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「世界史の眼」No.69(2025年12月)

今号では、南塚信吾さんの「幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)」を掲載しました。全2回の連載予定です。また、千葉大学の栗田禎子さんに、藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』を書評して頂きました。

南塚信吾
幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)

栗田禎子
『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて

藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』の出版社による紹介ページはこちらです。

世界史研究所は、これまでも現代世界の理解を助けるさまざまな出版に関わってきました。是非お手に取って頂けますと幸いです。

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幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)
南塚信吾

 久米邦武『米欧回覧実記』(1878年)は、久しく日本の世界観がロシア中心に形成されてきたとしている。 

「文化元年(1804年)の9月、露国の使節レサノット氏の軍艦、長崎神の島に入港し、・・・全国太平の夢を驚かし、是より攘夷鎖国論は、沸然として沸起せり。此文化より嘉永安政の間に至るまで、鎖国の論家、外国の事情を研究するにあたり、先ず露国を畏憚する心を脳中におき・・」 (久米 1980 107-108頁)

 このため、「米欧」の事情を見ていない「井蛙の妄想」「妄想虚影の論」が日本に広がったというのだった。このレサノットとはニコライ・レザノフ(1764~1807年)のことである。レサノットの事件は、江戸期の日本が、それまでの中国中心の世界に現れた第一の「外国」としてロシアを強く意識し、ロシアを中心とした対外認識をする契機となったのである。

***

 フランス革命でヨーロッパが混乱している間に、東・北アジアでは、ロシアとアメリカが活動を繰り広げた。18世紀に入りじょじょに極東に出てきていたロシアでは、1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。

 そして、1804年には、ロシアは通商を求めてレザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の漂流船若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナジェジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してカムチャツカのペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 奥州の若宮丸(800石、16名乗り組み)は、1793年(寛政5年)12月(旧暦11月)、石巻から江戸に向う途中、仙台沖で漂流し、1794年6月にアリューシャン列島に漂着した。漂着したのは津太夫ら14人であった。14人は、オホーツク、イルクーツク、モスクワを経て、ペテルブルクへ送られて、そこで8年間を過ごした。やがて、津太夫ら4名は、1803年にロシアの軍艦ナジェジダ号で,対日使節レザノフと、クルーゼンシュテルン艦長の率いる世界一周周航に乗ってロシアを出発、イギリス、ブラジル、ホーン岬を経て太平洋に出て、ハワイ諸島(オアフ島か)に寄港、そのあとカムチャツカに寄って、1804年(文化元年)10月(旧暦9月)に長崎に到着した。日本人として初めての世界一周であった。津太夫らの記録は大槻玄沢による『環海異聞』(1807年)として残っている(大槻他 1986 276頁;宮永2013 10―13頁)。

 しかし、長崎でのレザノフの交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にしカムチャツカに帰った。彼はその後アラスカのシトカなどに向い、1807年に首都に向かうが途中で病死した。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出していた。だが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)には「ロシア船打払令」を出すことになった。幕府との交渉に失敗したレザノフの部下フヴォストフは、1807年に樺太の大泊や利尻島や択捉島の紗那などを襲撃した。これにはロシア政府は関与していなかったが、日本の側に強い対露緊張感を惹き起こしたのだった(木崎 1991 85-96,110-115頁;森永1991 28-39,135頁)。

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 このレザノフ事件は日本でどのように受け止められ、どのような対外認識を生み出したのだろうか。

 出羽国の出で蝦夷地にも渡ったことのある経世学者の佐藤信淵(1769-1850年)は、阿波国にいる時1808年に『西洋列国史畧』を著した。信淵は、やがて江戸に出て、宇田川玄随や大槻玄沢に学んだりして、農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範囲な分野で活躍していくが、その初期の作である。その中でいわく、

