。

 しかし、ウェーバー自身はこれら二つの歴史過程を結びあわせて、インド的社会発展を全体として理論化するということはしなかった。おそらく、それはウェーバーの関心外のことだったのであろう。

 そこで、本稿では最後に、このようなウェーバーの「インド的社会発展の固有性」論をどのような方向で継承していけば良いのかという問題を検討しておきたい。ウェーバーのインド社会論を踏まえるならば、どのようなインド史像が見えてくるのであろうか。

 前述のように、ザミーンダールはザミーンダーリー・ビルトと呼ばれるビルトを持ち、それによって土地レンテの一部分を収取することができた。ウェーバーは、このザミーンダールのような存在をより一般的に、「ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者」と表現した。このような土地レンテ収取者たちが鎖のごとくつながって、剰余収取体制を形成していたのであるが、それに対応して、土地レンテ収取権としてのビルトもまた上から下へと連鎖をなしていたのである。

 他方、「ジャジマーニー関係」においては、ジャジマーニーと同義であるビルトが共同体的分業の土台をなしていた。さまざまなビルトを持つ者たちが相互にサーヴィスの授受関係を取り結び、その総体が共同体的分業体制をなしていたのである。ここでは、ビルトの網の目が形成されていたということができる。

 このように、ビルトは土地レンテ収取権としてのビルトと、「ジャジマーニー関係」を構成するビルトの二種類に大きく分けることができるのであるが、共にビルトと呼ばれる以上、両者に共通する本質があるに違いない。それは、それぞれの世襲的な職とそれに付随する取り分権がワンセットになって、世襲的な権益(資産、家産)を構成し、それがすべてビルトと呼ばれたという本質である。例えば、ザミーンダールなどの場合、土地レンテ収取者としての性格が前面に出やすいが、徴税・納税において、一定の職を果たし、その反対給付として、土地レンテの一部を収取する世襲的権利を持っていたのである。チョードゥリーのような地域共同体の首長、村長などの村役人、村職人などの場合は、それぞれの世襲的な共同体的役職に従事し、共同体によって定められた所定の手当を受け取る世襲的権利をもっていた。このように、職と取り分権がワンセットになって世襲的な権益(資産、家産)を構成するという点において、二種類のビルトは共通の本質を持っていたのである。

 この共通の本質にもとづいて、これら二種類のビルトを連結させるならば、上はザミーンダールのビルトから、下は村職人などのビルトまで、社会全体がビルトによって編成され、体系化されていたことが分かる。それは「ビルトの体系」と呼ぶべき社会編成であり、この「ビルトの体系」が剰余の収取関係と社会的分業関係の双方を包摂していたところにインド的社会の固有性を見ることができる。

 インドにおける社会発展とは、この「ビルトの体系」がより複雑化、高度化していく過程に他ならなかった。土地レンテの総量が増大するのに伴って、一方では、土地レンテ収取権としてのビルトの数が増大し、剰余収取体制がより複雑な形へと発展していった。他方では、ジャジマーニーと同義のビルトの数が増大していったが、それは生産力の発展に伴い共同体的な社会的分業関係がより高度に発展し、複雑化していったことを意味している。この二つの歴史過程が同時進行することによって、「ビルトの体系」はより複雑化、高度化していった。そこに「インド的発展の固有性」を認めることができる。

おわりに

 本稿では、ウェーバーがインド的社会発展の固有性をどのように捉えようとしていたのかという問題を検討したうえで、その延長上に、前植民地期の北・中央インド社会の構造を「ビルトの体系」という概念で捉える視点を提起した。そうすることによって、ウェーバーのインド社会論を発展的に継承することができると思うからである。

