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「世界史の眼」No.78(2026年9月)

本号には、小谷汪之さんに、 連載中の「蓼科の近代史」の続稿、「蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』」をお寄せ頂きました。また、帝京大学の後藤玲子さんに、「「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』」をご寄稿頂いています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

後藤玲子
「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』

金澤周作、帆刈浩之、松沢裕作、三浦徹 編『福祉の世界史』(有斐閣、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

世界史研究所の木畑洋一氏の新刊、『イギリス帝国―支配と残影』(岩波新書 新赤版2123)が8月に刊行されました。氏のこれまでの幅広い研究を踏まえ、植民地帝国イギリスを、パレスチナ問題に代表される21世紀の現在まで残り続けるその負の遺産までを視野に入れて叙述しています。手にとってお読み頂けますと幸いです。出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 京極夏彦の『陰摩おんもきず』(講談社文庫版、2006年)は白樺湖(長野県茅野市大字北山。湖面の標高約1,400メートル)の周辺を舞台とする小説である。「陰摩羅鬼」とは、もともとは仏典(蔵経)に出てくる妖怪で、『淸尊録』(宋代)のような中国の妖怪書を通して江戸時代に日本に入った。死亡直後の遺体の気が変じたものとされ、鶴のような姿をしているという。ただし、本稿では、この妖怪が問題なのではない。この小説に描かれた白樺湖築造にかかわる近代史が本稿の主題である。

 『陰摩羅鬼の瑕』の設定では、明治20年(1887年)、後に白樺湖が築造されることになる池の平の地(当時、長野県北佐久郡芦田村)に、「由良伯爵」家の初代が豪壮な洋館を建てた(1,152頁)。その40~50年余り後、「由良伯爵」家の三代目の時代に、この洋館で花嫁が結婚式の翌朝に死亡する事件が連続して起こるようになったというのがこの小説の筋立てである。

 池の平は蓼科山の西麓に広がる湿地帯で、いわゆる高層湿原に分類される。高層湿原というのは、枯死したミズゴケなどが泥炭となって大量に蓄積されて周囲よりも高くなったために、地下水が地表まで届かず、雨水のみによって維持されている湿原のことである。

 池の平からは音無川が南に流れ出し、芹ケ沢の付近で上川かみがわに合流する。上川は八ヶ岳連峰西側の冷山に源を発して、滝之湯川や音無川を合わせて西流し、茅野市域を時計回りに半円を描くように流れた後、流路を北西に変えて、諏訪湖の南端近くで諏訪湖に流入する。

 芹ケ沢から音無川を遡るように北上するのが大門街道で、白樺湖の西から大門峠を越え、旧中山道長久保宿西の落合追分で旧中山道に接続する。池の平の「由良伯爵」邸に行くには、中央本線茅野駅から芹ケ沢を経て大門街道に入るのが主要な経路と想定されているようである(図1「白樺湖関係図」参照)。ただし、中央本線が岡谷まで延伸され、茅野駅が開業するのは明治38年(1905年)であるから、それまではどういう経路で「由良伯爵」邸に行っていたのか作中に言及はない。

1 「鳥の城」の事件

 地元の人たちは「由良伯爵」家の豪壮な洋館を「鳥の城」と呼んでいた。この「お城」には漆黒の鶴(これは「由良伯爵」家の二代目が剥製師に作らせた偽物の鶴で、陰摩羅鬼を暗示しているようでもある)をはじめとして、無数の鳥の剝製が置かれていたからである。この「お城」で最初の花嫁死亡事件が起きたのは昭和5年(1930年)で、「由良伯爵」家三代目の最初の結婚式の翌朝に花嫁がベッドの上で死んでいるのを発見された。これを皮切りに、昭和9年(1934年)、昭和13年(1938年)と、「由良伯爵」家の三代目が次々と結婚式を挙げるたびに、結婚式の翌朝に花嫁が死体となって見つかった。昭和20年(1945年)、敗戦の年にも4度目の花嫁死亡事件が起こったが、連合国軍(米軍)の占領下でろくに捜査もできなかったらしいとされている。

