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「世界史の眼」No.73(2026年4月)

今号では、小谷汪之さんに、連載中の「蓼科の近代史」として、「蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓」を寄せて頂きました。また、立命館大学の庵逧由香さんに、昨年刊行された林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年)を書評して頂きました。また、世界史寸評として、南塚信吾さんの「アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―」を掲載しました。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓

庵逧由香
林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年、511頁、6000円)

南塚信吾
世界史寸評 アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―

林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、前号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、本号)

3 戦後開拓

 1945年8月の敗戦時、中国、朝鮮、東南アジアなどに、民間人や軍人・軍属を合わせて約660万人の日本人がいた。そのうち約620万人が1947年末までに帰国した。在満日本人については、ソ連による日本軍将兵や一部民間人の「シベリア抑留」などのために帰還が長引いたが、約60万人とされるシベリア抑留者のうち、50万人近くが1950年末までに帰国した。しかし、1956年にシベリア抑留者の集団帰還が終了するまでの間に、約6万人のシベリア抑留者が死亡した。慢性的飢餓と酷寒という悪条件下での過酷な長時間労働、不衛生な収容所における赤痢や発疹チフスなどの感染病の蔓延、これらが多くの死をもたらしたのである(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』108~109頁)。

 敗戦直後の日本は食糧難に苦しんでいた。そこに海外から600万人以上の日本人が帰国することになったのであるから、食糧難が一層ひどくなることが予想された。それで、政府は1945年11月9日「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。その「第一 方針」には次のように書かれている。

終戦後の食糧事情及復員に伴ふ新農村建設の要請に即応し大規模なる開墾、干拓及土地改良事業を実施し以て食糧の自給化を図ると共に離職せる工員、軍人其の他の者の帰農を促進せんとす(片仮名を平仮名に変えた)

 このように、「緊急開拓事業」は食糧増産と民間引揚者や旧軍人・軍属の帰農を目的としていた。その目標としては、100万戸の帰農、155万町歩の開墾を「概ね五ヶ年を以て完成すること」とされた。最初、入植地には旧軍用地や国有林野が充てられたが、1946年10月21日に公布された「自作農創設特別措置法」(同年12月29日施行)によって、国家が民有未耕地を強制的に買い上げることができるようになり、入植地の取得が容易になった。

 「緊急開拓事業実施要領」は、1947年10月24日の農林省議により「緊急」の文言が削除され、「開拓事業実施要領」となった。その目的からも食糧増産と引揚者等の帰農が削られ、「開拓事業を強力に推進して、土地の農業上の利用増進と、人口収容力の安定的増大を図り、以て新農村の建設に寄与することを目的とする」と改められた。敗戦後2年以上が経ち、「世の中は落ちついてきた」からであろう(戦後開拓史編纂委員会編『戦後開拓史』全国開拓農業協同組合連合会、1967年、40~42頁)。

4 茅野市域における戦後開拓

 大規模な戦後開拓は広い国有未墾地があった北海道や東北地方で多く実施されたが、長野県各地の高冷地でも行われた。その一例が八ヶ岳東麓の野辺山高原(標高1350メートル前後)の開拓である。1946年、長野県南佐久郡地方事務所は野辺山への入植希望者を募集し、長野県開拓増産隊南佐久支隊を編成した。これが、その後、野辺山の他のいくつかの開拓団と合併して野辺山開拓団となり、1948年には、農業協同組合法(1947年)に基づいて野辺山開拓農業協同組合に改組された。

 「緊急開拓事業実施要領」では、野辺山高原など高冷地の立地条件を無視した画一的な農業政策―米・麦や豆類の生産を主眼とする農業(穀菽こくしゅく農業。菽は豆類の総称)政策―が取られていた。そのため最初は開拓に困難が付きまとったが、後に政策が転換され、高原野菜の栽培と酪農に重点を移して成果をあげた(小谷汪之「高原野菜が生まれるまで―敗戦と野辺山開拓」南塚信吾・木畑洋一・小谷編『歴史はなぜ必要なのか―「脱歴史時代」へのメッセージ』岩波書店、2022年、所収)。

 1950年現在で、現在の茅野市域においては、次の五つの開拓農業協同組合が存在した(諏訪郡全体では22開拓農業協同組合、入植戸数341戸)。

(1)広見開拓農協(豊平村広見、標高1,100メートル)   1950年入植 14戸
(2)中山開拓農協(北山村蓼科、標高1,200メートル)   1950年入植 12戸
(3)池の平開拓農協(北山村柏原、標高1,500メートル)  1949年入植 6戸
(4)玉川開拓農協(玉川村南原山、標高1,000メートル)  1947年入植 42戸
(5)御狩野開拓農協(金沢村下原山、標高950メートル)  1947年入植 21戸
(『茅野市史 下巻』633頁)

