今号では、明治大学の山田朗さんに、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)を書評していただいています。
また、南塚信吾さんによる「江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃」を掲載しました。(※11月5日)
山田朗
書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。
今号では、明治大学の山田朗さんに、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)を書評していただいています。
また、南塚信吾さんによる「江戸後期の対外認識―「ハンベンゴロー事件」の衝撃」を掲載しました。(※11月5日)
山田朗
書評:林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)
林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。
江戸後期の日本における対外認識において、「ハンベンゴロー事件」は一つの大きな画期であろう。
ピョートル一世(1672-1725年)のロシアは、1707年にカムチャツカを占領し、その後千島列島に進出していた。そして、1756年(宝暦6年)には厚岸において松前藩士が初めてロシア船を目撃した。これが日露の最初の接触である。1760年代にはロシアの千島進出は毛皮を求めて強化され、1768年(明和5年)にロシア人がエトロフ島を占拠してからは、ロシア船が蝦夷本島にやってきて、かれらのもたらす品々が大坂市場で公然と販売されていたと言われる。当然、北前船がこれを運んだわけである(佐藤編 1972 28-29頁;木崎 1991 2-41頁)。
このようなロシア人の北方での動きは、「ハンベンゴロー」事件によって明らかとなり、それは、江戸時代の外国の事情についての関心を著しく高めたのであった。
1771年(明和8年)、「ハンベンゴロー」つまりベニョフスキー・モーリッツ(1741-1786年)という人物が、土佐へ漂着し、出島のオランダ人への手紙で、ロシアの南下の脅威を指摘した。ベニョフスキーは、当時のハプスブルク帝国のなかのハンガリー王国の北部(現在のスロヴァキア)に生まれた貴族で、ポーランド系であった。1768-69年の露ポ戦争に参加し、捕虜となった。その後、シベリア、カムチャツカに流されるが、1771年、仲間60人ほどを募ってロシアの船を奪い、カムチャツカから逃亡し、日本を経由して本国へ帰国しようとした(メキシコのアカプルコへ行きたかったのだとも言われる)。かれらは日本列島を南下して、土佐の佐喜浜、阿波の日和佐、そして奄美大島の出須浜に寄港し、薪水の提供を受けた。ベニョフスキーは、この際に長崎出島のオランダ人経由で、ロシアの南下情報を幕府に差し出したのであった(水口他編訳1960 2-14頁;木崎 1991 42-43頁)。
ベニョフスキー・モーリツBenyovszky Móric; Móric Beňovský(1741-1786年)は、その後、奄美大島にも立ち寄って、マカオへ着いて、ここで仲間と別れて、フランス船を捜して乗船、1772年にフランスへ帰った。そして国王に請願して1776年にマダガスカルへ行き「王」を称し、79年にはアメリカ独立戦争に参加し、85年には再びマダガスカルへ行って現地人と共にフランス軍と戦い、戦闘中に死亡した。
この「ハンベンゴロー事件」のあと、わが国では対外危機が意識され、北方事情への関心が高まった。仙台藩の藩医で経世論家であった工藤平助(1734-1801年)の『赤蝦夷風説考』1783年(天明3年)は、こう論じていた。
「赤蝦夷」つまり「カムサスカ」の人々(ヲロシア人)は千島と言われる島々を通って蝦夷に来て交易をしていたが、1771年に「赤蝦夷」から来た船が漂流して、奥州、上総、阿波に来て、「マウリツ・アラダル・ハン・ベンゴロ」という「商人」(=これは間違い)が長崎にいるオランダ人あてに書簡を送った。「ハン・ベンゴロ」はオランダの同類の「ドイチ(ドイツ)」国の人で、わが国の地勢を調査しようとしてきた者のようである。書簡は、阿波にて殿様のお恵みで命を救われたので、そのお礼をしたためたものであった。こう述べた工藤は、赤蝦夷の本国はヲロシアで、ヲロシアは日本に金銀が多く産するので、日本と交易をしたがっているのだと考えていた(佐藤編 1972 29-33、392-395頁)。こうして工藤は、幕府に対して貿易の許可と蝦夷地の開発を訴えていたのである。
やや遅れて、時の経世家、林子平(1738-1793年)も、『海国兵談』(1787-91年)において、ベニョフスキーの到来を挙げて、幕府の北方政策に警告を発っしていた。
「近頃、欧羅巴のムスカウビア其勢ひ無変にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、・・・東の限りカムシカツトカ(カムチャツカ)迄押領したり。然るにカムシカツトカより東には此上、取べき国土なし。此故に又西に顧みて蝦夷国の東なる、千嶌を手に入るべき機ありと聞及べり。既に明和辛卯の年(1771年)、ムスカウビアよりカムシカツトカに遣し置る豪傑、バロンマオリツツ・アラダルハン・ベンゴロウといふ者、カムシカツトカより船を廃して、日本に押渡り港々に下縄(さげなわ)して、其深さを計りながら、日本を過半、乗廻したることあり。就中土佐の国に於ては、日本国に在合、阿蘭陀人にと認し書を遣置きたる事もある也」(林 1944 9頁)。
林子平もベニョフスキーは日本を「取る」ために地勢の調査のために来たのだと考えていた。そして、工藤と同じく蝦夷地の開発を主張したのだった(佐藤編 1972 34頁)。
新井白石などに薫陶を受けた本多利明は、東北や蝦夷の視察をしたりしていたが、しばらくのちの1798年(寛政10年)に出した『経世秘策』にこう書いていた。
「ハロンモリツアラタールハンベンゴローという者あり。此の者欧羅巴洲の者なるが、其嚮(そのさき)モスコビヤと挑合(=交戦)せしが、敗北して将卒五十余人擒(とりこ)となりて、後助命を蒙りて日本之東蝦夷カムサスカヘ流罪となり、・・・時節を待居てモスコビアの官船を盗取りて、本国欧羅巴へ遁到らんとて、日本之東洋を渉途(しょうと)之節、阿州(=阿波)に碇宿(=寄港)して薪水を乞求めたり。又国主の慈悲を願ひたるに因(より)て、玄米数百俵の賑恤(しんじゅつ)を給りたり。それより阿州を開帆(かいはん)して後、再び日本に船を寄せ、薩州の大島に碇宿せり。再び日本の地に船をよせたるは、阿州に於て恩恵を蒙りたるに感じ、日本へ寸忠を立てん意にて、今既にモスコビアの帝陰謀ある旨を認(したため)、横文字の注進状を呈したり」(塚谷他校注 1970 46頁)。
モーリッツ・アラダール・ベニョフスキーが、ロシアと戦って敗れ、カムチャツカに流刑になったが、ロシアの軍艦を盗んで、ヨーロッパに帰る途中、日本の薩州に寄港して、ロシアが日本を狙って「陰謀」を図っていることを、長崎の和蘭カピタンを通して注進したというのである。ここで話は、ベニョフスキーの来た目的がたんなる地勢調査ではなくなった。
『経世秘策』はさらに、モスコビアから、これまで10年ばかりの間に、いろいろな人がエトロフ、クナシリに徘徊したり、漂着したりしていると述べ、ハンベゴローの注進はでたらめではなく、モスコビアは蝦夷の島々を「開業」しようとしているのであり、わが国もこれらの島々を開業しなければ、これらはモスコビアに服することになると警告した(塚谷他校注 1970 49-50頁)。
同じく1798年(寛政10年)に出た本多利明の『西域物語』もベニョフスキーの到来をあげ、ベニョフスキーがロシアの南下を警告していると述べていた。しかし、『西域物語』は、もっと広い世界を見ていた。それは「西域」つまり「西洋」の歴史と現状を日本と対比しつつ述べたもので、ある意味で「世界史」なのであった。
「我邦の人、西域のさる事も弁え」ていないと始まる。つまり、日本は中国の書籍を鵜呑みにしているから、西洋のことを知らないという。そしてこう論じていく。欧羅巴州にはトルコ、ロシア、イタリア、ホロシア(ポーランド)、ゼルマニア、フランス、イスパニア、アンゲリア、フランスなどがあり、みな国外に属国を多く持ち、「大豊饒にして剛国」である。そして、エゲプテ(エジプト)から人道が発起して、各地に広がった。支那、日本へは大いに遅く届いたのだ。欧羅巴諸国の治道は、武を用いて治めるのではなく、「只徳を用いて治るのみ」である。だが、「欧羅巴隆(さかん)の国々は、本国は小国なるもあれど、属国多くある国を指て大国という」。例えばエゲレス国はそうだ。モスコビアもそういう属国を求めて日本の北へきている。
