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「世界史の眼」No.57(2024年12月)

今号では稲野強さんに、反軍演説で知られる戦前の政治家・斎藤隆夫について扱った「「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―」をご寄稿いただきました。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。

稲野強
「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―

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「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

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世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

2.富山の売薬と薩摩組

(1)富山売薬の始まり

 富山藩は、1639年(寛永16年)に100万石の加賀藩から分封してできた10万石の小藩である。越中国の中の婦負(ねい)郡を中心にした藩で、その東西は加賀藩領であった。

 富山売薬を代表する反魂丹(はんごんたん)が登場した経緯については、諸説があるが、有力なのが1683年(天和3年)に岡山の医師が富山藩主前田正甫(まさとし)に献上した時であるという。そして貞享年代(1684-88年)には富山藩内で一般に使われるようになった。

 反魂丹が全国に行商されるようになるのはなぜか。諸説があるが、もっとも知られているのが、元禄3年(1690年)に藩主正甫が江戸城に参勤していた折、他の大名の腹痛に反魂丹を勧めて腹痛を恢復させたという話である。この話を聞いて、他の大名も自藩への反魂丹の販売を希望したというのである。こうして、遅くとも享保(1716-1735年)年間には、富山売薬は全国的に展開したと言ってよい。富山売薬は、江戸時代にあって、藩の領域を超えて全国的な広い行商活動をしていたのである。富山売薬の行商圏は、まず中国、九州へ、ついで日本海沿岸地域、近畿、奥羽、関東へ、そして松前・蝦夷へ広がった。

 富山の売薬は、得意先に薬を詰めた箱や袋を預けておいて、年に1、2回訪問して、使用した薬の代金を回収し薬の補充を行うという、配置売薬の方式を取っていた(先用後利という)。売薬行商人が行商に出掛ける時期は、とくに決まってはいなかったが、大体は春と(晩)秋に1回ずつ、年2回巡廻していた。これを春廻り、秋廻りと言った。享保以後進展する商品経済の中で、全国の町や農村の住民の間での薬需要が高まり、富山売薬は全国的に受け容れられたのである(以上は、植村 1959 49-50、59-60、64頁;村田 2015年 252頁;幸田 2015 50-52頁)。

 博物館だより (city.toyama.toyama.jp)

 貧乏な富山藩は売薬商人が藩外に出て行商することを積極的に奨励した。藩からの正貨流出を防ぎ、他領からの正貨流入を促進するために、元禄から享保にかけて(1690-1730年ごろ)の時期には、藩外に出て自由に行商をすることを許可する「他領商売勝手」の触れを出していた(幸田 2015 51頁)。

(2)「組」の結成

 売薬が全国的に広がるにつれ、薬売り仲間が売薬地域ごとに集まって、売薬の相互協力や規律を決めあうようになった。そういう集団が「組」であるが、組の結成の理由については、あまり議論がされていない。わずかに村田が、一定の議論をしている。それによると、組の結成の理由は、①他国で行う行商に必要な鑑札をまとめて申請できること、➁行商人の増加や行商圏の拡大に伴い、管理・運営を個別で行うことが難しくなったこと、③富山藩としても、まとまった組織からの上納金を得て、その組織に保護と独占権を与えるという形で行商人を統制できたことが理由としてあげられている。各「組」は、それぞれに「示談定法書」というものを定め、自律統制を強固にしていた。

 かくて、明和期(1764-1772年)ごろに、薬売りは日本全国を行商先ごとに「組」に分けて、関東組、九州組、美濃組などを作った。最初は18組、文化年間(1804-1818年)には20から21組、安政期(1854-60年)には22組ができた。1853年(嘉永6年)におけるその分布は、下の地図の通りである。分布は、関東・畿内など、領国的な支配が強くなく、経済活動の盛んなところに多く、九州・中国・東北など領国的な支配の強いところには多くはなかった。なお、1人脚(ひとりあし)というのは、一年に二回りとして、2000~2500軒くらいの顧客の規模である(植村 1959 166-167頁;村田 2015 251頁;高瀬 2006 39頁)。

