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北前船・長者丸の漂流 その2
南塚信吾

1.捕鯨船にて   

 長者丸は1839年(天保10年)6月6日(旧暦4月24日)、マサチューセッツ州のナンタケットNantucket島から来た捕鯨船ジェームス・ローパー号(ゼンロッパ)に救助された。船長はオベット・キャスカート(ケツカルないしケスカ)、乗員は30人ほどであった。船巾22間、長さ70間の船であった。救助された地点は、東経169度、北緯33度、ミッドウエー諸島の近く、太平洋の真ん中であった(池田編 1968 22-24頁;室賀他編 1965 62-63頁;Plummer 1991b p.13,144)。すでに五三郎、善右衛門、金八が亡くなって、残りは船頭の平四郎以下七名であった。

ゼンロッパ号  『日本庶民生活史料集成』 22頁

 ゼンロッパ号では、一同は親切なもてなしを受け、体力も回復してきた。おかゆ状のものから順に普通の食事に移行し、食事には肉が提供されるようになった。また行水もする事ができた。そして、一か月が過ぎた5月中旬、7人は3艘の捕鯨船に分かれて乗ることになった。すなわち、六兵衛は船長「ジャイキ」の船へ、太三郎は「ボーシタ」の船へ、八左衛門と七左衛門は名前は不明だが別の船へ分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の三人はゼンロッパ号に残ることになった。これはゼンロッパ号以外の捕鯨船から申し出があったためであった。 

 この後、平四郎、次郎吉、金蔵の3人を乗せたゼンロッパ号は、捕鯨を続け、やがてハワイに着くまでの五か月の間に、クジラを八頭もしとめた。平四郎らはその際多少の手伝いをしたが、多くは手持無沙汰で、服を縫ったりして過ごした。10月中旬(陰暦9月上旬)、ゼンロッパ号は、「エギリス」領「サノイツ」(サンドウィッチ島つまりハワイ島のこと;『漂流人次郎吉物語全』では「サントイチ」;なおイギリス領というのは誤り)の「ウワヘ」(ハワイ島:当時は英語でOwyheeと呼ばれていた)の「ヘド」(ヒロ)に着船した。

 ここには現地人(土人)の外、広東人(華僑)もおり、アメリカの寺(教会)もあった。3人は、広東人の家に止宿した。3人は、これより日本国へ2、3千里もあると聞いている(『漂流人次郎吉物語全』18頁)。 

 六兵衛の乗ったジャイキの船は、乗員が34-35人で、クジラをこれまでに2頭、この後に4頭しとめた。そして、同じころ「サノイツ」の「ワホ」(オアフ島)に着いた。六兵衛が上陸して、広東人のパピユ(バビユ、パペーヨとも)という人物のところへ行くと、八左衛門、七左衛門の二人が先に来ていた。もう一つ太三郎の船も31,32人乗りで、クジラを6頭取った。この船は10日遅れて到着した。太三郎も六兵衛、八左衛門、七左衛門と同じところで過ごすことになった。そして、平四郎らも10月下旬(9月下旬)にはこの「ワホ」の4人のところへ合流することになる。

 ともかく、ここに7人はまた陸上に戻ったのであった。1838年4月に東岩瀬を出帆、11月に唐丹湊を出て沖に流され、5ケ月間海上に漂い、1839年4月(西洋歴6月6日)に捕鯨船に助けられて、その船中に5ケ月を過ごし、今や18ケ月ぶりに陸地に上がったのであった(池田編 1968 26-27頁;室賀他編 1965 70-72頁)。

2.ハワイでの長者丸の乗組員たち 

 ハワイに1839年10月中旬(旧暦9月上旬)に上陸したあと7人が10月下旬(9月下旬)に合流するまでの動きは、平四郎、次郎吉、金蔵の三人についてのみ、知られている(なお、ハワイなどの地名は『蕃談』や『時規物語』などで違って表記されているが、本稿では、原則として、初出を除いて、現在の地名を使うことにする)。

 ヒロ(ヘド)では広東人の家に止宿した。しかし、家人との折り合いが悪かった3人は、10月18日(旧暦9月12日)(『時規物語』は着後3、4日という。池田編 1968 41頁)ごろ、「ケツカル」船長に連れられて、ムマヲイ(マウイ)島のラハイナへ行った。ラハイナは、この時期、ハワイ王国の首府であった。ここには、広東人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、「バンガラ人」(ベンガル人=インド人か)、イスパニア人がいた。

 3人は、「ケツカル」船長の友人であるアメリカ人「ミヒナレ」(ミッショナリー)のドワイト・ボールドウイン牧師の家に泊まった(『蕃談』では、牧師パラオイナンとある)。「ケツカル」船長は、牧師に3人を日本に送るよう頼んで、鯨漁に出かけた。エール大学とオーバーン神学校を卒業し、1835年からラハイナに来ていたボールドウイン牧師(1870年までラハイナに滞在する)は、日本人に興味を持って、日本の事を知りたがり、中国語と日本語の文字や、数字、お酒、食事、宗教などについて学んだりする人物であった。かれは三人を教会のミサに連れて行ったりした。この時、一行は初めてアメリカの婦人と子供を見たのだが、次郎吉は婦人は美しくしとやかで、その衣裳もきらびやかだったという。ここにいる間に、太三郎らがオアフ島(ワホ)に着いたことを知ったので、3人は「ミヒナレ」にオアフ島へ行けるようにしてほしいと頼んだ(Plummer 1991b p.142,145,150-151;Plummer 1991app.126-128;プラマー 1989 161頁)。

 ラハイナに数週間いたあと(『時規物語』では、14,5日いた後という。池田編 1968 41頁)、11月1日(旧暦9月26日)、3人はオアフ島のホノルルへ行った。ここで太三郎、八左衛門、六兵衛、七左衛門の4人と合流した。7人は久しぶりに一緒になった。太三郎ら4人は富裕な広東人商人パピユのところに宿を取っていたが、平四郎ら3人は、ラハイナのボールドウイン牧師の紹介した「ベイネム」(ハイラム・ビンガム)というハワイ宣教師団の中心人物である牧師を訪ね、かれの家の向かいにいる医者のG.P.ジャド博士宅に止宿した。ここで、数人のアメリカ人牧師と知り合った。

 ハイラム・ビンガム(1789-1869)は、1820年にアメリカからの第一次宣教師団の一員としてハワイに来ていて、団の中心人物で、聖書などを現地語に翻訳したりして、「宣教師運動の父」と呼ばれていた。G.F.ジャド(1803年生まれ)は、1828年に長老派教会の医療使節としてハワイに来ていて、医療支援に当たっていた(Plummer, 1991b pp.152-154)。