 このうち、蓼科湖畔に前掲の「拓魂」の碑を建てたのが(2)の「中山開拓農業協同組合」である。ここでは、この碑文の内容を少し詳しく検討しておきたい。

 第一に、「この開拓用地は湯川・塩沢・両財産区のものであったが、昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収したものである」という部分について。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行に伴って旧来の入会地が再編成された際にできた特別地方公共団体で、旧来の入会権が財産区の土地所有権と認められた。財産区には、多数の区の共有財産区とともに、一つの区の単独財産区も設定された。現在の茅野市域でも、北山村湯川区の湯川財産区、北山村柏原区の柏原財産区、米沢村塩沢区の塩沢財産区など数多くの単独財産区が設定された(『茅野市史 下巻』690~692頁)。このうち、湯川財産区と塩沢財産区の所有地の一部が国家によって買収されて中山開拓農業協同組合の入植地とされたのであろう。ただし、「昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収した」というのは誤りで、昭和24年(1949年)に、「緊急開拓措置令」といった勅令が出されるということはありえない。中山開拓農業協同組合の入植地は、前述の「自作農創設特別措置法」(1946年)によって国家が両財産区から買収したものと思われる。

 第二に、「苦節十年の後、昭和三十五年[1960年]竣工検査の結果各自の所有となる」という部分について。1958年、「開拓事業実施要領」は「開拓事業実施要綱」に改定された。この「要綱」には、「成功検査」という条項が設けられ、入植後、本州ではおおむね5年後に開拓事業の進展度を検査し、それに合格しなければ、入植地が国家によって買い戻されうることになった(『戦後開拓史』48頁)。中山開拓農業協同組合の場合、入植10年後の1960年に「成功検査」が行われ合格したので、各入植者に土地が払い下げられたということのようである(碑文中の「竣工検査」は「成功検査」の誤りであろう)。

 第三に、「時恰も観光開発の脚光を浴びた当地はその施設の中央に位し、各自よすがを観光面に切り替え開拓の努力は報いられて今日に至る」という部分について。この点について、『茅野市史 下巻』(635頁)には次のように書かれている。

中山開拓地(北山蓼科)は[昭和]三十年代後半に東洋観光事業株式会社などによるレジャー施設へ、池の平開拓地(北山柏原)は[昭和]三十年代前半に観光関係に用地を売却し、ホテルや別荘となって当初のおもかげはなくなった。

 「中山開拓地」(中山開拓農業協同組合入植地)のあった湯川財産区の所有地には、1952年、長野県の土地改良事業として蓼科湖が築造された。蓼科湖は、川の水を一時的に堰き止め、天日によって湖水の温度を上げてから下流に放流する「温水溜池」として作られたのであるが、蓼科湖畔から見える八ヶ岳連峰の秀麗な景観などによって、1950年代後半に入ると観光地化が進んでいった。湯川区(湯川財産区)は、昭和35年(1960年)、「当時トヨタ自販[トヨタ自動車販売株式会社]系の観光企業で[昭和]三十三年[1958年]創立の東洋観光事業株式会社に、高原の三温泉源と温泉および周辺の土地・建物などいっさい、約二〇七ha[ヘクタール]を観光開発用地として時価三億円で譲渡処分を行った」(『茅野市史 下巻』785頁)。その中には蓼科湖周辺の土地も含まれていた。それに伴い、蓼科湖の水面利用、養魚などの権利は蓼科観光協会に引き継がれたが、その後東洋観光事業株式会社に移された。そのような状況の中で、中山開拓農業協同組合の入植者たちも生業を農業から「観光面に切り替え」ていったのである。

 「池の平開拓地」(池の平開拓農業協同組合入植地)のあった北山村柏原区では、戦前の1940年に、同じく「温水溜池」として白樺湖の築造が長野県営水利改良事業として着工された。しかし、戦争の影響による紆余曲折があり、戦後の1946年になって竣工した。白樺湖で温められた水は今でも下流地域の水田を灌漑しているが、それとは別に、冷涼な湖畔では、1950年代、観光地化が進展した。『茅野市史 下巻』の上引の記述は、池の平開拓農業協同組合の入植者たちが土地を観光企業(デヴェロッパー)に売却したように読めるが、そうであったとしても、彼らの土地は柏原区(柏原財産区)の広大な所有地のほんの一部にしか過ぎない。柏原財産区の場合は、基本的には所有地を売却することはせず、財産区自体が貸ボート業やバンガロー建設などの観光開発事業を推進するとともに、観光企業と土地の賃貸借関係を結んで、ホテルなどの観光業を誘致したのである(蓼科湖、白樺湖の位置については図2「蓼科湖・白樺湖関係図」参照)。

 なお、他の三つの開拓地についていえば、「広見開拓地」(広見開拓農業協同組合入植地)は種馬鈴薯の栽培を主としていたが、土壌病害などのために離農者が出て継続困難となり、民間会社に売却された。「玉川開拓地」(玉川開拓農業協同組合入植地)は酪農を中心として高原野菜の栽培も行い、順調に経営を継続した(ただし、後に行政的には隣接する富士見町に編入された)。「御狩野開拓地」(御狩野開拓農業協同組合入植地)は高原野菜栽培を主として、水田も造成され、安定的な経営が行われるようになった(『茅野市史 下巻』634~635頁)。「御狩野開拓地」は、現在では、中央自動車道(中央道)の諏訪南インターチェンジのすぐ西に隣接する地域である。

