奉天からの世界史(下)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前々号)
2 内藤湖南と奉天
 (前号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、本号)

3 夏目漱石と奉天

 1909年、夏目漱石は慢性の胃痛を抱えながら満洲と韓国をめぐる旅に出た。漱石の高等学校以来の旧友で南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうの勧めによる視察旅行であった。漱石は神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。7日からは満鉄中央試験所、「電気公園」(電気遊園)、西公園、満鉄本社など各所を回った。10日には、主として日露戦争の戦跡を見るために旅順に行ったが、12日に、もう一度大連に戻った。14日、大連を出発、営口などを経て、9月19日に奉天に着いた。その時のことが「漱石日記」には次のように書かれていて、当時の奉天の状況がよく分かる。

三時奉天着。満鉄の附属地に赤煉瓦の構造所々に見ゆ。立派なれどもいまだ点々の感を免かれず。瀋陽館の馬車にて行くに電鉄の軌道を通る。道広けれども塵埃甚だし。左右は茫々たり。漸くにして町に入る。(その前にラマ塔を見る。)瀋陽館まで二十分かかる。電話にて佐藤肋骨の都合を聞き合す。よろしという。直ちに行く。城門を入る。大なるものなり。十五分ばかりにして満鉄公所に着。(平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、119頁)

 この時、奉天の満鉄附属地はまだ建設途上で、建築中の赤煉瓦の建物が見えたが、それも点々とある程度であった。満鉄直営のヤマトホテルもまだ開業していなかった(開業は1910年)。それで、満鉄総裁、中村是公は奉天宮殿敷地内の満鉄公所(満鉄の事務所・宿泊施設)に泊まることを勧めたが、漱石は連れがいることから遠慮し、瀋陽館という日本式旅館に宿泊することにした。奉天駅で瀋陽館の迎えの馬車に乗った漱石は後に軽便鉄道が通ることになった道を東北方向に進み、小西辺門に向かった(図1参照)。漱石は「電鉄の軌道を通る」と書いているが、この時はまだ鉄道馬車であった。瀋陽館は小西辺門と小西門の間、小西辺門から馬車で20分ほどの所にあった。瀋陽館に着いた漱石は電話で満鉄公所の所長である佐藤肋骨(本名、佐藤安之助。正岡子規門下の俳人)の都合を聞き、「よろし」ということで、再び馬車に乗り「城門」(小西門)を通って宮殿敷地内に入り、15分ほどで満鉄公所に着いた。漱石はここで晩餐などの供応を受けた後、瀋陽館に戻った。

 満鉄公所が宮殿の敷地内にあったということは、清朝の衰微を表すと同時に、奉天の満鉄附属地がまだ未整備の状況だったということを示している。その点では、大連や旅順とはかなり違っていた(漱石は大連や旅順では満鉄直営のヤマトホテルに泊まっていた)。奉天は日本にとってまだいわば新開地だったのである。

 翌9月20日、漱石は瀋陽館の番頭の案内で北陵を訪ねた。『漱石日記』には、次のような記載がある。

 九月二十日(日) 北陵。獅の首。亀の甲、高さ四首、五尺。脊に石碑あり。幅六尺厚二尺。隆恩門。アーチ。その上三層。アーチの上、厚壁。四方とも壁厚さ二丈五尺位。四隅に楼閣あり。正面に殿。左右にも殿。屋根の瓦薬付、茶・玉子色・赤・紅。下は総石。正面の石階左右は段々、中央は竜刻、大官はその上を通る。隆恩殿。欄干。それに菊生ゆ。
 昭陵。太宗文皇帝の陵。〔後略〕
 石壁の上、幅二間半。昭陵の後ろ 形。伝って歩すべし。長さ百六十歩。(『漱石日記』120頁)

 この記載を見る限り、漱石は北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟を含めて北陵の全体を見ることができたようである。その点で、内藤湖南の場合とは異なっている。それは両者の北陵訪問の間の約四年間の変化であろう。

 この漱石の北陵訪問の具体的な道行については、漱石の紀行文「満韓ところどころ」から知ることができる(「満韓ところどころ」はもともと朝日新聞に連載されたものであるが、本稿では藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、に拠る)。

