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「世界史の眼」No.77(2026年8月)

本号には、世界史研究所創立期顧問、九十余翁の下村由一さんに、「「永遠の赤」の独り言―時間認識の成立と『資本論』」をご寄稿頂きました。

また、書評を二本掲載しています。静岡文化芸術大学の加藤裕治さんに、2025年に日本語訳が刊行されたユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS 情報の人類史』を書評して頂きました。また、稲野強さんに、今年日本語訳が刊行されたダリン・M・マクマホンの『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』を書評して頂いています。

下村由一
世界史寸評「永遠の赤」の独り言―時間認識の成立と『資本論』

加藤裕治
書評:ユヴァル・ノア・ハラリ著『NEXUS 情報の人類史』上下 柴田裕之訳(河出書房新社、2025)

稲野強
書評 ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』作品社(2026)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)『NEXUS 情報の人類史』(河出書房新社、2025年)の出版社による紹介ページは上巻がこちら、下巻がこちらです。ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』(作品社、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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世界史寸評
「永遠の赤」の独り言―時間認識の成立と『資本論』
下村由一

 近代的時間(時刻)認識の特徴は、言うまでもなく無条件の均等性、すなわち普遍妥当性の確立である。ヨーロッパ人の思う「世界」のどこへ行っても,またいつ行っても変わりなく通用する時間の観念ができて、これがある少数の主張でなく「社会」の相当の範囲に広がって実際に行われるようになることである。それが正確にはいつかを知るのは僕には無理であるが。やがてこのことが分からないのは「野蛮人」となるわけだ。

 ここで明治に入って直ぐに日本へきたお助け外人の例を挙げよう。かれらは口を揃えて日本人には時間の認識がないと言った。いくら7時に仕事場にこいと言われても平気な顔で昼頃に来て、親方なんで俺がいかんというのと言っているらしい職人を異人たちは見ていた。かれらには理解できんが、職人には無縁の話なのだ。

 ヨーロッパ人の主張は、家内手工業、マニュファクチャーから次の段階に移行し始めたときに否応なく「実行」されるようになる。時間認識は当たり前なんだが、それが原則として確立されて長くたったいまに住む我々には、そのことが理解しにくい。従業員が約束の時刻に現れないと企業は躊躇なく状況に応じて彼を処分する。日本社会はこれをほとんど非難しない。

 マルクスの労働価値論は無条件に「時間」の均一性を関係者、この場合には資本家が疑いなく受け入れてはじめて有効になる。マルクスが、12時間労働は認めていいが15時間労働は明らかに不当(12時間という労働時間の枠はいいが、15時間を続けて働かすことは不当)というとき、この主張が賛否の対象になる。現実の労働者には理解し難いがやがて受け入れるほかなかった。これが産業革命のもたらしたひとつの重要な「遺産」ではないか。ただし実際にはよく知られているように、労働者は日曜日のほか月曜日はおろか週の前半は飲んだくれていて、後半に「就業規則」を無視して夜半まで働き、補助をする女性と未成年者を巻き込むのだった。これを知っているはずのマルクスが不当な搾取と批判するが、それを読むときに抑えきれない苛立ちを感じるのは僕だけだろうか。

 江戸時代で認められていたごくあたりまえの刻(とき)認識はどうなったのか。生きている間に「いつ」誰しもがみんなわかっているのだろうかと疑問を持つのは無駄。夏冬で寝る刻と外で働いたりする刻がまるで違うんだが、この違いはなにかと思う奴は愚か者なのか。人々が生きている間に「とき」をどのように理解していのるだろうかと書いていて思い出した。地図作りに専念したあの人(伊能忠敬)は例外だったに違いない。なぜなら彼は地図を作るために、地表のある点を確定するために天体の動きを正確に知る必要があったが、それには刻ではなく、近代的な時間概念を使い全体の位置を正確に把握して、地表の各点を確定したからだ。つまり地図を作るためには刻ではなく、近代的な時間概念が不可欠だったのだ。