 最初の花嫁死亡事件が起こったのが昭和5年(1930年)で、「今」から23年前のこととされているから、この小説の「今」は昭和28年(1953年)である。

 最初の事件があった時に、その捜査に当たった長野県警察部刑事の一人に「伊庭」刑事がいた。池の平の周辺に生まれ育ったらしい「伊庭」刑事は戦前の3件の花嫁死亡事件すべての捜査に加わった。しかし、日米開戦と同時に、長野県警察部を辞めて上京し、「工廠」で働いていた。戦後になって警視庁に採用され、5年間勤務した後退職して、「今」では東京で年金暮らしである。

 その「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」という刑事が訪ねて来た。「木場きば」は「伊庭いば」と間違えられて、国家地方警察長野県本部からこの花嫁死亡事件について問い合わせを受けたので、「伊庭」のもとを訪ねたということであった。「木場」によれば、「今」、同じような事件が白樺湖畔の豪壮な洋館で起きそうだという。「由良伯爵」家の三代目が5度目の結婚式を挙げることになったからである。それを聞いて、「伊庭」は「だだっ広い荒野の外れにそびえる、石造りの建物」を思い出した。「伊庭」は少年時代に、「あれは御殿だ、お城だと聞かされていた」。「そんな立派な建物なのかい」と問う「木場」に、「伊庭」はこう答えた。「多少大袈裟おおげさかもしれないがな。そんな感じだ。こっち[東京]じゃおおきい建物なんざ珍しくもないが、あの辺りにはない。だから異様に目立ったんだ」(『陰摩羅鬼の瑕』246頁)。

 この「木場」刑事の訪問がきっかけとなって、「伊庭」は事件の発生を未然に防ぐために、国家地方警察長野県本部に協力することになった。戦前の3件の花嫁死亡事件の捜査に当たった者が「今」の国家地方警察長野県本部には一人もいないというのがその理由であった(国家地方警察は1948年から1954年まで存在した過渡的な警察組織で、この小説の「今」である1953年はこの期間内に含まれる)。

 こういうことで、「鳥の城」には、国家地方警察長野県本部の刑事たちや「伊庭」元刑事だけではなく、某元子爵の息子という奇妙な自称探偵やそのお守役の鬱症状の作家、さらには怪しげな古本屋の主人などいわくありげな者たちが集まって、事件が起こるのを防ごうとした。しかし、結局、今回も同じような事件が起こり、花嫁は死亡してしまった。この件がどういう結末を迎えるのかということについては、『陰摩羅鬼の瑕』を読んでいただくとして、次節からはこの小説と白樺湖とのかかわりについて検討することとしたい。

2 池の平をめぐる「山論」

 白樺湖が築造されることになる池の平の地をめぐっては、南の柏原村と北の芦田村が江戸時代初期から争いを繰り返してきた。いわゆる「山論」(入会地抗争)である。南の柏原村は諏訪藩の領地内で、北の芦田村は小諸藩の領地内であったから、この争いは諏訪・小諸両藩の境界をめぐる争いでもあった。池の平周辺はちょうど分水嶺で、南流する川は最終的に諏訪湖にそそぎ、西流あるいは北流する川は最終的に信濃川に流入する。それで、諏訪・小諸両藩の境界になっていたのである。

 池の平をめぐる柏原村と芦田村の山論が史料に初めて現れるのは寛永14年(1637年)である。芦田村側の言い分によれば、この年、柏原村の庄屋弥兵衛が「麦草にて……材木をぬすみ切り候所を」、「芦田村の御たか見の者が見つけ、材木を焼き捨て弥兵衛の馬二匹を取った」ということである。両村の山論は慶安3年(1650年)に再び起こり、芦田村の側は柏原村の者たちが「わがままに麦草御たか山にて材木」を切り取ったとして、諏訪藩に訴えたが取り上げられなかったので、幕府に訴え出た。麦草(麦草平)というのは蓼科山南麓、池の平の東に位置する地域で、ここには小諸藩が鷹狩りに使う鷹のヒナを捕獲する鷹山があった。この鷹山の見張り役(御たか見)を芦田村の者たちが務めていたのである。

