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1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(上)
稲野強

(1)はじめに

 NHK総合テレビで放映された昨年(2021年)の大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を扱った「青天を衝け」だった。物語の後半で、吉沢亮演ずる渋沢が、上州(現、群馬県)富岡製糸場の生糸がウィーン万国博覧会で第2等の進歩賞を獲得したことを報じる新聞記事を居合わせた人々に大声で披露する場面があった。渋沢自身が設立に深く関与していた官営富岡製糸場の生糸が国際的な評価を受けたということだから、彼の喜びは、ひとしおだったろう。それどころか、この授賞の快挙は、それからほぼ140年後の2014年6月に富岡製糸場が「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録される際に、その選考で一役買ったと類推できるほど、現代の人々の記憶に深く刻まれている。

 ところで、この賞の価値をめぐっては、日本の研究者には、第2等賞では世界に通用しない、という否定的なものもあるが、大半は、富岡製糸場の生糸が初めて世界に認識され重要視される端緒になった、あるいは「トミオカ・シルク」の名をヨーロッパ市場に轟かせた、という肯定的なものだ。ただし、賛否両論いずれの場合でも、なぜか当時の世界的水準に照らしての賞の位置づけや賞の出し方、その性格付などに関してはこれまで不問に付されていた。つまり賞の価値が、どれほど実態に即したものかは、問われないまま「トミオカ・シルク」の優秀さが動かしがたい事実として独り歩きしたとも言える。

 では、そもそも賞を価値あるものとしたのは何かと言えば、それは何よりも万博のもつ権威である。現代でも数あるコンテストの価値が、主催者の権威に負うているのと同じである。そしてさらに万博での高い評価は宣伝行為によって、国内外で広められた。富岡製糸場の場合も例外ではない。ことに明治維新後間もない時期に莫大な費用をかけて政府が設立した官営富岡製糸場の成功譚は、やはり莫大な費用を使って参加したウィーン万博の権威によって支えられたからだった。

 そこで本稿は、ウィーン万博での賞の価値や出し方を、権威と宣伝をキーワードに解き明かすことを試みるが、それと同時に万博が19世紀に誕生した意味・背景、ウィーン万博の特徴について概略述べてみたい。日本の万博参加を世界史の中に位置づけるためである。

(2)万博とは何か

 万博は、19世紀半ばにおけるロンドン開催(1851年)に端を発した巨大で先進的な産業見本市であると同時に、物と人の国際交流の場であり、「ナショナリズムの世紀」における国威発揚の場だった。またそれは帝国主義的野心の発露であり、16世紀の大航海時代以来の絶え間ない海洋進出によってヨーロッパ資本主義が世界の隅々まで支配をしているという自負心を公に開陳し、文明と歴史の進歩を誇示する格好の場でもあった。

 一方、近代産業促進の側面から見れば、万博に各国各地域から出品された製品の数々は、いずれも当時の先端技術の粋を集めて競い合うものだから、参加者は、そこから産業水準を学び、発明発見のヒントを得、貿易の実を上げると同時に、否応なく世界の序列化を目の当たりにした。まさに万博は、物質文明によるヨーロッパの優位を執拗に可視化したもので、見る者を圧倒する一大イベントだったわけである。

 片や、建築家や芸術家にとって格好の表現の場だった。例えば建築家はここでは伝統に縛られずに、創造性を駆使して自由な設計に取り組むことができた。封建的・貴族的枠組みを脱却し、経済的裏付けによる自信たっぷりな新興ブルジョワジーの開放的で自立的な進取の気性に富んだ精神がこうした建築家や芸術家の波長に合致していたと言えよう。

 また、万博は一般大衆も観客として様々に参加できる娯楽性を備えた自由で開放された空間だった。そこで人々は、しばしば日常を忘れ、お祭り気分を味わい、幻想・夢の世界に遊ぶことができた。とりわけ創意工夫を凝らした各地域の文化・伝統を重んじた多種多様の「出し物」は、娯楽性に富み、未知の異国に対する興味を増大させ、人々のグローバルな世界観を養うのに大いに貢献したのである。

 このような物質文明を誇示した万博というイベントは、富と権力を備えた「王権神授的な」王室・帝室特有の権威によって、さらにそれを利用した宗主国・植民地を問わずあらゆる階層に存在する中小権力によって支えられていた。こうして万博はヨーロッパ中心主義を体現し、その価値観は、非ヨーロッパ世界にまで浸透することになった。万博で賞を得ることは、とてつもない栄誉であったが、同時にそのようにして構築された権威のシステムに進んで組み込まれ、西洋主義の「先兵」になることを意味した。

(3)ウィーン万博とは

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年5月のことである。この万博は、ドイツ語圏で最初のものであり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25年を記念して開催された。それはまた「ヨーロッパきっての名門」ハプスブルク家の威信をかけて、これまでのロンドン・パリでの交互開催にくさびを打ち込む意志の表れでもあった。

 まずウィーン万博の開催の歴史的背景を見てみると、19世紀後半のオーストリアの政治状況が深く絡んでいることが分かる。帝国内部では1848年革命を起点として、諸地域・諸民族による帝国からの分離運動が活発化し、それに対する反動として皇帝権威の復活を基礎とした、いわゆる新絶対主義体制(「バッハ体制」)の下で、中央集権化が図られた。だが、帝国は、外交・軍事的にはクリミア戦争での失態、イタリア、続いてプロイセンとの戦争での手痛い敗北を経て、オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立で中東欧に新たな体制の枠組みを構築したものの、凋落傾向に歯止めをかけることができなかった。

 その意味で、万博は帝国内外の混乱状態を鎮静化させ、かつてこの多民族帝国を数百年にわたり保持してきた帝国の威信を取り戻す絶好の機会であった。既にこの時代、ハプスブルク帝国の威信の復活は、もはや幻想だったが、万博は、これまで維持してきた独特の皇帝崇拝ないしは王朝への尊崇の念を人々に喚起させる格好の機会でもあった。もちろん莫大な費用がかかる万博を主宰する政府=権力者の方も、国民大衆の政策に対する不満を祝祭の挙行で反らそうと考えていたし、あるいは万博をこの帝国固有の諸民族の一体化の証とすることを目論んでいただろう。

