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大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、前号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、本号)

3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」

 中島敦に「Ⅾ市七月叙景(一)」という作品がある。第一高等学校『校友会雑誌』第325号(1930年1月)に掲載されたもので、「Ⅾ市」(大連)に関係する三題話といった趣の作品である。その三番目が大連港や大連の油房で働く「クーリー」(苦力)の話で、次のように始まる。

 〔大連の〕「港は七月の午後の日ざしにあえいで居た」。「トロッコのレールを避けて、埠頭倉庫の日陰に荷揚苦力が二三十人も、ゴロゴロと死んだ様になって眠って居た」。「その中に、たった一人起きて居る男が居た。彼は右手で瓜のかけらをもって齧りながら、〔中略〕さっきからボンヤリと陸の方を眺めていた」。「しばらくすると、埠頭事務所の入口の扉硝子が内側から開いて、恐ろしく背の高い痩せた苦力が一人、元気なく出てきた」。「瓜を喰って居た男は鈍い黄色い目を上げて、その男を仰いだ」。「?」、「駄目だったよ。とても」、「何処もか?」、「ウン」。「二人は互にがっかりした顔を見合せた」。「二人は、ぐったりして暫くの間動かなかった」。「背の高い方が突然立ち上がった」。「おい何処かに行こう」、「こんな所に居ても、仕方がないじゃないか」。「歩きながら一人は、もう一度心配そうにたずねた」。「お前、どうする気だ?ほんとに」、「分らんよ、どうにか、なるだろう」、「営口へでも行くか。歩いて。あそこなら少しはいいかも知れんぞ」。「一人は、それには答えずに、不機嫌そうな顔をして黙々と歩み続けた」。(『中島敦全集1』筑摩文庫、364-367頁)

 「クーリー」(苦力)たちは仕事を求めて大連市中をさ迷い歩くが、どこにも仕事は見つからない。その状況について中島は次のように書いている。

 此の地方の主要工業製品である豆粕や豆油が、近来、外国のそれに圧倒されてきたこと。殊にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと。それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること。こんなことを彼等苦力が知ろう筈はない。七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった時、彼等は全く途方に暮れて了った。彼等は早速沙河口の〔満鉄の〕鉄道工場や、硝子工場に行って見た。だが、空いて居る筈はなかった。彼等は、それで波止場に来た。だが、今は一年中で一番ひまな時であった。六月から十月迄、――之が此の港でいう所の閑散期であった。(『中島敦全集 1』筑摩文庫、367頁)

 中島のこの記述については、『満洲日報』の1929年の各号の記事に依拠したものであるとする指摘が出されている(安福智行「『D市七月叙景(一)』論―『満洲日報』を視座として」佛教大学国語国文学会『京都語文』、2001年)。『満洲日報』は1907年に満鉄初代総裁、後藤新平の肝いりで大連において発刊された『満洲日日新聞』の後身で、1927年に『遼東新報』を併合した際に『満洲日報』と改称された。『満洲日日新聞』(『満洲日報』)は満鉄の準機関紙的な性格の強い新聞であるが、当時の満洲においては有力な新聞であった。1935年、『大連新聞』を併合した際、『満洲日日新聞』という旧称に戻された。したがって、中島が資料として利用したとされる1929年の各号はたしかに『満洲日報』の名のもとに発行されていた。

 上引の中島の記述のうち、『満洲日報』の記事に依拠しているのではないかとされているのは主に次の二点である。(1)「特にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと」、(2)「それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること」。(1)はドイツが大豆のまま大連港から本国に積み出し、ベンジン抽出法などの新技術で効率よく豆油や豆粕を製造するようになったということ、(2)は豆粕と同じ窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の使用が広がり始め、豆粕と競合状態になってきたということである。これら二点はたしかに『滿洲日報』1929年の各号に同様の記事が見られる。『満洲日報』は日本(東京)でも発売されていたから、中島が『滿洲日報』を購読し、これらの記事を見ていたということは考えられる。その場合、中島は植民地朝鮮の京城中学校を卒業後、第一高等学校に入学した後も満洲の政治・経済状況に深い関心を持ち、『満洲日報』といった一般の人が読まないような新聞を購読していたということになる。中島は、1925年、京城中学校4年の時の修学旅行で大連、奉天など満洲各地を旅行している。中島の満洲への関心はそこから芽生えたのであろう。

 しかし、1920年代末から1930年代、満洲の豆油・豆粕製造業が不振に陥っていることを指摘し、その原因として上記二点を挙げる文献は他にもたくさんあった。したがって、中島の記述の素材として、『満洲日報』以外の文献を考えることも可能であろう。

 中島の上引の文中、事実と大きく異なる箇所が1か所ある。それは、「七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった」という個所である。これでは、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったように読めるが、これはかなりの誇張である。当時、大連の油房が不況に苦しんでいたことは事実だが、1931年になっても、大連では52の油房が営業しており、その半数以上は大豆の破砕に水圧を用いる改良型の油房であった。また、豊年製油大連工場も稼働していた(満鉄商工課編「満洲大豆粕と其飼料化に就いて」)。

 中島は大連の「クーリー」たちの窮状を強調したくて、このような誇張を行ったのであろう。

4 清岡卓行『アカシアの大連』

 清岡卓行(1922-2006年)は大連で生まれ、旧制大連第一中学校卒業まで大連で過ごした。その後、東京に出て、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進学したが、敗戦間近の1945年4月初め、大連に戻った。その時のことを清岡は次のように書いている。

〔大連は〕東京のある大学の一年生であった彼〔清岡〕が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そしてやがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることになり、思いがけなくも結婚した町である。(清岡卓行『アカシアの大連』講談社、1970年、87-88頁)

 清岡卓行『アカシアの大連』は数年間の東京生活を間に挟みながら、20数年に及んだ大連での生活やそこでの思索を50歳近くなった清岡が回顧した作品である。ただ、その中に1か所だけ、この作品の全体的な基調音とは際立って異なる部分がある。それは清岡が中国人労働者の集住していた寺児溝という地域を訪ねた時の体験と、大連港において大きな円盤状の豆粕を船に積み込む「苦力」たちの姿を描いた部分である。清岡は次のように書いている。

彼は小学校の六年生頃、大連の東部にあった中国人の居住地、寺児溝の一部における惨憺たる有様を眺め、ほとんど恐怖に近いものを覚えたことがあった。それは、たまたま、その地区にある大きな材木置場の中の日本人の番人の家に遊びに行ったときのことであった。その家の男の子が、彼と同級生で、その誕生日の祝いに招かれたのであった。
 戸外で遊び廻っていたとき、彼は、中国人ふうの普通の家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、今にも潰れそうになっている家とか、そのほか貧困そのものの象徴であるような住居を、いろいろと沢山見た。山東から、芝罘チーフで、ジャンに乗って、直隷海峡〔渤海海峡〕を渡ってやってきている中国人の労働者、いわゆる苦力の多くはこのへんに住んでいるのだろうと彼は想像した。そして、共同便所にはいったとき、その壁の隅に「打倒日本」という文字がいくつか落書されているのを見て、もしかしたら自分はここで誘拐されるのではないかと不安を感じた。(『アカシアの大連』139-140頁)
 町の中を走っている電車にも、苦力専用のものがあった。それは寺児溝に通じていた。ほんの少し料金が安いその電車に、彼は小づかい銭を倹約するために乗ったことがあった。そのとき、苦力たちは一様に黙っていたが、車内に漂っている、汗臭く、エネルギッシュな、そして少し大蒜にんにくの匂いが混じっているような空気に、彼はいくらか圧倒されるような気持になったものであった。
 大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。その光景は、いつまでも繰返される苦役のような感じであった。それが、日本人とは差別された実に安い報酬によるものであるということを、そのときの彼は知らなかった。(『アカシアの大連』140-141頁)

