今号では、小谷汪之さんに、連載中の「島木健作の満洲(下)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。今号で完結です。また、2025年1月25日に開催した「増谷英樹の歴史学を語る会」における古田善文、高澤紀恵、吉田伸之各氏の報告を掲載しています。
古田善文
増谷英樹氏とオーストリア史
今号では、小谷汪之さんに、連載中の「島木健作の満洲(下)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。今号で完結です。また、2025年1月25日に開催した「増谷英樹の歴史学を語る会」における古田善文、高澤紀恵、吉田伸之各氏の報告を掲載しています。
古田善文
増谷英樹氏とオーストリア史
はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 前号)
3 『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 本号)
1939年3月末、島木健作は農民文学懇話会から派遣されて、満洲旅行に出た。朝鮮半島を縦断して満洲に入り、北満洲の開拓村15か村(大日向分村、福島村、弥栄村、千振村、龍爪村など)や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所5か所(ハルビン、勃利、孫呉、鉄驪、嫩江)などを訪ね歩いた。他の視察団などとは異なり、一人旅であった。その時の見聞にもとづいて書かれたのが『満洲紀行』(創元社、1940年)であり、前出の『或る作家の手記』である。以下では『満洲紀行』によって、島木の満洲での体験を追ってみたいと思う(頁数は『満洲紀行』のもの。地名については、付図を参照)。
1939年4月16日、吉林に到着した島木は「第二松花江」に建設中の発電用ダム(豊満水力発電所)工事現場を見学に行った。「第二松花江」は中国・朝鮮国境に近い白頭山から流出して北流し、ハルビンの西で嫩江と合流して黒龍江に入る。以前は嫩江が松花江本流とされていたが、現在では、かつての「第二松花江」が松花江本流と認められている。このダム工事は1937年に着工されたが、島木が行った時はまだ工事中であった(その後、1942年に竣工)。
翌、4月17日、前日吉林で泊まった島木健作は汽車で拉法駅に行き、そこでハルビン(哈爾浜)方面に向かう拉浜線に乗り換えて、四家房駅(後に舒蘭駅と改称)で下車した。「出迎への人に案内されて第七次四家房開拓団弁事所におちついた。……ここの開拓団は、信州の大日向村の分村である。先発隊は、をととしの夏渡満し、千振村〔1933年、第2次入植〕で訓練を受け、この地に入植したのは昨年の二月である」(96-97頁)。満洲の大日向分村は四家房の町から6キロメートルほど南西に位置し、吉林や新京(現、長春)にも近く、恵まれた地点にあった。
長野県南佐久郡大日向村は千曲川の支流、抜井川沿いに点在する九つの集落からなる村で、戸数は406戸、全村で「水田四十七町八段、畑二百十七町五段、ほかに山林」ということである(102頁)。『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)によれば、「田が四九・八ヘクタール、畑が三一六ヘクタール、合計三六五・八ヘクタール(一戸当たり〇・七九ヘクタール)」(159頁。1ヘクタールはほぼ1町歩)という貧村であった。養蚕と炭焼きが主産業であったが、大恐慌後蚕糸価格が暴落し、村財政は破綻しかかっていた。
この大日向村の約200戸が満洲に移民し、さらに将来縁故移民100戸を受け入れることとして、大日向分村が形成された。大日向分村は分村移民の模範例として広く喧伝された(伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年)。
母村である信州の大日向村に比べて、満洲の大日向分村は広大な面積の土地を割り当てられていた。「ここの土地の広さは一万町歩からだ。そのうち既耕地、未耕地を入れて可耕地はどれほどか。これはいふ人によつてまちまちであつた。……しかし三百戸開拓民としても、一戸当たりほぼ十町歩の耕地とほかに山林が約束されてゐるといふことに間ちがひはない」(102頁)。「今年は水田二百五十町歩、畑二百五十町歩を先遣隊が耕作し、本隊は部落の建設にのみかかる予定である。三百戸を五部落にわかち、一部落は〔当面〕四十戸の密居形式である」(103頁)。
「鉄道の線に近く、交通に便であること、入植ただちに一戸当り一町歩余りの水田既耕地を持つといふこと、この二つはこの団に恵まれた条件であらう」(103-104頁)。しかし、この「恵まれた条件」には、大きな問題が含まれていた。島木健作は次のように指摘している。
しかし、日本人入植以前に、それだけの水田があつたといふことは、少なからぬ鮮人農民〔朝鮮人農民〕がゐたことを意味する。彼等と、さうして今開拓民が住んでゐる満人農家〔満洲人農家〕のもとの住民たちは?
「今年は、鮮人、満人二百五十戸ほどが立ち退きました。以前の村長(満人)は今団に雇はれ、団と在来民との交渉の間に立つてゐます。」
立ち退いたものは、どのやうにしてどこへ行つたのであるか?ここの人々からはそれについてほとんど聞くことはできない。(104頁)
一般に大陸開拓、満洲開拓などというが、多くの場合、朝鮮人や満洲人の農民がすでに開墾していた水田や畑を満洲拓殖公社が安い価格で買い上げて、開拓団に提供していたのである。さらに問題なのは、開拓民がこの広大な土地を自家労働力(若い開拓民の場合、成人男性1人と満洲馬2頭)だけでは耕作できないということであった。その結果、立ち退かされた朝鮮人や満洲人の農民を農業労働者として雇い入れるということが広く行われていた。島木は次のように書いている。
日本開拓民は今日、満人農業労働者を使役することによつて、その存立の基礎を得てゐる。……両者の関係は主人と雇人との関係である。……雇傭されるもののなかには、開拓民入植前までは、自立した農民であり、主人であつたものもある。……日本開拓民の今日の能力の小ささが、彼等を必要とし、彼等をここに引き止め、彼等も亦当座はこの関係に頼つた方をよしとしてゐるのだが、この当座は一体いつまで続くであらうか。(72-73頁)
このように、島木健作の「満洲開拓政策」批判の第一の論点は、満洲人や朝鮮人の農民を彼らの農地から追い立てたうえ、彼らを農業労働者として雇用することによって成り立っている開拓団や開拓民の農業経営の実態であった。しかも、農業労働者に支払う労賃(現金あるいは現物)が開拓団や開拓民の重い負担になっていた。「どこの団のどの家を訪ねてみても、苦力賃〔農業労働者に支払う労賃〕といふものが、一家経済の癌となつてゐることを、我々はすぐに知ることができる。まことに彼等にとつて、二つの大きな悩みのたねといふのは、苦力賃と、満洲馬の飼料代とである」(50頁)。「満洲馬が非力なくせにじつによく食ふといふことで、開拓民があきれもしなげきもしてゐるのは笑えぬ滑稽である」(56頁)。
このような状況において、「団の土地を満農に出し、そこから上る小作料をもつて、借金の返済にあてようと考へてゐるところも多い」(27頁)。「自分の能力の小ささを自覚して、その能力に適ふだけの土地を自分に保留し、他は満人に小作させる」(65頁)というやり方である。これが満洲開拓のひとつの実態であった。
島木健作の「満洲開拓政策」批判の第二の論点は開拓団による集団農業経営(共同経営)から個人農業経営への性急な移行であった。
1939年4月18日、島木は四家房駅から大日向分村とは反対の南方2キロメートル足らずの所に位置する福島自由移民団を訪ねた。福島村は1938年入植、22戸から構成されていた。「一戸当たりの面積は、水田二町、畑六町、山林原野七町……。原住民からの買収価格は、水田一町百三十円、畑八十円」(114頁)ということであった。
この開拓団について、島木は次のように書いている。
それにつけても私が疑問としたのは、昨年先遣隊として入つた十一戸が、今年から個人経営に移るといふことについてである。労力の不足、分散することによつての一層の弱まり、といふことは痛感してゐる筈なのに、なぜそのやうに個人経営にうつることを急がなくてはならないのであらう。一人や二人の家族労力をもつて、与へられた面積をこなし切れぬといふことはわかりきつたことなのに。(114-115頁)
島木は訪ねた開拓団のほとんどにおいて共同経営から個人経営への移行が進められているのを見た。「第一次〔1932年入植〕から第五次までの開拓団は大体においていはゆる個人経営の段階に移つたといはれるところである」(16 頁)。その根底には日本政府の「満洲開拓政策」があると島木は指摘する。
日本の指導者たちによつて定められた、満洲農業開拓の根本方針の第一には、
「自家労力を本位として耕作し且つ経済的に成立する自作農を設立すること」
と、いふことがあげられてゐるからである。ここでは何等かの集団農場のごときものが考へられてゐるのではない。根本方針はあくまでも自作農主義である。(17-18頁)
島木はこの「自作農主義」政策が満洲農業開拓を困難に陥れている根本的な問題だとして、次のように提言している。
ここでは私はただこれだけのことを言つておく。……今まで、発展の最後の形態として目ざされて来た、個人経営の組織は厳密に再検討されねばならぬといふことを。……新しい共同経営の形態が取つて代らねばならぬ。従来、個人経営に移行する過渡的段階としてのみ存在した共同経営を、永続的なものとして強力に組織化せねばならぬ。このことなくしては北満の農業的開発も、開拓民の経済的自立も、進んでは彼等の使命の遂行も不可能であらう。(89頁)
5月10日、前日、龍爪開拓団(付図の④)に一泊した島木は龍爪駅からジャムス(佳木斯)行きの汽車に乗り、勃利駅で下車した。満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所を訪ねるためである。勃利の町にある勃利訓練所出張所に行くと、丁度この日、大陸開拓文芸懇話会から派遣されていた伊藤整、福田清人、湯浅克衛の3人もここに来たが、既に勃利訓練所に向かったということであった(128頁)。しかし、この日はもう夕方になっていたので、島木は勃利の町の「〇〇ホテルといふのにとまつた。名前はホテルだがむろん大へんな宿屋である」(131頁)。
翌日、勃利の町から38キロメートルも離れた勃利訓練所にトラックで向かった。その道路も満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生たちが切り開いたものであった。この訓練所の訓練生は400人ほど、東北地方の出身者が多かった。朝は5時起床、夜は9時消灯で、1日の時間割は農耕4割、軍事教練4割、学科2割であった。
客(島木)が来たということで、その夜、各小隊から数人ずつ訓練生が集まって、集会が持たれた。中隊幹部も出席した。はじめは口が重かった訓練生も次第に緊張が解けて、いろいろと率直な話をするようになった。「何よりも先に彼等が語つたのは、苦しかつた去年の思い出だつた。……昨年四月、彼等ははじめてこの地にはいつて、無人の原野に、天地根元作りの家をつくり、羊草〔水草の一種〕を地べたに敷いて寝たのである。天地根元作りといふのは、一棟の長さが五十米もある掘立小屋の一種である。雨は漏るといふよりは、むしろ降る方だつた」(145-146頁)。それから、「配給が円滑を欠き、食料の輸送さへもとだえること」があり、「パイメンや粟や羊草の水炊きだけで十三日間も凌いだことさへあつた」。「雨季にはいり、真夏にはいると、赤痢患者が続出した。赤痢患者の糞と小便とが雨に溢れて流れ出すなかに彼等は右往左往した。昨日までの僚友の死体を裸にして雨のなかに運び出さなければならなかつた時の気持は忘れられぬと言つた」。「野糞に行くときには、左手に雨傘を持ち、右手に団扇を持ち、口に塵紙をくわへて行くのだつた。雨の日の野のなかの蚊やあぶやその他血を吸う虫のしつこさは想像のほかである。戦闘帽の上に、手ぬぐひを五枚も重ねなければ刺されるのである」。こんなことが口々に語られた(145-146頁)。