おわりに

 満洲開拓に送り出され、苦難の末に辛くも帰還した人々の多くが故郷に再定住することができず、再び条件の劣悪な未墾地の開拓に取りくまざるをえなかった。

 本稿が対象とする地域について、この満洲開拓帰還者と戦後開拓入植者の関係を見ると、諏訪郡全体(22開拓農業協同組合)の入植者中、「満洲開拓者三八%、農家子弟三四%、一般転業者二五%、旧軍人三%の割合であった」(『茅野市史 下巻』633頁)。この地域でも、戦後開拓者には満洲開拓帰還者が多かったことが分かる。前述のように、諏訪郡北山村出身の満洲開拓者にも11人の帰還者がいたが、これらの人たちが中山開拓農業協同組合や池の平開拓農業協同組合に参加していたかどうかは文献が見つからず分からない。しかし、前出の野辺山開拓農業協同組合の場合は、満洲開拓帰還者がその中心となっていたことを確認することができる(前掲小谷論文)。

(「世界史の眼」No.73)

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林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年、511頁、6000円)
庵逧由香

 本書は、在日朝鮮人の歴史家・林哲(Lim Chol)の朝鮮現代史に関わる18本の論考をまとめた研究書である。学術論文から人物評伝、訳書解説、書評、学術シンポジウムの記録、時事評など、多様な形態の論考が一部を除き時系列で掲載されている。しかしこれらからは、一貫して通底する問題意識を読み取ることができる。それはあえて端的に言えば、今日までなおも続く朝鮮半島分断の理不尽さに対する憤りと、再統一への強い希求、ではないかと思う。

 本書の目次構成は以下の通りである。(カッコ内の数字は初出年)

第1章 「解放一年史」再考 (書き下ろし、2025)
第2章 朝鮮人民共和国に関する若干の問題 全国人民委員会代表者大会(1945年11月)における議論を中心に(1986)
第3章 第二次大戦後の朝鮮における民主主義民族戦線(1982)
第4章 解放直後の朝鮮における「民主基地論」 統一戦線論を手がかりに(1993)
第5章 歴史をとおしてみる統一国家像 (1993)
第6章 朝鮮の「解放」と中国 (1996)
第7章 独立・統一・「進歩的民主主義」を求めて 夢陽・呂運亨の生涯(1998)
第8章 東アジア冷戦と朝鮮における政治的暴力の起源 解放一年史を中心に(2004)
第9章 済州島「四・三事件」における「暴力」(2002)
第10章 国際関係学による「場」としての東アジア (2009)
第11章 『朝鮮半島の分断構造』と『アメリカのディレンマ』を読む (1985)
第12章 国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」の旅 (2000~2002)
第13章 『現代朝鮮の悲劇の指導者たち』訳者あとがき(2007)
第14章 国際関係論と朝鮮現代史 (2012)
第15章 『朝鮮戦争の起源』訳者あとがき (2012)
第16章 「朝鮮戦争像」の根本的な転換迫る カミングスの『朝鮮戦争の起源』(2013)
第17章 安倍首相の「戦後七〇年談話」について 日韓条約五〇年の観点から (2015)
第18章 亡命運動家鄭敬謨先生の生涯と時代 (2022)
著作目録・解説(鄭栄桓)
あとがき・索引

 周知のように、朝鮮は第二次世界大戦中に連合国によって日本からの独立が明言されたものの、日本の無条件降伏(1945年)により、日本軍軍管区を境界(北緯38度線)として南北に分断され、米ソそれぞれの占領を受けた。それからわずか3年後に、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が、分断されたまま樹立されるにいたる。この3年間の朝鮮半島をめぐる国家建設運動や米ソ対立を含む国内外の情勢の変動は、非常に複雑かつダイナミックに急転しており、事象によっては事実関係の確認さえ困難な状況が長く続いている。南ではこの時期の研究は「解放前後史」と呼ばれ、本格化するのは1980年代後半からである。研究が特に立ち遅れた背景としては、朝鮮戦争(1950〜)を経て分断が固定化されて以降、南北が敵対国として互いを排除し合うことで分断体制を維持してきたこと、この時期の研究が南北の国家起源に関わる高度に政治的な問題をはらむが故にタブー視されてきたこと、などがまず挙げられる。