 また、都市改造の波も万博開催に一役買った。当時、帝国内外の不安定な政治状況下にあったとは言え、商工業の急速な発達にともない19世紀後半にヨーロッパ全体で起こった都市化は、この帝国をも巻き込み、大都市を中心に空前の建築ブームを引き起こした。それは史上「会社設立期(グリュンダーツァイト)」と呼ばれる時期に対応していた。ウィーンにおいてもすでに19世紀前半以来、人口の増加と企業活動の活発化によって市域は市壁に囲まれた従来の中世都市の枠を破って拡大していたから、市壁を取り壊し、そこに様々な建築物を新たに建てる試みがなされ、また都市交通網の整備が図られた。取り壊された跡に王宮を含む旧市街地(内市)を取り囲むリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路ができ、その道路に沿って短期間のうちに大学、教会、オペラ座、宮廷劇場、国会議事堂、美術史美術館、新市庁舎や証券取引所が次々に建設された。それらの建築物の数々は、さながら建築様式の見本市の観を呈していたが、こうした都市改造ブームの延長線上に万博があったのである。

(4)万博会場

 万博の会場に選ばれたのは、ウィーン市の郊外、北西から南東に流れるドナウ川本流とドナウ運河に挟まれたプラータ―と呼ばれるかつての広大な宮廷の狩猟場で、当時は市民に開放されていた公園だった。その鬱蒼とした森を切り開いて充てられた約233万631平方メートルの敷地に大規模な会場を作り、市街地と結ぶ鉄道を敷設し、ドナウ川と共に人的・物的輸送手段を確保した。この万博に参加した宗主国は35、植民地や属領を含めると70か国ほどだった。

 万博の主要建築物としては、先端にハプスブルク家の王冠を戴いた高さ90メートル、直径100メートルの「ロートゥンデ」と呼ばれる巨大な鉄製ドームが建てられた。そしてそれを中心にして東西に延びる回廊の両側に16ずつの展示場を持つ産業宮が配置された。その構造は、あたかも世界地図を象徴しているとは言え、「ロートゥンデ」内では主催国オーストリアと隣接するドイツが展示場を占め、ドイツ系オーストリアこそが東西文明の接点であり、ここで東西文明が融合するというオーストリアの自負心が可視された。 

 そのため、オーストリアの西にある諸国は、「ロートゥンデ」の西側に、東にある諸国はその東側にあったから、回廊の最西端には南北アメリカとブラジルの展示場が配され、日本の展示場は中国、シャム(タイ)、トルコのそれと共に最東端に配されることになった。さらにこの会場ではパリの万博の例に倣って、産業宮の周囲に185棟のパビリオンが点在していた。参加各国・地域はパビリオンにおいて自国の伝統文化のイメージを強調できた。万博のショー化、娯楽的要素の拡大・多様化の様は創意工夫を凝らしたパビリオンによって可視化された。中でも中東、アジア、アフリカのパビリオンは、訪れた人々のエキゾチシズムを刺激し、人々は居ながらにして「世界旅行」を楽しむことができた。池に太鼓橋を架けた日本庭園に茶屋、鳥居と神社からなる日本のパビリオンも人気を博したひとつだった。

 展示場は、テーマによって大きく26グループに分かれ、さらに1グループが5から10のセクションに細かく分類されていた。セクションは全体で174あり、産業の情報交換、技術革新の様子がただちに理解されるようになっていた。

 万博の会期は5月から10月末までの半年間で、その間ウィーンでのコレラの発生や株の暴落、いわゆる「証券取引所の危機」で一時的には、万博どころではないという空気が社会全体を覆っていたようだが、それでも前回のパリ万博の1千万人には及ばなかったものの、722万人、当時のウィーンの人口の9倍弱の入場者を受け入れたのである。

 なお、万博開催中の6月3日に奇しくも岩倉使節団一行がウィーンに到着した。一行はすでに1年半にわたって米欧周遊中で、2週間の当地滞在中にしばしば万博会場を訪れている。佐賀藩出身の書記官久米邦武は『米欧回覧実記』の中で、会場があまりにも広く、見るべきものが多過ぎて、「華然タル光輝ニ心ヲ奪ハレ、精緻ナル妙工ニ神ヲ耗ス」と精魂尽きた様子を吐露しながらも、万博の意義についてこう述べる。「之ヲ要スルニ衆邦ノ億兆、其精神ヲ鐘メタル、英華ヲ擢テ、此内ニ陳列シタレハ、物トシテ珍ナラサルハナリ、奇ナラサルハナシ」と。そして周遊中に万博に巡り合った喜びを「幸ニ墺国ニ万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場ニ観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此紀行ヲ結フニ、大ヒニ力ヲ得タリ」と表現している。さらに彼は、万博を「太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スヘキモノナリ」と高く評価する。この「太平ノ戦争」の思いは、帰国後に開催される内国勧業博覧会で結実することになる。使節団一行は6月18日にウィーンを発ち、次の目的地スイスのチューリッヒに向かった。

(5)日本の万博参加

 さて、日本政府に初めてオーストリア・ハンガリー二重帝国政府からウィーン万博(当時の呼び方では、「維納万国博覧会」)への参加の要請があったのは、明治4年2月5日(明治5年まで太陰暦)だった。その後10か月以上熟慮した上で日本政府は12月14日には参加を決定し、大隈重信参議が、「博覧会事務総裁」に任命されたが、実際の万博準備に関する事務の総責任者は「博覧会事務副総裁」の佐野常民だった(後に日本赤十字社総裁)。彼は、大隈と同じ佐賀藩出身であり、1867年のパリ万博に単独で参加した佐賀藩の代表としてすでに万博を経験していた。だが政府としての万博参加は初めての経験だったために、万博の規模、出品物の輸送方法、展示方法を把握し、有効な出品物の選定、決定をどのように行うべきか非常に苦慮したようである。(その様子は、『大日本外交文書』の中の「外国博覧会参加ニ関スル件」や「維納博覧会ニ関スル件」に詳述されている)。

