本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。
読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。
議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。
本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。
こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。
ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。
全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。
気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。
(「世界史の眼」No.29)