(1)ハンベンゴロー事件
江戸後期の日本における対外認識において、「ハンベンゴロー事件」は一つの大きな画期であろう。
ピョートル一世(1672-1725年)のロシアは、1707年にカムチャツカを占領し、その後千島列島に進出していた。そして、1756年(宝暦6年)には厚岸において松前藩士が初めてロシア船を目撃した。これが日露の最初の接触である。1760年代にはロシアの千島進出は毛皮を求めて強化され、1768年(明和5年)にロシア人がエトロフ島を占拠してからは、ロシア船が蝦夷本島にやってきて、かれらのもたらす品々が大坂市場で公然と販売されていたと言われる。当然、北前船がこれを運んだわけである(佐藤編 1972 28-29頁;木崎 1991 2-41頁)。
このようなロシア人の北方での動きは、「ハンベンゴロー」事件によって明らかとなり、それは、江戸時代の外国の事情についての関心を著しく高めたのであった。
1771年(明和8年)、「ハンベンゴロー」つまりベニョフスキー・モーリッツ(1741-1786年)という人物が、土佐へ漂着し、出島のオランダ人への手紙で、ロシアの南下の脅威を指摘した。ベニョフスキーは、当時のハプスブルク帝国のなかのハンガリー王国の北部(現在のスロヴァキア)に生まれた貴族で、ポーランド系であった。1768-69年の露ポ戦争に参加し、捕虜となった。その後、シベリア、カムチャツカに流されるが、1771年、仲間60人ほどを募ってロシアの船を奪い、カムチャツカから逃亡し、日本を経由して本国へ帰国しようとした(メキシコのアカプルコへ行きたかったのだとも言われる)。かれらは日本列島を南下して、土佐の佐喜浜、阿波の日和佐、そして奄美大島の出須浜に寄港し、薪水の提供を受けた。ベニョフスキーは、この際に長崎出島のオランダ人経由で、ロシアの南下情報を幕府に差し出したのであった(水口他編訳1960 2-14頁;木崎 1991 42-43頁)。
ベニョフスキー・モーリツBenyovszky Móric; Móric Beňovský(1741-1786年)は、その後、奄美大島にも立ち寄って、マカオへ着いて、ここで仲間と別れて、フランス船を捜して乗船、1772年にフランスへ帰った。そして国王に請願して1776年にマダガスカルへ行き「王」を称し、79年にはアメリカ独立戦争に参加し、85年には再びマダガスカルへ行って現地人と共にフランス軍と戦い、戦闘中に死亡した。
この「ハンベンゴロー事件」のあと、わが国では対外危機が意識され、北方事情への関心が高まった。仙台藩の藩医で経世論家であった工藤平助(1734-1801年)の『赤蝦夷風説考』1783年(天明3年)は、こう論じていた。
「赤蝦夷」つまり「カムサスカ」の人々(ヲロシア人)は千島と言われる島々を通って蝦夷に来て交易をしていたが、1771年に「赤蝦夷」から来た船が漂流して、奥州、上総、阿波に来て、「マウリツ・アラダル・ハン・ベンゴロ」という「商人」(=これは間違い)が長崎にいるオランダ人あてに書簡を送った。「ハン・ベンゴロ」はオランダの同類の「ドイチ(ドイツ)」国の人で、わが国の地勢を調査しようとしてきた者のようである。書簡は、阿波にて殿様のお恵みで命を救われたので、そのお礼をしたためたものであった。こう述べた工藤は、赤蝦夷の本国はヲロシアで、ヲロシアは日本に金銀が多く産するので、日本と交易をしたがっているのだと考えていた(佐藤編 1972 29-33、392-395頁)。こうして工藤は、幕府に対して貿易の許可と蝦夷地の開発を訴えていたのである。
やや遅れて、時の経世家、林子平(1738-1793年)も、『海国兵談』(1787-91年)において、ベニョフスキーの到来を挙げて、幕府の北方政策に警告を発っしていた。
「近頃、欧羅巴のムスカウビア其勢ひ無変にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、・・・東の限りカムシカツトカ(カムチャツカ)迄押領したり。然るにカムシカツトカより東には此上、取べき国土なし。此故に又西に顧みて蝦夷国の東なる、千嶌を手に入るべき機ありと聞及べり。既に明和辛卯の年(1771年)、ムスカウビアよりカムシカツトカに遣し置る豪傑、バロンマオリツツ・アラダルハン・ベンゴロウといふ者、カムシカツトカより船を廃して、日本に押渡り港々に下縄(さげなわ)して、其深さを計りながら、日本を過半、乗廻したることあり。就中土佐の国に於ては、日本国に在合、阿蘭陀人にと認し書を遣置きたる事もある也」(林 1944 9頁)。
林子平もベニョフスキーは日本を「取る」ために地勢の調査のために来たのだと考えていた。そして、工藤と同じく蝦夷地の開発を主張したのだった(佐藤編 1972 34頁)。
(2)本多利明の蝦夷開発論
新井白石などに薫陶を受けた本多利明は、東北や蝦夷の視察をしたりしていたが、しばらくのちの1798年(寛政10年)に出した『経世秘策』にこう書いていた。
