はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、本号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、次号掲載)
はじめに
1945年8月、アジア・太平洋戦争における日本の敗北が決定し、アメリカ軍を中心とする連合国軍が日本を占領すると、ただちに戦争犯罪人の追及が始まった。その際、戦争犯罪は次の3種類に分けられた。A「平和に対する罪」、B「通例の戦争犯罪」、C「人道に対する罪」。このうち、Aの罪に問われた者たち(A級戦犯)は極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で裁かれ、最終的には東条英機など7人に死刑、16人に終身刑、2人に有期刑の判決が下された(死刑囚7人に対してはスガモ・プリズンで刑が執行されたが、その他の人びとは、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効した後、釈放されていった)。
他方、BあるいはCの戦争犯罪に問われた者たち(BC級戦犯)に対しては、東南アジア、南太平洋、中国など日本軍が侵略した各地で、戦勝諸国による軍事裁判が行われた。アメリカ軍裁判(横浜、マニラなど5カ所)、イギリス軍裁判(シンガポール、クアラルンプールなど11カ所)、オーストラリア軍裁判(シンガポール、ラバウルなど9カ所)、オランダ軍裁判(バタビア〔ジャカルタ〕、マカッサルなど12カ所)、中国(国民政府)軍裁判(北京、上海など10カ所)、その他2カ所、合計49カ所の軍事法廷でBC級戦犯裁判が行われた(BC級戦犯裁判地の地理的分布については、図1参照)。それらの裁判における最終的な判決をまとめたのが表1である(ただし、これには中国共産党軍やソ連軍の軍事裁判における戦犯は含まれていない)。A級戦犯の刑死者が7人だけなのに対して、BC級戦犯の刑死者の数が突出しているのが分かる。(以上の記述は田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』〔緑陰書房、2011年〕の各所による。本書は厚生省引揚援護局法務調査室『戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚』〔1954年。謄写版刷り〕の編者解説付き複写である。)
表1 裁判国別BC級戦犯数
裁判国 | 死刑 | 終身刑 | 有期刑 | 無罪 |
アメリカ | 140人 | 149人 | 872人 | 183人 |
オーストラリア | 140人 | 35人 | 392人 | 212人 |
オランダ | 226人 | 30人 | 697人 | 42人 |
イギリス | 223人 | 50人 | 494人 | 98人 |
中国(国民政府) | 149人 | 84人 | 256人 | 249人 |
フランス | 26人 | 1人 | 124人 | 30人 |
フィリピン | 17人 | 88人 | 27人 | 19人 |
計 | 921人 | 437人 | 2862人 | 833人 |
出典:田中宏巳編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293-298頁。
本稿では、これらのBC級戦犯裁判のうち、アメリカ軍による戦犯裁判、特にアメリカ海軍が南太平洋マーシャル諸島のケゼリン(クェゼリン)島とマリアナ諸島のグアム島で行ったBC級戦犯裁判に焦点を当てる。戦前、日本の国際連盟委任統治領だった「南洋群島」における日本軍の戦争犯罪はほぼすべてこの2カ所の法廷で裁かれたからである(ただし、パラオ諸島で俘虜となったイギリス・インド軍(Indian Army)兵士に対する戦犯事件はシンガポールのイギリス軍法廷で裁かれた)。
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
アメリカ軍によるBC級戦犯裁判は横浜、グアム島、ケゼリン(クェゼリン)島、マニラ、上海の5カ所で行われた。これらのうち、グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判はアメリカ海軍の管轄で、他はアメリカ陸軍の管轄であった。表2はこれらの裁判における最終的な判決をまとめたものである。
表2 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(1945~49年)
死刑 | 終身刑 | 有期刑 | 無罪 | |
横浜裁判 | 51人 | 86人 | 693人(50年~3カ月) | 143人 |
グアム裁判 | 13人 | 19人 | 69人(20年以上~5年以下) | 9人 |
ケゼリン(クェゼリン)裁判 | 1人 | 8人 | 6人(25年~10年) | 1人 |
