伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留(責任編集)『世界哲学史4 中世Ⅱ 個人の覚醒』ちくま新書、2020年
薩摩秀登

 シリーズ第4巻は主に13世紀が対象となる。この時期設定は明らかに西欧における哲学の展開を念頭に置いており、実際、全10章のうち6章が、アリストテレス哲学の全面的導入によって本格的に開花した西欧中世スコラ哲学にあてられている。それ以外ではアラビア哲学と中世ユダヤ哲学に1章ずつ割かれるが、こちらでは西欧に先駆けてアラビア語訳を通してアリストテレス哲学が導入されたことによる新たな思想的展開が論じられている。というわけで本書の主役はアリストテレスということになるかもしれない。古代ギリシアの学知の頂点が、千数百年にわたる時を隔ててユダヤ教、キリスト教、イスラームという一神教に取り入れられた時、そこに大きな揺さぶりをかけ、神についてあるいは世界の認識について深い議論を喚起し、新しい知的世界を切り開いていく様子を楽しみながら読み進めることができる。それ以外は中国の朱子学と日本の鎌倉仏教にそれぞれ1章があてられる。さすがにこちらは「アリストテレスの枠組みが適用できるような付置にはなっていない」(本書あとがき)。しかし評者の素朴な感想を述べさせていただくならば、心のあり方に関する朱子学の議論はどこかトマス・アクィナスの倫理学を思い起こさせる。そして日本の鎌倉仏教には、同時代の西欧におけるキリスト教の新たな展開に通じる性格があることはしばしば指摘される。以下、各章の内容にもう少し詳しく触れてみよう。

 第1章「都市の発達と個人の覚醒」(山内志朗)は、13世紀西欧におけるスコラ哲学隆盛の背景としての、都市の発達、商業の成長、教育と大学の発達、托鉢修道会の成功などを論じる。第2章「トマス・アクィナスと托鉢修道会」(山口雅広)は、知識人の活動舞台が人里離れた修道院から都市へと移り、特に市民の宗教的要求に答える托鉢修道会から登場した、当時を代表する神学者たちの動向をたどる。スコラ哲学と言えばあまりに有名な普遍論争に関しては、第1章および第3章「西洋中世における存在と本質」(本間裕之)そして第7章「西洋中世哲学の総括としての唯名論」(辻内宣博)の3章が主に論じている。実在論と唯名論の対立にあまりこだわるべきではなく、普遍と個体に関する議論の枠組みの違いに注目し、その連続性を考えた方が論争の意味が見えてくるという説明は新鮮である(第1章)。唯名論によって概念やことばの用法といった知性における構造が実在の世界から切り離されたことで、形而上学から独立した論理学が展開していく(第3章)。また、感覚や認識の出発点を心の中に置く唯名論は観念論的世界観に通じる一方で、近年の生態系中心主義や共同体論は実在論と相性がよいという指摘は、スコラ哲学が決して遠い過去の思想ではないことを教えてくれる(第7章)。このほか第6章「西洋中世の認識論」(藤本温)は、「感覚は事物をまるごと受け入れるのではなく、質料なしに形相を受け入れる」というアリストテレスの議論を出発点に、スコラ哲学者たちの感覚論や認識論の展開をたどっている。第5章「トマス情念論による伝統の理論化」(松根伸治)は中世西欧の倫理学がテーマである。スコラ哲学といえばひたすら晦渋な議論を想像しがちだが、人間のあらゆる情念の出発点には愛があるとトマス・アクィナスが説いていたとことを知れば、西洋中世世界のイメージも少々違ったものになってくる。

 西欧以外に関して、まず第4章「アラビア哲学とイスラーム」(小村優太)によれば、9世紀以降、ギリシア哲学とイスラーム神学の融和が大きく進んだ。アヴィセンナは存在と本質を区分した存在論を論じ、また神学者ガザーリーは哲学を批判しつつも、現実としては神学が哲学を取り入れていく道を開いた。第10章「中世ユダヤ哲学」(志田雅宏)は、中世ユダヤ教世界の知識人たちもまた、アラビア語を媒介として古代ギリシア哲学に関心を示していたことを教えてくれる。神の存在証明を試み、「第一原因」としての神概念を考察したマイモニデスはその頂点に位置する。

 第8章「朱子学」(垣内景子)は、主体性としての「心」をいかに保持するかに関する朱熹の議論をわかりやすく解説してくれる。朱子学は「理」の根拠を儒教の経書に求めたが、そのような典拠を持たない我々は安心して生きていくことはできないのか、話は現代へとつながる。第9章「鎌倉時代の仏教」(蓑輪顕量)によれば、伝統ある顕密系の学侶たちは様々な経綸の整合的理解をめざして議論を戦わせ、浄土系の思想家たちは凡夫の救済に心を悩ませ、禅宗もまた「戯論の働きを起さないように心を変えさせていく」方法を窮めようとした。

 本書を読めば、中世の真っ只中というべきこの時代が、人間と世界に関するいかに豊かな考察に満ち溢れていたか、実感することができるだろう。(文中敬称略)

(「世界史の眼」No.15)

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