 この清岡の記述は彼が小学校6年生頃のこととして書かれているので、おそらく1930年代半ばの状況を示しているのであろう。

 前述のように、日露戦争後、遼東半島が日本の租借地となると、多くの中国人が仕事を求めて大連に流入した。彼らは大連港や油房の人夫、人力車夫、馬車夫などとして働いていた。1909~10年のペスト流行を機に、彼らをそれぞれの職種ごとに1か所に集住させることを目的として、民間の手で「クーリー収容所」、「人力車夫収容所」などが設営された。「クーリー収容所」は大連埠頭の荷役を一手に引き受けていた満鉄の子会社、福昌公司が経営する収容人員一万人の大収容所であった(「福昌公司 華工収容所」)。この収容所は壁に囲まれまさに隔離の状態にあった(水内俊雄「植民地都市大連の都市形成――1899~1945年」『人文地理』37-5、1985年、62、64頁)。この「クーリー収容所」には、大連港の荷役人夫だけでは無く、油房の中国人労働者も多く居住していたのであろう。「クーリー収容所」に隣接する「大連東部」は油房工場地区だったからである。

 しかし、その後も中国人労働者の流入は続き、大連の都市計画地域の外に、自然発生的に中国人労働者の集落ができていった。清岡がその悲惨さに「ほとんど恐怖に近いものを覚えた」と書いている「寺児溝」もその一つであった。寺児溝は「大連東部」地区よりさらに東南の海岸に近い崖の多い所である。それで、清岡が書いているように、「崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家」が多かったのであろう。寺児溝の人口は、1935年には、約24000人になっていた(水内前掲論文、64頁)。

 清岡が一度乗ったことがあると書いている「苦力専用」の電車というのは中国人労働者の就業場所と居住地域を往復する電車で、当時、「労工車」と呼ばれていた(水内前掲論文、65頁)。清岡によれば、そのうちの一つの路線が寺児溝まで通っていたということである。「苦力専用」といっても、少年清岡が乗れたのだから、日本人が全く乗れなかったということではないのであろう。

 「大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた」と清岡は書いている。これは人力あるいは水圧で大豆を破砕して豆油を抽出する在来型の油房で産出される豆粕で、大きな円盤状に固められていた。それで、「円糟」(「円粕」)と呼ばれていた。それに対して、ベンジン抽出法により産出される豆粕はバラバラで固められていなかったので「撒糟」(「撒粕」)と呼ばれていた(前掲『満洲大豆』、32頁)。大連埠頭では、1930年代になっても、「円糟」(「円粕」)を何枚も背負って歩く中国人労働者の姿がよく見られたのである。

おわりに

 大連における豆油・豆粕製造業は20世紀初めに始まり、第一次世界大戦期に急速に発展した。しかし、戦後の不況期に衰勢に向かい、大恐慌期には不振状態に陥った。だからといって、衰退しきってしまったわけではなく、1930~40年代にも豆油・豆粕の生産は続けられていた。

 本章で取りあげた3人のうち、夏目漱石は大連のきわめて初期の油房を観察していて、その記述は貴重ということができる。それに対して、中島敦が描いている状況は大恐慌期直前の大連である。まだ大恐慌の直接的な影響が及んでいるようではないが、大連をめぐるある変動を感じ取ることができる。ただし、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったかのような記述は文学的潤色としても問題であろう。少年清岡は父が満鉄の技師だったから、南山麓という日本人用の高級住宅地に住んでいたので、大連の「恐怖をも誘う汚い部分」(『アカシアの大連』140頁)に触れることは少なかったが、寺児溝での体験や大連埠頭で働く中国人労働者の姿を通して、「植民地都市」大連における民族的矛盾にうすうす感づいていた。しかし、それを意識化することができたのは大学を休学して、大連に戻ってからであった。

(「世界史の眼」No.53)

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世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―
南塚信吾

1. 蝦夷地における《商場知行制》 

 北前船は、蝦夷では松前において、南から運んできた品々を売りさばいて、代わりに昆布などを買い付け、それを南へ運んだ。では、蝦夷ではどのように昆布などが入手できたのだろうか。誰が、どこで、どのような方法で昆布が取れ、売られたのだろうか。それはアイヌの人々を抜きには考えられない。(本稿では、北海道全体を「蝦夷」とし、その中で松前氏を中心とする「和人地」と区別されたアイヌの地を「蝦夷地」と記すことにする。)

(1) 松前藩 

13世紀以降、アイヌの人々は、北はサハリンからアムール川流域の地に始まり、千島、蝦夷を経て、南は津軽・下北半島までを生産と生活の場とし、「交易の民」として活発な活動を行っていた。これに刺激されて、和人も蝦夷に流入し、道南と津軽の地は、アイヌ集団と和人の混在する境界の地として意識されていた。1457年(長禄元年)、渡島半島のアイヌの首領コシャマインの蜂起がおこり、圧倒的なアイヌの攻勢によって、和人はわずかに松前と天の川に集住することになった。この和人の中では、蠣崎氏が勢力を伸ばし、アイヌとの交易を独占する体制を作り、蝦夷地とは区別される「和人地」の原型を作っていった(荒野他編 2013 277―282頁;淡海文化を育てる会 2001 96-98頁)。

(荒野 2003 147頁)

 蠣崎氏は1593年(文禄2年)に豊臣政権より松前での船役徴収権(松前に入る船への徴税権)を認められ、蝦夷松前につき事実上大名領主権を与えられたが、1604年(慶長9年)には松前氏(1599年に蠣崎氏を改め松前氏)は徳川家康によって蝦夷松前での独占的な交易權を認められ、ここに松前藩が確定した。これ以後、松前氏以外のものは松前氏の許可なくアイヌとの交易ができなくなった。アイヌの人々は、交易品を松前城下に持ち込み一定の儀礼を踏まえて藩主に贈り物をし、藩主がアイヌに必要なものを贈るという関係が続いた。「朝貢」的な城下交易であった。アイヌと松前氏の間に何等の支配関係はなく、アイヌは旧来の風俗習慣を守り、コタン(部落)の自活を行ない、もちろん租税などは納めず、松前藩主と直接的なつながりはなかった。

 しかし、1630年代に「和人地」が確定すると城下交易は廃止され、交易は、和人地の外、つまり蝦夷地に設定された「商場(あきないば)」に限定された。松前氏は蝦夷地のアイヌとの通商や漁業をする縄張を「商場」として独占権利化し、アイヌとの交易の権利を「知行」として上級の家臣(給人)に分け与えた。この各地の「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行った。この利益が給人の封建給付となった。これを「商場知行制」と言った(白山 1971 9-10、17、31頁;菊地 1994 70-71頁;80-81;荒野編 2003 146頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

 「商場」が設定されたのはアイヌが生活し生産をする場である河川流域の漁猟場の中であった。そこに知行主が毎年交易船を派遣して、アイヌと物々交換をした。これはアイヌの漁猟場を破壊することを意味し、アイヌは、特定の商場で特定の知行主としか交易ができなくなり、受動的な立場に置かれた(白山 1971 29-31頁;白山は商場知行制とのちの場所請負制とをはっきりとは区別していない)。

 これは、松前氏及びアイヌが徳川幕府の支配体制に組み込まれたことも意味した。こういう体制の下で、アイヌは次第に従来の生活・交易様式を続けられなくなった。とくにアイヌの交易相手が特定の商場知行主に限定され、交易の自由が奪われた。それへの反発として日高地方で起きたのが、1669年(寛文9年)のシャクシャインの蜂起であった。この蜂起が鎮圧されると、アイヌ社会は崩壊に向かったのである(荒野編 2003 148-149頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

(2) 近江商人 

 「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行ったが、「商場知行制」のもとでは、知行主の武士(給人)は不得手な漁業経営をし、複雑化したアイヌ社会を相手に苦手な商業をせざるを得なくなった。そこで漁業経営と交易の権利を内地から来た商人に委ね、商人は一定の金額(運上金)のもとにそれを請け負った。実際に交易を主として請け負ったのが、近江の商人たちであった。

 そもそも松前に近江商人が着いたのは1588年(天正16年)と言われる。その後寛永年間(1624-44年)に集中的に近江商人が松前や江差に入った。建部七郎右衛門、岡田弥三右衛門(八十次)や西川伝右衛門などの近江商人は、はじめは松前城下に住んで、呉服、太物、荒物を商い、日常生活に必要なものを上方から仕入れて販売し、松前の物資を上方に売るという商いをした。やがて、かれらは「商場」を請け負ったのである。たとえば岡田家は小樽、西川家は忍路(オショロ)に「商場」を得た。かれらは自分の裁量で漁場を運営し、アイヌを使役して経営を行い、そこで獲れた干鱈(ひだら)、干鰯(ほしか=ほしいわし)、干鮑(ほしひ=ほしあわび)白子、昆布、わかめなどを、近江を経て京・大坂に送り、日曜品や米や衣料を持ち込んだ。松前氏にとっても商人は大事な存在であった。近江商人達は,「両浜組」という仲間組織をつくって,松前藩から,通行税の免除などの特権を与えられた(白山 1971 66-67頁に西川家の忍路の例あり;淡海文化を育てる会 2001 108-111;115頁)。こうした近江商人は、商場知行制の中で蝦夷地産物の商品化に道を開いた。