 まだ幕府の裁許が出ていない延宝4年(1676年)、柏原村の者たちが麦草平で小屋掛けをして炭焼きをしていたところ、芦田村の者たち数百人が鉄砲6、70挺などをもって炭小屋を襲撃した。驚いた柏原村の者たちは逃げ出し、木炭2,000俵などが奪われた。翌、延宝5年(1677年)、幕府の裁許が下され、「小諸領申す所の屋しが峰[八子ヶ峰]境」を両村の村境とし、「諏訪領の者境越し立科山[蓼科山]の内に入るべからず」とされた。柏原村の側では、その後も芦田村との村境はもっと北であると繰り返し主張して争ったが、延宝の幕府裁許が変わることはなく、そのまま明治に至った(以上、『茅野市史 中巻 中世・近世』1987年、688‐693頁)。

 現在の地図を見ても、芦田村(現、長野県北佐久郡立科町)と柏原村(現、茅野市大字北山・柏原区)の境界はスズラン峠から八子ヶ峰に至る稜線上になっている。ただし、八子ヶ峰の西で境界が北に上がり、芦田側に食い込んでいる(図1「白樺湖関係図」参照)。これは、明治38年(1905年)、芦田村と北山村柏原区の間で、「芦田村字蓼科八ヶ野五、一五○ノ内、実測反別一○二町六反三畝一五歩」の土地を「四、一○五円四○銭」で北山村柏原区に売り渡すという売買契約が交わされ、明治45年(1912年)にその支払いが完了したので、この土地が北山村柏原区の所有地となったからである。「これが今日の白樺湖の一帯である」(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、144頁)。ただし、白樺湖北部東側の一部の土地は芦田村の地籍(現、長野県北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野)である。

3 白樺湖の築造

(1)温水溜池としての白樺湖

 前述のように、東京で隠居暮らしをしていた「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」刑事が訪ねて来て、白樺湖畔の豪壮な洋館で事件が起こりそうだという話をした。その時の二人の会話の中で、白樺湖築造の目的や経緯が語られている。

 「伊庭」が池の平というのは「何もない処だぞと云うと、白樺湖があるでしょうと木場は云った」。「湖なんかなかったぞ」と「伊庭」がさらに言うと、「造ったんですよと木場は答えた」。それで、「伊庭」は、「そう云えば」と遠い記憶を思い起こされた。

 温水溜池造営事業を県と国が採択したのだと云うような話を聞いた記憶がある。国庫補助金も出るのだとか騒いでいたし、農林省の技師とやらが調査にも来ていたようだった。(『陰摩羅鬼の瑕』242頁)

 それで、「伊庭」は「木場」に尋ねた。

「そりゃ温水貯水池じゃないのか」 
「貯水池?さあ、俺は湖だと聞いたがね」
「いや、池の平ってのはあの辺一帯の水田の水源なんだよ。ところが音無川ってのは水温が低い。蓼科山から湧く水は、稲育てるには冷た過ぎるんだ。取り入れ口付近の稲はみんな水口みなくちちになっちまう」
「水口立ち?」
「実が付かないんだよ。黄金色の穂が垂れる時期になっても、青いまま突っ立っているわけだ。恒久的な冷害だな」
 そう。農家は困っていたのだ。少し気温が下がっただけで水田の半分近くが収穫出来なくなるような話も耳にした。そこで音無川をき止めて池の平に温水用溜池を造ろうと云う計画が立ち上がったのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 白樺湖築造に関するこの『陰摩羅鬼の瑕』の記述は基本的には正しいが、もう少し詳しく年代などを入れると次のようになる。

