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教科「世界史」誕生を歴史する—ルアナ・ボールズの軌跡から
高澤紀恵・郷戸夏子

 全国の高校に新教科「歴史総合」が導入されて二度目の春を迎えようとしている。教科「日本史」と「世界史」を総合したこの必修教科をいかに捉え、いかに教えるか、限られた時間割のなかで教室現場の真剣な模索が続いている。しかし、「世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉えて」と言われても、「日本史」と「世界史」という教科体制によって作られた私たちの二項的な認識枠組は、一朝一夕に変わるものではない。歴史を専門に学ぼうという史学科の学生たちからも、「世界史(あるいは日本史)は苦手だしコンプレクスになっている」という声をよく聞く。日本と世界、日本史と世界史の間に堅固な壁を作るこの思考から、どうすれば私たちは解き放たれるのだろうか。過去を「総合」する見方をどうすれば獲得していけるのだろうか。特効薬があるわけではないが、教科「世界史」が生まれた時期に立ち戻り、その時期に活躍したひとりのアメリカ人女性ルアナ・ボールズ(Luanna Jane Bowles,  1892-1975)の軌跡を追うことで、その手がかりを探ってみたい。

1.戦後教育改革と「世界史」

 高校教科「世界史」は、いわば戦後の子である。新制高校の誕生が1948年なのだから当然といわれそうだが、高校でこの新教科が教えられるようになるのは、翌49年の春からである。わずか1年の差とはいえ、このズレには大きな意味がある。この1年は、戦後教育改革の最大課題の一つ、(当時国史と呼ばれていた)日本史の何を、いかに、どの段階で教えるか、という深刻な問題が生んだズレだからである。

 日本史教育については、戦後すぐに豊田武を中心に文部省内で再検討が始まったが、国家主義的・軍国主義的枠組を守るその姿勢に満足しない連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for Allied Powers,以後GHQ/SCAPと略)は、1945年末に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」指令を出す。以後、日本史の教科書類は回収され、歴史教育全般の刷新が加速する。翌1946年3月に来日したアメリカ教育使節団は、1ヶ月後に包括的な報告書を公表する。そこには「記録された歴史と神話とが意識的に混同され」た戦前の歴史教育の問題点を指摘した上で、新たな歴史教科書の編纂が提案されている[1]。実際、10月にGHQは覚書「日本歴史の授業再開について」を出し、文部省は11月に通達「国史授業指導要項について」を公にするので、GHQの停止措置が長く続いたわけではない。しかし、この間の交渉の結果、再開された日本史教育は、小中学校に限定され、六.三.三制に基づき新設される高校には、当初、日本史を教える教科は置かれなかった。新制高校での歴史の教科は、新たに導入された社会科の四つの選択教科のなかに「西洋史」と「東洋史」だけが設置されたのである(1947年6月文部省通達)。実際、この方針に沿って、47年には学習指導要領「東洋史編」(試案)、「西洋史編」(試案)が作られている。二分冊の教科書も準備されていた。48年春には、社会科という新しい枠組のもとで、新制高校は選択教科として「西洋史」と「東洋史」の二教科を週五時間、教え始めたのである。しかし、開始早々、高校でも「日本史」を教えて欲しい、あるいは教えるべきである、との声は高く、半年後の10月11日に文部省は、通達「新制高等学校教科課程の改正について」(通達第448号)を発し、高校の社会科のなかに教科「国史」(のちに日本史)を組み込むと共に、「西洋史」と「東洋史」の二教科を廃し、かわって「世界史」という新しい教科を置いたのである。つまり、教科「世界史」は、新制高校で日本史の教育を行う際に、にわかにつくり出された教科であった。実際、49年4月には、学習指導要綱も検定済み教科書もないままに授業が始められた。「一つの怪物が、1949年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も、西洋史家も、東洋史家も、はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては、難解なることゴルギアスの結び目の如くである」[2]と嘆息されるような状況であった。これが、今に繋がる日本史/世界史の二教科体制の始まりである。教科「世界史」は、人類の過去を国史/東洋史/西洋史として三分割して捉える認識を前提に、内発的・学問的議論を経ないまま、東洋史と西洋史を足し合わせて生み出されたのである[3]

 戦後の社会科創設のこうした事情や歴史教育をめぐる複雑な駆け引き・経緯については、片上宗二、梅野正信、土持ゲーリー法一、ハリー・レイ、木村博一、茨木智志ら教育史・教育学の専門家によって、手堅い実証研究が積み上げられてきた。とりわけ1980年代からは、従来の日本側資料に加えてGHQ/SCAPの資料の利用が可能となり[4]、日米関係者への聞き取り調査も精力的に行われた。日本の「戦後歴史教育史」や「社会科教育課程成立史」は、より精緻に、より立体的に描かれることになった。歴史教育改革の只中にある私たちにとって、これらの成果から学ぶところは極めて大きいのだが、ここでは、視点をずらし、前述の教科「世界史」誕生に深く関わったアメリカ人女性ルアナ・ボールズに着目してみたい。彼女の生の軌跡を追うことは、教科「世界史」誕生という出来事を日本という磁場から連れだし、より広い世界史的文脈で考える糸口を与えてくれると思うからである。

2.教育改革・「西洋史」・ボールズ

 戦後教育改革を推進したのは、GHQ/SCAP内の民間情報教育局(Civil Information and Education Section, 以下CIEと略)である。ルアナ・ボールズは、1946年8月10日に来日し、CIE教育課のスタッフに加わった。一足早く着任したモンタ・L・オズボーン(Monta L. Osborne, 1912-1990)とともに、中等教育を担当し、六.三.三制に基づく中等教育改革構想の策定や男女共学の推進[5]、さらに社会科の導入に精力的に活動した女性である。それゆえ、彼らが残したCIEの会議報告は、戦後教育史の超一級の資料であり、その公開が研究水準を一気に高めたことは、前述のとおりである[6]。とりわけ新制高校の教科「西洋史」の教科書や執筆要綱の作成は、オズボーンではなく、ボールズが責任者であった[7]。彼女は、オズボーンの単なるアシスタントであったわけではない。日本側は、東京大学の今井登志喜教授の責任で、実際にはその若き弟子たち(板倉勝正、橡川一朗、金澤誠、矢田俊隆、林健太郎)が教科書執筆にあたった。学習指導要領をとりまとめ、古代の執筆を担当した板倉勝正の回想によれば、「オズボーン少佐もボールズ女史も、いわばリベラリストであり、占領軍の権威を笠に圧迫を加える様なことは全くなく、私達は自由に議論する事が出来て、結局私共の言い分は大部分受け入れられた」[8]という。こうして1947年8月に二分冊の第一巻、『西洋の歴史(一)』が出版される。しかし、この教科書にある聖書の記述(板倉執筆箇所)を日本のカトリック教会が問題視し、アメリカの世論を巻き込む大問題となった。この事態に対し、大統領選に野心を抱く連合軍最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)は、「著者と出版社は厳しく懲戒された」とアメリカのカトリック宛てに認めているが、実際に懲戒が行われた形跡はない。しかしながら、このトラブルのために『西洋の歴史(二)』は、結局は刊行されずに終わるのである。この予期せざる騒動に際して、『西洋の歴史(二)』の出版に最大限の努力をしたのは、ルアナ・ボールズであった[9]。さきほどの板倉は、後年、ルアナに対して「30年たった今、健在なら80歳をこえているだろう。あの穏やかな人柄は今でも懐かしいし、戦争中から持ちこした立腹を彼らにぶつけて彼女に迷惑をかけたことが悔やまれる」[10]と述懐している。彼の記憶には事実誤認もあるが、30年後のこの言葉には板倉の心情が刻まれている。

 以上のように『西洋の歴史』に限ってみても、ボールズは大きな役割を果たしており、教育改革の重要なアクターなのだが、その経歴については必ずしも十分に明らかにされていない。ボールズと共に中等教育を担当したオズボーンについては、1986年に片上宗二による聞き取り調査が行われている。1912年生まれのオズボーンは、ミズーリのカレッジで教育学、歴史学を学んだ後、サウスウェスト・ミズーリ州立大学で自然科学を学んで1940年に卒業した。小学校と高校で教職を経験しており、高校では社会科を教えていたという。陸軍に入って中国にわたり、終戦後も中国に残っていたが、46年5月にCIEに志願して来日したという[11]。当時まだ30代の前半である。益田肇は、「当時、総司令部に勤務していたのは、いまから振り返れば驚くほどの若手ばかりだった。そのほとんどはまだ20代から30代で、その多くが才能と野心に溢れた若者だった。彼らにとっては東京での勤務は、いずれに本国に帰ってキャリアアップするための一ステップにすぎなかった」[12]と述べているが、少なくとも年齢などから見る限り、オズボーン少佐の経歴は益田の指摘にぴたりと当てはまる。

 ところが、ルアナ・ボールズについては、どうであろう。実は、板倉の回想が出る1年前にルアナは亡くなっており、アメリカ側の資料が用いられるようになった時期に聞き取り調査がなされなかったためか、経歴、家族関係なども曖昧なままである。ズボーンと共に働くこの女性は、何故に極東の敗戦国日本の教育改革に携わることになったのだろう。それまでどこで、どのような生活を送っていたのだろう。あるいは日本の占領が終わって以降、彼女はどこで、どのような生を歩むのだろう。

3.ボールズ家の人々

 1955年の国務省人名録によれば、ルアナ・J・ボールズは、1892年9月18日カンザス州生まれとある。CIEに加わるために来日したのが1946年8月なので、当時53歳であった。同僚のオズボーン少佐より20歳年長である。以下、人名録が教える経歴を履歴書風に訳してみよう。

1923年(アイオワ州)ウィリアム・ペン大学卒業、学士号

1934年(テネシー州)ピーボディ大学修士号〈教育〉

 シカゴ大学,コロンビア大学,アメリカン大学大学院で農学を学ぶ

1923-26年 教師

1927-28年 東京の私立学校

1929-41年  フィスク大学学長補佐兼広報部長

1942-46年  連邦安全保障庁教育局編集・執筆担当(アソシエート)

1946-50年,東京のSCAP中等教育担当官

1952年6月10日 ポイント・フォア-4に任命、イランのテヘランへ普通教育アドヴァイザーとして派遣

1954年4月25日 海外勤務職員[13]

 ウィリアム・ペン大学は、クエーカー(フレンド派)によって1873年に建てられた大学であり、この経歴は、ルアナの宗教的バックグラウンドを示唆している。実際ボールズ家は、クエーカーの一族であり、戸田徹子によれば、17世紀末のメリーランドにまで辿ることができるという。クエーカーとは、「「内なる光」の教え、聖霊の導き、専任牧師職の否定、プログラムのない沈黙の礼拝、平等の強調、平和主義、簡素な生活様式など」[14]を特徴とするプロテスタントの一宗派であり、17世紀中葉にイギリスでジョージ・フォックス(George Fox, 1624-1691)を中心としたグループによって始められた。国教会体制のもとで激しい迫害を受けた彼らには、クエーカーのウィリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)がたてたペンシルヴァニアを中心にアメリカ植民地に逃れた者も少なくなかった。メリーランドから北西部に移動したボールズ家は、ルアナの祖父エフライム(Ephraim、1829-1914)の代にカンザスに移り住んだ。農民であったエフライムの三番目の子どもが、ルアナの父レヴィ(Levi, 1856-1942)であり、九番目の子どもにはギルバート(Gilbert, 1869-1960)がいる[15]。この叔父ギルバートの存在は、ルアナの軌跡に大きな影響を与えたと思われる。というのも、苦学してウィリアム・ペン大学に学んだギルバートは、1901年に、伝道者として日本に向かい、以後、長く日本で活動した人物だからである。ギルバートの妻となるのは、すでに伝道者として普連土女学校の教師をしていたミニー・ピケット(Minnie Pickett, 1868-1958)であった。東京三田の普連土女学校は、1887年にフィラデルフィアのクエーカーたち、とりわけ婦人伝道会の人々が中心となって創設した学校である。その設立には、アメリカ留学中の新渡戸稲造や内村鑑三の助言に加えて、津田梅子の父、津田仙の協力があった。ギルバートは、第2代の主任伝道者として普連土女学校の運営に携わり、東京と茨城のクエーカーたちを支えた他に、結核予防運動、禁酒禁煙運動などの社会活動、さらには1906年には大日本平和協会の発足に尽力したことで知られる[16]。キリスト教関係者に留まらない彼の交友関係は、渋沢栄一との書簡からも伺うことができよう[17]