 筆者林哲は、「解放直後から一年の時期を分断状況の形成過程において最も重要視」し、1980年代初頭からこれに関わる研究論文を発表してきた。とりわけ建国準備委員会から朝鮮人民共和国(1945)、民主主義民族戦線(1946)へと続く流れを一連の「統一独立国家樹立運動」として把握し、その具体的な歴史像の実証的解明に力を注いだのが、本書収録の第2章から第5章である。筆者はこれらの国家樹立運動が「植民地下で展開された民族解放運動の文脈から理解される必要性」を強調しつつ、樹立すべき国家像の違いから左派・右派の対立が国際情勢をも巻き込み激化する中で、それでも持続的に追求された統一戦線形成の試みに特に注目している。当時、朝鮮人のだれもが分断された国家など想像もしていなかったが、世界的な冷戦構造の深化の渦中にあった朝鮮では、その実現が様々な要因によって妨げられてきた。筆者の「解放一年史」研究は、分断体制下で政治権力によって意図的に無視され、塗り替えられていった歴史の再構築の試みでもある。「筆者は数十年たっても当時示された朝鮮民衆の広範な統一戦線と進歩的民主主義論に支えられた基本意志と希望が、どうして現在に至るも阻まれてきたのかについて今日なお納得しがたい点が多い」(508頁)との筆者の言に、このことが凝縮されている。

 朝鮮「解放一年史」の具体的な展開自体、日本でもあまり知られていない。本書のために書き下ろされた第1章は、前提となる研究史や当時の状況、主要な用語の詳細な解説が書かれており、本書全体を読む上での手引きにもなっている。また巻末の鄭栄桓による解説では、時代背景や基本事項の丁寧な説明がなされている。

 本書を読みながら興味深かったのは、本書の論考のところどころで、筆者の在日朝鮮人としてのライフヒストリーが交錯して書かれている点である。1946年ソウル生まれの筆者は、朝鮮戦争の戦乱を避けて1952年に家族とともに来日した。来日当時の記憶や、日本社会における学生時代の体験の過程で筆者は、さまざまな「違和感」「疑問」を感じている。それらは朝鮮の分断状況に対する疑問であると同時に、いつまでたっても「朝鮮分断問題に対する認識が皮相的な理解に止まって深められていない」日本人の朝鮮に対する無知・無関心への警鐘にもなっている。確か2000年代に入ってからのことであったが、私は筆者の南北統一に関する講演会(於早稲田奉仕園)で、そのような場面に直接出くわしたことがある。それは、参加者の中のある日本人との質疑応答の場面だった。ある日本人の「統一、統一と言うが、南北で自由に行き来できるようにさえなれば、統一する必要はないのではないか」という質問に対し、筆者林哲は、「あなたがおっしゃる、自由に行き来できるというそのことがまさに、統一、ということなんです」と回答した。このやりとりは後に徐京植も、「(在日)朝鮮人と日本人との分断に対する認識のギャップ」の事例として紹介したことがある。

 筆者の分析の特徴として、朝鮮史の個別事象を深く分析しながらも、それらの性格を規定する時代時代の世界史の矛盾の在り方、その焦点としての東アジアの課題が、常に大枠として意識されている(特に第6章、第10章)。90年代に入りソ連をはじめとする社会主義諸国の崩壊により冷戦構造の枠組みは大きな転換を遂げ、もう一つの分断国家であったドイツは再統一された。しかし朝鮮半島の再統一は、少しずつ進展を見せながらも、いまだに展望さえ見いだせない状況が続いている。南北双方で国家の法統性が植民地期の民族解放運動を基盤にしているため、現在でも、1930年代以降の歴史について、南北で歴史認識を共有できずにいる。筆者が何度も強調するように、こうした状況の下での「解放一年史」研究は、大きな困難が伴わざるをえない。

 ただし一方で、本書は、筆者が長年研究会をともにしてきた「筆者よりずっと年下の友人たち」が「完成させてくれた」(あとがき)という。鄭栄桓解説のタイトルが「『解放一年史』の種火を受け継ぐ」とあるように、筆者の長年の問題意識が、次代の研究者に意識的に受け継がれようとしているのである。このような「協業に生きている精神こそが認識を発展させる鍵」(あとがき)という筆者の言葉が、本書刊行の意義をより重要なものにしている。

(「世界史の眼」No.73)

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世界史寸評
アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―
南塚信吾

 2026年2月28日、アメリカとイスラエルがイランを攻撃した。昨年6月のように核施設に限定した攻撃ではない。政治と軍事の中枢を狙った攻撃で、イランの最高指導者ハメネイを殺害した。この問題をめぐって、ネット上に登場した日本の主要新聞の「社説」「主張」を比較点検してみた。比較したのは、読売新聞(読売と略 以下同様)、朝日新聞(朝日)、毎日新聞(毎日)、日本経済新聞(日経)、産経新聞(産経)、東京新聞(東京)、北海道新聞(北海道)、信濃毎日新聞(信毎)、沖縄タイムズ(タイムズ)、琉球新報(新報)、京都新聞(京都)、神戸新聞(神戸)、西日本新聞(西日本)、上毛新聞(上毛)、神奈川新聞(神奈川)の計15社、各2月28日―3月3日の社説・主張である。このうち、読売新、毎、日経、北海道は二度にわたって社説でこの問題を論じていた。私は、昨年6月のイスラエルとアメリカのイラン攻撃についての各紙の社説などを比較して検討してみたが(本欄にもけ掲載)、それを受け継いだ形で、今回もイラン攻撃についての社説などを検討してみたい。論点は多岐にわたるが、以下では主な論点についてのみ、検討の対象とする。