「文化2年(1808年)乙丑秋、魯西亜国より「ニコライレサノット」を使として・・・方物を貢す。我国の漂民佐平津太夫等を送て長崎に来舶し再び和親交易を通ぜんことを請ふ。朝廷又固く拒て許さず、且その使に告て曰く。自今已後必復来ること勿れ、若再来る者あらば大銃火砲以て事に従んと。使者「レサノット」拂然(=憤激)せりと云ふ。其翌丙虎の春「レサノット」帰帆す。其年の秋海賊我西蝦夷の内「カラフト」「リイシリ」諸島の鎮府を焼き、我邦の戌卒を擒(とりこ)にして而て去る。同4年丁卯夏海賊我東蝦夷「エトロフ」等の諸鎮を焼き、戌卒を擒にし、「シヤナ」の陣営を焼き、大に乱妨狼藉をなして、遂に奥州南部の海上、松前の箱館辺海に至り、然して去る。在曰是魯西亜国の「カクサツカ」在番の賊徒也と。」

 これはかなり事実を正確に述べたものである。この「海賊」というのは、上述のレザノフの部下のフヴォストフの部隊の事である。

 さらに『西洋列国史畧』はこう続けている。

「同5戌辰年(1811年)八月賊船肥前長崎の港に入り地形を度り津路を捜り狼藉して去る。或曰此海賊は是諳厄利亜(アングリア)人也と。彼諳厄利亜は従来魯西亜と同盟兄弟の国也。右の数事に依りて是を看れば、則今の世界の大躰且彼の二賊の情を亦然して識るべき也。」

 この諳厄利亜人の件は、ナポレオン戦争中の1808年(文化5年)に、イギリスのフェートン号がフランスの同盟国オランダの船を追撃して長崎に来て、その際通商を求めるが拒否された事件のことではないかと思われる。ただし1811年という年が違うが。  

 『西洋列国史畧』には、この後ろに「防海策」という一文がつけられている。徳島藩に仕えていた佐藤信淵は、海防も論じていたのである。これは1809年に藩の小老に信淵が語ったところを藤原邦貞が記録したものである。明和年中にロシアの船(ベニョフスキのこと)が阿州に来たので、海防の危機感を抱いていた徳島藩が、海防を聞いたものである。

 信淵は、「国家の利を興す者は通商交易より大なるはなし」という。そして、「自国をのみ保有して他国に出でて交易せざる国」は、「国内次第に衰耗」してしまう。「四方へ交易をなさざる国は武備も衰弱になり、国内も次第に窮乏し政教も小思になり風俗も軽薄になり人心も険悪になりて、且防御の備えも危難に」なると、鎖国政策を批判する。西洋の人は、日本をイギリスと対比するが、イギリスは大洋に航海し万国に通商し、「兵強く且富盛にして海外に属国極めて多く」、日本とは比べようがないと、冷静に見ている。

 そのうえで、まず、日本は、蝦夷を開拓し、その先の「カムサツカ」を「領知」とすべきであるという。そこは、ロシアと北アメリカの間にあり、交易の拠点になりうるし、東北の防海の要である。次いで、南では、「大清国」をめぐって、「狡猾」な国々がやってきて交易をしている。イスパニア、ポルトガルからオランダ、そしてイギリスとやってきている。この方面の防禦のためには、伊豆七島より出て南海の「無人諸島」を開発し、そこからさらにフィリピン諸島を開拓し、それらで物産を集めて清朝や安南と交易し、さらに琉球国と繋がるのがいいというのだった。蝦夷方面でのロシアの進出、清朝を目指すイギリスなどの進出による危機意識がわかる。ここには、蝦夷と清朝をめぐる世界認識が述べられていた(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf)。

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 ヨーロッパにおいてフランス革命とナポレオン戦争による混乱が一段落すると、ロシアに代わって、イギリスが日本に接近してきた。ウィーン会議後には、イギリスが積極的な東南・東アジア進出を行なったのである。1822年(文政5年)には、イギリスの捕鯨船が浦賀に来航、この際は食料・水・薪ほかを給与されていた。1824年には、イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜(茨城県北茨城市)に不法上陸するという事件が起きていた。これに対して幕府は、1825年(文政8年)に諸藩に「異国船打払令」を発して厳しく対応した。