 ギルバートとミニーの日本での活動は、太平洋戦争の勃発まで実に40年の長きにわたった。二人の息子として東京三田で生まれたのが、高名な人類学者ゴードン(Gordon Townsend Bowles, 1904-1991)である。彼はルアナの従兄弟にあたる。東京大学や国際基督教大学で教鞭をとったその経歴については、原ひろこがまとめた訃報に詳しいが、本稿にとって重要なことは、ハワイ大学で人類学の准教授であったゴードンが太平洋戦争勃発後、国務省の日本地方専門委員を経て極東顧問となったことである[18]。国務省は、日本の敗戦を見越して1944年には戦後計画委員会を設立し、戦後改革の準備を始めていた。1945年7月末に「日本帝国の降伏後の軍制:軍国主義を廃止し民主化過程を強化するための方策:教育改革」という文書を国務省で起草したのは、日本語に堪能で日本をよく知るゴードンである[19]。彼はここで「国史」、「地理」、「修身」三教科の教科書を精査する間、この三教科を停止すべきことを勧告していた[20]。1946年3月のアメリカ教育使節団を国務省で組織し、事務長格で来日したのも、このゴードンであった[21]。この時の彼の職責は、国務省文化関係局極東課長である。

 アメリカのクエーカー研究の拠点であるハヴァフォード大学のデータベースには、「ボールズ家は、20世紀を通じてクエーカーの伝道活動と救援活動に深く関わった」[22]とあるが、ルアナは戦前から日本で活動したこのボールズ家の紐帯の中にあったのである。

4.東京・ナッシュビル・ワシントン

 国務省のルアナの経歴にある「東京の私立学校」とは、言うまでもなく叔父一家のいる普連土女学校である。『普連土学園一〇〇年史』によれば、ルアナは1927年9月から1928年7月まで普連土の教師をしている[23]。東洋の文化と歴史を学ぶためであった、と当時の新聞記事にはある[24]。日本に来る前の彼女は、カンザスとアイオワの学校を経て、フィラデルフィアのウエストタウン寄宿学校で歴史の教師をしていた[25]。ウエストタウンから二年間の休職を得ての来日であった[26]。ウエストタウンは、クエーカーが子どもたちの教育のために1799年に創設した、アメリカ最古の男女共学校である[27]。戦後CIEのメンバーとして来日する以前に、ルアナはアジアへの関心を持ち、昭和初期の日本と日本人を直接に知っていたのである。

 アメリカに戻ったルアナは、29年から41年まで、南部テネシー州ナッシュビルのフィスク大学で学長、トマス・エルザ・ジョーンズ(Thomas Elsa Jones,1888-1973)の学長補佐として活動している。英語を教えていた[28]、と伝える史料もある。フィスク大学はもともと、解放された黒人の教育を目的として南北戦争後にアメリカ伝道協会がつくった学校である。ルアナが着任する三年前、フィスク大学は大きな動揺を経験した。第一次世界大戦後の財政難からロックフェラーなど実業界の基金に資金援助を頼ったことから、大学の伝統が損なわれ、これに反発した学生、卒業生、黒人知識人、地元の黒人コミュニティによる反対運動がまき起こったのである[29]。彼らの要求は差別的なマッケンジー学長(Fayette Avery McKenzie, 1872-1957)の罷免と黒人学長の選出であった。マッケンジーが辞任を余儀なくされた後、1926年に新たに全米最年少の学長として選ばれたのが、当時、コロンビア大学の社会学の教授であったジョーンズである。タイム誌によると、大学側は「伝統」に基づき、黒人たちが受入れ可能な白人学長を数ヶ月かけて探したという[30]。ここで注目すべきは、ジョーンズがイギリスにおいてもアメリカにおいても奴隷解放運動を先導してきたクエーカーであったことである[31]。彼はまた、1917年から24年まで米国フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)の一員として日本で活動した経験をもっていた。米国フレンズ奉仕団とは、絶対平和主義に立つクエーカーが、1917年、アメリカの第一次世界大戦への参戦直後に「良心的兵役拒否者に戦闘行為に代わる仕事を提供すること、ヨーロッパの戦後復興に貢献することを目的に」[32]創設した組織である。ジョーンズは、設立直後の米国フレンズ奉仕団のメンバーとして来日し、1923年の関東大震災に際しては「基督友会奉仕団」を立ち上げ、羅災者救援のために尽力した[33]。東京から戻ったルアナは、ナッシュヴィルに住み、12年にわたってこのジョーンズ学長を支えてフィスク大学で働いた。この間、ナッシュヴィルの白人向け地方誌は、ルアナが地域の職業婦人達たちの夜間学習会のプログラム委員会の委員長に選出されたことを伝えており[34]、この町での彼女の活動域の一端を教えてくれる。

 1942年から、ルアナの職場は戦時下のワシントンに移る。彼女は、連邦安全保障庁教育局の職員として全米の教育機関要覧や教育者の名簿などの編集作業に当たっている[35]。また、戦後の47年に刊行された「親、教師、そして若者が共に創る」と題したパンフレットには、編者としてルアナの名前を認めることができる。その序文はナチ・ドイツと日本の教育をデンマークの学校と対比しつつ「このパンフレットは、我々アメリカの学校システムにおいて民主主義的な条件と手続きが強められるよう強く訴えるものである。・・・民主主義的な生活のための教育は、すべての学校の主要目的でなければならない」[36]と記されている。

 1946年8月、敗戦後の日本にやってきたルアナは、教師として、大学行政者として、教育行政官として、豊富な経験と識見を備えた女性だったのである。そしてそのキャリアは、フィラデルフィアを結節点とするクエーカーの稠密なネットワークのなかで形作られていた。果たして彼女が中等教育担当官としてCIEに加わったことは、数ヶ月前、米国教育使節団のメンバーとして日本の教育改革、なかんずく歴史教育の方向を示したゴードン・ボールズと無関係だったといえるであろうか。

5.再び日本、そしてイラン、ネパールへ

 ルアナが到着して2ヶ月後、もうひとりクエーカーの女性がアメリカから日本に到着した。皇太子の家庭教師となるエリザベス・G. ヴァイニング(Elizabeth Gray Vining, 1902-1999)である。ヴァイニング夫人の名前で親しまれた彼女が、横浜から始めて東京の住まいに到着した時、出迎えた人々の中にルアナはいた。アメリカ・フレンド奉仕団の代表としてアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia, 通称LARA)で働くエスター・ローズ(Esther B. Rhoads, 1896-1979)と一緒であった。エスターも、普連土女学校で長く教師をし、日米開戦後は日系アメリカ人の救援活動を行ったクエーカーである[37]。ヴァイニングとエスターは同郷であり、エスターとルアナは普連土女学校の教師としての経験を共有する旧知の仲であった。ルアナの仕事ぶりについて、ヴァイニング夫人は次のような言葉を残している。「アメリカ人の多くはマッカーサー元帥のいわゆる「十字軍の戦士」だった。・・・ルアナ・ボールズのような人々は、もっと現実主義的であったが、やはり強い熱意をもって日本の文部省の役人たちと一緒に働き、うまずに説得し説明して、地方分権その他の施策の理由を日本の役人たちに理解させ、従前の「告示」という方法の代わりに討議と投票とによる方法を、これも実践と感化という手段を通じて学びとらせようとつとめていた」[38]

 ではルアナ自身は、日本での日々をどう語っているだろう。1971年、アンカレッジでの天皇―ニクソン会談をテレビでみたルアナは、次のように回想している。「四年以上にわたって私はSCAPの文民教育スタッフをつとめていた。私たちは日々、日本の文部省や全国の教師、行政者と協力しあっていた。・・彼らは、戦後世界で敗戦国たる彼らの国が重要な位置を占めていけるよう日本の若者を育むカリキュラムを創り、学校制度を確立しようと懸命に努めていた」[39]。新制高校の教科書『西洋の歴史』を共に作った板倉の証言とも響き会う回想である。ルアナにとって、民主主義の実現は教育の大切なゴールであり、改革のプロセスもまた民主主義の重要な実践であったのだろう。

 1952年は、サンフランシスコ条約が発効し日米安保条約のもとで日本が独立を回復する年となる。それは高校社会科の選択科目としての「日本史」と「世界史」の指導要領(試案)がようやくまとめられた年でもある。この年、ルアナは、60歳にして新しい任地、イランへと向かった。国務省の記録は、ルアナがポイント・フォア計画の一翼を担っていたことを教えている。ポイント・フォアとは、トルーマン大統領(Harry S. Truman, 1884-1972, 大統領在位1945-1953)が1949年の就任演説で発表した四大行動方針の四つめ(ポイント・フォー)、「低開発地域に対する技術援助」を指し、1950年から具体化していくプロジェクトである[40]。ルアナは、1950年にイランの基礎教育に関するパンフレット[41]を書いているので、すでにこの時期からイランへの関与は始まっていたのかもしれない。1952年、ルアナは正式にイラン政府の教育顧問としてアメリカ政府からイランに派遣される。1956年にルアナが書いたパンフレットによれば、彼女はイランで農村の識字教育のために教材を開発し、基礎教育を行える教師の育成を図ったという。また、憲兵隊の識字教育を行ったことも伝えている[42]。他方、1960年に国務省が出した『ニューフロンティアのアメリカ人』と題したパンフレットでは、憲兵隊や全国の警察組織の識字教育へのルアナの功績が強調されている。二年半のプログラム修了時には、高官の間に座るルアナに11500人の憲兵隊が感謝を捧げる行進がイスファハーンで行われたという。ルアナ自身も、後者のプログラムにシャー(パフレヴィー二世)の強い意向が働いていたことを認めている。ルアナにとっておそらく救援活動の一環であった教育支援は、厳しく対峙するソ連とアメリカの最前線にあって上からの近代化に向かうイランでは、強い政治性を帯びていたと思われる。

 1959年、67歳のルアナは、さらにネパールへと活動の拠点を移し、全国的な教育教材プログラムの構築に関わった。1964年、アメリカに戻った72歳のルアナは、日本、イラン、ネパールで教育レベルを向上させた功績により、アメリカ政府から功労賞を授与されている。同年ウィリアム・ペン大学は、彼女に名誉博士号を与えた。その後のルアナは、クエーカーのワシントン年会の敬虔なメンバーとして晩年を過ごし、1975年6月25日にその生涯を閉じた[43]

 ルアナ・ボールズの82年の軌跡を駆け足で辿ってきた。私たちにできたことは、彼女の内面や思想に深く分け入ることではなく、その足跡をなぞっただけであったが、それでもルアナの多面的な相貌は垣間見えたように思う。アクターたる個人の意識とその行為がもたらす影響や効果が重なるとは限らないが、ルアナも例外ではない。彼女はただ信仰深い伝道者であったわけではなく、また単に国家利益を体現するアメリカの尖兵であったわけでもない。その生の軌跡は、日本/アメリカといった国名を、あるいは文部省/GHQといった機関を主語にした物語を、越えでる広がりと豊かさを持っていた。その広がりのなかに戦後日本の教育改革を置いてみるとき、日本史/東洋史/西洋史を、あるいは日本史/世界史を分かつ壁は、はるかに低くみえてこないであろうか。戦後日本の教育改革は、むしろ純粋な日本史として抽出することが困難なほど、世界の動きと相互に絡み合ってはいなかっただろうか。そもそもルアナからみれば、日本もイランもネパールも、教育を通して民主主義を実現すべきアジアの国々であった。このように複数の視点と複数の尺度を組み合わせてみるとき、私たちが使う教科書自体が–「日本史」の教科書であっても–動かざる経典であることをやめ、「歴史総合」への入り口として立ち現れてくるように思うのである。


[1] 村井実訳『アメリカ教育使節団報告書』講談社、1979年、43-46頁.

