「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』
後藤玲子

はじめに

 きわめてあたりまえのことだが,現に在る「福祉」は,だれかが,ここ,そこ,あそこで受けている福祉であって,概念としての福祉ではない.概念としての福祉がどこかに実在し,実際に観察されるわけではない.そうであるにもかかわらず,私たちはまたしても,福祉とは何か,を問う.そして,そのあるべく姿を問う.なぜか.おそらくそれは,目の前に苦しむ人がいるから,またしても現れるから.そして,いまある福祉のもとで,ひっそりと苦しむ人がいるおそれを,否定することができないからだろう.

 だれであろうと,福祉を必要とする人たちを,いつであろうと,どこであろうと,ほったらかしにはしない,そのためには,いったいどうしたらよいのだろうか.そんな祈りにも似た気持ちをもって本書を開いた.

1.豊かなケイパビリティ

 当初,本書から,縦・横の移動を自由に組み合わせながらゴールへと進んでいくボードゲーム(あるいは数学でいう格子経路)のような印象を受けた.その印象は,―各論考の独自性と完成度がきわめて高いこともあり―,小さな布地(キルト)を縦横に縫い合わせ,重ね合わせる壮大なタペストリーへと変わった.おそらく読み方に特定のルールがあるわけではないだろう.時系列的な流れをより全体的に俯瞰しようと,縦の「章」をつないで読むことも,福祉を支える背景思想をより総合的に理解しようと,横の「章」をつないで読むことも,許される.

 あるいは,索引を手引きとしながら,特定の項目を異なるキルトから拾い出し,異なる文脈をつなげることもできる.同種の主題を扱った論考(縦糸と横糸),ならびにコラムを重ね合わせて読み解くこともできよう.A.センの「ケイパビリティ(潜在能力)論」を専門とする私の脳裏にちらっと,「本のケイパビリティ」という語が浮かんだ.本書は実に多様な読み方を可能とする豊かなケイパビリティを備えた本である,と.

 例えば,「出入り自由な往来」に関心をもつ私は,「行き倒れ」の項目に眼を惹かれた.行き倒れとなった「無宿非人」を運ぶ駕籠は「町」の負担である一方,粥・薬等は幕府の負担であった(経糸3-5章「日本」),あるいは,行旅病人の救助については,救助地の府県が救助費用を負担することとされた(経糸4-6章「日本」)などの記述である.通常,保険と理解されることの多い医療保障のもつ公共性を示す貴重な断片である.

 経糸1-1章「先史時代」にも,人骨から単独歩行が不可能な外傷や病状を負った人への介護ケア(助け合い)が確認され,集団移動時には(被介護者自身の)個人搬送を伴ったと理解される,とある.これらは,現代,移動困難者の支援を行っている「同行援助」や「福祉有償運送事業」の担い手たち,NPO法人や市町村行政を勇気づけるに違いない.

 かくも豊かなケイパビリティを備えた本書であるから,異なる角度から書評が書かれるに違いない.より公平で中立的な本書の紹介は他に譲り,以下では,冒頭に記した筆者自身の関心と,経済哲学というバックグラウンドから,いくつかコメントするにとどめたい.

2.分析枠組み

 本書の分析枠組みは,次のようにまとめられる.

 まず,(1)本書の鍵となる「福祉」概念は,広く緩やかに,「人々が享受する,適切な生存・生活の質」,「適切ではないと判断された物質的・精神的な欠乏や不足や不安への対応全般」と捉えられる. 

 分析に当たって,本書は,(2)(福祉を担う)「人間集団の範囲と価値観,そして利用可能な手段を考慮に入れ」ながら,供給主体の複数性や「福祉の複合体」に着眼点を置く.

 叙述は,(3)対象の地域・時代の福祉を当時の概念や用語法を踏まえて描かれる.ただし,5つの時代区分,ならびに,四重のセーフティ・ネット(自助努力・助け合い・富裕者からの私的な慈善・公的な福祉)が,共通の「測り」(共通尺度)とされる.