 近江商人らが「商場」での取引で内地へ送る荷は「荷所荷」と呼ばれ、それを運ぶ船を「荷所船」と呼んだ。「荷所荷」は松前から敦賀ないし小浜の港を経て近江へ運ばれた。そこから、京・大坂へさらに運ばれたわけである。「荷所船」には敦賀から石川の橋立にいたる地域の船主の船が雇われ、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野 1979 41頁;菊地 1994 117-118頁;淡海文化を育てる会 2001 121-127頁)。この「荷所船」がやがて北前船に取って代わられることになる。

(3) 昆布とアイヌ  

 松前の近江商人らがアイヌから入手したのは、干鱈、干鰯、干鮑、昆布、わかめなどであったが、やがてニシンや昆布や木材となり、とくに〆粕として肥料に使われたニシンと、中国向け輸出用の昆布が重要な産品となっていった。

 昆布の生育地は、南部・津軽地方の沿岸以北、主として北海道であった。また、昆布の採取は、おもに先住民族であるアイヌによって行われていた。「昆布」の語源は、やはりアイヌ語にあると言われている(函館市地域史料アーカイヴ)。

 日高の方では、アイヌは、昆布はカミサマのお髭だから取ってはいけないと言われていたという(「名勝襟裳岬」《風の館》)。昆布を商品として大量に取るようになったのは、和人が入ってからではないだろうか。

 1643年(寛永20)の『新羅之記録』には、「1640年(寛永17)6月13日、駒ヶ岳が突然噴火して大津波がおこり、百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」とある。ただし、『松前年々記』の寛永17年の記には、夏6月に「津波、商船の者ども並びに蝦夷人ども人数七百人死」と記され、松前家の記録である『福山舊記録』にも「津波、商船・夷舶夷船、船人数七百余人溺死」と記されている。文中の商船とは、昆布採取の出稼ぎ、あるいは商(あきな)いに来ている和人の船で、夷舶夷船は、アイヌの船(チップ)と解される。この両書とも和人、アイヌ合わせて七百余人溺死とある(『松前年々記』)。

 上の史料からは、昆布取りには和人、アイヌを含め大勢の漁民が船で乗り出して作業をしていたことが分かる。そこで取れた昆布は乾かして交易所へ持ち込まれ、商人を介して、松前に送られたわけである。

 昆布は長崎における対中貿易と関連していた。1698(元禄11)年、幕府は対中貿易における支払い手段としての銅の生産が減ったので、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。各地から俵物を集荷する体制を整え、長崎には奉行所の監督下で貿易事務を扱う長崎会所が置かれた。このとき、昆布も諸色として認められた。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。昆布は蝦夷の特産であったから、これ以後、蝦夷にとって昆布が重要な産品となった(菊地 1994 185-186頁;神長 2022 55頁)。

 荒野の言う松前口はこのように始まり展開していった(荒野 2003 146-149頁)。そして、このような昆布を提供するための蝦夷地と和人地の関係は、18世紀の前半、享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)以降、根本的に変化するのである。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の研究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
函館市地域史料アーカイヴ
https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040
『松前年々記』
https://jmapps.ne.jp/hmcollection1/pict_viewer.html?data_id=214242&shiryo_data_id=160688&site_id=SIM003BLA&lang=ja&theme_id=SIM003&data_idx=0

(「世界史の眼」No.53)

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書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊
早尾貴紀

 本書は2020年に刊行されたRashid Khalidi, Hundred Years’ War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917-2017の全訳である。著者のラシード・ハーリディーはアメリカ合衆国生まれのパレスチナ人で、近現代アラブ・パレスチナ史の研究者である。そして本書の内容をまずは目次で確認すると以下のとおりである。

序章
第1章 最初の宣戦布告 1917~1939年
第2章 第二の宣戦布告 1947~1948年
第3章 第三の宣戦布告 1967年
第4章 第四の宣戦布告 1982年
第5章 第五の宣戦布告 1987~1995年
第6章 第六の宣戦布告 2000~2014年
終章 パレスチナ戦争の1世紀

 こうして見るとシンプルに通史的であること、各章がひじょうに明確に、1917年のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設への英国の支持表明)、1947年の国連パレスチナ分割決議(および48年のイスラエル建国宣言)、1967年の第三次中東戦争(西岸・ガザ地区の全面占領開始)、1982年のレバノン侵攻(難民キャンプの虐殺とPLOの追放)、1987年の第一次インティファーダ(被占領地からの抵抗運動)、2000年の第二次インティファーダ(オスロ体制の欺瞞への抗議)をそれぞれ起点とした、一般的な時代区分となっていること、が読み取れる。

 しかしそう書くと、よくある概説書とどう違うのかと思われる向きもあるだろう。しかし、本書は以下の3点において、比類のない書物となっている。

 1点目としては、著者がエルサレムの名門一家ハーリディー家(学者や法律家を輩出してきた)の子孫であることから、「曽祖父の叔父」の代からシオニスト(ユダヤ人国家推進者)らと直接の交渉があったり、以降それに抵抗するパレスチナ・ナショナリスト内で「伯父」など親族が重要な役割を果たしたりするなど、深くこの地の政治史に直接関わった家系をもち、それに関する私的な歴史資料への特権的なアクセスを得ていることが挙げられる。その史料は、ハーリディー家の私設図書館に収蔵されており、そこには当事者の日記や書簡などの非公式文書も含まれる。さらには生前に親族から直接聞いていた証言も本書を支える貴重な史料を構成しており、本書はオーラルヒストリーとしての側面も有している。

 序章は、曽祖父の叔父ユースフ・ディヤー・アル=ハーリディーが「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルとやり取りをした書簡の分析から始まっており、すでにヨーロッパからの集団入植や土地の大規模購入が、先住民社会への壊滅的打撃を与える可能性について、緊迫した交渉がなされている。冒頭からその展開に引き込まれて読んだ。ヘルツルの『ユダヤ国家』は1896年の刊行、ユースフ・ディヤーの書簡、ヘルツルの返信は1899年。このやり取りの分析のなかに、本書の基底をなす「入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)」の本質がすでに現れている。その点で、本書の起点は副題にある1917年よりも実際さらに20年は遡る。ともあれ、本書が他の誰にも書き得ない特別な性格を持っているのは、この特権的な史料アクセスによる。(とりわけ第1・2章)

 2点目としては、アメリカ合衆国へ留学し国連で働いていた父のもとで生まれた著者自身が米国で学び学位を取り、そしてレバノン侵攻を挟む時期にはベイルート・アメリカン大学で教員をしながらPLOの活動にもコミットし、その後また米国に戻って米国の大学で教授職を得ながら、PLOと国連や米国政府との交渉にも関わったといった諸経験が、本書の論述の随所に描かれている。その意味で本書は「自伝」という側面も持つ。ハーリディー家という名門出という事情に加えて、パレスチナ人として最初期の米国留学者である父を持つという僥倖も手伝い、PLOの古参の活動家たちが無知ゆえに軽視した米国の圧倒的なシオニズムに対する影響力を間近で冷徹に見極めるという、その世代では稀有な分析力を著者にもたらした。しかも1976年から83年という決定的な時期を家族とともに活動家としてベイルートで暮らしたことは、単なる米国の知識人ではなく、イスラエルによる攻撃の凄まじさ、PLOの過ちや内紛、周辺アラブ諸国政府や党派の脆弱さを、身を以て知る当事者という要素を著者にもたらした。

 その後著者は、米国やパレスチナで交渉の場に立ったりアドバイザーになったりしながら、PLOないし自治政府が苦境に追い込まれていく過程にも立ち会っており、本書にはそうした時代の証言という意味合いもある。(とりわけ第3・4・5章)