[2] 尾鍋輝彦編『世界史の可能性』東大協組出版部、1950年、1頁.

[3] 高澤紀恵「戦後・教科「世界史」・西洋史学」『法政史学』(96)、2021年、1-4頁.

[4] 史料状況と研究史の批判的整理については、以下を参照のこと。片上宗二『日本社会科成立史研究』風間書房、1993年、1-32頁.

[5] 三羽光彦『六・三・三制の成立』法律文化社、1999年、244-245頁.

[6] ボールズが残した会議記録は、国会図書館憲政資料室の「日本占領関係史料」の中にマイクロフィルムで収められている。Conference Reports, Education Division-Bowles, (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section) ボックス番号: 5358; フォルダ番号: 13, 14, およびReport-Conferences, Miss Bowles (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section): ボックス番号: 5752; フォルダ番号: 2, 3, 4, 5, 6.

[7] 片上、前掲書、840頁.

[8] 板倉勝正「「西洋の歴史」を書いた頃」『白門』28巻6号、1976年、47頁.

[9] 『西洋の歴史』をめぐる問題については、以下を参照されたい。茨木智志「上智大学編『西洋史上の諸問題– 「西洋の歴史」への補遺について』–一種検定本教科書『西洋の歴史』(1947年)へのカトリック教会の対応–」『総合教育史研究』8号、2010年、49−66頁。

[10] 板倉、前掲書、49頁.

[11] 片上、前掲書、613-615頁.

[12] 益田肇『人々のなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』岩波書店、2022年、37頁.

[13] The Department of State. Biographic Register 1955 (Revised as of May 1, 1955), Department of State, 1955.

[14] 戸田徹子「フィラデルフィア・フレンドと日本年会 1900〜1947」『山梨県立女子短期大学紀要』(36)、2003年、11頁.

[15] ボールズ家については、以下を参照。Earl’s Genealogy Site. “Selected Families and Individuals”, January 20, 2022. http://www.earljones.net/aqwg4795.htm#142455. TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Gilbert and Minnie Pickett Bowles Family Papers,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1161.

[16] ギルバート・ボールズについては、以下に詳しい。平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年.

[17] 公益財団法人渋沢栄一記念財団「Bowles, Gilbert ボールズ, ギルバート」、   https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?authors_individual-31 (最終アクセス日:2023年1月21日)

[18] 原ひろこ「Gordon Townsend Bowles (1904.6.25-1991.11.10)先生を悼む」『民俗学研究』57/1、1992年、101-104頁.

[19] 国務省の政策立案プロセスとギルバートの役割については以下を参照されたい。土屋由香『親米日本の構築 アメリカの対日情報・教育政策と日本占領』明石書店、2009年、200-207頁.

[20] 明星大学戦後教育史研究センター編『戦後教育改革通史』明星大学出版部、1993年、164頁.

[21] 以下の記録は、ゴードンのインタビューに多くを負っている。読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 教育の歩み』読売新聞社、1982年.

[22] TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Bowles Family Correspondence,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1212.

[23] 普連土学園百年史編纂委員会編『普連土学園百年史』普連土学園、1987年、343頁. および友愛社「フィラデルフィヤ年会外国伝道委員秋報告よりの抜粋(1927-1928)」『友』24号、1928年5月.

[24] “Social and General,” The Japan Times, July 12, 1928. 

[25] “Society Ripples,” The Whitter News, August 13, 1927.

[26] 母親の病気のために、休職期間を縮めて1年で帰国した。普連土女学校時代には、1ヶ月北京に滞在している。“Social and General,” The Japan Times, March 21, 1928; July 12, 1928.

[27] Westtown School. “History,” January 19, 2023. https://www.westtown.edu/history/.

[28] “A Remarkable Success Story,” Friends Journal, January 2, 1960. p.10.

[29] フィスク大学で起こったこの騒動については以下を参照されたい。竹本友子「アメリカのディレンマと黒人のディレンマ—W.E.B.デュボイスの黒人百科事典プロジェクトをめぐって—」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』2006年、20-22頁.

[30] “Education: President Jones,” Time, March 1, 1926. 

[31] 山形正男「クェカー教徒と奴隷制反対運動」『アメリカ研究』5号、1971年、178-196頁.

[32] 戸田徹子「米国フレンズ奉仕団 日本関係資料(1942-1946)」『城西国際大学紀要』25 (2)、2017年、35頁. 

[33] 平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年、72頁.

[34] “Study Groups is organized,” Nashville Banner, 1 Feb. 1940. ナッシュヴィルとその差別的な社会状況については、ルアナがこの町を離れて15年後にフィスク大学に留学した社会人類学者、青柳清隆が記録を残している。青柳清隆『黒人大学留学記 テネシー州の町にて』中央公論社、1964年.

[35] たとえば、“Educational directory, 1943-44: pt. 4, Educational associations and directories; [prepared by Luanna J. Bowles].,” United States Government Publications Monthly Catalog, U.S. Government Printing Office, 1944, p.653.

[36] Christian O. Arndt & Luanna J. Bowles (eds.), Parents, teachers, and youth build together, Hinds, Hayden & Eldredge, Inc, 1947. 

[37] エスター・ローズについては、以下を参照されたい。郷戸夏子「フレンド派宣教師エスター・B・ローズの救援活動—第二次世界大戦後の日本での活動を中心に」『キリスト教史学』2021年、57-75頁.

[38] E.G.ヴァイニング(小泉一郎訳)『皇太子の窓』、文藝春秋、2015年(初版1953年)、90頁.

[39] Luanna J. Bowles, “To America with Gratitude,” Friends journal, April 1, 1972, p.233.

[40] 李錫敏「トルーマンのポイント・フォア計画 冷戦におけるイデオロギー競争の始まり」『法学政治学論究』2011年、2-4頁.

[41] Luanna Bowles, The story of fundamental education in Iran, 1950.

[42] Luanna J. Bowles, “The New Nationwide Program of Fundamental Education in Iran,” Education for Better Living: The Role of the School in Community Improvement. 1957 Yearbook of Education around the World, Bulletin, 1956, No. 9, Office of Education, US Department of Health, Education, and Welfare, pp. 85-100.

[43] Friends Meeting of Washington DC Religious Society of Friends (Quakers). “Memorial Minutes ( Luanna Jane Bowles),” January 19, 2023. https://quakersdc.org/sites/default/files/LUANNA%20JANE%20BOWLES.pdf.  

(「世界史の眼」No.35)

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書評:工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)
大澤広晃

 本書の主人公であるイスマイル・ユルバン(1812〜1884)は、複数世界の境域で生きた人物である。有色自由人として仏領ギアナに生まれ、フランスで教育を受けてサン=シモン主義に傾倒する。その影響でイスラームに入信し、アラビア語通訳や植民地行政官として本国とアルジェリアを往復する生涯を送った。当時の地中海では、ヨーロッパのみならず東地中海世界や北アフリカ各地でも政治的・経済的・文化的変化が共時的に、しかし異なる速度でおこっており、著者がいう地中海革命の時代を迎えていた。西洋世界では東洋人を異質で停滞的な他者として表象するオリエンタリズムの言説が影響を強めつつあったが、同時に、「西洋=文明」と「東洋=野蛮」の二項対立的図式を批判する試みもなされていた。「短い19世紀(およそ1830年代から80年代にかけての時期)」を生きたユルバンの一生をたどりながら、地中海が経験した近代の諸相を探求することが本書の課題である。

 第1章では、ユルバンの生い立ちと彼が幼少期を過ごした仏領ギアナの歴史が語られる。フランス人貿易商の父と解放奴隷の母との間に生まれたユルバンは、黒人の血を8分の1引く有色自由人で、フランスで教育を受けた。一時ギアナに帰郷するがすぐにフランスに戻り、サン=シモン主義に惹かれていく。

 第2章は、19世紀初頭におけるサン=シモン主義の動向とユルバンによるその受容を論じる。サン=シモン主義者を率いたアンファンタンと彼の弟子たちの主張が整理されるが、本書の主題にとくに関連するものとして、地中海を東洋と西洋が交わる「広場」とし、人種や信仰にかかわらないすべての人間の協同を呼びかけたミシェル・シュヴァリエの地中海体制論が紹介される。ユルバンはパリでサン=シモン主義者との共同生活に加わり、「黒人」として振る舞うことで注目を引こうとした。

 1833年、ユルバンはサン=シモン主義者の同志とともにエジプトに赴き、現地でイスラームに入信し、イスマイル・ユルバンを名乗った。第3章では、自らの内でキリスト教とイスラームを架橋することで東洋と西洋の交わりを体現しようとしたユルバンの意図が分析される。

 第4章は、19世紀初頭までの西地中海世界の動向を押さえたうえで、アルジェリアでのユルバンの活動と思想を考察する。現地でアラビア語通訳官となったユルバンは、東西の合一を掲げるサン=シモン主義の実践の一環としてムスリム女性と結婚した。同じ頃、サン=シモン主義者のデシュタルと共著で人種についての本を出版したが、それは白人と黒人の結婚を奨励し、両者から生まれる混血を「新しい人類」(140頁)として積極的に評価するという内容を含むものだった。本章では、ユルバンの同時代人で本書を通じて彼の比較対象とされるレオン・ロシュの経歴と著作も、批判的に検討される。

 アルジェリア征服と植民地化の過程におけるユルバンの動向を論じるのが、続く第5章の主題である。フランスと戦った現地人指導者アブドゥルカーディルとの関係や、ムスリムの先住民を入植者のフランス人と「同じ市民」(182〜3頁)として扱うべきだとする主張が取り上げられる。

 第6章では、「原住民」と入植者が同等の権利をもつべきだと述べた皇帝ナポレオン三世のアラブ王国構想とそれへのユルバンの影響が、後者のアルジェリア統治論とも関連づけながら考察される。アルジェリア総督府の高官となっていたユルバンは、当時の支配的な東洋学の言説を論駁しながら、西洋のみを進歩や文明の模範とみなす考え方を批判するとともに、ムスリム先住民を法的劣等者として扱うべきではないこと、先住民の土地への権利を認めるべきことなどを説いた。ユルバンが目指した路線は頓挫したが、著者は土地制度をめぐるユルバンの活動を「あたかも一個の革命家のごとき形相をみせていた」(223頁)と評する。

 終章ではユルバンの晩年と史料が残存した経緯が語られたうえで、彼の主張と活動が整理される。著者は、ユルバンが植民地支配を否定しなかったものの、複数世界の境域という足場から思考することで、東洋と西洋の差異を相対化するまなざしを獲得し、それを実際に言葉として紡いだ点に彼の独自性があったと評価している。

