パトリック・マニング氏の名前は、世界史研究所にとっては馴染み深い。近年世界史研究を牽引してきたマニング氏は、アジア世界史学会を強力に支える力となってきたし、氏の著作『世界史をナビゲートする――地球大の歴史を求めて』は世界史研究所の南塚信吾所長と渡邊昭子さんによって邦訳され、2016年に刊行された。同書の紹介は、旧世界史研究所ニューズレターの第27号で木村英明氏によって行われている。
そのマニング氏による壮大な世界史の鳥瞰図が、ここに紹介する『人類の歴史』である。『世界史をナビゲートする』において、世界史に迫る上でのさまざまな切り口や方法を論じた氏が、その豊かな素養(大学では自然科学を学び、研究者としてはアフリカ史、経済史を専門とし、さらに人類学、人口学、言語学なども修めたという)を生かしながら、自らの世界史像を提示した成果が本書である。以下、本書の議論をごくかいつまんだ形で紹介してみたい。
本書執筆に当たっての著者の動機はきわめて鮮明である。現在人類は、環境の劣化、社会的・経済的不平等という、自然との関係、社会関係での危機に直面しているばかりでなく、それに対応していくための知の不足という文化的な危機をも抱えている。こうした三つのレベル(生物学的、社会的、文化的)での危機を乗り越えていくためには、人類がシステムとして過去にどのような変化を経験してきたかを問う必要がある、というところから人類史への著者の問いかけが始まるのである。ここでいう人類システムとは、環境との間での物質のやりとりを行う開かれたシステムであり、外的・内的影響力によって変化する歴史的・適応的システムである。『世界史をナビゲートする』においてマニング氏はルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの開放システム論を紹介しながらも、歴史家によるその適用はこれまで大きな成功を収めていないと述べていたが、本書では自らその枠組みを分析の基本に据えているのである。
本書での議論の対象となる時代は、7万年前からである。第1章で問題意識や方法を述べた後、第2章では400万年前から7万年前までを取り上げているが、それは第3章以降の前提となっている。7万年前頃に急な変化が生じ、人類システムが始まるのである。その変化とは、言語(speech)の獲得である。他人とのコミュニケーションを可能にするシンタックスをもった言語は、人類にとっての最初の社会制度(social institution)であったと著者は言う。言語を共にする共同体の形成、さらにそうした人々の移動によって、それ以降の人類史は進んでいくことになる。その際、著者が重視するのは、特定の目的のために人々が形成する制度(institution)であり、またそうした制度を伴う人の移動(migration)である。
変化の時代(7万年前~6万5千年前)を扱う第3章に続いて、第4章以降は次のように時期区分されている。
第4章(6万5千年前~2万5千年前:アフリカから現在のジャワ島方面やオーストラリア方面への人類の移動、言語をもつ共同体の拡大)
第5章(2万5千年前~1万2千年前:寒冷化の時代を経た後に移動範囲の拡大、アメリカ大陸へも人類の移動、生産活動の拡大とそのための共同作業の場workshopの形成)
第6章(1万2千年前~1千年前)これはさらに次の3期に分けられる。
① 1万2千年前~6千年前:農業、牧畜の展開、居住制度(town)の発達
② 6千年前~3千年前:宗教をも含むさまざまな共同作業の場の発展、大規模な移動
③ 3千年前~1千年前:諸制度(通貨、教育、軍隊、水利、宗教、帝国)の発達
第7章(1000CE~1600CE:移動に伴う病原菌の拡大、戦争などで人類システムは衝突・収縮、宗教でも亀裂など)
第8章(1600CE~1800CE:人類システムは成長軌道に復帰、商業の発達、植民地拡大、資本主義とそれに基づく帝国の拡大)
第9章(1800CE~現在:環境、社会・経済の現在の危機への道、脱植民地化)
こうして現在までの人類システムの変化が論じられた後、第10章においては、同じく1800年以降の時期に即して、三つの世界的なネットワークが広がってきたことの意味が強調される。いずれも世界にひろがる、民衆文化、知、民主主義的言説という三つのネットワークである。その際著者が第9章に続いて脱植民地化の意味を改めて強調し、人類システムの主体としてかつて植民地支配の下にあった人々の役割を重視していることに注目したい。
人類の歴史をこのようにたどってきた上で、著者は最後のところで、①成長は人類システムに必要か?②社会的不平等は人類システムに必要な側面か?③社会制度の作動はどのような形で統制されるべきか?という問いを読者に投げかけて本書を終える。著者は人類の将来についての予想を明言しているわけではないが、そうした問いに答え、本書執筆の前提となった現在の危機を克服していくための戦略を考えていく上で、本書のような形で人類システムの「進化」の様相を検討するといった知的営為が積極的な意味をもっていることが、本書からの強いメッセージとなっているのである。
(「世界史の眼」No.5)