 万博への出品物を各地から収集するために、明治5年1月、太政官は全国に布告を発した。万博に日本が誇る伝統的な物産・工芸品を出品し、日本の産業の水準を世界の人々に認識してもらい、それを交易すれば国益が図られるといった点を強調することで国民に各地の物産を出品するように促したのである。

 また佐野は明治5月25日に博覧会理事官に任命された機会に、太政官布告に沿って万博に参加する目的を5点にまとめ、それを関係者に徹底させることにした。ここでは万博への参加が、諸外国の優れた産業技術・文化を吸収することによって、日本の経済的・文化的発展に役立て、また貿易促進のための研究・調査を行う好機と捉えられている(これは「伝習生」=技術者による技術習得で実を結ぶことになる)。だがそれと同時にそこには国際社会の仲間入りを果たそうとする積極的な姿勢が見られる。それに加えて日本の優れた点を積極的にアピールすること、日本の製品が勝れていることを評価してもらい、それによって貿易の実を挙げることが訴えられている。

 ただし、政府が発した意欲的な布告にもかかわらず、万博の主旨が一般国民に理解できなかったために各地の物産の収集は思うに任せなかった。結局出品物は政府がすべて買い上げることで収集が進められ、11月20日までには予定の収集はすべて終わった。出品物には、伝統的に優れた工芸品を中心に手工業製品や天然資源が選ばれ、幼稚な機械製品は極力排されることになった。興味深いことに、万博顧問格のアレキサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男)の発案で「西洋の」見物人の目を引くために東洋趣味的を強調した巨大な展示物が出品されることになった。そのために用意されたのが名古屋城の天守閣の屋根に輝いていた金の鯱、東京・谷中の五重塔の雛形、直径8尺の大太鼓、2間の提灯、張りぼての実物大の鎌倉の大仏だった。これらの出品物は集積された東京湯島聖堂大成殿で一般公開されたが、これは将来の博物館設立の原型となる記念碑的イベントだった。出品物は、1873(明治6)年1月30日〔明治6年から太陽暦〕に万博関係者が乗るフランスの郵船「ファーズ」号によって横浜港から運び出され、3月21日にアドリア海に面したオーストリアのトリエステ港に着いたのである。

(以下次号)

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg.durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.25)

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木畑洋一「人類史に逆行するウクライナ侵略」掲載のお知らせ

 本研究所研究員の木畑洋一さんの「人類史に逆行するウクライナ侵略」という記事が、『しんぶん赤旗』3月10日号に掲載されました。その記事は以下のurlで見られます。

https://blog.goo.ne.jp/uo4/e/caa0aa3c2cc72604fc33876b7a9987c0

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世界史寸評
東西の狭間に落ち込むセルビア
山崎信一

 昨月来、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが世界を駆け巡っている。メディアを賑わせる難民の大群、破壊される都市の様子など、30年前の旧ユーゴスラヴィア紛争を思い起こさせる。そうした中、世界各地で、ロシアに抗議しウクライナに連帯するデモや集会が開催される中、バルカン半島の小国セルビアでは、3月初頭にロシアを支持する大きなデモが行われ、このことは日本でも報道された。そして、こちらは報道されなかったが、ウクライナとの連帯を呼びかけるデモや集会もまた、日々開かれている。ウクライナの戦争は、セルビア社会内部の分断や亀裂を可視化し、その亀裂を深めるものとして作用しているとも言える。

 戦争に対するセルビア政府の対応も、引き裂かれるセルビア社会を反映してか、必ずしも一貫したものではない。侵攻の後、長時間の国家安全保障会議の後で出された政府声明は、ウクライナの主権と領土保全を支持する一方、ヨーロッパの国としては極めて例外的に、ロシアに対する制裁を一切行わないことを述べている。その後もこうした態度は続き、国連特別総会でのロシア非難の決議には賛成する一方、ロシアに制裁を課すことなく、通商や航空便運航は維持し続けている。

 セルビア人は、親ロシア感情の強い人々だと言われる。2019年1月にプーチン大統領がセルビアを訪問した際には、ロシアとプーチンを支持する集会に予想を超える大群衆が集まった。親ロシア感情の要因として、同じスラヴ人であり同じ東方正教の文化を共有する、伝統的なものであるといった説明が良くなされるが、これは単純すぎる見方だろう。今回の戦争に関して言えば、ロシア人もウクライナ人もともにスラヴ人であり大多数は東方正教徒である。歴史に目を向けても、確かに19世紀から第一次大戦までは、ロシア帝国が当時のセルビア王国の庇護者として振る舞ってはいた。しかしその後、セルビアがユーゴスラヴィアの一部となった後、20世紀の大半の期間においては、両者が緊密な関係にあったと言うのは無理があるだろう。むしろ、セルビア人の間に親ロシア意識が広がったのは、主として21世紀に入ってからのことであると考えられる。親ロシア感情は、実際の文化的・民族的親近感から生じているというよりは、欧米に対する反感の裏返しとして現れたものと考えるべきであろう。ユーゴスラヴィア紛争における「セルビア悪玉論」への反発、コソヴォ紛争におけるNATO軍によるセルビア各地への空爆、2008年にアルバニア人が多数派を占めるコソヴォの独立を西側各国が承認したことなどにより強まった欧米諸国への反感が、親ロシアという形をとって表出したとも考えられるのである。それに際しては、2012年から政権の座にある現ヴチッチ大統領の所属するセルビア進歩党政権により、政府系メディアなどを用いた大規模な親ロシア・キャンペーンが展開されたことも重要だろう。自らの加害を含めて過去を直視するのではなく、欧米の被害者という面を強調し、それを政府への支持に繋げようとしたとも言える。