出典 植村 1959 67頁

 この「組」の結成は、富山藩が反魂丹(はんごんたん)役所を設けて、薬売り全体を統括しようとしたのと、時期的には一致していたようである。反魂丹役所の設立時期は、二説あって、明和期(1764-72年)か文化・文政期(1804-30年)ごろと言われているが、組は反魂丹役所に届け出て、認めてもらい、藩から特権を授けられたのである(植村 1959 237;村田 2015 249-251頁;幸田 2015 57頁)。一方、「組」は、行商をする当該の藩にたいして冥加・運上を納入して、藩内での売薬行商を求められたのであり、「組」においては組の規約「仲間示談書」があり、行商人の行動を厳しく取り締まっていた(高瀬 1993 39頁;幸田 2015 56―57頁)。

 売薬が広がるにつれ、1760年代には安価な薬種が求められるようになった。薬種の仕入は、仲間組合ならびに富山藩において厳しく制限されていた。富山平野ならびに近隣地域には、売薬の薬種や原料はほとんどなかったため、領外から仕入・調達するしかなかった。外国産の原料薬の仕入は、すべて富山の薬種屋を経由して買入れなければならなかった。宝暦期(1754―61 年)頃になると、藩は薬原料を富山の薬種問屋(茶木屋、中屋、油屋、能登屋など)が指定した仲買人を通して売薬商人に配給した。この薬種問屋が薬原料の運送・調達 ・保管の機能まで持つようなっていた(幸田 2015 52頁)。

 反魂丹の主原料である木香(もっこう)、黄苓(おうごん)、胡黄連(こおうれん)、縮砂(しゅくしゃ)、乳香(にゅうこう)、爵香(じゃこう)、相実(きじっ)、青目白(りゅうのう)、牛黄(ごおう)などは、中国やその南方方面からの輸入品であった(幸田 2015 52頁)。例えば、乳香は中国産、爵香は中央アジア、ヒマラヤ地方や中国に産する爵香鹿から取れ、牛黄は中国のほか、インド、ペルシアなどにいる山羊や牛から取れるものであった(植村 1960 118頁)。つまり、反魂丹は、中国からの薬種から作られると言っても、さらに探ると、広くアジア世界からの薬種をその中に詰め込んでいることになる。

 このような唐薬種は、長崎会所を通じて輸入され、入札商人の手を経て大坂船場の道修町周辺の薬種問屋(に納められた後、富山の薬種屋に運び込まれた。これが正規のルートであった(幸田 2015 52頁)。しかし、このルートで仕入れられる薬種は高価で、富山売薬や薬種商には経営上障害であった。「享保年間以降に進展する商品経済」は町人や農民の薬需要を増加させていたので、より安価な薬種が求められた。したがって薬種の入手にはそういう正規のルート以外のいろいろな道が使われていた(深井2009 189-190頁)。

(3)薩摩組

 上のような「組」の一つに薩摩組もできていた。薩摩組は、1783年(天明3年)には13人脚、1801年(享和1年)に22人脚、1816年(文化13年)に26人脚であった(高瀬 1993 39頁;上原1990 274頁;徳永 2005 148-149頁―植村 1959 166頁は少し違った数字を示している)。秋田組に次いで小さな組であった。九州についてみると、薩摩組のほかに「九州組」もあった。これは薩摩を除いた九州全域を対象とする大きな組であった。薩摩組は小さくても独自の組でなければならなかったわけである。