そういう中で、1771年(明和8年)にハロンモリツアラタールハン-ベンゴローというものがやってきた。そして、注進状を呈した。その趣意は、「今モスコビヤより日本の東蝦夷の諸島を侵(おか)し掠めん萌しあり。今の内用心ありて、彼の島々へ船を出し、守護あらば無難なるべき」というものであった。そこで本多が言うには、「今按ずるに、ハンベンゴロトが注進・教示の如くあらば、カムサスカより南洋20余島も無難にあり。」これらの島々は、「日本に自然と属し従ふべき」島々なのであった。
本多はこのような世界認識に立って、「大日本国の国号をカムサスカの土地に移し」、カムサスカの地を大良国(素晴らしく豊かな国)とするべきであると説いた。カムサスカはオランダのアムステルダムと同じ緯度にあり、オランダのように属国を集めて繁栄できるのだというのであった(塚谷他校注 1970 88-162頁)。
これはそれまでのように蝦夷地の開発や貿易を提言する以上のものであった。世界の趨勢に乗り遅れるなというわけである。18世紀の末には、日本の知識人の間にこういう認識ができつつあったのである。
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
木村英明「スロヴァキア出身の冒険児モーリツ・ベニョフスキー:鎖国日本の平安をざわめかせた異国船」長與進・神原ゆうこ編著『スロヴァキアを知るために64章』明石書店 2023年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
塚谷晃弘・蔵並省自校注『本多利明・海保青陵 日本思想体系44』岩波書店 1970年
林子平述 村岡典嗣校訂『海国兵談』岩波文庫 1944年(初版1939年)
水口志計夫・沼田次郎編訳『ベニョフスキー航海史』平凡社 1960年
*ベニョフスキーの航海や冒険については、世界中で多数の研究や論評が出ている。本稿は、日本での受け止められ方についてのみ考えたものである。
(「世界史の眼」No.68)
2025年10月10日、石破茂首相(当時)は、「戦後 80 年に寄せて」と題する「内閣総理大臣所感」を発表した。この日は、81年前(1944年)、米空母機動部隊の艦載機によって沖縄本島をはじめとする南西諸島が大規模な空襲を受けたいわゆる「十・十空襲」の日である。この空襲は、無差別爆撃となって那覇市は旧首里城を含む約90%が焼失、沖縄本島だけで軍人・軍属218名、陸軍人夫120名、民間人330名が犠牲になり、その他に船舶の被害で民間人約600人が死亡したとされている。当時の日本政府(小磯國昭内閣)は、この無差別攻撃に、中立国スペインを介してアメリカ合衆国政府に対して、国際法に違反するものだとの抗議を行なっている(合衆国政府は無回答)。もっとも、「石破所感」は、「十・十空襲」やこの無差別攻撃という歴史を意識して、この日を選んで発表されたものとは思われない。
それどころか、この「所感」は、戦前日本の植民地支配や侵略戦争については一言も言及せず、「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。」といった、いわゆる「おかげ論」(戦後の平和と繁栄は犠牲者のおかげだとするもの)を展開している。だが、現実には、日本人犠牲者の前に、アジアにおける2000万人を超えるとされる膨大な犠牲者が存在し、日本軍将兵の犠牲も半分以上は餓死・病死であり、日本人犠牲者310万人の約90%は、戦争の勝敗が決した後の最後の1年間に生じたもの(吉田裕『続・日本軍兵士』中公新書、2025年)であることを考えると、犠牲者の「おかげ」で戦後の平和と繁栄があるとする議論は、大きな欺瞞を含んでいる。戦争の犠牲者を日本人(植民地支配下にあった人々を含む)に限定してみても、軍人・民間人の膨大な犠牲は降伏を許さない、捕虜になることを許さない日本軍というシステム、それを支えた政府や日本社会のあり方によって死ぬことを強いられた、いわばそのような制度的な束縛によって殺されたものである。
降伏を許さない、捕虜になることを許さないというシステムは軍人だけでなく、民間人にも強制され、本来であれば助かる命がむざむざと失われた。そのことをはっきりと示すのが沖縄戦である。沖縄戦に関する本は、数多くあるが、林博史『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年)ほど沖縄戦の実態を深く、かつ広がりをもって叙述している本は他に例を見ない(なお、前述した「十・十空襲」に際しての日本側の抗議、米側無回答の件も、本書156〜157頁に記述されている)。
『沖縄戦:なぜ20万人が犠牲になったのか』の章立ては以下のとおりである。長いスペースを取るにもかかわらず、章・節だけでなく、項まですべて示したのは、本書の構成から本書の叙述の時間的・空間的広がり(隙のなさ)を見ていただきたいからである。
序 なぜ今、沖縄戦か
第一章 沖縄戦への道
1 沖縄の近代—同化・差別と反発
琉球王国から沖縄県へ
同化と差別・貧困への反発
2 中国やアジア太平洋への侵略戦争と沖縄
中国での沖縄出身兵士たちの体験
沖縄の外に送られた労働力と「南進論」
3 なぜ沖縄が戦場になったのか
沖縄への日本軍の配備と飛行場建設 地上戦闘部隊の増強
本土防衛の捨て石としての沖縄
米軍はなぜ沖縄をねらったのか
第二章 戦争・戦場に動員されていく人々
1 沖縄の戦時体制
社会運動や思想の弾圧
行政・教育による戦時体制づくり
天皇・国家に命を捧げる国民づくり—皇民化政策
人々を動員していく地域社会
戦争を煽るマスメディア
徴兵を忌避する人たち
2 戦場動員態勢へ
軍のために動員される人々
徴用
食糧など物資の供出
日本軍将兵の横暴・非行
軍と県の対立
3 疎開—根こそぎ動員と表裏一体の政策
役に立たない者を疎開させる
県外疎開—一般疎開と学童疎開
県内疎開
宮古・八重山の疎開
4 軍と県による戦場動員
軍県一体で進められた「県民総武装」
軍人として召集された中学生—鉄血勤皇隊
一般住民を戦闘員に—義勇隊
第三章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
1 米軍最初の上陸—慶良間諸島
2 米軍の沖縄本島上陸 一九四五年四月
沖縄本島上陸
大本営と天皇の戦争指導
3 沖縄本島中部の激戦 一九四五年四月~五月
運命を分けた地域
斬り込みに駆り出される兵士たち
天皇・政府から見放された沖縄
時間稼ぎの南部撤退
住民スパイ視を煽った日本軍
4 沖縄本島北部の戦闘
広大な北部に配備されたわずかな国頭支隊
ゲリラ戦部隊の遊撃戦
軍官民一体のスパイ組織・住民監視
日本軍による住民虐殺
ハンセン病者の犠牲
米軍による住民虐殺
5 沖縄戦の終焉—本島南部 一九四五年六月
多くの民間人を道連れにした海軍部隊
組織戦闘の終焉
6 飢えとマラリアの宮古・八重山
宮古諸島
八重山諸島
戦犯裁判
7 離島の沖縄戦
沖縄本島周辺の島々
久米島・粟国島・渡名喜島
伊平屋島・伊是名島
大東諸島
奄美群島・トカラ列島
8 米軍の戦闘方法、心理戦、軍政と収容所
十・十空襲と米軍の攻撃方法
心理戦
軍政と収容所
「戦後」の出発
捕虜収容所
9 沖縄からの九州奄美への爆撃
第四章 戦場のなかの人々
1 日本兵たち
変化する日本軍
捕虜になることを許さない日本軍
人々の良心良識を抑圧する軍組織
2 日本軍による住民に対する残虐行為
日本軍による住民虐殺
日本軍によって死に追いやられた人々
スパイ視された障がい者たち
3 戦場に駆り出された人々
戦場動員された義勇隊員
本土決戦の先取りとしての沖縄戦
海の墓場に駆り出された漁船と漁民たち
4 「集団自決」
慶良間列島
沖縄本島中部
伊江島
沖縄以外
起きなかった地域・島々
なぜ「集団自決」が起きたのか
5 学徒隊
男子学徒隊
女子学徒隊
6 死を拒否した人々
生きることを選んだ民間人
投降を促した人たち
助かった人たち
7 防衛隊員
主力温存のための捨て石部隊
生きようとした防衛隊員
なぜ防衛隊員たちは「玉砕」を拒否したのか
沖縄出身兵たち
8 朝鮮人
軍夫
朝鮮人兵士たち
船舶の乗組員など
9 日本軍「慰安婦」と性暴力
日本軍「慰安婦」
日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性
米軍の性暴力
