くすぐられた大国意識―黄禍論をめぐって―
稲野強

 「脅威論」とは、一般に「ある国の覇権主義が他国または世界にとって重大な脅威になる言説」と捉えることができるが、ここでは対象国家・国民・民族は、その言説をどのように受け止めたかを考えてみる。その例として「黄禍論」を挙げてみたい(1)

 黄禍論は、現代でも、欧米の言論界で時折人種差別的に持ち出され、物議を醸すことがあるが、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて帝国主義期の欧米で流布した黄色人種差別論・脅威論である。その根底には「アジアの野蛮」に対するヨーロッパ=キリスト教世界の防衛という歴史の記憶がある。そしてここで考察の対象とする黄禍論は、日清戦争(1894)で「眠れる獅子」の中国に勝利した「小国」日本の急速な台頭と、日本が中国と連携ないしは中国を指導してヨーロッパ勢力をアジアから駆逐するのではないか、という欧米の危惧の念もしくは恐怖感から出現したものである(2)

 この黄禍論=脅威論に対して日本政府・ジャーナリズムはどのように反応したのか。

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一般に黄禍論の火付け役は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とされる。かれは、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世にけしかけ、ロシアの目を東アジアに向けさせる方策に出た。そのために、すでに人口に膾炙しているが、かれは黄禍の「脅威」をわかりやすく視覚に訴えるべく、タイトルに「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な財産を守れ!」と付した「黄禍の図」なるものを描き、その複製画をヨーロッパの王室、元首、米大統領に贈るという愚挙に出たのである(3)。描かれたのは、ヴィルヘルム2世の手紙によれば、「ヨーロッパの姿が仏教と野蛮の侵入に抗して十字架を守護するために天使ミハエルに招かれている聖者」である(4)

 ところで、ヨーロッパで流布した黄禍論に対する日本側の反応の早期の例としては、駐独(兼駐英)日本公使青木周蔵が1895年5月17日に、当時のヨーロッパ世論の動向を山県有朋に紹介している「手紙」が挙げられる(5)

 「…加之〔しかのみならず〕、日清の間に於て、『亜細亜は亜細亜人に属すべしとの主義』に基由する協議相整ひ、攻むるにも守るにも互に応援援護すべしとの攻守条約を締結せんには、黄人の勢力益々旺盛となり、白人社会は危害を受くるや必せり。故に、今や一方に於ては、日本人を牽制して其の勢力を発達牽制し、他の一方に於ては、是に由て清人を開明の区域に進歩せしめざるにあり、云々」と。

 また駐仏日本公使栗野真一郎は、1900年7月に青木周蔵外相への電報で英仏で黄禍論がジャーナリズムを賑わしていることを伝えている(6)

 「大体は日本が早晩支那と一致し、4億の人民に号令し、其固有尚武の精神を吹き込み、以て欧州に反対するに至れは、之れは由々敷大事にして、到底欧州の強敵たるを免れず。されは、日本をして今回の機を利用して支那に優勢を独占せしむる如きは極力排斥せさるへからすと諭し、又た政客中にも続々新聞に投稿し、黄色人種の危険Yellow Perilを喋々して日本圧抑の議論を称へ、平素沈黙を守るものも前記論旨には首肯すと云ふ有様にて、従ひてその反応も亦意外に偉大なりしは本官の遺憾とする処に有之候」〔原文は片仮名混りで、読点・句読点なし〕と。   

 両者とも、日清戦争で世界に力を見せつけた日本がリーダーとなり、中国と連携してアジアをまとめ上げ、一致団結してヨーロッパに刃向かってくる、という当時ヨーロッパで喧伝されていた典型的な黄禍論を紹介しているのである。かれらは、黄禍論を否定せず、その正当性を追認することで、期せずして日本の存在感を示しているように見える。ことに青木の指摘は、日本と中国との「黄人」〔黄色人種〕同士の連携を提唱しており、欧米列強が危険視するアジア・モンロー主義、大アジア主義への傾斜さえ明確に思考している。こうした思考は、日本国民・民族に対外的な危機感を募らせ、ナショナリズムを高揚させる働きをした。さらに、その動きは、勢いを得て、軍事力増強を果たし、大国意識に目覚め、「勢力圏たる」朝鮮半島を確保し、大陸進出への道を準備したのである。

