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世界史寸評
イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―
南塚信吾

 2025年6月13日、イスラエルが突然イランの核関連施設や軍事関連の人と場所を攻撃しはじめた。すぐにイランも反撃し、双方の攻撃が続いた。この問題をめぐって、ネット上に登場した日本の主要新聞の「社説」「主張」を比較点検してみた。比較したのは、ネット上で取りやすい日本経済新聞6月13日社説、読売新聞6月14日社説、産経新聞6月14日主張、信濃毎日新聞6月14日社説、東京新聞6月14日社説、朝日新聞6月14日社説、しんぶん赤旗6月15日主張、毎日新聞6月17日社説、西日本新聞6月17日社説である。

 論点は多岐にわたるが、以下では主なものについてのみ、検討の対象としている。

1. 国連憲章との関係について

(1)明白な違反

 イスラエルのイラン攻撃が国連憲章への明白な違反であると主張しているのは、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、それに赤旗である。この場合、国連憲章というのは、戦後の国際秩序ということも含めている。この他の新聞は、イスラエルの攻撃は国連憲章への違反だという批判はしていない。しかし、信濃毎日新聞などは、国連憲章違反だとは言わないが、イスラエルの「無謀な軍事行動」を「強く批判」した。赤旗は、イランを不法に攻撃するイスラエルを「制裁」せよとまで主張している。

(2)国連憲章と「自衛権」

 一主権国家が他の主権国家を武力攻撃するというのは、国連憲章に認められた「自衛権」の行使以外にはありえない(例外的に、国連安保理の決定による場合があるが)。

 国連憲章はその第51条において、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と規定している。

 イスラエルは今度の攻撃は、そういう「自衛権」の行使であると主張している(ちなみにイスラエルはガザ地区の攻撃についても「自衛権」の行使であると主張している)。では、今回イスラエルの言う「自衛権」というのは成り立つのかどうかという問題がある。

2. イランの核兵器開発について

(1)核開発の脅威と「自衛権」

 では、イランの核兵器開発を理由に、軍事攻撃はできるのだろうか。イスラエルは、イランの核開発が自国の安全保障上の脅威であるから、それを阻止するために「自衛」のための攻撃をしたとしている。

 これを認めているのが産経新聞である。同紙は、①イランは数日間で核兵器級の濃縮が可能な水準に達していた、➁国際原子力機関(IAEA)理事会は、6月12日IAEAとの査察協定に反しているとイランを非難する決議を採択した、③イランが核兵器を手にすれば親イラン武装勢力に渡ってイスラエル攻撃に使用する恐れがあると、主張して、イスラエルの攻撃を容認したわけである。そのうえで、「最大限の自制」を関係国に求めた。

 一方、イスラエルは、イランの核開発は「自国の生存への脅威だ」と主張し、国際法で原則禁止されている先制攻撃を正当化するが、これについては、危機が差し迫っているわけではないので「自衛」ということは当てはまらないというのが、朝日新聞、毎日新聞、赤旗の主張である。毎日新聞は、自衛権を認めていないという意味で、イスラエルの攻撃が国連憲章違反だとしていると考えられる。また(、)イスラエルの主張は「自衛権の拡大解釈」で「危うい」とするのが日本経済新聞である。東京新聞もイスラエルの主張は「とても受け入れられない」と批判している。

 読売新聞はこの問題を避けているようである。

(2)イランの核保有について

 イランが核兵器を保有しているかどうかという点については、どの新聞も確定できていない。いわば伝聞で終わっている。だが微妙な違いがある。

一番確定的なことを述べているのが、「核弾頭9発分の高濃縮ウランを製造し、兵器化の段階に入っていると指摘されている」という西日本新聞で、同じく、イランがウランを濃縮して「核爆弾9個分に相当するウランを持つとされる」とするのが読売新聞である。ともに「核弾頭9発分」という数字を出している。

 これに対し、イスラエルは、イランが「平和利用」を隠れみのに、核兵器を開発していると「主張する」として、漠然とした伝聞で終わっているのが毎日新聞である。

 高濃縮ウランの製造までで話を止めている新聞もある。日本経済新聞は、イランが「核兵器をつくらないと公言しながら、核爆弾に使えるレベルの高濃縮ウランをため込むのは理解に苦しむ。」とし、イランは自ら核について真相を明らかにすべきであると、注文している。東京新聞も、「ウラン濃縮活動」のみを確認するにとどめている。

 イランの核保有に懐疑的なのが朝日新聞で、「確かに、イランは原発用の燃料などよりはるかに高い濃度のウラン保有量を増やしてきた。ただ、核兵器を持つ意思はないと繰り返し強調し、国際機関も兵器級までの濃縮は確認していない。」とする。

(3)イランとアメリカの核協議

 イランの核開発について、アメリカとイランの間で協議が行われていたわけであるが、一つの論調は、この協議が行われているにもかかわらず、そのさなかに、イスラエルがイランを攻撃したことを非難するもので、読売新聞、朝日新聞、東京新聞、西日本新聞、赤旗がそうである。平和的に交渉すべきで、軍事力を持ってすべきではないというのである。

 もう一つの論調は、アメリカとイランの間での協議は行き詰まりを見せていたのであり、それに期待を寄せられないから、イスラエルは攻撃したのだというものである。これは産経新聞の主張である。

 この交渉に関連して、「イランが米欧中ロなどと結んだ2015年の核合意を一方的に破棄したのはトランプ」大統領であったことを想起すべきであるとするのが朝日新聞である。

 その後の展開を見ると、どうやらアメリカは交渉をしながら、イスラエルの軍事攻撃になんらかの形の支持を与えていたようであり、上の両方の見方は修正されなければならないかもしれない。

(4)イスラエルの核保有

 イスラエルはイランが核武装することを阻止するために攻撃をしたと言うが、イスラエル自身が核を保有しているのに、そういうイラン批判をするというのは、筋が通らないという批判がある。これは、西日本新聞、信濃毎日新聞、毎日新聞、朝日新聞の社説である。イスラエルは90発以上の核兵器を保有しているというのが、広く認められている情報である。