訓練生たちは最後にこう訴えた。
これは故国の人々に言ひたいが、県庁も村も、国策だ国策だといつて我々を送り出しておきながら、送り出したあとは全く知らぬふりである。手紙は一本も来ない。出しても返事がない。〔中略〕馬に乗り七本も旗を立てて駅まで送つてくれたがあとはかへり見られない。忘れられるのが一番つらい。一生懸命にすすめた人がさうでは問題にならない。兵隊さんに慰問袋は来るが、我々には来ない。しかし、送られる時には、すべて兵隊なみだつたのである。(151頁)
島木は満洲開拓政策の一つの柱とされていた満蒙開拓青少年義勇軍の実態がこのようなものであることについても、認識を深めていった。このことが、島木の満洲開拓政策に対する第三の批判点となったのである。
島木健作の『満洲紀行』はその鋭い「満洲開拓政策」批判のために一部の満洲開拓関係者の反発を招いたようだが、高く評価する人々も多かった(289-290頁)。
後に「山月記」や「李陵」など、中国古典に材をとった作品で知られるようになる作家、中島敦は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の日、まだ南洋庁の職員として「南洋群島」のサイパン島にいた。中島敦はその日の日記に次のように書きつけている。
午前七時半タロホホ行のつもりにて〔南洋庁サイパン〕支庁に行き始めて日米開戦のことを知る。……小田電機にて、其後のニュースを聞く。……ラジオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆撃をも行えるものの如し。宣戦の大詔、首相の演説等を聞いて帰る。午後、島木健作の『満洲紀行』を読む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。(『中島敦全集2』筑摩文庫、298頁)
太平洋戦争勃発という緊迫した日の午後に、中島敦は島木健作の『満洲紀行』を読み、「蓋し、彼は現代の良心なるか」というほどの感銘を受けたのである。そこには、1年ほどの「南洋群島」生活を通して、中島が日本による「南洋群島」支配に批判的になっていたことが反映されているのであろう。
田村泰次郎も『わが文壇青春記』の中で、次のように書いている。
〔昭和〕十四年夏の〔大陸開拓文芸懇話会から派遣された〕大陸旅行は、伊藤整、福田清人、田郷虎雄(劇作家)、湯浅克衛、近藤春雄(ナチスの研究者で、大陸開拓文芸懇話会は彼の肝煎りで出来た〔近藤は当時の拓務大臣・八田嘉明の甥で、拓務省と作家たちの仲介をした〕)たちと一しょだった。〔中略〕
この旅行では、やはり、〔大陸〕開拓文芸懇話会の会員で、私たちとは別に、一人で開拓地をまわっていた島木健作と、新京〔現、長春〕で出逢った。島木はこの旅の収穫から、帰国して、「満州紀行」、「或る作家の手記」を書き、当時の浮かれ気味の大陸進出の風潮に対し、頂門の一針として文学者の見識のあるところを見せた。(34-35頁)
田村泰次郎は、戦後、『肉体の門』(1947年)などでよく知られるようになり、「肉体派」などと称されることもあったが、島木健作の満洲開拓にかんする「見識」を高く評価していたのである。それは、田村が1940年に応召し、敗戦までの5年間ほど華北各地を転戦したという体験と結びつくことなのであろう。
島木健作の作家生活はほぼ10年という短いものだったが、その割には多作であった。彼の多くの作品の中でも、香川での農民運動における経験をもとにした『生活の探求』(河出書房、1937年。『続・生活の探求』河出書房、1938年)は当時としては珍しいほどのベストセラーとなった。これらの作品を通して、島木は官憲の「保護観察」下にありながらも、一種の流行作家となっていったのである。
しかし、島木の多くの文学作品以上に評価されるべきなのは『満洲紀行』という旅行記だと思う。国策として推し進められていた満洲開拓に対して、島木の『満洲紀行』以上に鋭い批判を加えた著作は他には存在しないといってよいであろう。当時の天皇制国家権力による狂暴な言論弾圧下において、「転向作家」・島木がこれだけの国策批判の書を著したということは評価すべきことだと思う。たとえ、満洲開拓そのこと自体を帝国主義的対外侵略として断罪する文言は見られないとしても。
島木健作は、実質的な日本敗戦の日、1945年8月15日から僅か2日後の8月17日に死去した。当時、島木は鎌倉に住んでいたので、川端康成、小林秀雄、中山義秀、久米正雄、高見順など鎌倉在住の作家たちがその死を看取った。島木のためにいろいろと苦労をかけられた母親の姿も枕頭にあった。
(「世界史の眼」No.60)
2025年1月25日に、世界史研究所が主催して「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催しました。1942年生まれの増谷英樹さんは、オーストリア史、ユダヤ史を中心に研究を進めてこられ、また、東京外国語大学と獨協大学で長く教鞭を取られました。長く闘病中のところ、残念ながら2024年11月に、逝去されました。
世界史研究所の研究員は、それぞれに増谷さんと公私に渡る深い交流があり、また、増谷さんの仕事から多くの刺激と啓発を受けてきました。ここに、増谷さんと交流の深かった方と、増谷さんのご家族にもご参加頂き、「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催し、増谷さんの仕事を振り返り、増谷さんが私たちに届けたかったものを改めて考える機会としたものです。ご参加頂いたのは、稲野強、小沢弘明、木畑和子、木畑洋一、小谷汪之、清水透、高澤紀恵、藤田進、古田善文、南塚信吾、山崎信一、油井大三郎、吉田伸之、渡邊勲の各氏と、加えてご家族の増谷直子さんと三人のご子息・ご息女の皆さんです。
会は小谷汪之さんの司会のもと、まず増谷さんに黙祷を捧げ、次いで南塚信吾さんに、増谷さんの今までのお仕事を簡単に振り返って頂きました。その後、古田善文さんから、オーストリア史に関して、また、高澤紀恵さんと吉田伸之さんからウィーン史・都市史に関して、提題をして頂きました。三氏の報告は、それぞれ以下に掲載しています。
次いで、参加者からの自由な発言と討論が行われました。増谷さんのユダヤ問題に対する立脚点、史料としてのビラの用い方、増谷さんの目指した「民衆史」の展望、フリーメーソンへの関心、移民への関心といった点を中心に議論がありました。その後は、皆さんそれぞれの増谷さんとの親交のあり方も含めて、ざっくばらんに懇談の時間となりました。参加者の皆さんの多くは、大学の同僚として、歴史学研究会において、あるいは読書会・勉強会のメンバーとして増谷さんと交流のあった皆さんでしたが、いずれのお話からも、増谷さんの真摯な学問的態度と、それに加えての気遣いと面倒見の良さ、民衆や労働者に寄せる増谷さんの深い共感、「食」へのこだわり、登山やスキーやテニスを楽しむ姿といった点が浮かび上がりました。いずれのエピソードにおいても、増谷さんとの深い信頼関係が感じられました。また、ご家族の言葉にもありましたが、学問は学問としてきちんと進めた上で、家族との時間も大切にし、スポーツにも取り組むという姿は、研究者の中ではあまり一般的ではなかったかもしれません。この点からも増谷さんのお人柄が偲ばれました。
増谷さん、まだまだやり残したことがたくさんあったのだと思います。しかし、増谷さんが本当に多くを私たちに残してくれたことを、今回改めて理解することができました。増谷さん、本当にありがとうございました。
(山崎信一)
増谷英樹「60年代歴研における「人民闘争史」研究とその問題点」『歴史学研究』372号《大会特集》安保体制の新段階とわれわれの歴史学―世界史認識と人民闘争史研究の課題、1971年5月
良知力編『共同研究 1848年革命』大月書店、1979年
増谷英樹「序論 1848年革命の概観と研究の課題」
増谷英樹「「フランクフルト労働者協会」と9月蜂起」
増谷英樹『ビラの中の革命:ウィーン・1848年』東京大学出版会〈新しい世界史〉、1987年
増谷英樹『歴史のなかのウィーン:都市とユダヤと女たち』日本エディタースクール出版部、1993年
歴史学研究会編『講座世界史4 資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会、1995年
増谷英樹「大都市の成立―一九世紀のウィーンと流入民」
増谷英樹、伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年
増谷英樹「序論」
増谷英樹「世紀末ウィーンの製靴工―資本主義化と「急進性」の伝統」
増谷英樹『ウィーン都市地図集成』柏書房、1999年
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生 日本とドイツ/歴史と現状』有志舎、2009年
増谷英樹「序章 移民・難民・外国人労働者とその受入れ」
増谷英樹「補論 第二次世界大戦以前ドイツの外国人労働者と強制労働」
増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年
増谷英樹、富永智津子、清水透『オルタナティヴの歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2013年
増谷英樹「1848年革命とユダヤの人びと―『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』を読む」
研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」編『われわれの歴史と歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2012年
増谷英樹「社会史、そして民衆史について」
増谷英樹「戦後歴史学からオルタナティヴヘ」
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2016年
渡邊勲編『37人の著者 自著を語る』知泉書館、2018年
増谷英樹「30年後の自己書評《ビラの中の革命》」
増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2023年(増補改訂版)
(「世界史の眼」No.60)
まず増谷さんと私の関係についてお話しします。最初の出会いは、私が東京外国語大学のドイツ語学科3年生の時でした。その後、増谷さんの指導のもと、私は「オーストリアのファシズム」に関する卒論を執筆し、東京外国語大学大学院修士課程に進むことになりました。大学院在学中に私の指導教官はウィーン大学の交換教員として不在(1981〜83)となり、寂しい思いをしたこともありました。もちろん、このウィーン滞在で集められた数々の資料、特に大量のビラのおかげで、名作(1987)『ビラの中の革命』が生まれたことについて、異論はありません。