ワホ(ホノルル) 『日本庶民生活史料集成』 254頁

 ホノルルにいる間に、一行が、アメリカの軍艦に載せてもらって、ロシア、オランダを経由して長崎へ送り届けてもらうという話があり、そうなればフランスやイスパニアや「天竺」を始め広東にも行けると思ったこともあった(池田編 1968 43頁)

 だが、11月5日(旧暦9月30日―『蕃談』では旧暦10月23,24日ごろという)、一行の中心で、アメリカ人からも最も男らしくて誠実な人物と評価されていた平四郎が病死した。読み書きのできたかれは仲間から「ご老体」と呼ばれて敬意を持って親しまれていた。11月5日付の『ポリネシア誌』に出たレヴィ・チェンバレンの記事では、かれがこの日に発見された時、平四郎はすでに死後数日が過ぎていたという。そして死因は胃か腸の炎症ではないかという。このチェンバレンは、1822年に第二次宣教師団の一員としてやってきていて、宣教団の世俗的な問題を担当し、経理を扱っていた。宣教師たちから非常に尊敬されていたという。翌日ジャド医師によって検視が行われ、ビンガム牧師のもとで丁寧な葬儀が執り行われ、平四郎は棺に入れて埋葬された(Plummer 1991b p.146、154-156)(『漂流人』は平四郎の葬儀を比較的詳しく述べていて、棺を行列で山へ運んで土葬したという)。平四郎は日本に妻と子供五人を残して死んだのである。次郎吉が墓碑をカタカナで書いた。次郎吉は、十分な教育を受けていなかったが、好奇心と記憶力にすぐれ、いくらか文字が書け、英語とハワイ語を覚え、絵もうまく、何よりも力が強かった。プラマーは「スーパーマン」とさえ称している(Plummer, 1991b p.147;Plummer 1991a  pp.119-120)。このあと次郎吉と金蔵は、太三郎らのいるオアフ島の広東人パピユのところへ合流した。

 12月になって、八左衛門、六兵衛、七左衛門、次郎吉の4人は、パピユの弟「ジョン」という広東人に連れられて、マウイ島のラハイナにある「ジョン」の農場へサトウキビのしぼりを手伝いに行かされた((Plummer, 1991, p.157;「ジョン」は時にはパピユの甥とも言われる)。広東人は労働力を必要としていたのである。ここで1840年の正月も過ごし、アメリカ人やフランス人や現地人の正月の過ごし方を目にした(太三郎と金蔵の2人はオアフ島に残っていて、広東人宅で正月を過ごしていた)。そこからまたワイロク(ワイルク)というところへ連れられて行って、4人は、サトウキビしぼりや小屋作りのために3か月ほど働いた。1840年6月(陰暦5月)になって、オアフ島から軍艦が入港したとの知らせを聞いて、4人は、オアフ島へ帰りたいと頼んだが、「ジョン」は引き留めようとした。そこで逃げるように「ジョン」の家を去り、陸路を歩いたり、小舟に乗ったりしてラハイナを経てオアフ島のホノルルへ戻った。

 オアフ島にはフランスの軍艦が来ていた。一行は軍艦の見学はできたが、帰国のための乗船はできなかった。アヘン戦争が起きて、広東には行けないというのであった。たしかに中国の広州湾では1839年11月からイギリス海軍の清国船への砲撃が始まっていて、1840年5月からは本格的な戦争になっていたのである。広東などを経由して長崎へ行くことは不可能と考えられた。

 『蕃談』は次郎吉の言として次のように記している。

「サンイチ」にて風説に聞けば、広東は只今「オツペン(opiumアヘンか)」の一件にて「イギリス」と合戦最中にて、只今広東に往きては混雑して日本に帰る事には迚(とて)も至るまじとなり」(池田編 1968 301頁。これは『蕃談』に付けられた附録)。

 それでも6人はビンガム牧師とジャド博士に帰国を強く願い出た。アメリカの軍艦が来るのを待っていたが、来なかった。そのうち、ロシア領へ送れば帰国が早くできるかもしれず、「カムサツカ」(カムチャツカ)へ行く船があればそれに乗せようという事になった。この時、ビンガム牧師は2、3年前にアメリカからカムチャツカヘ渡り布教をしたことがあったので、カムチャツカの様子は分かっていた。また、3年前に早川村の船が漂着した時、乗員をハワイからシトカに送って帰国させたことも想起された。十数年前に越後早川村の船が漂着した時は、舟子の伝吉と長太らは「セツカ」(シトカ)経由で帰国したので、今回もその道で帰ることが考えられたのである。

 はたしてカムチャツカへ行くイギリス船が見つかった。アメリカの商人キャプテン・カータ(元船長)の周旋により、イギリス人船長センの船に便乗してカムチャツカに行くことになった。1840年8月3日(陰暦7月6日)、セン船長の貨物船「ハーレクイーン号」はホノルルを出港した。船は2本マストの2000石積みであった。カータは、オアフ島に店を持っていて、妻子同伴で船に乗り、雑貨、砂糖、メリケン粉などを積み込んでいた。総人数21人、他に長者丸の6人であった(プラマーは、船を世話したのはPeirce & Brewer社のH.A.Peirceであるという。ボールドウインは、モリソン号の例を見ると、一行は日本に帰っても温かく迎えられる可能性はほとんどないとコメントしている)(池田編 1968 39-54、246頁;室賀他編 1965 74-90頁;笠原96―99頁;プラマー 1991b 162頁)。

 こうして、6人は、1839年10月から1840年8月まで、計11か月を過ごしたサンドウィッチ諸島を去ることになったのである。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
プラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.62)

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書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

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「世界史の眼」No.61(2025年4月)

「世界史の眼」も6年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。今号では、南塚信吾さんに、「北前船・長者丸の漂流 その1」をご寄稿頂きました。随時連載して参ります。また、木畑洋一さんには、本年刊行された、秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)を書評して頂きました。

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その1

木畑洋一
書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)

秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』の出版社による紹介ページは、こちらです。

この度、世界史研究所の南塚信吾所長の関係する「一橋大学世界史・東欧史研究奨励基金」(通称:南塚基金)が設立され、併せて、学部生、大学院生を対象とした「世界史・東欧史研究優秀論文」の募集が開始されています。募集の詳細は、こちらをご覧下さい。