 明治になって、お上が何度も公が決めた年月日に従わない奴輩を叱ったのは、例外が僕のいうほどいたことの証拠だろう。ヨーロッパでも当然そうだろうが、僕はその実例はほとんど知らない。日本では遅刻観念の成立、時刻厳守は、社会道徳の第一歩とする明治政府の努力によるが、それを知るにつけ、なるほどこうして「民族の特徴」の形成、伝統の創出がすすむのだなと思う。

2026年7月27日

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書評:ユヴァル・ノア・ハラリ著『NEXUS 情報の人類史』上下 柴田裕之訳(河出書房新社、2025)
加藤裕治

1. 情報メディア論の視点から

 恥ずかしながら、この『NEXUS 情報の人類史』(以後、本書)を読むまで、ユヴァル・ノア・ハラリの書籍は敬遠していた。当然、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』といった大ベストセラーは知っていた。しかし、「石器時代から現代まで」を概観して記述するという方法(論)と、あまりに多くの人々が称賛することへの警戒感があった。

 何よりも、メディアテクノロジーや情報と社会の関係を語る本書が、私がこれまで参照してきたW.ベンヤミンやT.アドルノ、W.-J.オングやM.マクルーハン、また本書と近接する議論を展開するF.キットラーといった(情報)メディア論にほぼ言及がない点も、敬遠してきた理由である。確かにAIの時代への危機感はあるのだろうが、だからと言ってこれまでの学術的な蓄積を参照せず議論を進めてしまうことこそ、AI時代の問題点でもあるようにも感じる。ただし、そもそもハラリの学術的バックボーン(専門は中世史や軍事史)が異なるので、この点を問題にするのはフェアではないかもしれない。

 本書で初めてハラリの著作に接し、改めて『サピエンス全史』(以後、『全史』)と比較してみたのだが、本書は構成がいささか複雑である。

 ハラリの名を一躍世間に知らしめた『全史』は、「虚構」という概念をもとに、改めて人類史を見直すという明快さがある。このハラリの姿勢は、現実主義やエビデンス至上主義といった価値観が高まる現代社会において、人間の(虚構を駆使できる)知性の可能性を論じるという批評性があったといえる。

 その一方、本書はタイトルの「NEXUS(ネクサス)」でまずつまずいてしまう。この言葉は一般的な用語ではなく、また(少なくとも私の知る範囲での)情報史やメディア論でも見かけない(ただし最終的にNEXUSは「つながり」程度の認識でも問題ない)。また邦訳のサブタイトルは「情報の人類史」だが、英文からの直訳は「石器時代からAIに至る情報ネットワークの小史」となる。「情報と情報ネットワーク」の違いは、「オールドメディア」の新聞では「記事と配信・配達網」の違いとなるので、本来はかなり異なる議論の対象である。ただしこの差異は、本書ではほとんど問題にならない。おそらく、メディアの伝達内容(知識や情報)と伝達方法(メディアテクノロジー)とを分けて考える議論では、AI革命を説明できないとハラリが考えているからだろう。

 AIが他のテクノロジーと異なるのは、AIが「自ら情報を分析するのに求められる知能を持っており、したがって意思決定で人間に取って代わることができる。AIはツールではない-行為主体」(上巻p.21)だからである。それゆえにAI時代の情報ネットワークは、「人間のものとは異質の知能の決定や目標によって制御されている」(下巻p.20)。情報(知識)の生成、情報に基づくネットワークの形成、そして意思決定自体が人間の制御を離れ、AIという人間の外側の他者=「エイリアン・インテリジェンス」に委ねられる社会へと変容する。本書のハラリの危機感は、AI革命へのこうした見立てから生じている。

 こうしたハラリの主張に対して、彼がAIテクノロジーをどれほど理解しているのかという批判は、あえて脇においておこう。現実的に日々、ハラリの認識に頷いてしまう事態に遭遇するからだ。AIをすでに多用している学生たちを前にして、大学教育の変化は不可避だと感じる。研究のコミュニティでは、AIの活用や危険性、AIとの付き合い方の議論が盛んだ(これはAIに対する人間による自己修正メカニズムの作動といえる)。