 昭和13年(1938年)、北山村柏原区の総会で、水温の低い音無川を堰き止め、天日で水温を5度から10度上げるための温水溜池として、湖面面積36ヘクタールの貯水池を造成する計画が提起された。地元では、「北山村池の平耕地整理組合」が結成され、国や県に数度にわたって陳情を行った。その結果、「県営北山村他三ヶ村農業水利改良事業」として白樺湖の築造が行われることになった。「他三ヶ村」というのは、北山村より音無川・上川の下流に位置する米沢村、豊平村、永明村(1948‐1955年の間は、「ちの町」と称された)のことで、北山村を含むこれら4カ村の水田総計500ヘクタールに給水することを目的とする計画であった(これら4カ村の位置関係については、図2「茅野市域の村区分」参照)。この計画は国と県の承認するところとなり、昭和15年(1940年)3月、高さ11メートル、長さ70メートル、幅6メートルの堰堤築造工事が国の補助による県営工事として着工された。総事業費は24万円で、国から50%(補助金12万円)、残りは県30%(3万6000円)、地元70%(8万4000円)の負担とされた(『茅野市史 下巻』762‐763頁)。

 高冷地の多い長野県では、多くの川の水温が低く、そのまま水田に入れると稲の生育を阻害する恐れがあった。そのために、川の水を一度溜池に貯めて天日で水温を上げてから水田に給水するという方法が採られた。このような溜池は温水溜池と呼ばれ、長野県各地に広く見られる。『茅野市史 下巻』(685頁)には、現在の茅野市域にある18の温水溜池の一覧表が示されている。

(2)白樺湖築造における曲折

 こうして、白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、順調には進まなかった。「伊庭」がこの「計画は頓挫とんざしたのだと思っていた。着工早早に戦争が始まっている筈だ。国が亡ぶかと云う戦いの最中に池堀りでもあるまい」と言うと、「戦後に工事再開して完成したんですよと木場は云った」。そして、「木場」はこう続けた

 何でもね、地元民が相当に苦労して造ったんだってェ話は新聞かなんかで読みましたがね。行政が手を引いた代わりに山の木ィって売ッ払って、それを財源にして近在住民自らが人足になって無休で工事やったとか―。(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 この『陰摩羅鬼の瑕』の記述もほぼ正しいが、より詳しく言うと次のようになる。

 前述のように、昭和15年(1940年)に白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、昭和19年(1944年)までに建設費のすべてを使い果たし、長野県は白樺湖堰堤築造工事を打ち切りとした。戦時の財政逼迫によることであろう。しかし、北山村柏原区の人たちはあきらめず、さらに必要となった建設費15万円を自ら負担し、労力は柏原区民と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)生徒の労働奉仕に依拠して堰堤築造工事を続行した。旧制諏訪中学校の生徒たちが白樺湖堰堤築造工事に従事していたのは、学徒勤労動員によって諏訪鉄山(拙稿「蓼科の近代史Ⅱ―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」参照)で働いていた旧制諏訪中学校の生徒たちの一部が白樺湖堰堤築造工事の方に回されていたからである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、93頁)。「地元柏原区・[北山村池の平]耕地整理組合の熱意と努力、血と汗によって戦時下の諸困難をのりこえて」(『茅野市史 下巻』763頁)、白樺湖は戦後の昭和21年(1946年)になって完成に至った。しかし、堰堤からの漏水が激しかったため、昭和24年(1949年)には、堰堤の補強工事が県と地元有志の出資によって行われた(『茅野市史 下巻』763頁)。この補強工事については、柏原区民全員の賛同が得られなかったので、有志が代行組合を作って資金を調達したのである。こうして出来あがった白樺湖は今日なお、茅野市大字北山などの水田に水を送り続けている。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.78)

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「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』
後藤玲子

はじめに

 きわめてあたりまえのことだが,現に在る「福祉」は,だれかが,ここ,そこ,あそこで受けている福祉であって,概念としての福祉ではない.概念としての福祉がどこかに実在し,実際に観察されるわけではない.そうであるにもかかわらず,私たちはまたしても,福祉とは何か,を問う.そして,そのあるべく姿を問う.なぜか.おそらくそれは,目の前に苦しむ人がいるから,またしても現れるから.そして,いまある福祉のもとで,ひっそりと苦しむ人がいるおそれを,否定することができないからだろう.