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北前船・長者丸の漂流 その1
南塚信吾

長者丸『日本庶民生活史料集成』

 北前船のなかには、いくつか広大な太平洋に漂流して、ハワイやアメリカやロシアで世界を体験し、世界についての情報を日本にもたらしたものがいた。その代表の一つが、長者丸である。

 以下の漂流の次第は、のちに長者丸の乗組員の一部が日本に帰還した時の聞き取りの記録である『蕃談』と『時規物語』と『漂流人次郎吉物語全』に拠っている。『時規物語』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に収録されている。『蕃談』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に原語の記録が収録されているほか、室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』にも現代語訳で収録されている。

1.越中から蝦夷へ 

 1838年(天保9年)4月23日(西洋歴で6月15日)、富山古寺町の能登屋兵右衛門(密田家)の所有する北前船・長者丸650石が、越中の加賀藩領にある東岩瀬より出帆した。長者丸は全長14間(25メートル余り)、21反帆で、10人の乗り組みであった。21反帆というのは、細長い帆が21枚繋がれている帆という意味である。

 乗組員は、雇われの沖船頭である船頭に、富山木町の吉野家平四郎(50歳くらい)、船のかじ取り役の親司(おやじ)に、加賀藩領射水(いみず)郡の京屋八左衛門(47歳)、同じくかじ取りの表(おもて)に、射水郡放生津(ほうじょうず)の片口屋八左衛門(50歳ぐらい)、荷扱いをする知工(ちく;岡使ともいう)に、新川郡東岩瀬の鍛冶屋太三郎、錨の操作をする片表(かたおもて)に、富山藩領婦負(ねい)郡四方(よかた)の善右衛門、雑用をする追廻(おいまわし)に、射水郡放生津の六兵衛と同放生津の七左衛門と東岩瀬の次郎吉、そして飯炊き担当の炊(かしき)に、四方の五三郎と放生津の金蔵の計10名であった。

出典:富山県立図書館「古絵図・貴重書ギャラリー」
―黄色の部分が富山藩領

 長者丸は、富山藩領の港である西岩瀬に廻り、そこで大坂へ運ぶ廻米を500石積んで、4月24日(6月16日)に出帆した。伏木、氷見、七尾、能登の珠洲を通って外海に出、能登半島、加賀、越前の沖を通って、山陰を過ぎ、関門海峡を抜けて、瀬戸内海に入った。そして、5月下旬には大坂に着き、富山御蔵の役人に米を渡し、越後新潟へ運ぶ綿や砂糖を積んで、6月半ばに大坂を出帆した。新潟には7月6日に着き、荷物を問屋唐銀屋に届け、空船にて、7月16日(9月4日)に新潟から出帆した。8月中旬には松前に到着、廻船問屋の上田忠右衛門方に止宿した。一行はここに9月まで逗留した(池田編 1968 14頁;『漂流人次郎吉物語全』7頁)。   

2.蝦夷から三陸へ「東回り」  

 船頭の平四郎は、長者丸が太平洋側を行く「東回り」の航路で「江戸」へ下るはずであることを、松前にいる時に乗組員たちに告げたようである。船主の能登屋(密田家)とはかねて打ち合わせてあったのであろう。ある専門家は、「長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです」と言っている(石森 2012)。これは史料的に確認できないが、大いにあり得えることではある。実は「江戸」にとどまらず「薩摩」まで行く「抜荷」であることは、明言されなかったにせよ、多くの乗組員にはなんとなく分かったのではなかろうか。1832年(天保3年)に薩摩藩による「差留」を解除してもらう代わりに、薩摩藩へ昆布などを献ずることになっており、薩摩組の中心人物である密田家は、少しでも多くの昆布を早く薩摩へ運びたい思いがあった。そのために今回は「東回り」を選択したと考えられる。

 しかし、表(おもて)の放生津八左衛門が、「東廻り」は嫌だと言い出して帰村し、下越後岩船郡早田村(現新潟県岩船郡朝日村)の金六に乗り替わった。金六は「東回り」に通じているというので、「道先」を務めることになったのである。船頭の平四郎は売薬あがりで船に詳しくなかったので、この後の航路は金六にかかることになった。 

 長者丸は、9月下旬ないし10月上旬に箱館に移り、ここでアイヌ労働などによって各地で取られ箱館の商人のもとに集められていた昆布から五六百石を買って船に積み込んで、10月10日(11月26日)ごろ、南部領の田の濱(岩手県船越湾内)へ向けて箱館を出帆した。「東回り」つまり太平洋航路の始まりであった。

 ただし、箱館を出る際、港がそう広くもなく風もよくなくて、船同士がぶつかり合い、長者丸に載せていた艀船(はしけ)が壊されてしまった。ようやく10月13、14日ごろに田の濱に到着、ここに14、15日逗留して、現地の大工にはしけの修理を依頼した。また、ここで、4斗俵で30俵の米のうち、20俵を売って、塩鮪(しび=塩漬けマグロ)100本余りを買い付けた。これは他の港で高く売るためである。こうして11月上旬に、仙台領の唐丹(とうに=釜石市唐仁町)湊に向けて出帆し、二日ほどかけて到着した。ここに11月22日まで逗留したが、その間に、近くの弁天島で火事が起きたり、いつもは聞えない鐘の音が聞こえたりして、まわりから気を付けるように言われたが、一行は深く気にも留めなかった。

 11月23日(1838年1月8日)は晴れていて、順風が吹いていた。30隻ほどいた船は次々と出帆した。長者丸は、船頭の平四郎が元は売薬商人であったせいで、「船方に疎く」、支払い作業が遅れ、朝8時ごろにようやく出帆した。この唐丹湊は奥行きが深く出口まで4里もあって、外海へ出るのに時間がかかった。外海へ出たところ、10時ごろから突然「大西風」になった。これはこの地方特有の北西季節風であった。これは南部地方では「あかんぼ風」と言われ、海水が赤く見えるといい、これによって沖へ2里も流されると陸地には帰って来れないと言われている西からの強風であった(池田編 1968 15‐16頁;室賀他編 1965 50―51頁;高瀬 1977 49-50頁)。