 しかし一方で、AI革命に対する本書の見解に対して、判断するための材料がまだ足りないのではないかとも感じる。それゆえなのか、本書はある種のテクノフォビア(新たなテクノロジーの出現に対する嫌悪)と受け取られる傾向もあるようだ(イギリスの『ガーディアン』(2024/9/11)の書評で、本書は「神託めいた説教」と評されている)。また、ハラリが性急に警告するこの振る舞い自身が、AI時代の加速主義的な言説空間に影響されている可能性もある。その一方で、本書で記述されているコンピューターやAIへの理解や説明に関しては、2000年前後、情報社会の到来を受けて監視社会論を提唱したD.ライアンの議論と比較することも有意義であるように思われる。だが本書のテーマからすると、そうした情報メディア論からの学術的な指摘はやや的外れかもしれない。

2. 「AI革命」は人間社会に何をもたらすのか―本書の概要

 情報メディア論からの指摘がなぜ的外れなのか。一読すればわかるように、本書の本題は、メディアの問題というよりも、AI時代における人間による統治の行方を問う政治論だからである。ハラリは自由民主主義が「多くの欠陥を抱えているものの、もっとも優れた手段を提供した」政治システムだと指摘する(下巻p.156)。AI革命後の人間社会、特に民主主義の行く末を論じることが、本書の最終的な目的である。この説明の際、本書で重要な概念となるのが「自己修正メカニズム」である。「自由民主主義の大きな強みは、強力な自己修正メカニズムを備えていることだ」(下巻p.156)。

 第1部「人間のネットワーク」では、コンピューターが出現するまでの歴史において、自己修正メカニズムが人間社会でどのように作動していたのかが説明される。そこで重要なのは、情報と自己修正メカニズムの関係性である。ハラリによれば、情報のネットワークは、真実を通して知恵を生み出す力を持つだけでなく、嘘やプロパガンダといった虚構の情報さえ使い、秩序の維持を担う力も持つという。ただしこの関係は複雑だ。情報ネットワークによる真実を生み出す力と秩序を維持する力が、順接するだけでなく逆接することもあるという矛盾を抱えているからである。

 例えば第4章の「誤り」では、この二つの力の関係が矛盾するメカニズムについて、魔女狩りを例に説明される。ハラリによれば、印刷術の誕生は、これまで指摘されてきた自由な情報流通の拡大、つまりカトリック教会の情報ネットワーク独占からの解放をもたらしたとは言い切れないという。それはなぜか。自由な情報の流通が、魔女の存在といった陰謀論を拡散することにもなったからである。さらに、宗教の側はそのような陰謀論を抑え込むのではなく、むしろ自分たちは不可謬であるとして、陰謀論を支持して秩序を維持したのである。この動きに反するのが、科学革命だとハラリは説明する。科学は、自らの知識が誤っている可能性を認識する情報ネットワーク(の機関)として、強固な自己修正メカニズムを作動させてきた。ただし科学の強固な自己修正メカニズムが可能であるのは、政治的な役割である社会秩序の維持を担う必要がなかったからだという。

 上巻第5章から下巻では、こうした情報ネットワークと自己修正メカニズムの関係性が、民主主義や全体主義においてどのように作動してきたのか、またこの作動が「エイリアン」の知性であるAIに担われた時、何が起こるのかが論じられる。ハラリは、民主主義の情報ネットワークは、中央を経由するものもあれば、多様で独立したノード(中継地点)を経由して分散する場合もあると説明する。一方、全体主義では、全ての情報が中央を経由することを望むネットワーク構築が志向されるという。

 重要なのは、民主主義であろうと全体主義であろうと、真実の追求と秩序維持の間の矛盾を内包しながら、情報ネットワークを人間自身が制御してきたことである。しかしコンピューターテクノロジーの出現によって、人間の理解の及ばないエイリアンであるAIがその制御を担うことになる。AIは機械学習によって、人間の介在なしに自らのアルゴリズムを自己修正する。そのため、AIの自己修正の内容を人間は知ることができない。しかもAIは「疲れない」ので、中央集権的な国家が望むような監視システムを、常時オンで執拗に作動させていくことが可能となる。その結果、政治・経済領域に関わりなくプライバシーが侵害され、人々の社会信用の判断やランク付けが、人間がその過程を知ることや理解することができないまま決定される社会が到来してしまう。