修士終了後、私が他大学の大学院博士課程に進学したこともあり、増谷さんとはしばらく疎遠になっていましたが、2004 年以降、今度は獨協大学ドイツ語学科の同僚として10年間の年月を一緒に過ごさせていただきました。増谷さんは、獨協では特任教授として2004年から2010年まで、その後非常勤講師として2014年まで教鞭を取りました。この獨協時代に、増谷さんは通常授業、院生指導の他、2度のオーストリア史に関する「オープンカレッジ特別講座」の講師を努めています。さらに2007年には「ドイツと日本の移民、難民、外国人労働者」と称したインターナショナル・フォーラムの座長として、この催しの人選、企画、実行に多大な貢献をしています。この時の記録は有志舎から(2009)『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–––日本とドイツ/歴史と現状』というタイトルで出版されており、今でもその時の発表や議論の詳細を確認することが可能です。
前置きが長くなりましたが、今日私が発題者としてお話ししなければならないのは、増谷さんとオーストリア史についてです。ご存知の通り、増谷さんの研究の土台がウィーン・1848年革命であることに疑いの余地はありません。しかしながら、増谷さんの関心は1848年とウィーンに限定されることなく地域的にも、時空的にも非常に多岐にわたります。この点について最もわかりやすいエピソードは、2004 年の東京外国語大学での最終講義でした。そこで語られたのはウィーン・1848年ではなく、何とブラジルのドイツ系移民社会についてでした(増谷さんは最終講義の直前の2003年末から04年初頭にかけて当時の同僚であった鈴木茂氏と、ブラジル南部ブルーメナウと周辺のドイツ系移民社会のフィールドワークに赴いています)。通常、最終講義の場では、積年の研究成果のまとめが語られることが多いのですが、あえてこれからの新しい研究の方向性を示唆する増谷さんの講義には私も度肝を抜かれました。このエピソードは、増谷さんの関心のあり方を理解するのに大いに役立ちます。常にアンテナを高く張り巡らし、もし興味をそそられるテーマや人間を見つけると、躊躇なくそちらに向かう行動力も増谷さんの特徴と言えるでしょう。実際、この最終講義を境にして、増谷さんの関心は、1848年革命を意識しつつも、新たに移民・難民問題にも向かうことになります。
限られた時間で効率的に説明を施すため次の資料(図1)を提示させていただきます。これは増谷さんの主要研究業績の研究領域と私の推測に基づく増谷さんの関心の動きを大まかにまとめてみたものです。
この資料を見てまず気づくことは、増谷さんは最初からウィーンを研究の対象にはしていなかったという点です。まず増谷さんが関心を持ったのは、ドイツの大都市、特にベルリンの1848年革命分析でした。そこからウィーンの1848年に研究対象が変化した背景には、(1979)『<共同研究>1848年革命』執筆時に出会った良知力先生の存在が大きかったと推測しています。良知さんと増谷さんの信頼関係は、良知さんのご遺作、(1985)『青きドナウの乱痴気』の「あとがき」と、増谷さんの(1987)『ビラの中の革命』の「あとがき」の中にはっきりと見て取れます。増谷さんの言葉を借りれば、ウィーン滞在前に「僕のできなかったことをやってこいよ」という良知さんの言葉と、良知さんが増谷さんに渡した史料・文献類のカードのコピーは、良知さんの先駆的業績と合わせて、その後の増谷さんのウィーン革命史研究の発展を大きく後押しすることになったのでしょう。
もちろん、良知さんの存在以外にも、1981年以降の最初のウィーン滞在中に出会った人たちが、その後の増谷史学の形成に大きな役割を果たすことになりました。特にウィーン滞在中に、初めて参加したリンツ会議の場で、増谷さんが「事実上の指導教官」西川正雄さんの紹介によって、自ら「革命史研究の指導教官」と呼ぶヘルバート・シュタイナー氏と知己の関係になったことも、その後のウィーン革命史研究の進展を確固たるものにしたと思われます。最初のウィーン滞在以降、ウィーン・1848年革命史研究が最後まで増谷さんの研究のメインストリームだったことは、この資料からも明らかでしょう。
では増谷さんの1848年革命分析のカギは何かという問題が浮上します。みなさんもご存知の通り、それは革命の中のユダヤという存在になります。増谷さんは、(1984)『社会史研究』に発表した論文、「革命とアンティゼミティスムス」において、ウィーンのユダヤの居住区と職種によってユダヤの人々を「裕福なユダヤ」、「ユダヤ知識人およびユダヤ学生」、「プロレタリアートのユダヤ」という三つのグループに分類し、革命の中でのそれぞれの役割を緻密に分析します。この論文では、ウィーン市内区の「ブルジョア革命」においては解放の対象であったユダヤ教徒が、市外区の「プロレタリア革命」においては、一転して打倒の対象として考えられていたとする興味深い結論が実証的に導きだされます。さらに革命の見方として次のような重要な指摘もなされます。曰く、革命・反革命のヴェクトルで見た場合、革命の中においてその両方向に向きうる可能性を持っていた民衆の両義性の分析が、これまでは、民衆の革命性を強調するがために触れられて来なかった、という指摘です。
このように1848年革命の分析の主題にユダヤを据え、さらにそこから1848年革命像の新しい見取り図を提供したという点において、増谷さんの研究は、ウィーン革命におけるスラブ系流入民の役割に着目した良知さんの研究を、さらに一歩進めたと言えるのではないか、と考えます。
このようにユダヤ問題への関心が深かった増谷さんですが、通例、ユダヤ人と呼ばれている集団を自分でどう呼ぶかについては色々と葛藤があったように思います。ちなみに、その変遷の跡を辿ってみましょう。
まず(1984)『社会史研究』掲載論文の中ではユダヤ人と記述しています。(1987)『ビラの中の革命』でも同じくユダヤ人という呼称が使用されています。これに対して、論文集(1992)『感覚変容のディアレクティク』に掲載された論文では、ユダヤ教徒および改宗したユダヤ教徒をカッコ付きで「ユダヤ系」と形容しています。(1993)『歴史のなかのウィーン』に掲載された論文、これは前に紹介した『社会史研究』掲載論文の改訂版なのですが、ここでは以前使用していたユダヤ人を、ユダヤ教徒とカッコ付きの「ユダヤ人」という2つの言葉に使い分けています。その理由について、増谷さんは、「ドイツ語のJudenという言葉が、本来はユダヤ教徒を意味するにもかかわらず、それを使用する人によって意味している内容が違うからであって、その意味内容を汲んでのことである」と説明しています。同じ『歴史のなかのウィーン』の別の書き下ろし論文では初めてユダヤの人びとという呼び方も登場しており、1冊の本の中に複数の呼び方が混在するという状況が見られます。一方、訳本(1999)『ドイツ戦争責任論争』では、主題がユダヤを「民族」とみなすナチの強制労働政策のためか、カッコ付きの「ユダヤ人」が迷うことなく選択されています。
さて、こうしたユダヤへのこだわりは2000年代に出版された一般の読者向けのオーストリア・ウィーン通史の中にもはっきりと見て取れます。増谷さんは(2011/2023)『図説 オーストリアの歴史』と、(2016)『図説 ウィーンの歴史』を上梓しています。そのうち後者の『図説 ウィーンの歴史』では、中世のユダヤの人々をめぐる生活実態と中世から近現代に至る反ユダヤ主義の変遷を、本文に巧みに織り込みながら整理しています。そうしたユダヤ関連の記述は本文、178ページ中、実に計20ページほどに及びます。
ちなみに、この著作の5年前に出された『図説オーストリアの歴史』でもユダヤ関連テーマはコラムとして扱われていますが、そこでのユダヤ関連の記述は全部(135ページ)で7ページほどにすぎません。つまり、歳を重ねるにつれ、増谷さんの終生のテーマであるユダヤへのこだわりはますます強くなっていったのでしょう。
とは言え、この2冊を読んで疑問に思った箇所も存在します。それは、ユダヤへの並々ならぬこだわりを随所に見せているにもかかわらず、何故、シオニズムについての記述が皆無なのかという問題です。『図説 ウィーンの歴史』で、ユダヤ関連記述が増えたことについては既に指摘しましたが、ユダヤの歴史ひいては世界の歴史のなかで重要な意味を持つと思われるウィーンのジャーナリスト、テオドーア・ヘルツルとそのシオニズム運動の起源に関する記述は、この2冊に登場することはありません。この点はどう説明されるべきなのでしょうか。シオニズムに関心がなかった訳ではないが、オーストリアに残るユダヤの人びとの状況分析と、彼らに向けられた反ユダヤ主義研究に主眼をおいた自分の研究スタンスのため、オーストリアからの国外脱出を目的とするシオニズムをとりあえずは研究対象外とせざるを得なかったのでしょうか。今となっては、残念ながら本人に確認することは叶いません。
増谷さんの研究の主要領域と問題関心をまとめた先ほどの資料をよくみてみると、ユダヤの次に主要なテーマとなったのは、「国民国家」の相対化に通ずる「人の移動」あるいは「越境者」と呼ばれる人々に関する問題です。これとあわせて重要視されるべきウィーンという都市の構造をめぐる問題については、次の高澤さん、吉田さんのご報告と被ってしまう可能性があると思いますので、ここでは割愛させていただきます。
資料を見てみなさんもお気づきかとは思いますが、増谷さんのオーストリア史におけるユダヤや「越境者」と並んで重要なテーマとなっているのがオーストリア現代史に関するテーマです。具体的には、ナチ支配下のオーストリアにおける「土着的反セム主義運動」の問題と、その延長線上にある1938年3月のアンシュルス(独墺合邦)以降、アドルフ・アイヒマンによって進められたユダヤの財産収奪および追放モデル、いわゆる「ウィーン・モデル」の研究です。この論文(2002)「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)を今回改めて読ませていただきましたが、その中心的主張、つまりオーストリアの粗暴な「土着的反セム主義運動」(あるいは「民衆的反セム主義運動」、「野放しの反ユダヤ運動」)の存在こそが、ユダヤ追放計画の責任者であったアイヒマンに、合理的で秩序ある「解決法」を模索させた、という指摘はとても重要で興味深いものでした。
オーストリアの戦争犯罪研究の一環として、さらに増谷さんは、第二次世界大戦中のユダヤおよび外国人労働者、ソ連兵捕虜に対する強制労働の問題にも取り組みます。その成果が、(2004)「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)という論文です。そして2007年の獨協大学インターナショナル・フォーラムにおける基調報告の中で、増谷さんはオーストリアの枠を超えてドイツの強制労働の事例にも踏み込んでいくのです。
この時期、増谷さんが戦争犯罪研究に向かった動機ですが、私の考えではおそらく次の二つが関係していると思います。一つは、ドイツ・シュレーダー政権が立案し、2000年に連邦議会で可決された強制労働補償基金「記憶・責任・未来」設立の動きです。もう一つは、当時、ハーバード大学歴史学准教授であったダニエル・ゴールドハーゲンが、1996年に『普通のドイツ人とホロコースト:ヒトラーの自発的死刑執行人』を発表したことです。この有名な著作は、反響の大きかったドイツで新たな「歴史家論争」を引き起こすことにもなりました。周知のようにこの著作はドイツにおける「土着的反ユダヤ主義」とホロコーストの関係を大胆に論じたものです。現代史家なら誰でもこのゴールドハーゲンの著作をめぐる論争から大きな刺激を受けたと思いますが、増谷さんも同じで、ゴールドハーゲン論争は当時の東京外国語大学大学院増谷ゼミの検討テーマになったのです。そこで読まれたヴォルフガング・ヴィッパーマンの本は、当時の院生のみなさんと増谷さんによって(1999)『ドイツ戦争責任論争』という名前で訳出されています。
