書評 ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』作品社(2026)
稲野強

 平等、と言えば、ほぼ反射的に「神の前の平等」、「生まれながらの平等」という理念が想起される。この理念は、まぎれもなく人間存在にとって何人も認める極めて価値の高い規範である。本書の著者ダリン・M・マクマホンによれば、「人間は本質的に平等であり、同等の価値があり、この理念を経済、政治の各方面の社会構造に反映させるべきことは、現代のほぼすべての道徳の政治理論の基本的信条の一つ」なのである。

 そうであるならば、平等は、権力の支配と被支配との関係を解き、人種・民族、階級、身分、地域、宗教、文化、言語、教育ばかりか、男女性や障害者に関する偏見や差別を認めない万能薬のひとつとなるはずである。

 ところが、マクマホンは、現代は「平等の危機に直面している」と断言する。不平等の研究はあまた存在するが、平等を扱う研究が少ないことも、そのことを裏書きしているのだろう。

 確かに、不平等の大音響の前では平等の音は微かにしか聞こえない。200年以上前の啓蒙時代・フランス革命で高らかに掲げられた「自由・平等・友愛」のスローガンは、今日でも相変わらず「目標」(夢)なのである。

 このように人びとは、長きにわたって不平等の拡大・深化や差別の高い壁を経験してきために平等を獲得する闘争心を失ってきた。そこで平等の理念は、相互に複雑に絡み合う多種多様の差別・偏見や排除の洪水になす術のない状態のなかで、時には現実離れした理想主義として退けられ、「冷笑されてきた」のである(注)。

 もっとも平等の理念にも大きな欠陥がある。それは、平等が、体制内部では序列化、統一化や優越化を促すと同時に、外部に対しては、異質性の排除を強化させることである。歴史的に見れば、国民国家やファシズム国家形成過程ではとくに顕著であったが、平等は、必然的に自我(=民族我)の確立を促すから、他者との同一性を嫌う人間の性向によって、国ないしは地域の優越性・序列化を生み、それによって内部における凝集力・求心力を増すと同時に国ないしは地域の外部に対しては、排他性を促進させるのである。

 著者は、人びとは、平等の観念が過去にどう理解されてきたか、驚くほど関心がない、と嘆く。言い換えれば、あまりにも多くの不平等の現実を前にして、戦う意欲を削がれるほど激しい不平等への慣れの常態が続いたために、われわれは「平等を想像することが難しい時代」に生きていることになり、そのような状況ではまともな歴史すら書くことができないと訴えたいようである。

 そうした深い現状認識を踏まえて、本書は、人類史、政治史、哲学史、社会心理学、社会学を駆使しつつ、太古から現代までの人類の長い歴史のなかで、平等の観念がどう「発明され」、破壊され、再生され、今日に至ったのかを時系列に沿って解き明かそうとしたスケールの大きな意欲作である。

 さて、その点を本書の内容に沿って見ると、平等の理念は、すでに狩猟採取時代に「支配の序列」に対する抵抗によって生まれたとされる。こうした社会では、「逆の順位制」または「平等主義的序列」と呼ぶもの、つまり大勢が一緒になって少数の者を支配する関係の基礎が敷かれたのである。だが、次のギリシャ・ローマの時代には非市民、女性、奴隷は平等権を与えられず、排除された。また紀元前1千年紀の「枢軸時代」には、世界各地で主要な宗教が誕生し、「平等の発明」とともに、「仲間意識」が生まれたが、それらの宗教は、排除と分断の新たな形の土台を敷くことになった。さらに時代を下がって、18世紀の啓蒙主義・フランス革命の時代には、普遍的な価値を持つスローガンが、革命を促進させ、反植民地運動に応用されたこともあるが(ハイチ独立運動)、例えば、女性は「理性がないから」との理由で市民権を得ることができなかったまた近代・初期社会主義の時代には、資本家と労働者との階級対立が先鋭化されるなかで、一部で平等の社会的実験は試みられたが、格差はそれまで以上に拡大し、「持たざる」人びとは、幻想を抱いた分だけ大きな幻滅を味わうことになった。次いで19世紀の国民国家形成期には、国家統一の掛け声のもとで、民族・人種主義運動の台頭を見、地域間差別が助長された。そうした流れは、ファシズム国家に歪んだ形で受け継がれることになる。第二次世界大戦後の国連主義の時代における「世界人権宣言」から現代に至るまで、改めて人種・信条・性別・社会的身分・門地などにより差別されない権利が再確認されたが、現代はグローバル化と格差の拡大により平等の危機を招来させ、平等を想像する力そのものも弱っている。

 こうして平等の理念は、誰でもが認める最高の価値であるにもかかわらず、現代にいたるまで時代の制約によって過酷な現実にぶつかるとその矛盾(=不平等)を露呈させてきた。著者は、人類が平等の幻想から不平等という幻滅の時代を経験したことを踏まえて、現代を「平等の危機に直面している」「平等を想像することさえ難しい時代」とみなしている。だがそのうえで、著者は、平等がつねに「想像の産物」であり、歴史上人びとは「枢軸時代」や「啓蒙主義時代」など何度も「平等を発明」してきていることを重視しており、その想像力にこそ不平等と闘う強い確信を見出している。

 ちなみに著者による想像力の再生のシナリオは、著者の研究の主要拠点であるアメリカをモデルとして描かれる。すなわち現代は、「第一の再建」(南北戦争以後の奴隷を国民に統合)、「第二の再建」(1950、60年代の公民権運動の「活性化の時代」)に続く「第三の再建」(アメリカにおける近年の人種間対立を「過去、現在、未来を再考する機会」)と位置づけられる。これは、過去の革命的エネルギーを利用して、「人種間の平等のための新たな闘争」を行い、最終的に未来により平等な世界を築く「夢」を実現化するための機会だと捉えられるのである。そして言い放つ。「悪夢は、それでも夢なのだ」と。

本書は、平等の理念の再発見ないしは復権の書であると同時に人類史を俯瞰した未来志向の書である。

(注)神学者・宗教学者の森本あんりは「近年は人権や平和、平等の理念が、理想主義だと冷笑されることが少なくない」「万人が誰かとの比較ではなく一番だと思える『絶対性思考』をもっと了解することが重要だ」と述べた。「取材考記」『朝日新聞』(夕刊)2026.5.25。

(「世界史の眼」No.77)

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