10 沖縄の外での戦争に参加した沖縄の人々
無謀な作戦の犠牲になった兵士たち—中国・大陸打通作戦
戦後も帰らなかった兵士たち
戦犯になった沖縄の人たち
11 移民した人たちの戦争
中国・「満州」
東南アジア
南洋諸島
南米
12 米軍兵士にとっての沖縄戦
戦争神経症の多く出た米軍兵士たち
沖縄にやってきた米軍部隊の戦歴
第五章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配
1 どれほどの人たちが亡くなったのか
戦没者数の推計
南部撤退・戦闘の長期化と北部疎開が増大させた犠牲
沖縄の外での戦没者
2 どうすれば犠牲をなくせたのか、減らせたのか
民間人を守る方法はなかったのか
沖縄戦は避けられなかったのか
3 加害と侵略の出撃基地—米軍基地
加害の出撃基地
沖縄/日本に集中する米軍基地
4 沖縄戦の戦後処理
遺骨収集と追悼
援護法の適用と歪められた沖縄戦像
不発弾
5 沖縄戦の認識・体験談・研究
沖縄戦叙述・研究の歩み
自衛隊の沖縄戦認識
おわりに
あとがき
参考文献
〔県市町村史・字史74点、一般文献146点、英語文献4点、林博史文献単著9点、林博史文献論文・史料紹介10点 合計243点〕
新書判、348頁 〔 〕内は山田による補足
書物の構成(目次)というものは、その著作の見取り図であり、どのようなパーツをどのように配置し、組み立てているのかを、端的に示すものである。もちろん、叙述そのものが大切であることは勿論だが、読者はこの見取り図を見ることで、その著作の意図や力点の置き方、著者の用意周到さを読み取ることができる。
本書の構成(目次)を見ると、沖縄戦という対象を歴史として、あるいは現代につながるものとして考える上で、必要な素材が過不足なく周到に盛り込まれていることがわかる。なぜ、このような周到な構成を作成できたのか。それは、著者がこれまでに沖縄戦に関して実に多角的に研究を蓄積してきたからである。参考文献欄と本書本文でわかるように著者は、『沖縄県史』(新県史)の編纂に深くかかわってきただけでなく、『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)、『沖縄戦:強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『沖縄戦が問うもの』(大月書店、2010年)、『暴力と差別としての米軍基地:基地形成史の共通性』(かもがわ出版、2014年)、『沖縄からの本土爆撃:米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館、2018年)などの沖縄・沖縄戦・沖縄の基地問題に深く切り込んだ仕事をしてきた。それに多くの人が知るように、著者は、日本軍の戦争犯罪・BC級戦犯裁判、日本軍「慰安婦」の問題においても特筆すべき成果をあげて来ており、大日本帝国・日本軍・戦争の矛盾の凝縮点とも言える沖縄戦について分析・執筆し、問題の所在を明らかにするのに、これほどうってつけの執筆者はいないだろう。
本書は、沖縄戦をテーマにした新書ではあるが、通常の新書のスペースには収まりきらない叙述を特徴としている。本書では、第1に時間的広がり、第2に地理的広がり、第3に社会的広がり、第4に戦争の加害と被害の関係性に十分配慮した叙述がなされている。
第1の時間的な広がりを十分に考慮した叙述という点では、第一章において時間的に琉球王国から説きおこし、近代日本に併合され、強権的な同化システムのもとでの差別と貧困、そして「南進」の拠点とされていくプロセス、日本の世界戦争への参戦によって沖縄が否応なく戦場にされていく流れが示される。そして、第三章1~5で沖縄戦の始まりから終焉までの経過が丁寧に追われ、さらに同章8・9で沖縄が本土空襲の基地として使用されたこと、第五章3・4で戦後も続く米軍による軍事支配と戦後処理問題が解説されている。つまり、沖縄戦を中心に据えながら、前近代から現在に至るまでの沖縄と沖縄の人々が置かれた立場を細大もらさず叙述している。いろいろな本を読まなくても、まずは本書1冊を読めば、歴史の大きな流れの中の近代沖縄史・沖縄戦・戦後沖縄史がわかるようになっている。
第2の地理的広がりという点では、大日本帝国が行った戦争がアジア・太平洋・インド洋に及ぶ広大な地域を舞台にしていることを前提として、沖縄戦を連合軍と日本軍の戦略の中で、東南アジア・中国戦線との関わりで捉え、日本本土と沖縄の関係性、そして沖縄本島だけでなく(「本島」中心主義に陥らず)、第二章3や第三章6・7など可能な限り先島諸島や周辺島嶼・離島にも目配りした叙述になっている。また、本書のサブタイトルにもある「なぜ20万人が犠牲になったのか」という点では、戦闘による様々な形態の直接的犠牲だけでなく、疎開・食糧不足・マラリアなどによる犠牲にも地域ごとに丹念にふれ、戦争の犠牲・被害というものが、直接に戦闘に巻き込まれなくても広範囲で起こることを示している。
第3の社会的広がりという点では、とりわけ第四章において沖縄戦にかかわった様々な階層の人々を丁寧に叙述し、非常に内容が充実している。沖縄戦における日本兵の戦い、沖縄の人々への差別意識と残虐行為、とりわけ投降しようとする兵士・一般住民を射殺したり、さまざまな場面で住民をスパイ視して虐待、殺害したりする日本兵の事例を数多く紹介している。また、「捨て石」部隊として戦場に投げ込まれた一般住民である防衛隊員・義勇隊員の実態、米軍に捕まったらどうせ殺されるのだからと説いて一般住民の女性まで手榴弾を持たせて「斬り込み」に参加させた日本軍、沖縄の一般住民にとって、米軍の「鉄の暴風」と日本軍の威圧・強要の板挟みの中で「集団自決」を強いられた状況が具体的に描かれる。一般住民の「集団自決」の多くは、軍人の命令や日本兵や官吏が語る中国戦線での体験談(捕虜は殺され、女性は性暴力の対象となる)に後押しされて生じている。
そして、本書の大きな特徴の一つだが、「集団自決」しなかった人々、「玉砕」を拒否した人々、兵士や住民に投降することを促した人々の存在を、それらの人々がそうした選択をした理由を含めて(移民体験者が多く、「鬼畜米英」の宣伝に疑問を持っていたことなど)丁寧に叙述している。これは、回想録などの文献調査だけでなく、沖縄で広範に実施されてきた聞き取り調査の成果が生かされているものだ。また、沖縄戦に多数が投入された朝鮮出身の軍人・軍属・労働者の存在、日本軍「慰安婦」のこともきちんと描かれている。
本書は、沖縄戦における加害と被害の関係性を、米軍による加害、日本兵・沖縄住民の被害という単純化された枠組みで捉えることを拒否している。むしろ、沖縄戦の特徴として日本軍・官吏による加害(軍と政府・県当局による軍民一体体制の構築、戦争批判者の排除)、沖縄住民の被害、さらには沖縄住民の中における加害と被害(沖縄出身日本兵も時には住民にとっては加害者であった)、日本人による加害と朝鮮人の被害、「慰安婦」の被害など、加害と被害の重層性・複層性を描き出している。また、単に一部の「悪い」日本兵が一般住民を酷使・虐待したという捉え方ではなく、国際的な規範から逸脱し、捕虜になれない日本軍という自縄自縛のシステムと、日中戦争における日本軍による残虐行為(捕虜や一般住民の殺害、略奪・性暴力)の裏返しとしての敵観念(米軍も同じことをやるに違いないという誤認知)が、日本軍兵士たちを住民抑圧の加害者にしていったという加害と被害の構造を明らかにしている。
本書は、著者による長年の沖縄戦研究、戦争の加害と被害についての研究の「まとめ」という役割を担っているものであろう。沖縄戦について考えたい、学びたい、あるいは戦争とはどのようなものであるか考えたい、学びたいと思う人には、ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。前述したように、本書は、これまでの著者自身の沖縄戦研究だけでなく、多岐にわたる沖縄研究・戦争研究に支えられたものであるので、戦争について、沖縄戦について、沖縄についてさらに深く学ぼうと思っている人にも、本書は格好の道案内、問題別のインデックスとなるであろう。