マニラ裁判 | 69人(うち2名はスガモ・プリズンで刑執行) | 28人 | 78人(20年以上~5年以下) | 25人 |
上海裁判 | 6人 | 8人 | 26人(20年以上~5年以下) | 5人 |
計 | 140人 | 149人 | 872人 | 183人 |
出典:田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293頁。
横浜裁判は日本国内および「南朝鮮」における連合国軍俘虜の取り扱いに関わる戦争犯罪を裁いたもので、裁判件数は337件に達した(ただし、フィリピンなどから日本へ送還された戦犯容疑者を裁いたケースも含まれる)。具体的には、(1)「俘虜収容所内及労務のため派遣先で行はれた事件」、(2)「飛行機搭乗員処刑事件」、(3)「其の他の事件」。(1)では、主として日本国内および「南朝鮮」の俘虜収容所の所長や職員が戦犯容疑者とされ、労務派遣先としての三菱鉱業、住友鉱山、常磐炭鉱、宇部鉱山などの労務担当者も戦犯容疑をかけられた。これらの俘虜収容所や派遣先における俘虜の虐待や酷使が問題とされたのである。(2)は日本軍によって撃墜された米軍機の搭乗員を処刑した事件で、全国に亘るが、沖縄の石垣島海軍警備隊によって撃墜された米軍艦上攻撃機の搭乗員3人の処刑事件では、41人が死刑判決を受けるという異常な事態となった(ただし、実際に死刑を執行されたのは7人で、他は後に終身刑などに減刑)。また、「西部軍(九大)生体解剖事件」(九州帝国大学医学部における撃墜された米軍戦闘機搭乗員8人の生体解剖事件)もここに含まれている。この事件では、九州帝国大学の医師(教授、助教授、講師、研究生)を含む27人が起訴され、5人に死刑判決が下された(ただし、5人とも後に終身刑などに減刑)。
グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判は本稿の主題なので、次節以降で詳しく取り扱う。
マニラ裁判はフィリピン方面軍司令官であった山下奉文大将の裁判から始まり、裁判件数は85件であった。具体的には、(1)「日本軍の現地人並びに米軍俘虜殺害の責任 山下大将、本間〔雅晴〕中将裁判」、(2)「ゲリラ討伐時における現地人殺害」、(3)「匪団比島人の処刑」、(4)「米軍俘虜の拷問殺害」、(5)「終戦後武装農民との衝突によって生じた殺害事件」、(6)「ポート・サンチャゴ留置人窒息事件」、(7)「俘虜収容中における死亡及び虐待の責任 〔フィリピン俘虜収容所長〕洪恩翔陸軍中将」。これらの裁判の結果、山下奉文、本間雅晴、洪恩翔など69人が死刑判決を受け、67人がマニラ近郊で刑を執行された(他2名は日本送還後スガモ・プリズンで処刑)。
上海裁判の裁判件数は10件で、具体的には、(1)上海、奉天の俘虜収容所などにおける米兵俘虜虐待事件、(2)漢口における米軍飛行士殺害事件、(3)「軍律会議事件」(日本軍が軍法会議で俘虜に死刑の判決を下し、処刑した事件)。(以上の記述は、田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』25-37頁、および巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』〔1952年〕の翻刻版〔槇書房、1981年〕の各所による。巣鴨法務委員会はスガモ・プリズン〔サンフランシスコ平和条約発効後は、巣鴨刑務所〕に収容されていた既決囚が設立した組織で、極めて多数の人々の拘留中の体験記などを収集し、謄写版刷りの大冊『戦犯裁判の実相』にまとめた。活版刷りの翻刻版でもB5版〔セミB5版〕、縦2段組みで700頁という大冊である。)
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
旧日本領「南洋群島」におけるBC級戦犯事件はケゼリン(クェゼリン)島とグアム島のアメリカ海軍軍事法廷で裁かれた。これらBC級戦犯事件とされたものはいずれもアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい爆撃下に起こったことがらである。
1943年11月、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島(現、キリバス共和国)の日本軍守備隊に攻撃をかけ始めた。ギルバート諸島は当時イギリス領であったが、太平洋戦争の早い段階で日本軍が占領して、守備隊をタラワ環礁(1943年当時、日本軍約4000人)とマキン環礁(1943年当時、日本軍約700人)に配置していた。1943年11月20日から23日にかけて、アメリカ太平洋艦隊はこれらの日本軍守備隊に空・海から爆撃をかけたうえで上陸、大きな犠牲を出しながらも、日本軍守備隊をほぼ全滅させた。
