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「世界史の眼」No.20(2021年11月)

今号では、トロント大学の米山リサさんに、「ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス」と題して寄稿していただきました。編集部序と併せて掲載します。また、平田雅博さんに、本年刊行されたホブズボームの伝記の翻訳『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』を書評して頂きました。

編集部序:ラムザイヤー論文とその批判について

米山リサ
ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス

平田雅博
書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行

リチャード・J.エヴァンズ(木畑洋一 監訳、 原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子 、古泉達矢訳)『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』(上・下)(岩波書店、2021年)の出版社による紹介ページは、上巻がこちら、下巻がこちらです。

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編集部序:ラムザイヤー論文とその批判について

 2020年12月、ハーヴァード大学ロースクールのマーク・ラムザイヤー教授による「太平洋戦争における性行為契約Contracting for Sex in the Pacific War」と題する論文が、International Review of Law and Economicsという雑誌に掲載された。この論文はオープンアクセスとなっており、

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0144818820301848?via%3Dihub

で閲覧できる(2021年8月27日最終アクセス)。

 この論文のなかでラムザイヤー教授は、「慰安婦」問題として日韓間のみならず国際的にも大きな関心を集めてきた問題をめぐって、「慰安婦」たちも公娼制度のもとでの娼妓と同じように契約の上で働いていたのであって、性奴隷といったものではなく、日本政府や日本軍に責任はないと、主張した。「慰安婦」をめぐる政府や軍の関与を否定し、性奴隷としての性格を否認するこうした議論は、歴史修正主義のなかでしばしば出されてきたものであり、吉見義明氏による研究などでその虚偽性が露わにされてきたが、ラムザイヤー論文はハーヴァード大学の教授の主張として新たな注目を集め、『産経新聞』などによって積極的に報道された。

 この論文をめぐっては、自説に都合がよい形での史料の恣意的利用など、基本的な学問的手続きを欠くものであるという批判が、すぐに国際的に広く展開されはじめた。そうした動きの一環として、2021年3月14日に、「慰安婦」問題をめぐるオンラインサイトFight for Justiceの主催で、緊急オンラインセミナーが開催された。このセミナーでの発言者の一人が、カナダのトロント大学で教える米山リサ氏であり、当日はラムザイヤー論文の知的背景となったアメリカ合衆国における日本研究のあり方について鋭い指摘を行った。それに触発された本研究所からの依頼に応じていただき、寄稿されたのが、以下の論文である。

 なお、その後、2021年7月5日の『東京新聞』が「こちら特報部」という欄で、「“慰安婦”論文に内外から批判」という記事を載せてラムザイヤー批判を報道したが、これにも触発されて、「世界史の眼」では、この問題に関して吉見義明氏に発言をお願いしたところ、ご快諾いただいたので、氏の論稿も近く掲載する予定である。

(木畑洋一)

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ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス[i]
米山リサ

 ハーヴァード大学三菱日本法学教授J・マーク・ラムザイヤーの論文 「太平洋戦争期の性行為契約(”Contracting for Sex in the Pacific War”)」は、2020年12月にオンライン掲載された後、多方面からの広く厳しい批判を招くことになった。[ii] 当論文への批判は国境や言語の壁だけでなく、ディシプリンやアカデミズムの内外を隔てる敷居を超え、多くの人々を巻き込み、その抗議の内容は多様性を極めた。一本の論文を契機にこれほど多くのさまざまな批判が結集した背景には何があるのか。①北米における日本に関する知の生産、②歴史認識と社会のあり方をめぐるトランスナショナルな攻防、③北米の政治学に代表される社会科学に共通する知的態度―以上3点に絞って述べてみたい。

 「太平洋戦争期の性行為契約」が問題視されていることを知ったのは、同僚の朝鮮史研究者が署名運動について知らせてくれたのが最初だった。論文を掲載した『International Review of Law and Economics』誌への抗議文には、2021年2月の時点で経済学者エコノミスト、法学者、歴史学者、ゲーム理論家、アジア研究者、学術誌編集者など3000名を超える賛同署名が寄せられた。日本内外の反コリアン差別者、自己憐憫的ナショナリスト、歴史歪曲者たちが当論文に賛辞を送り、著者を擁護する一方で、その後も多分野、多方面からの抗議がブログやツイッター上で相次いだ。

 批判と糾弾がここまで広範で多元的になった理由のひとつは、 当論文の日本軍慰安所制度についての歴史記述が問題視される過程で、実は同著者が他論文でも誤った記述や差別的な見解を繰り返していた事実が明るみに曝されたことにある。看過できない誤謬を含んだ記述や偏った知識などを引用し、一義的にゲーム理論に応用して論文を発表してきたラムザイヤーの過去の業績の詳細が、幾人もの研究者によって明らかにされた。[iii] 

 抗議の矛先は多岐に及ぶが、共通して問題視されているのは、著者の「マイノリティ」観である。ラムザイヤーの一連の論文は、被差別部落、在日コリアン、沖縄の基地問題、福島の原発誘致行政などを日本の「マイノリティ」あるいは「下層階級」の事例として提示し、当該コミュニティを取り巻く経済的困難、階級間移動の欠如、機会の不均等、危険や環境汚染や健康被害などの負担の不公平配分などについて、その原因を政治的主流派や社会構造に求めるのではなく、被害者や「マイノリティ」の側の経済合理的判断にあるとする。地方交付金や行政による福祉や助成、閉ざされた民族コミュニティ内の階層化を利用した暴力的搾取など、被害者や「マイノリティ」であることで生じる(とラムザイヤーが信じる)利権の獲得・保全のために、不公正を訴える人々が自分の属する集団に対する差別や周縁化を自ら招いているとする被害者自己責任論である。

 北米における日本に関する知の生産という本稿の関心にとってとりわけ興味深いのは、米国には激しい「政治対立(polarization)」があるため、人種や民族のポリティクスについての「率直な議論(candid discussion)」は極めて難しい状況にあるが、日本の社会的差別や「マイノリティ」の事例を用いるなら思い通りの議論が許されるだろう、とラムザイヤーが述べたり示唆したりなどしている点だ。[iv] 

 ラムザイヤーが「政治対立」と呼ぶのは、90年代以降、既存の知と社会の変革を求める動きのさらなる広がりに恐れをなし、これを封じ込めようとする苛烈な反動が巻き起こした「文化戦争(culture wars)」のことである。「文化戦争」とはつまるところ、家父長的で異性愛規範主義的ヘテロノーマティヴなアメリカ白人至上社会の構造―19世紀的文明の規範であり、今日まで継続する植民地的支配と人種化された資本主義近代のあり方―をめぐる攻防に他ならない。[v] ラムザイヤーが人種や民族について自由に議論をさせてもらえないと苛立ちを募らせる背景には、知と社会のあり方への異議申し立てを封じ込められない北米の現状がある。要するにラムザイヤーによる日本の法経済論とは、変容するアメリカに身を置く著者自身のフラストレーションと敵意を日本を語ることを通じて表明する、いわばトランスナショナルな<腹話術>なのである。[vi]