 セルビアは、EU加盟候補国として加盟交渉を進める一方で、かつて自国領であったコソヴォの独立を認めない立場から、国連安保理で拒否権を持つロシアへの接近を進めてきた。EU圏を最大の貿易相手としながら、エネルギーはロシアに依存している。一帯一路を掲げる中国への接近も図っているが、中国との関係が、どちらかと言えば通商やインフラ投資などのドライな経済的結びつきの側面が強いのに対して、人々の親ロシア意識はかなりエモーショナルなものになっており、政権としてもそれを無視できない。セルビアでは4月初めに大統領選と議会選が予定されている。親ロシア色の強い民族主義野党と親西欧野党のウクライナ戦争をめぐる分裂もあり、現職大統領と現政権の勝利が見込まれているが、問題は、いつまでこのどっち付かずの立場を維持できるかだろう。

 東西両陣営の中間でどっち付かずの国だったと言えば、かつてセルビアもその一部であった、チトー率いる社会主義時代のユーゴスラヴィアの「非同盟外交」が想起されるかもしれない。しかし当時のユーゴスラヴィアが、第三世界の国々の間でリーダーシップを取り、積極的に「非同盟」を掲げたのに対し、残念ながらセルビアは、そうした外交的なイニシアティヴを取る意思も能力も欠いている。戦争が長期化すれば、EUからはロシア制裁への同調を強く求められることになるだろう。一方で、ロシアとの対立を深めることは、国内的にも難しい。現在のセルビアには、ひたすら戦争と対立の終結を願う以上のことはできそうにない。

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世界史寸評・投稿
ウクライナ侵攻と非武装・中立
砂山清(元ジャーナリスト)

 今回のロシアのウクライナ侵攻に関連して、「非武装・中立」ということを改めて考えさせられました。

 私の意見はとても単純です。まず、戦争だけは、どんなことがあっても絶対したくないと考えます。そのための手段は、まず中立宣言をすることです。そして戦争をしないのだから軍隊は無用とすることです。では、他国から理不尽な武力攻撃を受けたらどうするか、もちろん戦争をしないのだから、ぎりぎりの外交でその攻撃をやめさせる努力をする、それでだめなら、降伏するしかないと考えます。戦争だけは絶対したくないですから。

 それで、降伏した後は、どうするか。ここが一番難しいところです。私は、ここでガンジーやマンデラに学んで、傀儡政権に対して非暴力・不服従を貫くのがいいと考えます。これは歴史の中でインドの独立や、南アフリカの人種差別撤廃で現実に実証されていることです。このような「非武装・中立」を貫くためには、日ごろから、軍備に使うお金を援助や親善や文化的交流に使っておくことが必要です。もし、ロシア(あるいは中国?)のような理不尽な国に侵略されても、国際世論が味方になるよう、外交と情報収集にお金を使っておくわけです。

 そもそも軍備による抑止力という考え方は、論理的に矛盾していると考えます。結局戦争になった場合、今回のNATO諸国のように、大国であっても軍備ではウクライナのような国を救えないわけです。またフィンランドやスウェーデンのような国は、中立宣言をしたうえで軍備をしていますが、その軍隊は何のためにあるのか分からない状況にあります。

 「非武装・中立」は幻想だという人が多いと思いますが、現に世界にはコスタリカのように「非武装・中立」を実践している国もあります。しかも米国の裏庭と言われる中米にあってコスタリカはかなりうまくやっているのです。1949年に制定されたコスタリカ憲法は、その第12条において、「恒久制度としての軍隊は廃止する」とうたいました。1982年には、モンヘ大統領によって「中立宣言」が発せられ、1987年には、中米の紛争を平和的に解決したとして、アリアス大統領はノーベル平和賞を授与されたほどです。

 ウクライナも初めから非武装で中立の宣言をしていれば、今度の戦争はなかったと思います。その点でゼレンスキー大統領は完全に読みを誤ったと考えます。そしてこれは日本の将来の安全保障を考える時、「他山の石」になると言えるのではないだろうか。

 実際に戦争が始まってしまった今、状況は困難さを深めてしまいましたが、たとえ今からでもウクライナがロシアの言うことを受け入れ、「非武装・中立」宣言をしてはどうでしょうか。ロシアがキエフを占領、ゼレンスキー大統領を追い出し傀儡政権を作ったとしても、ウクライナ国民のロシアに対する非暴力・不服従運動がある限り(これはあると私は思う)、市街戦がなくともウクライナは「ロシアのもの」にはならないでしょう。そうなれば、プーチンは何のためにウクライナ侵攻を企てたのか、ロシア国民にも説明がつかず、ロシアの厭戦気分は高まるばかりでしょう。                     

(2022年3月4日記)

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世界史寸評
ロシア・ウクライナ戦争を考える
南塚信吾

 2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、世界史という観点からみて、いろいろな問題を明らかにしていると思われる。まだメモ書き程度であるが、そのうちのいくつかを考えてみたい。

1. 戦後は「平和」だったのか?

 戦後は平和だったのに、今回は70数年ぶりにそれが破られたと考えている人が多いのではないか。しかし、戦後の大きな戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、スエズ戦争、中東戦争、ユーゴスラヴィア内戦、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などいくつもあった。多くの場合、「途上国」において「北」が戦争をして、「北」自体においては戦争はなかったのである。「冷戦」終結以後に限定しても、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などが続いているわけである。今回はその「北」で戦争がおきて、世界がショックを受けているのである(なお、1956年のハンガリーと1968年のチェコスロヴァキアの場合は軍事介入だが、戦争にはならなかった。また、アフリカやラテンアメリカではもっと多くの「内戦」と言われる戦争があり、ユーゴスラヴィアでも「内戦」があったが、「北」が直接前面に出ることはなかった)。このように、世界的に見て、戦争は地域を移しながら、絶えず続いているのである。なぜ、このような戦争が続いているのか。

2. 戦争理由について

(1) NATOの東方拡大

 今回、NATOの東方拡大への反発がロシアの開戦理由だと考えられている。もともとは米ソ「冷戦」のための同盟であったNATOが、「冷戦」後も残った。それが、旧東欧諸国やバルト三国にも拡大した。それはしだいにロシアへの牽制という意味を持つようになった。NATOの「インフラ」を持つ国ウクライナが隣接するのは、ロシアにとって脅威である。それを取り除きたいと、外交交渉は続けられていたが、成果が出ない。それゆえ武力に頼ったというわけである。しかし、NATOの東方拡大自体は、戦争目的にはならない。それにはマイノリティ問題を使う必要があった。