おそらく著者が、本書をこの時期に執筆、刊行したのは、2025年が「戦後80年」という節目にあたり、過去の戦争に関する振り返りが行われることを予期したからであろう。そして、長年にわたって沖縄そのものをウオッチしてきた著者は、沖縄の現在の姿に大きな危惧を抱いているからだと思う。かつて、「本土決戦」準備の「捨て石」とされて、20万人もの犠牲者を出した沖縄が、現在、日米安保体制のもとで軍備拡張と国際的な緊張の最前線となっている。「台湾有事」なるものが喧伝され、沖縄の島々にスタンド・オフ・ミサイルをはじめとする「抑止力」を担う部隊が配備されつつある。軍拡には軍拡で、軍事力の展開には軍事力の展開で対抗しようというパワーポリティクスそのものの動きが強まる中で、沖縄戦の歴史から世界と日本の政治が、世界と日本の市民が深く学んで教訓を汲み取って欲しい、そうしなければ、「20万人の犠牲」の存在を私たちは生かせないのではないか、そうした著者の思いが強く伝わってくる、実に読み応えのある一冊である。
(「世界史の眼」No.68)
2025年10月3日の『毎日新聞』デジタル版は、“「南京事件は捏造」と主張する参院議員 研究者が鳴らす警鐘とは”と題する記事を載せた。矢野大輝記者によるこの記事は、「今夏の参院選で、旧日本軍が1937年に中国・南京を占領後、捕虜や民間人を殺りくした南京事件(南京大虐殺)を「捏造(ねつぞう)」「フィクション」と主張する候補が当選した」ことを問題として取り上げたものである。
南京事件は、日中戦争で上海を攻略した旧日本軍が、中国国民党政府の首都・南京を陥落させた1937年12月~38年3月に、南京の都市部や農村部で中国兵捕虜や住民らを殺害し、強姦などを重ねた事件を指すが、これを「捏造」とする者が当選したというのである。
***
記事によれば、8月8日に「ユーチューブ」にアップされた教育研究者の藤岡信勝氏との対談で、参院選で初当選した参政党の初鹿野(はじかの)裕樹氏=神奈川選挙区=が「南京事件は捏造」だと主張し、隣に座った参政党の神谷宗幣代表も、南京事件は「もうすっかり日本軍の罪にされて」と付け加えたという。初鹿野氏は、南京事件で殺されたという人たちの「(遺)骨もどこにあるか分からないし、証拠だという写真も全部捏造。何も証拠もないような状況で、あったと断定するにはおかしいのではないか」と言ったという。実は、初鹿野氏はX(ツイッター)でもすでに6月18日に「南京大虐殺が本当にあったと信じている人がまだいるのかと思うと残念でならない」と投稿しているという。
初鹿野氏が南京事件を否定している根拠の一つが、南京市の人口である。上の「ユーチューブ」では、旧日本軍が侵攻した37年12月にそれは「20万人」で、2カ月後には「25万人に増えている」とし、「30万人も40万人も人が亡くなっていることはない」と主張している。さらに『毎日新聞』が初鹿野氏に送った質問状への回答では、この人口について、事件当時南京在住の外国人で組織した南京安全区国際委員会が作成した文書群「DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETY ZONE」(39年出版)を根拠として示したという。加えて、南京事件を否定している別の根拠として、写真も「南京事件の揺るぎない証拠として認定されたものはない」し、南京事件の目撃者や1次資料について「中立性のある第三者による有効なものがない」と回答したという。その上で、「歴史教科書のほぼすべてが南京事件があったという前提で書かれていることが問題と捉えている」と指摘したという。
記事は、日本保守党から比例代表で出馬し初当選した作家の百田尚樹氏も、南京事件について組織的、計画的な住民虐殺はなかったとしていることを、想起している。かれの著書『日本国紀』(2021年、文庫版)では「占領後に捕虜の殺害があったのは事実」で、「一部で日本兵による殺人事件や強姦(ごうかん)事件はあった」と認める一方、「民間人を大量虐殺した証拠はない」と主張している。その根拠の一つとして、同じく人口問題を取り上げて、「南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人」とし、「『30万人の大虐殺』が起きたという話がありますが、これはフィクションです」と記しているというのである。
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『毎日新聞』の記事は、このような主張に対する歴史家たちの批判をあげている。
まず、南京事件の研究者で現代史家の秦郁彦氏は、虐殺があったと裏付ける証拠写真の特定は難しいとしつつ「(証拠)写真がないからといって南京事件がなかったとはならない」と言う。その理由として、当時の旧日本軍の戦闘詳報や外務省東亜局長が日本軍の不法行為を日記に書きとめていたことを挙げ、初鹿野氏の主張について「根拠が乏しい。ある程度の規模の民間人の虐殺があったことは否定できない」と批判したという。
次に、同じく南京事件について研究する都留文科大学の笠原十九司(とくし)氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「人口」の根拠を、もっと実証的に「間違っている」と指摘しているという。
笠原氏によると、南京市内に「占領前に20万人」いたという資料はなく、南京市政府の調査では占領直前の人口は50万人だったと記載されている。笠原氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「20万人」という数字は、南京安全区国際委員会で委員長を務めたドイツ人がヒトラーに宛てた手紙の中に出てくるものだが、これは市内の安全区に避難すると見込まれた人数の推計で「南京市の人口ではない」という。笠原氏は、占領2カ月後に「25万人に増えている」という主張についても否定する。旧日本軍がその頃に中国軍の敗残兵を見つけ出す目的で実施した住民登録で南京城内の住民は、安全区に20万人、その他の地域に5万人いたことを示す資料はあるが、南京市の占領直前の人口が50万人だったことを考えると「増えた」とする根拠にはならないという。
なお、笠原氏は、その著書『南京事件』(岩波新書 1997年)において、南京事件を史実をもって跡付けており、外国人ジャーナリストや外国大使館員らが事件を報じていることも示している。さらに氏の『南京事件 新版』(岩波新書 2025年)は、関係者の証言をさらに加え、写真も載せ、そして南京事件の犠牲者の総数についてデータをもって証明している。
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最後に『毎日新聞』の記事は、被害者数については日中の研究者で開きがあるものの、事件そのものは日本政府も認めていると指摘する。外務省はホームページに「日本政府としては、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を掲載している。
また、日中両国政府による「日中歴史共同研究」の日本側の報告書(10年)には「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と記載されていて、死者数は、中国側の見解が「30万人以上」、日本側の研究では「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」としている。
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記事の中で、笠原氏は、世界各地で戦争が今も絶えず日本でも防衛費が増額していることに触れ、「南京大虐殺の基礎知識や日本の侵略戦争がいかに残酷で無謀だったかということを知らない世代も増えてきている。デマに流されず、事実を見つめてきちんと反省しないと、日本は戦争という同じ過ちを繰り返すことになる」と述べている。記事は、戦後80年を迎え戦争の記憶が薄らぐ中、歴史研究者は「史実を見つめないと、また同じ過ちを繰り返すことになる」と「良識の府」(参議院)の担い手に警鐘を鳴らしていると、指摘している。これは「良識の府」だけの問題ではないであろう。
(南塚信吾)
わたしたちが出した『世界史の中の「ガザ戦争」』(大月書店)を、先日、アメリカのピッツバーグ大学のパトリック・マニングに届けた。マニングは、この本に国際連合の改革についての論稿を載せてくれた歴史家で、アメリカの内外で「世界史」を先導していることで知られている。
この本をかれに送るについてはひと騒ぎがあった。9月に始め、日本からアメリカの彼に本を送ろうと郵便局へ行ったところ、この本は金額的にも本の目的としても問題ないはずであるが、いまトランプ関税の影響で通関業務が混乱していて、本がいつ着くか分からないし、無事に着くかも分からない、その場合には本は戻ってくるが、郵送料は帰ってこないと言われた。だから、1か月ぐらいは様子を見た方がいいというのであった。途方に暮れていたところ、たまたまわたしの息子が9月に末にワシントンへ仕事で行くというので、かれに本2冊を預けて、ワシントンで郵送してもらうことにした。それで無事にマニングに本が届いたのであった。