 ユルバンは複数の地域を移動し、帝国支配では強者の側に属しながらも宗主国社会では周縁に位置し、それにもかかわらず第二帝政期には一定の政治的影響力を発揮した。多彩な顔をもつ魅力的な人物だが、そうであるがゆえに物語の主人公に据えるのは容易ではない。議論が拡散し、研究史における位置がぼやけてしまうからである。しかし著者は、ユルバンの伝記を通じて、「短い19世紀」と「地中海革命」という概念のもとで19世紀の時代区分と西洋中心主義を再考し、あわせて、サイードが提起したオリエンタリズム論に批判的再検討を加えるという明確な課題を掲げ、それを実際に遂行することでこの問題を克服している。物語の構造も巧みだ。時代の文脈を丁寧に描いたうえで、時流に片足を入れつつも、もう片方の足でそこから抜け出ようとする個人に光をあてることにより、彩り豊かで陰影に富む近代の地中海像を見事に浮かび上がらせている。読者はユルバン(とロシュ)の生涯をたどりながら、おのずと19世紀の歴史を多面的に学べる仕組みになっている。著者の力量のなせるわざであろう。

 多様な地域が折り重なる地中海の近代を総体として描写するためには、従来の西洋史や東洋史の枠組みを乗り越えていかねばならない。この点について本書は、ユルバンの生の軌跡にそって南米、ヨーロッパ、北アフリカの歴史を縫い合わせるだけでなく、彼の個性を際立たせるために登場させたロシュを介して日本にも言及している。同時代における諸地域間の相互関係や連動を説得的に示すことで、西洋中心主義を相対化しながら世界史を語るという著者の試みは、概ね成功しているといえよう。流暢で力強い文体とともに、「下からのグローバルヒストリー」の模範となる作品である。

 その一方で、より踏み込んだ議論をすることで読者の理解がいっそう深まるだろうと思われる点もあった。第一は、ユルバンの「黒人性」という問題である。第2章では、サン=シモン主義者たちとの共同生活を送る有色人のユルバンが、「黒人」の役を演じることで注目を集めようとしたことが述べられている。だが彼は、外見はほぼ白人(76頁)の混血である。人が自分自身をどう称するかと他者がその人をどうみるかの間には、往々にして差異がある。デシュタルのように彼の黒人性を強調した者もいたが、他の人々はユルバンを黒人として受け入れたのか。関連して、当時における黒人と混血の関係も興味深い。ギニアでは、ユルバンのような混血の有色自由人はアフリカ系の血が濃い「いわゆる黒人」とは区別されていたそうだが(76頁)、宗主国で黒人と混血はどう識別されていたのか。人間の分類という点で、混血は黒人に包含される部分集合だったのか、あるいは、ギニアのように「いわゆる黒人」とは異なる存在とみられていたのだろうか。19世紀前半のフランス社会でユルバンがどのような位置を占めていたのかに関心をもった。

 第二は、ユルバンとアルジェリアに住む人々との関係についてである。まず、入植者との関係について。他帝国についての先行研究は、19世紀が進むにつれて植民地の支配者や白人住民の間で混血の人々に対するまなざしが硬化していったことを明らかにしている[1]。本書でも、19世紀後半フランスでの人種主義の高揚に伴いユルバンが自らの出自を「傷」と考えるようになったことが指摘されているが(236-7頁)、混血という属性は、入植者の彼に対する評価や姿勢にどう影響したのだろうか。次に、ユルバンとムスリム先住民社会との関係について。第5章と6章では、ユルバンが当時の東洋学で主流をなしていたイスラームやアルジェリアについての言説を批判し、目前にある「事実」をもってそれに対抗しようとしたさまが描かれている。ここで気になるのは、ユルバンがアルジェリア社会についての知見をどう獲得したのかという点である。オリエンタリズムの学知が仮構の言説体系であるのと同様に、先住民社会の様態(とくに土地制度)についての彼の「事実」認識もまたひとつの言説だったはずである。では、そうした認識およびその基礎となる情報を彼はどこから得たのか。最近の研究は植民地にかんする知識の形成で現地人がはたした役割を強調するが[2]、ユルバンの「事実」認識や政策論の形成に先住民はかかわっていたのか。また、現地のムスリムは彼をどうみていたのか。ユルバンと先住民の関係をもう少し知りたいと思った。

 最後に、本書の議論を評者が関心をもつイギリス帝国史とつなげる可能性に言及しておきたい。ユルバンも外国の事例を参照していたように(212〜3頁)、最近では異なる帝国間の相互関係を問う研究が増えている。評者は近年、主として非白人先住民に対する白人入植者や植民地政府の過剰な暴力や搾取を批判する人道主義という思想・運動(代表例は奴隷貿易・奴隷制反対運動)に興味をもっている。人道主義の内部は多様だが、19世紀イギリスでその一翼を占めていたのは実証主義者と呼ばれる人々だった。オーギュスト・コントを崇め、彼にならって人類教を組織した実証主義者たちは、人類全体の進歩と平和を唱え、その見地からイギリスの帝国支配をラディカルに批判した[3]。イギリスが世界で主導的な役割を果たすことを期待しつつも、植民地戦争では自国に非を認め、商業・金融利害による経済搾取を批判し、祖国を世界平和にとっての最大の脅威と呼ぶなど、その思想は同時代に類を見ない帝国主義批判に彩られていた。さらに興味深いのは、実証主義者の異文化に対する姿勢である。彼らは19世紀半ば頃から非西洋世界の文化や慣習にも固有の価値を認め、そうした伝統に即した制度や発展を尊重する方針を掲げていた。宗教についても、主要な実証主義者であるフレデリック・ハリスン(1831〜1923)はムハンマドとコーランを高く評価していたし、ヘンリ・ブリッジズ(1832〜1906)は人類教の集会にムスリムを招こうとしていた。加えて、当時の代表的な人道主義団体で実証主義者の多くも会員であった原住民保護協会(Aborigines Protection Society)は、創設メンバーのひとりであるトマス・ホジキン(1798〜1866。ただし彼は実証主義者ではない)を中心に、先住民の土地に対する権利の保護を強く訴えていた[4]。こうした考え方は、ユルバンのそれと重なるところがあるようにも思える。もちろん、両者の間に違いは多い。実証主義者が崇めるコントは、最終的に師であるサン=シモンやサン=シモン主義者と袂を分かった。ユルバンと実証主義者についても、前者が植民地生まれの有色自由人であるのに対して、後者は主としてオックスブリッジ出身の知的エリートからなり、社会的出自が異なっていた。実証主義者がユルバンのようにイスラームに入信し、宗教における東西の合一を自ら実践してみせたわけでもない。それでも、サン=シモンに発する思想から(異なるかたちではあるものの)影響を受けた英仏の人々の主張を比較し、相互の関係性を探ることは、興味深い研究の主題となるのではないだろうか。

 門外漢ゆえ的外れな指摘や意見も多かったかもしれないが、評者は本書の問題意識や叙述から多くを学び、自らの課題についても新たな気づきを得ることができた。本書が多くの人々の手に取られることを願う。


[1] アン・ローラ・ストーラー(永渕康之・水谷智・吉田信訳)『肉体の知識と帝国の権力—人種と植民地支配における親密なるもの』(以文社、2010年);水谷智「植民地統治下の白人性と「混血」—英領インドの事例から」、川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3—「血」の政治学を越えて』(東京大学出版会、2016年)、163-189頁

[2] カピル・ラジ(水谷智・水井万里子・大澤広晃訳)『近代科学のリロケーション—南アジアとヨーロッパにおける知の循環と構築』(名古屋大学出版会、2016年)

[3] 光永正明「「人類教」とジェントルマン」、川北稔・指昭博編『周縁からのまなざし—もうひとつのイギリス近代』(山川出版社、2000年)、82-107頁;Gregory Claeys, Imperial Sceptics: British Critics of Empire 1850-1920, Cambridge: Cambridge U. P., 2010, ch.1.

[4] Zoë Laidlaw, Protecting the Empire’s Humanity: Thomas Hodgkin and British Colonial Activism 1830-1870, Cambridge: Cambridge U. P., 2021, 41, 53, 193-195.

(「世界史の眼」No.35)

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「世界史の眼」No.34(2023年1月)

今号では、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その2をお寄せ頂いいています。II-(1)は、こちらに掲載されています。また、小谷汪之さんに、先号に論考をお寄せ頂いた山田篤美さんの近著、『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』を書評して頂きました。山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)

小谷汪之
書評:山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)

2023年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)
南塚信吾

2. 西村茂樹編『校正万国史略』1872年(明治5年)~1876年(明治9年)

 千葉の下野の佐野藩の出であった西村茂樹(1828-1902年)は、親藩であった佐倉藩の堀田正睦との関係で、幕府の貿易取調御用掛に任じられた。安政3年(1856年)、伊豆下田にアメリカの総領事ハリスが来て幕府に開港を迫ったとき、茂樹の主、佐野正睦は、外交事務を取るようになり、茂樹らは、私的秘書として、外交の文書を取り扱うよう命ぜられた。茂樹は幼い時から儒学を習っていたが、嘉永4年(1851年)、24歳の時に、佐久間象山に師事して蘭学を志した(二五歳の時に親友木村軍太郎に学び始めたともいう―古垣光一『西村茂樹全集』第5巻 789頁)。だが、その後10年ほどして、文久元年(1861年)(35歳)から手塚律蔵の門に入って、蘭学のほかに英学を学んだ。廃藩置県ののち、佐倉に閑居して、翻訳業に専心する構えであったが、まもなく居を東京に移し、堀田家の隅に家塾を開いた。

 和蘭語を使った最初の訳書が西村鼎(後に茂樹)譯、袁惄(ウェインネ)著『百代通覧藳』で、原著はWijnne, J. A. Beknopt leerboek voor de algemeene geschiedenis, 3 vol., Gromingen, 1856である(原著は宮内庁図書室に所蔵という)。これは出版にはいたらなかった。次いで、和蘭語を使った訳書が『泰西史鑑』であった。『西村茂樹全集』第七巻のあとがきによれば、これは、ドイツのヴェルタ―の書Welter, T.B., Lehrbuch der Weltgeschichte fur Gymnasien und hoehere Burgerschulen, 3 vols., Munster, 1826-28をオランダのベルクが訳したものHandboek voor de algemeene geschiedenis voor gymnasien en opvoedingsgestichten, 1835(I,II), 1852(III)を翻訳したものという。そしてこのベルク訳は、慶応3年(1867年)ごろに友人の神田孝平より贈られたものであるという(第7巻 875―876)。これは、明治2年(1869年)から14年(1881年)にかけて翻訳、出版された。

 この間、慶応3年には『万国史略』を訳述し、明治2年(1869年)に『万国史略』として出版していた。これは、「万国史」と名のついた最も早い書であった。この『万国史略』はスコットランドのタイトラーのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の翻訳である。だが、これは古代ギリシア史までしか訳されていなかった。また歴史学の方法などを論じていた原書の序論は訳されていなかった。そこで西村は明治5年ごろから、この『万国史略』の校正を始めた。しかし、ウィンネやヴェルターの訳をしているうちに、新しい知見も加わったようで、作業は単なる『万国史略』の校正ではなく、ほとんど別のものと言っていいものになった。それが、明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて出た『校正万国史略』であった。

 なお、西村は、明治6年(1873年)に、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周、箕作麟祥、箕作秋坪、神田孝平らと「明六社」を結成したのち、同年、森有礼に推されて文部省編書課長になり、教科書の編集・刊行に力を尽くした。明治13年(1880年)に、編書課と翻訳課を合わせて編輯局が作られると、その局長となった。やがて、明治18年に新内閣の成立によって官制改革があると、西村は、翌年、文部省を辞めて、宮中顧問官に任ぜられた。この後は、道徳教育のための活動をすることになる。

