2024年の年も押し迫った12月末、突然伊集院さんが亡くなられたというメールを受け取りました。奥様が亡くなられてから数年間、音信不通になっていましたが、やっと開通できたと思ったメールが、彼の他界のお報せでした。
彼と私は、年は同じで、彼は一浪、私は一年留年しておりましたので、史学科西洋史で卒業年度は一緒でした。しかし学生時代の想い出は殆どありません。一つだけ、うろ覚えですが、そのころ存在していた東大歴研が明治100年をどうとらえるかというシンポジウムを企画した時、彼と二人でシンポジウムでの講演をお頼みするため、犬丸義一さんの家に依頼に行ったことがかすかに記憶に残っています。ただ、講演・シンポに関しては、まったく記憶がありませんので、彼がどのような役割をしていたかは不明です。
その後、私は、高校の教師として歴史教育の方面に進路を決めましたので、以後のお付き合いは年賀状以外全くなくなりました。
1970年代の半ば、私が高校の世界史教師として夢中になっていたころ、突然彼から電話がありまして、中村義さんらと中高生向けの人名事典を企画しているのだけど、教育現場の立場で協力してもらえないかとの誘いでした。歴史関係だけでなく、文学、科学、芸術、芸能、スポーツなどに及ぶ総合的な事典の企画でしたが、私は、自分の授業に絶対にプラスになると思い、二つ返事でお引き受けしました。2~3年かかったと思いますが、本当に楽しい編集委員会で、伊集院さんには本当に感謝しております。出来上がった本は、中村義ほか編『コンサイス学習人名事典』三省堂、1978年でした。中高生向けの事典でしたので、短い説明文の中にできるだけエピソードを盛り込むようにという方針で、これは、私が普段の授業で生徒たちに話す余談の貴重なネタになりました。伊集院さんには本当に感謝しております。
それからしばらくして、1982年ころ、西川正雄さん、吉田悟郎さんらが中心となって比較史・比較歴史教育研究会が発足した時、私は事務局の仕事を手伝うという立場で参加しておりましたが、伊集院さんはその会のメンバーの一人で数回の東アジアシンポの報告者としても活躍されていたと思います。私は裏方でしたので、彼の報告は聞いておりません。シンポジウムの報告集を出すときにも、彼は中心メンバーの一人として活躍されていたと思います。
時代的には併行しますが、1989年、99年に高等学校の学習指導要領が改訂され、社会科解体、世界史はAとBの教科書が作られるようになりました。この時は、三省堂から西川さんに依頼があり、高校現場から私を含め3名が編集執筆委員として参加することになりました。この教科書は、戦後史を3章立てにし(普通は2章)、しかも今までの西洋中心、中国中心の傾向を打ち破るため、大国の周辺からの叙述を狙った画期的な教科書でしたが、現場の高校の先生方には受け入れられず、結果的には失敗に終わってしまいました。この教科書で近代ヨーロッパを担当されたのが伊集院さんで、西川さんからの難しい要望に頭を悩ましていた姿を思い出します。
その後も、西川グループの企画は続き、2006年には歴史学研究会編『世界史史料』全12巻(岩波書店)の刊行を開始し始めました。この企画は10年以上に及ぶ企画で、その途中で西川さんが病に倒れ、この仕事を引き継いだのが伊集院さんでした。この仕事は、直接的には各巻の責任者が執筆者への依頼、原稿集め等を分担するのですが、その総責任者が突然伊集院さんになったのです。彼の悩みはいかばかりであったことか、とにかく2012年7月、最後に残っていた第1巻の刊行が終わり、準備期間を含めると10年近くに及ぶ企画は無事終了しました。西川さん時代からの淡い希望であった、もし売れ行きが良かったら、高校生向けに本格的な史料集を出したいなーという夢は、いまだもって実現されていません。伊集院さんは、その後も高校の歴史教育関係の研究会に顔を出し、いずれ実現したいと思われていたと推察しますが、彼の遺志を継ぐ動きは、今のところ出てきていません。
そのような中で、彼が晩年に取り組んでいたのは、明治以来の歴史教科書の系譜をたどる作業であったように思われます。万国史以来の日本における外国史の受け入れ、日本独自の歴史教育への道の探究に関心を持たれていたようです。それゆえ、歴教協の東京部会の例会にもたびたび顔を出されるようになり、帰る間際になって、ニコッと微笑みながら、難解な問題提起をされ、参加者の皆さんをけむに巻いて、私と一緒に新大塚の駅まで冗談を言いながら一緒に歩いたのが、最後になってしまったなーと、今さらながら残念に思い、彼の生前を偲ぶ次第です。
2025年4月
(「世界史の眼」No.63)