 この枠組みのもとで,「各時代を代表する福祉の展開するひとまとまりの時空間」を「経糸」とし,「ある時期に広く共有された現象(宗教やイデオロギー,政治・経済的トレンドと福祉のかかわり)」を「緯糸」として,本書全体が編み込まれていく.

 本書の最大のメリットは,編者らがこのような分析枠組みを明示していること,それに呼応するように,他の論考が共通の枠組みと,類似した概念に依拠しながら,議論を進めている点にある.例えば,経糸5-7章「インド」には次の記述がある.「(特定カテゴリーの集団権益の保証から,権利に基づく個人の利益の保障へという変化は)チャリティ的なるものやインフォーマルな互助から,フォーマルな公的救済へと発展してきたものではない」,「(霊的な見返りを得たい人々の想い,社会奉仕活動により蓄財とのバランスを維持したい,政治的支持と引き換えに貧困対策を行う政府や政治家の利害,汚職のない公平な社会の実現を願う企業家など)異なる組織や個人の想い,思惑,利害が併存,対立し,時には絡み合うことでもたらされてきたのである」.

 とはいえ,すべての論考が共通の分析枠組みにすんなり収まっているわけでは毛頭ない.そもそも何を福祉と呼ぶのか,みなすのか.ここからそれぞれ論を起こし,その意味内容は一様ではない.「私的慈善」に対置する「公的福祉」を現わす言葉とする論考もあれば,端的に,「一般に社会的弱者への支援を福祉と呼ぶ」とする論考もある(経糸5-3章ドイツ).「どこで何があっても,すぐに緊急救援に駆けつける」活動こそを福祉の根幹だと認識していると指摘する論考もある(経糸5-6章イスラーム世界).「社会的救済機能を担った「福祉」はいわば普遍的な現象である」として,終始かっこつきのまま,「福祉」現象,「福祉」事情,「福祉」的活動を広く捉えようとする論考もある(経糸2-2章「ビザンツ帝国」,経糸2-1章西ヨーロッパ).「福祉」の語がまったく登場してこない―「慈善」はあっても―論考も少なくない.

 「慈善」については,おおまかな定義の一致があるように見受けられる.けれども,例えば,「慈善信託」のような事象には,給付型奨学金などの公益財団的な活動が入り込んでくる(経糸3-1章西ヨーロッパ,経糸4-1章イギリス,緯糸4-i(帝国主義・植民地主義)〔1〕イギリス).それらが教育・就労などの「機会の実質的平等」に資することは間違いない.あるいは,遺贈を託された行為主体の道徳性をめぐって,福祉と共通する困難さを内包していることも間違いない.だが,ときに生産性論理を超える価値や論理の追求へとわれわれをかき立てる福祉との間には,見逃すことのできない異質性があることは否めない.

 とはいえ,各論考は専門性の高い膨大な研究蓄積のもとに書かれているだけに,いずれも大変,興味深く,これらの異質性もまた,本書の統一性を損ねるどころか,むしろ編者らの意図をよりいっそう鮮明に浮かび上がらせることに成功しているといえるだろう.

3.障碍者福祉

 冒頭に記した私の関心から,もっとも興味深かったのは,障害者福祉に関する次のような記述である.「救済されるべき弱者は「条件つき」であった.例えば,生得の障害者は救済対象ではなく,排除の対象であり,彼らは最終的には殺害されるに至っている」とある(経糸5-3章ドイツ).「障害者を増やさない政策,それまで戦争障害者と労務災害障害者以外の,生得障害者を排除する論理にどう対抗するか」「「自立支援」という名のもとに個々人の努力を重視する政策ではなく,当事者に寄り添った公的支援をどのようにしていくのか」という問いかけは重要である(コラム5-②障害者福祉).

