北前船・長者丸の漂流 その3
南塚信吾

1.カムチャツカ 

 1840年8月3日(旧暦7月6日)にホノルルを出港したセンの貨物船「ハーレクイーン号」は、長者丸の6人を乗せて、9月下旬(『蕃談』では旧暦8月下旬、『時規物語』では旧暦9月上旬)、カムサツカ(カムチャツカ)のガウイニア(ペトロパヴロフスク 『時規物語』はガウエニア)港に到着した(池田編 1968 78、246頁)。

 この時期のカムチャツカの状況を見ておこう。カムチャツカはアイヌやカムチャダール人などが住む半島であったが、17世紀の中頃にロシアが領有し、カザークが入植していた。1740年にデンマーク人のベーリングによって港町ペトロパヴロフスク・カムチャツキーが作られて、それ以後カムチャツカ半島は流刑の島となって開けた。この間、1696年には大阪から江戸に向っていて漂流した伝兵衛ら13人がカムチャツカに漂着していた。そのうち伝兵衛はモスクワへ送られ、ペテルブルグでピョートル一世にも会って、同地で日本語を教えたりして生涯を終わることになる(木崎1991 2-12頁)。また、1783年には、伊勢の白子の船頭大黒屋光太夫らを乗せた神昌丸が、江戸へ行く途中で漂流して、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、カムチャツカ、オホーツクを経て、1791年にペテルブルグへ送られたが、エカチェリーナ2世の許可で帰国を許され、1792年にアダム・ラクスマン使節一行と共にカムチャツカから帰国していた(木崎 1991 52-71頁;森永 2008 17-19,25-26頁)。

 その直後1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。そして1804年には、ロシアは通商を求めてロシア・アメリカ会社支配人レザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナデジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった。しかし、交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にした。のちに、交渉に失敗したレザノフの部下が1807年にサハリン、エトロフを襲撃して、日本の側に対露緊張感を惹き起こしていたのだった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 当時カムチャツカは、イルクーツク総督府の下のオホーツク州、カムチャツカ郡であった。この町の役所の長官(ナチャニカ=ナチャルニク)はメッテレと言った。役所にはアメリカ生まれの通訳がいた。この町では、長者丸一行6人は、まずは「兵舎」に住まわされた。しかし、食事がまずいので文句を言うと、長官は民家で世話してもらうようにしてくれた。八左衛門は通訳の家、太三郎は豪商カルマコーフの家、六兵衛もカルマコーフの家(6,7か月後にウチラシ宅)、次郎吉は呉服屋のペヤジミシコー(ペヤジンス)の家(40-50日後に長官宅)、金蔵はあるカザーカ(足軽小頭=カザーフ)の家(30日後に船長ニコライの家、次いでヒチャパン・ニコライの家、そしてカルマコーフの家)に引き受けてもらった。食事は向上したが、すべて無給で家事働き(奉公)をさせられた。ただ、七左衛門は病気だったので、ずっと病院にいた。かれの陰嚢が張れたが、医者が手当てをしてくれてなんとか平癒した(池田編 1968 78-85、246-249頁)。

 到着して1か月たったころ、「イルコツカ」(イルクーツク)の総督から知らせが来て、「近日中に帝都から命令があるはずであるから、漂民は手厚くもてなし、新任の長官が貴地に着任した折、あらためてその指揮を受けよ」と言ってきた。それ以後は6人に対する待遇はいっそう丁寧になった。やがて新任の長官ニカライ・ニカライウイチが到着し、長者丸一行も大勢の人に交じって、新任祝いのあいさつに行った。そして、このあと、次郎吉はこの長官宅で世話になる事になったのである(室賀他編 1965 100頁;池田編 1968 249頁)。

ペトロパヴロフスク 『日本庶民生活史料集成』 256頁

 カムチャツカに滞在して10か月あまりになったが、日本への送還は首都からの命令がないとできないとの事であった。そこで、オホツカ(オホーツク)のほうが首都との連絡もよく、中央からの指示が届きやすいからというので、オホーツクへ移動することになり、1841年7月下旬(旧暦6月上旬)、一行5人はオホーツク行きの便船「ニカライ」号に乗せてもらった。舩の乗組員は17人ばかり、毛皮を大量に積んでいた。ただ、七左衛門は病気のため、20日ばかり遅れて出発した(池田編 1968 86、249頁;室賀他編 1965 103、105頁)。