 はじめに、読売を含め、ほとんどの新聞の社説は、この軍事攻撃を「暴挙」「蛮行」「無法」などと批判している。朝日と西日本は、「大国の横暴」だと批判し、北海道は、「史上まれにみる悪逆」と批判していた。昨年と違って、批判的な姿勢を見せていないのは産経のみであった。

1.国連憲章との関係について

(1)アメリカのイラン攻撃が国連憲章と国際法への明白な「違反」であると厳しく批判しているのは、読売、経済、毎日、東京、北海道、神戸、タイムズ、新報、京都、神戸、西日本、上毛、神奈川である。読売は、「またも国際法無視か」と厳しく批判する。京都は、先制攻撃に「道理がないのは明らかである」と言う。朝日は「違反」という言葉は使っていないが、国連憲章に反するとしており、信毎は、国際法を「無視」していると批判した。例えば、読売は、「国際法に違反する可能性がある攻撃を支持することはできない」と批判していた。とくに神奈川は「「私に国際法は必要ない」と公言してはばからないトランプ氏の行為は目に余る」と厳しい。北海道も同じである。これに対し、産経は、アメリカの攻撃は国連憲章や国際法への違反だという批判はしていない。その主張には、国連憲章や国際法はまったく問題にされていないのである。

(2)この問題は「自衛権」の有無に関係している。昨年6月のイラク攻撃の際に毎日が言っていたように、「国際法上、他国への武力行使が認められるのは、自衛権の行使か国連安全保障理事会の決議がある場合に限定されている。自衛権の行使は、攻撃を受けた後に反撃する場合や、差し迫った脅威があることが前提となるが、いずれにも当たらない。」昨年6月の攻撃の時、トランプ政権は決議どころか、軍事介入につき国連安全保障理事会に報告さえしようとしなかった。前回と同様今回も、安保理の決議などないわけであるから、アメリカに「差し迫った脅威」があったか否かが問題になる。これに関しては、読売、朝日、日経、信毎、北海道、タイムズ、京都、上毛が、イランからのミサイル攻撃は米軍関係者自身が可能性を否定していて、そういう脅威はなかったと論じた。北海道は、「米国に到達可能なミサイル開発」について米国防情報局は実用可能な開発は2035年までかかると評価している」と指摘する。読売は、トランプ政権は昨年6月のイラン空爆で、「核施設は完全に壊滅された」と作戦の成功を誇示していたはずだ。わずか8か月で脅威が復活したとすれば、当時の説明と矛盾する」と厳しく批判する。一方、産経は、当然のことながら、この点を問題にしなかった。

2.アメリカ議会の承認について

 アメリカの攻撃が米議会の承認を得ていない点からも不法な攻撃だとするのは、読売、東京、信毎である。中でも、信毎は、「攻撃は国連安全保障理事会の決議もなく、米国で宣戦布告の権限を有する議会にもはかっていない。攻撃に法的根拠はない。」と批判し、北海道は、「攻撃が米議会の承認を得ていなければ、法治国家としてもゆゆしき事態だ。」と警告している。

3.ハメネイ師殺害と体制転換について

(1)イランの最高指導者ハメネイ師の殺害について、朝日と北海道はこれを「主権の侵害」だと批判し、毎日は「不法な蛮行」と批判し、日経は「常軌を逸している」と批判し、神戸は「法の支配を無視」するものだと批判している。とくに読売は、ベネズエラの時のように、「意に沿わない国家指導者を軍事行動で排除する斬首作戦」をイランでも決行したことに、「驚きと憂慮」を禁じ得ないと批判した。

(2)アメリカとイスラエルが、イランの体制転換を扇動していることについては、読売は「主権の侵害」、北海道、新報は「内政干渉」、信毎、タイムズは「国際法違反」、京都は「主権と自決権を侵害するもの」として、厳しく批判している。やや変わった批判は、東京が体制転換は「難しい」とし、京都が「無責任」だとしている例である。いずれもイラン国内には現体制を批判する動きがあることは認めつつ、体制を決めるのは自国民だという立場から批判しているのである。例えば、読売は、「どの体制を選ぶかは、当事国の主権の問題である。軍事行動で体制転換を図るのは主権侵害にほかならない」と厳しく批判する。一方、産経は「今回の米軍などの攻撃は体制転換の狙いもあろう」と是認しているのが、例外的である。

(3)イランの国内体制について、信毎、京都、新報、上毛を除いて多くの社説が言及し、その脆弱さと経済危機に付け込んでアメリカなどが攻撃を開始し、体制転換を呼び掛けているとみている。読売は、「物価高などへの不満からハメネイ師退陣などを求めるデモが全国に広がっていた」、「イスラムを当地の基本とする体制は、存亡の瀬戸際に追い込まれた」と見ていた。日経は、「米国の制裁でイラン経済は疲弊し、昨年末から経済難に抗議するデモが起き全国的な反政府運動に至った」と、アメリカの制裁の影響を指摘する。また、イスラエルの攻撃の影響も指摘する。「一昨年来のイスラエルとの交戦もあり、イランは弱体化している」と。だから、イスラエルは今を「痛撃の好機」と見、「米国も1979年の在イラン米大使館人質事件以来イランと対立している」ので、イスラエルに同調したという。しかし、イランの国内体制を深堀したような議論はなかった。