 たとえばラムザイヤーの被害者自己責任論には、カリフォルニア州でとくに激しく交わされた積極的(差別)是正措置(affirmative action)の撤廃を求める議論と多くの共通点がある。積極的是正措置とは、大学やアカデミズムに限らず、北米の公共空間一般の構成員の多様化を推進する立場から、人種やジェンダーなどによって特定の人々が歴史的に排除されたり従属化されてきた構造を是正する行政などによる積極的介入を指す。これに対し、積極的是正措置が「逆差別」であるとか、差別を助長するといった理由で、共和党を主とする保守や極右その他の白人優位の現状や個人主義を肯定する立場からの撤廃要求が起こり、バックラッシュは凄まじさを増していった。2006年のトランプ政権成立を可能にした要因、あるいはその対極にあるブラック・ライヴズ・マター(BLM)やアイドル・ノー・モア(Idle No More)に代表される先住民による北米の脱植民地化の訴えの広がりの背景に、この争いがあることは想像に難くないだろう。

 ラムザイヤーはさらに、政治対立によって封じられた議論の例として有名な「モイニハン報告書」(1965年)を挙げる。[vii] 当時民主党政権下の労働省次官補だったパトリック・ダニエル・モイニハンによって作成されたこの有名な報告書は、アフリカ系アメリカ人の貧困の原因がシングル・マザーを長とする黒人家庭にあるとし、家父長的な家庭の建設が貧困の解消に欠かせないとする政策を提言した。報告書は、奴隷制や反黒人差別や白人至上主義などの歴史的諸要因を無視し、被害者だけに責任を転嫁し非難していると批判された。この報告書はアフリカ系アメリカ人のなかでも一人親家庭やレズビアニズムを標的としたことから、レイシズムとナショナリズムが異性愛規範的な家族主義と切り離せないことを示した好例ともみなされている。そのため、今日多くの研究分野に大きな変化を促しているクウィア・オヴ・カラー批評(queer of color critique)の契機ともなった[viii]。他方、ラムザイヤーのように、モイニハンはタブー視されていた問題を指摘したために政治の犠牲となったとして、同情を寄せる保守およびリベラルな論客は後を絶たない。

 被害者への責任転嫁、「マイノリティ」化された集団に対する執拗な差別と偏見、多様性の拒絶、さらには歴史による構造的な周縁化こそが社会的少数者を生む主要因だと捉える歴史認識を否定し、社会的不公平の是正や歴史的損傷のリドレスのための施策を愚弄するシニカルな態度――ラムザイヤーの日本版被害者責任論はこのように多くの点で、北米における積極的差別是正措置の撤廃要求、ひいては「文化戦争」を挑発したバックラッシュと強力につながっている。

 しかし実のところ、ラムザイヤー流の<腹話術>は、北米とりわけ米国における日本に関する知の生産において珍しいわけではない。文化的他者としての日本を肯定的に描くことを通じてアメリカの社会規範を表明し正当化するというパターンは、今日も映画やその他メディアにひろく表れるだけでなく、北米における日本に関する知の政治的無意識といってもよい近代化論もしくは近代化論の系譜上にある日本研究に見出すことができる。

 ルース・ベネディクトに代表される戦時期の国民文化研究から冷戦期にかけて北米のアジア研究を強力に形作った近代化論は、日本の近代が欧米のそれに比べて遅れているか、あるいは伝統や封建残滓によって歪曲されているという前提に立ち、これを例証するというトートロジカルな地域研究の手法を再生産してきた。[ix] 意識されるかされないかに関わりなく、この知のフレームが今も強固でありつづける理由は、日本を対照物とすることで、アジア太平洋戦争後の北米とりわけ米国の道徳的優位を確認し、正当化することを可能にする地理歴史認識を提供してきたためであるのは言うまでもない。しかし近代化論は同時に、日本をアメリカ型近代化の(未熟な)模範国として賞賛する。すなわち資本主義を支える勤勉、通俗道徳、家族主義、国家への忠誠など、善きアメリカの精神的価値や規範が形は多少違っていても日本にも見いだせる、とする言説であり、それは戦後占領によるリハビリを遂げた日本をアメリカにとって望ましい冷戦の同盟国として位置づける効果ももたらしてきた。そこに成立しているのは、米国的資本主義近代の(相当な)成功例として日本を褒め称えることで米国の規範的価値や優位を肯定する、というトランスパシフィックな相互慰撫の関係である。[x] 日本の保守政党は、この言説が承認する従属的だが確かな位置をありがたく押し頂くことで、今日までこの構造を支え続けてきた。

 歴史認識の観点でいうなら、この日米の相互慰撫の関係は、日米がともに近代植民地帝国の軍事侵略者として犯してきた暴力の歴史や記憶を相互に隠し合い、歴史的損傷のリドレスの可能性をそれぞれ抑圧してしまうという深刻な結果を招いてきた。私はかつてこれを「忘却の共犯関係」と呼んだことがある。[xi] 日本軍「慰安婦」問題をめぐるより最近の例では、日韓の外相が「最終的かつ不可逆的」な解決をめざしたとされる2015年の日韓「合意」に対し、アメリカが早々に歓迎の意を表明したことにこの関係が表れていた。アメリカが「合意」を後押しするのは、中国との新たな冷戦を戦うためには同盟国である韓国と日本との良好な関係が不可欠であるからに他ならない。[xii]

 しかしラムザイヤー論文をめぐって極めて多くの、広く多様な抗議の声が、国境を越え、しかも短期間に集結したという事実は、日米の共犯関係が維持してきた知や社会のあり方が、各所ですでに大きく揺らいでいることを示している。また、日本軍「慰安婦」問題が、日本による国家責任の否認に起因する歴史認識の問題であると同時に、性に関する規範、女性蔑視、ブルジョワ階級文化主義、軍事主義、レイシズム、ナショナリズム、冷戦という(新)植民地主義などの諸関係から成るアジア太平洋地域の現況を輻輳的に問うことなしには済まされない問題であることを明らかにしているともいえるだろう。冷戦が生み出したトランスパシフィックな親密さは、日米の「忘却の共犯関係」を支える一方で、国境を越えてこれに対抗する多様な動きを結びつけるトランスパシフィックな関係も同時に生み出してきた。ラムザイヤーの不満と苛立ちは、差別的で植民地的な歴史認識を維持することが困難になってきていることの兆候だといえるかもしれない。

 さまざまに異なる場や位置から輻輳的に発せられ、しかし奥底深く連携した批判の結集が明らかにするのは、もはや日米の共犯関係によって歴史責任を回避し続けることはできないという新たな局面であり、レイシズムや家父長的異性愛規範主義の歴史が堆積させてきた序列化や、排除の構造に対する多様な異議申し立てを封じ込めることはすでに容易ではなくなっている、という希望である。そこに見出せるのは、資本主義近代とあらゆる植民地的編成からの撤退、すなわち来るべき真の変革かもしれない。

***

 「太平洋戦争期の性行為契約」の学術論文としての杜撰さを現時点でおそらく最も徹底的に洗い出しているのは、多くの日本語の著作でも知られる歴史学者テッサ・モーリス-スズキではないだろうか。日本軍「慰安婦」は性を交換するために民間業者と自由な「契約」を結んだ経済合理的主体であった、という著者の議論を裏付ける資料や「契約」の証拠さえ提示されていないという根本的な欠陥は言うまでもなく、数か所に及ぶ引用文献の乱用や偏り、引用頁の誤記載や割愛など、ラムザイヤー論文が学術論文としての体をなしていないことを根気よく、丁寧に解き明かしている。この杜撰な論文を調査や研究の誠実性(integrity)とは何かを議論し学習する好機ととらえ、研究者が目指すべき正当な学術論文の基準や原則プリンシプルが何であり、ラムザイヤー論文がそれらをいかに満たせていないかをQ&A方式で伝えようとするモーリス-スズキのセンスの良さも際立っている。研究者が教員でもあることの意味を考えたい人たちにぜひ読んでもらいたい。[xiii]