 中でも、「イスラエルは中東で唯一、核拡散防止条約(NPT)に加盟せず、核弾頭を90発保有するといわれる。他国の核開発を理由に攻撃する正当性がどこにあるのか。」と厳しくイスラエルを批判するのが、西日本新聞であり、朝日新聞も、「NPTの枠外で核を持つイスラエルが、NPT加盟国であるイランの核開発を力ずくで阻止することに、国際社会の理解は得られまい。」と批判する。

3. アメリカの「支持」について

 アメリカは今回のイラン攻撃には関与していないというが、産経新聞はその言明をそのまま報じている。それに対し、アメリカはなんらかの責任は免れないとするものがあって、アメリカは何らかの支援をしているのでありその責任は重いとする西日本新聞や朝日新聞、アメリカは止められなかったのかとする日本経済新聞、アメリカは黙認の責任はあるとする赤旗がある。東京新聞は、アメリカが「関与」していないなら、イスラエルに「攻撃を中止するよう強く迫るべきではないか」と主張している。

 それより注目されるのは、アメリカは事前にイスラエルのイラン攻撃のことを知っていたがイスラエルを「抑え」られなかったとすると、そのことはアメリカの影響力の低下を物語るのであり、アメリカが戦争に巻き込まれるのではないかと心配する読売新聞である。アメリカの責任は別として、イスラエルの後ろにいるアメリカが巻き込まれる可能性があると指摘するのが、信濃毎日新聞である。

 その後の展開を見ると、アメリカは「抑え」ようとしていたのかどうか、不明である。表面上は、そういう姿勢を見せているが、水面下ではイランとの協議にも拘わらず、暗黙の支持を与えていたのかもしれず、真相は分からない。しかし、まさに読売新聞の言うように、アメリカは、6月21日、イランの核施設3か所を爆撃し、「戦争に巻き込まれ」、直接交戦国となった。

4. 西欧諸国の態度について

 西欧諸国のイスラエルへの態度については、評価の微妙な違いがある。イスラエルのガザ戦争についてもそうであるが、ユダヤ人迫害の歴史を持つ西欧諸国は、ロシアのウクライナ戦争についてはこれを厳しく批判するが、イスラエルのガザやイランへの攻撃についてはこれを批判しないという「二重基準」を適用しているとして、イスラエルのイラン攻撃を黙認し批判をためらっていると指摘するのが、毎日新聞、朝日新聞である。

 このような基本的認識の上で、そういう西欧諸国の態度に変化が見られ、イスラエルに批判的になってきていると見るのが、東京新聞、朝日新聞、信濃毎日新聞、赤旗である。それゆえ、離れかかっている西欧諸国を引き戻そうとしているのだと信濃毎日新聞は主張している。

 その後の展開を見ると、西欧諸国も、イスラエルを積極的に支持するドイツと、批判的なフランスに二分されてきているように見える。

5. イスラエルの国内問題について

 イスラエルがこのような「無謀」な攻撃をしたのはなぜか。これについては、ネタニヤフ首相は対外危機をあおって、国内の団結を図り、自分の政権の延命と維持を狙っているのだとするのが、東京新聞、日本経済新聞、信濃毎日新聞である。他紙は、そういう問題を立てていない。

 イスラエル国内では、ガザ戦争などをめぐって、リベラル派と極右との間の対立が激しくなりつつあり、この際、中東全体に問題の舞台を拡げて対立をぼかすという意味もあるようである。その観点から、イスラエルはイランの現体制の転覆までを狙っているのであると指摘するのが、毎日新聞である。その後、この説はさまざまな方面から確認されつつある。

6. 日本のなすべきこと

 日本はなにをなすべきか。国際秩序を守るため、外交努力により両国に自制を求めるべきであるというのは、全紙揃っている。そのうえで、信濃毎日新聞は、自衛隊が巻き込まれる恐れがあり、日本経済に影響を与える恐れがあるから、日本は「被爆国として」外交努力をすべきだと言う。ただ、「中東で侵略や植民地支配の歴史のない日本」は、国際的に影響力を行使できるのだと朝日新聞は言うが、「中東」に限って日本の植民地支配の有無を言っても、どこまで国際的に説得力があるであろうか。

 またイラン攻撃が日本の石油供給に与える影響を考慮すべきであるとするのが、読売新聞である。そして、イラン戦争の影響で、自衛隊の派遣という問題も出てくると指摘するのが、それぞれの立場は違うが、産経新聞と信濃毎日新聞である。

 

 次回は、アメリカによるイラン攻撃について、同じように各紙の社説を比較してみたい。

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『増谷英樹の歴史学を考える』が刊行されました

世界史研究所では、2024年11月15日に亡くなった増谷英樹さんの歴史家としての業績を振り返る目的をもって、2025年1月に「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催し、その際の報告を、「世界史の眼」No.60(2025年3月)に掲載しました。この度、これに追悼文を加え、『増谷英樹の歴史学を考える』と題した小冊子を刊行しました。

目次は以下の通りです。

まえがき  小谷汪之

増谷英樹の歴史学を語る会(2025年1月25日)より
「増谷英樹の歴史学を語る会」記録  山崎信一
増谷英樹歴史研究の歩み素描  南塚信吾
増谷英樹氏とオーストリア史  古田善文
増谷英樹著『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読する  高澤紀恵
増谷英樹氏の「都市史の方法」をめぐって  吉田伸之

追悼 増谷英樹
増谷英樹さんを追悼する  伊藤定良
増谷英樹さんの思い出 ―「ビラ」が取りもつご縁―  稲野強

あとがき  木畑洋一

なお、価格500円(+送料)にて、購入可能です。ご関心のある方は、世界史研究所(info◎riwh.jp、◎を@に変えてください)までお問い合わせ下さい。

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「世界史の眼」No.64(2025年7月)