 薩摩組の売薬を取り仕切ったのは、能登屋(密田)、宮島屋(金森)、鳥羽屋(高桑)などの帳主であった(高瀬 1993 39、42頁)。中心は、宮島屋(金森)と能登屋(密田家)である。このうち密田家は、1662年(寛文2年)に能登から富山へ移住してきて、能登屋と号した。密田家は、売薬を主な業として発展し、得意先は薩摩のほか、紀伊、讃岐、阿波、京都、大坂に広がっていた。同時に密田家は、富山町人としても地位を高め、1690年(元禄3年)には、富山町年寄の仲間入りをしていた。薩摩組に入って、天明年間(1781-89年)には、薩摩組の仲間の内で、三人脚を持って、組の筆頭であった。薩摩藩側との交渉に当たらなければならなかったが、藩権力と直接に交渉するのではなく、町年寄など仲介者を介して交渉した。とくに薩摩藩のたびたびの「差留」に際しては、その解除に動かなければならなかった。1830年代(天保期)には、400石積の中型船「栄久丸」と650石積の大型船「長者丸」を持つことになる(徳田 1992 3頁;富山市教育委員会 2001 61―62頁)。

 薩摩組は大きくなれなかったが、それは薩摩藩が頻繁に「差留」(=藩内での行商活動を禁止すること。差留については、幸田 2015 55―56頁)を行なったことにも関係している。藩では大きな顧客市場は見込まれなかったのであろう。関東や畿内では富山売薬に対する規制が相対的に弱かったが、九州|や奥中園、東北では藩の規制が相対的に強く、運上金や冥加金などによって、独占的に御免場所を許可されることが多かった。反面、そうした地域では「差留」による営業停止を受けることもしばしばであったのである(幸田 2015 54-55頁)。

 だが、薩摩組は他の組よりも富山藩にとって重要な組であった。上述の通り、薬種の入手は南からが中心であったが、正規の長崎―大坂ルートからの入手は高価で数量も限定されていた。だから、薩摩藩が鍵であって、薩摩組が注目されたのである。

3.薩摩藩の政策

(1)薩摩藩と薩摩組

 富山売薬は北九州と中九州へは17世紀中には入っていたようであるが、南の薩摩へはいつごろから入ったかは正確には分からない(高瀬 1993 38頁;上原 1990 273頁)。しかし、18世紀前半の享保年間(1716-36年)には入国していたようである(塩澤 2004 28頁)。徳永は富山売薬の活動が1781年(天明1年)には確認できるという。前述のとおり、1783年(天明3年)には「薩摩組」ができていたのである。薩摩組の「示談定法書」は1818年(文政元年)のものが知られている(徳永 2005 144頁)。薩摩藩は浄土真宗を禁じていたが、越中は浄土真宗の広がった国であった。それゆえ、薩摩組は、「越中の売薬」と自称する事を避け、「越中八尾の売薬」と称して薩摩藩内で商売をした(徳永 2005 146 頁)。

 のちに薩摩藩は琉球を通した進貢貿易からの利益を得るために、薩摩組に蝦夷からの昆布を運ばせることになるが、最初からそうだったのではない。

 薩摩組は、薩摩との輸送は西回り航路を使う北前船で薬を運んで、薩摩に届けた。ただ、当初北前船は、直接鹿児島まで薬を運んだのではなく、富山からの薬は、大坂行の北前船に積まれて、大坂まで運ばれるか、下関で降ろされた。その両地から別の船などで薩摩へ運ばれたのであった(高瀬 1993 42頁;徳永 2005 153-154、162-163頁)。やがてこの方式は変わってくるが、こうしたルートで薩摩藩内に運ばれてくる薬を、売薬商人が引き受けて藩内の町民や農民に家に配置して歩いたのである。薩摩組は薩摩藩の領域内をいくつもの区画(掛場)に分けて売薬をした。鹿児島城下などは宮島家が持ち、國分、都城などは能登屋が持った。

 薩摩藩は出入りが厳しかった。薩摩組はたびたび藩内での商いを「差留」された。薩摩は天明元年―3年(1781-83年)、天明7年―寛政元年(1787―89年),寛政11年―享和元年(1799-1801年)に薩摩組の入国を「差留」している。理由はあまり明確ではないが、正貨を藩外に持ち出させないように、藩財政を悪化させるから、などであった。これに対して、薩摩組は、「差留」を解除させるために金品を差し出した(こういう差留は薩摩に限ったことではなかった)(塩澤 2004 28-31頁)。