 それにしてもなぜ、学術論文の基準を満たしていないにもかかわらず、あるいは誤った記述や研究倫理に反する論述を繰り返してきたにも関わらず、ラムザイヤーの論文はこれまで問題なく掲載を許可されたのか。最後にこの点について簡単に触れておこう。論文の内容自体にはさほど関心のない人々も含め、当然多くの研究者がこの疑問を抱いており、冒頭で触れたエコノミストによる抗議文など、掲載誌の査読の経緯や編集者の意思決定の責任を問う声は少なくなかった。

 故政治学者チャルマーズ・ジョンソン他によるラムザイヤーの共著書『日本の政治市場』(1993年)の書評は、今ようやく明るみに曝された多くの問題が論文の査読者によって見過ごされてきた背景に、普遍主義的な社会科学の知的態度の怠慢と傲慢があることを示唆している。[xiv] 

 一般に米国の政治学や経済学は、北米以外の地域に関する研究を特殊な事例に限られる分析やデータとみなし、普遍的に応用される(と信じられている)ディシプリンに固有な理論を説く論述に比べ劣位に置く傾向がある。これに対しジョンソンたちは、ゲーム理論の大枠である「合理的選択理論(rational choice theory)」を用いたラムザイヤーの共著書を評し、普遍性を標榜する社会科学の最も劣悪な研究例だと厳しく批判した。書評によれば、合理的選択理論はアメリカの経済的個人を基本とし、その個人主義的合理性が(実は文化的に特殊であるにもかかわらず)通文化的に普遍であるとみなす前提を問わない。その結果、地域の歴史や文化を無視し、困難な言語の習得や綿密なフィールド調査の必要性を認めない、あるいはデータの集積は現地アシスタントに頼れば十分だという研究方法を正当化することになる。この手法では深く掘り下げた知識は生まれないのは当然なのだが、こういった研究ではたとえ解明できない矛盾点が生じたとしても、分析モデルの整合性を優先することが重視されてしまう。ラムザイヤーの共著書にいたっては、「理論を破綻させないためには、日本でまだ一度も耳にしたことのない実践慣行を捏造せざるをえない」例であると結論づけ、もっと酷い場合には「事実の改ざんや偏向した言い換え」が生じることさえある、とジョンソンたちは告発している。

 ラムザイヤーの論文の掲載を許してきた書誌の編集者、査読者、専門的読者たちの間で、歴史や文化に関する深い考察を軽視し、資料や証拠の吟味をないがしろにする態度が共有されており、そのために事実に反する記述や論考の杜撰さに気づくことができなかったとは言えないだろうか。

 私がまだ若かった頃にカリフォルニア大学の同僚として知り合ったジョンソンは、知的好奇心あふれる叡智の人であり、CIA白書の作成など愛国者としての仕事を続ける一方で、「普遍的」モデルを優位に置く社会科学が知的探求の怠慢に陥っていることを憂慮していた。ジョンソンの「文化」や「伝統」の捉え方は非歴史的であり、古典的オリエンタリズムの文化決定論やアジア特殊論にも通じる限界が多々あることは否めない。それでも今回、ラムザイヤー論文について考えるうえであらためてジョンソンの論考に触れ、普遍主義の傲慢ともいうべき知的態度の行き着く先を鋭く見抜いていた彼の慧眼に、あらためて新鮮な感銘を受けたことを記しておく。

2021年8月13日 トロントにて。


[i] 本稿は、Fight for Justice緊急オンラインセミナー「もう聞き飽きた!『慰安婦は性奴隷ではない』説」(2021年3月14日)でのコメントと、岩波書店の渕上晧一朗氏が雑誌『世界』のために企画された板垣竜太氏との対談(2021年6月17日)での発言の一部をもとにしている。

[ii] J. Mark Ramseyer, “Contracting for Sex in the Pacific War.” International Review of Law and Economics 65 (2021) 105971.

[iii] 当論文をはじめ、ラムザイヤー氏が過去に発表した論文、抗議声明、署名活動、論考などは以下のサイトで読むことができる。Resources on “Contracting for Sex in the Pacific War” in the International Review of Law and Economics (chwe.net)

[iv] J. Mark. Ramseyer, “A Monitoring Theory of the Underclass: With Examples from Outcastes, Koreans and Okinawans in Japan” (January 2020). 引用は2頁。

[v] 「文化戦争」については、拙稿「多文化主義論」綾部恒夫編『文化人類学20の理論』(弘文堂、2006年)を参照。小山エミは以下の論考でラムザイヤーなど日本の保守に歓迎されているアメリカ人学者の白人至上主義について明言している。「「ラムザイヤー論文騒動」の背景にある白人至上主義」『週刊金曜日』(2021年4月22日)。http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2021/04/22/news-87/2/

[vi] 「トランスナショナルな腹話術」は以下より。Lisa Yoneyama, Cold War Ruins: Transpacific Critique of American Justices and Japanese War Crimes. (Duke University Press, 2016). 

[vii]  “On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japan,” Review of Law and Economics 16, no. 2 (2019); “Social Capital and the Problem of Opportunistic Leadership: The Example of Koreans in Japan.” European Journal of Law & Economics (2021) など。

[viii] 「モイニハン報告書」とクウィア・オヴ・カラー批評の関係については、Roderick A. Ferguson, Aberrations in Black: Toward a Queer of Color Critique. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004.

[ix]  ルース・ベネディクトおよび近代化論と日本研究については、拙著『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』(岩波書店、2003年)など。

[x] 日米の相互慰撫のより最近の表象例は、拙稿「日本を語る位相――アメリカ研究とアジア研究のポストナショナル」『日本学報』29(2010年3月)8頁。

[xi] Lisa Yoneyama, “Complicit Amnesia: The Smithsonian ‘Atom Bomb Exhibit’ Controversy in Japan and the United States. Paper presented at American Anthropological Association Annual Meetings, Washington, D.C. (November 1995). 「越境する戦争の記憶―スミソニアン原爆展論争を読む」『世界』614号(1995年10月)。前掲書『暴力・戦争・リドレス』所収。

[xii] 日韓「合意」を多角的、世界史的に批判した論評は、中野敏男他編『「慰安婦」問題と未来への責任―日韓「合意」に抗して』(大月書店、2017年)。

[xiii] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid.” The Asia-Pacific Journal vol.19:5, no.12 (March 2021).

[xiv] Chalmers Johnson and E.B. Keehn, “A Disaster in the Making: Rational Choice and Asian Studies,” The National Interest, Summer 1994, No.36 (Summer 1994): 14-22. ジョンソン他が酷評したラムザイヤーの共著書は、Mark Ramseyer and FrancesMcCall Rosenbluth, Japan’s Political Marketplace (Cambridge: Harvard University Press, 1993).