 しかし、「ビルトの体系」論には一つ問題が残されている。「ビルトの体系」ははたしてインド亜大陸全体に認められるものなのであろうか。例えば、拙著『インドの中世社会』(岩波書店、1989年)では、前植民地期デカン(マハーラーシュトラ地方)の社会を「ワタン体制社会」という概念で捉えている。この「ワタン体制」と「ビルトの体系」との違いは、「ワタン体制」がザミーンダール的な土地レンテ収取者を含まず、在地の共同体―地域共同体と村落共同体―構成員のみからなる社会体制であるという点に存する。それは、ワタンが、基本的には、在地の共同体的「職」に関わるもので、土地レンテ収取権を含まないからである。その点で、「ワタン体制」は「ビルトの体系」の一部分ということになる。こういったことをインド亜大陸の他の地域についても検討することが必要である。ただし、南インドのタミル地方に関する水島司の研究や、ベンガル湾に面したオリッサ地方に関する田辺明生の研究など、「ビルトの体系」に類似した社会関係を析出した歴史研究がすでに出されているので、他の諸地域に関しても同様の成果が期待される。(注19)

1 カール・マルクス(1818-83年)やヘンリー・メイン(1822-88年)など、19世紀西欧思想家たちのアジア論とウェーバーのアジア論との間の本質的な違いについては、拙稿「ウェーバーの比較社会学と歴史研究」『現代思想』35巻15号(2007年11月臨時増刊)、46-49頁、参照。

2 Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Die Wirtschaftsethik der Weltreligionen II, Hinduismus und Buddhismus, Tübingen: J.C.B. Mohr, 1921, p. 4. 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教 世界諸宗教の経済倫理Ⅱ』東洋経済新報社、2002年、4頁。

3 Wirtschaftsgeschichte, Abriß der universalen Sozial- und Wirtschaftsgeschichte, 3. Aufl., Berlin: Duncker & Humblot, 1958 (1. Aufl., München: Duncker & Humblot, 1923).

4 深沢宏訳『ヒンドゥー教と仏教』では、Landrente (Rente)が「地代」、Landrentnerが「地代徴収者」と訳されているが、「土地レンテ(レンテ)」、「土地レンテ収取者」と改訳した。その他にも改訳した部分がある。

5 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論』では、Rentenempfängernが「年貢収納者」と訳されているが、「レンテ収取者」と改訳した。それに関連して、その他にも改訳した部分がある。

6 Baden H. Baden-Powell, The Land-Systems of British India, 3 vols., Oxford: Clarendon Press, 1892. 

7 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, 2nd revised ed., New Delhi: Oxford University Press, 1999 (original ed., Bombay: Asia Publishing House, 1963), p. 183, n. 65. 

8 H.H. Wilson, A Glossary of Judicial and Revenue Terms and of useful Words occurring in official Documents relating to the Administration of the Government of British India, London: W.M.H. Allen & Co., 1855, pp. 88-89.

9 地域共同体には、首長(北インドではチョードゥリー、デカン地方ではデーシュムク、カルナータカ地方やグジャラート地方ではデサイー、などと呼ばれた)と書記(デーシュパーンデーなどと呼ばれた)が存在し、それぞれの地域共同体内部の紛争の解決や権利関係の確認のために、地域共同体集会を開くなどの職務を果たしていた。また、各カースト集団は地域共同体ごとに第一次的集団を形成し、各地域共同体には各カーストの頭(メータルなどと称された)が存在した。村落共同体はこのようなものとしての地域共同体に支えられて存続することができたのである。地域共同体、村落共同体について詳しくは、拙著『インドの中世社会――村・カースト・領主』(岩波書店、1989年)を参照。

10 Irfan Habib, The Agrarian System of Mughal India, 1556-1707, p. 187.

11 ibid., pp. 161, 164.