そもそも、増谷さんが現代オーストリアの「土着的反セム主義運動」とは呼べないまでも、その前提となる「土着的反ユダヤ思想」の存在に気づいたのは、ゴールドハーゲン論争から10年ほど遡る1986年頃のことであり、決して90年代の新たな論争の登場を待っていた訳ではありません。具体的に増谷さんの目をこの問題に向けるきっかけとなったのが、1986年に勃発した「ヴァルトハイム問題」でした。これは、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、1986年のオーストリア大統領選挙に保守派の国民党候補として選挙戦に臨んだ際、彼のナチ時代の「戦犯」としての過去が、アメリカの世界ユダヤ会議から暴露されたことに端を発する一連の騒動のことです。選挙戦への世界ユダヤ会議の介入に猛反発したオーストリア国民は、世界中から寄せられた激しいヴァルトハイム批判にもかかわらず、彼を自国の大統領に選出したのでした。これとの関連でオーストリアにおける現代の「土着的反ユダヤ思想」の存在が指摘され、さらにオーストリアの国民が戦争責任をすべてドイツのナチに押し付けることを可能にする戦後の歴史認識、いわゆる「犠牲者神話」のレトリックも改めて注目を集めることになりました。
「ヴァルトハイム問題」が報道されると、どの局であったかは失念してしまいましたが、増谷さんは某民放テレビ局の緊急特番で専門家としてコメンテータを務めることになりました。あくまで私見ですが、この時の経験が、増谷さんの「ヴァルトハイム問題」およびオーストリア現代政治に対する関心をその後も継続させたのではないか、と密かに考えています。さらに増谷さんは、この問題についての所感を1989年に雑誌『人民の歴史学』にまとめます( (1993)『歴史のなかのウィーン』に再録)が、この頃から、増谷さんは「ヴァルトハイム問題」とならんで、オーストリアの極右自由党の党首に就任したイェルク・ハイダーにも強い関心を持ち始めます。ハイダーについての論説は『図説 オーストリアの歴史』内のコラム「ハイダー現象」で読むことが可能です。若干補足しておけば、この極右政党は元オーストリア・ナチ党員と支持者を中心にして大戦後に結成された「独立者同盟」をルーツの一つにしています。本年(2025年)1月初旬以降、この自由党が第一党として、歴史上初めてオーストリアの首相ポストを握りそうな現状を、増谷さんならどう分析して見せるでしょうか。
増谷さんの研究業績をまとめた資料を見て、少々異質な存在に思えるのが(2015)『フリーメイソンの歴史と思想』というタイトルの翻訳書です。最初、私もこの本を訳した増谷さんの真意がどこにあるのかよくわからなかったのですが、今回、この報告に備えてもう一度増谷さんの著作を読み直してみたところすべてが腑に落ちました。同書の「あとがき」に公刊理由がはっきりと書かれています。
「何度となく訪れているウィーンには、フリーメイソンの知人友人もいるが、僕の頭の中では、フリーメイソンは歴史的存在でしかなかった。しかし1990年代に極右排外主義者のハイダーの自由党が政治的に台頭してきたときに、それを批判し抵抗する運動の中心的存在をフリーメイソンが担っていたことを教えられた。」
つまり、このフリーメイソン翻訳書はその裏で思いがけずハイダーおよび自由党ともつながっていたのです。
以上みてきたように、増谷さんのオーストリア史への関わり方は実に多様でした。出発点である1848年革命とユダヤの他にも、ウィーンの都市構造、ウィーンのチェコ系流入民、フリーメイソン、両大戦間期の社会民主党市政「赤いウィーン」と労働者住宅、ナチス支配期のアイヒマンによるユダヤ財産の収奪とユダヤ追放計画、大戦中のナチによる外国人強制労働、「ヴァルトハイム問題」および戦後オーストリア国民の歴史認識と残存する「土着的反ユダヤ思想」、極右自由党を中心とする現代オーストリア政治、などがオーストリア関連の主要テーマとして挙げられます。その他にも、ドイツにおけるゴールドハーゲン論争(あるいは戦争責任論争)から、広くドイツ語圏諸国の移民・難民・外国人問題を紹介した(2021)『移民のヨーロッパ史』まで、増谷さんが研究論文や専門書、あるいは翻訳書で残した成果は実に多岐に渡ります。
増谷さんは、こうした様々なテーマをその都度都度の関心に沿って、あるいは必要に迫られて研究していたのでしょう。しかし、そうした一見無関係に見える個々のテーマは、増谷さんの中では当然のように深いところで繋がっている問題でもありました。私がそう感じているだけなのかもしれませんが、資料で示した矢印の流れを見る限り、増谷さんの関心の動きとテーマ同士の相互連動性が十分に理解できるのではないでしょうか。
最後に再び1848年革命とユダヤの話題に戻りましょう。新しい関心領域と次々に向かい合いながらも、増谷さんがその生涯で、最後の最後まで意識し続けた最大のテーマは、やはり、オーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究でした。晩年の2020年には『メトロポリタン史学』に60ページに及ぶ「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む –新発見の一八四八年革命史料–」を掲載し、1848年革命とユダヤの研究に対する情熱が依然として衰えていないことを、自ら証明しています。
増谷さんにとって、この生涯をかけたテーマを研究する目的とは何だったのでしょうか。ご自身の言葉を借りれば、ユダヤ研究の最終目的は、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだすことにある、とされます。2013年に出版された『オルタナティブの歴史学』の座談会記録に残っている増谷さんの発言を使って説明すれば、どうやらそれは次のような意味なのでしょう。増谷さんは座談会の席上次のように述べています。
一つ、自分の大きな研究方向は、ヨーロッパ自身がもっている極めてキリスト教的な社会のあぶりだしということにある。
一つ、そして、この問題を最も深いところからあぶりだす上で、ユダヤというものが鍵になる。
一つ、ユダヤを弾圧し続けていく歴史がキリスト教ヨーロッパの歴史であるわけだが、ヨーロッパというものを考えていくには、そうしたユダヤの側から見ていくことが非常に効果的である。
この言葉の中にこそ、増谷史学の核心が端的に見て取れるのではないでしょうか。
いずれにしても、編集者をして「なぜそんなにユダヤにこだわるのですか?」と言わしめるほど、増谷さんのユダヤへのこだわりは最後まで強いものでした。今回、この懇談会の直前に増谷さんのPC 内から未発表原稿「ホーエンエムスのユダヤ」が見つかりました。そこにはウィーンではなく、スイスと国境を接するオーストリア西部のフォアアールベルク州のユダヤの人びとと当地の反ユダヤ主義の歴史が、ホーエンエムスのユダヤ博物館が発行したカタログに依拠しつつまとめられていました。さらに、草稿には増谷さん独自の鋭い分析も併記されていました。ご家族のお話しによると、この3万字を超える草稿は、どうやら2015年の半年間におよぶウィーン滞在後に書かれ始めたようです。これまでに報告者が得た情報を整理してみると、この原稿は2011年に公刊された『図説 オーストリアの歴史』の増補改訂版追加コラム用の原稿として想定されたものだったようです。しかし、2023年に実現した増補改訂版には、増谷さんの体調悪化もあり、残念ながらこのコラムが掲載されることはありませんでした。つまり、体調が万全であれば、増谷史学の根幹をなすオーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究は、考察の舞台をオーストリア東部の大都市ウィーンから西部地方の小都市へと移しつつ、さらなる理論的広がりと厚みを増していたのではないでしょうか。
増谷さんの分析によれば、ウィーンの宮廷ユダヤとは異なり、ホーエンエムスのユダヤ住民は、その活発な経済活動を通じてアジアや新大陸とも通商関係を持っており、支配者から招請された17世紀初頭以来、当地の市民とは比較的良好な関係にあった、とされます。さらに、増谷さんはウィーンとの比較の中で、反ユダヤ思想の現れ方の違いについても以下を重要な差異として指摘します。
「ユダヤに対する敵対的思想や運動の現れ方も、当然ながらウィーンおよび東方と異なる傾向を持つ。ウィーンという都市が社会歴史的に多民族都市として、特に東方のスラブ系ないしハンガリー、ルーマニアなどの諸『民族』との関係が強く、19世紀には彼らとの様々な問題を抱えていたことにより、ウィーンの住民の自己意識、他者認識は強く民族意識に支えられ、反ユダヤの発想や運動も明らかに民族主義的な色合いを持っていた。シェーネラーなどの運動が、ドイツ民族主義的傾向を持ち、ユダヤを民族主義的に位置づけ、さらには人種主義的に差別しようとする傾向が強くみられるのはある意味で必然とみられる。それに対し『ホーエンエムスのユダヤ』は住民との融合が進んでいた御蔭で、民族的ないし人種的に位置づけられることはすくなかったと考えられる。」
つまり、この「ホーエンエムスのユダヤ」研究は、先ほど紹介した増谷さんのユダヤ研究の最終目的、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだす上で、これまでの研究ではあまり考察されることがなかった両者の「融合」の可能性を理解するための重要な素材を提供してくれるのではないでしょうか。こうした新たな研究の方向性が示されたにもかかわらず、道半ばでその可能性が閉ざされたことは本当に残念でなりません。
増谷英樹「革命とアンティゼミティスムス ウィーン・一八四八年」『社会史研究』日本エディタースクール出版部1984所収
良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社1985
増谷英樹「世紀転換期のウィーン 都市社会構造の変化と文化」『感覚変容のディアレクティク』平凡社1992所収
増谷英樹『歴史のなかのウィーン』日本エディタースクール出版部1993
増谷英樹「大都市の成立 –一九世紀のウィーンと流入民」歴史学研究会編『講座世界史4 資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会1995所収
伊藤定良/増谷英樹編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会1998
ヘルバート・シュタイナー(増谷英樹訳・解説)『1848年ウィーンのマルクス』未来社1998
ヴォルフガング・ヴィッパーマン(訳者代表 増谷英樹)『ドイツ戦争責任論争』未来社1999
増谷英樹「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第4号 2002所収
増谷英樹「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第6号 2004所収
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–日本とドイツ/歴史と現状』有志舎 2009
増谷英樹/古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011(2023増補改訂版)
増谷英樹/富永智津子/清水透『21世紀歴史学の創造6 オルタナティブの歴史学』有志舎 2013
ヘルムート・ラインアルター(増谷英樹/上村敏郎訳・解説)『フリーメイソンの歴史と思想 –「陰謀論」批判の本格的研究』三和書籍2015
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社2016
増谷英樹「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む–新発見の一八四八年革命史料 –」『メトロポリタン史学』第16号2020所収