 こういう薩摩藩の厳しい政策の下でも薩摩組関係は、薩摩で唐薬種を入手した。富山藩にとって薩摩組の意味は、単に薩摩藩で薬を売るだけではなく、薩摩においてから唐薬種を入手する事でもあった。唐薬種の抜荷ではない入手ルートは、琉球から薩摩へきたものを、定められた量だけ長崎へ持ち込んで検査を受け、それを大坂に運んで、そこから陸路で富山へ持ち込むというものである。だが、量的にも、長崎を経ないという点でも、抜荷で運ばれる唐薬種は多かったようである。琉球から来た唐薬種を薩摩から富山へ運ぶ抜荷ルートはいくつかあった。一つは、薩摩から直接富山ないし新潟へ運ぶルートである。いま一つは、薩摩から長崎を通らないで大坂へ運び、大坂から川船で京都へ移し、京都から陸路の飛脚で富山へ運ぶルートである(深井 2009 220,222頁)。前者の場合はもちろん後者の場合も大阪までは、北前船が運んだのである。

 薩摩方面からの薬種の不法入手は、薬価の引き下げには期待されていたわけであるが、事の性格上、史料は残っていない。抜荷についての史料は極めて少ない。わずかに間接的に知る事が出来るにとどまる。たとえば、1818年(文政元年)の『薩摩組示談定法書』には、仲間が厳守すべき規定として、「彼地において出口不正の薬種は申すに及ばず、ご法度の品々何によらず、小分たりとも仲間一統に買取候儀は、決してあいなり申さず候事」というものがある。これは逆に、「出口不正の薬種」などが買い取られていたことを物語っていると考えられている。また、1821年(文政4年)には、長崎会所より唐物販売に関する嫌疑を受け、薩摩組一統が科料銀の支払いをよぎなくされていた(上原 1990 276-277頁;高瀬 1993 40頁)。

 最もはっきりしているのは、神速丸の事件である。1827年(文政11年)に越中放生津の七兵衛の船である神速丸が昆布を薩摩へ運び、帰りに抜荷の唐薬種を積んで難破するという事件があった。350石の神速丸は箱館で昆布や鰊などを買い付け、西回り航路で下り、下関から長崎沖を廻り、山川で取引をした。帰り荷に唐薬種などを買い、備中玉島で冬囲いをし、翌春に積み荷を越中東岩瀬に運ぶ途中、石州那賀郡(島根県浜田)で難破した。これは抜荷を薩摩・富山まですべて海上で輸送していた北前船の例である。神速丸は、船主や船頭の意思で昆布輸送などを行っていたのではなく、ある富山売薬商から依頼されて輸送を請け負ったものであった。これは薩摩組の依頼ではなかった(深井 2009 72-79,194頁)。

 だが、注意しておきたいのは、この時期、抜荷の唐薬種を購入することを、富山藩の意向もあって、薩摩組は禁じていたことである。だから、組として、組仲間として抜荷の薬種に関わることは自制していた(深井 2009 71頁)。やがてその姿勢は崩れるのだが、それは追って考えることにする。

(2)1832年「差留」解除と昆布

 薩摩藩では薩摩組に対して1826年(文政10年)に、四たび「差留」があった。この「差留」が1832年(天保3年)に解除されたとき、薩摩組は、鹿児島下町年寄の木村喜兵衛の仲介で、年々昆布1万斤と金200両を献納することで解除を得た(高瀬 1993 43―45頁;塩澤 2004 30頁)。この1832年前後という時期は重要で、この時から、薩摩組は新たな役割を演じることになった。

 すなわち、薩摩組は、薩摩藩内での売薬を求められるだけでなく、薩摩藩が琉球の進貢貿易から得た唐薬種を手に入れるために、北前船を駆使して、蝦夷松前からの俵物や昆布を直接薩摩へ運び込む役割を引き受けた。言い換えれば、薩摩組は、北前船を使って、辺境の松前と辺境の薩摩を結び付け、琉球口貿易と松前口貿易とを結びつけ、そうすることによって、東アジアの国際的な貿易ネットワークを成立させたのである(徳永 2005 160-161頁)。