12 Wirtschaftsgeschichte, p. 37. 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論(上巻)』、92頁。

13 原文は以下の通り。

(C) Jajmani.――Many castes from the Brahman downwards have the practice expressed in the word jajmani(1). Literally the word jajman means ‘he who gives sacrifice’ i.e. the person who employs a priest to carry out a sacrifice for him and of course provides him with the means for doing so; but it is now extended to include a client of any kind. The jajmans of a Brahman purohit, or house priest, are his parishioners, whose domestic rites at birth, initiation, and marriage it is his duty to superintend. In the same way, Chamars, Doms, Dafalis, Bhats, Nais, Bhangis, Barhais, Lohars all have their jajmani or circle of clients, from whom they receive fixed dues in return from regular service. The clientele is hereditary, passing from father to son. The Chamar’s jajmans are those from whom he receives dead cattle and to whom he supplies leather and shoes: whilst his wife has likewise a clientele of her own for whom she acts as midwife and performs various menial services at marriages and festivals. The Dom’s jajmani consists of a begging beat, in which he alone is allowed to beg or steal; the Dafali also possesses a begging beat; and besides begging he has to exorcise evil spirits and drive away the effects of evil eye. The Nai has a clientele whom he shaves and for whom he acts as matchmaker and performer of minor surgical operations (drawing teeth, setting bones, lancing boils, and so on): whilst his wife is the hereditary monthly nurse. Barhais and Lohars in villages have their circles of constituents whose ploughs, harrows and other agricultural implements they make or mend; Bhangis serve a certain number of houses, and Bhats(2) of the Jaga sub-caste act as perambulating genealogists for their clients, visiting them every two or three years and bringing the family tree up to date. These circles of constituents are valuable sources of income, heritable and transferable (the Dom’s begging beat and the Bhangi’s jajmani are often given as a dowry): and as such they are strictly demarcated and to poach on a fellow casteman’s preserve is an action which is bitterly resented. In many castes one of the panchayat’s chief duties is to deal with offences of this kind. Dom would not hesitate to hand over to the police a strange Dom who stole within his ‘jurisdiction’.(3)

(1) A synonym is brit or birt. Brit Nai, brit Bhangi, &c., &c., are common entries in the occupation column and may be best translated by ‘caste dues’. Jajmani is also so used, but generally it is reserved for the Brahmanical dues and probably includes not only the dues connected with purohiti, but those vaguer sources of income, such as presents and food received by all sorts of Brahmans at feasts of every kind.

(2) ……

(3)  It may be asked what happens if a client refuses to utilize the services of the particular Dom or Bhangi or Barhai to whom he is assigned. In all probability he would be boycotted and nobody would work for him. ……

14 E.A.H. Blunt, The Caste System of Northern India, reprint ed., Delhi: Isha Books, 2010 (original ed., London: Humphrey Milford, 1931), p. 260.

15 W.H. Wiser, The Hindu Jajmani System, A Socio-Economic System interrelating Members of a Hindu Village Community in Services, 3rd ed., New Delhi: Munshiram Manoharlal, 1988 (original ed., Lucknow: Lucknow Publishing House, 1936).

16 ibid., pp. xx-xxi.

17 ibid., pp. xix-xx.

18 ibid., p. xix.

19 水島司『前近代南インドの社会構造と社会空間』東京大学出版会、2008年。田辺明生『カーストと平等性―インド社会の歴史人類学』東京大学出版会、2010年。

(「世界史の眼」No.38)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(3)
南塚信吾

3. 箕作麟祥『万国新史』 1871年(明治4年)―77年(明治10年)

 これは箕作麟祥(みつくりあきよし)が明治4年から10年までかけて出した大作であった。フランス革命から普仏戦争あたりまでの「現代世界史」を「同時代史」的に描いたものである。各国史の寄せ集めではない。しかもこの本は、これは何らかの本の翻訳ではなくて、いくつもの本を消化して著者がまとめたものであった。明治期に出た「万国史」の中では出色の力作であった。

 箕作が参考にした本は、鱗祥の「凡例」によれば、チャンブル氏の「モデルンヒストリー」、ヒューム氏の「ヒストリーオフイングランド」、ヂュルイ氏の「イストワールドフランス」、ヂュタードレイ氏の「イストワールコンタポレーン」を中心に、「群書」を参照したとある。基本的にはチェンバースの『現代史』(W. & R. Chambers, Modern History, London 1856)の第三部に依拠していた。