 それゆえハラリは、コンピューターが自らの可謬性に気づいていくアルゴリズムの構築や、AIを人間が抑制できる制度や機関を作る必要があると結論づける。だが彼の未来予測はかなり悲観的だ。というのも、民主的な情報ネットワークはすでに崩壊に直面しており、全体主義はAIに適合的なので、独裁者そのものがAIの支配に怯える状況になってしまうという。こうした予測の上で、ハラリはグローバル社会の行く末を、情報と権力の集中化を進めるAIが全世界を統制する帝国に陥るか、あるいは各情報ネットワークに閉じ込められ、(シリコンのカーテン・デジタルコクーンによって)分断された世界に陥るか、という可能性として描き出す。

3. 時事性が揺るがす本書の主張

 本書は、長い歴史を一つのテーマで大胆に切り込んでいく明快さを持ち、先の魔女狩りの例のように、私たちの常識を揺さぶるように事例の解釈を試みる。その解釈に唸らされる面もある。ただし、そうした解釈のまとめは、意外に既視感のある議論でもある。例えば、AIによって全世界が帝国化するか、あるいは逆に分断化された世界に陥るかといった指摘は、マクルーハンの「グローバルヴィレッジ(地球村)」を思い出す。また、情報の繭の中に人々が分断されていく「デジタルコクーン(シリコンのカーテン)」の考え方は、1970年代に中野収が指摘した「カプセル人間」の現象が、デジタルを原因とした集団的なものとして捉え直されているように感じられる。そして、人間にとってエイリアンの知性であるAIに対して、人間の自己修正メカニズムを介入させる必要性を論じる結論は、常識的で穏当なものである。この主張自体にはそれほど違和感はなく、納得させられる。

 その一方で、事例として扱われる個々の歴史事象を理解するにあたり、本書の「情報」という切り口の解釈からだけでは、やや物足りなさを感じてしまう読後感もある。たまたま最近、S.フェデリーチ著『キャリバンと魔女』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017年)という書籍を読んだのだが、そこでは「魔女狩りの犠牲者のほとんどが農民女性だった」という調査結果から、魔女狩りと資本主義の発展との関係性が周到に、しかもスリリングに論じられる。階級やジェンダーの視点から緻密に論じられる歴史(学)を読むと、ハラリの歴史的な事象への説明は、やや簡略化されすぎているようにも感じてしまう。

 さらに(情報)メディア論の視点からすると、AIを論じる上でハラリの認識は、近年の重要な論点を考慮に入れていないように思われる。それは自然の問題である。

 ハラリは本書で「現在進んでいる物質ベースの経済から知識ベースへの移行のせいで、戦争の潜在的な利益が減った」(下巻p.257)と論じているが、この見立てには素直に応じられない。現在、AIを支えるハイテク産業において、物質的な資源の獲得は最重要の課題だ。半導体にはレアメタルが必須であり、データを集約するデータセンターの稼働には莫大な電力(その供給には莫大なエネルギー資源も必要)と、サーバーの熱を冷却するための水資源が必要である。こうした資源の問題は、全世界で大きな課題になりつつある。J.パリッカなどによるメディア考古学の領域で、こうしたデジタル時代の情報テクノロジーにおける「物質性」の問題は、以前から論じられてきた。AIという「知性」の問題の手前で、その知性が自然(物質資源)に大きく規定されているという現実的な問題が現れている。

 さらに言及すると、21世紀も四半世紀が過ぎたこの時期に、情報ネットワークを人間(サピエンス)とテクノロジーとの関係のみで捉えてしまう本書の議論の前提への疑問が生じる。20世紀前半の時点でW.ベンヤミンは、自然に対する人間とテクノロジーの関係を論じている。ベンヤミンによれば第一の技術は、人間がテクノロジーを使って自然を直接支配=制御しようとする技術である。しかし第二の技術は、テクノロジーの介在によって、人間と自然を遊戯的な協働関係へと導く技術である。この議論は、ハラリの危機感とは異なり、人間とAI、そして自然との肯定的な関係性を考察するうえで、より長い射程を持つものだ。