2.オホーツク  

 1841年6月にカムチャツカを出た船は、風向きが悪くて、30日ばかりかかかって、8月下旬(旧暦7月上旬)に「ヲホツカ」(オホーツク)に着いた。

 長者丸一行はまずカンパニア(ロシア・アメリカ会社)の「ナチャニカ」(支配人)のところへ行った。次いで、オホーツクの州長官「ナチャニカ」のニコライ・ペコロウェチ(『蕃談』ではニカライ・ウェコロシ)の家に行った。そこはカンパニアとは離れたところにあり、そのあいだの野原には砲台が設けられていた。長官は「モスコウ」(モスクワ)から7年任期で派遣されてきていて、すでに3年が過ぎていた。一行は丁寧に慰労され、この長官の館に世話になることになった(池田編、1968 94-96、250頁;室賀他編 1965 105―106頁;Plummer 1991b、p.165は、ニコライ・ペコロウェチは1840年に赴任してきたヴァシーリー・スチェパノヴィッチ・ザヴォイコではないかという)。ここでも最初は召使として働かされた可能性がある。

オホーツク 『日本庶民生活史料集成』 257頁

 一行は、ロシア・アメリカ会社の支配人にも州長官にも今来た船で日本へ返してくれと頼んだが、ペテルブルグから紙面が到着するまで見合わせるという事であった。一行が到着したあと、ペテルブルグへ「飛脚」を送ったようで、8月中旬(旧暦6月下旬)に飛脚は帰ってきたようだが、それがどういう内容だったのかは不明であった。しかし、その後衣食がよろしくなり、生活が楽になった(池田編、1968 96頁。この件は『蕃談』にはない)。

 さらに、高田屋嘉兵衛とゴロヴニンの話題が、ロシア人と一行を結びつけた。ここの長官ペコロウェチはゴロヴニンの甥であり、年老いた次官の「ペットロ、イワンチ」は「ゴロベニア」(ゴロヴニン 『時規物語』ではゴロベナ)の副官だった「イリコルト」(リトルド)の部下であった。ゴロヴニン事件というのは以下のような事件であった。 

 19世紀初め日露の関係は動揺していた。上述のように、1804年(文化1年)、ロシア・アメリカ会社の総支配人であったレザノフが、ロシアの使節として仙台の出の漂流者津太夫らを返還するために長崎に入港、通商を求めたが、これを拒否された。そのため、レザノフの部下は、1806年、07年に、樺太やエトロフを砲撃して腹いせとした。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出したが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)にはロシア船打払い令を出していた。こういう中、1811年(文化8年)、千島列島を測量しながら国後島に来たディアナ号の艦長V.M.ゴロヴニンらが、上陸中に日本側に捕らえられた。代わってディアナ号を指揮した次官のリコルドは、カムチャツカに戻ったが、ナポレオンの侵攻が迫っていたため、ロシア政府は軍隊を派遣してゴロヴンを奪回するというリコルドの請願を却下した。リコルドは1812年に交渉のため国後へ出直したが、成果はなかった。しかし、その際たまたま近くを通りかかった日本の観世丸を拿捕し、船頭の高田屋嘉兵衛らを捕虜にして、カムチャツカへ戻った。高田屋嘉兵衛は既述の通り、千島ルートを開拓した商人で、1810年には国後の場所請負人となっていた。この時観世丸は、エトロフのシャナから国後に向けて航行していたのである。1813年にリコルドは国後を訪れて高田屋嘉兵衛を解放し、翌年にはゴロヴニンらを取りもどした(木崎 1991 120-130頁;森永 2008 36-39頁)。

 オホーツクの長官は、叔父のゴロヴニンが日本で丁重に扱われていたと、長者丸一行に感謝した。また60歳過ぎの次官はゴロヴニンの副官であったリコルドの部下で、高田屋嘉兵衛を日本へ送り届けた人物であった。なお一行は念のため、ゴロヴニン事件の記録を見せてもらったが、日本側はそんなに丁重にはゴロヴニンを扱っていないことが知れて、大いに当惑したという(池田編 1968 115、117、250頁;室賀他編 1965 106―108頁)。 

 この時期にオホーツクにいたと思われるスコットランドの冒険家でハドソン湾会社の総督であったジョージ・シンプソン(1792?―1860年)は、こう記録している。かれはカナダから、アラスカ、シベリア経由でイギリスに向っていたのである。

