伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留(責任編集)『世界哲学史3 中世Ⅰ 超越と普遍に向けて』ちくま新書、2020年
薩摩秀登

 本書は、世界史的な視野のもとで普遍的・多元的な哲学の営みを全8巻(および別巻1)で展望するシリーズの第3巻である。このような試みを前にすれば、哲学という言葉自体がどのような意味であったかとふと考えてしまう。古代ギリシアに生まれ、長い道筋をたどって近代西欧に引き継がれたものが哲学であろうか、それとも世界各地で独自の哲学が展開したのであろうか。今でも哲学書と言えば、ヨーロッパの古典語や近代語で書かれた膨大な著作を想像しがちである。しかし本書の第1章では「「哲学」という語はギリシア起源であっても、その思考は世界至る所にある。西洋にしか哲学を認めないのは、哲学に対して偏狭すぎる」と明快に表明されている。

 この巻の対象はほぼ7世紀から12世紀であり、すでに古代文明の時代ではない。しかし世界を一つのシステムに吸収していく傾向が現れるのはまだ先である。西欧では中世の社会と文化が少しずつ形を整え始める。ビザンツ帝国やイスラーム帝国はこの時期に頂点を迎えており、隋・唐の世界帝国や北宋もこの範囲にほぼ収まる。本書はこうした時期における各地固有の世界観、世界認識の流れをたどっており、いわば同時進行的に、全く異なった文明のもとで、人間と世界に関して根底において通じ合う思考が展開されていたことを見通せる構成になっている。

 評者自身は哲学を正式に学んだことはないし、仮に「入門」程度を試みたにしてもただちに挫折した経験しかない。以下はそうした評者でも可能な範囲での紹介にとどまることを前もってご承知願えればと思う。

 第1章「普遍と超越への知」(山内志朗)は、この巻が対象とする時代を中世の前半部分と位置づけ、これを古典古代の文化が独自の展開を見せ始めた時代、文化が特定の地域に内閉せずに交流を始めた時代と性格づける。第2章「東方神学の系譜」(袴田玲)では中世ギリシア人の国ビザンツ帝国が舞台となり、東方神学の中にも実はギリシア哲学の用語や概念が潜んでいること、とはいえ東方神学の特質を最もよく示すのはヘシュカスムに代表される神秘主義的世界観であることが論じられる。以下、4つの章が、神学をすべての基礎としていた中世西欧において古典古代の学問がいかに取り入れられたかを論じている。第3章「教父哲学と修道院」(山崎裕子)は、「私は信じるために理解することは望まず、理解するために信じている」と述べたカンタベリーのアンセルムスから、「哲学とはすべての人間的神的事物の根拠を徹底的に探究する学問分野である」と述べたサン・ヴィクトルのフーゴーへ、時代の大きな転換を跡づける。第4章「存在の問題と中世論理学」(永嶋哲也)によれば、古代ローマ人によるラテン語訳でアリストテレスの思想を引き継いだ人たちにとって、その論理学は「神の真理に達する道が示されているかもしれないが、迷宮に導くかもしれない「地図」のようなもの」でもあった。第5章「自由学芸と文法学」(関沢和泉)は、自由学芸が人間の不完全性を補うために必要な学問と認識され始め、中でも文法学は諸学問の起点であり基盤であるとみなされたことを示す。さらに第7章「ギリシア哲学の伝統と継承」(周藤多紀)は西洋中世哲学の主要なスタイルである「註解」に注目し、これが権威への単なる盲従ではなく、観察や経験に基づき、自分が知りえた概念装置を駆使してテクストを分析し、その可能性を引き出す創造的な試みであったことを論じている。

 西洋以外で人々はいかに人間と世界を見つめてきたか、4つの章がいくつかの断面を示している。第6章「イスラームにおける正統と異端」(菊地達也)によれば、シーア派の一派イスマーイール派は独自の宇宙論・創世神話を発展させ、10世紀からは新プラトン主義哲学も導入された。これは異端視される可能性もあったが、イスラーム世界では正統と異端の区分線自体がもともと明確ではなかった。第8章「仏教・道教・儒教」(志野好伸)は、中国の人々が初めて遭遇した高度な外来思想である仏教と、古来の思想である儒教や道教との間で、精神や霊魂、心の構造、「孝」の実践などをめぐって展開した哲学的議論をたどる。第9章「インドの形而上学」(片岡啓)は、仏教とバラモン教双方の最先端の思想家たちが繰り広げた、認識論、存在論、意味論、論理学などに関する深遠な論争を紹介している。第10章「日本密教の世界観」(阿部龍一)は、密教的世界観をもとに平安朝宮廷の基本的方向性を示した空海について論じる。『大日経』のテクストの文字に無限の意味を読み取り、言葉と物との間に同時発生的関係を見出す空海の思想は、現代の言語学にも通じる。

 中世前半と言われれば停滞の時代を想像しがちだが、世界各地で古代の思想が引き継がれ、独創的かつ多彩な展開を見せていた姿が本書を通じて浮かび上がってくる。(文中敬称略)

(「世界史の眼」No.15)

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