 これに対して、ハラリの議論において自然は、人間とテクノロジーにとって「環境」でしかないように思われる(「サピエンスのみならず他の無数の生命体も危険にさらす」下巻p.274)。しかし、現在、情報ネットワークを考える際に、エコロジー的な視点はもはや無視できない。例えば2026年5月に公開された是枝裕和監督の『箱の中の羊』では、AIと自然の連帯が描き出されている。その映画のラストシーンでは、AIと自然が連帯することで、むしろ世界を制御していると思い込んでいる人間こそが、自然やAIにとってのエイリアンではないかと自覚を促される。人間とAIに限定して世界の運命を論じる本書の議論は、情報ネットワークを物質的に構築するレアメタル資源である、「比喩」ではないシリコンをめぐる政治にも言及が必要だったのではないか。

 このように、私が自然や物質性に言及してしまったのは、本書の時事性とも関わっている。本書は、原著が2024年、邦訳が2025年に出版されているが、AIが鮮烈に登場した時期に合わせて書かれたものだろう(OpenAIによるChatGPTの公開は2022年)。だが、この書評を書いている2026年7月に全世界で懸念されているのは、AIの問題以上に、アメリカやイスラエルといった民主主義国家による軍事的な暴力の行使であろう。そしてこの暴力において最大の争点となってしまったのは、政治体制の問題以上に、石油といった資源の問題である(またアメリカのグリーンランドへの関心はレアアース資源が狙いといわれている)。AIの知性をめぐる危機の手前で、人間はAI革命を成就させるための資源闘争を行っている。

 本書でハラリが論じてきた「人間(サピエンス)」とは一体、何であったのか。AI革命という時事的な関心からおそらく生じた本書の危機感は、現在の世界をめぐる時事的な問題によって認識のポイントがずれてしまったようにも思う。今後、本書の指摘が、改めて争点になる日が来るだろうか。本書の思想性の深さが確かめられるのは、その日が来た時である。

(「世界史の眼」No.77)

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書評 ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』作品社(2026)
稲野強

 平等、と言えば、ほぼ反射的に「神の前の平等」、「生まれながらの平等」という理念が想起される。この理念は、まぎれもなく人間存在にとって何人も認める極めて価値の高い規範である。本書の著者ダリン・M・マクマホンによれば、「人間は本質的に平等であり、同等の価値があり、この理念を経済、政治の各方面の社会構造に反映させるべきことは、現代のほぼすべての道徳の政治理論の基本的信条の一つ」なのである。

 そうであるならば、平等は、権力の支配と被支配との関係を解き、人種・民族、階級、身分、地域、宗教、文化、言語、教育ばかりか、男女性や障害者に関する偏見や差別を認めない万能薬のひとつとなるはずである。

 ところが、マクマホンは、現代は「平等の危機に直面している」と断言する。不平等の研究はあまた存在するが、平等を扱う研究が少ないことも、そのことを裏書きしているのだろう。

 確かに、不平等の大音響の前では平等の音は微かにしか聞こえない。200年以上前の啓蒙時代・フランス革命で高らかに掲げられた「自由・平等・友愛」のスローガンは、今日でも相変わらず「目標」(夢)なのである。

 このように人びとは、長きにわたって不平等の拡大・深化や差別の高い壁を経験してきために平等を獲得する闘争心を失ってきた。そこで平等の理念は、相互に複雑に絡み合う多種多様の差別・偏見や排除の洪水になす術のない状態のなかで、時には現実離れした理想主義として退けられ、「冷笑されてきた」のである(注)。

 もっとも平等の理念にも大きな欠陥がある。それは、平等が、体制内部では序列化、統一化や優越化を促すと同時に、外部に対しては、異質性の排除を強化させることである。歴史的に見れば、国民国家やファシズム国家形成過程ではとくに顕著であったが、平等は、必然的に自我(=民族我)の確立を促すから、他者との同一性を嫌う人間の性向によって、国ないしは地域の優越性・序列化を生み、それによって内部における凝集力・求心力を増すと同時に国ないしは地域の外部に対しては、排他性を促進させるのである。