「わたしは、すでに前にサンドウイッチ島で聞いていた日本人に、オホーツクで会った。かれらは、政府の費用でもてなされていて、帰国できる機会を待っていた。この事が結局どういう結末になるのか分からないが、当時は、この不幸な流浪者たちが日本に帰れるとか、日本まで行ったとして上陸が許されるかどうかについてははっきりとした見込みはなかった。同じような前例として、ロシア人が送り返した船乗りたちが、用心深い日本政府によって追い返されたことがあった。この例のせいで、ロシア人は同じことを繰り返したくないと思っている」(高瀬重雄 1974 133-134頁;Plummer 1991b p.166)。

 これが外から見た日本であった。

 オホーツクに13ケ月も滞在した1842年(天保13年)7月(旧暦6月)の下旬、長官の命により、一行はシトカヘ移ることになった。これは、一行がオホーツクに着いた時、一行の扱いについて、首都ペチャルポル(ペテルブルグ)へ問い合わせの使者が遣わされたが、その使いが7月に帰ってきたことによるようである。オホーツクにいるロシア船は4隻しかなく、日本へ一行を送っていくゆとりがないためであった(池田編 1968 96,250頁;室賀他編 1965 110―111頁)。シトカはロシア・アメリカ会社の本部のある所であった。

 ロシア側の史料によると、6人の漂流民がアメリカ船でオホーツクに着いた後、この知らせは皇帝に伝えられ、皇帝は露米会社ないしは他の道で6人を日本に送るよう指示を出して、この指示は1842年5月2日に海軍大臣からオホーツクへ伝えられていた。これに応じて、6人はシトカに送られることになったという(Plummer, 1991b p.171,173)。これが上述の「飛脚」の話と同じであるのか否かは不明である。

 冬は海上が凍るので、氷が解けたあと、船でシトカより荷物をオホーツクヘ運び、帰りにペテルブルグより来た荷物をシトカへ運ぶのであったが、そのような船に乗せてもらうことになったのである(池田編 1968 96頁)。

3.シトカ

 長者丸一行を乗せた船は、1842年8月上旬(旧暦6月下旬)にオホーツクを出帆、9月14日ごろ(8月10日ごろ。『時規物語』は8月上旬としている)、ロシア領アラスカの「スエツカ」(シトカ、ロシア語ではシトハ)に着いた。アラスカは1741年にベーリングが探検してロシア領とされていた。

 シトカは、ロシア・アメリカ会社の本部がある所で、「ナチャニカ」(ロシア・アメリカ会社の支配人)はアードフ・カーロウェチ(アドフ・カルロウイチ。アードルフ・カーロヴィッチ・エトーリン)という人で、フィンランド生まれであったが、スウェーデン語とロシア語に長けていて、ロシア海軍で昇進して、1840年にシトカの長官(―1846年)になった人であった。シトカは立派な港町で、市易が盛んで、建物も商品もカムチャツカやオホーツクに比べて、数等優れていた。一行は、長官の居館から少し離れたところにある別邸に住むことになった。衣食住の心配もなく、酒も振舞われ、手厚くもてなされた。一行はロシア人たちと交遊し、越中の盆踊りを披露したりした(池田編 1968 118,250頁;室賀他編 1965 112-113頁;Plummer 1991b, p.108,168)。費用は会社もちであったという。

アラスカ湾・シトカ(シトハ)  (森永 2008 140頁)  

 シトカは、もともとトリンギット族が定住していたところである。トリンギット族は広くアラスカの太平洋岸に住む狩猟採集民族で、その居住地域へ18世紀の末から、ロシア、イギリス、アメリカの船と漁師がやってきて、要塞を作ったり、ラッコなどの毛皮を取って広東などへ運びだしたりするようになっていた。

 ロシアは、商人アレクサンドル・バラノフのもと、アリューシャン列島沿いに西からやってきて、1792年以来、カディヤク島、クック湾、ヤクタート湾を獲得していた。イギリスはクイーン・シャーロット諸島を領有し、アメリカはヴァンクーヴァー島を手に入れていた。こうして、トリンギット族の土地に英米ロが争って入り込もうとしていた1799年、バラノフがシトカ島にやってきて町を作った。この年、国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、バラノフはその総支配人となった。しかし、1802年、シトカのロシア人は、トリンギット族の一部族コロシ族の攻撃を受け、いったん撤退した。しかし、バラノフは改めてシトカを取り返し、そこにノヴォ・アルハンゲリスクという町を作った。そして、そこをロシア・アメリカ会社の本部とし、またロシア領アメリカ総督の拠点として、バラノフが総督となった(森永 2008 138―154頁)。