***

 『萬國新史』の全体構成を見てみると、それは3編に分かたれている。

 上編は、

第一回―第十回 1789年から1814年まで

「仏蘭西大変革の原由」、「仏蘭西大変革記」、「仏蘭西共和政治の記」、

「仏蘭西帝国記」

第十一回 「ウィーン大議会」

第十二回 1815年のワーテルロー大戦

第十三回 英吉利、

第十四回 日耳曼(ゲルマン)(附 墺太利)

第十五回 魯西亜(ロシア)(附 波蘭)

第十六回 米利加連邦

 中編は、

第一回―第二回 「欧州復旧」

第三回―第四回 「人民と神聖会盟と相抗敵するの記」

第五回「欧州各国人民自由進歩の記」

第六回―九回 1830年仏国大変革とその後の欧州各国形勢

第十回「亜細亜に於て英魯の両国相競ふの記」

第十一回「土耳古、埃及(エジプト)戦闘の記」

第十二回―第十七回 「1848年仏国大変革の原因」、1848年仏国大変革及び共和政治、1848年大変革以後の仏国形勢と、1848年欧州各国騒乱の事情

第十八回「哥里米(クリミア)乱原因の記」

 下編は、

第一回 クリミアの乱

第二回「印度叙跛(セポイ)兵の乱」

第三回 以太利独立の戦

第四回 支那戦争の記(附 太平王の乱)

第五回 米利堅(アメリカ)、魯西亜、英国

第八回 墨是哥(メキシコ)及び南亜米利加各国

第九回―第十回 西班牙、日耳曼と墺孛(普)両国の戦

第十一回―第十三回 仏国輓近の大勢と普仏戦争

***

 こういう構成からも『萬國新史』の特徴は少し見えてくるが、改めてその特徴を探ってみよう。 

 第一に、『萬國新史』は、フランス革命から普仏戦争の時期までを扱った、当時で言えば「現代世界史」である。ほとんど麟祥の生きていた同時代を扱ったにもかかわらず、世界諸地域の歴史に対する深くて正確な知識と洞察は目を見張るものがある。

 第二に、それは「同時代史」である。ここで「同時代史」というのは、生きているわれわれと同じ時代という意味ではなく、輪切りの同時代という意味である。フランス革命の時代、1848年革命の時代、クリミア戦争の時代、「セポイ」と「太平王」の時代などを区別しつつ「同時代史」を述べている。つまり、この時期の歴史を、ナショナル・ヒストリーで割らないで、ヨーロッパ大陸全体、世界全体の動きとしてとらえている。そのような方式の中で、この「万国史」は、視野をヨーロッパに限らず、アジアやその他非ヨーロッパに対して広く伸ばし、それらにヨーロッパに劣らない位置を与えている。ヨーロッパ、アメリカ、ラテンアメリカ、アジア、一部のアフリカなどをボーダーレスに自由に動いて、歴史を描いている。この時期はまだ日本史、東洋史、西洋史という区分がないので、こういう具合に「自由」に世界史を見ることができたのである。その際、かれは諸国、諸地域の歴史をなんらかの「関係」において捉えつつ、同時代史的・関係史的世界史を描いている。

 第三に、それは、ペルシアから中央アジア、アフガニスタン、インド、そして中国までについて、詳細で正確な「事実」を基礎に論じている。とくに、中央アジアについては、英露の対立関係のなかで、現地の諸勢力の錯綜する関係を見事に描いている。日本では、この箕作の書以後、忘れ去られていくことになる中央アジアの歴史が、今日再度関心を集めているわけである。ちなみに、これ以外では、ラテンアメリカについては詳しく述べる一方、アフリカはエジプトあたりまでで終わっているし、箕作がフランス語も解したにもかかわらず、フランス圏の東南アジアは扱われていないのは、不思議である。おそらく依拠した書物のせいであろう。