クラウス・バーデ編(増谷英樹/穐山洋子/東風谷太一監訳)『移民のヨーロッパ史 ドイツ・オーストリア・スイス』東京外国語大学出版会2021
増谷英樹「ホーエンエムスのユダヤ」2015?未発表草稿
Hanno Loewy (Hrsg.), Heimat Diaspora. Das Jüdische Museum Hohenems, Hohenems 2008
(「世界史の眼」No.60)
増谷さんのお仕事を都市史の視点から語る、というのが、今回、私と吉田伸之さんに託された役目です。吉田さんは、2015年に都市史学会で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」という会を企画され、報告をしておられます。都市史については吉田さんがこの後、詳しくお話しになると思います。私からは、増谷さんの二冊のご本、『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』と『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読し、あらためて学んだことを短く話させていただきます。
まず個人的なことです。私は、最初に大学院の優しい先輩であった増谷直子さんと知り合っておりました。直子さんのパートナーとして英樹さんの存在を知った私が、増谷さんのお仕事といつどのような形で出会ったのか、考えてみました。評判の高かった87年の『ビラのなかの革命』を読んだあたりか、となんとなく思っておりましたが、今回、時系列を整理してみると、おそらくその前、84年に、『社会史研究』第5号に発表された「革命とアンティゼミテスムス ウィーン・1848年」を読んだと思います。説明するまでもありませんが、阿部謹也、川田順造、二宮宏之、良知力が編集同人として1982年に創刊された『社会史研究』は、歴史学の新しい動きを代表する雑誌で当時の大学院生、とりわけ西洋史の院生にとっては毎号、目の離せない雑誌だったからです。先日、川田順造さんが亡くなられ、同人であった方たちは全員、鬼籍に入ってしまわれました。個性的な同人たちは毎号の末尾にあった「不協和音」という欄に文章を書いておられました。「不協和音」というのは言い得て妙で、私たちはこの欄から社会史の捉えがたさや型にはまらぬ広がり、それが故の可能性を感じ取っていたものです。ともあれ、増谷さんの論文が『社会史研究』という媒体に発表された、ということで、私は、都市史という枠組ではなく、むしろ社会史的なアプローチによる48年革命研究として増谷さんのお仕事にまず出会ったように思います。ちなみに『社会史研究』の創刊号には、良知さんは「女が銃をとるまで 1848年女性史断章」を書いておられます。
今回、この論文が収められた『歴史のなかのウィーン』(日本エディタースクール出版部、1993年)と『ビラのなかの革命』(東京大学出版会、1987年)を読みなおし、都市ウィーンをフィールドとすることは、増谷さんの歴史学にどのような特徴を刻んでいるのかを考えてみました。
第一に強く感じたことは、増谷さんの都市史は、都市の微細な具体相を凝視しつつ、同時に都市を舞台とした48年革命を通して「近代」そのものを世界史的に思考する、いわば思考の拠点としてのウィーン史である、ということです。この二冊の本で増谷さんは、ウィーンのヨーロッパのなかでの位置とその役割を押さえた上で、19世紀に至るまで市門と城壁に堅固に囲まれた都市の空間構造を詳らかにし、その二重、ないしは三重の空間構造が階層、民族、言語などを異にする社会構造と対応している19世紀ウィーンの姿が明らかにされます。さらに、こうした空間/社会構造の析出が、出来事としての48年革命の分析に接続され、市内区の「ブルジョワ革命」と市外区の「プロレタリア革命」という形で48年革命の複合性が解き明かされていきます。そして、こうした分析に立って、「 ・・・「出来合の近代」の思想は、民衆の近代と対決することによって、その内実を与えられ、そして民衆の近代を抑圧していくことによって、それを実現していくものである」(同、p.248)と「出来合の近代」と「民衆の近代」の対抗という大きな見取図が示されるに至ります。「その否定された諸々の「近代」の中にこそ、現代にまでつながりうる様々な課題を見出す事ができる。」(『ビラのなかの革命』p.253.)という文章は、増谷さんの問題意識を鮮やかに示しているわけですが、一つの都市社会への沈潜と世界史を往還するこのダイナミズムが増谷さんのウィーン研究の大きな特徴であり、魅力であると、あらためて感じた次第です。言説分析からいきなり大きな構図を論じたり、あるいは緻密な実証に終始したりしがちな私達は、今一度、先達の仕事に立ち返る必要があると痛感いたしました。
第二は、ビラという史料とこれを読む増谷さんの視点についてです。1981年秋から2年間の在外研究に出た増谷さんは、ビラという史料群に出会った時のことを次のように語っておられます。
「・・こうして当時実際に街中で配られ読まれたビラを読み、その現場に立って考えてみることによって、革命のイメージは一変し、これまで匿名の群れとして動いていた民衆が、一人一人名前と表情とを持った者として現れ、1848年のウィーン革命は彼らのもの以外ではありえなくなってしまった。そうしたビラの中から民衆の革命を掘り起こし、そこから革命の意味をもう一度考え直してみることが本書の課題となった。」(同、p.257)
この一節は、社会的属性に還元されない固有名詞を持った一人一人の存在へ肉薄した増谷さんのウィーン研究が、ビラという史料との出会いによって生まれたことを余すところなく語っています。増谷さんがビラの中に見出した人びとは、頭で考えるだけでなく、肉体を持った存在、つまり高い家賃に苦しみ、お腹を空かせ、歌い行進する人間たちです。同時に雇い主たちに「おまえ」ではなく「あなた」と呼ぶようにと自らの矜恃にかけて迫る人間たちです。働き、闘う多様な女たちの姿もそこには刻まれています。増谷さんは、民衆の日常生活を描くこうしたビラが民衆自身によって書かれたテクストではないことをしっかりと押さえたうえで、ビラを読み上げ、共有する実践過程が革命期に人びとの共同意識を作り出す側面があることを指摘しておられます。ビラを単に現実の痕跡を留めたテクストとして読むだけでなく、ビラの能動的機能といいますか、受け手たちに働きかけアイデンティテイを創造する機能に着目しておられるわけで、現在読んでも極めて刺激的な史料論がここでは展開されています。
さらに史料としてのビラから増谷さんが掴み出したのは、経済的な搾取の仕組みとそれに抵抗する人びとの姿だけではありません。ウィーン社会に複雑に張り巡らされた蔑視の構造、つまり市外区の民衆の反セム主義をも見事に炙り出しています。現在まで根深く残り、さまざまに形を変えて再生産される差別や憎悪に照準を当てて両義的な民衆像を浮き上がらせ、そこから48年革命に迫ろうとした増谷さんの視点と方法は、現在も輝きを失ってはいません。むしろ、ガザとウクライナの戦火の行方が定まらず、憎悪を煽ることで様々な価値が無価値化しかねない危うい現在こそ、私達は、増谷さんの残してくれた書物を繰り返し読み、学ばなければならないように思うのです。
増谷さん、本当にありがとうございました。
(「世界史の眼」No.60)
吉田といいます。日本近世史を学んでおります。歴史学の分野では全くの畑違いである 増谷さんとの出会いは、歴研ぬきに考えられません。私は、1978~79 年度に始めて歴研委 員となり、この内 79 年度に科学運動部の部長を勤めましたが、この委員会で始めて増谷さ んと出会いました。また、1986~88 年度の三年間、歴研の初代事務局長となり(それまで は会務委員長)、その内 87~88 年度は増谷編集長と一緒でした。この時は中村平治さんが 委員長で、86 年度には、小谷汪之さんが勤める編集長の主導の下、歴研本誌の表紙が長年 の無味乾燥な黄色から、歴研カラーの赤紫(ピンク)へと変貌し、内容も大きく刷新され ました。また新たに研究部長を設け、研究活動を強化するなど、歴研委員会にとって大き な節目の時期にご一緒しました。かくして私は、研究者としてのスタートから「歴研風土」 で育てられ、その中で中村平治さんを始め、小谷さん・南塚信吾さんともども、増谷さん は敬愛する兄上的存在であり続け、ずっと弟のような心性でおりました。因みに、妻ゆり 子(日本近世史)は、1991 年度から 2005 年度まで、東京外語大で同僚として増谷さんの お世話になり、こうしたこともあって、いつも身近に感じてきた次第です。
さて、19 世紀ヨーロッパ史などには全くの門外漢である私ですが、今から 10 年近く前、 2015 年 7 月 11 日に都市史学会の主催で「増谷英樹氏のウィーン研究に学ぶ」というテー マのワークショップを企画しました。この時私は、「1848 年革命と都市ウィーン」という タイトルで書評報告をしました(『都市史研究』1 号、2015 年、所掲の報告記事を参照)。 そこでは、増谷さんの代表作三点『ビラの中の革命 ウィーン1848年』(東京大学出版会、 1987)、『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』(日本エディタースクール出 版部、1993)、「1848年革命とユダヤの人びと」(『21世紀歴史学の創造6 オルタナテ ィブの歴史学』有志舎、2013)を素材とし、日本近世の都市社会史研究の立場から、雑駁なコメントを試みました。
今回、10 年前の報告レジュメを見ながら、増谷さんの 1848 年革命期ウィーン都市研究 について述べたことの一部を、以下に文章化してみました。
増谷さんのウィーン研究の特徴として、第一に、一貫してビラや『オーストリア・ユダ ヤ中央機関紙』など一次史料を重視し、史料によって直接語らせる手法をとり、関連史料 の博捜と、多大な労力を要する解読・分析を精緻に積み重ねることに、研究のオリジナリ ティの源泉があることが注目されます。
第二に、都市ウィーンを、その社会の構造だけでなく、その基盤としてある空間構造と 深く連関させて把握することが挙げられます。これは、『ビラの中の革命』においてすで に顕著に見られる方法です。そこでは 1 章の出だしから「市壁の内と外」を対蹠的に捉え、市内区、市外区(市壁とリーニエの間)、リーニエ(の外部)からなる三重構造として、 ウィーンの社会=空間構造を把握されています。
第三は、「女のいる」ウィーン革命史の叙述という、ジェンダー視点とその実践に見ら れる先駆性です。この点は特に、[増谷 1987]3 章「女たちの革命」や[増谷 1993]IV章 で顕著に見いだせます。
第四は、増谷さんのウィーン革命研究における問題意識の核にあり、通奏低音としてあ るユダヤ(人)問題です。ここでは、民衆レベルの革命運動に内包される反セム主義にま で視点が注がれます。こうして示唆されている視点と方法の射程は長く、ホロコーストを も照射しており、その意味は深く重いといわざるを得ません。
以上を確認した上で、日本近世における都市史研究を念頭に置きながら、氏の一連の ウィーン研究から浮かび上がる論点を二三指摘します。