 3点目として、分析や論述の内容に関わって。「宣戦布告」という各章のタイトルから年代区分の最初の出来事を焦点化しがちだが、本書においては各章で最も深く注目するのはそこではない。1章では、1922年からの国際連盟のもとでのイギリス委任統治のもとで実質的に「委任統治」の理念を全く逸脱し、先住民のパレスチナ人を無視してシオニスト入植者のユダヤ機関のみに代表性と自治を認めたことが、すでにパレスチナ人の「追放」を前提とした入植者植民地主義の制度化であると指摘している。2章で最も紙幅を割いているのは、アラブ新興独立国の脆弱性(旧宗主国英国への依存と新覇権国米国への無知)と相互の対立とパレスチナの利用である。分割決議とナクバだけで語れる問題ではない。3章で繰り返し焦点化されるのは安保理決議242号の罠である。一見「1967年占領地からの撤退」を求めた文面でありながら、その真意の一つは分割決議を大幅に逸脱したイスラエル領「1948年占領地」(1949年休戦ライン)の自然化・固定化であり、もう一つは撤退のためにイスラエルとアラブ諸国との和平条約を促すことであった。すなわちイスラエルの存在をアラブ諸国に認めさせつつ、パレスチナ問題を消去する狙いがあり、実際これ以降、この決議242が中東和平を規定していく。

 4章では、いかにPLOがレバノン国民の反感を買い戦略的に失敗し撤退に至ったのかを、5章では、いかにインティファーダを担った被占領地内のパレスチナ民衆と在外指導部のPLOとが乖離していたか、そしてPLO指導部の判断の誤りと甘さでオスロ体制という壊滅的な罠(パレスチナ自治など実質皆無なままイスラエルは存在を承認され占領・入植も自在にできる仕組み)に陥ったのかを、6章では、第二次インティファーダでそのオスロへの抵抗の仕方において、PLOもハマースも勝ち目がないどころか逆効果しかない貧弱な武力に頼って自滅していったのかを論じている。総じて、自らも深く関与したPLOに対する批判は辛辣を極める。

 大きく3点、形式と内容から本書の特質を概観した。パレスチナ/イスラエル(シオニズム)の100年史を深く知るうえで、類書を見ない特異な書物であると言える。

 著者の論述に対して違和感を覚えたところを2箇所、触れておきたい。一つは6章の西岸・ガザの分断体制に至った経緯のところで、シオニズム・イスラエルの周到さと米国の影響力を訴える著者にしては、この分断の原因を、内部批判の誠実さとはいえ、PLOとハマースにのみ帰した論述は、分析として甘いと思う。著者は触れてはいないが、西岸地区ではイスラエルがハマースの議員と活動家をあらかた逮捕・一掃し、収監するかガザ「流刑地」送りにしたことからも、西岸地区=PLO支配の継続、ガザ地区=ハマースの封じ込め、という政治体制状の分断構図はイスラエルと米国が意図的に生み出したことである。「その手に乗らない」という抵抗ができなかった責任はパレスチナ側にもあるだろうが、分断体制の創出こそが、それ以降現在まで繰り返し続くガザ地区の封鎖攻撃を可能にしている以上、軽視はできない点である。

 もう一つの違和感は、終章のナショナリズムについての論述である。シオニズムを「血と土」を重視する中央ヨーロッパに由来するものとし、フランス革命やアメリカ革命を支えた自由主義の思想には反する、それゆえ現在のシオニズムも西洋民主主義の価値に反する、としているところは、フランス革命後のユダヤ人解放と市民社会化の失敗・挫折、排外主義的国民主義と反ユダヤ主義からシオニズムが生まれ出ていることを忘れてしまっている。現在のガザ攻撃においてネタニヤフ首相とヘルツォーグ大統領が揃って繰り返し「これは西洋文明を守る戦争だ」と欧米諸国に支援を求めていることもそこに繋がっている。

 またこのナショナリズム観と関わり同箇所において、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが生まれたことと、パレスチナ・ナショナリズムが生まれたことも、ともに「同様に偶然の積み重ね」であり、「入植者か先住者かといった違いは意味を持たない」という相対化をしているのは、著者が反論を予期しながら書いているとはいえ、やはり過度な短絡と感じる。イスラエルとパレスチナの相互承認と平等な共存を求めるためのレトリックという要素も認めるが、しかし著者自身のとりわけ序章・1章・2章の「入植者植民地主義」をめぐる周到な論述・分析を自ら無化させかねない性急さであると言わざるを得ない。

 最後に翻訳について。訳者たちの正確でかつ読みやすい翻訳を迅速に完成させ、大規模なガザ攻撃という事態のさなかに世に出されたことに感謝したい。一点だけ、本書の日本語訳タイトルは『パレスチナ戦争――入植者植民地主義と抵抗の百年史』であるが、直訳は『パレスチナ百年戦争――入植者植民地主義と抵抗の歴史』であり、「百年」の場所が主題から副題に移されている。訳者らで熟考した末に、よりシンプルな主題にしようという判断であろうが、主題だけを見た場合は、『パレスチナ戦争』(つまり副題まで見ないと「百年」が出てこない)よりも、やはり原書どおりに『パレスチナ百年戦争』のほうがよかったと私は思う。

(「世界史の眼」No.53)

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「世界史の眼」No.52(2024年7月)

今号では、小谷汪之さんに「大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―」をご寄稿頂きました。今号含めて2回に分けて連載の予定です。また、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その1)」をお寄せ頂いています。シリーズとして連載して参ります。

小谷汪之
大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その1)

世界史研究所の南塚、小谷、田中の各氏が翻訳した、ダニエル・ウルフ(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)が、7月10日に刊行されます。世界各地における「歴史」の捉え方と叙述のあり方を検討した大作です。ぜひご一読下さい。

ミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。

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大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、本号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 日露戦争(1904-1905年)後、ロシアの租借地だった遼東半島が日本の租借地となると、日本は大連を租借地統治の拠点とした。それに伴い、ロシアから譲渡された東清鉄道の長春―旅順間の南満洲支線が南満洲鉄道として整備された際に、長春―大連間が幹線となった。こうして、大連が都市として発展していくにつれて、大勢の中国人移住労働者が大連港や大連の油房(大豆油製造所)で働くようになった。彼らの多くは山東半島の出身で、家族を中国に残して、単身で大連にやってきた。当時、日本人は中国人労働者を一般に「クーリー」(苦力)と呼んでいた。本稿では、夏目漱石・中島敦・清岡卓行の記述を通して、大連港や大連の油房と「クーリー」の歴史を追ってみたいと思う。

1. 夏目漱石「満韓ところどころ」

 1909年9月、夏目漱石は満洲と韓国への旅に出た。もともとは漱石の高等学校時代以来の友人で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうと一緒に行くはずだったのだが、漱石の胃痛が悪化し出発を遅らせたので、中村是公は先に行ってしまった。そのため漱石は一人旅となり、神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。その後、満洲各地を訪ねた後、9月28日に「小蒸汽で鴨緑江を渡」り韓国に入った。10月13日には、ソウルの南大門駅から汽車で釜山に行き、船で帰国した。帰宅したのは10月16日であった。この旅の旅行記が「満韓ところどころ」で、もともとは朝日新聞に連載されたものであるが、奉天から撫順に行った所(9月21日)で中絶してしまっている(本稿では、藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、所収のものを利用した。なお、この旅行中の日記は平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、に収録されていて、韓国旅行の部分まで含まれている)。

 漱石は大連では満鉄直営のヤマトホテルに泊まった。ただし、この時の大連ヤマトホテルは大連埠頭の西側の旧露西亜町にあった。しかも、ヤマトホテルに隣接してヤマトホテル別館(ロシア時代の市庁舎を転用)もあった。漱石が泊まったのはこの別館の方であった(清岡卓行『大連小景集』講談社、1983年、160頁)。ちなみに、大広場に面した大連ヤマトホテルの本格的な新館が完成して、開業したのは1914年のことである。

 9月7日、漱石は中村是公と一緒に馬車でホテルを出発し、大連市内各地を見て回った。最初に行ったのは満鉄中央試験所であった。中央試験所は満鉄開業一年後の1907年に開設された研究所で、初期の段階では大豆から豆油を抽出し、残った豆粕を肥料や家畜の飼料に利用する方法を研究することが主な課題とされていた。中村是公はその成果を漱石に見せたかったのであろう。漱石は中央試験所で豆油担当の技師と会った時の様子を「満韓ところどころ」で次のように書いている。