今号では、小谷汪之さんの「湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質」を掲載しています。次号と併せて全2回の連載です。また、野村真理さんに、鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中公新書、2025年)の書評をご寄稿いただきました。さらにパトリック・マニングさんのブログに掲載された「帝国対民主主義の今日―ガザの危機」を南塚信吾さんに翻訳していただき、ここに掲載します。

小谷汪之
湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質

野村真理
書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年

P・マニング(南塚信吾訳)
帝国対民主主義の今日―ガザの危機

鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中公新書、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質
小谷汪之

はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 湯浅克衛(本名、湯浅猛。1910‐82年)という作家を知る人は今では少ないであろう。ただ、幼・少年期を過ごした朝鮮にこだわり続けた異色の作家として、その功罪を含めて、検討に値する作家だと思う。

 湯浅は香川県の善通寺に生まれた。父親は地元の製缶工場に勤めていたが、湯浅の幼年期に解雇され、その後は植民地・朝鮮の日本軍・守備隊員として、朝鮮各地を転々とした。1916年、父親が朝鮮総督府の巡査試験に合格して、水原で巡査としての勤務に就いた。水原は当時の京城(現、ソウル)の南35キロメートルほどに位置する京畿道の中心都市である。18世紀末にはその地に華城が建設されて、水原は城壁に囲まれた城郭都市となった。朝鮮王朝は当時首府を水原(華城)に移すことも考えていたという。父親の水原赴任に伴い、湯浅は水原尋常小学校に入学した。1922年には同小学校を卒業して、当時の名門校・京城中学校に進学した。湯浅は1年生の時には水原から汽車で通学していたが、通学時間がかかり過ぎるので、2年生からは寄宿舎に入った。

 京城中学校では、後に「名人伝」、「弟子」、「李陵」など漢籍に材をとった作品で有名になる中島敦と4年間同級であった(中島は4年修了で卒業し、第一高等学校に進学した)。湯浅の回想記によれば、湯浅は二度、中島に助けられたということである。一度は3年生の時で、数学が嫌いな湯浅は数学の時間に教科書で隠しながら『改造』を読んでいた。『改造』といえば、当時の代表的な「左翼雑誌」である。湯浅は盗み読みしているところを数学の先生に見つかり、危うく停学になるところであったが、中島が間に入って京城中学校の「図書室監禁」2週間で決着したという。もう一度は4年生の時で、湯浅の寄宿舎の机から谷崎潤一郎の『痴人の愛』が見つかり、この時も停学処分になりかかった。しかし、中島や舎監長の先生の尽力で寄宿舎の「図書室監禁」1週間で済んだという(湯浅克衛「敦と私」、『ツシタラ 3』3‐4頁。『ツシタラ』は文治堂書店版『中島敦全集』各巻の付録)。これらの出来事があったのは、湯浅が15、6歳の時であるから、湯浅は一方で『改造』を読みながら、他方では『痴人の愛』を読むといった、ちょっと風変わりで早熟な文学少年だったのであろう。

 1927年、湯浅は京城中学校を卒業して東京に出た。翌1928年には早稲田第一高等学院に入学した。当時の早稲田第一高等学院は修業年限3年で、修了すれば早稲田大学の学部に無試験で入学できた。しかし、湯浅は、1929年、「近代文芸研究会」事件に連座して、早稲田第一高等学院を退学させられた。京城中学校時代に『改造』を読んでいた湯浅は早稲田で「左翼」的なサークル「近代文芸研究会」とつながりを持ったのであろう。湯浅は退学後の数年間、それ以上の学歴を求めず、「文学修行」に専念していたようである。

1 「カンナニ」

 湯浅克衛の処女作「カンナニ」は『文學評論』の1935年4月号に掲載された。島木健作の「癩」が『文學評論』に掲載されたちょうど1年後である。その時、湯浅はまだ25歳であった。しかし、「カンナニ」の『文學評論』掲載にはいろいろと曲折があった。

 『文學評論』に掲載された「カンナニ」は、水原の日本人巡査の息子で小学校5年生の龍二と彼より2歳年上の朝鮮人少女・カンナニ(李橄欖。普通学校夜間部5年生とされている。普通学校は朝鮮人子弟のための小学校)との間の幼く淡い恋情を描いた小説のように見える。ただ、それだけではなく、この小説は植民地支配下に置かれた朝鮮の人々の生活や感情、そして朝鮮人と日本人植民者の間の関係などについて、少年の目―それは小学校入学以前から中学校卒業まで10年以上を朝鮮で暮らした湯浅の目と言い換えることができる―を通してリアルに描いた作品として興味深く読むことができる。

 龍二はちょっと前に偶然知り合ったカンナニとすぐに仲良くなった。だが、一緒にいても、「何と話しかけたらいゝか、わからなかつた。すると、カンナニが[朝鮮語で]『お前タンシン・巡査スンサ・ドリ』と云つた」。「そして、不審氣な龍二の顔に、今度は日本語で『巡査の子と遊んぢやいかん』父が云つたよ」と続けた。龍二はこう応えた。
「どうしていけんのぢや」
「父は日本人大嫌ひ……[2字伏字、憲兵]一番嫌ひ、巡査、その次に嫌ひ。朝鮮人をいぢめるから、惡いことするから―」
「巡査は惡いことはせん、巡査は惡いことをしたり、いぢめたりする奴を退治する役ぢや。[後略]」
 龍二はいつしようけんめいにカンナニを説得しようとした。けれども女の子は淋し氣に笑つたまゝ乘つて來やうとはしなかつた。
 私の家でも―とカンナニは云ふのである―……[2字伏字、家を]潰された。持つてゐた田畑はいつの間にか「××」[伏字か? 復元版「カンナニ」では、「新しい地主」]のものとなつてゐた。そんな筈はないから刈入れをしてゐたら、巡査がやつて來て父をらうやに入れ、父がやつてゐた書堂は、惡いことを子供等に教へるからと……[伏字、内容不明]戸を釘づけにしてしまひ、子供等を……………[5字伏字、無理やりに]普通學校に入れてしまつた。
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』インパクト出版会、1995年、に復刻された『文學評論』版「カンナニ」503‐504頁。伏字の箇所は復元版「カンナニ」によって補填。復元版「カンナニ」については後述。)