 最後に、本書は、当然ながら、当時の麟祥の歴史的制約も受けている。民権主義者としての麟祥は、人民の「自由」こそ強調しているが、人民の願いを受け止めて指導する「賢明なる国王」を目指すべき理想であるという立場のようである。人民の「自由」への動きは各所に押さえながら、人民が「衆愚」にいたることを恐れ、むしろ「賢明なる君主」という視点から歴史を見ているわけである。

***

 さて、ヨーロッパの東部については、どういう記述をしているのかとみると、これまでの「万国史」とは全く違う扱いをしていることが分かる。

 1848年革命(騒乱)が詳細に論じられているので、それを素材にしてみよう。それは1846年のポーランド人のガリツィア蜂起を伏線として置くところから始まり、48年革命を同時代的に分析した力作になっている。1846年のクラクフ「共和政治」、その崩壊後も続くポーランド人の「自由」への「恢復の念」、ついでスイスにおける「守旧党」と「改革党」の乱などを前史としたうえで、1848年を論じている。1848年革命の時代の描き方を見てみよう。かれはこれをこういう順番で描いている。フランスについで人民が蜂起したのはオーストリアのウィーンの人民であるとして、1848年3月から10月までのウィーン府民の騒擾とメッテルニヒの追放、オーストリアの管轄下にあったイタリアの人民の動乱(3月―7月)、このイタリア人の動きを聞いて同じくオーストリアの管轄下にあったボヘミアで6月に開かれたスラヴ人種の公会、そして、オーストリアの管轄に不平を懐いていたハンガリー人の3月騒擾から、9月からのオーストリアとの戦争が述べられる。さらにドイツの3月革命から5月開催のフランクフルトの「列国人民代理者」の大議院での議論が述べられた後、6月のワラキア、モルドヴァ(ルーマニア)での騒乱、そしてイタリアの1849年3-8月の対オーストリア戦争、ハンガリーの1848年10 月から1849年8月までの独立戦争をもって終わっている。これは、各地での「人民自由」を求める民衆蜂起や政治変動を相互に「関係」させながら、それらが波及していく(つまり「連動」していく)順に述べられているわけで、この時期の歴史を、国民史で割らないで、大陸全体の動きとしてとらえているのである。当然諸国民の歴史は諸国との「関係」の中で位置付けられている。

 個々の東欧の「人民」の様子を箕作はどのように見ていたのであろうか。 

 チェック人は、かつて不羈自立の国を持っていたが、いまはスラヴ人種として、ガリツィア、イリリア、スチリア、ダルマチアなどと「大連邦」と組むことを謀り、6月2日にプラハで「公会」を開いた。ボヘミアの人民はオーストリアからの独立は望んでおらず、ボヘミアではドイツ人が少ないのにその権力はスラヴ人より大きいという制度を正したいと願っていた。しかし、会の参加者の一部は、オーストリアに叛く事を考えて「人民」を扇動し、6月12日にプラハの「府民」に「乱」を起こさせた。これは、6月14日、ウィーンヂスグラッツの軍に敗れ、これにより「公会」も解散したと述べている。このように、箕作は「オーストロ・スラヴ主義」に注目していたわけである。

 オーストリアに対する反乱として、ハンガリーが出てくる。ハンガリーもボヘミアと同じくかつては独立の国であったが、オーストリアに支配されて人民はその「苛政」に苦しんでいた。フランスの報を聞いて、3月15日にその国民はウィーンに数名を派遣して、「内閣」の設置を求めた。皇帝は人民を抑圧しがたいとみてこれを許し、バチアニを内閣の長とした。多くの国民はこれで満足したが、しかし、コシュットはそうではなかった。ハンガリーはオーストリアからの独立を図る際、トランシルヴァニア、クロアチアのワラツク人種(=ヴラフのこと)とスラヴ人種をその支配下に置こうとしたが、それら「人種」の「意を失ひし」。これを見てオーストリアは、この二つの「人種」を用いてハンガリー人に敵対させ、エルラキク(=イェラチチ)を利用して、攻撃させた。このような記述からは、コシュートらが同じくオーストリアに支配されていて共闘すべきスラヴ人の「意を失った」こと、オーストリアがかれらを利用したことが指摘されていることが分かる。