(2) マイノリティ問題

 国民国家の中のマイノリティが戦争と侵略のために使われた。今回はドネツクとルガンスクのロシア人問題が使われた。しかしこれは世界史上新しい事ではない。世界史的には、ナチスによるズデーテン問題、コソヴォ問題、チェチェン人、イラク・シリア・トルコのクルド人問題の利用など、いくつも上げる事ができる。

3. 新自由主義の拡大

 では、NATOの東方拡大とは何か。その背景にあるものは何か。それは新自由主義の拡大に他ならない。アメリカが主導する新自由主義の世界的支配拡大が、ヨーロッパではNATOの拡大として現れている。1980年代(レーガン、サッチャー、中曽根の時代)から目立って広がり始めた新自由主義は、90年前後には旧ソ連圏を崩壊させる重要な要因となったが、「冷戦」終結後は、東欧諸国、バルト三国、そして、アフガニスタン、イラク、リビアなどを飲み込んでいった(シリアはその間際にあり、アフガニスタンでは揺れ戻しが見られる)。その過程で、上に見たように、いくつもの戦争が次々と起きたのである。新自由主義は、経済面での規制緩和、民営化、市場化、政治的には小さな国家(軍備は別として、福祉の縮小など)や米欧型の「民主主義」など、資本の徹底した自由を支える環境を要求する。このような新自由主義の波が今回はウクライナに迫ったのである。NATOはこういう新自由主義を支える同盟なのである。それに対するロシアの反発が今回の戦争の根本原因である。この点では、ロシアに共感する国は他にも多々あり得る(だからと言って、ロシアの軍事進攻を良しとするものではない)。

4. 大国に接する小国の「リアリズム」

 1956年、ソ連の第20回党大会ののち、ポーランドとハンガリーにおいて、社会主義の改革を求めて暴動と政変が起きた。この時、ポーランドのゴムウカはソ連に改革を認めさせるために、「中立」や「複数政党制」を封印して、ソ連の軍事介入をさせなかった。一方のハンガリーのナジは、「複数政党制」のみならず、「中立」をも表明して、ソ連の軍事介入を招いた。1968年のチェコスロヴァキアにおける「プラハの春」の場合も、ドプチェクらの改革派は、下からの民衆組織の結成を認めて、ソ連などの軍事介入を招いた。大国に接する小国の指導者には、冷静な現実感覚(リアリズム)が求められる。そのよい例は、フィンランドである。ロシア、そしてソ連、またロシアという大国に隣接して、それに屈服するのでもなく、敵対するのでもなく、存在意義を認めさせてきている。ウクライナのゼレンスキーに求められるのはこうした小国のリアリズムではなかったか。一方的にNATOやEUに頼るという政策ははたしてリアリズムであったのだろうか。

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「世界史の眼」No.24(2022年3月)

「世界史の眼」3月号では、小谷汪之さんに、「戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)」を寄稿して頂きました。「(下)」は4月号に掲載します。また今号より、南塚信吾さんによる、「「万国史」における東ヨーロッパ 」の連載が始まります。今後、随時掲載してまいります。

小谷汪之
戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)

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戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(上)
小谷汪之

はじめに

1 石川達三のパラオ行

(以上、本号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 第一次世界大戦後の1922年に日本の国際連盟・委任統治領となった南洋諸島、特にパラオは真珠産業(真珠貝採取業と真珠養殖業)を通してオーストラリアやニューギニアなど「南方」と深く結びついていた。

 オーストラリア西海岸やニューギニアとオーストラリアの間のアラフラ海における真珠貝採取業(貝殻が高級ボタンや螺鈿、装飾品などの素材になる)に日本人が初めて雇用されたのは1883(明治16)年で、オーストラリアの真珠貝採取船の船長ミラー(Captain J.A. Miller)が来日して、37人の漁民と雇用契約を結んだ(リンダ・マイリー、19頁)。これを皮切りとして、和歌山、愛媛、広島、沖縄などから多くの人々がオーストラリアに渡り、1900年代初めには、3000人ほどの日本人が真珠貝採取業に雇用されていた。彼らの多くはオーストラリア西海岸のブルームとケープヨーク半島最北端トレス海峡の木曜島に集住していた(図版1。山田篤美、124-125頁)。1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。

 他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。白蝶貝はパラオでは産しないので、アラフラ海などの白蝶貝を輸入しての事業であった。

 こうして、真珠産業を通して「南方」と深く結びついていたパラオでは、1930年代には、「南進熱」と呼ばれるような民衆的状況が生まれた。しかし、それも日米開戦(1941年12月8日)が迫っていたころには行き詰まりの様相を濃くしていたようである。

 本稿では、そうしたパラオの真珠産業と「南進熱」について、石川達三の『赤虫島日誌』(1943年)などを通して見ていきたいと思う。(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足)

1 石川達三のパラオ行

 1941年5月19日、ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞した作家、石川達三は「はっきりした目的」もなく、ただ「何か南方に惹かれる一種の欠陥のような性格」に導かれるままに、「南方」への旅に出た。サイパン島、テニアン島、ヤップ島を経て、6月6日、パラオのコロール島で下船した。「はっきりした目的」もなくといっても、パラオにはそれから一か月以上滞在したのであるから、何か目的に近いものはあったのであろう。石川はこの南方旅行の記録である『赤虫島日誌』に次のように書いている。

弟は三十一であったろうか三十二になろうか。パラオに住んでもう八年である。妻子は南洋の生活に疲れて内地に静養に帰り、彼はいまひとり住居(ずまい)の不自由さである。私が南洋旅行を計画した理由の一つは、彼がどんな風にして暮らしているのか、その様子を見たいからであった。彼は白蝶貝〔シロチョウガイ〕を海にひたし、その胎内に真珠を育てている。ちかごろはこの群島のはずれの方の小さな無人島に作業場をこしらえて、月曜から土曜日まではそこに泊まりこんで、三万匹の貝を養っているというのだ。凡そ人間ばなれのした仕事だ。そして、それがしきりに私の好奇心をそそるのだ。(52頁)