 バラノフは1819年に亡くなり、そのあとをスウエーデン出身のカーロヴィッチが勤めていたのである。長者丸一行はそこへ来たわけである。一行は、ロシア人がコロシ(コルシ)族という「野蛮人」と緊張した関係にあることを目の当たりにした。コロシ対策に準備されている種々の武器に驚いた。また、一行は、蒸気船「ステンボル(スチームボート)」というものを始めて見た。このほか、一行は、時計、望遠鏡、温度計などの器具にも驚いた。さらに長官の館では毎月盛大な宴会が催され、そこでは出席者はみな夫婦同伴で、宴も盛り上がってくると男女でダンスをしたのであった(池田編 1968 118-127、250-251頁;室賀他編 1965 112―120頁)。

シトカ 『日本庶民生活史料集成』 259頁

 1843年(天保14年)、イルクーツクから「漂民を日本に衛送すべし」という指令が届いた。また「ナチャニカ」より呼び出しを受けて「最早十日ばかり」もすれば日本へ送り返すと言われた(池田編 1968 127,251頁)。

 はたして、1843年4月14日、ロシア・アメリカ会社の支配人エトーリンは、プロミセル号の船長ガヴリロフにたいして、日本人を日本へ送り返すよう命令を発した。その際、北海道(松前島としている)のアトキズ(厚岸)湾に入って、二艘のボートに3人ずつ乗せて、上陸させるか、天候次第では、エトロフ島のサノ湾で上陸させるように指示していた。また、いずれにせよ、日本の岸に近づきすぎないように、大砲が届かない距離を保つように注意していた。このほか、カーロヴィッチは、ガヴリロフに対して、1835年11月19日付で皇帝が確認しているアジア委員会の規則に沿って行動し、日本人が接触して来たら、丁寧に友好的にこれを迎えるのがいいが、いかなる「公的」な関係を持ってはならず、かれらには隣国としての友情の念から漂流民を暖かくもてなして送り届けたのだと告げるようにと、細かく指示していた(Plummer, 1991b p.171-172)。実は前年1842年8月(旧暦7月)には日本の幕府は異国船打払令を撤廃し、「天保の薪水給与令」を発していたが、これはまだ知られていなかったわけである。

 出発6,7日前に、カーロヴィッチ長官が一行を蒸気船に乗せて、近くの島まで遊覧に連れて行ってくれた。この蒸気船は「エギリス」の工夫であるとのことであった。出帆の3日前には長官の家に呼ばれ、2日後に一行を日本へ送り返すと告げられた。長官は、都よりエトロップヘ送るよう申してきたが、そこからは松前に行くのに難儀であるから、アツケシへ送るようにすると言った。その時、一行が部屋の「時規」(時計)に気づいて感心すると、長官は、それを取り下ろして、日本へ持ち帰って「ナチャニカ」に献上するようにと、プレゼントしてくれた。この時、一行が、日本には、「ヲソダリ」(至尊)は京都、「エゲラ」は江戸、「ナチャニカ」は国々にいると言うと、長官は、それぞれ国も違い「ナチャニカ」も違うのかと尋ねるので、そうでないと答えると、一行の「ナチャニカ」に献上せよと何度も言い聞かせた(池田編 1968 217-131,251頁;室賀他編 1965 117-120頁)。

蒸気船 『日本庶民生活史料集成』 129頁

 いよいよ1843年4月20日(旧暦3月下旬)、長者丸一行はシトカを出帆した。船は、二本マスト、乗組員約30人、3000石の大船で、名をプロミセル号と言い、船長はアレキサンダロ・ニコライウェチ(Plummer, 1991b, 173はガヴリロフ;Plummer 1991a p.134はニコロヴィッチ)、24,25歳。商人も乗っていて、医者も二人乗船していた。船には、セキサン(六分儀)、船時計(羅針盤)が備わっていて、絶えず自船の位置を確認することができた。途中でアメリカ船に出会ったりして、およそ63日の航海ののち、6月20日(旧暦5月23日)にエトロフ島フルベツに着くことになる(池田編 1968 134,143頁;『漂流人』34頁;室賀他編 1965 120,122頁)。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.65)

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