 この時代には、このような文章を発表するだけでも大変なことだったであろう。それは、『文學評論』版「カンナニ」の末尾に、徳永直の筆になる、以下のような「附記」があることからも分かる。徳永は『文學評論』の編輯相談役のような立場にあったから、「カンナニ」掲載の可否について、編輯長・渡辺順三から判断を求められたのであろう。

(附記、「カンナニ」は、作者から半年餘も預かつてゐた作品であつたが、その性質上、却々なかなか發表に困難であつた。こんかくも無惨な姿で編輯者に推薦した次第であるが、なおこの後半は「萬歳事件」が扱はれてゐる。「カンナニ」の作者は後半を別に構圖を改めて書くと云つてゐるから、またいづれ讀者の眼に觸れる機會があると思ふ。一言作者及び讀者へのお斷りを兼ねて―徳永直)
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に復刻された『文學評論』版「カンナニ」519頁)

 このように、『文學評論』版「カンナニ」では、原「カンナニ」における「六」から末尾までの400字詰原稿用紙46枚分がすべて削除されている。この部分では万歳事件(3・1朝鮮独立運動、1919年)が扱われていて、これでは、とうてい検閲を通らないと考えた徳永がこの「後半」部分をすべて削除したのである。

 池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』7‐49頁収載の復元版「カンナニ」(戦後、徳永によって削除された部分をすべて復元したとされるもの)の末尾には、万歳事件の渦中に、カンナニが日本人植民者によって殺害されたということが示唆されている(ただし、この復元版は、元原稿が失われていたため、湯浅が10年前の記憶のみにもとづいて作成したもので、原「カンナニ」そのものかどうか疑問の余地がありうる)。

 徳永はさらに、日本人の高等小学校生や小学校高学年生が朝鮮人の一少女に性的暴行を加えている場面の一部など検閲で問題になりそうな箇所を多く削除している。徳永はこれらの削除によって「無惨な姿」になった「カンナニ」でもなお、『文學評論』に掲載するに値すると考えたのであろう。その判断が間違いだったとは思わないが、『文學評論』版「カンナニ」と復元版「カンナニ」では、読後の印象が微妙に異なるのも事実である。もし、復元版「カンナニ」の「後半」が原「カンナニ」の「後半」と同じだとしたら、原「カンナニ」は優れた「植民地文学」だったということができる。

2 天皇制国家による思想・言論弾圧

 「カンナニ」が『文學評論』に掲載された1935年頃には、天皇制国家による思想・言論弾圧が頂点に達しようとしていた。それは日本帝国主義による中国大陸侵略の拡大と軌を一にするものであった。その過程で、多くの人たちが「転向」をよぎなくされた。

 島木健作は1928年の「3・15事件」に連座して禁固5年の刑に服し、肺結核の重篤化に伴い、翌年に「転向」を表明した。島木は1932年、刑期を一年残して仮釈放されたが、1936年11月、思想犯保護観察法が施行されると、島木もその対象者とされた。治安維持法違反で有罪とされ、仮釈放された身だったからである。

 「3・15事件」後も厳しい弾圧が続けられたが、特に1933年には多くの衝撃的な事件が起こった。同年2月、「蟹工船」などの作品によって知られる作家・小林多喜二が検挙され、築地署において拷問により虐殺された。6月には日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を声明したため、その後、日本共産党員の「転向」が続出した。

 同じ1933年、高見順も、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)・城南地区の「責任者」として、治安維持法違反の容疑で検挙された。高見は「一年間起訴留保処分」を受けたが、半年後に不起訴となった。高見が「転向」を表明したからであろう。しかし、思想犯保護観察法が施行されると、治安維持法違反の容疑で検挙されたことのある高見はその対象者とされ、月に一度、東京・千駄ヶ谷の保護観察所に出頭することを義務づけられた(高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書、1976年、185、213、283‐284頁)。

 徳永直は、このような思想・言論弾圧の状況下、政治と文学の関係をめぐって、政治を優先する蔵原惟人らと対立して、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。これは実質的な「転向」といってもよいであろう。

 同時に、「左翼雑誌」に対する弾圧も強化された。1936年、島木健作の「癩」や湯浅克衛の「カンナニ」を掲載してきた『文學評論』は、出版元・ナウカ社の社主・大竹博吉がソ連のスパイ容疑で逮捕されたことによって終刊となった。「左翼」系作家の作品発表の場が次々と消滅していく中、1936年3月には、武田麟太郎らによって文芸誌『人民文庫』が創刊された。編集長は本庄陸男で、湯浅克衛もこの雑誌に多くの文章を寄稿した。この雑誌も警察に睨まれていたようで、1936年10月25日、『人民文庫』に関係していた作家たちが新宿の喫茶店・「大山だいせん」に集まっていたところを、警官隊に踏み込まれ、本庄陸男や湯浅克衛、田宮虎彦、田村泰次郎、高見順などが検挙された。ただ、本庄と湯浅以外はその夜のうちに釈放され、本庄と湯浅も数日後には釈放された。この『人民文庫』も1938年には廃刊をよぎなくされた。

 このような思想・言論弾圧状況の中で、湯浅克衛の文学にも、大きな揺れが起こってきた。湯浅の「カンナニ」など初期の作品は植民地朝鮮における朝鮮人や日本人植民者の生活を、自身の少年時の体験を通してリアルに描くところに長所があったのだが、しだいにそれが薄れていき、観念的で国策文学的な方向に傾いていったのである。

 湯浅の文学におけるこのような揺れは、思想・言論弾圧とともに強化されていった思想・言論の国家統制にも関係することであった。1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が拓務省の後ろ盾で結成された。国策としての大陸開拓に資する文学を目指すというのがその目的であった。自ら望んでかどうかは分からないが、朝鮮体験の豊かな湯浅も大陸開拓文芸懇話会に加わり、その中心をなす6人の委員の一人となった。その後、湯浅は日本と朝鮮との間をしばしば行き来して、しだいに朝鮮において重要な位置を占めるようになっていった。朝鮮文壇では、朝鮮語で書かれた作品の発表が困難になり、朝鮮人作家も日本語(当時の表現では「国語」)で書かざるをえなくなった。