 瀋陽館の番頭と馬車で出発した漱石はおそらく小西辺門を通って城外に出た。その間悪路に悩まされたのだが、「右に折れると往来とは云われない位広い所へ出たので漸く安心した」(この右折した路というのは鉄道馬車の通る道から黄寺や御花園長寧寺の方に北上する道であろう)。「しばらくすると、路が尽きて高い門の下に出た。門は石を畳んだ三つのアーチから出来上っているが、アーチの下迄行くには大分高い石段を登らなくてはならない」。「是が正門ですがね、締切りだから壁へついて廻るんですと〔番頭が〕云って馬を土手のような高い所へ上げた。右は煉瓦の壁である」。「路は馬車が辛うじて通れる位狭い。其処を廻って横手の門から車を捨てて這入ると、眼がすっきりと静まった」。(この「横手の門」というのは文脈からすると西門であろう。前述のように、クリスティーは正門〔南門〕は閉鎖されているが、西門と東門は開かれていたと書いているが、もう1909年段階で開かれていたのであろう。)「一丁ばかり行って正面に曲ると左右に石の象がいた」。「突き当りにある楼門の様な所へ這入ったら、今度は大きな亀の脊に頌徳碑が立ててあった」(この「楼門の様な所」というのは碑を蓋う碑亭のことであろう)。「後へ出ると隆恩門と云うのが空に聳えていた」。「あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中に這入った」。「正面にある廟の横から石段を登って壁の上に出ると、廟の後だけが半月形になって所謂北陵を取り巻いている」(北陵の最奥部は隆業山という人工の小山によって取り囲まれている)。漱石も内藤湖南と同じように、隆恩門の上から北陵の全景を見ることができたのである(図2参照)。(以上の引用は『満韓ところどころ』137-141頁の各所から。)

 その後、漱石は隆恩殿などを経て、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの塚(円墳)のような墓廟まで行き、その周囲を一周している。その間、清朝の墓守などから全く何の妨害も制約も受けなかったようである。このことも清朝の衰退を物語っている。1909 年の清朝はもはや北陵や奉天の宮殿を管理する余力を失っていたのであろう。その約2年半後の1912年2月、300年近く続いた清朝はついに滅亡した。

4 中島敦と北陵

 中島敦は1925(大正14)年の春、植民地朝鮮の京城中学校4年生の時、修学旅行で満洲各地を訪れた。その一環として奉天にも行き、北陵にまで足を延ばしている。ただ、この北陵訪問について中島は小説その他の文章の中で一切触れていない。したがって、中島が北陵からどんな印象を受けたのかは分からない。

 他方、中島と京城中学校で4年間同級だった湯浅克衛は「敦と私」と題された中島死後の回想記の中で、この満洲修学旅行について次のように書いている(湯浅は「カンナニ」という小説で中島より早く作家デヴューした小説家である)。

 四年生の修学旅行は満州だった。奉天では、銃剣を逆さに持った張作霖軍が、物々しい顔で睨みつけていた。馬車を数十台連ねて、生い茂ったアカシアの葉先に頬をたたかれながら、北陵に向かった。ワイロをとらなければ門をあけない。帰途は城内に迷いこんで、私たちの馬車だけ、遅れた。酒手をはずまなかったからだ。棒、鍬をもった群衆にとりまかれたとき、敦が何か早口で喋った。群衆はさっと引き、馬車は何事もなかったように、城門を駆け抜けた。
 敦はシナ語〔中国語〕を知っていたのだろうか。どうも、うまかったとは思えないのだが。
 と云うのは、大連や旅順では専ら、筆談に頼っていたからだ。〔中略〕
 しかし、旅順の丘のアカシアは、吹雪のように散っていたし、水師営には、心もとない棗のあとがあった。東鶏冠山、沙河と、敦は日露戦史にも不思議な記憶力で、有能な案内人だった。(中村光夫、氷上英廣、郡司勝義編『中島敦研究』筑摩書房、1978年、233-234頁)

 この北陵訪問にかんする湯浅の記述にはあいまいな部分があるが、だいたい次のようなことであろう。

 図1に見られるように、当時の奉天は三つの部分に分かれていた。一番東側が本来の奉天城で、その真ん中に一辺1300メートルほどの矩形の内壁で囲まれた宮殿敷地がある。それを取り囲むいびつな円形の外壁が1680年に建造され、内壁と外壁の間が市街地となっていった。内壁の四辺には、大東門、小東門といったようにそれぞれ大小二つの門があり、外壁の四辺にも、大東辺門、小東辺門といったようにそれぞれ大小二つの門があった。

