1. 情報メディア論の視点から
恥ずかしながら、この『NEXUS 情報の人類史』(以後、本書)を読むまで、ユヴァル・ノア・ハラリの書籍は敬遠していた。当然、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』といった大ベストセラーは知っていた。しかし、「石器時代から現代まで」を概観して記述するという方法(論)と、あまりに多くの人々が称賛することへの警戒感があった。
何よりも、メディアテクノロジーや情報と社会の関係を語る本書が、私がこれまで参照してきたW.ベンヤミンやT.アドルノ、W.-J.オングやM.マクルーハン、また本書と近接する議論を展開するF.キットラーといった(情報)メディア論にほぼ言及がない点も、敬遠してきた理由である。確かにAIの時代への危機感はあるのだろうが、だからと言ってこれまでの学術的な蓄積を参照せず議論を進めてしまうことこそ、AI時代の問題点でもあるようにも感じる。ただし、そもそもハラリの学術的バックボーン(専門は中世史や軍事史)が異なるので、この点を問題にするのはフェアではないかもしれない。
本書で初めてハラリの著作に接し、改めて『サピエンス全史』(以後、『全史』)と比較してみたのだが、本書は構成がいささか複雑である。
ハラリの名を一躍世間に知らしめた『全史』は、「虚構」という概念をもとに、改めて人類史を見直すという明快さがある。このハラリの姿勢は、現実主義やエビデンス至上主義といった価値観が高まる現代社会において、人間の(虚構を駆使できる)知性の可能性を論じるという批評性があったといえる。
その一方、本書はタイトルの「NEXUS(ネクサス)」でまずつまずいてしまう。この言葉は一般的な用語ではなく、また(少なくとも私の知る範囲での)情報史やメディア論でも見かけない(ただし最終的にNEXUSは「つながり」程度の認識でも問題ない)。また邦訳のサブタイトルは「情報の人類史」だが、英文からの直訳は「石器時代からAIに至る情報ネットワークの小史」となる。「情報と情報ネットワーク」の違いは、「オールドメディア」の新聞では「記事と配信・配達網」の違いとなるので、本来はかなり異なる議論の対象である。ただしこの差異は、本書ではほとんど問題にならない。おそらく、メディアの伝達内容(知識や情報)と伝達方法(メディアテクノロジー)とを分けて考える議論では、AI革命を説明できないとハラリが考えているからだろう。
AIが他のテクノロジーと異なるのは、AIが「自ら情報を分析するのに求められる知能を持っており、したがって意思決定で人間に取って代わることができる。AIはツールではない-行為主体」(上巻p.21)だからである。それゆえにAI時代の情報ネットワークは、「人間のものとは異質の知能の決定や目標によって制御されている」(下巻p.20)。情報(知識)の生成、情報に基づくネットワークの形成、そして意思決定自体が人間の制御を離れ、AIという人間の外側の他者=「エイリアン・インテリジェンス」に委ねられる社会へと変容する。本書のハラリの危機感は、AI革命へのこうした見立てから生じている。
こうしたハラリの主張に対して、彼がAIテクノロジーをどれほど理解しているのかという批判は、あえて脇においておこう。現実的に日々、ハラリの認識に頷いてしまう事態に遭遇するからだ。AIをすでに多用している学生たちを前にして、大学教育の変化は不可避だと感じる。研究のコミュニティでは、AIの活用や危険性、AIとの付き合い方の議論が盛んだ(これはAIに対する人間による自己修正メカニズムの作動といえる)。
しかし一方で、AI革命に対する本書の見解に対して、判断するための材料がまだ足りないのではないかとも感じる。それゆえなのか、本書はある種のテクノフォビア(新たなテクノロジーの出現に対する嫌悪)と受け取られる傾向もあるようだ(イギリスの『ガーディアン』(2024/9/11)の書評で、本書は「神託めいた説教」と評されている)。また、ハラリが性急に警告するこの振る舞い自身が、AI時代の加速主義的な言説空間に影響されている可能性もある。その一方で、本書で記述されているコンピューターやAIへの理解や説明に関しては、2000年前後、情報社会の到来を受けて監視社会論を提唱したD.ライアンの議論と比較することも有意義であるように思われる。だが本書のテーマからすると、そうした情報メディア論からの学術的な指摘はやや的外れかもしれない。
2. 「AI革命」は人間社会に何をもたらすのか―本書の概要