(「世界史の眼」No.20)

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書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行
平田雅博

 本訳書のあちこちにある形容句でいう「世界中で最も有名で広く読まれる」歴史家の仕事を私ももっぱら翻訳を通じて読んできた。中でも『素朴な反逆者たち』『匪賊の社会史』『創られた伝統』は何といっても読んで楽しかったし、世界史関連の『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』に『産業と帝国』を加えた「長い一九世紀史」の四部作は、書評したり引用したり授業のネタにもしたりしてきた。前から三冊に加えて「短い二〇世紀」を扱った『極端な時代』を含めて「近現代史の四部作」との見方もある。本書にはこれらの著作の出版に至る過程や出版後に寄せられた書評群も紹介されており、ほぼすべて未知だったために興味をそそられた。

 とりわけ上記の五点への書評でしばしば繰り返された批判は、「ポストコロニアル」のサイードに代表的に見られるような、ホブズボームの「ヨーロッパ中心主義」的な傾向を指摘するものである(下巻、二二七頁)。ただ「ヨーロッパ中心主義」という意味を視野がヨーロッパだけに限られ非ヨーロッパはまったく触れていないとするのであれば、間違いである。博士論文の計画時に実地調査した北アフリカ(ただしアフリカには南アフリカを除くサハラ以南のブラック・アフリカに関心がなかったのが「盲点」だった)をはじめ、とりわけラテンアメリカ全般には圧倒的な関心を注ぎ(お返しかどうかブラジルで彼の本は売れた)、インド、日本などのアジアにも射程に入れていたからである。「ヨーロッパ中心主義」を非ヨーロッパを視野に入れつつ、起点や基盤はあくまでヨーロッパにおいた「地球規模の歴史」を構想し叙述した、とか「焦点はヨーロッパ」で「その文脈は世界規模」(ハリソンの評価)とかとする方(下巻、一四二、二〇〇頁など)が正しいと言えよう。

 ところが、本書がいうように二一世紀の初頭まで、ホブズボームによる「地球規模の歴史」での「ヨーロッパ」の歴史記述を真似する人は出なかったものの(下巻、七四頁)、真似するどころかそれを越えようとする「グローバル・ヒストリー」が出現した。その一つは、ベイリ『近代世界の誕生』(C・A・ベイリ著『近代世界の誕生 グローバルな連関と比較一七八〇-一九一四』、上・下、平田雅博・吉田正広・細川道久訳、名古屋大学出版会、二〇一八年。本訳書に言及はないがホブズボームは本書の仏訳版に序文を寄せている)である。これもホブズボームへの辛辣な批判者の一人として本書に登場するフェミニスト史家のキャサリン・ホールによって、このベイリ著は彼の「一九世紀史の偉大な四部作」を「退場させた」と評価された。

 ベイリの専門はインド史だが、読書の幅はホールすら「妬ましいほど」と表現したほど広く、欧米史はもちろん、中国史、日本史、イラン史、オスマン帝国史に及んだ。これらをもとにヨーロッパ中心主義を克服したどころか世界のどこも中心としない「多中心的」な世界史を試みた。同じくヨーロッパ中心主義と批判されることがあり本書にも登場するウォーラーステインもヨーロッパ以外をすべて「周辺」とか「半周辺」として「概念上のごみ箱に放り込む」論者として斥けている。はたしてベイリがホブズボームを「退場させた」かどうかは綿密な検証が必要だが、たとえば、先に触れたサイードがヨーロッパ中心主義との批判内容である、非ヨーロッパの知識人の軽視ないし無視、および非抑圧者、危機に瀕したコミュニティ、被差別者、宗教に基づいた抵抗運動への視点の欠如といったものは、ポストコロニアルに「寛容」の姿勢を取ったベイリがこれらに非ヨーロッパの「歴史なき人びと」「国家なき社会に住む人びと」も加えて、彼の世界史に参加させたと評価されている(ベイリ関係の書誌データは以下を参照されたい。平田雅博『ブリテン帝国史のいま グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』、晃洋書房、二〇二一年、一一九~一三〇頁)。

 歴史の叙述と国家形成を結合させて誕生したのが「近代歴史学」で、個別のネーションの枠組みに閉じ込めずにヨーロッパ全体を基準に議論するトランスナショナルなアプローチを取ったのが彼の世界史だとしたら(下巻、七四頁)、非ヨーロッパを取り込む「真のグローバル・ヒストリー」の出現がそれに取って代わったために、彼は近代歴史学とグローバル・ヒストリーの中間点に位置するというのが私の見方である。

 ポストコロニアル絡みのもう一つの今日的な観点としての「ポストモダン」から本書を読むとどうか。本書は「社会民主主義者(上巻、vii頁)」エヴァンズが書いた「終生の共産党員」ホブズボームの評伝である。距離がおかれた分か、むしろ労働党への影響力など「現実的な」政治活動をよく捉えている面があり、仮に同じ共産党員(まず思いつかないが)が書けば別物となっていただろう。ところが、文学理論家の冨山太佳夫によると、エヴァンズはポストモダンに対して「恫喝的な排除の姿勢を取る」歴史家であり、ホブズボームは「ポストモダンの弁護路線に頼るのは有罪の者の味方をする弁護士たち」との「悲しむべき暴言」を吐いた歴史家である。かくして本書はポストモダンを「恫喝」する者による、これに「暴言」を吐いた歴史家の評伝となる(富山太佳夫著『英文学への挑戦』岩波書店、二〇〇八年、三七一頁。ホブズボーム著『歴史論』原剛訳、ミネルヴァ書房、二〇〇一年、序文、エヴァンズ著『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』今関恒夫、林以知郎監訳、晃洋書房)。

 著者はホブズボームが詩や小説を多読して「文学を通して歴史に取り組むようになった」としながら、彼の意図を汲むかのようにポストモダンへの否定的な態度を本書でも拾っている(下巻、二六二、二九一、三一五頁など)。一方、冨山によると、従来の実証的な歴史学と文学が「調和的な交差」する場が「ポストモダン的な変貌」を遂げた「評伝」である。エヴァンズの当評伝は冨山のいう「評伝」なのか。膨大な未刊行資料を駆使した実証はおそらく当分は余人の追随を許さぬほど見事である。一方、評伝に書かれる人の行動にはすべて実証的な裏付けがあるとは限らず、冨山のいう「資料によっては論証できない動機や目的」を説明する必要もある。

 たとえば、多くの頁が割かれている女性関係に関して、この「ひどく醜い男」に惚れる女性があれほどいたのはなぜだったかの部分(下巻、六六頁)は、さしもの著者でもエビデンスを提示しないままの、推し量りかねる女性の恋心の「説明」である。その他「女性が大好きな」本人の各地の売春宿ヘの出入りや既婚女性との「情事」が手紙や日記で「実証」されているが、最初の妻の浮気から自殺も考え、自宅で「堕胎」の手伝いをしたことヘの悔恨、これまた「既婚」の成人学生との間に「非嫡出子」をもうけたことへの生涯にわたる苦悩等々はどう見ても「実証」しきれていない。ここはもはや「事実立脚性」と「論理整合性」に基づく歴史学ではなく「芸術」の領域だからである(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、二〇一〇年)。だが、その深部の心性の説明はなされているので、皮肉なことに恫喝したはずのポストモダンの説明の手法をあるいは取り入れた形になったのかも知れない。