3.漂流する長者丸 

(1)嵐との戦い

 11月23日の朝、突然の「あかんぼ風」に当たった長者丸は、激しい嵐のなか次第に東の沖へ流された。みなが必死に帆を動かし、舵を操作したが、ダメだった。平四郎の決断で、23日に塩鮪と昆布100石、24日に昆布100石を海に捨てた(「荷打ち」という)。船の喫水を上げるためである。強い西風は収まらず、25日に遠くに金花山(金華山)が見えたのを最後に陸地は全く見えなくなった。ここで、みなはもはや陸地へは戻れないと、諦めた気持ちになった。金華山沖では、黒潮も東へと流れ、陸地から急に離れていくのである。ついに船の帆柱を切り倒し、船の舳(へさき)に錨を二本おろして、風に押し流されないようにした。みぞれが降って、寒くなった。27日には船に蔽いかぶさるほどの高波を受け、荷物がみな水浸しになった。27日に高波に襲われた後、金六は「辰巳(南東)の方に唐の国がある」はずだが、と言ったが、帆柱のない状態ではどうしようもなかった(室賀他編 1965 53頁では「南東の方にある異国」へ行きたいものだと言ったことになっている)。5日目の28日には少し晴れて東の風になったので、錨を上げ、帆桁(ほげた)を立てて、西の方を目指した。米を炊いて食べ、少し眠る事が出来た。しかし、29日には再び西風に変わりみぞれが降ってきた。12月1日には一時東の風になったが、また西風に戻った。この間に食べるものはとても乏しくなった。積んできた米もおかゆですするだけになった。

 その後しばらく静かだった海も、12月17日には大しけとなった。船は水浸しとなり、舵は壊れて、伝馬船も流されてしまった。船底の水をかきださねばならなくなった。皆が阿弥陀如来や金毘羅様に願をかけてお祈りをした。こうして、乗組員のあいだに絶望が拡がっていった。平四郎が持っていた梅干を一人2個ずつもらって元気を出し、昆布40-50把と塩鮪少しを残して、他は海に捨てた。食料はさらに乏しくなった。食べ物を巡って争いも起きたので、米は、各自に3合を分けて、自分の責任で食べるようにした。

 年が変わって1839年(天保10年)になると、少しずつ暖かくなった。1月は、故郷の3月ごろの暖かさになった。しかし、真水が尽きて、雨待ちの毎日だった。1月26日に久しぶりの雨が降り、雨水を必死に溜めた。2月になると、さらに暖かくなり、故郷の4月ごろになった。その分だけ水が欲しかった。船底の水かきはいよいよ欠かせなかった。幸い、船に着いた貝や藻、寄ってくるはまちなどを食べることができた(池田編 1968 16-18頁)。

(2)救助

 1839年1月24日(3月9日)ごろ、五三郎が塩水を飲んだために死亡し、4月12日(5月24日)ごろに善右衛門が死んだ。共に遺体は海に流した。そして4月15日(5月27日)ごろには、水先案内をする金六が、みなに難儀させたのは自分のせいだとして、最後に真水を飲んで、海に身を投げたのだった。残ったのは7人であった(池田編 1968 18-21頁;室賀他編 1965 51-62頁)。

 4月24日(6月5日)の朝、六兵衛が用足しに外に出ると、北の方に「山か嶋のやう成る物」が見えた。もはや足腰も立たぬようになっていた一同七名は、這って外へ出た。それは三本帆柱の異国船であった。船は止まってくれた。三千石程の大船であった。一同は、「黒んぼう」に助けてもらって、艀に乗り、異国船に移った。乗り移る時、船頭の平四郎は、弱った体に羽織袴をつけ、脇差を持って移った。七名はワインで歓迎され、柔らかいおかゆでもてなしを受けた。船はアメリカの捕鯨船「ゼンロッパ号」、キャップン(船長)は「ケツカル」であった。長者丸は燃やして処分された。

 こうして一同は、5か月ぶりに救助されたのである(池田編 1968 21—26頁;室賀他編 1965 62-66頁;『漂流人次郎吉物語全』11頁)。

(3)長者丸の行程(概略)

 アメリカの捕鯨船に救助された長者丸の一行は、このあと大きな世界史のうねりの中に巻き込まれていくことになる。それは順次見て行くことにして、あらかじめ、一行の行程を図示しておこう。

①1838年11月 漂流
②1839年4月 アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助される。
③1839年9月 サンドウィッチ諸島に到着。そこで帰国の機会を伺う。
④1840年9月 ロシア領カムチャツカに到着。
⑤1841年6月 ロシア領オホーツクへ移動
⑥1842年9月 ロシア領アラスカのシトカへ移動⑦1843年5月 エトロフ島に到着

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田晧編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
石森繁樹「富山湾―海に生きる人と暮らし」NPO法人富山湾を愛する会海洋講座「富山と日本海」13 2012年8月18日
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991

(「世界史の眼」No.61)

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書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)
木畑洋一

 本書は、1970年代を対象として、二度の石油危機に揺れた世界における国際秩序の変化の様相に取り組んだ国際的な共同研究の成果である。編者秋田茂は、これまでも精力的に、時代を輪切りにしてその世界史的相貌に迫るという研究を組織してきており、これはそうした試みの一環である。この日本語版に先立って、英語版が2024年に出版されているが(Oil Crises of the 1970s and the Transformation of International Order: Economy, Development, and Aid in Asia and Africa , Bloomsbury, 2024)、そちらではサブタイトルが「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助」とされおり、本書のサブタイトルとは異なっている。両者を合わせて、「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助の様相に「東アジアの奇跡」の起点を探る」とでもしてみれば、本書のねらいははっきりしてくるであろう。

 そのねらいは、秋田による序章で詳論されている。その柱は次のようになろう。従来、石油危機によるインパクトは先進工業国について論じられることが多かったが、本書ではアジア・アフリカの非ヨーロッパ諸国へのインパクトが重視される。非ヨーロッパ諸国の経済開発、発展の様相、さらにそれに関わった援助の問題を検討することによって、冷戦と脱植民地化という二つの視角から議論されてきた国際秩序論に今一つの視角を加えることが目指される。それによって、「東アジアの奇跡」(世界銀行が1993年に用いた表現)という状況が生まれてくる過程の起点も確認されることになるのである。以下、各章の内容を簡単に紹介しつつ、若干のコメントを加えていきたい。

 本論は、三つの章から成る第Ⅰ部「石油外交と冷戦」で始まる。

 第1章「石油危機とグローバル冷戦」は、このテーマに関する研究者として世界の第一人者であるといってよいデーヴィッド・ペインターの筆になり、62頁と最長の章である。著者は、これまでの冷戦研究が石油問題を十分に位置づけているとはいえず、他方石油危機に関する歴史研究も冷戦状況を看過している、という問題意識のもとで本章を執筆しており、第一次石油危機から第二次石油危機の後に及ぶまでの期間を対象に、国際政治経済の動態を、石油問題を軸とし、米国の姿勢を中心として描いている。さらに、本書の後の部分での主役となるオイルマネーの問題も丁寧に論じられており、いわば序章に次ぐ第二の総論としての性格をもっている。ただ冷戦との関わりで石油をめぐるソ連の政策についてもかなりの言及がなされているものの、米国についての分析と比べると物足りないという感が残る。また、第一次石油危機を扱った部分においては、国家と企業の関係に踏み込んだ立体的な議論がなされているのに対し、第二次石油危機に関わる部分では国家の政策に視線が集中して議論がやや平板になっているという感を抱いた。