情報メディア論からの指摘がなぜ的外れなのか。一読すればわかるように、本書の本題は、メディアの問題というよりも、AI時代における人間による統治の行方を問う政治論だからである。ハラリは自由民主主義が「多くの欠陥を抱えているものの、もっとも優れた手段を提供した」政治システムだと指摘する(下巻p.156)。AI革命後の人間社会、特に民主主義の行く末を論じることが、本書の最終的な目的である。この説明の際、本書で重要な概念となるのが「自己修正メカニズム」である。「自由民主主義の大きな強みは、強力な自己修正メカニズムを備えていることだ」(下巻p.156)。
第1部「人間のネットワーク」では、コンピューターが出現するまでの歴史において、自己修正メカニズムが人間社会でどのように作動していたのかが説明される。そこで重要なのは、情報と自己修正メカニズムの関係性である。ハラリによれば、情報のネットワークは、真実を通して知恵を生み出す力を持つだけでなく、嘘やプロパガンダといった虚構の情報さえ使い、秩序の維持を担う力も持つという。ただしこの関係は複雑だ。情報ネットワークによる真実を生み出す力と秩序を維持する力が、順接するだけでなく逆接することもあるという矛盾を抱えているからである。
例えば第4章の「誤り」では、この二つの力の関係が矛盾するメカニズムについて、魔女狩りを例に説明される。ハラリによれば、印刷術の誕生は、これまで指摘されてきた自由な情報流通の拡大、つまりカトリック教会の情報ネットワーク独占からの解放をもたらしたとは言い切れないという。それはなぜか。自由な情報の流通が、魔女の存在といった陰謀論を拡散することにもなったからである。さらに、宗教の側はそのような陰謀論を抑え込むのではなく、むしろ自分たちは不可謬であるとして、陰謀論を支持して秩序を維持したのである。この動きに反するのが、科学革命だとハラリは説明する。科学は、自らの知識が誤っている可能性を認識する情報ネットワーク(の機関)として、強固な自己修正メカニズムを作動させてきた。ただし科学の強固な自己修正メカニズムが可能であるのは、政治的な役割である社会秩序の維持を担う必要がなかったからだという。
上巻第5章から下巻では、こうした情報ネットワークと自己修正メカニズムの関係性が、民主主義や全体主義においてどのように作動してきたのか、またこの作動が「エイリアン」の知性であるAIに担われた時、何が起こるのかが論じられる。ハラリは、民主主義の情報ネットワークは、中央を経由するものもあれば、多様で独立したノード(中継地点)を経由して分散する場合もあると説明する。一方、全体主義では、全ての情報が中央を経由することを望むネットワーク構築が志向されるという。
重要なのは、民主主義であろうと全体主義であろうと、真実の追求と秩序維持の間の矛盾を内包しながら、情報ネットワークを人間自身が制御してきたことである。しかしコンピューターテクノロジーの出現によって、人間の理解の及ばないエイリアンであるAIがその制御を担うことになる。AIは機械学習によって、人間の介在なしに自らのアルゴリズムを自己修正する。そのため、AIの自己修正の内容を人間は知ることができない。しかもAIは「疲れない」ので、中央集権的な国家が望むような監視システムを、常時オンで執拗に作動させていくことが可能となる。その結果、政治・経済領域に関わりなくプライバシーが侵害され、人々の社会信用の判断やランク付けが、人間がその過程を知ることや理解することができないまま決定される社会が到来してしまう。
それゆえハラリは、コンピューターが自らの可謬性に気づいていくアルゴリズムの構築や、AIを人間が抑制できる制度や機関を作る必要があると結論づける。だが彼の未来予測はかなり悲観的だ。というのも、民主的な情報ネットワークはすでに崩壊に直面しており、全体主義はAIに適合的なので、独裁者そのものがAIの支配に怯える状況になってしまうという。こうした予測の上で、ハラリはグローバル社会の行く末を、情報と権力の集中化を進めるAIが全世界を統制する帝国に陥るか、あるいは各情報ネットワークに閉じ込められ、(シリコンのカーテン・デジタルコクーンによって)分断された世界に陥るか、という可能性として描き出す。
3. 時事性が揺るがす本書の主張
本書は、長い歴史を一つのテーマで大胆に切り込んでいく明快さを持ち、先の魔女狩りの例のように、私たちの常識を揺さぶるように事例の解釈を試みる。その解釈に唸らされる面もある。ただし、そうした解釈のまとめは、意外に既視感のある議論でもある。例えば、AIによって全世界が帝国化するか、あるいは逆に分断化された世界に陥るかといった指摘は、マクルーハンの「グローバルヴィレッジ(地球村)」を思い出す。また、情報の繭の中に人々が分断されていく「デジタルコクーン(シリコンのカーテン)」の考え方は、1970年代に中野収が指摘した「カプセル人間」の現象が、デジタルを原因とした集団的なものとして捉え直されているように感じられる。そして、人間にとってエイリアンの知性であるAIに対して、人間の自己修正メカニズムを介入させる必要性を論じる結論は、常識的で穏当なものである。この主張自体にはそれほど違和感はなく、納得させられる。