3 「移民」と「先駆移民」の間

 湯浅克衛は、「カンナニ」に見られるような朝鮮人の生活や感情に対する関心をしだいに失い、朝鮮や満洲に在住する日本人の問題に関心を集中させていった。その一環として、朝鮮や満洲への日本人移民を主題とする作品やルポルタージュを多く発表するようになった。

 朝鮮への日本人移民の問題をテーマとする最初の作品は「移民」(『改造』1936年7月号)である。山陰地方の貧しい小作人・「松村松次郎」は東洋拓殖株式会社(東拓)による朝鮮への移民の募集に応募して朝鮮に渡った。日露戦争が終わって5年後の1910年のこととされている。しかし、東拓が用意した入植地は朝鮮北部の山間の荒れ地であった。「松次郎」は最初はがっかりしたが、25年の「年賦」を東拓に納め終われば、この3町歩ほどの土地が自分のものになると考えて気を取り直した。「松次郎」と妻の「いや」は朝早くから働き、田畑を少しずつ整備していった。そんなやさき、「いや」が肺を病み、苦しんだ末に死んでしまった。「いや」を家や田畑のよく見える小高い丘の上の墓地に葬った時、「松次郎」はこの地以外に自分の故郷はないと思い定めた。それで、付近の朝鮮人農民たちと親しく交わった。朝鮮人農民たちも「松次郎」を信頼し、彼の燐家の娘を後妻とするよう勧め、「松次郎」もそれを受け入れた。こうして、「松次郎」は朝鮮人社会の中に溶け込んでいった。「松次郎」が死んだ時には、朝鮮人農民たちの手によって「さながら貴人の葬式」のような葬祭が行われた。

 この作品は、いろいろと批判の余地はありうるとしても、少なくとも、朝鮮人農民たちと日本人入植者との交流を対等に近い形で描いている点で、国策文学的とまでは言えないであろう。

 他方、満洲への日本人移民を最初に扱ったのは「先駆移民」(『改造』1938年12月号)で、これは、1933年に拓務省によって東北満洲に送り出された第二次武装移民団にかかわる事実を踏まえた作品である。この第二次武装移民団は「」地域に入植したので、その入植地は「千振ちぶり村」と称された(付図の③)。第二次武装移民団も、第一次武装移民団(1932年送出。入植地は永豊鎮で、弥栄村と称された。付図の②)と同様に、全国の在郷軍人から成る移民団で、現地の武装勢力との戦闘を想定していた。これら二つの移民団は「先駆移民」と呼ばれていた。

 「先駆移民」という作品は、この第二次武装移民団が置かれていた状況を大枠として、その中に一人の「左翼崩れ」らしき団員・「黒瀬陸助」を造形して、彼の他の団員とは異なる言動を描いたものである。その最後の部分では、この200人足らずの武装移民団が4000人ほどの「匪賊」に取り囲まれ、籠城状態になる。救援を求めるために「密使」が送られるが誰も帰ってこない。「匪賊」に捕まり、惨殺されたに違いない。その時、「黒瀬陸助」が6人目の「密使」として名乗りを上げ、送り出されるが、それから5日経っても帰ってこない。「黒瀬陸助」の生死は不明のままだが、救援部隊が到着し、第二次武装移民団は救われる。

 この作品で、湯浅の関心はもっぱら日本人移民たちの動向に限られ、日本人の入植に抵抗する満洲人や在満朝鮮人たちはすべて「匪賊」として扱われている。その点で、まさに国策文学というべき作品である。このように、「移民」(1936年)と「先駆移民」(1938年)の間に湯浅の揺れの境目を見ることができる。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.64)

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書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年
野村真理

 本書の図0-1「ユダヤ人が拠点とした都市間ネットワークや移民の動き」を見ればわかるように、彼らの足跡は世界各地におよび、3000年にわたるユダヤ人の歴史を語ることは、ほとんど世界歴史を語るに等しい。私の場合、近現代ヨーロッパの歴史であればほぼ頭に入っているが、同じヨーロッパでもそれ以外の時代や、ヨーロッパ以外の地域の歴史となると断片的な知識しかなく、その知識も、大昔に高校世界史を学んで以後、どこまでリニューアルされているか怪しい。たとえば本書の第2章第2節「イスラーム世界での繁栄」を読むにあたって、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝とはどのような王朝であったかと、ヴィキペディアを読み始めたりしようものなら、新書一冊を読み終えるのにとんでもない日数を要する。この点、著者の鶴見氏は「まえがき」で、「本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている」(iv)と謳っているが、実際、いちいち細かいことを気にしなければ、予備知識がなくてもそれほどストレスを感じることなく通読できるように配慮ある書き方がされており、この点、見事というしかない。

 またユダヤ人は、古代の一時期を除き、彼らが活動した大半の地域においてマイノリティであり、その地域の歴史の規定者ではなかった。著者は、歴史は諸状況の「組み合わせ」の変化であるととらえ、マイノリティであるユダヤ人の歴史の見どころは、彼らが与えられた組み合わせに対し、いかにみずからを「カスタマイズ」することに成功したか、あるいはカスタマイズに成功したがゆえに、その組み合わせが変わったとき、いかなる悲劇に見舞われたかを検証することだという。歴史社会学者ならではの(?)「組み合わせ」や「カスタマイズ」という語が目新しいが、それによってユダヤ人の歴史の新しい語り方が示されたわけではない。これまで職業歴史家が「諸関係」とか、「適応/変容」その他の語を用いて語ってきたことと内容的には同じである。しかし、それを「組み合わせ」や「カスタマイズ」ということで、著者は一般読者に対して読書のハードルを下げることに成功した。ほかにも意図的に口語的表現を織り交ぜ叙述を軽くするなど、高校生にも読める本にしようとする著者の工夫が感じられる。