 第2章「第三世界プロジェクト盛衰の支柱としての石油危機」の筆者デーン・ケネディは、米国におけるイギリス帝国史研究の第一人者であり、最近では、脱植民地に関する著書が、『脱植民地国家―帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社、2023年)として邦訳されている。筆者は、脱植民地化の進展の様相を描いた後、それによって生まれた国々を主力とする国家群が「第三世界プロジェクト」と呼びうる国際体制改革に向けての動きを起こしたことの重要性を指摘する。そうした動きを背景として、第一次石油危機が生じるとともに、1974年に国連での「新国際経済秩序樹立宣言」の採択が実現したのである。しかし、国際経済秩序の改変が進まぬまま、石油価格の高騰で苦境に陥った非産油国は、イラン革命によるイラン石油産業の混乱を起点とする第二次石油危機でさらに衝撃を受けることとなり、「第三世界プロジェクト」はついえてしまった。このように、脱植民地化過程のなかから生まれた「第三世界プロジェクト」に焦点をあてて70年代の時代像に迫ろうとする本章の議論に、筆者は大いに共感を抱くものである。ただ、国際経済秩序の提起に対抗する先進国側の動きが今少し書きこまれていれば、「第三世界プロジェクト」盛衰の動態がより明確になったのではないだろうか。

 第3章は、わが国における米外交史研究の泰斗で、秋田と長く共同研究をつづけてきた菅英輝の筆になる「東南アジア開発におけるアジア開発銀行の役割―冷戦と石油危機の文脈」である。ここでは、1966年に設立されたアジア開発銀行(ADB)が、第一次石油危機とほぼ軌を一にする形で、アジア開発基金(ADF)を設置した経緯が述べられた後、ADFの増資をめぐるドナー加盟国間のかけひきが、米国の姿勢を中心に据えながら描写される。ADBにおいて影響力をもった日本が、ADBの意向と「日米協力」のもとでの米国の意向との間で微妙な立場に立たされた状況の分析も興味深い。米国の動きが詳論されることで、ADBの活動を冷戦の文脈で考察するというねらいは達成されている。

 以上の三つの章を承けて第Ⅱ部「国際金融秩序と開発金融の変容」の二つの章が配置される。

 第4章は、やはり秋田と息のあった共同研究を行ってきた山口育人による「石油危機と「民営化された国際開発金融」」と題する章である。タイトルの「民営化された国際開発金融」という表現は、田所昌幸が用いた「民営化された国際通貨システム」という言葉を意識したものであり、そこで大きな役割を演ずるのは、第一次石油危機によって生み出された膨大なオイルマネーである。このオイルマネーが主として流入していった先が、西側先進国の民間金融市場であり、そうした民間資金が、60年代末に停滞をみせはじめていた先進国のODAに代わって、途上国に対する開発金融で大きな役割を担っていくことになったのである。そのような状況が進むなかで、民間金融市場に対応できる途上国とそれができない途上国との間の違いが広がっていった。さらに山口は、ともにその前者の途上国であった韓国とブラジルが、第二次石油危機に際して、工業化戦略の違いからさらに分化していく様相をも扱う。それにより、ケネディが指摘した「第三世界プロジェクト」衰微の要因に迫っているのである。

 第5章「1970年代の大循環―ユーロダラー、オイルマネー、融資ブーム、債務危機、1973-82年」は、国際経済史の専門家として日本の問題にも通暁したマーク・メツラーが執筆している。山口が強調していたオイルマネーの国際的な動きの具体像はこの章で描かれており、「オフショア・米ドル・システム」の問題として詳述されている。それを軸としてこの章で提示される1970年代像はかなり包括的であり、序章、第1章とならんで、本書の全体像をつかむ上で重要な章となっている。最後の部分で、クリスチャン・ズーターなどの研究を引きつつ、長期的な資本主義の歴史のなかに1970年代の変化を位置づける試みを行っていることも、重要である。ただ、第一次産品産出国が置かれた位置については、しばしば言及されるものの、突っ込んだ議論はなされていない。たとえば、ささいな表現の問題であるかもしれないが、「オフショア・米ドル・システム」による「信用拡大は、新植民地主義によるある種の「トロイの木馬」として理解されるようになった」と述べつつ、それ以上の議論がなされていない、といった点に食い足りなさが残るのである。

 これに次ぐ最後の三つの章が、第Ⅲ部「冷戦、開発と経済援助」を構成する。三つの章は、それぞれ特定の国家を対象としている点で、第Ⅱ部までとは異なる様相を呈している。

 まず検討されるのが、中国であり、新進気鋭の研究者南和志による第6章「世界エネルギー危機と中国石油外交」である。本章の分析対象は石油政策に絞られており、60年代に産油国としての相貌を明らかにしていた中国が、石油生産量増加を図るために、技術輸入や海底油田開発に力を入れつつ、その過程で資本主義圏、とりわけ米国との結びつきを進めていった様相が描かれる。中国の石油政策がある意味場当たり的であったからこそ、金融危機で改革開放路線が終焉に追い込まれることもなく、他方で世界経済から孤立してしまうこともなかった、という結論部分での議論は、一見意表をつくものであるが、同時に説得的でもある。

 本書の編者秋田が、次の第7章「インドの「緑の革命」・世界銀行と石油危機―化学肥料問題を中心に」を担当している。この章の対象はインドの農業問題であり、60年代末にはじまった「緑の革命」のもとでの農業振興の重要な条件となった化学肥料の集中的な大量使用を実現するために、インド政府がとった政策が分析されている。化学肥料のための最大の資金源はインド政府自体であったが、国際金融機関としては世界銀行がきわめて大きな役割を演じ、また第二次石油危機後の国際収支危機をめぐってはIMFからの金融支援が重要な意味をもった。この問題の検討を通じて、秋田は、インドにおける「緑の革命」の意義の再評価という年来の主張を改めて展開する。それは確かに首肯できるものであるが、インド経済のパフォーマンスについての政府自身による評価には、今少し批判的な検討を加えることが必要ではないであろうか。