さて、本を受け取ったマニングから早速メールで本2冊の安着を知らせてきた。そして、こう書いてきた。
このように、マニングのメールからは、ガザへの関心を広めようという動きが細々と進められていること、そしてアメリカにおけるガザ問題が歴史家のあいだに竜巻を引き起こしていることを垣間見ることができるのである。
(南塚信吾)
今号では、先号より連載の小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」の(下)を掲載しています。今号にて完結です。また、東海大学の菅原未宇さんに、アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の書評をご寄稿いただきました。
小谷汪之
敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて
菅原未宇
書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。
はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、前号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、本号)
敗戦後の日本社会の風潮や日本人の言動に批判的な目を向けた知識人は渡辺以外にもたくさんいる。作家の高見順もその一人で、高見の『敗戦日記』(中公文庫、2005年)からは彼の苛立ちのようなものがよく伝わってくる。
1945年10月20日、高見は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「人権指令」(10月4日)にもとづいて釈放された「政治犯」・内野壮児の「出獄歓迎会」に出席するために、中央線の高円寺駅で下車、友人たちと待ち合わせて、内野の家に行った。一人早く退席して帰路についた高見は、戦争によって変わってしまった街並みのため道を間違えたが、何とか高円寺の駅にたどり着いた。
駅は薄暗かった。電球がないのだろう。
向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙がっている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混じっている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、嬌態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。
別の女の駅員が近づいてきた。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。
なんともいえない恥ずかしい風景だった。この浅間しい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、―南洋の無智な土着民以下の低さだ。
日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。(『敗戦日記』382~383頁)
アメリカ兵に「嬌態を示す」日本人の女たちやそれを取り巻いて喜んでいる日本人の男たちを見た高見のやりきれないような気持ちはよく分かるが、日本人の「文化的低さ」をいうために、どうして「南洋の無智な土着民」を引き合いに出したのであろうか。
高見の『敗戦日記』の中には、もう一カ所「南洋」が出てくる。それは映画「そよかぜ」(1945年10月11日公開)を見た感想を記した箇所である。
1945年10月24日、高見は一人の友人と「国民酒場」で一杯やろうと思って、銀座に出た。しかし、「切符」が取れなかったので入店することができなかった。それで、「全線座の前へ行って、不意に映画でも見ようかという気になった」。映画は「そよかぜ」という題であった。「そよかぜ」は、敗戦後初めて製作された日本映画で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの唄」で有名だが、知識人たちの間では、評判が悪かった。それで、「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」ということになったのである。見終わった高見はその感想を次のように書いている。
いや全くひどいものだった。レヴュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。
私は南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画を見て、南方植民地の文化の低さをまざまざと見せつけられた気がしたことを思い出した。軽蔑感よりも切ない悲哀が胸を締めつけたものだ。同じ黄色人種というところから来た切なさであった。(『敗戦日記』385頁)
「そよかぜ」を見て、「南方植民地」の「土着民の軽薄な音楽映画」と共通する愚劣さを感じ、そこから日本文化も「南方植民地」の文化と同程度の低さだと思ったというわけである。
高見は「南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画」を見たと書いているが、それは英領ビルマの首都だったラングーン(現、ミャンマーのヤンゴン)でのことである。
1941年11月、高見は陸軍報道班員として、「南」に派遣されることになった。12月2日、大阪港からサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)に向けて出発、12月8日には、船上のラジオ放送で日米開戦を知った。「折から香港の沖合いを航行中。一同厳粛な表情」と高見は書いている(「徴用生活」、『高見順日記 第一巻』勁草書房、1965年、所収、260頁)。高見らの一行は、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て、12月29日にはタイのバンコックに入った。バンコックからは英領ビルマ最南端のヴィクトリア・ポイント(現、ミャンマーのコータウン)に行く日本軍の参謀に随行した。その後、高見らはバンコックに戻り、そこから英領ビルマの首都ラングーンに進軍する部隊に同行したが、英領ビルマ軍に包囲され、ゴム園に逃げ込むという経験もした。1942年3月8日、日本軍はラングーンを占領し、軍政を布いた。高見のラングーンでの職務は主に映画の検閲で、高見はほとんど毎日のように多くの映画を見て、日本軍政に都合の悪いと思われる部分をカットするという作業を行っていた。ビルマ映画だけではなく、インド映画や日本映画も検閲の対象であった。
1942年9月1日の夜、「ヤンナイン・ヤンオウン」というビルマ映画を検閲した高見はその感想を次のように記している。
実にくだらない映画で、仕事ながら、腹立たしくなる(「徴用生活」384頁)。
残酷な場面を平気でうつしているのは、なにもこの映画だけのことではないが、ちょっとたまらない。
ビルマ人というのは、その民衆の大半はまだ未開の民なのだなと、そんなことを考えさせられるのだが、同時にビルマ人を、そういうところにとどめておいた英国の政策にも思いがおよぶ。
英国領の頃、ビルマは犯罪が多いので有名だった。そして英国当局は、犯罪を助長させるような(道徳的には、その頽廃を助長させるような)映画を平気で許していたのである。ビルマ人の向上というようなことは、統治上かえって有害として一向にかえりみなかったことがわかる。(「徴用生活」385~386頁)
敗戦後、映画「そよかぜ」を見た高見はラングーンでの体験を思い出し、日本人の文化程度も「南方」のビルマ人並みの低さだと感じたのである。
高見はもともとは「南」に「あこがれ」のようなものをもっていた。高見のオランダ領東インド(現在のインドネシア)旅行(1941年1~4月)の記録である「渡南遊記」には次のように書かれている。
南へ行きたいと思い出したのは、いつ頃だったろうか。私がまだ映画会社の東京発声の嘱託をやっていた時分、キャメラマンが南洋に行くという話を聞いて、一緒に行きたいといったのを覚えている。あれは昭和十二年[1937年]だったか、十三年だったか。[中略]
[連載小説]「如何なる星の下に」で一緒に仕事をはじめた[挿絵の]三雲[祥之助]君に、この私の南へのあこがれを話した。すると三雲君も行ってみようという。私は、外国の旅の経験者である三雲君と行を共にするのは心づよいと喜んだ。