 これが豆油の精製しない方で、此方が精製した方です。色が違うばかりじゃない。香も少し変わっています。嗅いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いでみた。
 用いる途ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、う云うのが出来たら便利でしょう。是でオリーブ油の何分の一にしか当たらないんだから。そうして効用は両方ともほぼ同じです。その点から見ても甚だ重宝です。それにこの油の特色は他の植物性のものの様に不消化でないです。動物性と同じ位に消化こなれますと云われたので急に豆油が難有ありがくなった。矢張り天麩羅などに出来ますかと聞くと、無論出来ますと答えたので、近き将来に於て一つ豆油の天麩羅を食って見様みようと思ってその部屋を出た。(『漱石紀行文集』29頁)

 今では、大豆油はいわゆるサラダ油の原料などとして広く使用されているが、この時代には日本でも欧米でもまだ一般的なものではなかったのであろう。

 中央試験所を出た漱石と中村是公は「電気公園」(電気遊園)、西公園などを経て、大広場から東に少し離れた満鉄本社に行った。そこで漱石は満鉄のいろいろな事業について詳しい説明を受けた。

 9月9日、漱石は知人に連れられて、ある油房(大豆油製造所)を訪ねた。「満韓ところどころ」には、その油房における豆油の製造過程がかなり詳しく書かれている(『漱石紀行文集』50-53頁。ただし、この油房の名前や立地については何も書かれていない)。漱石の記述には分かり難い箇所がかなりあるが、ここでは漱石の記述をそのまま摘記する。

 「〔油房の〕三階へ上って見ると豆ばかりである」。「此方の端から向うの端迄眺めてみると、随分と長い豆の山脈が出来上っていた。その真中を通して三ケ所程に井桁に似た恰好の穴が掘てある。豆はその中から絶えず下に落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山が出来る。是はクーリー〔中国人労働者〕が下から豆の袋を脊負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである」。「彼等の脊中に担いでいる豆の袋は、米俵の様に軽いものではないそうである。それを遥の下から、のそのそ脊負って来ては三階の上へ空けていく」。「通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階迄を、普請の足場の様に拵えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つを又下りて行く」。「三階から落ちた豆が下に回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、忽ち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅をつかんで、濛々もうもうと湯気の立つやつを床の上に放り出す」。「彼等〔クーリー〕は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。蒸した豆をで囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーは忽ちこの靴の儘枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それ螺旋らせんの締棒の下に押込んで、をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆はまったくの糟だけになって仕舞う。凡てが約二、三分の仕事である」。「この油がポンの力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静かに深そうに淀んでいる所を、二階に上がって三つも四つも覗き込んだときには、〔落ちそうで〕恐ろしくなった」。「クーリーは実に美事に働きますね。且非常に静粛だ、とがけに感心すると、案内は、とても日本人には真似も出来ません、あれで一日五、六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、も呆れた様に云って聞かせた」。(『漱石紀行文集』50-53頁)

 漱石が視察したこの油房は日本人経営の油房のようであるが、ほとんどの工程を「クーリー」の労働力に頼る旧式の油房であった。この時代にはまだこういう油房が多かったのであろう。

2. 大連の油房

 1866年に、満洲における初めての油房が設立され、大豆油と豆粕の製造が始まった。その場所は営口であった。営口は満洲随一の大河遼河の河口近くに位置する港町で、遼河の水運によって満洲各地から大豆が営口に集まってきたからである。その後、営口の油房数は増大を続け、1910年頃の最盛期には35か所に上った。しかし、南満洲鉄道(満鉄)が開業し、大豆が鉄道で輸送されるようになると、満鉄路線から離れている営口の油房数は急速に減少していった(満鉄地方部勧業課『満洲大豆』満蒙文化協会、1920年、26-27頁)。

 営口に代わって満洲の豆油・豆粕製造業の中心となったのは大連であった。大連で最初の油房が設立されたのは1906年であるが、その後油房数は急激に増大し、1919年には60か所となった。その内訳は中国人経営の油房53、日本人経営の油房4、日中合弁の油房3であった(前掲『満洲大豆』、29頁)。

 大連にはこれらの在来形の油房とは全く異なる豆油製造工場があった。前述のように、満鉄中央試験所では大豆から豆油を抽出する方法を研究していた。ドイツでベンジン抽出法という化学変化を利用した全く新しい豆油抽出法が開発されると、いちはやくその特許権を入手し、1914年、「満鉄豆油製造所」を設立して、試験的な操業を始めた。しかし、満鉄が豆油製造所を経営することに対しては反対が強く、翌1915年、「満鉄豆油製造所」は鈴木商店に譲渡された。鈴木商店は「満鉄豆油製造所」の工場と特許権を継承し、鈴木油房と名付けた。したがって、鈴木油房は大連埠頭の東側の満鉄埠頭地区内にあった。

 鈴木油房の豆油と豆粕製造能力は在来型の油房に比べるときわめてすぐれたものであった。大豆はあまり油の含有量が多くない原料で、在来型の油房では原料に対する採油量は9~10パーセントであったが、ベンジン抽出法の場合は14~15パーセントとなった。肥料あるいは飼料として利用される豆粕は残留油分や水分が少ない方がよいのだが、在来型の油房の場合、残留油分が7~9.5パーセント、含有水分が13~19パーセントなのに対して、ベンジン抽出法の場合は、それぞれ2.5~3パーセント、4~13パーセントであった(前掲『満洲大豆』、32頁)。在来型の油房と鈴木油房では、これほどの生産性の差があったのである。

 しかし、鈴木商店は第一次世界大戦終了後の不況の中で債務超過に陥り、その豆油製造部門は1922年に設立された豊年製油株式会社に移され、鈴木油房は豊年製油大連工場として操業を続けることになった。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.52)

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世界史の中の北前船(その1)
南塚信吾

はじめに  

 江戸時代から明治の中頃にかけて、蝦夷から大坂、あるいは薩摩へいたる海路を行き交う船があった。それは主に日本海側を航行し、「バイ船」あるいは「北前船」などと呼ばれていた。航海術が発達していなくて、偏西風のせいで太平洋に流されることを恐れた時代に在っては、日本海側のこの輸送手段は重要な役割を演じていた。これは蒸気船が出現する前には、日本の重要な輸送手段であった。これらの船の中には、漂流して国外で救助され、長期の国外生活を経て帰国するものもあった。

 このような船を、本稿では「北前船」という呼び方で統一するが、これは大坂を始め瀬戸内海地域での呼び方で、北陸などでは「バイ船」「バイバイ船」などと呼ばれていた(呼び方については諸説があるが、さしあたり牧野「北前船の時代」による)。「北前」といういい方は、瀬戸内から見て北の、日本海側(陸も海も)を指す語として使われ、そこを通って瀬戸内に入ってくる船を、瀬戸内の人が「北前船」と呼んだという(牧野、2005、13頁)。

 この北前船をどのように定義するかについてはいくらか議論があるが、本書では、「北国の船で蝦夷地を含めた日本海の諸港と瀬戸内・大坂を結んだ不定期の廻船で、買積みを主体とし」た船(牧野、2005,17頁)としておきたい。「北国」というのは瀬戸内から見て「北」という意味で、「北陸」に限ったものではない。ただし、この船は、長崎、薩摩へも出かけていた。そしてポイントは、たんなる輸送船ではなく、港々で商売をする船(買積み船)であったということである。

研究史

 北前船と漂流船・長者丸についての研究は、戦前は別として、1950-60年代に先駆的研究が現れて以来、現在まで続いている。1980年代には、研究はやや下火になったが、1990年代には、「土地制度史」や「表日本」への反発から、海上交通への学術的な研究が登場し、郷土史の一部として海上交通が組み込まれるようになり、北前船が再び注目された。それを受けて、21世紀に入ると、カルチュラル・スタディーズや「人の移動」などへの関心や商業資本としての北前船への関心から研究が深められた。これは、2017年に北前船が日本遺産に認定されると、一層進展した。研究は、各地においてさまざまな組織、集団によって積み上げられている。