3.核協議について

(1)イランとアメリカがイランの核開発について協議をしている時に、しかも次の会議が予定されている時に、アメリカが軍事攻撃に出たことについては、読売、朝日、毎日、日経、信毎、北海道、タイムズ、京都、神戸、西日本、上毛、神奈川は、いずれ厳しく批判をしている。その中でも、読売、朝日、信毎、西日本は、協議はしょせんアメリカなどの「時間稼ぎ」だったのだと非難している。外交を無視して軍事量に頼ったということである。

(2)イランとアメリカの核協議が一定の進展を見せていたにも関わらず、アメリカは協議を捨てて、軍事攻撃をしたとするのが、日経、毎日、東京、信毎、京都である。例えば、信毎は「仲介したオマーンは27日、イランが核兵器製造につながる高濃縮ウランを放棄する意向を示していると語っていた」という。京都も、「イランは核兵器製造放棄の意向で、仲介国オマーンも進展と評価していた」という。東京は、「イランは核交渉で譲歩する姿勢も示していたが、米軍の攻撃で決裂は必至。そればかりかイラン以外の非核保有国が、自衛名目に核開発を加速する懸念は高まる」とユニークな批判をしていた。北海道は、トランプはイランが協議を拒否したというようなことを言うが、「交渉の進展を望まないイスラエルの要求に同調するかのような米国の態度」は理解に苦しむと批判した。これに対し、産経はこの協議の進展を認めず、「イランに核兵器開発の意思があったのは明らかだ」と断じていた。

(3)アメリカはイランが核開発をするのはけしからんとしてイランに攻撃をしたが、これはイスラエルの核兵器保有を認めることと矛盾するとして、核の二重基準を指摘する新聞もあった。北海道は、「イランの核開発を認めない一方でイスラエルの核保有を黙認する態度は身勝手が過ぎるというほかない」と批判し、「親イスラエルの米国の二重基準」だと主張した。一方、読売は、北朝鮮を問題にして、トランプは、「北朝鮮の核開発には目を瞑って「核保有国」と呼び、現状を容認するかのような発言をするなど、二重基準が目に余る」と厳しい批判をしていた。

(4)イランの核開発については、産経がその「放棄」を求め、読売がその「停止」を求めていた。読売は、イランが「長年、透明性を欠く形で核開発を続けてきた責任」を問い、「核武装の意図を否定しながら、核兵器の材料に転用できる高濃縮ウランの製造を続け、自ら危機を高めてきた」と指摘する。日経は、イランが「不透明な核開発への疑念を晴らせずにいる」ことを指摘している。毎日は 「核兵器開発を疑われる高濃度のウラン濃縮活動を停止」せよと言う。一方、北海道は、「そもそもイランの核開発を制限する核合意の枠組みから一方的に離脱し、イランのウラン濃縮再開を招いたのは第1次トランプ政権だ」とアメリカの矛盾を指摘する。日経も「米欧など6カ国とイランは2015年にイランのウラン濃縮活動を制限する核合意を結んだ。この合意から18年に一方的に離脱したのが1期目のトランプ政権だ。・・・今に至る危機の素地をつくった責任の一端は、トランプ氏にある」とトランプの責任を問う。 

4.武力攻撃について

(1)なぜいま攻撃かと問いつつ、読売、日経、西日本は、中間選挙に向けてアメリカのトランプ大統領の支持率が低下傾向にある中、戦争の成果によって支持率を回復させようとしたのだと見ている。また、北海道は、「大統領の支持率が低迷する米国と首相が汚職疑惑を抱えるイスラエルに、関心をそらす狙い」があるのではないかと指摘している。

(2)イランへの攻撃はイランの軍事施設などと政府軍事関係者を狙ったという点ではすべての社説は一致しているが、攻撃が住民をも対象としたことには、すべての社説が一致しているわけではない。西日本、北海道、毎日、京都、信毎、神戸が住民への攻撃を取り上げている。とくに、北海道は、「小学校が標的となり多くの子供の命が奪われた」とし、毎日は、「今回の軍事作戦で約20都市が攻撃され、・・・民間人にも数百人の死傷者が出ており、南部の女子学校では100人以上が犠牲になったとされる」と批判している。

(3)イランは報復として、イスラエルへの攻撃のほか、近隣諸国にある米軍関係の施設などを狙った攻撃を行ったが、これについては、朝日、毎日、日経が、懸念を表明している。朝日は、「地域全体を巻き込む戦争に拡大させ」ないようにすべきだとし、毎日も「イランの混乱が周辺国に拡大すれば状況はさらに制御不能になる」。「すぐにやめるべきだ」と強く主張する。日経は、「報復の応酬」をくい止めねばならないという。アメリカの攻撃を受けたイランの自制を求めるのがほとんどである。