4.高齢者優遇

 儒教の思想で紹介された「ハンセン病患者への差別」と「高齢者優遇」とのコントラストが,上記の記述と響き合う(経糸1-3章中国).ハンセン病患者は罪状にかかわらず「定殺」(溺死の刑)とされる,対して高齢者は労役刑以上の罪を犯したとしても一般民衆と同じ手続きでは告訴されない,むしろ告訴により尊厳を傷つけた者の方に大逆不道の罪が適用される(言語的身体的虐待を行ったものも同様)という.これらをもとに,著者は,高齢者という弱者の立場は,一般の人々にとって,「自分ごと」として捉えやすいのに対し,疾病や障害,性差などは,「自分ごと」としては捉えづらいのでは,と問いを投げかける.

 宗教的な思想であれば,この難点を克服できるだろうか.宗教は,第三項を立てることにより,福祉の担い手と受け手の間にある非対称的関係性が,支配-従属,優位-劣位関係に転化することを食い止めてきたとある(緯糸2(世界宗教)〔2〕キリスト教,緯糸2(世界宗教)〔3〕イスラーム,経糸5-6章イスラーム世界など).富裕者はただ神に寄贈し,貧者はただ神から拝受する.神を挟んだ二者は,相互に比較不可能な存在として対等性を担保される.先に言及した「慈善信託」やワクフなどが,イギリスやイスラーム世界などで超国家的なしくみとして普及し,機能してきた(規模は大きいが組織化は進まない)一方,日本では根付きづらかった(行政的組織化がより強化であったが,「家」を超える贈与行為の規模はごく限られる)理由も,このあたりにありそうだ(経糸4-6章日本).

5.福祉供給主体の動機

 本書の重要な貢献は,福祉供給主体の動機について,コアとなるものを,さまざまな位相で,ほぼ体系的に網羅した点にあるだろう.例えば,「信託」の語は,国家間(宗主国と植民地など)や民族間(先住民と入植者など)の支配-従属,優位-劣位関係を律する倫理としても注目される.緯糸4-ii,トランスナショナル・ネットワーク[2]では,労働者インターナショナルの活動に献身したローザ・ルクセンブルクの言葉,「雲と小鳥と人の涙のあるところ,そこがすべてわが家である,と私には感じられます」が紹介される.さまざまな動機や目的で国境を越える,実に多様なネットワークの重層性と拡がりのあることが示唆される.ここには「自分ごと」かどうかを越える福祉の思想が潜まれているのかもしれない.残念ながら,今回は,これらの論考を十分に読み込むことができなかった.宿題としたい.

6.慈善と公的福祉

 本書の主題である慈善と公的福祉については,例えば,「民間慈善」対「権利」に関する「貧民救済論」(末広重恭)と「非貧民救済論」(肥塚竜)の論争が興味深かった(4-6章「日本」).前者は,民間慈善には「必要な人に届くとは限らない」不安定性があるため,むしろ,「救済を受ける権利」を全国民に確立すべきだと主張する.後者は,これを退けて,「裁判所に訴える権利」は全国民がもつといえるが,「救済を受ける権利」はそうはいえないと主張する.慈善については,「世の中には慈悲深い人もいればそうでない人もいる,法律で一定に制限することはできない」と流している(経糸4-6章日本).

 文字通り,すべての国民に,あるいは,すべての地球市民に,必要な人に必要なものが届くためにはどうしたらよいのだろうか.そう考えながら,頁をめくると,経糸5-5章アフリカの「底辺層は自らの生活世界の保護と拡充のために,多種多様な扶助のチャンネル(公的支援,市場原理の貸し出し,伝統的互助講の再編成版など)を自らの生活の必要に合わせて混淆させて,巧妙に対応していることがわかった」という言葉が眼に入った.

おわりに

 概念としての福祉を求める前に(そして,それを求めるためにも),ここ,そこ,あそこに在る(在った)個々の福祉をもっと学びとる必要がありそうだ.1つ1つのキルトを再度,丁寧に読み込みながら,本書との対話を継続していきたい.多くの問いとヒントを提示していただいたことに心からの感謝を表して,本稿の結びに代えたい.

(「世界史の眼」No.78)

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