***

 『校正万国史略』の構成は以下のようである。

上古ノ史上

 人類ノ始 大洪水; 巴比倫(バビロン)、亜述(アッシリア);馬太(メジイ);埃及;以色列(イスラエル);腓尼基(フェニキイ);波斯ノ史

上古ノ史中

 希臘ノ史;馬基頓(マケドニア);亜歴山得大王

上古之史下

 羅馬ノ史

  

中古ノ史上

 東羅馬、比利敦(ブリテン)、仏朗克(フランス)、亜剌伯:摩蛤麦(マホメット)、回教ノ大教師(カリフ)など

中古ノ史中

 日耳曼、法蘭西、英吉利、東羅馬、西班牙、大教師国、土耳古、十字軍(第一次~第四次)ノ史など

中古ノ史下

 十字軍(ラテン帝国)、日耳曼、法蘭西(フランス)、英吉利、西班牙葡萄牙、魯西亜及ビ阿多曼(オットマン)土耳古ノ史など

  

近世ノ史一

 亜米利加ノ検出、意太利、日耳曼法蘭西ノ戦、教法改正、西班牙葡萄牙、日耳曼、呢特蘭(ネーデルラント)、法蘭西、英吉利ノ史

近世ノ史二

 呢特蘭、法蘭西、西班牙葡萄牙、英吉利、北部東部欧羅巴、魯西亜、瑞典ノ史

近世ノ史三

 西班牙国継ノ乱、欧羅巴諸国ノ史、七年ノ戦争、英法二国ノ戦、北亜米利加合衆部ノ独立、東印度、魯西亜波蘭、瑞典丁抹、日耳曼ノ史

近世ノ史四上

 法蘭西革命ノ大乱、欧羅巴ノ諸国法蘭西ヲ伐ツ、法蘭西人墺址利ヲ撃ツ、法蘭西国首領政治、拿破侖帝位二登ル、欧羅巴ノ諸国、拿破侖ノ敗

近世ノ史四下

 法蘭西、日耳曼、西班牙葡萄牙、意太利瑞西、欧羅巴北東、英吉利、希臘国ノ再興、比利時(ベルジューム)ノ自立、波蘭ノ乱、亜墨利加諸国、魯西亜ト土法英トノ戦、撒丁王意太利ヲ統一、普魯西墺地利、英国属地、合衆国南部ノ叛乱、普魯西法蘭西ノ戦

***

 構成に関する限りで、『校正万国史略』の特徴を整理しておこう。

  1. 歴史の起源は聖書に基づいて書かれていた。タイトラーの原書は全く聖書を脱していたので、聖書による創世の部分は別の本(例えばヴェルター)に拠っていたのではないだろうか。ギリシア以後は世俗史になっていた。実は、先の『万国史略』では、「上古」の始めにおいて、「天地草昧の初めにあたり、人類の状、果たして如何なるか、詳かに之を究めんとするは、容易に得べきことに非ず、吾儕今日に当り、太古の事を尋釋(じんしゃく)せんとするに、伝記の証拠と為るに足る者なし」と述べて、「大洪水」から「上古」の歴史を書くことを拒否していた(『西村茂樹全集』第9巻、9)。その意味では、『万国史略』はレベルの高い書であった。パーレイ的な万国史ではなかったので、早くに完訳が出ていれば、明治初期の「万国史」の様子は変わっていたかもしれなかった。
  2. ギリシア以降の世俗的世界の構成は、パーレイの本と違って、単なる各国史の並列ではなかった。時代区分を設定して、「人類の始」から「羅馬」の滅亡までを「上古」とし、「東羅馬」からを「中古」とし、「亜米利加ノ検出」からを「近世」としていた。時代区分はヴェルターにならったのかもしれない(ヴェルター『泰西史鑑』では、「上古」「中古」「近古」「近世」となっていて、「近古」を「教法改革」から、「近世」を「法蘭西革命の大乱」としていた)。
  3. こうした時代区分のなかで、各時代は各国の歴史の並列で構成していた。つまり、各時代を、フランス、ドイツ、イギリス、オスマン史を柱とし、そことの関係で周辺ヨーロッパの歴史も述べるという形をとっていた。さらにそこには各国の歴史とともに、諸国間の関係を間に入れていた。ちなみに「北部東部欧羅巴」という漠然とした概念はあったが、「北ヨーロッパ」「東ヨーロッパ」「西ヨーロッパ」という対比的なくくりはまだ登場していなかった。
  4. パーレイの「万国史」と比べて、ヨーロッパ中心であり、非ヨーロッパの記述が縮小されていた。アメリカ大陸はあるが、アジアは抜け落ちていた。その分、ヨーロッパ史の記述が詳しく、正確になっていた。そして、これまで見た「万国史」に比べ、「中古」以後の史実は豊富で詳しく、確実になっていた。

***

 さて、ヨーロッパの東部についての記述をみると、依然として、ポーランド、ハンガリー、ギリシアが中心で、ボヘミアがいくらか触れられるという具合であった。

(1) 「中古」における東ヨーロッパ

 10世紀において、日耳曼(ジエルマン)史との関係で、ハンガリーが扱われる。891年に斯拉窩尼(スラオニイ)の攻撃に直面した日耳曼王が匈牙利人を招いたが、その後匈牙利人は本国に還らず巴訥尼亜(パンノニア)に拠り、さらに日耳曼の地に侵掠するようになり、加魯胤(カロウイン)家の断絶を促進した。日耳曼が薩索尼(サクソニア)家の時代になっても、匈牙利人との争いに悩まされ、ようやく950年に匈牙利人を破って、安定したとされる(『西村茂樹全集』第5巻-以下略― 488-491頁)。年代がいくらかズレているが、事実関係はこの通りであった。

 同じく、日耳曼史の中で、15世紀のボヘミアの「黒斯(ヒュンス)の乱」が扱われる。ここではフスが巴拉克(プラーグ)大学の講師となり、「独り聖経を尊信」すべきことを教え、教法の会議で糾弾され、焚殺されたこと、それにたいし、波希米(ボヘミア)人が兵を起こしたことが、正確に記されている(544-555頁)。

 つぎに、魯西亜及び阿多曼(オットマン)土耳古史の中で、魯西亜の始まりが書かれるとともに、阿多曼(オットマン)土耳古の自立(1299年)が述べられ、それが14世紀末に東へ拡大した様が書かれる。そして、布爾加利(ブルガリ=ブルガリア)、塞爾維(セルウイー=セルビア)、襪拉幾(ソラキイ=スロヴァキア)の地を攻めて、さらに匈牙利に向うが、洪約(ホンヤツト=フニャディ)の軍に止められたことが記されている(553-554頁)。ブルガリアなどが「万国史」に出て来るのはこれが初めてであろう。

(2) 「近世」における東ヨーロッパ

 15世紀になって、「亜米利加ノ検出」が始まる時代は、ヨーロッパの大きな変動の時代であり、阿多曼土耳古の拡大の時期であった。その中で、索利曼(ソリマン)第二は、ロードス、マルタを落とし、さらに匈牙利に進撃した。そして1526年、沐哈克(モハツク)にて匈牙利軍を破り、さらに維也納(ウインナ)を囲むまでになったことが書かれる(562頁)。

 17世紀に入り、加特力教(=カトリック)と新教の対立が「三十年の大乱」(1619-1648年)を引きおこすが、そのきっかけとなった地として、波希米と摩拉維(モラウイイ)の民心が信教を支持したことが記される(586頁)。 

 この30年戦争が終わった後、北欧において波蘭・魯西亜戦争(1654-55年)、波蘭・瑞典戦争(=「大洪水」)が起きるが、その記述の中で、初めて波蘭の建国とその後の王朝の歴史が紹介される。「波蘭人は斯拉窩尼(スラヴオニイ)の民族なり」という位置づけが出て来る(600頁)。    

 この17世紀の末に、匈牙利が墺太利に継承されるが、その経緯が、詳しく語られている。オーストリアの皇帝がトランシルヴァニアのカトリック化を図るのに反対したハンガリー人は、多結犂(タケリ=テケリ)を大将として反乱を起こした。これを機にオスマン帝国はハンガリー人と共にウイーンを攻めてこれを包囲(=第二次ウイーン包囲)するが、波蘭の支援を得て、1687年これを破り、この後、ハンガリーは蛤不斯堡(ハプスボルグ)の支配するところとなったという具合である(606-607頁)。

 スペイン継承戦争、七年戦争の後の18世紀において、ポーランドの歴史が詳細に描かれてくる。まず、1733年の波蘭の王位をめぐる魯西亜、仏蘭西らの争い(=ポーランド継承戦争)が述べられたあと(622頁)、「魯西亜波蘭の史」という節が置かれ、そこでは、他国との戦争によって治世を正当化する必要のあった魯西亜の加他隣(エカテリーナ)が、波蘭に攻め入り、その寵臣スタニスワフ・ポニャトフスキを波蘭王として波蘭に勢力を扶植していくところから、その動きに反対するポーランド貴族らの抜爾(バール)連盟の抵抗を経て、ついに波蘭が分割されるまでが描かれている。その際に、魯西亜が波蘭に攻め込んだことに怒った土耳古が魯西亜と戦ったが破れたことが述べられ、そうして勢いを増した魯西亜が1773年(=1772年の誤り)に普魯斯(プロイセン)および墺地利とともに波蘭議会を脅かして、波蘭を分割(=第一次分割)したとされている(635-637頁)。オスマン帝国の動きも入れてポーランド分割を論じているのは、これまでにない論じ方であった。

 さらに、ポーランド分割の説明が続く。ロシアの威権支配を怨む波蘭人が、波蘭の「自主」を謀って立ち上がったが、波蘭の中に魯国を崇奉する魯国党もいて、結局1793年に魯普二国により波蘭はさらに分割された(=第二次分割)。これにたいして、哥修士孤(コシューシコ)を将とする「独立」の運動が起きたが、魯普墺の三国が大軍を送ってこれを破り、1795年に波蘭を最終的に分割し、「波蘭国遂に滅ぶ」ことになったという(642-643頁)。

 この間の記述もほぼ正確で、しかも、波蘭人の目線から見ていて、出色である。なお、「自主」や「独立」という用語が使われていることも注目される。

(3) 「近世」後半における東ヨーロッパ

 「近世」の後半は「法蘭西革命の大乱」を持って始まる。「革命」という言葉を最初に用いていることは注目したい。この「革命」は「君権」に対して「民権」を伸ばそうとするもので、「国民」の「自主」を主張するものであったと見ていた(644頁)。 

 そういう「法蘭西革命」の時代に生じた墺地利での1848年の政変に関連して、匈牙利での民乱が論じられる。3月、維也納の民が乱を起こし、首相墨的爾昵(メテルニク)を追放し、皇帝は国民に新制法を約束したが国民は満足せず、維也納は「書生と暴民」の「藪」となった。7月に斯拉窩尼人が巴拉克を奪い政府を立てた。そして墺地利国を助けて、同月には議会が開かれた。しかし、匈牙利人は自国の法律と政体を守ろうとして、墺地利と対立し、ついに墺地利は哥羅亜西(コロアシア)にこれを攻めさせた。この時維也納の民は「此軍行を阻遏せんと」した。そして10月、維也納は匈牙利人に「自主の政府」を立てることを許した。1848年12月にフランツ=ヨーゼフが帝位に就くと、ハンガリーを攻撃し、ついに魯西亜の助けを得てこれを敗北させた。こう記述されている。ここでは、ウイーンの市民がハンガリーを支援したこと、魯西亜の援軍があったこと、民の視線が考慮されていることなど、注目すべき記述である(674-676頁)。