一つは、個別都市史・都市論がもつ限界、という点です。増谷さんの研究に接して痛感 させられたことは、江戸のような個別都市を限定して取り上げる研究の隘路、という点で す。研究対象とする当該の都市自体の構造を分析し、その歴史過程を追うことに終始する ことには限界があると自覚させられました。都市の社会=空間構造を限定的、かつ表層的 に観察するだけでは見えない論点が、厖大に存在することへの気づきでもあります。とり わけ江戸のような巨大都市の場合、こうした都市の背景に見え隠れする広大な裾野の全貌 を把握・認識することは容易でありません。かつてハプスブルク王国の首都であったウィ ーンが、1848 年当時、その都市社会内部や周縁部にどのような要素を内包していたか、増 谷さんの研究はこれを精緻に炙り出しています。その多様性の背景には、ハプスブルク家 支配の変動と解体が首都ウィーンの地位を激変させ、さまざまの諸集団、民族、宗教など を内部や周縁に抱え込んだことがあるのでしょう。つまり都市ウィーンの「都市史」にと って、その歴史的背景や問題群の総体を理解することが不可欠なものだということです。 こうした点は、実は江戸でも同様かと思われます。巨大都市江戸を成り立たせる裾野の広 がりを包括的に把握することのないままの「都市史」は無意味であることを、再認識した ということです。
二つめは、いわゆる比較史の意味について考えさせられたことです。異なる歴史的背景 をもつ都市を比較する場合、表層的で素朴な比較史にとどまらずに、相互の都市社会のど の局面を取り上げ、いかなる方法で比較するかという問題です。
そのポイントを端的に述べると、ふつうの市民や民衆レベルの生活・労働・文化の地平 に降り立ってその視座を共有し、異質な対象としての都市を相互に比較しあい、そうする ことで自身が取り組む対象=都市の「自画像」を、他者を鑑として細部にわたり捉え返す ことに意味がある、ということかと思います。都市社会の民衆的深部における相互の比較 であり、こうした手法を比較類型把握などと呼んでおります。
例えば、『ビラの中の革命』から、1848 年革命期のウィーンと、同時期の嘉永初年頃の 江戸とを比較する軸を挙げてみると、以下のようになろうかと思います。(頁は[増谷 1987])
*借家経営。市外区・リーニエの外部における借家所有者(家主)と、ハウスマイスター の存在が注目されます。この家主(家持)は、ウィーン市の行政の末端機構を担い(p51)、 またその下で借家の管理を担うハウスマイスターは「秘密警察の手先」でもあり「ウィーンの隠れた支配構造」(p65cap.)でもあった、と指摘されています。この点は、江戸町方 の町屋敷における家持層の実態、また家持の代理人としての家守に委ねられる町屋敷経営、 あるいは町共同体の自治と末端の支配機制など、それぞれの相互対比が可能となります。
*職人層の結合組織。手工業者の「強制的同職共同組合」ツンフト、あるいは構成員への 強制力をもたないインヌンク、また職人頭層や雇用を媒介・斡旋する職人宿(p77 以降) などの存在は、当該期江戸の職人仲間や手間宿(職人宿)のありようと相互に参照するこ とができそうです。
*権力体への、都市民の賄機能。「概してウィーン市民は皇帝に忠実であった。もともと 彼らの商売は宮廷に依存している面が強かった」(p109)という指摘から、江戸において、 将軍権力が町方における多様な都市機能―燃料としての薪炭、食糧としての魚・野菜、城 郭や殿舎の普請・修復のための、材木を初めとする物資供給や諸職人の動員―に、多くを 依存したこと(せざるを得なかったこと)との類似性が気になるところです。
*遊所。ウィーンにおける売春問題に触れるビラを取り上る中で、「売春行為を公認し、 空間的に制限を加えた方がよいという議論」が紹介されています(p150)。日本近世に固 有のように言われる遊廓の「理念」とも同質のこの醜悪な議論が、1848 年革命期ウィーン に現出していることに驚かされます。
こうして、相互に直接交流することはほとんどなかった異なる都市―ヨーロッパと極東 日本の都市―を相互に比較することは、上にみたような都市社会の細部や基底における構 造、人々のありようの特質を把握する中で、はじめてその意味が生ずるように思われます。 こうした試みは、日本とフランスの近世期都市を素材に長期にわたり取り組まれ、いくつ かの成果をもたらしてきました(高澤紀恵・アラン=ティレ・吉田伸之編『パリと江戸 伝 統都市の比較史へ』山川出版社、2009 年ほか)。しかし、ウィーンと江戸の比較は、日仏 間の相互比較では視界に入らなかった点、すなわちヨーロッパとアジアのハブとして位置 するハプスブルク帝国の首都として、非ヨーロッパ系を含む多様な諸民族の複合・坩堝で もあるウィーンと、特に幕末維新期における江戸・東京との比較からは、また異なる論点 を見出す可能性を予感させます。
今回、増谷さんによる一連のウィーン研究を久しぶりに再読し、都市史の方法にとって 学ぶべき点として気づいたことを若干追記します。
第一は、史料の中に「民衆の声」を聴く、という問題です。『ビラの中の革命』でウィ ーン 1848 年革命史研究の素材として用いられた大量のビラ。また、論考「1848 年革命と ユダヤの人びと」で、基礎史料として用いられた『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』。 これらの精緻な読解から、増谷さんは、1848 年革命における多様な当時者の肉声や息吹ま でも甦らせています。これら書き手たちは、大半は当時の知識人層なのでしょうが、その 背後に、厖大な都市民衆の存在があることが浮かび上がってきます。日々の生活に追われ、 貧苦にうちひしがれ、自らの状況や思いを文書・記録に記述する術も余裕も無かった人々 の「声」が、これらビラや新聞の記述に数多く記録、反映されているのではないか。そう した思いで再読しました。歴史の闇からこうした民衆の声を断片でもいいから一つでも多く見出すことは、現代を生きる歴史研究者に課された大切な役割なのだ、ということを改 めて確認した次第です。(吉田「「史料のなかの民衆の声」に耳を澄ます」『ALC REPORT』 復刊 3 号、2022 年、参照)
第二は、都市における社会=空間構造の分節的把握、という方法についてです。2で述 べたように、『ビラの中の革命』はその冒頭で、舞台となる 19 世紀ウィーンの都市空間の 構造から叙述します。こうして、都市の社会と空間構造が、相互に密接なものとして描か れて行きますが、重要なのは、都市の社会=空間をのっぺらぼうなものとしてではなく、 これを構成する多元的な要素、多核的な特質を、分節的な構造の連鎖として把握しようと する方法です。一見茫漠とした対象である巨大都市を、分節的な諸要素へと腑分けし、そ れぞれの特質を把握した上で、全体像へと再構築する。増谷さんの研究にはそうした方向 性が感じ取れ、これに深く共感する次第です。
第三は、都市と身分的周縁という視点です。ウィーンの都市社会を構成する、なかでも 市外区やリーニエにおける民衆世界を構成する多様な要素へ注意を払う点が重要かと思い ます。都市プロレタリアート、ユダヤにおける「空気人間」、スラブ、女性たち、これら 周縁的存在への増谷さんの眼差しには、日本近世史における「身分的周縁論」を推進する 担い手の研究者たちと同質のものを感じます。こうした巨大都市と身分的周縁という視点 と方法は、解体期身分社会(初期近代)における都市の構造把握、あるいは特質解明にと ってとりわけ重要かと考えます。
2の冒頭に記した、2015 年 7 月の都市史学会ワークショップの時であったかと思います が、これに参加された増谷さんは、私の拙い書評報告に丁寧にリプライされたあと、「そ のうち、ウィーンを案内してあげる」と話されました。これまでずっと、そうした機会が 訪れることを念じてまいりましたが、果たせませんでした。無念です。増谷さんの、温か く穏やかなお人柄と、他方に窺える、ウィーンの清濁綯い交ぜの民衆世界に対する強いシ ンパシー、さらには正義ならざるものへの怒り。こうしたものに支えられた増谷さんの歴 史学は、とかく日本列島史に閉じこもりがちなこの私に、世界史への扉を優しく開いてく ださった、という思いでおります。都市ウィーン研究については、もちろん全くの門外漢 である私にも、こうして多くの学びのきっかけを与えていただいたことへの心からの敬意 と深い感謝の念とともに、哀惜の思いで一杯です。増谷さん、ありがとうございました。 合掌。
(「世界史の眼」No.60)
今号では、小谷汪之さんに、「島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。2回に分けての連載になります。また、南塚信吾さんには、連載してきた「世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―」をご寄稿頂きました。「その7」でひとまず完結となります。
はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 本号)
3 島木健作『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 次号)
島木健作(本名、朝倉菊雄、1903-45年)は札幌に生まれた。父・朝倉浩は北海道庁の官吏であったが、日露戦争時に道庁の仕事で満洲の大連に出張し、そこで病没した。島木2歳の時である。母・マツは朝倉浩の後妻であったが、自分の生んだ2人の子を連れて朝倉家を出た。そのため、島木は兄・八郎と共に、貧しい母子家庭で育つことになったのである。
島木は14歳の時に、高等小学校を1年で中退し、紹介してくれる人があって、北海道拓殖銀行の「給仕」(雑用係)となった。16歳の時には銀行を辞めて上京し、書生の職を探して医師宅や弁護士宅に住み込んだ。勤務の傍ら、「夜学は正則英語学校に通った。中等部の一番上のクラスに入れてもらった」(島木健作「文学的自叙伝」、島木『第一義の道・癩』角川文庫、所収、198頁)。しかし、翌年、「肺がわるいといふことで、帰郷するのほかないことになった」(同前)。札幌に戻ったその日の真夜中、激しい喀血があり、それきり寝込んでしまった。病気は肺結核だったのである。静養の末、18歳の時、援助してくれる人がいて、旧制私立北海中学4年に編入され、1923年、20歳で同校を卒業した。その後、上京して、帝国電燈株式会社に入社したが、同年9月1日の関東大震災により職場で負傷し、再度札幌に戻った。負傷が癒えたのち、北海道帝国大学図書館に職を得た。
1925年、22歳の時、北大の職を辞し、東北帝国大学法文学部専科に入学、東北学連の学生運動に参加し、留置所に入れられる経験もした。翌年には、大学を退学して四国に渡り、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として、農民運動に加わった。しかし、1928年、日本共産党に対する大弾圧事件である「3・15事件」に連座して逮捕、勾留された。勾留中に肺結核が悪化し、1929年には、「再び政治運動に携はることはないと転向の言葉を法廷に述べ〔た〕」(「文学的自叙伝」202頁)。しかし、翌年有罪が確定し、大阪刑務所に収監された。そこで激しい喀血があり、刑務所内の隔離病舎に移された。
1932年、刑期を1年残して仮釈放された島木は、当時東京・本郷で古本屋を営んでいた兄のもとに身を寄せ、その手伝いをしながら、療養に努めた。その結果、「可能な程度で農民のための仕事に身を近づけようと準備する迄になってゐたが」、1933年12月、病気(流行性感冒)に倒れ、断念せざるを得なかった(「文学的自叙伝」203頁)。そのような状況の中で、「長い長い間忘れてゐた文学的な表現で何か書いて見たいといふ欲求が仰へがたい強さで湧いて来た」(同前203頁)。こうして書かれたのが島木の処女作「癩」で、1934年に発表されると、大きな反響を呼んだ。「癩」は基本的には私小説で、その主人公「太田」は島木自身とほぼ重なる。