 幕府が対外的危機感を強めている中で、1828-29年にシーボルト事件が起きた。1823年にオランダ商館付医官として来日していたフィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、1824年に鳴滝塾を開設し、鳴滝塾の生徒としての高野長英、小関三英、伊藤圭介らのほか、天文方の高橋景保らとも交友を広めていた。この間に海外についての情報は蘭学者のネットワークを通じて拡散した。シーボルトは、1828年に帰国する際、禁制の日本の地図などを持ち出そうとしたかどで、帰国直前に捕まり、1829年に国外追放となったが、天文方高橋景保らは厳しい処罰を受けた。このシーボルト事件は、長崎の鳴滝塾を拠点に広がった蘭学者のネットワークを震え上がらせたが、幕府の政策を良しとしない人々も刺激した(石山他 2011 155-228頁)。

 このような蘭学の拡大のなかで、幕府の海外認識の甘さを指摘する者が現れるのは当然であった。それは、1837年のモリソン事件を契機に一層高まった。たとえば、渡辺崋山と高野長英は「異国船打払令」を時代にそぐわないものとして批判したのだった(佐藤編 1972 40-41、61-62頁;Plummer 1991 pp.110-112)。

 1837年、中国広東にあったアメリカ貿易商社が、イギリスと共同で、同社のモリソン号を日本へ派遣し、日本人漂流民7人を送還するほか、対日貿易の交渉を行おうとした。しかし、モリソン号を、イギリス船と見た幕府は、「異国船打払令」によって薩摩と浦賀において砲撃して追い返した。漂流民も寄港できなかったし、翌年には船はアメリカのものであることや漂流民を乗せていたことが判明し、幕府の対応が問われることになった。渡辺崋山も高野長英もモリソン号をイギリス船とみて、その背後にイギリスの勢力の進出を推測していた。

 1838年に出た高野長英の『戊戌夢物語』は、モリソン号事件を取り上げて、もっぱらイギリスの脅威を強調した。それは、イギリスの地誌や歴史を語り、近年のアジアへのイギリスの進出を語っていた。長英も、アメリカの商船モリソン号をイギリス人のモリソンが「頭」となった船であると誤解していて、その関係で、イギリスという国、その植民地、「支那」との関係を論じ、その後で、漂流民の引き渡しと、それへの幕府の対応を論じて、これを批判したのである。「船国地へ近寄」ると、「有無の御沙汰も之なく、鉄砲にて打払」うが、「凡そ世界の中、かくの如き御取扱は之無き事」である。そして、徳川の「鎖国の御政道」について、「仁義」をもって漂流民を送ってきたイギリスの船を「打払」うなら、「日本は民を憐まざる不仁の国」だと考えられるだろうと批判した。そして、長英は、イギリス船をどこかの港へ入港を許して、漂流民を受け取り、ついでに、「清朝、朝鮮、魯西亜、その他近国の事情」を尋ねるのがいいと提案した。

 そして、モリソンの事件が深刻であることを知らせるために、レザノフ事件を教訓とすべきだと述べた。文化年中、ロシア使節レサノット(レザノフ)が日本に渡来し、交易を願ったものの許されず、本国に帰ったのち、責任を取って自殺した。そのため部下のホーシトウ(フォストフ)がこれを恨み憤り、ただ一艘の船で蝦夷地付近の海上を荒らしまわって騒動を起こさせ、国家に非常な損害を与えた。このたびのモリソンは、日本から近い広東に滞在し、多数の軍艦を支配しているうえに、日本近海にイギリスの属島が多数あるので、モリソンの後ろの勢力はレサノット(レザノフ)の「類いにはこれなく」(=比ではない)候と述べた。長英は、モリソンに「非法の御取扱」をすれば、「後来如何なる患害出来候哉」、「実に恐るべきこと」であると警告していた(佐藤他校注 1971 162-169頁;佐藤編  1972 313―321頁)