 だが、その一方で、黄禍論を根拠のない妄想として、穏便にかわそうとする人々も主流として存在した。欧米列強に日本の近代化=西欧化の促進をひたすら承認を願う戦略をとる、言わばのちの国際協調派ともいうべきリベラルな政治家・官僚・ジャーナリストの志向である(7)

 かれらは、当時、日本が外交上もっとも苦慮している条約改正問題の完全な解決を果たしていない現状では、日本が近代化に邁進し、成功した国であることを世界に示す必要があると考えた。ただし、そこでは他のアジアの国々との同列化を嫌い、劣等国家・国民視されるのに耐えられずに差別化を図る自画自賛的な言論も見え隠れしている(8)。日本は、文明化された国であって、すでに「アジアの野蛮」を脱し、憲法を有し、議会主義が機能し、自由貿易が行われ、言論・移動の自由、信教の自由など市民的自由が保証される列国に連なる近代国家というわけであった。したがって、のちの日露戦争(1904‐5)においても、その方針は貫かれ、この戦争が、人種戦争、宗教戦争であることを否定し、「野蛮な」ロシアとの違いを明確に示し、自身をヨーロッパ文明に連なるものとするのである(今なお続く「西側諸国の一員」とレッテルを貼られたがる志向)。文明の側に立っているのは、ロシアではなく日本であるという優越意識の表明である。

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 そうした中で、上述の「〔黄禍論を虚妄として〕穏便にかわそうとする派」にとって危惧する極めて不都合な発言が日本の政治の最高指導者のひとり元老・伊藤博文から出た。その経緯は、こうである。

 伊藤は、1901年12月下旬にイギリス・ロンドンのモーブレイ・ハウスで上述の「黄禍の図」の複製画を見たとされている〔当時、伊藤は、12月上旬にロシアで日露協定交渉を打ち切り、イギリス・ロンドンに移動していた〕(9)

 お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツが、この絵を見た伊藤の不快感を、日記に次にように書き記している(10)

 「ドイツ皇帝は、ご自身のお描きになった絵の上でヨーロッパ文明の最も神聖な財宝が蒙古人によって脅かされていると説明されました。この場合だれであろうわれわれ日本人をお指になったことは疑いないところです。なぜなれば、…無気力な清国ではなく、頭をもたげてきた国日本こそ脅威的だったからです。しかもあなた方の皇帝のこの絵の中でわれわれは『放火殺人者』なる立派な役割で表されています」。

 この発言で注目すべきことは、日本の政治指導者の一人である伊藤が、欧米人が脅威と見なしている対象は、弱体化した中国ではなく他ならぬ日本であると断言し、黄禍論の存在を自ら肯定している点である。この伊藤の発言は、彼の身分ゆえに日本の総意ととられかねず、自国の近代文明と国際協調ぶりを世界にアピールし、国際的な承認を得ることを外交方針としていた日本政府にとって憂慮すべき案件となった。つまり、日本政府としては、事もあろうに日本が中国を従え、アジアのリーダーとして、ヨーロッパに脅威を与えるという黄禍論を「妄言」として打ち消しに躍起となっていたまさにその時期に、欧米列国に上げ足を取られる格好の材料を提供すると危ぶまれたのである(11)

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 対抗相手国や国民を非難し、軽蔑し、貶めるために喧伝された思想(ここでは黄禍論)が、往々にして逆に当の相手に優越感を覚えさせることもある。つまり、そうした思想によって敵視されたはずの国家国民は、当然ながらそれに反駁し、被害者意識をもつ。それと同時に、相手に注目され、脅威と見なされる存在であることで自らの自尊心がくすぐられる。それどころか、場合によっては「被害国家・国民」は強国意識・大国意識を覚醒させ、はては自国のパトリオティズムないしはナショナリズムに一役買う機会を与えられることになるのである。