5.原油とホルムズ海峡について

 戦争がホルムズ海峡封鎖の可能性と世界の原油供給に及ぼす影響については、ほぼすべての社説がこれを懸念している。

 その中で、最もしっかりとした議論をしているのは、新報である。「イラン攻撃は世界と日本の経済にも大きな影響を与える。世界の石油消費量の2割、日本への原油の9割が通過するホルムズ海峡が事実上閉鎖された。日本国内の石油備蓄は254日分ある。ただちに不足しないとはいえ、価格の値上がりは避けられない。あらゆる産業に影響が出て、物価を押し上げる。」と問題を指摘している。同じように毎日も「ペルシャ湾・ホルムズ海峡は原油輸送の要衝だ。エネルギー供給を中東に依存する日本への影響も大きい。」「革命防衛隊がホルムズ海峡での船舶の航行を禁じたことで、原油や天然ガスの輸送ルートが事実上封鎖されたとの報道もある。」日経は、「衝突がペルシャ湾の航行や石油施設に影響する恐れから、原油価格には上昇圧力がかかる。世界経済の重荷になりかねない。」「エネルギー供給の停滞が深刻に危惧される。海運大手がエネルギー輸送の要衝であるホルムズ海峡の航行停止を決めた。原油や天然ガスの価格に上昇圧力がかかるなど市場が動揺し、世界経済の重荷となるリスクがある。」朝日は、「ペルシャ湾の出入り口ホルムズ海峡は、世界の海上石油輸送の約4分の1を支える要所だ。攻撃の欧州により、船舶の航行は事実上止まっている。この状態が長引けば、原油価格の高騰など世界経済に大きな打撃となろう。中東に原油の9割以上を依存する日本は、影響を免れない。約240日分の石油備蓄があるが、ガソリン価格の上昇も心配される。先を見通した冷静な対策が求められる。」

 これ以外の読売、産経、東京、北海道、タイムズ、神戸、京都、信毎は、比較的簡単に、ホルムズ海峡が封鎖されれば、原油価格が上昇し、世界経済に大きな影響を及ぼすだろうと警告している。

6.歴史の教訓 

 アメリカなどがイラクやリビアなどを武力攻撃しても、その後には混乱を招いただけであり、そうした歴史を教訓として学ぶべきであるという主張は、多くの社説が述べている。これは昨年6月の攻撃に際しても問われていた問題である。

朝日は、米英などがフセイン体制を倒した後のイラクは泥沼化し、北大西洋条約機構(NATO)軍が空爆し、カダフィ政権が崩壊したリビアはいまも内戦が続いているとし、「歴史の教訓に学ぶべきだ」という。毎日は、イラクでは2003年、米軍の侵攻でフセイン政権が崩壊した後、国内が大混乱し、アフガニスタンでも01年に米軍の攻撃で社会が混乱した。米国にとっては苦い教訓だったはずだという。日経は、「米国はイラクやアフガニスタンに軍事介入し後始末に苦しんだはずではないか。」という。新報は、「米国はかつてアフガニスタン、イラクで体制転換を目指し失敗した」と指摘。神戸は、「米国は2003年、大量の破壊兵器を隠し持っているとしてイラクのフセイン政権を打倒した」と批判、西日本は「米国は2000年代にイラクやアフガニスタンなどで起こした戦争を泥沼化させ、自国も痛手を被った苦い経験がある。トランプ政権は同じ過ちを繰り返すのか」と厳しい。

7.世界の反応

(1)「国際社会」(筆者はこの言葉は嫌いだが)の動きに注目しているのが、北海道、朝日、新報、上毛、西日本である。このうち西日本は「結束」して、アメリカ・イスラエルに「最大限の自制」を求めるべきだとし、北海道は両国の「暴挙を容認してはならない」としているが、朝日、新報、上毛は少し面白いことを言っている。

 朝日は、「法による秩序が力で壊される弱肉強食の世界に戻してはならない。国際社会は危機感を共有する必要がある。ただ、各国の対応は割れている。英国は「紛争拡大は望まない」と表明、フランスは交渉による解決を求めた。欧州連合(EU)は国際人道法の順守を訴えた。一方で、カナダのカーニー首相が米国支持を打ち出したのは、きわめて残念だ。ルールに基づく国際秩序の衰えを指摘し、大国の横暴に対抗する中堅国の結束を訴えたのではなかったか?」としている。

 上毛は、「イラン攻撃について、英国やフランス、ドイツなど欧州諸国も、関係国に自制を促したものの、米国などへの明確な批判を避けた。トランプ氏を刺激したくないとの本音や、第2次大戦下のユダヤ人大量虐殺を背景にしたイスラエルへの配慮がうかがえる」と欧州を批判する。

 新報は、「英、仏、独の3か国は共同声明を出し、イランによる中東各地へのミサイル攻撃を非難し、米国などと協力することで合意したと表明した」。しかし、「国際法違反が指摘されるロシアのウクライナ侵攻に対する姿勢」とは違っていて、これは「ダブルスタンダード」ではないかと迫る。