「太田」が収監されていた刑務所内の隔離病舎には「一舎」と「二舎」という2棟があり、結核の服役者は「一舎」に入れられることになっていた。しかし、「太田」は「共産主義者」ということで、その影響が他の服役者に及ばないように、「癩病患者」用の「二舎」の独房に入れられた。その隣の房には1人の「癩病患者」がいて、そのさらに隣の雑居房には4人の「癩病患者」がいた。「太田」は彼らの言動を観察する中で、彼らが旺盛な食欲を持ち、性欲も持っていることを知った。「癩」は「太田」の見たそのような「癩病患者」たちの姿を描いた作品であるが、そのリアルな描写が読む人に強い衝撃を与えたのである。
「癩」は、1934年3月にナウカ社から刊行されはじめた『文学評論』の同年4月号に掲載された。ただ、掲載に至るまでにはいろいろな経緯があった。それまで出版界とまったく縁のなかった島木をナウカ社に取り次いだのは米村正一であった。米村はソビエト連邦(ソ連)で刊行されていたロシア語の経済書などの翻訳を通してナウカ社の社主・大竹博吉とは関係があった。他方、島木は香川県における農民運動を通して、日本農民組合香川県連合会の顧問弁護士であった米村と知り合った。二人の付き合いの中で、米村は島木に面と向かって、君には文才があるとよくいっていた。それで、島木は書き上げた「癩」の原稿を、読んでもらうために、米村の方に回したのである。「癩」の原稿は「米村正一の手から『文学評論』の発行者たるナウカ社の大竹博吉に手渡され、大竹は更に森山啓、徳永直の二人に、どんなものか読んで見てくれと送りつけた。森山、徳永はいずれも、これはいい作品だとして、『文学評論』に掲載することをすすめた」(高見順『昭和文学盛衰史 上』福武書店、1983年、286頁)。こうして、「癩」は『文学評論』に掲載され、島木は新進作家として華々しくデヴューすることができたのである。
島木健作というペンネームは、「癩」を発表する時に、初めて使われた。その意味で、「癩」は作家・島木健作の誕生を印すものであった。
1938年7月、東北地方を旅行していた「太田」は旅先に転送されてきた一通の手紙を受け取った(島木健作『或る作家の手記』創元社、1940年、94頁。この作品は小説の形を取っているが、すべて島木の体験にもとづいている。したがって、「太田」は島木自身と重なる)。それは作家の「井口」からだった。「手紙の文面は、今度農林大臣のA氏が、農民文学に関係のあるものを呼んで懇談しようといふことになった。ついては君にも是非出てもらひたいと思ふ」というようなことであった。「太田はすぐに返事を書いた。自分の帰京はその頃までには難しからうと思ふから、残念ながら出席することは出来まいと思ふ」と(『或る作家の手記』94-95頁)。
この「農林大臣のA氏」というのは有馬頼寧のことで、有馬の意を体して、「太田」に手紙を書いた「井口」は徳永直であると考えられる。それは以下の一文から推測できる。
彼〔太田〕は井口とは、三四年前に井口がある文学雑誌の編輯者だった関係から面識があるだけだった。彼は関西の方の農村の事情に通じてゐて、此頃ぼつぼつ農民小説を書きだしてゐた。(『或る作家の手記』94頁)
「井口」についてのこの文章は「癩」の『文学評論』掲載に至る経緯に関説したものに違いないが、その内容からいって、「井口」は森山啓ではなく徳永直だったと考えられる(「井口がある文学雑誌の編輯者だった」というのは島木の思い違いであろう。徳永は『文学評論』の編輯相談役といった立場で、編輯者はプロレタリア歌人の渡辺順三であった)。『太陽のない街』(1929年)で知られるプロレタリア作家・徳永直がどのようにして有馬頼寧とつながりをもったのかは分からないが、徳永は1933年には「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)を脱退し、実質的には「転向」していたから、こういうこともあったのであろう。
有馬頼寧と農民文学作家たちとの懇談会は予定より遅れて1938年10月になって開かれたので、島木健作も出席することができた。その他の出席者は和田伝、丸山義二、打木村治など10名ほどであった。そこで、農民文学懇話会の結成、農民作家の大陸視察への派遣、農民文学賞の設立などについて話し合いが行われた(尾崎秀樹『近代文学の傷痕――旧植民地文学論』岩波同時代ライブラリー、1991年、272-275頁)。農民文学懇話会の発会式は1938年11月に行われ、島木健作など30名ほどの作家が参加した。
島木は農民文学懇話会に参加した理由について、『或る作家の手記』の中で次のように書いている。
このやうな会に出席することを承知した時の彼〔太田〕の気持はどのやうなものであったらう。それはただなんとなく勧誘に乗ったといふのでもなく、さういふ会のなかで何か一つ派手にやって見ようと思ったのでもなく、自分の文学をもって大いに政治に奉仕しようと思ったわけでもなかった。人として文学者として生きて行かうとするその頃の彼の気持なり態度なりの自然なあらはれにすぎなかったのである。(96頁)
この曖昧模糊とした自己韜晦的な文章は、裏に何かを隠しているように感じられる。それは、おそらく、もっと政治的なことだったのであろう。これより2年前の1936年11月、思想犯保護観察法が施行され、島木健作はその対象者とされた。「偽装転向者」ではないかと疑われたのであろう。これにより、島木は1945年まで官憲の監視下に置かれることになった。そのような状況において、有馬頼寧を肝煎りとする農民文学懇話会に参加することは、いわば一つの政治的「保険」のような意味合いをもっていたのではないかと思われる。ちなみに、同じく思想犯保護観察法の対象者とされた高見順は戦後における伊藤整との対談で、次に取りあげる大陸開拓文芸懇話会に関説して次のように言っている。「大陸開拓文芸懇話会、あそこらへ籍を置いとかないと、ふん捕まっちゃうんじゃないかと、僕なんか特にそういう感じがして、いやだったな」(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」『昭和文学研究』25号、1992年、85頁)。島木健作も同じような恐れを感じていたのではないだろうか。
農民文学懇話会は後に日本文学報国会(1942年5月結成、会長は徳富蘇峰)に吸収併合されたことから分かるように、本質的に国策文学団体であった。
農民文学懇話会の結成から約3か月後の1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が発足した。こちらは拓務省と満洲開拓に関心をもつ文学者の連携で結成された団体で、会長は岸田国士、委員は福田清人、田村泰次郎、湯浅克衛など6人であった。会員は伊藤整、丹羽文雄らに加えて、農民文学の和田伝、丸山義二など、そして「転向作家」とみなされていた島木健作、徳永直、高見順などで、全部合わせて29名であった。その事業としては、「大陸開拓に資する優秀文芸作品の推薦又は授賞」、「大陸開拓事業の視察並びに見学に対する便宜供与」、「大陸開拓文芸に関する研究会、座談会、講演会の開催並びに講演者、講師の派遣」などが掲げられていた(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」、各所)。その点では農民文学懇話会と共通する面が多かった。
1939年2月18日、大陸開拓文芸懇話会の最初の活動として、満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(茨城県水戸市)を1泊で訪問した。参加したのは岸田国士、福田清人、伊藤整、島木健作、高見順、田村泰次郎など、十数名であった。その夜開かれた「懇談会」における島木健作の様子を田村泰次郎は次のように伝えている。
島木はつねに日本農民の大陸進出に関しては、彼らの擁護者であり、その立案者と実行者に対しては監視者であった。私がはじめて彼を知ったのは、〔大陸〕開拓文芸懇話会仲間で水戸の内原訓練所へ見学に行って、一泊した時である。その夜、訓練所側のひとたちや、満州の現地から内地へ出張してきたひとたちと、懇談会があった。その席上で、一座の空気は、開拓民の生活の前途を希望的に肯定した上で、話しあいがつづけられたが、彼ひとりは開拓民の生活の前途は必ずしも楽観できないと、どこまでも喰いさがって、相手側を手こずらせた。その言説は理論的で、その理論はまた、綿密に現地の生活の実態を調べてあるので、相手側にとっては不意を衝かれた感じであった。度の強い、細ぶちの眼鏡を光らせ、幾分、身体を猫背にして乗り出すようにしながら、加藤完治〔内原訓練所〕所長に喰ってかかる島木の姿は、恰度、豹が獲物に躍りかかろうとする姿を思わせた。(田村泰次郎『わが文壇青春記』新潮社、1963年、35頁)
この時、島木はまだ満洲に行ったことはなかったのであるが、満洲行の準備として満洲や満洲開拓に関する文献を広く読み、さまざまな知識を身につけていた。それに依拠して、満洲開拓についての楽観的な観方を批判したのである。
大陸開拓文芸懇話会も後に日本文学報国会に吸収併合された。拓務省と連携した国策文学団体であったから、そうなるのも当然だったのであろう。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.59)
薩摩の対中貿易は琉球の進貢貿易を利用して行われてきていた。これまで、薩摩の観点から琉球の貿易を見てきたが、改めて琉球の側から見直してみよう。
国内での生産に恵まれない琉球王国は、15-16世紀には、東アジアの国際交易のネットワークの中心として栄えた。中国、日本はもとより、朝鮮、安南、シャム、スマトラ、マラッカ、ジャワなどと貿易を繰り広げていた(宮城61-69頁;新里他 1975 66-72頁)。
だが、琉球王国は1609年(慶長4年)に島津の薩摩藩によって制圧された。独立の王国から、薩摩によって支配されるようになった琉球王国は、他国へ商船を派遣することを禁じられ、それまでのように東アジアの国際交易から利益をあげることはできなくなった(新里他 1975 77-81頁)。
しかし、中国との進貢貿易は維持・継続された。琉球から中国へ貢使が派遣され、琉球産やその他の品物を貢いだり、販売したりした。お返しに中国から金銭や生糸が与えられた。薩摩藩は膨大な財政赤字を抱え、その立て直しにこの進貢貿易を利用しようとした。琉球は貿易のための資金に不足していて、薩摩から借り入れねばならなかった。琉球の進貢貿易に薩摩が積極的に介入したのは1631年(寛永8年)からであった。この年、薩摩藩は琉球の那覇湊(首里王府のある首里ではなく)に薩摩仮屋(かいや)と琉球在番奉行所を置き、進貢貿易を手中に置こうとした(徳永 2005 31-33頁)。琉球王国においては、国王の下に摂政と三司官が置かれ、その下に申口(もうしくち)と物奉行が置かれ、申口の下の鎖之側(さしのそば)が船の点検や外国使者の接待や那覇・久米村の行政監督をすることになっていたが、薩摩はその権力ルートとは別のルートを設けたのである(新里他 1975 89,102頁)
1633年(寛永10年)に琉球王は、明の冊封を受け、中国より「琉球国中山王」として認められた。ここに、琉球は、中国との関係で、両属状態に置かれた。薩摩はそれを承認していた。そして同年、明からの冊封使船(冠船)が来た際、貢期を二年一貢と貢船二艘の制を認めてもらった(新里他 1975 89頁)。
1639年(寛永16年)にポルトガルが追放されたのち、ポルトガルがもたらしていた中国産品の輸入が停滞した。そこで、薩摩は、琉球に中国から生糸、巻物、薬種などを輸入させることを幕府に請け合った。その後、1644年に明が滅びて、清が中国を支配するようになると、1663年(寛文3年)には、琉球と清朝との冊封関係が成立し、従来通り二年に一回の貢使派遣が定められた(上原 2016 19-25頁)。幕府と薩摩藩は、この冊封関係に基づく進貢貿易を介して唐物を輸入するために、琉球口を長崎口を補助するものとして位置づけた。