南といっても、はっきり南のどこときまっているわけではなかった。すると三雲君が、安南[ベトナム]に知り合いがあるという。安南の王様の弟が絵の修業でパリへ行っていた頃、アトリエを貸してやったりして、知り合いだという。そこで二人で安南を訪ねようということになった。[中略]
するうち、仏印(註=フランス領印度支那、現在のヴェトナム[ベトナム])への進駐がはじまり、人々の眼がそこへ一斉にそそがれはじめ、ジャーナリストが行きだした。作家の仏印行を聞くようになった。そうすると、いやけがさしてきた。[中略]
いっそ、では蘭印[オランダ領東インド]に行こうということになった。[中略]
いざ行くとなって、あちこちに手づるを求めて紹介状を貰ったり何かすると、そのさきざきで、
「―あぶないですね」
「もうすこし待ってみたらどうです」
「一触即発の形勢ですからね―」
「とても空気が険悪で、ろくろく見物もできないらしいですよ」
そんなことを一斉にいわれた。
(「渡南遊記」、『高見順日記 第一巻』所収、56~57頁)
このように、高見は1937、38年頃には「南」に行きたいと思っていた。最初はベトナムに行くことを考えていたのだが、1940年9月、日本軍の「仏印進駐」が始まったので、ベトナム行きを断念して、オランダ領東インド(インドネシア)に行くことにした。
1941年1月27日、高見は三雲祥之助とともに、貨客船ジョホール丸で神戸港から出発した。2月4日には、パラオ諸島のコロール島に着き、コロール島や西隣のアラカベサン島の各地を見て回った。2月6日、コロール港を出て、セレベス島(スラウェシ島)のメナド(マナド)とマカッサルを経由、2月13日にジャワ島のスラバヤに到着した。スラバヤにはしばらく留まって、イスラム化したインドネシアの社会や文化を実見した。3月5日にはバリ島に行き、ヒンドゥー寺院やバリ舞踊などを見歩きながら、3月いっぱいまで滞在した。その後、ジャワ島に戻り、バタヴィア(ジャカルタ)、バンドン、ジョグジャカルタなどの町々やボロブドゥール寺院などを訪ねた。4月中旬、帰国の途に就き、ボルネオ島北岸のサンダカン(当時英領で、上陸禁止)、中国大陸のアモイ(厦門。当時ポルトガル領、上陸して見物)、台湾の高雄、基隆を経て、5月6日、神戸港に帰着した。
このオランダ領東インド(インドネシア)旅行の間、高見は知人たちに心配されたようなオランダ側からの妨害や嫌がらせに遭うことはなかったようであるが、情勢は確かに切迫していた。第二次世界大戦下の1940年5月14日、オランダ本国はドイツに降伏し、ロンドンに亡命政府が置かれていた。同年9月には、石油などの輸出をめぐって、日本とオランダ領東インド政庁との間で協議(第二次日蘭会商)が行われた。その結果、日本は1941年1月には、対日石油輸出の増量をオランダ側に認めさせた。高見らが帰国した後のことであるが、1942年3月1日には、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ領東インド政庁は降伏した。こうして、インドネシアは日本軍の軍政下に置かれたのである。
高見がオランダ領東インドを旅行していた時期はまさにこのような情勢の時であった。しかし、その割には、高見の「渡南遊記」からはそんな切羽詰まったようなものは感じられない。高見の「渡南遊記」は「南」に関する客観的な観察の記録といいうるようなものである。高見はオランダ領東インド滞在中も、「南」に関する英文の専門書などを広く読んでいた。だから、オランダ領東インド旅行時の高見にはステレオタイプ的な「南洋」イメージはなかったのだが、その約1年後のラングーンでの体験が高見の「南洋」観を固定的なものにしてしまったようである。
敗戦期の日記などを見ていると、欧米の進んだ文化の前に、程度の低い日本文化が敗北したという論調が目立つ。そこには、「文明―未開」という一本の階梯の上に、欧米と日本を置き、両者の間の開きに敗因を求めるという構図がうかがえる。その時、「未開」の底辺に置かれたのが「南洋」だったのである。『濹東綺譚』(1937年)などで知られる作家・永井荷風にもこういった発想が見られる。
〔1946 年〕四月廿八日日曜日晴、配給の煙草ますます粗惡となり今は殆喫するに堪えず、醬油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ、これ亡國の兆一歩一歩顯著となりしを知らしむるものならずや、現代の日本人は戰敗を口實となし事に勤るを好まず、改善進歩の何たるかを忘るゝに至れるなり、日本の社會は根柢より堕落腐敗しはじめしなり、今は既に救ふの道なければやがては比島人〔フィリピン人〕よりも猶一層下等なる人種となるなるべし、其原因は何ぞ、日本の文教は古今を通じて皆他國より借來りしものなるが爲なるべし、支那の儒學も西洋の文化も日本人は唯その皮相を學びしに過きず、遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり(永井荷風『斷腸亭日乗 六』岩波書店、1981年、136~137頁)。
煙草や味噌・醤油の味に対する不満から「亡國」に思い到る所などは荷風らしいといえばいえるのかもしれないが、ここに見られる日本文化の「借り物」性やそれに起因する日本社会の「堕落腐敗」の指摘は何も珍しいものではない。ただ、ここで永井が、日本人は「やがて比島人よりも猶一層下等なる人種」になってしまうだろうと、「比島人」(フィリピン人)を引き合いに出しているところにはやはりひっかかる。永井はフィリピンに行ったことはなかったのだが、文化の程度の低さというと、すぐにフィリピンを連想するという思考の回路を持っていたのである。その点では、永井も「戦後民主主義」期の多くの知識人たちと異なるところはなかったといえるであろう。
戦前、戦後を通して、日本にとって「文明」の先達は欧米であり、「未開」の底辺にあるのが「南洋」であった。敗戦を通しても、この「文明(欧米)―未開(南洋)」という思想的階梯には何の変化もなかった。しかし、敗戦によって、そこにおける日本の位置だけは変った。日本は「文明―未開」の階梯の上の方にいると思いこんでいたのだが、実はその階梯の低い位置、「南洋」に近い位置にいるのではないかという自意識が多くの知識人たちを捉えたのである。
このように、敗戦を優れた欧米文化の前における低級な日本文化の敗北と受け止めるのが「戦後知」であったとするならば、そこに生まれた「戦後民主主義」期の諸思想において、「南洋」が正当に取り扱われなかったのは不思議なことではない。「戦後民主主義」の諸思想は、「南洋」を「未開」の底辺にとどめ置くことによって、自己の後進性を自覚化し、それをバネとして日本社会の「近代化=民主化」を唱道するという構造をもつものだったからである。そして、「南洋」が「未開」の底辺に位置づけられている限り、ステレオタイプ的な「南洋の土人」像も無意識の底に生き続けることになる。大阪府警機動隊員の「土人」発言はそれが暴発的に表面に噴出したものといえるであろう。
このような戦後日本の思想構造の中で、多くの日本人の敗戦体験や植民地体験は真摯に反芻され、意味づけられることなく、記憶の底に隠蔽されることになった。その過程で、加害の記憶は忘れられ、被害の記憶だけが怨念となって、増殖していった。しかし、西洋中心主義的で、啓蒙主義的な「戦後民主主義」期の諸思想は、その「上から目線」のゆえに、このような大衆的怨念をすくいあげる能力を本質的に欠いていた。1970年代以降一挙に顕著となった「戦後民主主義」的諸思想の凋落、落飾は、この増殖された大衆的怨念の「逆襲」によって引き起こされたということもできるであろう。
それだけではない。このような敗戦の捉え方は、日本にとっての第二次世界大戦であった「アジア・太平洋戦争」における「太平洋の戦争」(対米・英戦)だけをクローズアップして、朝鮮支配や中国への侵略など「アジアの戦争」を切り捨てることにつながっている。天皇制軍国主義のアジア侵略そのことを丸ごと否定しようとする右翼的論調がはびこっている今日、「アジア・太平洋戦争」をその総体において捉えることが求められているのである。
(「世界史の眼」No.67)
本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。
第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。