 さて、世界歴史を語るに等しいといっても、古代から現代まで、それぞれの時代でユダヤ人が経済的にそれなりの影響力を持ち、また彼ら自身の文化が発展をとげた地域というのはあり、その地域の時系列的移動に対応して、本書は、第1章の主たる舞台は歴史的パレスチナ(現在パレスチナと呼ばれている地域と区別し、オスマン帝国時代に大シリアの一部と認識されていたパレスチナをさしてこの語を使用する)、第2章は西アジア、イベリア半島、ドイツ、第3章はオランダ、オスマン帝国、ポーランド、第4章はロシア/ソ連を含むヨーロッパ、第5章はパレスチナ、アメリカと、ユダヤ人の歴史を語る書物ではほぼ定番といえる構成をとっている。

 そのさい本書の特徴は、著者が専門とする近現代ロシア/ソ連にかかわる記述が手厚いことだ(第4章第2節と第3節、第5章第1節)。20世紀はじめのロシア帝国は、現在の国名でいえばリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァその他をカバーし、1900年の時点で、世界のユダヤ人人口の約半数に相当する520万人がロシア帝国に暮らしていた(175頁および図4-1)。古代の歴史的パレスチナを発祥地とするユダヤ人は、ローマ帝国時代に帝国の支配がおよんだ現在のフランスやドイツへと居住地域を広げるが、十字軍時代に迫害の激化に押されて東進を開始し、ヨーロッパのユダヤ人人口の重心は、16世紀にはポーランド・リトアニア国の版図へと移動した(第3章第2節)。日本は『アンネの日記』が最もよく読まれている国の一つであり、ホロコーストに対する関心は低くはないと思われるが、推定600万人にのぼるホロコーストの犠牲者の多くが、アンネが生まれたドイツではなく、上記の520万人から出たことはどの程度知られているのだろうか(図4-4)。ロシア帝国末期のウクライナ南部や、現在のモルドヴァの首都キシナウ(キシニョフ)でのポグロム、ロシア1905年革命後のユダヤ人の政治参加や、1917年のロシア革命後、内戦期のウクライナで猖獗をきわめたポグロムと「想像の民族対立」(202頁)など、一般読者に対し、これら520万のユダヤ人の歴史への着目を促したことの意義は大きい。

 しかし、そうであればこそ、新書という紙幅の制限があるにしても、520万のユダヤ人のうちの300万人以上が暮らした両大戦間期ポーランドの記述には少々不満が残る。著者、鶴見氏が本書でも、他の諸論考でも繰り返される持論は、シオニストにおいて、1917年のロシア革命後の内戦期ポグロムとパレスチナのアラブ人によるユダヤ人襲撃との観念的同定が、彼らにアラブ人との共生の可能性に見切りをつけさせ、アラブ人に対する彼らの態度を敵対的な方向で過激化させたということである(250頁)。だが、それをいうのであれば、両大戦間期ポーランドの「想像」ではない少数民族としてのユダヤ人が体験した迫害とナクバ(イスラエル建国の年1948年に起こったパレスチナ人の虐殺、追放/逃走)とのねじれた関係にも踏み込んでほしかった。というより、踏み込まなければ、提供される歴史的知識は偏ったものとなる。

 第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、本書にも書かれているとおり(216-217頁)、人口の3分の1をウクライナ人やユダヤ人その他が占める多民族国家であったが、「ポーランド人のポーランド」を希求してウクライナ人の民族的権利要求を弾圧し、経済活動や大学等におけるユダヤ人差別も苛烈だった。ポーランドにとってユダヤ人は、できればどこかに出て行ってほしい人々であり、ここに、ユダヤ人のパレスチナ移住を促進したいシオニストとユダヤ人を排除したいポーランド国家とのねじれた利害の一致が生じる。パレスチナでは、1920年、1921年、1929年、1936年から39年と、ユダヤ人やパレスチナを委任統治するイギリスに対してアラブ人の襲撃が規模を拡大しながら続いたが、ポーランドで活動する修正主義シオニスト(252頁)の青年組織ベタルのメンバーに対し、ユダヤ人国家の設立を阻害するアラブ人やイギリスと戦うための軍事訓練を提供したのはポーランド軍だった。ウクライナ人によるテロ行為の頻発など、両大戦間期ポーランドの少数民族問題の先鋭化を身に染みて知る修正主義シオニストは、将来のユダヤ人国家で発生が予測されるアラブ人問題をけっして過小評価してはいなかった。そのさい修正主義シオニストが模倣したのは、民族の浄化を志向するポーランドの排他的ナショナリズムであり、1948年のナクバにおいて、修正主義シオニストの軍事組織イルグン(252頁)やベダルのメンバーは、ユダヤ人国家となるべき土地にいるアラブ人に対して民族浄化を率先した。現在のイスラエルでネタニヤフが率いるリクードは、修正主義シオニズムの系譜に連なる政党である。

 大型書店に行くと、ウクライナ・コーナーとパレスチナ・コーナーがあり、パレスチナ・コーナーに本書が平積みしてあった。数多の学術賞の受賞に輝く鶴見氏の知名度の高さもあり、よく売れているようだ。ウクライナにしても、ユダヤ人にしても、その歴史に注目が集まるきっかけが戦争というのは複雑な気持ちだが、ユダヤ人については陰謀論めいた「トンデモ本」も少なくないなか、本書のような堅実な歴史書が一般読者の手に渡るのは、ユダヤ人の歴史研究に携わる者の一人として喜ばしい。鶴見氏の記述に注文をつけたが、本来、ポーランドのユダヤ人の問題は、ポーランド史の研究者によってきっちりと探求されるべき事柄である。しかし、日本にはポーランド史を専攻する研究者は少なく、ましてユダヤ人の歴史の専門研究者となると数えるほどしかいない。本書の若き読者のなかから、東欧・ロシアの520万ユダヤ人の歴史に興味を持つ人が現れるようにと願ってやまない。

(「世界史の眼」No.64)