 いわゆる「偉人伝」でも以前ならばタブーだった同性愛を含むセクシュアリティヘの言及は珍しいものでもなくなった。ただ、あまり私生活に触れなかった自伝『わが二〇世紀・面白い時代』には、ケインズやシュンペーターの伝記に「ベッドの下から」のぞき込むような性生活の描写があることを嫌っている箇所もあるので、自分の評伝に書かれてしまうことなど望まなかったはずである。

 ところが著者はエリックの「著作と生活は継ぎ目なく調和しており」、私的な側面も専門家としての側面も「同じ一枚のコインの裏と表」(下巻、五八頁)としていることから、あるいは著作に表れているかもしれないと私が想起したのは『帝国の時代』の「新しい女性」章の中の「性の解放」などだが、書評群の紹介において、著者はホブズボームがたびたび女性やジェンダーヘの視点の不十分さや欠如を指摘されたこと(下巻、一九四~一九五頁)、本書の末尾において「女性の歴史」は氏の知識の「盲点」の一つだったこと(下巻、三一三頁)を指摘して閉じており、生活と著作がいかにして「同じ一枚のコインの裏と表」だったのかはついに不明であった。

 終章はホブズボームの著作群を卓抜にまとめながら、世界中でなぜこれほど読まれたかの理由を説得的に示すが、女性の歴史の他にブラック・アフリカと大衆文化というあと二つの「盲点」を敢えて指摘しているのは、これからの歴史家に、これら三つの盲点を突いてホブズボームを越えてみよ、と示唆しているようにも見えた。

(「世界史の眼」No.20)

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「世界史の眼」No.19(2021年10月)

今号では、大門正克さんに浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」の(下)を掲載しています。

大門正克
書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

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ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1) ―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2) ―ホロンバイル草原行

(以上、前号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

 1994年6月、村上春樹は成田から大連に飛んだ。大連からは「便所にも立てないくらい満席」の「硬座(三等車)」に詰め込まれ、「一晩十二時間揺られてくたくたになって長春〔旧満洲国の首都、新京〕に到着」した。長春では、「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」。村上によれば、この動物園は満洲国時代の1941年に「新京動物園」(正式名は、新京特別市立南嶺動植物園)として開園されたが、満洲国崩壊後廃墟になっていたのを、1987年に長春市が「長春動植物園」として復興させたということである。1945年8月9日、ソ連軍が西、北、東三方から満洲国に侵攻し、満洲国の首都、新京に迫った。それを目前にして、「新京動物園」では虎や豹などの猛獣を安全上の予防措置として殺処分した。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』「10 動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」には、このことが「動物園襲撃」として書かれている(実際は毒殺だったのを銃殺としたり、実際にはいなかった象を登場させるなど、村上の記述にいろいろとフィクションが含まれていることについては、川村湊『満洲崩壊 「大東亜文学」と作家たち』文芸春秋社、1997年、68-74頁参照)。村上が「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」といっているのはこの「新京動物園」における猛獣殺処分にかかわることなのだろうが、具体的にどのような取材をしたのかはよく分からない。「でもこの動物園はなかなか面白かった。〔動物園の〕係員に『日偽時期』〔満洲国時代〕の話を聞くこともできた」ということであるから、「動物園襲撃」のネタになるようなことも聞けたのかもしれない。

 村上は長春からハルビン(哈爾浜)へも列車で行ったのだが、この時も「硬座」で、開けっぱなしの窓からいろいろなゴミが目に入って、痛くて目をあけていられなくなった。それで、「ハルビンでは〔目の治療のために〕心ならずも病院めぐりをすることになった」。ハルビンの病院や医師は村上にちょっと暗い印象を与えたようである。ハルビンからは、満洲里行き列車(旧東清鉄道)の「軟座の寝台」という「完全予約制のコンパートメント寝台席」で夕方出発、大興安嶺を越えて、翌日にはハイラル(海拉爾)に着いた。

 ハイラルでは、日本軍がソ連軍の侵攻に備えて、郊外の山に作った巨大な地下要塞の跡を見に行った。この要塞は、強制徴用された中国人労働者を使役して、突貫工事で建設され、その過酷な労働条件の下で、多くの中国人が命を落とした。完成後、秘密保持のために、建設にかかわった中国人は殺害されたという。ハイラルで村上の案内をしたガイドは、「その山の近くに死体をまとめて放り込んだ万人坑があり、そこにはまだ約一万人の中国人工人の骨が埋まっている」と言っていた。村上はこの死者の数が正確かどうかはともかく、ほかの事例から考えて、このようなことがあったのは事実だろうと思った。敗戦直前にハイラルを訪ねた飯塚浩二の旅行記では、この地下要塞について全く触れられていない。軍事秘密として秘匿されていたとしても、これだけの大工事を行っていたのであるから、何か風聞のようなものが聞こえてきてもよさそうなものであるが。

 ハイラルからはランドクルーザーで4時間かけて、新巴爾虎左旗(シンバルクサキ)という町に行った。ここは「旗」(地方行政区)の役所があるところで、いわゆる「未開放地域」とされ、政府の許可なしでは外国人は入れないところであった。ホテルなどはないので、中国軍の「招待所」に泊めてもらった。「便所は水洗なのだが」、夕方まで水が出ないので、「どこにも大便がそのまま残っていて、宿命的にその臭いがそこかしこに漂っている」。

 新巴爾虎左旗からまたランドクルーザーで3時間かけて、ノモンハン村を訪問した。ノモンハンというのは「とても小さな集落」だが、小さな「戦争博物館」があって、「銃器から水筒、缶詰、眼鏡といった」「日本軍の遺品みたいなもの」が展示されていた。ノモンハン戦争の激戦地はノモンハン村のすぐ南からハルハ河畔にかけての地域であるが、ノモンハン村から直接に行くことはできなかった。ノモンハン戦争後の国境画定交渉で、日本側はハルハ河を国境と主張したが、ソ連側の主張通りハルハ河右岸(東岸)から20キロメートルほど東の線が国境とされたからである(付図2参照)。その結果、ノモンハン村の北西から南東にかけて国境線が通ることになり、これが今の中国とモンゴル国の国境線となっている。村上がノモンハン村を訪ねた時には、この国境線は閉鎖されていたから、ノモンハン村からノモンハン戦争の激戦地に直接行くことはできなかったのである。村上が書いているように、中国側がモンゴル国と中国の内モンゴル自治区の「モンゴル民族の団結、あるいは融合傾向のたかまりを危惧」していたのが国境閉鎖の主因であろう。明確な国境標識があるわけでもなく、まして鉄条網などで区切られているわけでもない空漠たる国境線であるが、それでも、越えることはできないのである。

 村上は「その夜はノモンハン村で羊料理と白酒パイチュウをご馳走になり、生まれて初めて酔っ払って意識不明になる。〔中略〕話を聞くとその白酒はアルコード度が六十五度ぐらいあったということで、それを四、五杯ストレートで飲んだのだからたまったものじゃない。気がついたら翌朝で、新巴爾虎左旗の宿舎のベッドの中にいた。それから一か月近く経過した今でもビール以外のお酒がほとんど飲めない―飲みたくない、というまことにいたましい状況下にある。それくらいきつかったのだ」。