 ところが、以上のような北前船研究は、二つほど問題を抱えている。一つには、松前を越えた蝦夷のアイヌの関与と、薩摩の先の琉球の役割についての研究を取り込むことである。これらの研究は、われわれの視野をもっと先の樺太、千島をへて満洲やシベリアへと広げるものである。今一つは、日本史研究の本流と交わらせることである。日本史研究は、江戸時代の対外政策の見直しが進み、蝦夷、対馬、長崎、琉球の四つの港での交易などによる「四つの口」が注目されるようになり、世界史の中で日本の歴史を考えようという動きが広がっているが、この「四つの口」を活性し相互に繋いでいた北前船は、しかるべく位置付けられていない。この二点を含め、北前船を、より広い観点から見直すならば、それが、世界史の問題として議論すべきであることが、理解されてくるはずである。

1. 日本海の海路

 北前船の起源は難しい。牧野は、北国と大坂を結ぶ輸送路と、北国と蝦夷地を結ぶものとを分けて考え、その両者を近江商人が結び付けて、北前船が登場したと見ている(牧野、2005、19頁以下)。

(1) 北国と大坂―西廻り航路

 日本海における船による海路は、すでに7-8世紀には見られたようで、米など貢納物を越後、越中、能登、加賀から敦賀や小浜に船で運び、そこから陸路―琵琶湖―陸路を経て京に運ぶルートができていた。しかし、北国から下関を経て瀬戸内に至る船のルートは、長らく開かれなかった。開かれたのは、江戸時代になってからであった。1639年(寛永16年)に加賀藩主前田利常が下関経由の船で年貢米を大坂に送ったのがきっかけと言われる。これ以後、下関経由の廻米船が発展した。とくに、すでに幕府の依頼で東北から江戸までの「東回り航路」を開拓していた河村瑞賢が、同じく幕府の意向を受けて、1672年(寛文12年)に酒田から下関を通り大坂へ向かう「西廻り航路」を整備したことによって確立した。しかし、牧野によれば、ここに「北前船」が始まったのではなかった。それは藩の雇船で藩の荷物である年貢米を運んだのであり、民間の商人の廻船ではなかったからである(牧野、2005、23頁)。

(2) 北国と蝦夷地

 一方、北国と蝦夷地を結ぶ航路はどうか。北国と蝦夷地を結ぶ海上交通は、中世から見られた。蝦夷は昆布などの産地として、敦賀や小浜を経て、京に繋がっていた。昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行きかうようになったのは鎌倉時代中期以降であるという。室町時代に入ると、蝦夷地から越前国の敦賀まで船で運ばれ、そこから陸路と琵琶湖を通って京都・大阪まで送られたとされる(北海道漁連)。その室町時代の後半16世紀には、近江商人が東北から蝦夷に入っていた。そして、1604年(慶長9年)に松前氏が徳川氏によって蝦夷地の支配者として認められると、松前氏は現地のアイヌとの通商の仕事を内地から来た近江商人たちに委ねた。彼らがアイヌとの取引で内地へ送る荷を運ぶ船は、松前から敦賀ないし小浜の港を行き来し、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野、2005、41頁;淡海文化を育てる会、2001、121-127頁)。

 こうして、北国―下関―大坂という航路と、蝦夷―北国―敦賀という航路ができたが、やがて、この二つが統一されてくる。

2. 北前船―近江商人

 ほぼ宝暦―天明期(1750-1780年代)に、近江商人を介して、蝦夷方面と下関経由の大阪方面が接続され、のちに言う「北前船」が始まったと言われる(牧野、2005、25-30頁)。近江商人の資金的後押しを受けて、加賀など北陸の船乗りから船主になる者が現れ、自立的な船商売をするようになる。もはや藩の雇船でもなく、近江商人の「荷所船」でもなく、自立して商売をする船主ができたのである。かれらは蝦夷の松前―北陸―下関―瀬戸内海―大坂を結ぶルートで活躍することになる。

 これは、まもなく江戸にもつながり、松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路となり、これは、それ以前に拓かれていた松前から津軽海峡と三陸沖を経て江戸に至る東回り航路と対比されて、西回り航路と呼ばれた。こうして、北前船は二つの航路を持つことになった。ただし、東回り航路は航行が難しく、危険なルートであった。それは、松前から出て、津軽海峡と房総半島という難所を通らねばならなかった。とくに黒潮と偏西風のゆえに東周りは難しかった(牧野、2005,45頁)。それでも重要ではあった(加藤、2003、54-56頁)。

 北前船は単なる輸送船ではなかった。港港で商品を売買して行ったのである。大体は大坂で「冬囲い」をし、春に大坂を出て、北陸、東北、蝦夷へ「下」った。そして、秋に蝦夷を出て「上」った(読売新聞、1997,84頁)。

 「下り」では、大坂を始め瀬戸内海沿岸の港から、綿布、塩、鉄などを買って、北陸や蝦夷へ運んで高く売り払った。北陸からは、米や筵などを買い込んで、蝦夷で売った。「上り」では、蝦夷からニシンや昆布や木材を買い込んで、北陸などの港や大坂方面で売りさばいた。また途中の北陸の港からは米、衣料、雑貨を買い込んで、大坂方面へ輸送し、そこで換金した。儲けた現金は大坂の商社に預けた。ニシンは〆粕として肥料となった。ニシンは富山などの米を増産し(読売新聞、1997,70-71頁)、大阪の綿花生産はニシンの肥料で増産(読売新聞、1997,85-86頁)した。昆布は富山や大坂で大量消費された。こういう北前船のバイバイ活動が重要であった。

 18世紀中頃には北陸に自立した北前船の船主たちが現れ、かれらの盛期は、江戸後期から明治の前半であった。そうした船主は日本海側を中心に各地の豪商として現れた。

3. 長崎と琉球

 だが、北前船がつなぐ地域はこれにとどまらなかった。松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路と並行して、松前―北陸―長崎―薩摩という航路ができ上った。これはとくに昆布と関連して発達した(昆布ロード)。江戸後期に入ると、昆布を長崎や薩摩へ運び、中国の物産を持ち帰るようになるのである。

 先ず、北前船は長崎まで行くようになった。そこで中国との公認の交易をした。長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。

 次いで北前船は、薩摩まで行った。薩摩は琉球と中国の進貢貿易に乗じて中国と貿易を行っていた。それは幕府の黙認の貿易であった。当初は、北前船が蝦夷の昆布など海産物を大坂に運び、そこで薩摩の商人が買い付けていたが、やがて、北前船が直接薩摩に運び、そして琉球において、中国との貿易が行われた。これは幕府の公認の長崎貿易と競合するので、幕府と長崎は絶えず監視の目を光らせていた。

 こうして、蝦夷地―松前―北陸―瀬戸内海―大坂―江戸という航路と、蝦夷地―松前―北陸―長崎―薩摩―琉球(-中国)という航路ができあがったのである。じつは、蝦夷地から先も、樺太から満洲へ行くルートと、千島からカムチャツカへ行くルートがあった。ここに北前船は初期的な意味で「世界史の中の北前船」となった。つまり、北は樺太・千島、南は琉球(-中国)へと繋がることになったのである。その重要な物産が昆布であった。いいかえれば、世界に広がる昆布ロードができたのである。

 この昆布ロードは、日本史で言うところの「四つの口」(松前、対馬、長崎、琉球)を活かしつつ、それらを結ぶルートになっていた。これは追い追い検討していくことにしたい。

参考文献
北海道漁連 https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部、1997年
淡海文化を育てる会『近江商人と北前船』サンライズ出版、2001年
加藤貞仁 『海の総合商社 北前船』 無明舍出版、2003年
牧野隆信 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年(初版1989年)
北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓 富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会、2006年

(「世界史の眼」No.52)

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「世界史の眼」No.51(2024年6月)

今号では、千葉大学の米村千代さんに、昨年刊行のメアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー(三時眞貴子訳)『家族の世界史』(ミネルヴァ書房)を書評して頂きました。また、前号に続きパトリック・マニングさんの論考「国連改革の動き」(南塚信吾訳)を掲載しています。

米村千代
『家族の世界史』(メアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー著、三時眞貴子訳、ミネルヴァ書房、2023年)書評

パトリック・マニング(南塚信吾訳)
国連改革の動き

『家族の世界史』の出版社による紹介ページは、こちらです。また、パトリック・マニング氏のウェブサイトContending Voicesは、こちらです。

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『家族の世界史』(メアリー・ジョー・メインズ、アン・ウォルトナー著、三時眞貴子訳、ミネルヴァ書房、2023年)書評
米村千代