第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。
第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。
第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。
第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。
第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。
第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。
第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。
以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。
ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。
もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。
(「世界史の眼」No.67)
今号から、小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」を連載します。また、南塚信吾さんに、連載中の「北前船・長者丸の漂流 その4」をご寄稿頂きました。今号で完結です。
小谷汪之
敗戦と「南洋」(上)―「土人」という言葉に触発されて
南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その4
はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、次号)
2016年10月、沖縄に派遣されていた大阪府警の1機動隊員が、国頭郡東村高江の米軍用ヘリパッド建設に抗議する沖縄の人々に対して、「ボケ、土人が!」という罵声を浴びせかけた。この「土人」というもはや死語になっていたように思われた言葉を、20歳そこそこの機動隊員が使ったということに、多くの人たちは驚き以上の衝撃を受けた。戦前・戦中、「土人」という言葉は、主として、日本の国際連盟・委任統治領であった「南洋群島」や「南洋」(東南アジア諸地域)の現地民を指す言葉として広く使われていた。当時、「土人」とは、何よりも、「南洋の土人」を意味していた。その「土人」という言葉が、敗戦後70年も経って、亡霊のようによみがえって、沖縄の人々に対して投げつけられたのである。
この「土人」発言に触発されて、敗戦と「南洋」とがどうかかわっているのかということを、改めて考えてみたいと思う。
敗戦後数年間、まだテレビ放送はなく(NHKがテレビ放送を開始したのは1953年)、ラジオの時代で、「ラジオ歌謡」といった歌謡番組が多かった。そんなラジオ番組などで「酋長の娘」という歌をよく耳にした。
私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島
椰子の木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで
この歌は、旧制高知高校生の間で歌い継がれていた「ダクダク踊り」の歌をもとにして、1930年に、演歌師・石田一松により歌曲化され、レコード発売されたものである。第一次世界大戦において、日本海軍がドイツ領であった赤道以北の西太平洋・ミクロネシアの島々を占領したのが1914年10月であるから、その約15年後ということになる。この15年の間に、歌にうたわれるほど「南洋」は日本人にとって身近なものとなり、その過程でこの歌に表れているようなステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像が形成されていったのである。
この歌の「私」のモデルになったのは、森小弁だという話がある。森小弁は1869年、高知・土佐藩の小禄の士族の家に生まれ、若くして政治に志して、同郷の政治家、大江卓や後藤象二郎の世話になった。しかし、しだいに「南洋」に関心を持つようになり、1891年、22歳の時に、一屋商会(田口卯吉がつくった南島商会の事業を継承した会社)に入り、天祐丸という小さな帆船で「南洋」に赴いた。森は、一屋商会の支店を開設するために、当時スペイン統治下にあったミクロネシアのトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)に残り、その後、ドイツ統治期(1899-1914年)、日本統治期(1914-45年)を通して、トラック(チューク)諸島を拠点として商業活動などに従事した。その間に、森はトラック諸島・春島(ウェノ島)の首長の娘と結婚し、子ども12人をもうけた。森は1945年8月、日本敗戦の数日後にトラック諸島・金曜島(ポレ島)で死去したが、現在、その5世、6世の子孫は1000人以上にのぼり、モリ・ファミリーとしてチュークでは大きな経済力を持っているという(高知新聞社編『夢は赤道に―南洋に雄飛した土佐の男の物語』1998年、各所)。
こうして見ると、森小弁は「酋長の娘」の「私」のモデルにいかにも似つかわしく見えるが、その確証はないということのようである(『夢は赤道に』192‐193頁)。しかし、ここで問題としたいのはこの話の真偽ではない。
問題は、「酋長の娘」という歌が戦後になっても戦前と何ら変わることなく歌い継がれていたということである。一例を挙げれば、山田風太郎は、1946年11月、但馬に帰省した折に出席した親類の結婚式の宴会で、腰に蓑を巻いた男が「私のラバさん」と歌い、踊るのを見た(『戦中派焼け跡日記 昭和二一年』小学館文庫、2011年、393頁)。その後も、いくつかの映画などに、「酋長の娘」を歌い、踊る場面が登場した。こうしたことは、敗戦を通しても、日本人のステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像に本質的な変化がなかったということを示している(ただし、現在ではこの歌の差別的な表現が問題とされ、放送禁止歌となっている)。
しかし、これは「酋長の娘」のような大衆歌謡の世界だけに限られたことではない。日本の近代的知性を代表するような人々においても、敗戦は「南洋」を見る目を考え直す契機とはならなかったようである。
戦争中、戦争に反対であったり、戦争に疑問を持っていたりしながらも、それを表立って表明することができなかった人々がたくさんいた。そのような人たちの多くにとって、敗戦はむしろ一種の解放であったから、敗戦そのものは大きな衝撃ではなかった。彼らにとって衝撃だったのは、敗戦を機に一変した日本社会の風潮や日本人の言動の方であった。
フランス文学研究者として著名な渡辺一夫は、戦後の1945年8月21日、妻と「善後策」を打ち合わせるために、妻子の疎開先である新潟の燕町に行った。8月26日朝、汽車で帰京した渡辺は、車中で見た「デモラリゼされた(士気喪失した)兵士逹の群。妄動する民衆」の姿に衝撃を受けた(渡辺一夫『敗戦日記』博文館新社、1995年、75頁)。渡辺は同日付の串田孫一宛手紙に、次のように書いている。
これからの僕逹の生活の困難を思ふ時、悄然ともします。汽車の中などで見聞するデモラリゼした人々狂ひ立つた人々愚昧を更に深める人々……これらを向ふにまはして生き且戦ふのです。カタルシスがもつと深刻だつた方がよかつたかもしれぬとすら思ふことがあります。それ程同胞諸氏はいけません。(『敗戦日記』104‐105頁)
敗戦時、東京帝国大学文学部助教授であった渡辺は、復員して大学に通い出した学生などを見て、彼らがこれからどういう生活を送ることになるのかと考えこむことがあった。そんな時、「ある学校の口頭試問で『天皇は陸海軍を統率す〔統帥す―引用者〕』という文句が、新憲法にあるのか旧憲法にあるのか判らぬ青年が沢山いたという事実」を教えられて、「非常に愕然」とした(渡辺「非力について」〔1947年9月23日付〕、『敗戦日記』200頁)。考える力を持たない青年たちがたくさんいるのではないかということに気づいた渡辺は、学生たちに向かって語るかのように、次のようにのべている。