 だれであろうと,福祉を必要とする人たちを,いつであろうと,どこであろうと,ほったらかしにはしない,そのためには,いったいどうしたらよいのだろうか.そんな祈りにも似た気持ちをもって本書を開いた.

1.豊かなケイパビリティ

 当初,本書から,縦・横の移動を自由に組み合わせながらゴールへと進んでいくボードゲーム(あるいは数学でいう格子経路)のような印象を受けた.その印象は,―各論考の独自性と完成度がきわめて高いこともあり―,小さな布地(キルト)を縦横に縫い合わせ,重ね合わせる壮大なタペストリーへと変わった.おそらく読み方に特定のルールがあるわけではないだろう.時系列的な流れをより全体的に俯瞰しようと,縦の「章」をつないで読むことも,福祉を支える背景思想をより総合的に理解しようと,横の「章」をつないで読むことも,許される.

 あるいは,索引を手引きとしながら,特定の項目を異なるキルトから拾い出し,異なる文脈をつなげることもできる.同種の主題を扱った論考(縦糸と横糸),ならびにコラムを重ね合わせて読み解くこともできよう.A.センの「ケイパビリティ(潜在能力)論」を専門とする私の脳裏にちらっと,「本のケイパビリティ」という語が浮かんだ.本書は実に多様な読み方を可能とする豊かなケイパビリティを備えた本である,と.

 例えば,「出入り自由な往来」に関心をもつ私は,「行き倒れ」の項目に眼を惹かれた.行き倒れとなった「無宿非人」を運ぶ駕籠は「町」の負担である一方,粥・薬等は幕府の負担であった(経糸3-5章「日本」),あるいは,行旅病人の救助については,救助地の府県が救助費用を負担することとされた(経糸4-6章「日本」)などの記述である.通常,保険と理解されることの多い医療保障のもつ公共性を示す貴重な断片である.

 経糸1-1章「先史時代」にも,人骨から単独歩行が不可能な外傷や病状を負った人への介護ケア(助け合い)が確認され,集団移動時には(被介護者自身の)個人搬送を伴ったと理解される,とある.これらは,現代,移動困難者の支援を行っている「同行援助」や「福祉有償運送事業」の担い手たち,NPO法人や市町村行政を勇気づけるに違いない.

 かくも豊かなケイパビリティを備えた本書であるから,異なる角度から書評が書かれるに違いない.より公平で中立的な本書の紹介は他に譲り,以下では,冒頭に記した筆者自身の関心と,経済哲学というバックグラウンドから,いくつかコメントするにとどめたい.

2.分析枠組み

 本書の分析枠組みは,次のようにまとめられる.

 まず,(1)本書の鍵となる「福祉」概念は,広く緩やかに,「人々が享受する,適切な生存・生活の質」,「適切ではないと判断された物質的・精神的な欠乏や不足や不安への対応全般」と捉えられる. 

 分析に当たって,本書は,(2)(福祉を担う)「人間集団の範囲と価値観,そして利用可能な手段を考慮に入れ」ながら,供給主体の複数性や「福祉の複合体」に着眼点を置く.

 叙述は,(3)対象の地域・時代の福祉を当時の概念や用語法を踏まえて描かれる.ただし,5つの時代区分,ならびに,四重のセーフティ・ネット(自助努力・助け合い・富裕者からの私的な慈善・公的な福祉)が,共通の「測り」(共通尺度)とされる.