 ついで、フランスの「大騒乱の余波」は遠くダニューブ河に及び、ルーマニア「人種」も「国を立て」るべく「請願」を起こしたと記述している。そもそも、ルーマニア人はローマのダキア植民の末裔で、スラヴ人の「侵掠」を受けたが、とくにワラキアとモルダヴィアの二州に多数残った。かれらは「土耳古」人に「開明」の道を教えたほどで、二州はトルコ下で独自の政府を認められ、言語・制度も維持された。トルコは、この二州の政権をギリシア人に委任していたが、ロシアは1821年にウラジミレスコというルーマニア人を使って、ギリシアの支配から脱却させた。当時ギリシアがトルコに背いて兵をあげていた(=ギリシア独立戦争という用語はない)ので、トルコは二州の自立を認め、二州では「変革」の機が出てきた。だが、ロシアは二州に「権」をほしいままにしようとして、この変革を「妨阻」し、二州を自己の保護下においた。これに対して、二州においては、若者たちが欧州の自由の説を取り入れ、ビベスコ(大公ビベスク)なるものを先頭に改革を目指したが、そのようなおりに、フランスの48年の報が伝わると、6月、ワラキアの一部に騒乱が起き、それが全国に波及、3月23日にはブカレストでビベスコは憲法の約束をしたと述べられている。「万国史」のなかで初めてルーマニアについて、ほぼ正確な記述が現れたわけであるが、それだけでなく、ハンガリー人やロシアやトルコ(=オスマン)との間で苦労するルーマニア人の位置がよく示されている。フランスに留学していた鱗祥は、当時のフランスの文献の影響も受けて、ルーマニアについても記述しているわけであろう。

 ルーマニアの蜂起ののち同じくラテン系のイタリアの蜂起が述べられ、それについでふたたびハンガリーの乱が述べられる。イタリアの蜂起が押さえられたあと、ハンガリーだけが、人民が独立を求めて皇帝の命に従わず、コシュットに従って、オーストリア軍とたたかった。ハンガリー軍は、ヴィンヂスグラッツとエルラキクに敗れて、1849年1月には政府をデブレツエンに移した。ここでハンガリーの人民は貴賤の別なく兵に応じて、勢いを回復した。そして4月の末にはペシュトを奪回し、ウィーンまでも襲う気配が出てきた。ここにフランツ=ヨーゼフはロシアの援軍を求め、8月12日にウィラゴスの戦いでハンガリー軍を破った。皇帝は敗戦後のハンガリーに徹底した弾圧で臨み、「立憲党」の首魁であったバチャニを、当時最も人民に敬愛されていたにもかかわらず、銃殺した。

 ここに1848年革命は終焉したのである。1848年革命をイタリアとハンガリーの革命の終焉で締めくくるのは、箕作の慧眼である。

***

 いろいろと不正確なところはあるが、事実に基づいた東欧の歴史になっていた。そしてすでにヨーロッパの東の部分への歴史的視野は驚くほど広がっていたことが確認できよう。これまでのポーランド、ハンガリー、ギリシアだけでなく、ボヘミアやワラキアなども現れるのである。寺内の『五洲紀事』とは比べ物にならないくらいに、正確な認識になっている。また、歴史をみる基準としては、自由、立憲、独立という価値が柱になっていて、これを賢明なる君主が、「人民」の動向を取り入れつつ、いかに実現できるかというところに置かれていた。だから、かれは「暴徒」「激派」や「ソシアリスト」には批判的である。そして、諸民族の歴史も他の民族の歴史との「関係」で扱われている。国民史の並列ではないのである。しかし、これらの特徴はその後、順調には継承されなかった。

(「世界史の眼」No.38)

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