その一方で、事例として扱われる個々の歴史事象を理解するにあたり、本書の「情報」という切り口の解釈からだけでは、やや物足りなさを感じてしまう読後感もある。たまたま最近、S.フェデリーチ著『キャリバンと魔女』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017年)という書籍を読んだのだが、そこでは「魔女狩りの犠牲者のほとんどが農民女性だった」という調査結果から、魔女狩りと資本主義の発展との関係性が周到に、しかもスリリングに論じられる。階級やジェンダーの視点から緻密に論じられる歴史(学)を読むと、ハラリの歴史的な事象への説明は、やや簡略化されすぎているようにも感じてしまう。
さらに(情報)メディア論の視点からすると、AIを論じる上でハラリの認識は、近年の重要な論点を考慮に入れていないように思われる。それは自然の問題である。
ハラリは本書で「現在進んでいる物質ベースの経済から知識ベースへの移行のせいで、戦争の潜在的な利益が減った」(下巻p.257)と論じているが、この見立てには素直に応じられない。現在、AIを支えるハイテク産業において、物質的な資源の獲得は最重要の課題だ。半導体にはレアメタルが必須であり、データを集約するデータセンターの稼働には莫大な電力(その供給には莫大なエネルギー資源も必要)と、サーバーの熱を冷却するための水資源が必要である。こうした資源の問題は、全世界で大きな課題になりつつある。J.パリッカなどによるメディア考古学の領域で、こうしたデジタル時代の情報テクノロジーにおける「物質性」の問題は、以前から論じられてきた。AIという「知性」の問題の手前で、その知性が自然(物質資源)に大きく規定されているという現実的な問題が現れている。
さらに言及すると、21世紀も四半世紀が過ぎたこの時期に、情報ネットワークを人間(サピエンス)とテクノロジーとの関係のみで捉えてしまう本書の議論の前提への疑問が生じる。20世紀前半の時点でW.ベンヤミンは、自然に対する人間とテクノロジーの関係を論じている。ベンヤミンによれば第一の技術は、人間がテクノロジーを使って自然を直接支配=制御しようとする技術である。しかし第二の技術は、テクノロジーの介在によって、人間と自然を遊戯的な協働関係へと導く技術である。この議論は、ハラリの危機感とは異なり、人間とAI、そして自然との肯定的な関係性を考察するうえで、より長い射程を持つものだ。
これに対して、ハラリの議論において自然は、人間とテクノロジーにとって「環境」でしかないように思われる(「サピエンスのみならず他の無数の生命体も危険にさらす」下巻p.274)。しかし、現在、情報ネットワークを考える際に、エコロジー的な視点はもはや無視できない。例えば2026年5月に公開された是枝裕和監督の『箱の中の羊』では、AIと自然の連帯が描き出されている。その映画のラストシーンでは、AIと自然が連帯することで、むしろ世界を制御していると思い込んでいる人間こそが、自然やAIにとってのエイリアンではないかと自覚を促される。人間とAIに限定して世界の運命を論じる本書の議論は、情報ネットワークを物質的に構築するレアメタル資源である、「比喩」ではないシリコンをめぐる政治にも言及が必要だったのではないか。
このように、私が自然や物質性に言及してしまったのは、本書の時事性とも関わっている。本書は、原著が2024年、邦訳が2025年に出版されているが、AIが鮮烈に登場した時期に合わせて書かれたものだろう(OpenAIによるChatGPTの公開は2022年)。だが、この書評を書いている2026年7月に全世界で懸念されているのは、AIの問題以上に、アメリカやイスラエルといった民主主義国家による軍事的な暴力の行使であろう。そしてこの暴力において最大の争点となってしまったのは、政治体制の問題以上に、石油といった資源の問題である(またアメリカのグリーンランドへの関心はレアアース資源が狙いといわれている)。AIの知性をめぐる危機の手前で、人間はAI革命を成就させるための資源闘争を行っている。
本書でハラリが論じてきた「人間(サピエンス)」とは一体、何であったのか。AI革命という時事的な関心からおそらく生じた本書の危機感は、現在の世界をめぐる時事的な問題によって認識のポイントがずれてしまったようにも思う。今後、本書の指摘が、改めて争点になる日が来るだろうか。本書の思想性の深さが確かめられるのは、その日が来た時である。
(「世界史の眼」No.77)