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帝国対民主主義の今日―ガザの危機
パトリック・マニング(南塚信吾訳)

新しい帝国―合衆国とイスラエル

 第二次世界大戦後、帝国は徐々に消滅してきた。140カ国が植民地支配から独立を勝ち取った。しかし、帝国を築く2つの動きがあった。イスラエルは1948年の独立以来、パレスチナ人を追放し、抑圧し続けた。1980年までにイスラエルは帝国となり、中東を支配しようとしてきた。一方、アメリカ合衆国は、1981年のロナルド・レーガン政権以降、核兵器の増強、多くの国での戦争、イスラエルとの緊密な同盟関係によって、「西洋文明」の夢を掲げつつ、過去の帝国を再び確認してきた。イスラエルとアメリカ合衆国はともに、植民地支配の廃止を支持する強い民主主義の伝統を持っていたが、多数派になることはできなかった。

 イスラエルと米国の指導者たちは、特に2000年以降、中東における産軍支配を目的とした戦略で一致してきた。米国はさらに、世界的な支配も追求してきた。米国は国連への参加を徐々に縮小し、安全保障理事会での決議の拒否権行使を除いては、ほとんど参加しなくなった。一方、イスラエルは主に、パレスチナ人を抑圧しているとの非難を否定するため、国連に残って活動を続けてきた。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の時代、この二つの同盟帝国はそれぞれより強硬な措置を講じ、世界における優位性を主張した。米国はニューヨークとワシントンでの9・11テロ攻撃の後、イラクとアフガニスタンへの侵攻を行い、イスラエルはガザでの反乱に対する抑圧を強化した。

 米=イスラエル同盟は、政治的・社会的な不平等を強化し、税金を秘密裏の攻撃や終わりのないプロパガンダに流用している。米国は環境改革を無視し、一方イスラエルはパレスチナ人への対応において「環境アパルトヘイト」と非難されている。

 それでも、米国とイスラエルにおいて、民主的かつ反帝国主義的な勢力が権力を掌握する可能性はゼロではなかった。

グローバル・デモクラシーとその戦略

 グローバル・デモクラシーの運動は、脱植民地化と国民レベルでの平等を目的としている。つまり、各国家の自由と、国家内におけるすべての人の権利である。国連の南アフリカにおける多数派政府樹立に向けた長期的なキャンペーンは1992年までに成功したが、パレスチナ国民の国家の樹立に向けた長期的なキャンペーンは未だ成功していない。ただし、パレスチナは138カ国から承認されている。

 国連において、各国代表は、各国と世界の福祉に関する広範な合意と関心を築きあげ、それには環境改革への広範な要望をも含ませている。彼らは、米国と他の4カ国が拒否権によって安全保障理事会の行動を阻止する拒否権の廃止を求めている。グローバル・デモクラシーと提携して大国になろうとする野心的な国々がある。それは、中国、ロシア、トルコ、フランスであり、そして時折インドが含まれる。

 国連以外では、グローバル・デモクラシー運動は、天安門、南アフリカと西アフリカ、東欧などでのデモのように、世界的なデモを通じて平等を支援する取り組みを行ってきた。真実と和解委員会は、数多くの国で紛争の解決を目指してきた。グローバルな大衆カルチャー、特にスポーツは、伝統の広範な共有を促進した。世界的なデモは、2003年のイラク侵攻に反対し、2020年にはジョージ・フロイドの記憶を偲び、差別撤廃を訴えた。特に強力な反対運動はジェノサイドへの反対であり、ごく最近ではイスラエルに対するジェノサイド訴追がある。

産軍の戦略

 推計によると、米国は2023年10月以降、イスラエルへの軍事援助を年間$200億以上増加させた。この間、米国は世界中に基地と艦隊を維持している。これには、2007年に設立されたアフリカ司令部が含まれ、これはアフリカと西アジアで定期的な攻撃を実施し、アラブや他の敵対勢力の機関を弱体化させるための秘密プログラムを維持している。

 イスラエルは植民地時代からパレスチナ指導者を暗殺してきた——この政策は2000年に拡大した際に、正式に発表された。2002年以降、米国は、パキスタンや中東だけでなく、アフリカにおいても、同様の暗殺を小規模ながら実施してきた。これらの標的殺害のほかにも、イスラエルの占領下パレスチナへの入植は、西岸地区の併合の基盤を築いてきた。このやり口に関連するイスラエルの宣伝活動は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対する攻撃をでっち上げたり、米国議会議員がイスラエルの政策を支持するように政治献金をしたり、イスラエルの帝国主義を批判する者を「反ユダヤ主義」とレッテル貼りして歴史を改竄するまで多岐にわたっている。

 さらに、1980年以降のイスラエルの核ミサイル生産によって、100基を大幅に上回るミサイルが備蓄されるに至っていて、それらは主にテヘランを標的としている。

歴史の教訓―帝国の征服対世界戦争

 ナポレオン・ボナパルトは、1790年代の革命期フランスで最も成功した将軍として権力を掌握し、それから、世界支配の夢を抱いて帝国を築いた。彼は10年間その地位を維持したが、1814年にはその戦略は失敗した。それは、ヨーロッパのなかのあまりに多くの他の指導者たちや一般市民が彼に反対したためである。その後は、各国の統治者は、一度に一地域ずつ征服することによって帝国を拡大しようと試み、しばしば成功を収めた。

 イギリスとフランスは巨大な帝国を築き、ドイツ、日本、アメリカは世界大国となった。しかし、2つの大きな場合に、戦争が制御不能になった。第一次世界大戦では、大国間の戦争が莫大なコストを要したため、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ロシアの各帝国が崩壊し、その植民地15カ国が独立を勝ち取った。第二次世界大戦では、ドイツ、日本、イタリアが主導した限定戦争が世界規模に拡大した。戦後、勝利した帝国もほとんどの植民地を手放さざるを得なかったが、パレスチナは例外であった(イスラエルは1948年にイギリスから独立したが、イギリスとイスラエルはパレスチナの独立を認めなかった)。

 イスラエルの現在の戦争——パレスチナを破壊し、中東を支配するための戦争——は、制御不能になり、世界大戦に発展する可能性が高い。グローバルな民主主義は、そのようなエスカレーションを阻止するために介入できるだろうか?