 「自立」を図った国として「希臘国の再興」が扱われる。「希臘は中古の時より土耳其の属国と為り、久しく回教の圧政を受く。」「国民」はたびたびトルコの管轄を離れようと謀ったが、その度にうまくいかなかった。だが、1821年に兵を挙げて、翌年独立を宣布した。しかし、スルタンはエジプトの墨非麦阿里(メヘメトアリ)を動員して、希臘を攻めた。ここにイギリスのカニングは露仏と会議して希臘支援に乗り出し、1827年にナバリノの戦いでトルコエジプト軍を破り、翌年希臘が独立して、加甫侍斯多利(カポディストリアス)が大統領となった。だが、かれは1831年に暗殺され、国内は不安定になった。そこで列強は巴威略(バイエルン)王の子の阿多(オットー)を希臘王に推し、彼のもとで学校が建てられ、律書が作られ、「民の開化」が進んだ(686-687頁)。これまでも「万国史」においてはギリシアの独立は注目されてきたが、今回は、イギリスの動きも加えられて、ギリシア独立の記述が充実してきた。

 続く「波蘭の乱」では、1830年と1862年の反乱が扱われている。「波蘭は既に滅亡すと雖も、其民常に本国を再興するの志を懐けり。」そして1830年11月、「洼消(ワルシャワ)の民、乱を作して、魯国に叛く。」この中で、露西亜との和議を提唱するものがあったが、「国民」の意は、ロシア軍を追い払い「自立」を復すことであった。そこで、波蘭の「長老平民共に」ロマノフを拒絶することを決議し、1831年2月に、公然と兵を挙げて魯国に敵対した。波蘭軍は善戦したが、ついに9月に敗北してしまった(689頁)。  

 だが「波蘭の民は其の愛国の心、年久しくして、益堅く、常に時を俟て、快復の業を興さんと欲す。」1862年2月、露西亜軍がポーランドに於いて、「教育を受けたる少年と、愛国心の深き少年」を徴兵しようとしたのに、少年等が反発して、蜂起が起きた。波蘭人は、今度は山林に隠れ、電線や鉄道を攻撃して魯西亜軍を悩ませたが、11月には敗北した。その後、魯西亜は、波蘭人にカトリックを禁じ、母語の使用を禁じて、「愛国心」を消滅させようとした(690頁)。国民や少年など、国王以外の目線が打ち出されていることが注目される。

***

 このように西村の『校正万国史略』では、時代区分をしたうえで、ロシア史、ドイツ史、オスマン史との関係で、ポーランド、ハンガリー、ボヘミア、ギリシア史などが論じられる。その中で、洪牙利は、初めはドイツ史の「攪乱分子」といった扱いであったが、やがては「自立」と「民権」のための「闘士」という扱いに変化していったと言える。一方、ポーランドは、大国の「犠牲者」として描かれている。ポーランドの滅亡と快復の熱意は、明治の日本の雰囲気に合ったのであろう(レザノフ事件以来、日本の対外認識はロシア方面から進んだので、東ヨーロッパにも「東」から接近しているのである)。

 『校正万国史略』では、飛躍的に事実関係が豊かに確実になってくる。そして歴史を見る観点も政治権力者だけでなく、「国民」「人民」の観点が挿入されていることが注目される。

(続く)

(「世界史の眼」No.34)

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書評:山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)
小谷汪之

 本書の著者山田篤美は本書に先行して、『真珠の世界史:富と欲望の五千年』(中公新書、2013年)を上梓し、真珠の歴史を広い世界的な視野と長い歴史的射程において描き出している。例えば、日本の場合をとってみれば、縄文遺跡から発掘された真珠から御木本真珠が世界を席巻するまでが扱われ、ペルシャ湾の大真珠産地については、ギルガメシュ叙事詩に描かれた真珠採りから、インドの仏教文献に出て来る真珠やイスラム世界における最高の宝石としての真珠が取り扱われている。そのうえで、16世紀以降の20世紀初めまでのヨーロッパにおける「真珠バブル」を「真珠狂騒曲」と捉えている。

 それに対して、本書は「大航海時代」特に16世紀に焦点を当てて、真珠の「グローバル市場」が形成されていく過程とその構造を明らかにしようとしたものである。

 この真珠の「グローバル市場」形成の契機になったのは、三つの大「真珠生産圏」(真珠の漁場、真珠採取地、真珠集散地の複合体)の形成あるいは発展であった。一つは南米ベネズエラ・コロンビア北岸(カリブ海南岸)で、二つ目はペルシャ湾岸、特にアラビア半島側、三つめはインド亜大陸とスリランカ(セイロン島)の間のマンナール湾岸である。これら三つの地域は、16世紀、スペインとポルトガルの進出に伴って、大「真珠生産圏」として発展し始めた。そして、これらの地域産の真珠がインド西海岸(アラビア海岸)のゴア(ポルトガルのインド総督府所在地)を「ハブ」として結びつき、真珠の「グローバル市場」を形成していったのである。

「南米カリブ海真珠生産圏」

 南米カリブ海のベネズエラ・コロンビア海岸では、16世紀スペイン人が進出する以前から、現地民によって真珠の採取が大規模に行われていた。そこにスペイン人が目をつけたのであるが、そのきっかけとなったのはコロンブスが第3次航海で真珠を持ち帰ったことであった。その後、多くのスペイン人が南米大陸に向かい、真珠の採取業に乗り出した。スペイン王室もそれを後押しし、個人事業者の真珠採取業への自由参加を認めていた。

 真珠採取は数メートルから10数メートルの海に潜り、海底の岩に付着している真珠貝をはぎ取るので、その労働力としての潜水夫の確保が最も重要であった。16世紀前半では、潜水に慣れていたバハマ諸島の現地民が主として使役されていた。彼らはしばしば「奴隷化」されていたので、著者はこれを「先住民奴隷制水産業」と特徴づけている。その後、16世紀後半になると潜水労働力が不足し、アフリカ人奴隷が潜水夫として使役されるようになった。「先住民奴隷制・黒人奴隷制水産業」の形態をとるようになったのである。

 南米大陸産の真珠はスペインのセビリャに送られ、さらにヴェネツィアを中継して、ヨーロッパやアジアの各地に広がっていった。

「ペルシャ湾真珠生産圏」

 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がインド西海岸(アラビア海岸)のカリカットに到着して、いわゆるインド航路を切り開いた。その後、多くのポルトガル人が喜望峰周りでインドに向かい、インド西海岸に要塞や商館を建設していった。1507年、後にポルトガルのインド総督となるアフォンソ・デ・アルブケルケはペルシャ湾口のホルムズ王国を征服した(その後いったん放棄し、1515年に再征服)。それは「ペルシャ湾真珠生産圏」の支配を目指すものであった。

 ペルシャ湾は世界最大の真珠生産地で、特にアラビア半島側に多くの真珠漁場が存在した。中でも大きな漁場はバハレーン島であった。潜水夫は主としてペルシャ湾地域に居住するアラブ人であった。ペルシャ湾の真珠採取業では、真珠採取船は何カ月間も帰港することなく、真珠をとり続けた。そのために、潜水夫の多くは出漁中の家族の生活費として、船主などから前金の形で金銭を借りることが多く、その債務に縛り付けられていた。著者はこれを「債務隷属制真珠採取業」と呼んでいる。

 16世紀、ポルトガルはホルムズ王国を征服することを通して、この「ペルシャ湾真珠生産圏」を支配することができたのである。ただし、ポルトガル人はスペイン人とは違って、自ら真珠採取業を営むということはしなかった。あくまでも、既存の「真珠生産圏」の上に網をかけるようにして支配したのである。

ペルシャ湾産の真珠はホルムズからイラクのバスラを経由して、西アジア・北アジアやヨーロッパの各地に送られるとともに、インド西海岸のゴアを経由してインド内陸部にまで運ばれた。

「マンナール湾真珠生産圏」

 1520年代、ポルトガルは南インドとスリランカ(セイロン島)との間のマンナール湾に進出した。そのインド側沿岸にはカーヤルという町があり、真珠の大きな集散地となっていた。1530年代には、この地のヒンドゥーの真珠採り潜水夫がいっせいにキリスト教に改宗するということがあった。1542年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが教皇庁から派遣されて、マンナール湾の改宗キリスト教徒の保護や布教の任務に就いた。ザビエルは1944年まで約2年間マンナール地方に滞在した(途中一時帰国。1949年には、日本に赴任)。ザビエル以降、イエズス会の宣教師は教勢を拡大することよりも、キリスト教に改宗した真珠採り潜水夫を囲い込むことに力を注いだ。それによって真珠を獲得することができたからである。

 1560 年、ポルトガルはマンナール湾のスリランカ側に位置するマンナール島を獲得し、ここに要塞を築いてマンナール湾一帯の行政中心地とした。これによって、ポルトガルは「マンナール湾真珠生産圏」を支配下に収めることができた。

 マンナール湾では、春先と秋口の数カ月間、真珠の大規模採取が行われた。これには、キリスト教徒潜水夫、ヒンドゥー潜水夫、ムスリム潜水夫など極めて多数の人々が参加し、大きな一時的居住地が形成された。

 マンナール湾産の真珠はチェッティなどのヒンドゥー商人によって、インド亜大陸各地に運ばれるとともに、ゴアを経由して世界各地にも搬出された。

真珠「グローバル市場」の特質

 本書の眼目は、16世紀、真珠の「グローバル市場」がゴアをハブとして世界各地にスポーク(輻)を伸ばすという形で形成されたということを明らかにする点にある。

 「グローバル市場」というと、オランダとイギリスが壮烈な抗争を続けた香辛料貿易などが念頭に浮かぶが、この場合は香辛料がアジアからヨーロッパへと一方的に搬出されるという形をとった。「グローバル市場」というと、このような非西欧世界から西欧への一方的な物資の流入というイメージが湧きやすい(例えば、新大陸産のジャガイモやトウモロコシ)。しかし、本書における真珠の「グローバル市場」はそれとはまったく異なり、世界中のさまざまな地域的市場が複合的に結びつき、真珠がその間を多方向的に動くという形をとっていた。

 真珠の「グローバル市場」のハブであるゴアには、南米カリブ海産の真珠がリスボンやセビリャを経由して持ち込まれ、ペルシャ湾産の真珠はホルムズを経て、マンナール湾産の真珠はインド亜大陸の陸路・海路によってゴアにもたらされた。その他にも、インドネシア・フィリピン海域の真珠(これはアコヤ貝真珠ではなく、シロチョウ貝真珠)や中国(トンキン湾)産の真珠がマラッカを経由してゴアに運ばれていた。

 ゴアには、ジャイナ教徒のバニアン商人、南インドのチェッティ商人などのインド商人だけではなく、中国やミャンマー、タイ、マラッカ、ジャワ、モルッカなどからも商人が集まっていたので、真珠はこれらの商人たちによってインド各地や中国、東南アジアなどに運ばれていった。また、ゴアにはアラブ商人、ペルシャ商人、アルメニア商人、ユダヤ商人などもいたので、真珠は彼らによってメソポタミア、トルコ、カフカス地方などにも運ばれた。

 真珠を求めたのは主としてアジアやヨーロッパの王侯貴族や富裕層だったが、アジアではヨーロッパよりも真珠が高く売れたという。そのこともゴアを起点とする「ハブ・アンド・スポーク交易」形成の一因と考えられる。

 このように、本書の功績は、真珠を素材として、非西欧世界から西欧へと一方向的に商品が流れるのではない「グローバル市場」の存在を明らかにしたことにあるということができる。

(「世界史の眼」No.34)

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「世界史の眼」No.33(2022年12月)

今号では、『真珠の世界史 – 富と野望の五千年』(中公新書)の著者でもある山田篤美さんに、「なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか」と題して論考をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんには、「世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方」を寄せて頂いています。

山田篤美
なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか

南塚信吾
世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方

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なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか
山田篤美