 レザノフ事件については史実の間違いもあり、佐藤信淵のほうが正確であった。また、後に見る崋山のような歴史的視野はなかったが、レザノフ号事件とモリソン号事件を踏まえて、時の政策を真っ向から批判したのであった。

 崋山も、モリソン事件にレザノフの時と同じ対応をした幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた『外国事情書』、『西洋事情書』など「事情書三部作」は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は、公開されなかった『慎機論』において、「莫利宋(モリソン)なる者」の来日を機に、世界情勢を語った。今や世界の五大州のうち、亜墨利加(アメリカ)、阿弗利加(アフリカ)、亜斯太羅利(アウスタラリー)の三州はすでに欧羅巴諸国の「有」となっている、亜細亜州の中でもわずかに我国、唐山(中国)、百爾西亜(ヘルシア)の三国のみが独立を保っている。その中でも、西人と通信せざるは、わが国のみである。そのわが国には、ロシアとイギリスが綿密に計画を練って、機会をうかがっている。そういう時に「徒に太平を唱ふるは、固より論なし」と述べて、幕府の鎖国政策を批判した。

 翌年、崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。これはのちに「事情書三部作」と言われることになる。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けた。最後に書かれたものが『外国事情書』であるならば、『初稿西洋事情書』は『初稿外国事情書』であり、『再稿西洋事情書』は『再稿外国事情書』とされてもおかしくはなかった。それはさておき、次に「事情書三部作」の内容を比べてみよう。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」
『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁
大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 
久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf
宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.69)

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『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて
栗田禎子

 本書は現在も進行中のガザの事態に関し、これを世界史の中に位置づけてその性格・背景を明らかにすると共に、克服の展望―それはとりもなおさず今後の世界のゆくえを考えることに直結する―をも歴史学的観点から考察しようとする労作である。「はじめに」でも触れられているように、2023年10月にガザをめぐる状況が新たな(そして破局的な)段階に突入して以来、現状分析的あるいは地域研究的な視点からは既に多くの著作が発表されてきたが、問題を世界史の中に位置づけ、人類社会全体の今後のゆくえに関わるものとして捉えようとする姿勢を明確に打ち出している点で本書は際立っている。編者の藤田進、そして世界史研究所メンバーをはじめとする十数名の執筆者らの、「歴史家集団」としての面目躍如と言えよう。

 本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か―歴史から問う
第1章「ガザ戦争」の実像
1 二〇二三年一〇月七日まで
2 「ガザ戦争」
3 高まる世界的批判
おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す
1 パレスチナ問題の起源―イギリスの責任
2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争
3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降―ハマース政権下のガザ
第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧
1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム
2 イスラエル批判と反ユダヤ主義
3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ
第4章 イスラエルの岐路
1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの
2 イスラエルのユダヤ人問題
第5章 日本とガザ戦争―中東での戦争と日本の戦争国家化
1 中東の戦争と日本の関係性
2 日本の中東政策の原点―オイルショック
3 第一の転機としての湾岸戦争
4 第二の転機としてのイラク戦争
5 第三の転機としての集団的自衛権容認
おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化
第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革
1 亡びることなき抵抗者たち―不死なるものムスタズアフィーン
2 「ガザ戦争」と「グローバルサウス」―戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性
3 南アフリカのジェノサイド提訴
第7章 ロシア・中国と「ガザ戦争」
1 ロシアのユダヤ人問題と「ガザ戦争」
2 中国と中東問題―パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に
第8章 国連の改革へ
1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗―国連の現場で見た「ガザ戦争」の現実
2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革
あとがき

 評者(栗田)は既に本書に関し、新聞の書評欄で概評を行ない、本書がガザ戦争は「植民地戦争」の現代版であり、ガザで起きていることは入植者国家イスラエルによる現地住民の集団殺戮(ジェノサイド)にほかならないとの視点を明確に示していること、ガザの惨劇を放置・黙認する先進諸国の姿を浮き彫りにしながらも、各国支配層と市民社会との間に「亀裂」が生じつつあることも明らかにしていること、そしていわゆる「グローバルサウス」の動向や国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界に向けての国際的な「変化の兆し」に注目していること、等の特徴を指摘した(『しんぶん赤旗』2025年11月23日読書欄)。本書を貫くこのような骨太の姿勢と、その叙述に説得力と厚みを与えている多角的な視点とは、上記の章別構成からも明らかであろう。以上を基本的な認識、評価とした上で、以下では(上述の概評では紙幅の関係で触れられなかった点も含めて)追加的な感想やコメントを記すこととしたい。