 その後、村上は、ノモンハン戦争の激戦地の跡を見るために、わざわざ北京に回り、そこからモンゴル国の首都、ウランバートルに飛んだ。ウランバートルで飛行機を乗り換え、ドルノド(東)県の県都、チョイバルサンに飛んだ。チョイバルサンは軍事的な要地で、交通の便は予想以上にいい。「チョイバルサンまでモスクワから直接列車が送り込めるようになっていて、この鉄道ルートはノモンハン戦争、あるいは満州侵攻の際にきわめて有効に利用された。チョイバルサンから『満蒙まんもう』国境付近のタムスク基地まで、かつては兵員と軍事物資を補給するための専用鉄道が敷設されていたらしい」。「とにかくこと兵站へいたんに関しては、ソビエト軍は関東軍とは逆におそろしく慎重に計算して行動した」。

 チョイバルサンからハルハ河までは距離にして約375キロメートル、「愛想もクソもないロシア製の軍用ジープ」で10時間ほどかけて行った。案内役(あるいは監視役)や運転手はモンゴル軍の軍人であった。「途中で軍隊の駐屯所によって、そこでミルク入りのお茶と、チーズ盛り合わせと羊肉入りギョウザを御馳走に」なったが、村上は「ノモンハン村の羊料理と白酒パイチュウの後遺症でほとんど食欲がなく」、「ほとんど手を付けなかった」。そうやってやっと着いたところが「三日前にいたノモンハン村のすぐ向かい側というのだからまったく世話はない」。

 その日は、スンブルにあるモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらった。スンブルは、ハルハ河とホルステン川の合流点(ノモンハン戦争の激戦地で、当時日本人は「川又」と呼んでいた)の南、10キロメートルほどの所に位置する小さな町である(付図1、2参照)。ここにはオボ(石積の祭壇で道標ともなる)があるので、スンブル・オボとも呼ばれる。スンブルでもモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらったが、ここも水が出なかったので、「持参した少量のミネラル・ウォーターを飲み尽くしたあとは、それから十二時間あまりただじっと渇きを我慢するしかなかった」。

 翌日、村上は軍用ジープであちこちとノモンハン戦争の戦跡を案内してもらった。「ハルハ河はまるで蛇がのたうつように、くねくねと曲がりくねった河だ。水の流れはけっこう早く、ところどころに中洲がある。〔中略〕川の西岸(ソ連・モンゴル軍側)は高い台地のようになっており、それに比べると東岸(日本軍側)は広い谷間のような低地になっている。そのためにとくに砲撃戦で日本軍は地形的に大きなハンディキャップを背負いこむことになった。台地の上からは、双眼鏡を使えば二十キロ向こうのノモンハン村までくっきりと見渡すことができるのだ」。

 ハルハ河を越えて最初に行ったのは、激戦地として知られる「ノロ高地」(図2参照。これは日本側の呼称)かその近辺と思われる場所で、そこには砲弾の破片や銃弾や臼砲弾の一部などがところ狭ましと散らばっていた。それは村上には「ノモンハンの鉄の墓場」のように見えた。村上はこう書いている。「我々は歴史的に分類すれば、たぶん『後期鉄器時代』というような時代に属しているのだろう。そこでは、有効に大量の鉄を相手側にばらまいた側が、そしてそれによって少しでも多く相手の肉を切り裂いたほうが、勝利と正義を得るのだ。そしてぱっとしない草原の一角をめでたく手に入れることができるのだ」。

 村上は打ち捨てられたソ連軍の戦車などの遺物を見て回った後、「スンブルの立派な戦争博物館を見学した」。スンブルは「地の果てのような貧相な町」だが、この博物館は「実に堂々たる建築物で、展示物も豊富で、当時の貴重な資料や各種武器、軍用品などが手際よく整理保存されている。それを見るとモンゴル人たちがノモンハン戦争=ハルハ河戦争〔モンゴル側の呼称〕における勝利を……どれほど重要なものとして考えているかということがよくわかる」。

 その後、帰路に就いたが、「スンブルからチョイバルサンまでの長い帰り道の途中で、草原の真ん中に一匹の狼をみつけた。モンゴル人は狼をみつけると、必ず殺す」。軍用ジープの運転手は道からそれて狼を追い回し、疲れ切って立ち止まった狼を案内役(監視役)のモンゴル軍人が撃ち殺した。「狼を殺してしまうと、そのあと我々はみんな不思議に無口になった」。「僕らがチョイバルサンの町にようやく帰りついたのは結局夜中の一時だった」。

 その夜はチョイバルサンの「ろくでもないホテルのろくでもない部屋」に泊まったのだが、真夜中、目が覚めると、世界中が激しく揺れ動いていて、その衝撃で立っていることもできないような状態になった。村上は「なんとか必死でドアの前までたどり着き、手探りで壁の電灯のスイッチを入れた」。「その途端に、その振動はさっとやんだ」。「まるで嘘のように、物音ひとつ一つしなかった。何も揺れていなかった」。「それから僕ははっと気づいた。揺れていたのは部屋ではなく、世界ではなく、僕自身だったのだということに」。それは、「ノモンハンの鉄の墓場」を見たことによって、村上の精神に走った激震だったのであろう。

 翌日、村上はチョイバルサンからウランバートルを経由して北京に飛び、そのまま空港で飛行機を乗り換えて日本に帰った。

おわりに

 飯塚浩二と村上春樹の「満蒙」旅行記を読み比べてみると、1945年2月から6月にかけて、敗戦直前の満洲国と「北支」を旅行した飯塚の方が、1990年代に中国とモンゴル国を旅行した村上より、はるかに優雅な旅をしている。敗戦直前とはいえ、実質的な植民地支配者としての立場にあった日本人にとっては、満洲国や「北支」の方が「内地」よりも自由で、物資も豊かだったということであろう。他方、まだ経済的発展が緒に就いたばかりの頃の中国と途上国のモンゴル国を旅行した村上は、今日ではちょっと考えにくいような苦労をせざるをえなかったのである。

 しかし、二人の間の本質的な違いは、飯塚が、意図的かどうかはともかく、ノモンハン戦争についてまったく触れていないのに対して、村上はノモンハン戦争に徹底的にこだわっているということである。村上はノモンハン戦争における日本の敗戦を極力隠蔽しようとした天皇制国家や帝国陸軍と同じ隠蔽(密閉)体質が、今日の日本の国家や社会の中にも厳然と存在しているのではないか、いいかえれば、「この五十五年前〔今から言えば、80年前だが〕の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか」という思いをもって、ノモンハン戦争にこだわり続けているのである。「モリ・カケ」問題や「桜を見る会・前夜祭」問題などに見られた旧安倍政権や、それを引き継いだ今の自民党政権の隠蔽(密閉)体質を見ていると、村上の危惧が決して杞憂ではないことを強く感じざるをえない。そして、これが日本だけの問題ではないことは北朝鮮などを見れば明らかであろう。問題は国家というものの本質にかかわっているのである。飯塚には、この国家というものに対する懐疑が本質的に欠如していたように思われる。

(「世界史の眼」No.19)

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「世界史の眼」No.18(2021年9月)

今号と次号に分けて、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」を連載します。今号は(上)です。また、藤田進さんに、戸田三三冬さんの『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』を書評して頂きました。そのほか、山崎がセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』を簡単に紹介しています。

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

藤田進
書評:戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(準備中)

山崎信一
文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)

戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(三元社、2020年)のAmazonによる販売ページは、こちらです。岩波書店によるセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』の紹介ページは、こちらです。