琉球は、二面の貿易を行っていたわけである。対中国と対薩摩である。この時期、中国との進貢貿易では琉球は生糸・薬種などを輸入し、銀を輸出していた。一方、薩摩藩には中国から入手した生糸の他に、琉球産の砂糖や鬱金を輸出して、銀を輸入したのである。琉球では砂糖や鬱金は農民の労働によって生産されていたが、それへの統制が強まった。また琉球に銀は産しなかったので、薩摩との貿易で入手するか、長崎・大坂から直接入手した。実際には、琉球は貿易で利益を得ることはなかった。わずかに、朝貢使節や進貢船の船頭・水主(かこ)らが私的に品物を持っていって売り捌く利益が認められていたことがメリットであった(上原 2016 27-37頁)。
しかし、琉球をめぐる薩摩藩と幕府の関係は単純ではなかった。琉球口貿易は幕府の直接的支配はなく、薩摩藩の裁量にゆだねられていたかのようであるが、一方で幕府の統制は長崎貿易の統制に伴い次第に強化された。他方、薩摩藩は琉球王国側からも絶えず抵抗に遭っていた。
琉球口貿易に対する幕府の統制は1686年(貞享3年)から始まった。1685年に幕府は、長崎口での貿易輸入量を規制・縮小していたが、翌年にはこれは琉球口の貿易にも及び、幕府は薩摩への琉球口貿易品輸入量の減額を命じた。これは1688年(元禄元年)から琉球の進貢貿易にも影響して、その貿易額が削減され、中国へ渡す銀(渡唐銀)の量が減らされたり、毛織物輸入が禁止されたりした(徳永 2005 111―115頁;新里他 1975 91-92頁)。
さらに、幕府は銀に代えて銅を使うようにしていたが、琉球の場合現地では銅も産しなかったので、大坂で入手した。そして、1698年(元禄11年)以後は、幕府は、銅とともに、俵物(煎海鼠、干鮑など)と諸色(昆布など)を輸出することに力を入れたが、これに合わせ、琉球でも俵物・諸色が輸出に使われるようになった。ただし、それは、私貿易品として船頭・水主(かこ)らが持ち出すものであった(上原 2016 44-46頁)。
18世紀になると、中国からの輸入品に変化が現れた。それは生糸輸入の減退であった。1710-30年代になると、国産生糸が出回り、販路が狭まって、中国からの生糸輸入に影響を及ぼしたが、1760年代に中国が朝貢国琉球に対してまで生糸輸出を制限するようになった(上原 2016 47頁)。このため、中国からの薬種輸入の意義が増大した。こうして、琉球の進貢貿易において、中国からの薬種輸入、中国への俵物・諸色輸出が支配的な形になってきた。しかし、幕府の干渉によって、これは円滑には動かなかった。
財政難にあった薩摩は、なんとしても琉球の進貢貿易からの利益を拡大しようとした。1800年(寛政12年)、薩摩は、唐物の薬種・器材類の他領売り捌きの許可を幕府に願ったが、1802年に、幕府は、琉球の進貢貿易での薬種の輸入を厳禁し、唐物器材類の販売も薩摩藩内に限ることとし、他領での販売を認めなかった(新里他 1975 92)。そこで薩摩藩は長崎商法に頼らざるを得なくなった。薩摩藩主家豪は11代将軍家斉の岳父(家豪の三女が家斉夫人)としての権威をよりどころに、長崎の会所貿易に食い込んで、1810年(文化7年)には、紙、鉛、羊毛織など琉球の輸入産物を「琉球物産」として長崎で販売することを5年間にかぎり認めさせた(上原 2016 111頁)。これは進貢貿易で入手した唐物を長崎商法で販売する道を開いたことを意味した。このあと藩はさらに長崎商法を拡大するよう画策するとともに、琉球唐物を一括買い上げて藩の専売下に置こうとした。しかし、琉球側ではこれに容易に応じなかった。
琉球は、東アジア世界の中で最も旺盛な通交・貿易を展開し、貿易こそが国家の維持と繁栄の鍵であった。
そのような琉球を仲介とした進貢貿易は薩摩の思うようにはいかなかった。その理由の一つは、進貢貿易における進貢使節は慣例として使節者個人の私交易が認められていたことで、二つは、琉球から薩摩への貿易品輸送は商船を所有する商人(海商)が担ったことである。そして、進貢使節がもたらした私交易品はまさに抜荷であり、それを購入した海商は領内を始め江戸・大坂で販売する抜荷を行なっていた(徳永 2005 94-95)。これらは、琉球の王府の黙認する抜荷であった。唐物の一括買い上げはこういう慣例を脅かすものであった。加えて、琉球の唐物貿易は、王府に資金がないので、貿易に関係する役人や船方の負担のうえで成り立っていて、かれらに利益を還元せねばならなかった。したがって、琉球側は薩摩の買い上げには容易に応じなかった(徳永 2005 94-95頁;上原 2016 111-133頁)。
結局、1819年(文政2年)には、琉球はついに薩摩藩による琉球唐物の一手買入制を認めさせられた。同時に、薩摩藩は琉球の救済を名目に、長崎で販売できる「琉球物産」の品を拡大することを幕府に認めさせた(上原 2016 134-142、158頁)。こうして薩摩は幕府に唐物の扱いをかなり任されたことになり、それを制度的に確定すべく、1826年(文政9年)に、琉球に「唐物方御座」を置き、琉球における貿易関係の事項はすべてこの座が扱い、決定をその琉球に下していく体制を整えた(上原 2016 162-167頁)。
薩摩の支配のもと琉球は、本土から薩摩を経由して得られる昆布などを中国に輸出し、薬種など唐物を輸入して薩摩に引き渡すという立場に置かれたのである。
1827年(文政10年)から始まる薩摩藩での調所の財政改革は、琉球にとっては、まずは砂糖の作付け拡大要求として現れた。すでに奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島は、これを受け容れていたが、琉球は、百姓の負担増を理由に、なかなか受け入れてこなかった。しかし、1830年(文政12年、天保元年)にはついにこれを受け入れた。そして、琉球が輸出する砂糖の三分の一程度を薩摩藩が安く買い入れることとなった(上原 2016 173-203頁)。
調所改革の今一つの重要なポイントは、対中貿易の拡大であった。しかし、琉球側から見ると、薩摩が対中貿易を強化することは、決して利益にはならなかった。つまり、慢性的に財政赤字の琉球にとって、対中貿易は十分な資金をもって行われていたのではなく、中国側も品物の質や量や値段を駆使して輸出を操作しようとしたから、薩摩が思うような量と質の唐物を琉球が獲得できないこともあった。また、関係役人や船頭は、身銭を工面して唐物を買ったり、俵物・諸色と交換に唐物を買ったりして、帰国後にそれを売って、ある程度の利益を得ることは黙認されていたが、薩摩の監督が厳しくなると、そういう利益は得られなくなった。そこで、抜荷に走る者が絶えなかった(上原 2016 231-237頁)。
調所改革は、1830年代に入ると一層加速されたが、複雑な問題も抱えた。薩摩藩は、1834年(天保5年)に翌年から20年間にわたって、長崎での唐物の販売許可を幕府からとりつけ、これにより事実上、藩は長崎で自由に売買ができるようになった。だが、それは琉球から得る唐物の一層の増大を必要とするようになった(上原 2016 229頁)。同時に薩摩藩は、昆布と薬種の長崎を通さない抜荷を拡大させたが、1835年(天保6年)に新潟で抜荷摘発事件を引き起こし、それにより幕府が1836年(天保7年)に松前と薩摩に対して抜荷取締り令を出すことになった。
これは、琉球にも知らされ、中国との進貢貿易が厳しく取り締まられることになり、唐物の抜荷対策が強化された。渡唐船入港に際しての荷改め、積荷の保管、薩摩への積荷輸送などの過程で取り締まりが強化された。輸入された唐物はすべて唐物方御用掛で荷改めされることになった。例えば、中国へ行って帰ってきた渡唐人たちのもたらした積荷は、これまでは荷改めが済み次第、唐物方が独占的に取り扱う品を除いて、荷主に引き渡されていたが、今後は、荷主に引き渡されていた品のうち、個人的な使用物やお土産などを別にして、売却用に使われていた品は、当局に届け出ることになった。これは、貧しい渡唐人たちの収入源を押さえることになった。琉球では、唐物の輸入と薩摩藩への提供には、関係の役人や船頭の身を削るような貢献を必要としていたが、そのような犠牲をさらに強めることになった。こうして、琉球は唐物の御用改めを受けつつ長崎販売用に唐物を多く提供しなければならなくなった(上原 2016 278-286、293-296頁)。
薩摩藩は御製薬方を創設し、自前の製薬をめざしたが、それには中国の薬種が必要であった。また、1846年(弘化3年)には幕府に上述の長崎商売差し止めを解除してもらったが、長崎商売を拡大するためにも、唐物の輸入の拡大が必要であった。だが、唐物の輸入拡大は琉球をさらに犠牲にするものに他ならなかった。このように琉球を踏み台にして拡大する薩摩藩の唐物商売に、富山の薩摩組が組み込まれることになったのである。1849年に、組として蝦夷の昆布の輸送を引き受けた薩摩組は、唐物輸入のために琉球で必要な蝦夷の昆布を北前船で薩摩へ輸送し、琉球から得られる中国の薬種を、薩摩藩で使う分を除いて、長崎や北陸方面へと運んだのである(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁;上原 2016 319-320年)。
だが、こういう形で進んだ薩摩組の昆布輸送は、1854年(安政元年)には終わった。同年、薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。日本から中国への昆布輸出量の変化はその後も増加したが、琉球からの昆布輸出は1854年以後(1857年を除いて)減少した。
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こうして、18世紀の初めには、北前船を介して、北は蝦夷を通して樺太、カムチャツカ、南は薩摩、琉球を通して中国へとつながる世界的な交易ルートができることになり、その重要な流通品が琉球の犠牲の上に得られる中国からの薬種と、蝦夷のアイヌの労働によって取られる昆布なのであった。そして、その昆布―薬種交易を仲介するのが、越中の売薬を背景に持つ薩摩組であり、種々の北前船であった。ここに松前口貿易と長崎口貿易と琉球口貿易が越中売薬を通して繋がったのである。
なお、1854年以後の日本はますます世界的動向に巻き込まれていく。1853年には、アメリカのペリーが浦賀に来て、1854年に日米和親条約が結ばれて、箱館が下田とともに開港した。昆布は箱館から直接中国に送られ、蝦夷では中国向け輸出の昆布の生産が増加した。薩摩・琉球経由の中国貿易は衰退していった。富山の薬種輸入も、薩摩経由はなくなり、大坂経由に一本化された。北前船は開国以降、一層の発展を見せるが、それは蝦夷(北海道)と大坂の間を結ぶルートで発展した。こうして、1854年以後は、四つの口の議論とは別の舞台の上で、論じられる必要がある。
上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
新里恵二・田港朝昭・金城正篤著『沖縄県の歴史』山川出版社 1975年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
宮城栄昌『沖縄の歴史』日本放送出版協会 1974年
(「世界史の眼」No.59)
2025年最初の「世界史の眼」をお届けします。今号では、米国の世界史研究者パトリック・マニングさんによる「世界の世論と国連改革」を掲載しています。マニングさんは、Contending Voices: Problems in World Historyと題されたブログに多数の論考を投稿されており、その中から本人の了解の上でここに翻訳掲載しています。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)
世界の世論と国連改革