 「はじめに」および第Ⅰ部について。2023年10月の事件がガザのパレスチナ人にとっては占領と封鎖を突破し、かつて自分たちが住んでいた土地に「帰還」するための闘いであったことを明確に示すと共に(「はじめに」)、続く第Ⅰ部で「ガザ戦争」そのもの(第1章)、およびその背後にあるパレスチナ問題全体(第2章)の性格と展開を歴史的に解き明かして行く。あくまで平易な語り口を心がけつつ、実は最新の研究の成果やアラビア語資料も用いた綿密な叙述がされている点が印象的である。ただ、注文をつけるとすれば、パレスチナの民衆の闘いを彼ら自身の視点から捉えようとする試みの前例として、本書の編者である藤田自身の著作である『蘇るパレスチナ―語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)を(「はじめに」あるいは第1章で)紹介し、同書が明らかにしたパレスチナ民衆運動史をめぐる貴重な知見を、本書の読者とも共有しておくべきではなかったか?『蘇るパレスチナ』はパレスチナの歴史を民衆の視点から捉える上での必読書であり、特に英委任統治期の1936~39年に展開されたパレスチナ民衆蜂起(いわゆる「アラブ大反乱」)をめぐる叙述・分析の深さは世界的にも例を見ない水準に達している。1936年蜂起の性格を知ることは現在のハマースによる運動を理解する上でも不可欠(1936年蜂起の「記憶」やイメージのハマースによる援用、という側面に限っても)と考えられるので、本書中に『蘇るパレスチナ』への言及がないのは惜しい気がした。(本書の刊行を機に『蘇るパレスチナ』が再び注目を集めることを期待する。)

 また、これとも関連するが、パレスチナ問題が(1948年のイスラエル建国でスタートするわけではなく)英帝国の中東支配の過程で生み出されたものであること、まさしく「植民地主義」にルーツを持つ問題であることを読者により鮮明に印象づけるためには、たとえば第2章の歴史叙述も(第一次大戦よりさらに遡って)19世紀末の列強による中東・アフリカへの侵略、植民地化過程を巨視的に振り返ることから説き起こす、という手法もあり得たのではないか、という印象も持った。(具体的にはエジプト占領や「アフリカ分割」、ボーア戦争等の歴史的意味の再確認。この時期に遡るチェンバレン、バルフォアといった「帝国主義人脈」の系譜の検討など。)それにより、ガザ戦争を19世紀末のアフリカでドイツが行なったのと同様の「植民地戦争」として捉える、という(「あとがき」での)問題提起が生きてくるし、また、たとえば「南アフリカの経験とパレスチナの経験は本当に共通しているのか」という第6章での問いとの対話の回路も準備できたのではないか、とも感じた。