 この枠組みのもとで,「各時代を代表する福祉の展開するひとまとまりの時空間」を「経糸」とし,「ある時期に広く共有された現象(宗教やイデオロギー,政治・経済的トレンドと福祉のかかわり)」を「緯糸」として,本書全体が編み込まれていく.

 本書の最大のメリットは,編者らがこのような分析枠組みを明示していること,それに呼応するように,他の論考が共通の枠組みと,類似した概念に依拠しながら,議論を進めている点にある.例えば,経糸5-7章「インド」には次の記述がある.「(特定カテゴリーの集団権益の保証から,権利に基づく個人の利益の保障へという変化は)チャリティ的なるものやインフォーマルな互助から,フォーマルな公的救済へと発展してきたものではない」,「(霊的な見返りを得たい人々の想い,社会奉仕活動により蓄財とのバランスを維持したい,政治的支持と引き換えに貧困対策を行う政府や政治家の利害,汚職のない公平な社会の実現を願う企業家など)異なる組織や個人の想い,思惑,利害が併存,対立し,時には絡み合うことでもたらされてきたのである」.

 とはいえ,すべての論考が共通の分析枠組みにすんなり収まっているわけでは毛頭ない.そもそも何を福祉と呼ぶのか,みなすのか.ここからそれぞれ論を起こし,その意味内容は一様ではない.「私的慈善」に対置する「公的福祉」を現わす言葉とする論考もあれば,端的に,「一般に社会的弱者への支援を福祉と呼ぶ」とする論考もある(経糸5-3章ドイツ).「どこで何があっても,すぐに緊急救援に駆けつける」活動こそを福祉の根幹だと認識していると指摘する論考もある(経糸5-6章イスラーム世界).「社会的救済機能を担った「福祉」はいわば普遍的な現象である」として,終始かっこつきのまま,「福祉」現象,「福祉」事情,「福祉」的活動を広く捉えようとする論考もある(経糸2-2章「ビザンツ帝国」,経糸2-1章西ヨーロッパ).「福祉」の語がまったく登場してこない―「慈善」はあっても―論考も少なくない.

 「慈善」については,おおまかな定義の一致があるように見受けられる.けれども,例えば,「慈善信託」のような事象には,給付型奨学金などの公益財団的な活動が入り込んでくる(経糸3-1章西ヨーロッパ,経糸4-1章イギリス,緯糸4-i(帝国主義・植民地主義)〔1〕イギリス).それらが教育・就労などの「機会の実質的平等」に資することは間違いない.あるいは,遺贈を託された行為主体の道徳性をめぐって,福祉と共通する困難さを内包していることも間違いない.だが,ときに生産性論理を超える価値や論理の追求へとわれわれをかき立てる福祉との間には,見逃すことのできない異質性があることは否めない.

 とはいえ,各論考は専門性の高い膨大な研究蓄積のもとに書かれているだけに,いずれも大変,興味深く,これらの異質性もまた,本書の統一性を損ねるどころか,むしろ編者らの意図をよりいっそう鮮明に浮かび上がらせることに成功しているといえるだろう.

3.障碍者福祉

 冒頭に記した私の関心から,もっとも興味深かったのは,障害者福祉に関する次のような記述である.「救済されるべき弱者は「条件つき」であった.例えば,生得の障害者は救済対象ではなく,排除の対象であり,彼らは最終的には殺害されるに至っている」とある(経糸5-3章ドイツ).「障害者を増やさない政策,それまで戦争障害者と労務災害障害者以外の,生得障害者を排除する論理にどう対抗するか」「「自立支援」という名のもとに個々人の努力を重視する政策ではなく,当事者に寄り添った公的支援をどのようにしていくのか」という問いかけは重要である(コラム5-②障害者福祉).