はじめに

 古代ローマのプリニウスは、『博物誌』第9巻において「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」(中野定雄他訳)と記し、最後の巻にあたる37巻では「純粋で単純な産物に戻ることにして、もっとも高価な海の産物は真珠であり、地表にあるものでは水晶であり、地中にあるものではアダマス(ダイヤモンド)、スマラグドゥス(エメラルド)、各種の宝石、そして蛍石の器である」(同)と述べている。この後、プリニウスはシナモン、琥珀、乳香、象牙、べっ甲など様々な高価な物に言及し、「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」(同)と締めくくっている[1]

 一方、10世紀前半のスィーラーフ出身のアブー・ザイド・アルハサンは『中国とインドの諸情報―第二の書』の中で次のように述べている。

 インドと中国の海は、「海中に真珠と竜涎香あり。その岩礁に宝石と黄金の鉱山あり。その海獣の口に歯牙あり。そこに生育する植物に黒檀、蘇芳木、ラタン、沈香木、竜脳香、ニクズク、丁香、白檀、その他のすべての良質の美味な香料類あり……かくの如くに、その海の神の恩恵は余りにも多すぎて、その一つひとつを数えあげることは誰にも不可なり」と譬えられている(家島彦一訳、()の文言を優先して掲載)[2]

 興味深いのは、プリニウスもアブー・ザイド・アルハサンもさまざまな貴重な交易品を列挙する中、真珠を冒頭に置いていることだろう。このように古今東西の一次文献をひもとくと、真珠が重要視されていることを示す文言に出会うことは少なくない。

 それにもかかわらず、真珠は歴史研究の多くの分野で見過ごされてきた。特に次の二つの点で看過されてきた。第一に、ヨーロッパ人やアジア人などほとんどの民族が追い求めた高価で希少な交易品としての真珠の意義である。第二に、真珠のとれる海域の経済的重要性である。天然真珠時代、真珠はどこの海でも採れるわけではなく、むしろ真珠が採れる海域は限られていた[3]。別の海域への真珠貝の移植は早くから試みられたが、真珠貝は生育条件が難しいため、それほど成功しなかった[4]。つまり真珠の採れる一部の海域が真珠の海として存在し続けてきたのである。真珠が希少で高価な品ならば、その真珠を育む海域は富の生まれる場所といえるだろう。それゆえ沿岸部や遠方の政治勢力などがその真珠の海に進出し、海域支配を試みてきたことは想像に難くない。しかし、そうした視点から真珠の海の経済的重要性や地政学的重要性が論じられることはほとんどなかった。こうしたことをふまえ、本稿では真珠看過の理由について考えてみたい。

従来の歴史研究の傾向

 真珠は時代をリードした著名な研究でなぜか見過ごされていることが多い。一例を挙げると、アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』では真珠は交易品として論じられていない[5]。東南アジアの海域は、アコヤ真珠貝やクロチョウガイ、シロチョウガイなど今日の真珠養殖の主要な真珠貝であるピンクターダ属の発祥の海域と見なされている[6]。真珠貝の豊かな海域の交易研究でも真珠や真珠貝は看過されてきたのである。

 古代日本に目を向けると、『魏志倭人伝』には卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に白珠五千孔などを献上したことが記されている。「白珠五千孔」はおそらく通糸連となった白い真珠と考えられる。天然真珠時代、真珠5000個はたいそうな量であった。それだけの量を集めるには多くの海人と真珠貝が豊富な海域が必要であるが、真珠が日本のどの海域で採取されたのかという観点から邪馬台国が論じられることはあまりないように思われる[7]

 こうした事例に見られるように、真珠や真珠の海域の重要性は十分認識されてこなかった。インド洋海域史や古代日本史だけでなく、西洋史や東洋史の多くの分野、グローバルヒストリーや近代世界システム論、海人研究などの民俗学の分野でも真珠は取り上げられていない場合が少なくない。

 その一方で、真珠の重要性を認識していた研究者も早くから存在する。日本で家島彦一が、真珠採集とそれをめぐる人間の動きがインド洋海域世界の歴史展開に大きな影響を及ぼした可能性を指摘し[8]、佐々木達夫はペルシア湾岸のジュルファル遺跡の交易港としての繁栄と真珠採取との関連性を議論している[9]。保坂修司は天然真珠時代のペルシア湾の真珠採取の実態を明らかにし[10]、筆者自身も『真珠の世界史』(中公新書)で真珠の重要性を論じてきた。最近では小谷汪之が「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」を発表し、南洋諸島における真珠産業を石川達三の著作などを通して論じている[11]。海外ではエンリケ・オッテのLas perlas del Caribe やR. A. ドンキンのBeyond Price; Pearls and Pearl-Fishingなどをはじめ、重要な研究は少なからず存在する[12]。2019年には近現代のインド洋世界の各海域の真珠史を扱った論文集Pearls, People, and Powerが上梓された[13]。近年、真珠史研究の隆盛の兆しもあるが、大勢として真珠が歴史研究で看過されてきたことは否定できないだろう。

真珠看過の理由

 なぜ真珠は重視されてこなかったのだろうか。それにはさまざまな理由があり、それらが複合的にからんでいるが、筆者自身は以下に述べる理由があると考えている。

 第一に、真珠という物品の特殊性だろう。真珠は高価で小さなモノであり、アジア社会では伝統的に金銀と交換されてきた換金商品であった。隠匿、密輸、過少申告が流通形態の主流を成し、真珠の売買では相対取引となる場合も少なくない。オリエント世界における真珠や宝石の相対取引では、取引税や関税を避けるため、売り手も買い手も一言も発せずに、特定の指を押すことで値段の交渉を行う「サイレント・バーゲニング」という手法もよく使われた[14]。こうした秘密裏の取引決済は、金銀などによる即決の現金決済が一般的で、領収書を残さない。つまり真珠の取引は、売り手も買い手も黙したまま、多くの金銀が密かに動くインフォーマルな取引であった。実証が難しい真珠や宝石の流通は、アーカイヴ・リサーチを重視する歴史研究から概して抜け落ちることになったと考えられる。

 第二の理由は、1970年代から80年代以降、歴史学の大きな潮流となった世界システム論などにおける農業や生活必需品重視の傾向だろう。ウォーラーステインの近代世界システム論などでは、主に農業に基づくヨーロッパ資本主義の発展というテーゼに基づいて、陸地に根差した農業生産や鉱山開発に関心が置かれる一方で、宝石やスパイスなどの「奢侈品」全般は重視されていない。ウォーラーステインは「奢侈品の交易は……大西洋世界の発展といった壮大な事業の背景としては弱すぎるし、そこから『ヨーロッパ世界経済』の生成を説明するのは無理だと思われる」(川北稔訳)と述べ、「長期的にみれば、奢侈品よりは基礎商品ステイプルの方が、経済活動をより強力に推進する」(同)と説明している[15]。このように経済発展の観点から奢侈品は過小評価されるようになった。農業重視は水産業の軽視の裏返しでもあるが、それは漁業が沿岸部の漁民が魚を釣って自分で食べる自営的で局所的な産業と見なされたからではないかと筆者自身は考えている。

 真珠看過の第三の理由は、従来の歴史研究が一国史研究であったことにも関係するだろう。一国史研究だと国民国家の中の陸地における歴史の様相をとらえた叙述となりやすい。そのため国と国の間の海域やその歴史は必然的に捨象されてきた。しかし、水産資源を生み出す海域があれば、国境とはかかわりなく、湾岸部の住民が海の富を享受する共通の漁撈文化を発達させたことは容易に理解できる。真珠史研究は沿岸部のどこか一地点だけというよりも沿岸部における漁撈文化の共通性や海域支配の在り方といった広域俯瞰で考える必要があるが、一国史研究ではその広域俯瞰がなされてこなかった。

 他方、近年の歴史研究では、海域を人間の活動領域の主舞台と見なす海域史研究が盛んになっている[16]。ただ、そうした海域史の領域では海域を移動の場とする海上交易や交易圏に主眼が置かれており、海から富を引き上げる真珠採取などの水産業についてはあまり関心が示されていないように思われる。

日本の真珠養殖業の発展が真珠の特徴を大きく変える

 こうした理由に加え、筆者自身が真珠看過のもうひとつの重要な要因と考えているのが、20世紀初めに日本人が世界で初めて成功させた真珠養殖業の発展が、真珠の価値、大きさ、色、形、生産方法、産地などを大きく変えたという事実が十分認識されていないことである[17]。言い換えると、今日、天然真珠を採取している国はバハレーンを除くとほとんど存在しないため、天然真珠時代の真珠貝の生態、真珠採取の在り方、生体物としての真珠の特徴を多くの歴史研究者が理解できなくなっていることにも要因があると思われる。

 まず養殖真珠の大量生産は、天然真珠の希少性を失わせ、価格を暴落させたため、それによって真珠は20世紀初めまで宝石として扱われてきた高価で希少な品であり、権威や富を示す威信財であったことが一般に忘れられてしまった。真珠史研究をしていると、真珠は宝石ですかという質問を受けることは少なくない。

 次に真珠養殖業は、真珠のサイズを大きくしたため、天然真珠時代の標準の真珠は二級品の小さな真珠と見なされるようになり、重要視されなくなったことが挙げられる。天然のアコヤ真珠は直径3ミリ程度から5ミリ台、6ミリ台が標準であり、直径1~2ミリのアコヤ真珠も「ケシ真珠」として商品価値をもっていた。遺跡の発掘調査などで真珠が出ても、小さな真珠は十分な考察の対象にならず、その後、行方不明になっている場合などもある[18]

 今日では真珠は直径であらわされるが、天然真珠時代、真珠はグレーン(0.05グラム)やカラット(0.2 グラム)などの重量で、しばしば合算されて示された。真珠をグレーンやカラットなどの重量で聞き、その真珠の大きさや価値を理解できる歴史研究者はどれくらいいるだろうか。ちなみに1グレーンの真珠は直径3.32ミリであり、1カラットの真珠は直径5.23ミリである[19]

 さらに、先述したように、かつては一部の海だけが真珠を生み出すことができたが、真珠養殖業における垂下式筏の発明によって、今日ではかつて真珠が採れなかった海域でも真珠が養殖できるようになった。そのため天然真珠時代には真珠の採れる海域は限られていたという事実が十分認識されておらず、真珠の採れる海域の希少性や経済的重要性、ひいては真珠の海が誘発した海域への進出やその支配の実態が見過ごされてしまったといえるだろう。日本人が発明した真珠養殖業があまりに成功したため、それが逆に天然真珠の重要性を曇らせてしまったといえるかもしれない。

 日本人特有の理由としては、日本人は伝統的に真珠や宝石よりも古い茶碗や陶磁器を好んできた歴史がある。こうした点はすでに16世紀のオランダ人リンスホーテンなどが指摘しているところである[20]

おわりに

 以上述べてきた種々な理由によって真珠は歴史研究では忘れられたテーマとなってきた。したがって、真珠を加えて歴史を見るとまた別の様相が見えてくる可能性がある。

 筆者自身は、貴金属とスパイスの観点ばかりから大航海時代が語られることに疑問があり、この時代に真珠を加えたいという思いをもっていた。それが研究動機となり、アコヤ真珠の採れるペルシア湾、マンナール湾(インドとスリランカの間)、南米カリブ海の三つの海域における16世紀史を長年研究してきた。大航海時代に真珠を加えた時、そこから見えてきたのはヨーロッパ人による水産業の重要性であった。南米ではスペイン人が先住民やアフリカ人を潜水労働に使役する奴隷制水産業を発展させており、真珠を介した大西洋奴隷貿易が16世紀前半にすでに形成されていた。マンナール湾岸ではフランシスコ・ザビエルらイエズス会がインドの真珠採り潜水夫を囲い込み、ポルトガル海軍も出動して彼らに真珠採取を行わせた。真珠採取の水産業は自営的で局所的ではなく、世界の諸地域を関連させるグローバルなものであった。宣伝めいた記述となり恐縮であるが、こうした研究成果をまとめた拙著『真珠と大航海時代』(山川出版社)がこの11月に発刊されたので、興味がある方はご覧いただければ嬉しく思う。