考えないのが悪いなどとは申しませんが、考えないと大損になると申せましょう。学生諸君に向かって、僕は何も要求できません。しかし、今申したような大損になるにきまっているようなことだけはしないようにとは言いたいのです。その上で、恋愛もよいでしょう。ダンスもよいでしょう。そして、深遠な形而上学や詩歌も結構です。しかし、恋愛もダンスも「文化」の所産として練磨され得ますが、それ自体は決して文化の条件ではないのです。犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします。そして深遠な形而上学や詩歌は、これを護り育てる地盤がなければ、いつでも抹殺され得るものであります。
これも恐らく、私と申す中老書生の泣言であります。その上に僕は、人間というものは自分の思いこんだことをなかなか棄てられぬと申しました。僕もそうなのでしょう。学生諸君もそうかもしれぬと思います。[中略]そう思う時、僕は、自らの非力を悟り、がっくりしますし、自分の思いこんだことをみつめて、ためいきをもらしてしまいます。
(「非力について」、『敗戦日記』201頁)。
敗戦後の青年たちのものを考えようとしない風潮を憂慮し、自らの「非力」にためいきをもらす渡辺の心意はよく分かるが、恋愛もダンスも文化の条件ではないことを説く文脈で、「犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします」という一文が出てくるのにはどうしてもひっかかる。犬猫の方はどういうことなのかよく分からないが、ダンスというと「ポリネシアの土人」を連想することにひっかかるのである。
渡辺は第一高等学校の学生時代にピエール・ロティ(Pierre Loti)のLe Roman d’un spahi,1881(直訳すれば、『あるシパーヒーの物語』。シパーヒーはペルシャ語・トルコ語で兵士の意。イギリスやフランスの植民地軍の兵士、特に傭兵もこう呼ばれた)を読んで「強烈な刺激と深刻な影響」を受け、その十数年後の1938年に同書を『アフリカ騎兵』(白水社)という訳書名で翻訳、刊行している。それは、こんな「物語」である。
ジャン・ペーラルはフランス中央部の高地セヴェンヌ地方の貧しい農夫の息子だった。彼には「許嫁」と言ってもいい娘がいたが、20歳の時、兵役により入営し、アフリカ大陸西海岸のフランス植民地、セネガルに派遣された。フランス軍の駐屯地はセネガル河が大西洋に注ぐ河口の町、サン・ルイにあった。ジャンはフランス軍の騎兵として、セネガルの南に位置するギネア地方などへの遠征に従軍した。しかし、戦闘のない時には、サン・ルイの地で放恣な生活に耽り、「黒人」の娘と同棲するようになった。ジャンの5年間の兵役がもう数カ月で終わろうとする時、サン・ルイのフランス駐屯軍はセネガル河を遡上して、アフリカ大陸内陸部に遠征することになった。その地の「黒人の大首領」・「ブゥバカール・セグゥー」が暴虐を極めているとして、討伐することになったのである。「ブゥバカール・セグゥーの國」に最も近い屯所まで進軍した時、ジャンなど12人の騎兵が斥候に出された。しかし、「ブゥバカール・セグゥー」の別動隊の待ち伏せに遭い、ジャンなどほとんどの斥候兵が戦死した。これより前、ジャンの家郷では、ジャンの「許嫁」が他の男と結婚式を挙げていた。他方、フランス軍を襲撃した「ブゥバカール・セグゥー」の本隊は撃退され、彼自身もフランス軍の銃弾に倒れた。こうして、「ブゥバカール・セグゥーの國」は崩壊した。
『アフリカ騎兵』の「後記」に、渡辺は次のように書いている。
後年同じ著者の他の作品を讀んでも常に見出された「現世のはかない營みの隙間から折あらば低く高く響いて來る永劫無や死滅の呼聲」が、『アフリカ騎兵』に於いては、アフリカの灼熱された不動の大氣の中にも、物質のやうに壓力のある烈光の中にも、硬い沈默を乘せてゐる砂漠の上にも、著實に又執拗に囁き、或は喚くのを感じ、当時の僕は異常な嚴肅さに擊たれ新しい感傷の波にもまれたやうに記憶してゐる。(『アフリカ騎兵』432頁)
日中戦争が泥沼化していく時代に、このようなロティの著書を翻訳、刊行したということは時局に対する渡辺の姿勢を示しているのであろう。
渡辺はロティの「他の作品」も読んだと書いているから、その中には、『ロティの結婚』も含まれていたに違いない。小説『ロティの結婚』の主人公は「イギリス海軍少尉候補生」とされている「ロティ」―作者と同じ名前だが―である。ロティは乗艦がポリネシアのタヒチ島に寄港した時、しばらくタヒチに滞在し、マオリ族の少女「ララフ」の魅力にとらわれて、「結婚」するという「物語」である。
『ロティの結婚』には、例えば次の一文のように、タヒチの人々が歌とダンス(ウパ・ウパ)に興じる姿がしばしば出てくる。
一千八百七十二年といへば、パペエテ[タヒチ王国の都、パペーテ]の最もすばらしい時期の一つであつた。こんなに多くの祭や、踊りや、饗宴の催されたことは未だかつて無かつた。
來る夕べごとに眼もくるめくばかりであつた。―夜になるとタヒチの女逹は見る眼も彩なとりどりの花で身を飾つた。急調子の太鼓の音は、彼女らをウパ・ウパへと誘うた。―みんな髪を解き亂し、ムスリンの胴著はほとんど胴も露はのままに駈け寄って―氣の狂つたやうな淫逸な踊りが、往々にして明け方までつづくのであつた。(『ロティの結婚』125頁)
タヒチの女たちは手を打ち鳴らして、急調子の熱狂的な合唱歌の銅鑼の音に合はせた。―順番が來ると、女たちは銘々ひとしきりの舞踏をやつた。足取りも音樂もはじめの中は緩やかであるが、果ては氣も狂はんばかりに次第にその速さを增してゆき、やがて疲れた踊子が、突然銅鑼の音高い一打ちに踊を止めると、前よりは一層猥雜な狂亂の踊子がつづいてそれに踊り出るのであつた。(同、126頁)
『ロティの結婚』のこのような叙述から、渡辺は「ダンスに明け暮れるポリネシアの土人」というイメージを持ったのであろう。
しかし、そんなイメージとは裏腹に、『ロティの結婚』からは渡辺の言う「永劫無と死滅の呼聲」が響いてくる。というよりは、『ロティの結婚』は、著者である生き身のロティが2度のタヒチ滞在(1872年1-3月、6-7月)の中で、タヒチ王国の発する「永劫無と死滅の呼聲」を聴き取り、それを文学的に表現したものと言った方がいいであろう。
それは、フランスなど欧米列強の圧力によって、タヒチ王国が衰亡へと向かい、それとともにタヒチ的文化が荒廃していく響きであり、現実的には、肺結核など欧米由来の病気による多くのタヒチ島民の死の響きである。
『ロティの結婚』(94頁)にも出てくるように、1842年、タヒチ王国はフランスとの間に保護条約を結び、フランスの保護国となった。フランスによる圧迫に対抗するために、イギリスの介入を求めたが、イギリスが静観するだけだったので、タヒチ王国はフランスの強圧に屈服するほかなかったのである。タヒチの女王ポマレ4世(在位、1827-1877年)の時代のことであった。女王ポマレ4世は「文明に侵蝕されては潰滅してゆく自分の王國―賣淫の場所となつては頽廢してゆく自分のうるわしい王國を眺めなければならぬ憂鬱」にとりつかれていた(『ロティの結婚』148頁)。1877年、ポマレ4世が死去すると、その次子がポマレ5世として即位した。しかし、1880年には、フランスと併合協定を結ぶことを強いられ、タヒチはついにフランスの植民地となった。こうして、約90年続いたタヒチ王国は滅亡したのである。
欧米人たちの到来は「數年このかたこの不動のポリネシアに、かくも多くの未聞の變化と、豫想だもしなかつた新奇とをもたらした」(『ロティの結婚』73頁)。その一つが肺病という未知の病気の蔓延であった。女王ポマレ4世は何人かの男子を生んだが、「ちやうど或る季節に生ひ出でてその秋には朽ち斃れる熱帶植物のやうに、みな同じ不治の病氣で亡くなられた。/みな胸で亡くなられたのである」(同、31‐32頁)。女王ポマレ4世の孫娘の「姫君―タヒチの玉座の推定相續者」はまだ幼年であったが、「すでに世襲的疾患の徴候」を示していた(同、32頁)。この「姫君」も数年後には死去した。「ララフ」にも、「女王の息女のそれのやうな微かな空咳」が時々起こるようになった(同、128頁)。「ロティ」が「ララフ」をタヒチに置き去りにして、イギリスへ帰航する軍艦でタヒチを去った後、「ララフ」は生き方が崩れていった。タヒチにいる「ロティ」の友人からの通信によれば、彼女は「胸の病氣でだんだん弱つていつたのだが、火酒をあふりはじめたので、病勢は急に進」み、18歳で世を去った(同、280頁)。
もし、渡辺一夫が『ロティの結婚』から、このようなタヒチの発する「永劫無と死滅の呼聲」を聞きとっていたとするならば、渡辺はどうして「ポリネシアの土人もダンスをします」などと書いたのであろうか。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.66)