 こうして被害者意識を植え付けられたはずの脅威論=黄禍論には、逆に対象国・国民(ことに日本の政治指導者、言論人)に大国意識を目覚めさせる側面があることが分かる。したがって日本政府・ジャーナリズムは黄禍論を声高に叫ぶことで、自国民を煽り、自国のナショナリズムを鼓舞するために、それを最大限利用した点も見逃すべきではない。

(注)

(1)平川祐弘『和魂洋才の系譜』河出書房新社、1971年、橋川文三『黄禍物語』、筑摩書房、1976年、ハインツ・ゴルビッツアー(瀬野文教訳)『黄禍論とは何か』草思社、1999年、飯倉章『イエロー・ぺリルの神話―帝国日本と「黄禍」の逆説―』、彩流社、2004年。

(2)拙稿「ハプスブルク帝国の轟く黄禍の叫び」『歴史読本』第56巻1号、新人物往来社、2011年、116‐121頁

(3)この図は、1895年4月、かれが下絵を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフスが仕上げた。同図は、『太陽』第14巻第3号、1908年3月、および橋川、前掲書の口絵にも使われている。

(4)ニコライ2世宛の手紙は、1895年9月26日付。大竹博吉監輯『独帝と露帝の往復書簡』ロシア問題研究所、1929年、19頁、大竹博吉訳纂「第3編 極東に関する露独両帝の往復文書」『外交秘録 満州と日露戦争』1933年、ナウカ社、300頁

(5)青木周蔵『青木周蔵自伝』東洋文庫、平凡社、1970年、286頁。この手紙は、橋川、前掲書、20‐21頁でも紹介されている。

(6)「機密第25号、7月28日付(「英人『ミトフォード』の対日誹謗論文に付報告の件」)」、外務省編纂『日本外交文書』第33巻別冊1、北清事変 上、1956年、428頁、大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994年、324頁。

(7)逆に、政府の列強との協調姿勢は、屈辱的と見なす反西欧主義者の批判を受け、排外的国粋主義やナショナリズムの急速な台頭を促すことになった。ケネス・B・パイル(松本三之介監訳、五十嵐暁郎訳)『欧化と国粋―明治新時代と日本のかたち―』講談社学術文庫、2013年。
(8)日本人が、ヨーロパ人から他のアジア人と同列に扱われるのを屈辱と感じるのも、優越主義の表れである。森鴎外曰く、「白人種は我国人と他の黄色人とを一くるめにして、これに対して一種の嫌悪若しくは猜疑の念をなし居るのでございますから、…」「黄禍論梗概」『鷗外全集』第25巻、359頁、1973年。この個所は、研究上よく引用される一文である。例えば、中村尚美「日本帝国主義と黄禍論」『社會科學討究』(早稻田大学社会科学研究所)第41巻121、1996年、268頁。また平川、前掲書、148頁、飯倉、前掲書、106‐107頁。

(9)伊藤が、ロンドンで絵を見たというエピソードは、飯倉、前掲書、91頁、また同、第4章(注2)、16‐17頁を参照。

(10)トウ・ベルツ(菅沼竜太郎訳)『ベルツの日記』上、岩波文庫、1979年、320頁、中村、前掲論文、265頁。

(11)伊藤の発言以前に物議を醸したのは、近衛篤麿の「同人種同盟 附支那問題研究の必要」である。この論考は、日本が東アジアにおける野心を明確に表明していると受け取られた。「…最後の運命は、黄白人種の競争にして、此競争下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認めらる丶の位地に立たむ。…」、「支那人民の存亡は、決して他人の休戚に非ずして、又日本人の利害に関するもの」だから、日本人は中国人と協力して「人種保護の策」を講じなければならない。と。『太陽』第4巻第1号、1898年1月1日、1‐3頁。

(「世界史の眼」No.50)

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