 南満洲鉄道(満鉄)は外壁から3ないし5キロメートルほど西側を通っていて、奉天駅を中心に線路沿いの土地約2×4キロメートルの碁盤の目状に地割されている部分が満鉄附属地であった。この満鉄附属地には、ヤマトホテルなど主として日本人が利用するさまざまな施設が立ち並んでいた。

 この奉天城の外壁と満鉄附属地の間が第三の地域、いわゆる商埠地しょうふちで、清国政府が地域を指定して外国人の居住を認め、その保護の任に当たる土地であった。1912年に清朝が滅亡した後は、中華民国政府や奉天軍閥の張作霖がそれを引き継いでいたのであろう。この商埠地には、日本の総領事館やアメリカ、イギリス、フランスの領事館などがあった。

 中島敦ら京城中学校の修学旅行生は満鉄附属地内のどこかのホテルに滞在していたのであろう。そのある日、一行は奉天駅から満鉄線路に沿って東北に進み小西辺門に至る軽便鉄道の通る道を行き、1907年に清朝が建設した奉天公園の手前で左折して一路北上、満鉄線路を越えて北陵に向かったものと思われる(図1参照)。帰路は同じ道を南下したのであろうが、奉天公園の所でなぜか右折せず、逆に左折して小西辺門から城内に迷いこんだようである(このことと御者に酒手をはずまなかったことがどう関係するのかは分からないし、中島が何を言ったのかも分からないが)。そこからどうやって城外に出たのか、湯浅は何も書いていないのだが、おそらく小西辺門あるいは大西辺門を通って満鉄附属地に戻ったのではないかと思われる。

 北陵は清朝時代には禁制の地で、立ち入りが禁止されていた。1912年、清朝が崩壊すると、奉天は大きな混乱もなく中華民国の版図に入った。北陵はこの段階で中華民国政府の管理下に置かれたものと思われる。1916年、中華民国大総統、袁世凱が死去すると、張作霖が奉天省の実権を掌握した。この後、北陵は張作霖軍が管理することになったのであろう。中島らの北陵訪問時、正門(南門)はまだ閉ざされていたが、西門と東門からは自由に入ることができた(湯浅の記述によれば、ワイロを出せば正門も開けてもらえたようである)。張作霖は、中島らの北陵訪問の2年後、1927年には北陵全体を一般に公開している。

おわりに

 その後、1928年6月4日、奉天直前で、張作霖が関東軍の謀略により、北京から奉天に帰る列車ごと爆殺されるという事件が起こった。1931年9月18日には、奉天東北郊の柳条湖で、関東軍の謀略により満鉄線路爆破事件が起こり、満洲事変へと展開した。1932年3月1日には、日本帝国主義の傀儡国家「満洲国」の建国が宣言され、「ラスト・エンペラー」溥儀が執政(後に「満洲国」皇帝)に就任した。1937年7月7日には、北京の南西、盧溝橋で日本軍と中国軍(国民政府軍)の衝突が起こり、その後日中全面戦争へと拡大した。

 しかし、この間、奉天に戦火が直接に及ぶことはなく、日本人研究者による奉天研究は続けられていた。それが破局を迎えたのは1945年8月9日、ソ連軍の満洲侵攻によってであった。日本に逃亡しようとしていた「満洲国」皇帝、溥儀は奉天空港においてソ連軍に身柄を拘束された。

参考文献(文中でいちいち注記しなかったが、以下の文献を参考にした)

デルヒ「モンゴル語『大蔵経』について」『北海道言語文化研究』No. 9、2011年。

内藤戊申「游淸第三記(下) 内藤湖南記」『東洋史研究』16-2、1957年。

三宅理一『ヌルハチの都―満洲マンジュ遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社、2009年。

李薈・石川幹子「中国瀋陽市における公園緑地系統計画の展開に関する歴史的研究」『日本都市計画学会 都市計画論文集』45-3、2010年10月。

『世界地理風俗大系 第一巻 満洲』新光社、1930年。

(「世界史の眼」No.48)

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