コラム:植松 2023によると、この間1831年に、薩摩藩では、調所笑左衛門が蝦夷の昆布と中国の薬種との取引から一層の利益を得ようと、富山の薩摩組に近づいた。そして、彼らが一層多くの昆布を蝦夷から持ち込むよう説得し、薩摩組の中心である能登屋を動かした。そしてそのための融資をするところまで踏み込んだ。薩摩の船が蝦夷を行き来しては怪しまれるからである。この融資を使って、能登屋は長者丸という専用の船も建造した。こういう薩摩側の動きの中で、1832年の解除がなされたのであろうか。ただし、植松の描くこの間のことは、典拠は不明である。

 かくて、薩摩組にとって、1832年の「差留」解除に際しての約束以後、昆布の確保、輸送が大切な問題となった。組は支度金を渡してまで、昆布輸送の船を確保しようとした(高瀬 1993 54頁;深井 2009 195-196頁)。すでに文化年間(1804-17)に、北前船によって昆布を直接薩摩へ輸送し、帰りに抜荷の唐薬種を仕入れる越中の売薬業者がいたと考えられていて、文政期(1818-29)以降、薩摩の抜荷推進に伴い、彼らの活動が活発になっていたと言われる(深井 2009 86頁)。いまや、この動きが制度化されたのである。

 薩摩組にとって年々昆布1万斤と金200両を献納することは、かなりの負担であったはずであるが、利益もあった。薩摩組は、一万斤を超える昆布を持ち込んで、一万斤は献納したが、それ以外の数万斤は藩に買い取ってもらうことになったからである。それだけではない。実は、これらの船は、薩摩で薬種などを仕入れて、それを大坂でも販売していたと思われる(高瀬 1993 45頁)。北方口の蝦夷地から昆布を琉球口の窓口となる薩摩へ届け、帰りには琉球口から入る唐薬種を薩摩から大阪、あるいは新潟、輪島などにおろし、販売したのである。もちろんそこから越中へ運ばれたのである(深井 2009 221-222頁)。加えて、薩摩組の廻船は、途中の港で買積も行って、北前船の機能も保持していた。そして、天保期(1830年代)には、西回りだけでなく、東回り(太平洋廻り)も駆使するようになった。

 松浦静山が1832年(天保3年)に著した『保辰琉聘録』は、唐薬種が薩摩から新潟へ運ばれていたようすを記録している。「中華産は多く薩船にて越後の新潟其外へも回し、夫より専ら奥地へ送り、或は江都(江戸)へも内々は売出すか、然るゆゑ、都下にても中産存外に下価なる有り」(上原 1990 214-215頁;徳永 2005 192頁は『甲子夜話』としている)。新潟から江戸へも運ばれていたわけである。

 薩摩藩にとって、昆布積載の北前船は薩摩が積極的に招いた領外船であり、昆布購入の需要な手段の一つとなった。だが、北前船は昆布以外にも薩摩にとって役に立った。一つは、情報の入手であり、いま一つは、流通手段であった。日本海を自在に航行する北前船によって、北の松前や、天下の台所である大坂の情報を得、貿易品を流通させることができたのである(徳永 1992 2頁;徳永 2005 162頁)。こうして、北前船は世にいう「薩摩の密貿易」の担い手の一つとなりつつあった(徳永 2005 161頁)。

 薩摩藩と薩摩組の微妙な関係は、1835年以後、薩摩藩における調所の藩政改革と、新潟における薩摩の抜荷摘発を受けて、大きく変わることになる。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』H&I 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
植村元覚「近世富山売薬業の仕入れ」『富大経済論集』第6号 1960年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
塩澤明子「近世後期における富山売薬商人と旅先藩―薩摩藩との関係を中心に」『史文』天理大学史学会 2004年3月
高瀬保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年(高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

(「世界史の眼」No.57)

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