 第Ⅱ部について。ここでは前述のように、イスラエルによるガザ攻撃を黙認あるいは支援する先進諸国(米国やドイツ、さらには日本)諸政府の姿が描き出され、イスラエル支持を正当化する思想的・イデオロギー的な装置(いわゆる「反ユダヤ主義」概念等)が分析されると共に、各国の支配層と市民の間の「亀裂」、中東での戦争に対し抗議の声を上げ始めた市民の動きにも目配りがされている。イスラエルという国家自体の性格や内部矛盾に関する分析も興味深い。注文をつけるとすれば、これらすべて(イスラエルを支える先進諸国の姿勢やイスラエル自体の行動)を「世界資本主義の現状」という視点から捉え、位置づけるとしたら、どのような分析が可能か訊いてみたい、ということだろうか。第Ⅰ部、そして第Ⅱ部第3章の叙述からも明らかなようにイスラエルという国家は当初は英帝国の中東支配の都合上建設が開始された入植者国家であり、第二次大戦後は米国の強力な後押しのもとに建国を実現、以後、冷戦期の米国の中東戦略の要とも言うべき役割を果たしてきた存在であるわけだが、冷戦終結後の今、先進資本主義諸国による中東支配の構造はどのような変容を遂げ、現在進行中の「ガザ戦争」は世界資本主義のどのような局面・段階を反映していると言えるのだろうか?ハイテク化・軍事化するイスラエル経済がグローバル資本主義の中で果たしつつある役割や、イスラエルの「新自由主義」路線への転換等をめぐる示唆的分析が見られるが、これをあらためて米国やヨーロッパ諸国、日本も含む大きな構図の中に位置づける議論も期待したい。現在の欧米における政治・思想状況やイスラエル国内のイデオロギーの変化、日本の戦争国家化等をめぐり、各章で展開されている鋭く深い分析を、冷戦後の世界の変容や、「新自由主義」の現段階という観点から統一的に捉え、説明することはできないだろうか?

 第Ⅲ部について。前述のように、いわゆる「グローバルサウス」の動向、またロシア、中国等の動きをも分析すると共に、国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界をめざす「変化の兆し」にも注目を促す内容であり、興味深い。特に第8章にはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)保健局長や米国の歴史家も寄稿するなど、執筆者の多様性、広がりを感じさせる部ともなっている。第Ⅲ部を読んで印象に残るのは、ガザ戦争をめぐり、先進諸国とは一線を画した態度をとっている「グローバルサウス」の動向を検討しながらも、むしろその内部の重層性や矛盾に着目する視点が示されていることである。評者(栗田)はイランの現体制が「ムスタズアフィーン(虐げられた弱者)」との連帯を掲げるイラン・イスラーム革命の理念のもとにパレスチナの民衆の抵抗を支援する姿勢をとっていることを基本的には評価する立場であるが、こうした姿勢の根底に「善悪二元論」があり、また一種の「戦士文化」が存在する(それは男性中心主義にもつながる)ことをイスラーム研究の立場から批判的に指摘した分析(第6章)は興味深いと感じた。また、「グローバルサウス」諸国の政府も実は「新自由主義」路線をとっており、先進資本主義諸国やイスラエルと利害の共通性を有していることを鋭く指摘する論考もあり、ここには(先に第Ⅱ部への「注文」として記した)世界資本主義の現状の中にガザ戦争を位置づける、という発想が観察されると言えるかもしれない。

 それと同時に感じたのは、(現実には「新自由主義」にからめとられ、腐敗し、独裁化しつつあるかもしれない)「グローバルサウス」の諸政府が、にもかかわらず公的には先進諸国とは一線を画し、国際政治の場でガザ戦争に批判的なスタンスを示しているという事実の背後には、やはりこれら諸国の民衆の存在―植民地支配や占領に苦しんだアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民衆の経験と、それゆえに彼らがガザの状況に寄せる共感―があり、それが各国の政府の立場を否応なく規定しているという面もあるのではないか、ということであった。本文中にも(「国家」主体のBRICSではなく)「民衆が主体のグローバル空間の構築」が重要だとの指摘があるように、グローバルサウスの「政府」だけでなく、その背後にある「民衆」のエネルギーにも注目する必要があるのではないか。

 「冷戦」終結以降、「新自由主義」時代のグローバル資本主義の下で、世界の民衆はともすれば支配エリートの価値観・言説を植え付けられ、分断され、搾取や差別に対し抗議の声を上げる力を奪われてきたが、現在ガザで進行中の事態は、そのあまりに破局的な様相――まさに民衆を標的とするジェノサイド、絶滅戦争という性格―ゆえに、全世界の民衆を覚醒させ、その怒りとエネルギーを解き放ちつつあると言えるかもしれない。―「ガザ戦争」はまさしく人類史の転換点なのではないかと感じながら、本書を読了した。

(「世界史の眼」No.69)

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