4.高齢者優遇

 儒教の思想で紹介された「ハンセン病患者への差別」と「高齢者優遇」とのコントラストが,上記の記述と響き合う(経糸1-3章中国).ハンセン病患者は罪状にかかわらず「定殺」(溺死の刑)とされる,対して高齢者は労役刑以上の罪を犯したとしても一般民衆と同じ手続きでは告訴されない,むしろ告訴により尊厳を傷つけた者の方に大逆不道の罪が適用される(言語的身体的虐待を行ったものも同様)という.これらをもとに,著者は,高齢者という弱者の立場は,一般の人々にとって,「自分ごと」として捉えやすいのに対し,疾病や障害,性差などは,「自分ごと」としては捉えづらいのでは,と問いを投げかける.

 宗教的な思想であれば,この難点を克服できるだろうか.宗教は,第三項を立てることにより,福祉の担い手と受け手の間にある非対称的関係性が,支配-従属,優位-劣位関係に転化することを食い止めてきたとある(緯糸2(世界宗教)〔2〕キリスト教,緯糸2(世界宗教)〔3〕イスラーム,経糸5-6章イスラーム世界など).富裕者はただ神に寄贈し,貧者はただ神から拝受する.神を挟んだ二者は,相互に比較不可能な存在として対等性を担保される.先に言及した「慈善信託」やワクフなどが,イギリスやイスラーム世界などで超国家的なしくみとして普及し,機能してきた(規模は大きいが組織化は進まない)一方,日本では根付きづらかった(行政的組織化がより強化であったが,「家」を超える贈与行為の規模はごく限られる)理由も,このあたりにありそうだ(経糸4-6章日本).

5.福祉供給主体の動機

 本書の重要な貢献は,福祉供給主体の動機について,コアとなるものを,さまざまな位相で,ほぼ体系的に網羅した点にあるだろう.例えば,「信託」の語は,国家間(宗主国と植民地など)や民族間(先住民と入植者など)の支配-従属,優位-劣位関係を律する倫理としても注目される.緯糸4-ii,トランスナショナル・ネットワーク[2]では,労働者インターナショナルの活動に献身したローザ・ルクセンブルクの言葉,「雲と小鳥と人の涙のあるところ,そこがすべてわが家である,と私には感じられます」が紹介される.さまざまな動機や目的で国境を越える,実に多様なネットワークの重層性と拡がりのあることが示唆される.ここには「自分ごと」かどうかを越える福祉の思想が潜まれているのかもしれない.残念ながら,今回は,これらの論考を十分に読み込むことができなかった.宿題としたい.

6.慈善と公的福祉

 本書の主題である慈善と公的福祉については,例えば,「民間慈善」対「権利」に関する「貧民救済論」(末広重恭)と「非貧民救済論」(肥塚竜)の論争が興味深かった(4-6章「日本」).前者は,民間慈善には「必要な人に届くとは限らない」不安定性があるため,むしろ,「救済を受ける権利」を全国民に確立すべきだと主張する.後者は,これを退けて,「裁判所に訴える権利」は全国民がもつといえるが,「救済を受ける権利」はそうはいえないと主張する.慈善については,「世の中には慈悲深い人もいればそうでない人もいる,法律で一定に制限することはできない」と流している(経糸4-6章日本).

 文字通り,すべての国民に,あるいは,すべての地球市民に,必要な人に必要なものが届くためにはどうしたらよいのだろうか.そう考えながら,頁をめくると,経糸5-5章アフリカの「底辺層は自らの生活世界の保護と拡充のために,多種多様な扶助のチャンネル(公的支援,市場原理の貸し出し,伝統的互助講の再編成版など)を自らの生活の必要に合わせて混淆させて,巧妙に対応していることがわかった」という言葉が眼に入った.

おわりに

 概念としての福祉を求める前に(そして,それを求めるためにも),ここ,そこ,あそこに在る(在った)個々の福祉をもっと学びとる必要がありそうだ.1つ1つのキルトを再度,丁寧に読み込みながら,本書との対話を継続していきたい.多くの問いとヒントを提示していただいたことに心からの感謝を表して,本稿の結びに代えたい.

(「世界史の眼」No.78)

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