アメリカ軍はギルバート諸島からさらに北上して、日本の「海の生命線」と称された「南洋群島」のマーシャル諸島(現、マーシャル諸島共和国)へと攻撃の手を伸ばした。日本軍の側では、マーシャル諸島のクェゼリン島に第6根拠地隊の司令部を置き、マーシャル諸島東縁のミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁および南洋庁ヤルート支庁のあったヤルート環礁に守備隊を配置した。それぞれの兵力は2000人から5000人ほどであった(マーシャル諸島の各環礁については、図2を参照)。
1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ環礁のミレ島を爆撃した。しかし、そのうち1機が日本軍によって撃墜され、環礁内に墜落した。その5人の搭乗員は日本軍によって救出され、俘虜として日本軍基地内に留め置かれた。しかし、アメリカ軍による攻撃がさらに激しくなることを予測した日本軍がこれらの米軍俘虜を処刑した。このことが後にクェゼリン法廷で裁かれることになった。
1944年2月1日には、アメリカ軍がクェゼリン島に上陸、2月6日までにクェゼリン環礁全体を制圧した。このクェゼリンの戦闘における日本軍の死者は9000人近くにのぼり、ほぼ全滅であった。アメリカ軍は、同時に、クェゼリン環礁東南のマジュロ島を占拠して、そこに海軍航空隊基地を設営した。
アメリカ軍はその後も、ヤルート環礁、ミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁の日本軍守備隊に攻撃をかけ続けた。その間、ヤルート環礁では、海上に不時着して流れ着いた米軍戦闘機の搭乗員3人を捕え、その後処刑するということがあり、戦後クェゼリン法廷で裁かれることになった。
1945年8月15日、日本が連合国軍に降伏すると、マーシャル諸島各島の日本軍守備隊もアメリカ軍によって武装解除された。その後直ちに戦犯の追及が始まり、クェゼリン島に戦犯法廷が開設された。クェゼリン法廷で裁かれたのは(1)ミレ島における米軍俘虜処刑事件、(2)ヤルート環礁の主島ジャボール島における米軍俘虜処刑事件、(3)ウェーキ島(ウェーク島)における俘虜処刑事件(ウェーク島は「南洋群島」には属さないが、ここでの戦犯事件もクェゼリン法廷・グアム法廷で裁かれた)の3件のみで、クェゼリン裁判は1945年末には終了した。この3件では7人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのはウェーク島の酒井原繁松司令のみで、他の6人は後に終身刑に減刑されている。ウェーク島では、アメリカ軍による激しい爆撃下の1943年10月7日、98人もの俘虜(ほとんどは将兵ではなく、軍需工場などの労働者)が処刑されたので、酒井原司令はその責任を取らされたということであろう(酒井原司令は1947年6月19日、グアム島で死刑を執行された)。
その後、「南洋群島」における戦犯事件はグアムの法廷で裁かれることになり、クェゼリン裁判の既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。グアム裁判は1945年8月下旬から1949年4月末まで続き、30件の戦犯事件が審理された。その主なものは次のような事件である。
(1)米軍俘虜などの処刑。
クェゼリン島米軍潜水艦俘虜処刑事件(クェゼリン事件)、小笠原諸島父島米軍俘虜処刑事件(父島事件。父島の戦犯事件もグアム法廷で裁かれた。父島では飢餓状態の下、俘虜を処刑し、その肉を食べるということがあった)、トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック海軍病院事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜殺害事件(トラック警備隊事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)、パラオ諸島における米軍俘虜処刑事件(2件)。
(2)民間人(現地民あるいは連合国以外の外国人)をスパイなどとして処刑あるいは殺害。
ヤルート環礁における現地民処刑事件、パラオ諸島におけるスペイン人「スパイ」処分事件、マリアナ諸島ロタ島におけるスペイン人宣教師と現地民処分事件。
これらアメリカ海軍グアム法廷における30件の戦犯事件で死刑判決が確定した13人は、1947年6月19日に5人、同年9月24日に5人、1949年1月18日に1人、同年3月31日に2人がグアム島で死刑を執行された。
次節では、これらの戦犯事件のうち特に目立つものについていくらか詳しく見ていくことにする。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.42)