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ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 人文地理学者で当時東京帝国大学教授だった飯塚浩二(1906-70年)は、1945年2月初めから6月下旬まで、満洲国(日本帝国主義がつくりだした傀儡国家。1932-45年)と「北支」(中国北部)をほぼ五か月間旅行して回った。まさに敗戦(1945年8月15日)直前の時期であるが、彼の「満蒙」旅行は満鉄(南満洲鉄道株式会社)と国通(満洲国通信社)という物流と情報の二大会社のネットワークに乗った悠々たる旅であった。戦後、飯塚はこの旅行時の日記を整理して、『東京大学東洋文化研究所紀要』に7回に分けて掲載した(1953-67年)。飯塚死後の1972年、これらをまとめたものが『満蒙紀行』という書名で筑摩書房から出版された(『飯塚浩二著作集 10』〔平凡社、1976年〕5-472頁に再録。以下、引用等はこれによる)。

 他方、村上春樹は、1994年6月、ノモンハン戦争(当時の日本におけるいい方では、ノモンハン事件)の戦跡を見るのを主目的として、中国とモンゴル国を訪れた。同行者はカメラマンの松村映三だけであった。ノモンハン戦争は1939年5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、主として日本軍とソヴィエト連邦(ソ連)軍の間で戦われた本格的な戦争で、日本軍は約2万人の死傷者を出して完敗した(ただし、グラスノスチによる歴史的資料公開により、ソ連軍側の損害も多大だったことが判明した)。村上のこの旅行の記録は「ノモンハンの鉄の墓場」と題されて、村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)に収録されている(以下、引用等はこれによる)。

 本稿では、これら二つの「満蒙」旅行記を通して、かつての満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国、そして現在では中国、ロシア、モンゴル国の三国が交錯する地域、特にノモンハン戦争に関係する地域に焦点を当て、そこからどのような歴史が見えてくるかを考えてみたい。(以下、片仮名の地名はモンゴル語など中国語以外の言語の地名で、カッコ内はその中国語音写である。引用文中の〔 〕は引用者による補足など。)

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

 飯塚浩二は、1945年2月6日、下関から釜山にわたり、京城(現、ソウル)を経て、9日に満洲国の首都、新京(現、長春)に到着した。南満洲各地の工場などを視察して回った後、3月9日、山海関を経て「北支」に入り、北京や張家口にしばらく滞在した。4月21日、北京を出発、古北口で長城線を越えて満洲国熱河省の承徳(熱河)に到着した。約14時間の列車の旅であった。4月24日、承徳から奉天(現、瀋陽)に行き、26日には、再び新京に入った。ここから飯塚の「興安地区」(興安省)の旅行、すなわち「満蒙」旅行が始まったのである。「興安地区」(興安省)は満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国が境を接するところであった(付図1参照。国境線はノモンハン戦争以前のもの)。

 5月2日、飯塚は新京―白城子間を結ぶ京白線で新京を立ち、途中哈嗎駅で下車して鐘紡の王府種牧場などを見学した後、4日に白城子に着いた。翌5日、白城子―アルシャン(阿爾山)―ハロル(杜魯爾)間を結ぶ白杜線で白城子から、興安に行った。興安はもともとは王爺廟という町であるが、満洲国時代に「興安各省の行政中心地」となり、こう呼ばれるようになったのである。翌6日朝、白杜線で興安からソロン(索倫)に向かったが、ソロンからは国境地帯に入るということで、車内で身分証明書の検査があった。ソロンでは満州国地方官吏(日本人)の出迎えを受け、「索倫旅館という中国式の素朴な宿屋に案内される」。夕食は、旗長(モンゴル人。「旗」は地方行政区)や旗公署参事官(日本人)らと中華飯店で「大きな食卓二つをかこんで、賑やかであった」。翌日には、「二頭曳きの鉄輪の大車」でソロンから40キロメートルほど離れた満洲屯を訪ね、屯長(モンゴル人)の家で一泊した。屯長の家は切妻造りの固定家屋と5、6軒のパオ(モンゴルの移動家屋)からなる複合家屋で、飯塚は包に泊まりたかったのだが、寒いということで固定家屋の方に泊まることになった。

 翌8日、ソロン(索倫)に戻り、午後の列車でアルシャン(阿爾山)に向かった。「先日は王府から白城子への道中で、いかにも大陸らしい無際涯な茫漠たる平面の連続に感心した」。しかし、アルシャンに向かって「興安嶺をここから先に懐深く入ってみると大したもので、いわば内地の神河内〔上高地〕を幅広くしたような素晴らしい景色である」と飯塚は書いている。アルシャンに着いたのは午後8時ころだったが、「阿爾山〔アルシャン〕には、満鉄が軍のためにサーヴィスして建てた近代的なホテルがある外はバラック〔兵舎〕ばかり」であった。「車内の鉄道地図によればこの先にもまだ軌道はあるはずなのだが、純軍用とみえ、われわれ『地方人』はここで足留ということになる」。この時点での白杜線の終点はハロル(杜魯爾)であるが、アルシャン―ハロル間は軍用鉄道になっていて、軍人以外の一般人は乗れなかったということであろう。

 飯塚は、翌9日朝7時に、列車でアルシャンを立ち、午後4時興安に戻った。夜は国通の興安支局長や興安省公署の参事官と会食した。「日本風の料理で、魚づくしのたいそうなご馳走だった」。

 アルシャンには短時間しかいなかったため、アルシャンについての飯塚の記述は極めて簡略で、アルシャンがノモンハン戦争に深くかかわる地であることについては全く言及されていない。アルシャンには日本軍(関東軍)の駐屯地があったから、ノモンハン戦争時には、度々ソ連機による空爆を受けている。日本軍の方でも、公主嶺に駐屯していた戦車部隊を新京―白城子―アルシャンと、飯塚の旅程と全く同じ鉄道路線で輸送して、アルシャンからノモンハン方面に進発させている。もっとも、この旧型の日本軍戦車は実際には何の役にもたたなかったのであるが。当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗戦を極力隠蔽しようとしていたので、飯塚はアルシャンとノモンハン戦争のこのようなかかわりを知らなかったのかもしれない。

 5月10日、飯塚は興安駅前からバスに乗って、西科後旗(科爾沁右翼後旗)に行った。西科後旗は興安とソロンの中間ぐらいに位置し、白杜線より北にある。旗公署で参事官(日本人)に迎えられ、午後は参事官の釣りに同行、夜は「今日の釣りの獲物を用いた中華料理の卓を囲む」。翌11日、飯塚は「せっかくここへ来たのだから」ということで、「中村少佐、井杉曹長の殉職の址を訪れ」た。中村大尉(殉職後、少佐に昇進)殉職事件とは次のような事件である。

 1931年6月、中村震太郎大尉(当時、参謀本部第一部作戦課兵站班所属)は大興安嶺東側地方の兵要地誌(軍事用地理情報)調査を命じられた。中村大尉は、東清鉄道昂々渓駅近くで旅館昂栄館を営む予備陸軍曹長井杉延太郎に同行を依頼するとともに、井杉を介してロシア人一人とモンゴル人一人を通訳などとして雇った。