現在の争い

 2025年1月、停戦合意により、ガザの住民数千人が破壊された自宅の残骸に戻ることができた。人質交換が行われ、国連難民救済事業機関(UNRWA)が食料と物資の配給を実施した。しかし、数ヶ月後、イスラエルは停戦合意の第二段階を実施せず、UNRWAを退去させ、ガザでの食料と物資の配給をすべて停止した。イスラエルは3月18日にガザ爆撃を再開し、その後の2ヶ月間で5,500人が死亡したと報告されている。

 パレスチナ人が飢餓に直面する中、イスラエルと米国は「ガザ人道支援組織」という民間企業を設立し、5月26日からハマース反対派と分類された人々に対し、少量の水と食料を配布した。6月1日、フリーダム・フロティラ連合(=国際的な人権活動家のNGO)は、イギリス旗を掲げた船舶「マドリーン」に食料と医療物資を積んで、シチリアからガザへ向けて出航させた。乗組員12名には活動家のグレタ・トゥンベリが含まれていた。6月9日、イスラエル軍艦が同船と乗組員を拘束した。同様に、6月15日から17日にかけて予定されていた「グローバル・マーチ・トゥ・ガザ」は、カイロを経由してガザを目指す予定だったが、エジプトの治安部隊がグループを停止させ、解散させてしまった。

 6月12日、国連総会(UNGA)は、ガザでの停戦に関する新たな決議を採択した。この決議は、193カ国中149カ国の支持を得た一方、反対は12カ国(=米国、イスラエルなど)に留まりまった(これは、ニューヨークでの計画されていたガザに関する会議直前のことであった。この会議では、フランスとサウジアラビアが、いくつかの国にパレスチナを外交的に承認するよう促そうとしていたのだった)。

 6月13日、イスラエルはイランの原子力施設とテヘランに対して大規模な攻撃を仕掛け、科学者や将軍を殺害した。6月13日は重要な日であった。攻撃は、その日イタリアで開幕したG7会議の議題を揺り動かした。また「マドリーン」と「グローバル・マーチ」(=児童労働に反対する運動)に対するメディアの注目も途絶えさせた。さらにこれは、国連総会決議に対するイスラエルの反応であり、6月17日から20日にニューヨークで開催予定だった会議(=ニューヨークの国連本部で2国家共存による中東和平を目指す国際会議が予定されていた)を「延期」させた。しかし、最も重要なことは、イランへの爆撃によって、4月から続いていた米国とイランの核平和に関する協議が中断されたことである。ドナルド・トランプは、イランへの爆撃について、米国による海外での戦争に反対するという彼の長年の立場に反するにもかかわらず、突然、イスラエルを支持するよう迫られたのだった。

明日―民主主義か世界戦争か

 米国とイスラエルは現在、深刻な孤立状態に陥っている。G7加盟国と欧州諸国は、国内の反対意見の高まりを受けて、イスラエルの戦争から手を引きつつある。BRICS諸国(インドを除く)はイスラエルの攻撃に反対している。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの諸国における市民運動は、自国政府に対し、イスラエルにより強硬な姿勢を取るよう圧力をかけている。米国市民の世論はガザとイランへの攻撃に反対しているが、米国政府によるイスラエルへの支援はさらに強化されている。そして、6月22日、米国はイスラエルのイランに対する空爆作戦に参加した。トランプ大統領は、おそらくネタニヤフ首相からの迅速な行動を求める圧力に直面していたため、ナタンズ、フォルドゥ、イスファハンにあるイランの核施設に対する空爆を命じた。

 イラン攻撃において、トランプはガザのことを忘れてしまった。ジェノサイドによる民族抑圧と大国間対立との複雑な結びつきは、突然の変化の余地を多く残している*。実際、米国とイスラエルに対する真の反対は、イランの防衛からではなく、ジェノサイドへの反対とパレスチナの独立支持から来るのである。このような反対は、世界中で明確に表れている。それは公けのデモを通じてだけでなく、国連、G7、国際司法裁判所のような公式機関を通じても出てくるのである。

 私は、米国とイスラエルが最終的にはパレスチナの国家独立とイランとの平和を受け入れるだろうと信じている。その方法は、民主的な変化を通じてなのか、世界大戦を通じてなのかは分からない。いずれにせよ、ガザでの殺戮の全記録は、次第に国際社会から孤立する両「帝国」を、国際社会へ再加盟させることになるであろう。だが、これには、国際司法裁判所によるジェノサイドに関する判断を受け入れるだけでなく、グローバル・デモクラシーのより広範な原則を完全に受け入れ、大事にすることが必要となるであろう。

出典:
Patrick Manning, Empire vs. Democracy Today: The Crisis of Gaza
(Contending Voice 2025年6月24日)
https://patrickmanningworldhistorian.com/blog/empire-vs-democracy-today-the-crisis-of-gaza/

マニング氏から翻訳・掲載の許可を得てある。ただし、その後、本人からの連絡により、一部を修正してある。

*このところが不分明であったので、著者に意味を問い合わせたところ、ここでは、いくつかのことを指摘しようとしていると言う。その一つは、トランプはイラン爆撃に熱中してガザの事を本当に忘れてしまったのだという事。第二に、トランプは2セットの矛盾した目標を持っているという事。つまり、イスラエルの求めるようにガザその他のパレスチナ人を絶滅させることと、パレスチナの和平を実現すること、および、同じくイスラエルの求めるようにイランを破壊することと、イランの和平を実現することである。第三に、国連やその他の国が介入して来るかもしれないという事。とくに、ロシアと中国とパキスタンが(方法は不明だが)核兵器をイランに提供するかもしれない。こういうことがあるので、状況は不安定で突然変化が起こるかもしれないと言うのである。

(「世界史の眼」No.64)

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