 最終章となる第8章は、イギリスでのアフリカ経済史研究を代表する研究者の一人、ギャレス・オースティンによる「商品価格高騰に直面したガーナとケニヤ―ナショナルとグローバルの交錯」と題する章である。オースティンは、ともにイギリスの植民地としての位置から独立したガーナとケニヤの70年代における経済状況を比較し、比較的安定した経済活動を示したケニヤと、大幅なインフレに見舞われたガーナの違いを生み出した背景を、為替レートの問題をはじめとして、多様な要因にわたって検討している。政治指導層内部における農業利害関係者の有無が問題になるという点の指摘など、興味深い論点も多いが、結局のところは、「石油価格の衝撃自体よりも、ナショナルな対応の方がより重要であった」という一文で結ばれていることに示されるように、両国内での政策選択が最大の問題であるという結論となっており、章のサブタイトルの「ナショナルとグローバルの交錯」という視角が後景に退いているという感は否めない。

 以上、本書の内容を評者なりに要約し、簡単なコメントを加えてきた。全体としてみた場合、二度の石油危機が非ヨーロッパ諸国にもたらしたインパクトに重点を置いて、1970年代における国際秩序の変容に新たな光をあてようとする本書のねらいは、かなり達成されていると思われる。石油危機で生み出されたオイルマネーの動きが浮き彫りにされている点など、この課題に迫る上で大きな効果をもっていると感じた。ただ、「東アジアの奇跡」の起点を探るという点に絞ってみると、確かにかなりの示唆はえられるものの、「奇跡」の主体となった国・地域の様相について、本書の枠組みのなかでの分析が今少し欲しかったという感はぬぐえない。その点で、英語版には収録されている佐藤滋によるマレーシアとシンガポールを扱った章が、本書には掲載されていないのが残念である。

 本書の各章は、それぞれ独立した内容をもつものであるが、章同士の連関を各筆者がよく意識しつつ執筆しているということが随所で感じられることも、本書の大きなメリットであるといってよい。共同研究の組織者であり本書の編者である秋田の労を多とするものである。

(「世界史の眼」No.61)

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「世界史・東欧史研究優秀論文」学部卒業論文/大学院生論文の部 募集について

  一橋大学大学院社会学研究科秋山晋吾研究室は、2024年度に世界史・東欧史研究者である南塚信吾氏(千葉大学・法政大学名誉教授、NPO法人世界史研究所元所長)からの寄附金を基に、「一橋大学世界史・東欧史研究奨励基金」(通称:南塚基金)を設立しました。基金では、世界史・東欧史研究の発展のために、大学院生を対象とした優秀論文の表彰、ならびに、大学院生の日本国外への調査研究渡航費の助成をおもな事業として実施します。

 この度、第1回目となる2025年度の「世界史・東欧史研究優秀論文」(大学院生対象)の募集を開始しました。多くの応募をお待ちしています。また、関心のある方への情報提供にもご協力いただければ幸いです。

【対象となる論文】

・学部卒業論文の部: 
 日本国内の大学の学士課程を2024年度末までに卒業した者で、2024年度または2025年度に大学院修士課程(博士前期課程)に進学し、在籍中の者(年齢・国籍は問わない)が執筆し、提出・受理された学士課程卒業論文(日本語または英語)。ただし、世界史または東欧史をテーマとするもの。

・大学院生論文の部: 
 応募時に日本国内の大学院修士課程(博士前期課程)または博士後期課程に在籍する者(年齢・国籍は問わない。ただし、在籍している課程以外の大学または課程において博士号をすでに取得、または、単位取得退学した者は除く。)が執筆し、2024年度(2024年4月から2025年3月まで)に日本国内で刊行された学術雑誌に掲載された研究論文(日本語または英語)。ただし、世界史または東欧史をテーマとするもの。

※実施主体は一橋大学ですが、応募資格は、いずれも一橋大学大学院の在学生に限定されません。

2025年度「世界史・東欧史研究優秀論文」ウェブサイトhttps://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin.html
 募集要項 (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/ronbun-2025.pdf
 別紙様式A(学部卒業論文の部) (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/yoshiki-A.docx)
 別紙様式B(大学院生論文の部) (https://www.soc.hit-u.ac.jp/~akiyama/minamizuka-kikin/yoshiki-B.docx)

応募締め切り:2025年5月20日(メール添付での提出)

詳細は、上記ウェブサイト・募集要項をご覧ください。

問い合わせ・提出は、akiyama.shingo@r.hit-u.ac.jp(一橋大学:秋山晋吾)まで。(@を小文字にして下さい)

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「世界史の眼」No.60(2025年3月)

今号では、小谷汪之さんに、連載中の「島木健作の満洲(下)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。今号で完結です。また、2025年1月25日に開催した「増谷英樹の歴史学を語る会」における古田善文、高澤紀恵、吉田伸之各氏の報告を掲載しています。

小谷汪之
島木健作の満洲(下)―「満洲開拓政策」批判

「増谷英樹の歴史学を語る会」記録 

古田善文
増谷英樹氏とオーストリア史

高澤紀恵
増谷英樹著『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』 『歴史のなかのウィーン 都市とユダヤと女たち』を再読する

吉田伸之
増谷英樹氏の「都市史の方法」をめぐって

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島木健作の満洲(下) ―「満洲開拓政策」批判
小谷汪之

はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 前号)
3 『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 本号)

3 『満洲紀行』

(1)満洲の大日向分村

 1939年3月末、島木健作は農民文学懇話会から派遣されて、満洲旅行に出た。朝鮮半島を縦断して満洲に入り、北満洲の開拓村15か村(大日向分村、福島村、弥栄村、千振村、龍爪村など)や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所5か所(ハルビン、勃利、孫呉、鉄驪、嫩江)などを訪ね歩いた。他の視察団などとは異なり、一人旅であった。その時の見聞にもとづいて書かれたのが『満洲紀行』(創元社、1940年)であり、前出の『或る作家の手記』である。以下では『満洲紀行』によって、島木の満洲での体験を追ってみたいと思う(頁数は『満洲紀行』のもの。地名については、付図を参照)。

 1939年4月16日、吉林に到着した島木は「第二松花江」に建設中の発電用ダム(豊満水力発電所)工事現場を見学に行った。「第二松花江」は中国・朝鮮国境に近い白頭山から流出して北流し、ハルビンの西で嫩江と合流して黒龍江に入る。以前は嫩江が松花江本流とされていたが、現在では、かつての「第二松花江」が松花江本流と認められている。このダム工事は1937年に着工されたが、島木が行った時はまだ工事中であった(その後、1942年に竣工)。