 6月9日、中村大尉一行4人は東清鉄道で満洲里方面に向かい、大興安嶺山中のイルクト(伊爾克特)駅で下車した。兵要地誌調査を行いながら、馬で大興安嶺東麓にそって南下し、ソロン(索倫)を経て、7月初めまでには洮南に出る予定であった。しかし、その後、中村大尉一行の消息は絶え、7月中旬になっても洮南に到着しなかった。そのうえ、中村大尉と井杉予備曹長は中国兵によって殺害されたらしいという噂が広がった。それで、関東軍などが調査を行い、その結果、次のような事情が明らかになった。

 6月25日早朝、中村大尉一行はジャライド(扎賚特)付近を出発して蘇卾公府をめざした。蘇卾公府はソロンと興安の間に位置する集落であるが、張学良(当時、中華民国東北辺防総司令)配下の正規軍、屯墾第三団約600人が駐屯していた。中村大尉一行が蘇卾公府付近まで来た時、屯墾第三団員がそれを見とがめ、屯墾第三団長代理、関玉衡かんぎょくこう中佐が中村大尉らを尋問した。荷物検査も行われ、軍事地図1枚、日誌2冊などの書類が見つかったため、軍事スパイではないかと疑われた。

 6月27日午後10時頃、関玉衡中佐は部下の部将たちに「大車」一台と石油一缶を用意し、4人を東方2キロメートルほどの丘に連れて行って、銃殺せよと命令した。「大車」で目的地に運ばれた中村大尉らはそこで直ちに銃殺された。証拠隠滅のために、4人の死体は散兵壕内で石油をかけて焼却され、埋められた。

 この事件は日本国内でも広く知られ、反中国感情を激化させて、満洲事変(1931年9月18日勃発)の一因となったとされている。飯塚もこの事件についてはよく知っていたので、西科後旗に行った際に、そのすぐ近くということで、中村大尉らの「殉職の址」を訪ねたのである。あるいは、こちらの方が西科後旗に行った主な目的だったのかもしれない。いずれにしろ、この中村大尉殉職事件には陸軍(関東軍)による情報操作の臭いが付きまとっている。飯塚にもそれにのせられた面がありそうだ。

 5月11日、西科後旗から興安に戻った飯塚は、その夜、国通の興安支局の庭に建てられた包のそばで、国通興安支局長らとともに「成吉思汗料理に満腹」した。翌日と翌々日は興安でいろいろな人と会った後、13日に列車で白城子に行き、一泊した。

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

 1945年5月14日早朝、飯塚は四平(四平街)とチチハル(斉斉哈爾)を結ぶ四斉線で白城子駅を立ち、チチハルに行った。チチハルからは別の鉄道路線で昂々渓駅に行き、そこで「国際列車」(旧東清鉄道)に乗り換えて、西の終点、満洲里に向かった。列車は午後4時15分に発車し、車中で一泊、翌15日午前11時に満洲里に到着した。20時間近い長旅であった。駅では国通の特派員が出迎えてくれ、一緒に興安水産の直営店という料理屋に行った。「純日本式の料理で中食を御馳走になってから」、国通特派員の案内で「馬車で市街を一巡した」。満洲里はソ連との国境の町で、ちょっと高いところからはソ連領内がよく見えた。

 飯塚は、翌16日には、興安水産の魚集荷用のトラックに便乗して、ダライノール(別名、ホロンノール)を訪ねた。大興安嶺西麓と満洲里との間の広大な草原はホロンバイル草原と呼ばれるが、それはホロンノール(ダライノール)とノモンハン近くのバイルノールを合わせた名称である。ダライノールに着いたのは午後7時ころで、この日は興安水産の出張所に一泊した。翌17日には、「五号漁場」に行き、揚がったばかりの鯉や鮒の生魚や塩漬け魚をトラックに積み込むのを見学した。ダライノールは琵琶湖の三倍を超える大きな湖であるが、水深は深いところでも4メートルほどということで、魚類の豊富な湖であった。ダライノールを含めて、この地方の漁業権は興安水産の独占であった。その後、魚を満載した興安水産のトラックで、満洲里の一つ東のジャライノール駅に行き、興安水産の事務所で「中国風の料理をゆっくりとご馳走になった」。ジャライノール駅からは「国際列車」(旧東清鉄道)ハルビン(哈爾浜)行きに乗り、夕方7時ころハイラル(海拉爾)に到着した。

 5月19日には、ハイラルの「旧城」を見に行った。正方形で、東西南北の壁の中央に門があり、十字形の道路が通っている、中国的な町であった。ハイラルはこの地方の商業の中心地で,隊商宿が軒を接していた。20日には、ハイラルから西に二駅戻って、ワングン(完工)に行った。「ハイラル河畔の草原に入ってもう少し遊牧民の生活をのぞいてみようというわけで」、ハイラル河を渡って、この地方の有力者の包を訪ねた。その後、午後6時発の「上り国際列車」でハルビンに向かい、翌21日午後3時にハルビン駅に到着した。一週間ほどのホロンバイル草原の旅であった。

 飯塚のホロンバイル草原行の記録を見ていても、気がつくのは飯塚がノモンハン戦争に全く触れていないということである。飯塚が「軍都ハイラル」と書いているように、ノモンハン戦争時にはハイラルに日本軍の司令部が置かれ、日本軍諸部隊はハイラルに集結して、そこからノモンハン方面に進発した。前にも書いたように、当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗北を極力隠蔽しようとしていたが、「軍都ハイラル」とノモンハン戦争の深いかかわりについては現地では隠しようもなかったであろう。飯塚はノモンハン戦争に触れることを、時局がら、意識的に忌避したのであろうか(戦後になってこの日記を公開した時には、そのような「用心」はもはや不要だったはずだが、加筆する気はなかったのであろうか)。

 このアルシャン行とホロンバイル草原行において、飯塚は日本の敗戦が間近いことを実感した。しかし、満洲現地の日本人たちは戦況の深刻さをあまり気にしていないように見えた。「当時の満州の日系以外の人々の間に、日本帝国最後の日はもう目にみえているというのに、日本人たちはどうしてああ平気でいられるのだろうと不審の声があったのは、五月にはすでに蔽い難い事実であった」。もっとも、それだから、飯塚は各地で歓待を受け、「たいそうなご馳走」になったりできたのであるが。しかし、旅行中に飯塚が世話になった人々、満洲国の日本人地方官吏や満鉄と国通の職員などで、1945年8月9日からのソ連軍の満洲侵攻によって命を落とした人は決して少なくなかった。例えば、興安の金澤特務機関長は飯塚に向かって、「満州国内に動乱が起こっても、邦人婦女子は興安地区で大丈夫引き受けます」と豪語していたが、「ソ連軍の侵入を迎えて戦線に散ったということである」。それどころか、興安から一駅白城子よりの葛根廟(チベット仏教寺院)付近では、日本人避難民がソ連軍や現地民に襲われ、約1000人の犠牲者を出した(「葛根廟事件」)。そのほとんどは「婦女子」であった。その他にも、興安付近では、興安東京荏原開拓団(東京品川、武蔵小山商店街の商人などの開拓団)の避難民約620人、興安仏立ふつりゅー開拓団(正式には、仁義仏立講開拓団。東京、乗泉寺の信徒たちからなる開拓団)の避難民約470人が命を落とした(満洲開拓史刊行会編『満洲開拓史』、1966年、430頁)。飯塚は、戦後になって旅行記を公開した際にも、「葛根廟事件」などについて全く触れていない。知らなかったのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.18)

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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