 この石川達三の弟は石川伍平といい、南洋真珠株式会社の社員として、パラオで真珠養殖の仕事に従事していた。石川が書いているように、南洋真珠の真珠養殖は白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とするもので、御木本幸吉が事業化したアコヤガイ(阿古屋貝)を母貝とする真珠よりも大粒の真珠がとれる。ただし、その分だけ養殖には技術的に難しい面があった(山田篤美、243-245頁)。この白蝶貝による真珠養殖に先鞭をつけたのは藤田輔世すけお(1878-1931年)で、三菱(岩崎小弥太)の資金援助を受けて、1916年、フィリピン、ミンダナオ島のサンボアンガで白蝶貝による真珠養殖を試みたが、政情悪化などにより断念した。その後、1922年に当時オランダ領だったインドネシア、セレベス(スラウェシュ)島東南端のブートン島に鳳敦(ブートン)真珠養殖研究所を設立した(図版1)。藤田死後の1932年、これが三菱系列の南洋真珠株式会社に改組されたのである。ブートン島の周辺の海では、白蝶貝がたくさんとれたのも好条件であった。南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。この「無人島」にはダニの一種である「赤虫」が多かったので、「赤虫島」と呼ばれていた。赤虫島はコロール島の南のウルクタベール(ウルクターブル)島南端の湾奥にあった(図版2。ただし、赤虫島を特定することは、今日、困難であろう)。

 石川達三はコロール島では、弟の住んでいる南洋真珠の社宅に居候した。社宅は「六畳二室に台所と広縁とのついた、バラックのような狭い家であった」。南洋真珠の社屋と社宅は日本学術振興会が1934年にパラオに設立した熱帯生物研究所の隣にあった(図版2)。それで、石川伍平など南洋真珠の社員は熱帯生物研究所の研究員などと親しく付き合っていた(坂野徹、161頁)。そのうえ、石川達三はパラオへの船中で、熱帯生物研究所に赴任する「秋山さん」(本名、尾形藤治)と知り合いになっていた。その縁で、石川達三はコロール島では、特に「秋山さん」と親しくした。

 「秋山さん」の研究テーマは「南洋の生物の腸内に寄生する寄生虫の研究」であった。空気銃を愛好する石川は、鴫、鷺、蜜吸(スズメ目ミツスイ科の鳥)、青蜥蜴などを打ち落としては「秋山さん」の所に持って行った。「秋山さん」はすばやく腸を切り開いて、寄生虫を調べていた。ある日、トキソーテス(鉄砲魚。スズキ目テッポウウオ科の魚)を捕獲するために、石川は「秋山さん」や弟や熱帯生物研究所の研究員たちと一緒に、南洋真珠の便所の下に行った。「便所は海のうえに突きだしている。水洗便所である〔海岸から10メートルぐらいの桟橋のようなものを海中に突き出して作り、その先端に便所を置いた〕」。「水の中を動いている魚を空気銃でうつ事は、この道の最高技術であろう」。夕方、石川らは「三匹の漁獲をもって引きあげた」(『赤虫島日誌』64頁)。

 6月9日(月)、石川達三は、赤虫島に「見学がてらに遊びに行ってみることにした」。午前9時、コロール港を出航、同行は弟など南洋真珠の社員5人と現地民のワカキチ夫婦とクニイチ夫婦の四人で、土曜日まで六日間滞在の予定であった。船は満月丸という「十噸〔トン〕に足らぬ発動機船」で、「煙の輪を丸く吹きあげながら紺碧の水をたたえた島影のせまい水路をぬけて行った」。コロール島から赤虫島までは「珊瑚礁づたいに約二十哩〔約32キロメートル〕、三時間の航海であった」(『赤虫島日誌』84頁)。

 「赤虫島は大きな湖のように島々に抱かれた湾の一番奥の方にあった。湾の水はリーフ〔礁〕の淡緑の色にふち取られて、静かな風景であった。島々はみな石灰岩質の高い岩壁にかこまれていて、岩壁にはあじさし・・・・や飛行機鳥や海燕の巣が到るところにあった。船はリーフの上の浅瀬を危なく通りすぎて小さな入江にはいった。入江の奥に幅三十間〔約60メートル〕長さ一丁半〔約160メートル〕ばかりの砂浜があり、そこに二棟の宿舎と二棟の作業場とが建っていた」(『赤虫島日誌』90頁)。

 会社の連中は二日目から作業にとりかかった。富岡君は潜水夫とワカキチとクニイチとを連れて附近の海に沈めてある白蝶貝の籠を引きあげて来た。針金づくりの籠のなかに平たい貝が七八枚きちんと並べてあった。この籠のなかで貝は二年も三年もかかって一粒の真珠をその胎内に育てる。作業場では脇田君たちが貝をひらいては長いピンセットで真珠の粒をつまみ出し、硝子皿のなかへ無雑作に五十も六十も投げこんでいた。

 オーストラリアの方から買いこんだ白蝶貝は一時は三万匹に達したが、この海に在って何か原因不明の死を遂げて行った。水質が悪いらしいと言い営養不良だとも言うが、今では一万にも足らぬ数になってしまった。会社の事業は思わしくない。死んだ貝殻は作業場の軒下に風雨に晒されて煉瓦塀のように積み重ねられてある。ヤップ島では一枚の貝殻が一本の椰子の木と交換されるというのに、ここでは(ボタン)細工屋に売るのだという。

 この作業は私にはあまり興味がなかった。三年の日子を費やして一粒の真珠を作ることのばかばかしさと、その真珠を指輪にして美しさを誇ることのばかばかしさとが同時に感じられた。作業場の仕事をよそに、私は愛用の空気銃をもって干潮の砂浜を鳥を追うて歩きまわった。(『赤虫島日誌』98-99頁)