 翌、4月17日、前日吉林で泊まった島木健作は汽車で拉法駅に行き、そこでハルビン(哈爾浜)方面に向かう拉浜線に乗り換えて、四家房駅(後に舒蘭駅と改称)で下車した。「出迎への人に案内されて第七次四家房開拓団弁事所におちついた。……ここの開拓団は、信州の大日向村の分村である。先発隊は、をととしの夏渡満し、千振村〔1933年、第2次入植〕で訓練を受け、この地に入植したのは昨年の二月である」(96-97頁)。満洲の大日向分村は四家房の町から6キロメートルほど南西に位置し、吉林や新京(現、長春)にも近く、恵まれた地点にあった。

 長野県南佐久郡大日向村は千曲川の支流、抜井川沿いに点在する九つの集落からなる村で、戸数は406戸、全村で「水田四十七町八段、畑二百十七町五段、ほかに山林」ということである(102頁)。『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)によれば、「田が四九・八ヘクタール、畑が三一六ヘクタール、合計三六五・八ヘクタール(一戸当たり〇・七九ヘクタール)」(159頁。1ヘクタールはほぼ1町歩)という貧村であった。養蚕と炭焼きが主産業であったが、大恐慌後蚕糸価格が暴落し、村財政は破綻しかかっていた。

 この大日向村の約200戸が満洲に移民し、さらに将来縁故移民100戸を受け入れることとして、大日向分村が形成された。大日向分村は分村移民の模範例として広く喧伝された(伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年)。

 母村である信州の大日向村に比べて、満洲の大日向分村は広大な面積の土地を割り当てられていた。「ここの土地の広さは一万町歩からだ。そのうち既耕地、未耕地を入れて可耕地はどれほどか。これはいふ人によつてまちまちであつた。……しかし三百戸開拓民としても、一戸当たりほぼ十町歩の耕地とほかに山林が約束されてゐるといふことに間ちがひはない」(102頁)。「今年は水田二百五十町歩、畑二百五十町歩を先遣隊が耕作し、本隊は部落の建設にのみかかる予定である。三百戸を五部落にわかち、一部落は〔当面〕四十戸の密居形式である」(103頁)。

 「鉄道の線に近く、交通に便であること、入植ただちに一戸当り一町歩余りの水田既耕地を持つといふこと、この二つはこの団に恵まれた条件であらう」(103-104頁)。しかし、この「恵まれた条件」には、大きな問題が含まれていた。島木健作は次のように指摘している。

しかし、日本人入植以前に、それだけの水田があつたといふことは、少なからぬ鮮人農民〔朝鮮人農民〕がゐたことを意味する。彼等と、さうして今開拓民が住んでゐる満人農家〔満洲人農家〕のもとの住民たちは?
 「今年は、鮮人、満人二百五十戸ほどが立ち退きました。以前の村長(満人)は今団に雇はれ、団と在来民との交渉の間に立つてゐます。」
 立ち退いたものは、どのやうにしてどこへ行つたのであるか?ここの人々からはそれについてほとんど聞くことはできない。(104頁)

 一般に大陸開拓、満洲開拓などというが、多くの場合、朝鮮人や満洲人の農民がすでに開墾していた水田や畑を満洲拓殖公社が安い価格で買い上げて、開拓団に提供していたのである。さらに問題なのは、開拓民がこの広大な土地を自家労働力(若い開拓民の場合、成人男性1人と満洲馬2頭)だけでは耕作できないということであった。その結果、立ち退かされた朝鮮人や満洲人の農民を農業労働者として雇い入れるということが広く行われていた。島木は次のように書いている。

日本開拓民は今日、満人農業労働者を使役することによつて、その存立の基礎を得てゐる。……両者の関係は主人と雇人との関係である。……雇傭されるもののなかには、開拓民入植前までは、自立した農民であり、主人であつたものもある。……日本開拓民の今日の能力の小ささが、彼等を必要とし、彼等をここに引き止め、彼等も亦当座はこの関係に頼つた方をよしとしてゐるのだが、この当座は一体いつまで続くであらうか。(72-73頁)

 このように、島木健作の「満洲開拓政策」批判の第一の論点は、満洲人や朝鮮人の農民を彼らの農地から追い立てたうえ、彼らを農業労働者として雇用することによって成り立っている開拓団や開拓民の農業経営の実態であった。しかも、農業労働者に支払う労賃(現金あるいは現物)が開拓団や開拓民の重い負担になっていた。「どこの団のどの家を訪ねてみても、苦力クーリー賃〔農業労働者に支払う労賃〕といふものが、一家経済の癌となつてゐることを、我々はすぐに知ることができる。まことに彼等にとつて、二つの大きな悩みのたねといふのは、苦力クーリー賃と、満洲馬の飼料代とである」(50頁)。「満洲馬が非力なくせにじつによく食ふといふことで、開拓民があきれもしなげきもしてゐるのは笑えぬ滑稽である」(56頁)。

 このような状況において、「団の土地を満農に出し、そこから上る小作料をもつて、借金の返済にあてようと考へてゐるところも多い」(27頁)。「自分の能力の小ささを自覚して、その能力に適ふだけの土地を自分に保留し、他は満人に小作させる」(65頁)というやり方である。これが満洲開拓のひとつの実態であった。

(2)「自作農主義」政策批判

 島木健作の「満洲開拓政策」批判の第二の論点は開拓団による集団農業経営(共同経営)から個人農業経営への性急な移行であった。

 1939年4月18日、島木は四家房駅から大日向分村とは反対の南方2キロメートル足らずの所に位置する福島自由移民団を訪ねた。福島村は1938年入植、22戸から構成されていた。「一戸当たりの面積は、水田二町、畑六町、山林原野七町……。原住民からの買収価格は、水田一町百三十円、畑八十円」(114頁)ということであった。

 この開拓団について、島木は次のように書いている。

 それにつけても私が疑問としたのは、昨年先遣隊として入つた十一戸が、今年から個人経営に移るといふことについてである。労力の不足、分散することによつての一層の弱まり、といふことは痛感してゐる筈なのに、なぜそのやうに個人経営にうつることを急がなくてはならないのであらう。一人や二人の家族労力をもつて、与へられた面積をこなし切れぬといふことはわかりきつたことなのに。(114-115頁)

 島木は訪ねた開拓団のほとんどにおいて共同経営から個人経営への移行が進められているのを見た。「第一次〔1932年入植〕から第五次までの開拓団は大体においていはゆる個人経営の段階に移つたといはれるところである」(16 頁)。その根底には日本政府の「満洲開拓政策」があると島木は指摘する。