 著者は、人びとは、平等の観念が過去にどう理解されてきたか、驚くほど関心がない、と嘆く。言い換えれば、あまりにも多くの不平等の現実を前にして、戦う意欲を削がれるほど激しい不平等への慣れの常態が続いたために、われわれは「平等を想像することが難しい時代」に生きていることになり、そのような状況ではまともな歴史すら書くことができないと訴えたいようである。

 そうした深い現状認識を踏まえて、本書は、人類史、政治史、哲学史、社会心理学、社会学を駆使しつつ、太古から現代までの人類の長い歴史のなかで、平等の観念がどう「発明され」、破壊され、再生され、今日に至ったのかを時系列に沿って解き明かそうとしたスケールの大きな意欲作である。

 さて、その点を本書の内容に沿って見ると、平等の理念は、すでに狩猟採取時代に「支配の序列」に対する抵抗によって生まれたとされる。こうした社会では、「逆の順位制」または「平等主義的序列」と呼ぶもの、つまり大勢が一緒になって少数の者を支配する関係の基礎が敷かれたのである。だが、次のギリシャ・ローマの時代には非市民、女性、奴隷は平等権を与えられず、排除された。また紀元前1千年紀の「枢軸時代」には、世界各地で主要な宗教が誕生し、「平等の発明」とともに、「仲間意識」が生まれたが、それらの宗教は、排除と分断の新たな形の土台を敷くことになった。さらに時代を下がって、18世紀の啓蒙主義・フランス革命の時代には、普遍的な価値を持つスローガンが、革命を促進させ、反植民地運動に応用されたこともあるが(ハイチ独立運動)、例えば、女性は「理性がないから」との理由で市民権を得ることができなかったまた近代・初期社会主義の時代には、資本家と労働者との階級対立が先鋭化されるなかで、一部で平等の社会的実験は試みられたが、格差はそれまで以上に拡大し、「持たざる」人びとは、幻想を抱いた分だけ大きな幻滅を味わうことになった。次いで19世紀の国民国家形成期には、国家統一の掛け声のもとで、民族・人種主義運動の台頭を見、地域間差別が助長された。そうした流れは、ファシズム国家に歪んだ形で受け継がれることになる。第二次世界大戦後の国連主義の時代における「世界人権宣言」から現代に至るまで、改めて人種・信条・性別・社会的身分・門地などにより差別されない権利が再確認されたが、現代はグローバル化と格差の拡大により平等の危機を招来させ、平等を想像する力そのものも弱っている。

 こうして平等の理念は、誰でもが認める最高の価値であるにもかかわらず、現代にいたるまで時代の制約によって過酷な現実にぶつかるとその矛盾(=不平等)を露呈させてきた。著者は、人類が平等の幻想から不平等という幻滅の時代を経験したことを踏まえて、現代を「平等の危機に直面している」「平等を想像することさえ難しい時代」とみなしている。だがそのうえで、著者は、平等がつねに「想像の産物」であり、歴史上人びとは「枢軸時代」や「啓蒙主義時代」など何度も「平等を発明」してきていることを重視しており、その想像力にこそ不平等と闘う強い確信を見出している。

 ちなみに著者による想像力の再生のシナリオは、著者の研究の主要拠点であるアメリカをモデルとして描かれる。すなわち現代は、「第一の再建」(南北戦争以後の奴隷を国民に統合)、「第二の再建」(1950、60年代の公民権運動の「活性化の時代」)に続く「第三の再建」(アメリカにおける近年の人種間対立を「過去、現在、未来を再考する機会」)と位置づけられる。これは、過去の革命的エネルギーを利用して、「人種間の平等のための新たな闘争」を行い、最終的に未来により平等な世界を築く「夢」を実現化するための機会だと捉えられるのである。そして言い放つ。「悪夢は、それでも夢なのだ」と。

本書は、平等の理念の再発見ないしは復権の書であると同時に人類史を俯瞰した未来志向の書である。

(注)神学者・宗教学者の森本あんりは「近年は人権や平和、平等の理念が、理想主義だと冷笑されることが少なくない」「万人が誰かとの比較ではなく一番だと思える『絶対性思考』をもっと了解することが重要だ」と述べた。「取材考記」『朝日新聞』(夕刊)2026.5.25。

(「世界史の眼」No.77)

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