 こんな状況でも、南洋真珠の社員たちはこの赤虫だらけの無人島で、月曜日から土曜日まで泊まり込みで作業を続けていた。それだけに、土曜日に満月丸が迎えに来るのが待ち遠しかった。6月14日(土)、「南洋とも思われないうそ寒い風が吹いて、時折は小雨がはじまるようないやな天候であった。帰りの船はきっと揺れがはげしいだろうと思われたが、誰一人として船出を見合わせようと言い出す者はなかった」(『赤虫島日誌』114-115頁)。一行は荒天を押して赤虫島を出発し、波しぶきを浴びながらコロール島に戻った。ただ、ワカキチ夫婦だけは留守番として赤虫島に残った。

(次号に続く)

参考文献

石川達三『赤虫島日誌』八雲書店、1943年。

坂野徹『〈島〉の科学者―パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年。

山田篤美『真珠の世界史―富と野望の五千年』中公新書、2013年。

リンダ・マイリー(青木麻衣子他訳)『最後の真珠貝ダイヴァー 藤井富太郎』時事通信社、2016年。

(「世界史の眼」No.24)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)
南塚信吾

はじめに

 明治期には、欧米で書かれた世界史を翻訳・紹介した「万国史」がつぎつぎと出版され、それが日本にとって国外の情勢を知る重要な情報源となっていた。「万国史」というべき歴史書は、明治初期から日露戦争前までほとんど毎年と言っていいほどに出版され、合計30篇ほどが出されている[1]。その中で、ヨーロッパの東の部分についても、われわれが驚くほど多くの情報が入っている。

 明治期の「万国史」を見ると、今日「東ヨーロッパ」と考えられている地域の歴史は、西欧と線引きされ区別されることなく扱われている。しかもその扱われかたは、明治期の中でも少しずつ違ってきているようである。時々の日本の実践的問題に即して東ヨーロッパの違った地域に強い関心が向けられてきている。そして、一定の時期から「東ヨーロッパ」というまとまりで考えられるようになるのである。

 では、「万国史」において、ヨーロッパの東部の歴史はどのように扱われ、その扱われ方はどのように変化し、いつから「東ヨーロッパ」としてまとめて考えられるようになったのか。当時の日本の人々の世界史像の中で、「東ヨーロッパ史」はどういう位置を占めていたのだろうか[2]

 考えてみれば、「東ヨーロッパ」の扱われ方だけを限定して検討することにどういう意味があるのだろうかという疑問も出るはずである。それぞれの「万国史」の全体的特徴を論ずべきではないか。もちろんそうである。しかし、今回は、それぞれの「万国史」の全体的特徴を明らかにするためにも、あえて筆者が多少とも専門にしてきた「東ヨーロッパ」に限定して、そこから全体を見直す視点を探りたい。

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

 江戸期に比べ明治期に入って世界への日本の関心は急速に拡大した。「開国」した日本は世界の中のどこへ行くべきか、必死の模索が続いたのである。明治の初期には、世界への関心はどこかに集中して向けられていたというよりも、まさにグローバルに世界各地に向けられていた。そこに「万国史」の必要性があった。

 知られるかぎりで、「万国史」と名のついた最も早い書は、西村茂樹『万国史略』1869年(明治2年)であろう。西村の『万国史略』はスコットランドのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の1866年版の翻訳であるが、序論と古代ギリシア史までしか訳されていない。序論は歴史学の方法などを論じていて、レベルの高い書であったが、本論としてはローマ帝国までしか訳されなかった。したがってここでは本書は取上げない。

 明治政府のもとで文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)であった。そして、1872年(明治5年)に学制が発布され、新しい学校制度が発足した。これに合わせるように、明治4年から8年にかけて、文部省を中心にした人々によって「万国史」と言うべき書が出されていた。それは、寺内章明訳編『五洲紀事』、文部省篇『史略』、師範学校編『万国史略』、田中義廉『万国史略』、牧山耕平訳『巴来(パーレイ)万国史』であった。それらは、寺内が抄訳し牧山が完訳したアメリカのグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本を何らかの形で参考にしたものであった。原書はSamuel Griswold Goodrich(Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)である。パーレイの本は、幕末には日本に入っていたようで、1867(慶応3)年に、福澤諭吉が軍艦受け取りの使節として再びアメリカへ出かけた時、パーレイの「万国史」も購入してきているという。明治の初期にはパーレイの本を中心に日本の世界史認識が始まったものと言うことができる。

 では、それらにおいてヨーロッパの東部はどのように紹介されていたのだろうか。

1. 寺内章明訳編『五洲紀事』紀伊国屋源兵衛 明治4年(1871年)

 この本は「万国史」とは称していないが、内容は「万国史」そのものであった。「五洲」というのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五つの「洲」という意味である。これはグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本[3]などに拠りつつ、「他書」をも参照しながらまとめられたものである。パーレイの本は、なお聖書的な要素を残すとはいえ、気球で地球を回るような世界史で、ヨーロッパに偏ってはいなかった。アジアからオセアニアまでを回りながら、各地、各国の歴史(寺内はまだ「歴史」という言葉を使っていなくて、単に「史」と言っている)を縦に述べて、それを並べたものであった。

 寺内章明の訳した『五洲紀事』は、亜細亜洲や阿非理加(アフリカ)洲については十分なページを割いていたので、その点は注目すべきであるが、パーレイの原著のように徹底して世界地理をなぞるように全洲をめぐっているわけではなく、アメリカとオセアニアは扱っていなかった。その分、欧羅巴は詳しかった。では、そこではヨーロッパの東部はどのように描かれていたのだろうか。

 ヨーロッパ洲は、
  巻三 希臘紀
  巻四 羅馬(法王国、以太利諸国)(附 拿破里(ナプルス)、威内薩(ウエニス)、熱那(ビノア)、撒丁(サルデニア)、多加納(トスカニー)
  巻五 土耳其トルコ紀、西班牙・葡萄牙紀、仏蘭西紀
  巻六 日耳曼・墺太利・普魯士・瑞西紀(附 匈牙利ハンガリー)、魯西亜紀(附 波蘭ポーランド)、嗹馬デンマーク瑞典スウェーデン諾威紀ノルウェー、和蘭・比利時紀、英吉利紀
という構成であった。それぞれが、古い時代(上古)から近年まで国ごとに縦に歴史が述べられる形式をとっていた。ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとの構成であった。