「ハロンモリツアラタールハンベンゴローという者あり。此の者欧羅巴洲の者なるが、其嚮(そのさき)モスコビヤと挑合(=交戦)せしが、敗北して将卒五十余人擒(とりこ)となりて、後助命を蒙りて日本之東蝦夷カムサスカヘ流罪となり、・・・時節を待居てモスコビアの官船を盗取りて、本国欧羅巴へ遁到らんとて、日本之東洋を渉途(しょうと)之節、阿州(=阿波)に碇宿(=寄港)して薪水を乞求めたり。又国主の慈悲を願ひたるに因(より)て、玄米数百俵の賑恤(しんじゅつ)を給りたり。それより阿州を開帆(かいはん)して後、再び日本に船を寄せ、薩州の大島に碇宿せり。再び日本の地に船をよせたるは、阿州に於て恩恵を蒙りたるに感じ、日本へ寸忠を立てん意にて、今既にモスコビアの帝陰謀ある旨を認(したため)、横文字の注進状を呈したり」(塚谷他校注 1970 46頁)。
モーリッツ・アラダール・ベニョフスキーが、ロシアと戦って敗れ、カムチャツカに流刑になったが、ロシアの軍艦を盗んで、ヨーロッパに帰る途中、日本の薩州に寄港して、ロシアが日本を狙って「陰謀」を図っていることを、長崎の和蘭カピタンを通して注進したというのである。ここで話は、ベニョフスキーの来た目的がたんなる地勢調査ではなくなった。
『経世秘策』はさらに、モスコビアから、これまで10年ばかりの間に、いろいろな人がエトロフ、クナシリに徘徊したり、漂着したりしていると述べ、ハンベゴローの注進はでたらめではなく、モスコビアは蝦夷の島々を「開業」しようとしているのであり、わが国もこれらの島々を開業しなければ、これらはモスコビアに服することになると警告した(塚谷他校注 1970 49-50頁)。
同じく1798年(寛政10年)に出た本多利明の『西域物語』もベニョフスキーの到来をあげ、ベニョフスキーがロシアの南下を警告していると述べていた。しかし、『西域物語』は、もっと広い世界を見ていた。それは「西域」つまり「西洋」の歴史と現状を日本と対比しつつ述べたもので、ある意味で「世界史」なのであった。
「我邦の人、西域のさる事も弁え」ていないと始まる。つまり、日本は中国の書籍を鵜呑みにしているから、西洋のことを知らないという。そしてこう論じていく。欧羅巴州にはトルコ、ロシア、イタリア、ホロシア(ポーランド)、ゼルマニア、フランス、イスパニア、アンゲリア、フランスなどがあり、みな国外に属国を多く持ち、「大豊饒にして剛国」である。そして、エゲプテ(エジプト)から人道が発起して、各地に広がった。支那、日本へは大いに遅く届いたのだ。欧羅巴諸国の治道は、武を用いて治めるのではなく、「只徳を用いて治るのみ」である。だが、「欧羅巴隆(さかん)の国々は、本国は小国なるもあれど、属国多くある国を指て大国という」。例えばエゲレス国はそうだ。モスコビアもそういう属国を求めて日本の北へきている。
そういう中で、1771年(明和8年)にハロンモリツアラタールハン-ベンゴローというものがやってきた。そして、注進状を呈した。その趣意は、「今モスコビヤより日本の東蝦夷の諸島を侵(おか)し掠めん萌しあり。今の内用心ありて、彼の島々へ船を出し、守護あらば無難なるべき」というものであった。そこで本多が言うには、「今按ずるに、ハンベンゴロトが注進・教示の如くあらば、カムサスカより南洋20余島も無難にあり。」これらの島々は、「日本に自然と属し従ふべき」島々なのであった。
本多はこのような世界認識に立って、「大日本国の国号をカムサスカの土地に移し」、カムサスカの地を大良国(素晴らしく豊かな国)とするべきであると説いた。カムサスカはオランダのアムステルダムと同じ緯度にあり、オランダのように属国を集めて繁栄できるのだというのであった(塚谷他校注 1970 88-162頁)。
これはそれまでのように蝦夷地の開発や貿易を提言する以上のものであった。世界の趨勢に乗り遅れるなというわけである。18世紀の末には、日本の知識人の間にこういう認識ができつつあったのである。
参考文献
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年
木村英明「スロヴァキア出身の冒険児モーリツ・ベニョフスキー:鎖国日本の平安をざわめかせた異国船」長與進・神原ゆうこ編著『スロヴァキアを知るために64章』明石書店 2023年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
塚谷晃弘・蔵並省自校注『本多利明・海保青陵 日本思想体系44』岩波書店 1970年
林子平述 村岡典嗣校訂『海国兵談』岩波文庫 1944年(初版1939年)
水口志計夫・沼田次郎編訳『ベニョフスキー航海史』平凡社 1960年
*ベニョフスキーの航海や冒険については、世界中で多数の研究や論評が出ている。本稿は、日本での受け止められ方についてのみ考えたものである。
(「世界史の眼」No.68)