 それぞれに的確な指摘であるが、興味深いことに、「国際社会」(ここでは英仏独のこと)の対応についての見方が、三社で違っているようである。

(2)国連に期待する声は、極めて少ない。昨年6月との違いのひとつである。まともに論じているのは、毎日のみである。イランへの攻撃を受けて開かれた国連安全保障理事会では、米国やイスラエルを非難する意見が相次いだという。一方、グテレス事務総長は米国、イスラエルの攻撃とイランの報復を非難した後、「はっきりさせておきます。永続的な平和は、真の対話と交渉を通した平和的手段でのみ達成できます」と述べたと言う。

8.日本政府の姿勢について  

 日本政府に邦人保護の措置を求める点においてはすべての社説で異論はない。それ以外の点で日本政府に姿勢に対して、産経を除いて、読売を含めてすべての社説が昨年6月と同じような批判している。

(1)アメリカ・イスラエルの攻撃への評価を回避していると批判するのは、読売(2度)、日経、東京、北海道、新報、神戸、上毛である。日本はアメリカの同盟国であるから批判せよというわけである。タイムズは「暴挙に毅然とした姿勢を」と言い、神奈川は「無批判な対米追従」を改めよと言う。京都は「米国を批判もいさめもしないのは理解に苦しむ」、「米国に追従」するなと注文した。

(2)両国の暴走を止めよというのは、6社である。読売は「憂慮を伝えよ」、北海道は両国を「止めよ」、新報は両国を「説得せよ」、神奈川は「いさめよ」、毎日は「自制を働きかけ」よ、日経は「懸念を明確に伝え、緊張緩和を求めよ」という。

(3)停戦・平和解決・外交努力を求めるのは多い。読売、朝日、日経、北海道、神戸、東京、新報である。例えば、北海道は「責任ある平和外交を」、神戸は「外交交渉を」、上毛は「積極的な対話外交で」、東京「即時停戦を求めるべき」、読売は「事態の鎮静化を米国に働きかけよ」、新報は「国連憲章、国際法を遵守し、国際ルールの下に戻るよう説得すべきだ」と言う。

(4)イランに矛先を向けることによって、事実上アメリカなどを認めているではないかと言うのは、北海道である。すなわち、北海道は「イランに矛先を向けて、攻撃に一定の理解を示した」と批判している。

(5)日本政府の二重基準を指摘するものもある。神奈川は「法を顧みぬ振る舞いをただ座視して」いるだけでは、「ウクライナ侵攻を続けるロシアを批判できなくなる」とし、新報は、これまでロシアを「力による現状変更」だと批判してきたのに、おかしいと疑問を呈している。

まとめ

 今回の攻撃にはイスラエルのネタニヤフ首相のイニシアティヴの重要性が指摘されているが、イスラエルの責任を独自に問う声は意外にもほとんどない。戦争の遠因として、イスラエルの中東全域への「野心」も含め、イスラエルの責任についてはアメリカとは別にもう少し言及があってもよかった。昨年6月には、トランプのアメリカのイラン攻撃は、「イスラエルと一体化した軍事行動を急いだ場当たり的な対応との印象が拭えない」とし、米国はイスラエルに強い影響力を持つのに自制させず、イラン攻撃に加担したと批判した北海道新聞を始めいくつもの新聞がイスラエル批判を展開していたが、今回は静かであった。

 この戦争の影響として、ウクライナでの戦争やガザとヨルダン川西岸でのパレスチナ人のジェノサイドがどのようになるのかといった視線もほしかった。興味深いことに、朝日だけがトランプの提唱するガザの平和評議会に悪影響を与えると述べている。「中東、イスラム諸国がイスラエルの独善に反発することは必至だ。評議会は機能不全に陥りかねない」というのである。平和評議会にこれほどの重要性をもたせているのは、朝日だけである。

 また、この戦争が北東アジアに対して持つ意味を産経は次のように危惧している。イランとの戦争が長引けば、「米国の関与が手薄になり、中国や北朝鮮、ロシアが北東アジアで挑発的な行動に出る恐れもある」というのである。

 昨年6月には、朝日新聞が、「イラク戦争時から未解決な国際問題は実は、中東の混迷だけでなく、米国の暴走に対処するすべを世界が見いだせていない現実だ」と述べていたが、今回も見事にこの現実が露呈したのである。

 総じて、産経は日本の高市政権と同じ論調を取っていることが際立っている。すべてをイランのせいにして、イランの自制を求めている。昨年6月にはやや立場があいまいで会った読売は、今回は、きっちりとアメリカ・イスラエルを批判しているのが注目される。

 最後に一言。日本全体での意見分布という点では、おそらく新聞の情報を参考にする人は1割にも満たないであろう。圧倒的に多くの社説がアメリカ・イスラエルの攻撃を糾弾し、日本政府の姿勢を批判していても、SNSなどの情報による世論はそうではないだろう。このギャップをどう考えるべきだろうか。

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