 ヨーロッパ東部では、希臘と匈牙利と波蘭がくわしく扱われていた。

 ギリシアについては、古代希臘の歴史にはじまって近代まで書かれていて、その最後に希臘の独立が扱われている。そこでは、土耳古に400年間「奴隷」の如く制馭されていた希臘の「人民」が、1821年から「大義を唱へ兵を挙げ」、英仏露の応援を受けて、1829年に「独立」国となったことが書かれている。ギリシアの独立は注目すべき出来事であったようである(巻三―50)。このギリシア独立の経緯は今日においても通用する記述である。  

 用語に注目すると、すでに「独立」という言葉が使われていたが、この時、ギリシアは独立ではなく、自治国となったのである。『五洲紀事』では「人民」は国民の意味でも、民衆の意味でも使われている。ちなみに、『五洲紀事』は佛国「革命」や「民権」という概念も使っている。

 ハンガリーの歴史は日耳曼・墺太利・普魯士の歴史の「附」として扱われている。そしてまとまった項が設けられていて、そこにはこのように出てくる(巻六の三と六)。

 「人種は許多の野民に成りて元より一ならずと雖も、其の祖先実は匈奴種に出で、上古亜細亜の北辺より漸次(しだい)にアルタイ山を超えて移り住せしものなり。蓋し紀元450年代匈奴の酋長阿的拉(アットラ)汗・・・欧州の内地に縦横し、嘗て東羅馬を脅して其歳貢を要し、更に以太利に入て殆ど西羅馬を陥るに及び、偶々(たまたま)病で路に死し、是より其の種人永く此の地に止まり、匈牙利と号して、常に抄掠を事とし、風俗強悍にして、久しく王国に昇らざりしが、紀元一千年代に至り、士提反(ステフェン)始て王位に即き、爾後数百年間頗る強威の一国と称せられしに、紀元一千五百六十年代、終に墺太利に併せらる。」(巻六の一三)

 ハンガリー人を匈奴の末裔とし、アッティラの子孫が匈牙利国を建てたとしているのは困りものだが、明治期の「万国史」にはしばらくはこういう理解が続くことになる。匈牙利が1560年代に墺太利に併合というのは誤りである。それにオスマン帝国が出てこないことが問題であろう。ちなみに江戸時代には、「翁加里亜(おんかりあ)」と言われていたが、この寺内から「匈奴」に由来するとして「匈牙利」が使われ、明治期をとおして、これが使われることになる。

 用語としては、『五洲紀事』では、すでにraceの訳語として「人種」という概念が使われていることに注目しておきたい。この時期に日本では「人種」はどのような意味で使われていたのか、調べる必要がある。ヨーロッパではThomas Keightley, D. Lardner’s Cabinet Cyclopedia: Outline of History, London, 1830.などは人種から論じ始めていたが、これは邦訳されていない。しかし、いわゆる人種論が出るのは、ダーウィン以降、1870年代である。

 ポーランドは、魯西亜紀の「附」として扱われている。そこではこう書かれている。

 「昔は甚だ富強の一国なりしが、千七百七十二年魯普墺の三国と戦て利あらず。土壌一旦之れが為めに削られ、同く九十五年再兵を其の兵を被り、当時人民皆死力を殫(つく)して、此と相争ひしと雖も、衆寡勢を殊にするを以て、遂に其の自主を立ること能はず。全く其の兼併する所となれり。此より国人皆魯西亜の暴政に軋せられ」た。(巻六の二十)

 ハンガリーに比べて、やや迫力がないが、いわゆるポーランド分割は明治期の日本人の強い関心を引いていたテーマであった。なお、魯西亜との関係で、セルビア人やブルガリア人やルーマニア人などが出て来ることはなかった。ギリシアの時と同じく「人民」の目線を持っていたことに注目しておきたい。「国人」はこの「人民」と同義で使われているようである。

 こういう具合に、ヨーロッパの東部では、ギリシアとハンガリーとポーランドが主に出て来るテーマであった。このような記述がしばらく受け継がれていく。アメリカのパーレイにとっても、日本にとっても、ギリシアは「独立」を獲得した例として、ポーランドは「独立」を失った例として、ハンガリーはヨーロッパを「攪乱」したアジア人として関心があったのであろう。ただ、パーレイの原書ではオーストリアの記述の中で、ボヘミアにも軽く触れられていて、そこは鉱山に富んで豊かな国だとしつつも、その住民の多くは「ユダヤ」で、「ジプシー」もたくさんいると記してあるが、この部分は訳されていなかった。

(続く)


[1] 「万国史」に関する主な研究は、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成―「万国史」教科書の分析を通して」増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年、p.185-203;南塚「近代日本の「万国史」」秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房、2016年;岡崎勝世「日本における世界史教育の歴史(I-1)―「普遍史型万国史」の時代―」『埼玉大学紀要 教養学部』第51巻(第2号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-2)―「文明史型万国史」の時代 1―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第1号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-3)―「文明史型万国史」の時代 2―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第2号)2017年。

[2] このテーマについては、筆者は2012年1月に千葉実年大学にて講義をしたことがあるが、文章にしていなかった。その後の知見もあり、改めて文章化しておきたい。

[3] Samuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)の1871年版によったと寺内は書いている。

(「世界史の眼」No.24)

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『神川松子・西川末三と測機舎―日本初の生産協同組合の誕生』が「週刊読書人」にて書評されました

「週刊読書人」2022年2月11日号にて、南塚信吾編著『神川松子・西川末三と測機舎―日本初の生産協同組合の誕生』(アルファーベータブックス、2021年11月)が書評されました。ぜひお手に取ってご覧下さい。書籍に関して詳しくは、こちらをご覧下さい。

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「世界史の眼」No.23(2022年2月)

「世界史の眼」23号をお届けします。今号では、岩波書店から刊行の始まった「岩波講座 世界歴史」のシリーズの第1巻『岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か』を取り上げ、世界史研究所で行った 書評「座談会」の記録を掲載します。

岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か 書評「座談会」

『岩波講座 世界歴史01 世界史とは何か』(岩波書店、2021年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、シリーズ全体の紹介ページは、こちらです。

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