 「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」(1頁)。著者によれば本書の目的はこの疑問に答えることにある。家族史研究は、時代や地域による個別性や多様性、いわば小さな物語を描き出すことに重点の一つがあったといえるだろう。もちろん家族史といっても研究の幅があり、一言でその特徴を述べることはできないが、少なくない研究は、人々の日常生活に焦点を当てた個別の歴史を描き出すことを重視してきたといえる。比較的大きな物語を描く場合でも、ヨーロッパのある社会層を対象とするなど、世界全体を対象とする研究ではなかった。そうした家族史研究のなかで一時代の日本の家族を研究してきた評者にとって、本書を最初に手にしたときの関心は、どのように一つの流れで「家族の世界史」を描くことができるのかという点にあった。本書は、文字通り家族の世界史を1冊にまとめた稀有な書であり、紀元前一万年以降の家族を、時間的・空間的多様性にも目を配り対象とするものである。家族の世界史がどのように描かれているのかを読み解いていくために、まずは、本書の全体像を目次から概観することから始めたい。章構成は以下のとおりである。

序章 ディープ・ヒストリーとしての家族史
第1章 家族生活と人生の起源-紀元前500年まで
第2章 神の誕生-宗教登場後の家族(西暦1000年まで)
第3章 支配者家族-政治の黎明期における家族のつながり(紀元前約3000年~1450年)
第4章 近世の家族-1400~1750年
第5章 グローバル市場における家族-1600年~1850年
第6章 革命期の家族-1750年~1920年
第7章 生と死の力―国家による人口管理政策時代の家族(1880年~現在)
終章  家族の未来

 次に、序章に記されている本書の視点を確認しよう。序章冒頭において、家族は歴史的に構築されてきた制度であり、自然に生み出されたものではないこと、「家族はそれ自体が歴史を持つと同時に、歴史を作り出してきた」ことを出発点にするとある(1頁)。家族史のすべてを網羅しようとするものではなく、冒頭に紹介したように「家族を物語の中心に据えたときに、世界史はどのように見えるのか」という疑問に答えることが目的であるという。そしてその方法を著者は二つあげる。一つは、「家族それ自体と、家族の時代的、空間的な多様性に焦点を当てる方法」であり、もう一つは、「これらの家族生活が時代とともにどのように変化してきたのか、それぞれの文化が家族生活を営むために独自の方法をどのようにして 見出してきたかについて探求する方法」(1-2頁)である。続いて、家族の定義(「家族は、結婚や類似のパートナーシップ、血統、そして/あるいは養子縁組による文化的に認識された紐帯で結びつけられた人々からなり、多くの場合、一定期間、同じ世帯を構成する小集団」(4頁))を行い、ディープ・ヒストリー/深層史(いわゆる先史の時代から現代までの長期的な展開を、人間の行動や文化の相互作用から読み解くもの)として家族史を位置付ける。

 目次からわかるように、章は時間とテーマに基づいて論じられているため、各章は時間軸として完全に独立しているわけではない。各章において複数の地域が取り上げられ、とりわけ後半においては、それらの地域の歴史は個別に取り上げられるのではなく、相互の影響関係において論じられる。紀元前500年までを対象とした第1章では、人類の起源あるいは初期の文明における女性の重要性に一つのポイントがおかれ、初期の家族生活とジェンダー分業に多様性があったことが指摘されている。第2章が西暦1000年までの家族であり、宗教と家族の関係がテーマとなる。ここから次章へとつながる流れのなかで家父長制が登場する。第3章は、主に古代君主制が取り上げられていて、父系制社会を主な対象としながらも、君主制を持たない地域も考察に含まれる。いずれの地域においても政治と家族関係の結びつき、特に支配者家族との結びつきが時代の特徴として取り上げられていて、この章の主要なテーマとなっている。続く第4章は近世社会がテーマで、アメリカ大陸という「新世界」と「旧世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)」との接触から章が始まり、グローバルな家族史の視点がより直接的な題材となっている。この「接触」は、著者の言葉を借りれば「〔無関係な者同士の出会いではなく〕ある種の再会」であり、近世社会の「遭遇」は「人間とは何かについての新しい疑問」(94頁)を提起するものであった。たとえば、征服者は、その手段として被征服者の家族生活へと介入し、結婚を許さない形で被征服者が家族の絆を形成することを阻止しようとした。他方、別の場所では、同盟関係を結ぶための結婚や相続という対照的な戦略もとられた。近世ヨーロッパによる海洋進出と植民地獲得には、在地の宗教との葛藤やキリスト教への改宗という新しい緊張もはらんでおり、宗教もまた本書を貫く重要なモチーフの一つとなっている。第5章は表題の通りグローバル化する市場における家族関係がテーマである。親族による商業ネットワークの形成、混合婚、奴隷制、小農経営が取り上げられている。本書は、一つの国や地域の歴史を個別に論じるのではなく、「接触」や「遭遇」によってもたらされる社会や家族の相互関係と変容を描くことによって全体が構成されている。第5章はこうした本書の筆致が最もよくあらわれている章であるといえよう。第6章は「経済と政治の二重の革命」の家族生活への影響がテーマで、イギリスの産業革命、フランス革命、中国革命が取り上げられている。革命というテーマの下で、階層、ジェンダー、世代の問題が、他の章と同様に、やはり世界史的な観点から論じられる。第7章の主題は人口である。人口政策としての家族政策が、一方で、子育て支援や社会保障などの福祉政策を推進する方向性を持った一方で、植民地支配や優生政策として大量虐殺を引き起こした。著者は本章の末尾を「20世紀末までに、家族は事実上、すべての地域と国家で政治化されたのであった」(210頁)としめくくる。最終章は、歴史を通して未来を語る章となっている。

 空間と時間が交錯する歴史を家族という視点から見たときに、「生と死の力」というテーマは、今もなお、家族研究が重い課題を背負っていることを改めて思い出させてくれる。今日、家族は、多様化、個人化という文脈のもとに論じられる傾向にあるが、「政治化」という視点は依然有効であり、家族にはたらくさまざまな力を長い時間軸や広い空間的視野において絶えず捉えなおすことは、わたしたちに新しい気づきをもたらしてくれるだろう。

 なお、「訳者あとがき」には、11頁にわたる丁寧な解説があり、家族史を今日的な視点に接合するための示唆に富んでいることもあわせて紹介しておきたい。

(「世界史の眼」No.51)

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国連改革の動き
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 先月、P.Manning(パトリック・マニング)が、かれのホームページContending Voicesに出した、USの政策を批判し国連の力の増大に注目する見解Who rules the world today? を紹介した。今月は、それに続いてかれが同じくContending Voicesに発表したThe Campaign for UN Reform(Mar. 3, 2024)を翻訳して紹介したい。もとはアフリカ史を研究していたマニングは、アフリカを中心とする途上国の動きをよく見ているようである。世界的に多数の諸国の動きとして、国連改革の動きは無視できないもののようにも思える。国際的に圧倒的多数の国々の批判を無視してガザのパレスチナ人ジェノサイドを続けるイスラエルと米国、これを許す国際秩序はじょじょに昔のものになりつつあるかもしれない。マニングの大局的な見方を参考にしていただきたい。(南塚)

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 国連の「未来サミット」が2024年9月にニューヨークで開かれるはずである。この会議は、国連の改組に焦点を当てたもので、国連事務総長アントニオ・グテーレスの支援を受けて、数年前から計画されてきたものである。このサミットの声明は、季候の持続可能な発展目標と社会的平等に焦点を当てることになっているが、サミットは長い間求められてきた安保理事会の改革の機会だとますます見られるようになってきている。

1. 国連安保理改革の呼びかけ

 国連の最高執行機関である安全保障理事会は、常任理事国5か国、非常任理事国10か国から成る。5か国はいかなる決議にも拒否権を持つ。この拒否権を使って、米国、英国、仏国は長らく他国の影響力を制限してきた。中国とロシアも常任国ではあるが、安保理にもっと多くの国を加えることを妨げ、グローバルなバランスを阻害してきたのは、米国と英国である。