 真珠は歴史研究では人々が思う以上に見過ごされてきたテーマだった。したがって、真珠から歴史を見ると、あまり知られていない歴史的事象が浮かび上がることが少なくない。真珠史研究はまだまだテラ・インコグニータといえるだろう。真珠の歴史やその研究に関心を持つ人が増えてくれればと考えている。


[1] プリニウス(中野定雄他訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版、1986年)、第1巻415頁、第3巻1542頁。

[2] アブー・ザイド・アルハサン(家島彦一訳)『中国とインドの諸情報―第二の書』(平凡社、2007年)、85頁。

[3] 山田篤美『真珠の世界史』(中央公論新社、2013年)、8∼17頁。

[4] アレクサンダー・フォン・フンボルト(大野英次郎他訳)『新大陸赤道地方紀行』(岩波書店、2001年)、上巻164頁。

[5] アンソニー・リード(平野秀秋他訳)『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997年・2002年)。

[6] 正岡哲治他「アコヤガイ属の系統および適応放散過程の推定」猿渡敏郎編『泳ぐDNA』(東海大学出版会、2007年)、24∼25頁。

[7] 山田『真珠の世界史』、27∼33頁。

[8] 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)、155頁。

[9] 佐々木達夫「ペルシア湾と砂漠を結ぶ港町」歴史学研究会編『港町と海域世界』(青木書店、2005年)、269~296頁。

[10] 保坂修司「真珠の海(1・2)――石油以前のペルシア湾」『イスラム科学研究』第4号(2008年)、1~40頁、第6号(2010年)、1~31頁。

[11] 小谷汪之「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』(上・下)」及び「補遺」『世界史の眼』( 3月 | 2022 | 世界史研究所Reserch Institute for World History (riwh.jp)4月 | 2022 | 世界史研究所 Reserch Institute for World History (riwh.jp) )

[12] Enrique Otte, Las perlas del Caribe (Caracas: Fundación John Boulton, 1977); R. A. Donkin, Beyond Price: Pearls and Pearl-Fishing (Philadelphia: American Philosophical Society, 1998).

[13] Pedro Machado et al. eds., Pearls, People, and Power (Athens: Ohio University Press, 2019).

[14] François Pyrard, The Voyage of Francois Pyrard of Laval, trans. Albert Gray (New York: Cambridge University Press, 2010), vol. 2, pp. 178-179, note 1.

[15] I. ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム(1)』(名古屋大学出版会、2013年)、32頁。

[16] 家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)、1~7頁

[17] 日本の真珠養殖業がいかに真珠の特徴を変えたかについては、山田『真珠の世界史』、172∼191頁を参照。

[18] 筆者がある埋蔵文化財センターで体験したエピソードである。

[19] 真珠の重量と大きさについては、G. F. Kunz and Charles Hugh Stevenson, The Book of the Pearl (New York: Dover Publications, 1993), p. 328を参照。

[20] リンスホーテン(岩生成一他訳)『東方案内記』(岩波書店、1968年)、255∼256頁。

(「世界史の眼」No.33)

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世界史寸評
ウクライナ戦争への新たな見方
南塚信吾

 2022年10月22日、セルビア在住の旧友山崎洋氏を世界史研究所に迎えて、セルビアから見た現在のウクライナ戦争について話をしてもらう機会を得た。山崎氏は、ゾルゲの僚友であったヴーケリッチのご子息であり、さすがに情報の入手も一目置くべき所があった。氏との話で、日本のメディアなどでのウクライナ戦争についての言説には強調されない論点がいくつかあったので、それをまとめてみたい。おりから、日本でも寺島隆吉『ウクライナ戦争の正体』1,2(あすなろ社、2022年)や下斗米伸夫『プーチン戦争の論理』(集英社インターナショナル、2022年)などが、それに通底するような議論をしているので、それらを少し交えて整理してみたい。

 山崎氏が開口一番話したのは、日本のマスコミなどでのウクライナ情報がアメリカ一辺倒だということであった。ウクライナのゼレンスキーを英雄視し、プーチンを一方的に悪者扱いしているのは、驚きであるという。セルビアなどではもう少し是々非々の見方をしているというのである。そういう見方からすると、どうなるのか。

 (1) 山崎氏によれば、ウクライナ戦争は表面に現れた事象であり、実質的にはロシアとアメリカの第三次世界大戦だという。2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」は、たんにウクライナ国民の民主化要求の表れと見るのではなく、そこへのアメリカの介入を見るべきである。アメリカの目標は冷戦後も残った共産主義体制の打倒である。オースティン米国防長官が、アメリカの目標はロシアの弱体化にあると述べたのは、そのことを意味している。アメリカが実質的に交戦国なのである。NATOのストルテンベルク事務総長は、NATOの加盟国が長年、装備、訓練、指揮に関してウクライナを支援してきたと言明しているではないか。こういうアメリカの対ウクライナ戦争については、キシンジャー、ブレジンスキーの役割を重視すべきである。ほぼこういう議論である。

 これに類する議論は、寺島氏や下斗米氏も行っている。とくに「マイダン革命」が問題になる。寺島氏は、アメリカの一貫した戦略の中で、今回の戦争は起きているのであり、2014年の「マイダン革命」はアメリカの仕掛けたクーデターであったという。のちにオバマ元大統領も認めているとおりである。ヌーランド前国務次官補も、アメリカが40億ドルも投じてきたと発言している。そしてその指令は当時のバイデン副大統領だったと、寺島氏は強調している。下斗米氏はもう少し慎重に多角的に議論しているが、趣旨はこれに通じている。氏はアメリカの対東欧、対ウクライナ政策を歴史的に検討し、アメリカの一貫した狙いを明らかにしている。その中で、ヌーランド発言などを確認したうえで、マイダン革命は、「米国と親NATO勢力が使嗾(しそう)した」、「クーデターまがいのマイダン革命」と位置付けている。100人以上の死者を出した2月の発砲事件についても、「ジョージア系スナイパー部隊」のやったことではないかと示唆している。

 (2) 山崎氏は、「NATOの東方拡大」について、こう指摘する。ロシアは、侵攻に先立ち、アメリカ政府に対し、「NATOの東方拡大の停止」を文書で約することを求めたが、アメリカは拒否した。バイデンが「イエス」と答えれば、戦争はなかったのではないかと。こう簡単ではなかったとは思われるが、「NATOの東方拡大」についての交渉の経過や、そこでの妥協の余地などについては、下斗米氏が詳細に検討して、クリントン政権に始まり、ブッシュJr.政権、オバマ政権が一貫して「東方拡大」を追求してきたことを明らかにしている。そこからは、米政権内部での意見の相違や、米ロの微妙なずれも明らかになっている。とくにジョージ・ケナンなどの批判などを挙げている。とりわけ、「旧ソ連」領の内部にまでNATOを拡大することに、プーチンは強く危惧していたこと、キシンジャーさえも批判していたことが指摘されている。

 (3) 山崎氏は、ウクライナ内部での「ネオ・ナチ」の力に注目している。ウクライナでナチス時代の記章やスローガンが見られるようになるのは、2014年の「マイダン革命」と呼ばれるクーデターの時からだという。「アゾフ大隊」などがそうだ。ネオ・ナチは、運動の暴力的な性格から、數に比して社会に与える影響が大きいというのである。そして、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかったし、ゼレンスキーは和平を公約して当選し、就任後すぐにドンバスへ視察に赴いたが、過激派の武装集団に追い返され、対話はできなかったというように、過激派=ネオ・ナチの役割を強調した。「過激派の武装集団に追い返され」たという点は確認できなかったが、「ネオ・ナチ」については、寺島氏も、ネオ・ナチの「アゾフ大隊」などは2014年から登場したとしている。下斗米氏も、2014年の「マイダン革命」において、「反政府系の右派センターや「自由」など民族急進派、さらにネオ・ナチ勢力」が武力行使をして、政権を倒したとしている。また、就任当初は和平を目指したゼレンスキーがNATO加盟に舵を切ったのも、「民族右派やネオ・ナチの圧力」があったのだという。

 (4) 山崎氏は、東部ドンバスの問題に特に注目していた。いわく、2014年以後のドンバスでは、ロシア語が公用語の地位を奪われ、人口の2割を占めるロシア人は無権利状態に置かれたと感じ、ドンバスのロシア系住民の反乱がおこった。先述のように、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかった。またゼレンスキーは就任後すぐにドンバスへ赴いたが、過激派の武装集団のために、対話はできなかったと。同じような議論は、寺島氏もしている。ドンバスへのウクライナの攻撃というのが実態で、キエフからドンバスへの攻撃は計画的であり、過激派集団によるものであり、その際、ドンバスでウクライナ軍と戦っていたのは軍人ではなく炭鉱労働者であったとしている。下斗米氏は、「マイダン革命」後、新政権が、ロシア語を公共圏から締め出したため、ウクライナ語が強制され、ロシア語話者が多い東部ドンバスの二州では親ロ派による武装反乱がおこったこと、また極右派の政権入りに、東部ロシア語話者地域の住民が猛反発して、一部は武装反乱に及んだことを指摘している。そして、下斗米氏は東部の停戦と安定化のためのミンスク合意に注目している。

 山崎氏が東部ドンバスに注目するのは、ユーゴスラヴィアにおいて難しい問題であった「民族問題」ないしは「マイノリティ問題」に通じるからである。このドンバス問題に限らず、氏は、アメリカにとってかつてのユーゴ紛争は今回のウクライナ戦争の「演習場」だったのだと考えている。以上のような山崎氏の、ユーゴ的な観点からのウクライナ戦争論は、日ごろ欧米や日本での議論に疑問を感じているものには、「してやったり」という感じのものであった。

 おりしも、11月18日に、森喜朗元首相が、「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言し、ロシアのウクライナ侵攻に関する報道に関しても「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」と指摘したと報じられている。これはさっそく批判されているが、今回の山崎氏の話からすれば、的外れではないことになる。山崎氏の発言は欧米一辺倒の見方をただすきっかけになるかもしれない。

 なお、山崎氏との対話との関係で寺島氏や下斗米氏の著書をつまみ食いしてみたが、両書は日本での欧米よりのウクライナ観を相対化するのに必読の書であることを付記しておきたい。

(「世界史の眼」No.33)

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「世界史の眼」No.32(2022年11月)

今号では、一橋大学大学院の倉金順子さんに、「日本における「食べ物の世界史」、の歴史」をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その1をお寄せ頂いいています。第一部の各論考は、1-(1)はこちら、1-(2)はこちら、1-(3)はこちらに掲載されています。

倉金順子
日本における「食べ物の世界史」、の歴史

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)

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日本における「食べ物の世界史」、の歴史
倉金順子

はじめに

 「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。

 したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]

 本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。

はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史

 あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。

 ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。

 民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。

(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]

 角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。

 このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。

 嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。

さまざまな食材・食品の歴史へ

 少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。

 なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。

おわりに

 以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。

 食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。


[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)

[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.

[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。

[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。

[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。

[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。

[7] 角山、前掲書、222-223頁。

[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。

[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。

[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。

[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。

[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。

[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。

[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。

[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。

[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。

山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。

ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)

山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。

ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。

小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。

旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。

[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。

[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。

[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。

[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。

[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。

[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。

[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。

[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。

[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.32)

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