 1992年にロシアがソ連の崩壊を受けて常任理事国となった時から、安保理の拒否権を見直そうという関心が高まってきている。2015年に、フランスとメキシコが、「大量虐殺」の場合は安保理の常任理事国は拒否権を行使しないことにしようという提案をした。2022年4月には、国連総会は、安保理におけるすべての拒否権を主題にして討議するよう命令を出した。

 もっと近いところでは、2022年10月に、ウクライナでの平和に関する決議にロシアが拒否権を使ったところから、安保理の改革がいっそう緊急の問題となった。(カーネギー国際平和基金の2023年6月のコロキウムでは多くの国から深刻な懸念が示された。)そして、ガザでの戦争が始まった後は、米国が、2023年の10月と12月に3回にわたって戦闘停止の決議に拒否権を使い、そのことが安保理の改革をより強く呼びかけることになった。

安保理に理事国を追加するという事は、強力な候補国の中から選ぶことを必要とする。現在の非常任理事国は選出されているわけであるが、それは世界の5つの地域からそれぞれ2か国ずつ選ばれていて、任期は2年である。そこで、さらに5か国の常任理事国と5か国の非常任理事国を選んで、25か国構成にするということが考えられる。常任理事国5か国には、アジアからインドと日本、西ヨーロッパからドイツ、東ヨーロッパからポーランド、ラテンアメリカおよびカリブ地域からブラジルとメキシコ、アフリカからはエジプト、ナイジェリア、南アフリカが候補として考えられる。

2. 今から9月までのキャンペイン

 2024年3月現在、イスラエルーハマス戦争に関連するいくつかの動きによって、国連の運営をめぐる争いがいっそう激しくなっている。第一の動きは、現在進行中の争いそのもので、2月2日に、米国はガザでの停戦決議にまたもや拒否権を発動した。(この拒否権についての国連総会での討論は3月4日に予定された)。

 第二の動きは、イスラエルに対するジェノサイド告訴に関する1月26日の国連司法裁判所の命令である。司法裁判所はできうる限りで最も強い命令を出して、イスラエルにすべての殺害をやめ、人道援助への干渉をすべてやめるよう要求した。それでも、裁判所は執行機関ではなく、安保理事会のみがこの命令の順守を強制できるのであり、米国はそういう行動には拒否権を使う用意をしている。

 最後に、司法裁判所はイスラエルによるパレスチナ占領は非合法であるか否かについて判断を下すように求める国連総会の要請に答えていた。2月19日の週に50か国以上が裁判所に意見を述べたが、その90%が占領は非合法であると述べていた。

このあと二つのデッドラインがこの先に待っている。一つは、3月10日で、ラマダンの開始の日である。イスラエルは、ハマスが人質をすべて解放しない限り、この日にガザの人口密集したラファ地区への全面攻撃を開始すると約束している米国主導の交渉は成功の見込みはほとんどない。ハマスもイスラエルがガザから撤退しない限り、同意しないという。さらに、ハマスはパレスチナの独立を主張するのに、イスラエルはパレスチナ国家を認めることを拒否している。そして、米国を始め他の8つの富裕国は、UNRWA救済機関への拠出を停止している。米国のバイデン大統領は一方でさらなる武器輸送を計画し、他方で停戦を呼び掛けている。3月には、停戦がなるだろうか、あるいはラファへの壊滅的な攻撃があるだろうか。あるいはその両方だろうか。

 二つ目のデッドラインは9月18日である。これは「未来サミット」の開会の日で、そこでの議論では国連改革が中心となるであろう。きっと大多数の国が、常任国と非常任国を降らして安保理事会を拡大すること、ならびに常任理事国の拒否権を廃止ないしは制限することを求めるであろう。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、島嶼諸国はほとんど一致して安保理改革を支持するであろうーもちろん言うまでもなくガザでの停戦も。一方、ヨーロッパの諸国は、ガザと安保理改革の双方について、意見が分かれるであろう。

 安保理改革のキャンペインは勢いを増している。ガザの停戦および安保理改革の両方を目指して外交活動を最も活発に行っている国々は、南ア、トルコ、ブラジル、アルジェリア、エジプト、スペイン、ベルギー、アイルランドである。アラブ連盟とアフリカ連合は団体として立場を明らかにした。ロシアと中国は、ともに拒否権を失うかも知れないが、このキャンペインを静かに支持し続けている。概して、安保理の構成国の大多数はしっかりと改革支持の立場である。現在の国連総会議長であるトリニダードのデニス・フランシスもかれの2023-24年の任期中ずっと改革を積極的に支持してきた。そして、アフリカから出るであろうかれの後任も、同じ政策を採りそうである。

 改革のキャンペインの原動力になっているのは、安保理の議長自身である。議長は構成国の中で毎月輪番で交代する。2024年の1月と2月の議長はそれぞれフランスとガイアナであった。3月から10月までの議長に選ばれているのは、順番に、日本、マルタ、モザンビーク、韓国、ロシア、シエラ・レオネ、スロヴェニア、スイスである。このすべてが改革支持派である(ロシアとスイスをも含んで)。しかし、9月のサミットが安保理の改革に動いたとしても、最後に2024年中に行われる二つの大統領・首相選挙を乗り越えねば、変化は起らないであろう。それは英国と米国の選挙である。

 安保理改革への支持は国連自身に限られてはいない。中東における旧来の敵対関係が解消しつつある。とくに、トルコとエジプトの関係であるが、サウジアラビアとイランの関係もそうである。ブラジルのルラ・ダシルバ大統領は、アラブ連盟のカイロ会議とアフリカ連合のアジスアベバ会議で、ガザおよび国連改革に言及した。かれは翌日、ブラジルに戻って、リオでのG20の外相会議を主宰し司会を務めた。ここには、米国のアントニー・ブリンケン国務長官も来ていた。この会議で、G20の外相たちは、ガザでの停戦を呼び掛けた。1年前には、この反対に、かれらはウクライナで対ロシア戦争の継続を求める米国起草の呼びかけを発していたのである。

3. キャンペインのありうべき帰結

 国連改革は、実際遅くとも9月の「未来サミット」において山場を迎えるのではないか。安保理の構成の変化の議論が具体的に起こるたびに(実際に起こったときには)、それは激しいものになり、激論さえ起こっている。改革を提案する側は、5大国の拒否権にも拘わらず改革を実現するための道を見出す必要がある。結局は、国連憲章をほんの少し変えるだけで済むはずだが、そのような変更を行い批准するには、国連組織の原則と手続きに基本的な転換が求められるであろう。

 もし、拒否権を縮小ないしは廃止し、安保理に新たな国を加えるといった国連改革が進むならば、安保理と総会と事務総長の間で協力して、パレスチナに国家を打ち立て、ジェノサイドとパレスチナの地位についての国際司法裁判所の命令を実行し、ウクライナ問題に取り組むことができるかもしれない。そのような協力があったとしても、パレスチナやウクライナの問題、さらに中国の領土要求についても、実際の解決は、スムーズには進まないかもしれない。しかし、それらは、根本的に違った世界秩序の中で取り組まれることになるのである。

 一方、若しこの国連改革が失敗するならば、拒否権はそのまま残るだろう。そして米国は軍事力と組織的支配力をもって、グローバルな覇権を維持しようとし続けるだろう。たとえ、他の国からの支持がほとんどなくてもである。最悪の場合には、ガザやウクライナやその他の場所でもっと死者が出るであろう。そしてそのあとには、何年も国連の行き詰まり、国連の政策に一国主義が広がるであろう。これはすべて将来の国連改革のための運動を再開するのに反する事になるだろう。この場合には、米国は多分国連を脱退することを決めるのではないだろうか。それは国連にとっても米国にとっても破滅的なことである。大国の拒否権のない国連は先例のない事ではない。他の大国は、「普通の国」としての地位になることの教訓を学んでおかねばならない。時とともに、これら諸国は皆、世界の共同体の中で協力し合う市民となることを学ぶことになるのである。米国はそれに続くであろうか。

(「世界史の眼」No.51)

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「世界史の眼」No.50(2024年5月)

今号では、稲野強さんに、「くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―」を寄稿して頂きました。また、パトリック・マニングさんの論考「今日、世界を支配するのはだれか」(南塚信吾訳)を掲載しています。

稲野強
くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―

パトリック・マニング(南塚信吾訳)
今日、世界を支配するのはだれか

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