日本の指導者たちによつて定められた、満洲農業開拓の根本方針の第一には、
「自家労力を本位として耕作し且つ経済的に成立する自作農を設立すること」
と、いふことがあげられてゐるからである。ここでは何等かの集団農場のごときものが考へられてゐるのではない。根本方針はあくまでも自作農主義である。(17-18頁)

 島木はこの「自作農主義」政策が満洲農業開拓を困難に陥れている根本的な問題だとして、次のように提言している。

ここでは私はただこれだけのことを言つておく。……今まで、発展の最後の形態として目ざされて来た、個人経営の組織は厳密に再検討されねばならぬといふことを。……新しい共同経営の形態が取つて代らねばならぬ。従来、個人経営に移行する過渡的段階としてのみ存在した共同経営を、永続的なものとして強力に組織化せねばならぬ。このことなくしては北満の農業的開発も、開拓民の経済的自立も、進んでは彼等の使命の遂行も不可能であらう。(89頁)

(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所

 5月10日、前日、龍爪開拓団(付図の④)に一泊した島木は龍爪駅からジャムス(佳木斯)行きの汽車に乗り、勃利駅で下車した。満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所を訪ねるためである。勃利の町にある勃利訓練所出張所に行くと、丁度この日、大陸開拓文芸懇話会から派遣されていた伊藤整、福田清人、湯浅克衛の3人もここに来たが、既に勃利訓練所に向かったということであった(128頁)。しかし、この日はもう夕方になっていたので、島木は勃利の町の「〇〇ホテルといふのにとまつた。名前はホテルだがむろん大へんな宿屋である」(131頁)。

 翌日、勃利の町から38キロメートルも離れた勃利訓練所にトラックで向かった。その道路も満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生たちが切り開いたものであった。この訓練所の訓練生は400人ほど、東北地方の出身者が多かった。朝は5時起床、夜は9時消灯で、1日の時間割は農耕4割、軍事教練4割、学科2割であった。

 客(島木)が来たということで、その夜、各小隊から数人ずつ訓練生が集まって、集会が持たれた。中隊幹部も出席した。はじめは口が重かった訓練生も次第に緊張が解けて、いろいろと率直な話をするようになった。「何よりも先に彼等が語つたのは、苦しかつた去年の思い出だつた。……昨年四月、彼等ははじめてこの地にはいつて、無人の原野に、天地根元作りの家をつくり、ひつじぐさ〔水草の一種〕を地べたに敷いて寝たのである。天地根元作りといふのは、一棟の長さが五十メートルもある掘立小屋の一種である。雨は漏るといふよりは、むしろ降る方だつた」(145-146頁)。それから、「配給が円滑を欠き、食料の輸送さへもとだえること」があり、「パイメンや粟や羊草の水炊きだけで十三日間も凌いだことさへあつた」。「雨季にはいり、真夏にはいると、赤痢患者が続出した。赤痢患者の糞と小便とが雨に溢れて流れ出すなかに彼等は右往左往した。昨日までの僚友の死体を裸にして雨のなかに運び出さなければならなかつた時の気持は忘れられぬと言つた」。「野糞に行くときには、左手に雨傘を持ち、右手に団扇を持ち、口に塵紙をくわへて行くのだつた。雨の日の野のなかの蚊やあぶやその他血を吸う虫のしつこさは想像のほかである。戦闘帽の上に、手ぬぐひを五枚も重ねなければ刺されるのである」。こんなことが口々に語られた(145-146頁)。

 訓練生たちは最後にこう訴えた。

 これは故国の人々に言ひたいが、県庁も村も、国策だ国策だといつて我々を送り出しておきながら、送り出したあとは全く知らぬふりである。手紙は一本も来ない。出しても返事がない。〔中略〕馬に乗り七本も旗を立てて駅まで送つてくれたがあとはかへり見られない。忘れられるのが一番つらい。一生懸命にすすめた人がさうでは問題にならない。兵隊さんに慰問袋は来るが、我々には来ない。しかし、送られる時には、すべて兵隊なみだつたのである。(151頁)

 島木は満洲開拓政策の一つの柱とされていた満蒙開拓青少年義勇軍の実態がこのようなものであることについても、認識を深めていった。このことが、島木の満洲開拓政策に対する第三の批判点となったのである。

4 『満洲紀行』に対する評価

 島木健作の『満洲紀行』はその鋭い「満洲開拓政策」批判のために一部の満洲開拓関係者の反発を招いたようだが、高く評価する人々も多かった(289-290頁)。

 後に「山月記」や「李陵」など、中国古典に材をとった作品で知られるようになる作家、中島敦は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の日、まだ南洋庁の職員として「南洋群島」のサイパン島にいた。中島敦はその日の日記に次のように書きつけている。

 午前七時半タロホホ行のつもりにて〔南洋庁サイパン〕支庁に行き始めて日米開戦のことを知る。……小田電機にて、其後のニュースを聞く。……ラジオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆撃をも行えるものの如し。宣戦の大詔、首相の演説等を聞いて帰る。午後、島木健作の『満洲紀行』を読む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。(『中島敦全集2』筑摩文庫、298頁)

 太平洋戦争勃発という緊迫した日の午後に、中島敦は島木健作の『満洲紀行』を読み、「蓋し、彼は現代の良心なるか」というほどの感銘を受けたのである。そこには、1年ほどの「南洋群島」生活を通して、中島が日本による「南洋群島」支配に批判的になっていたことが反映されているのであろう。

 田村泰次郎も『わが文壇青春記』の中で、次のように書いている。

〔昭和〕十四年夏の〔大陸開拓文芸懇話会から派遣された〕大陸旅行は、伊藤整、福田清人、田郷虎雄(劇作家)、湯浅克衛、近藤春雄(ナチスの研究者で、大陸開拓文芸懇話会は彼の肝煎りで出来た〔近藤は当時の拓務大臣・八田嘉明の甥で、拓務省と作家たちの仲介をした〕)たちと一しょだった。〔中略〕
 この旅行では、やはり、〔大陸〕開拓文芸懇話会の会員で、私たちとは別に、一人で開拓地をまわっていた島木健作と、新京〔現、長春〕で出逢った。島木はこの旅の収穫から、帰国して、「満州紀行」、「或る作家の手記」を書き、当時の浮かれ気味の大陸進出の風潮に対し、頂門の一針として文学者の見識のあるところを見せた。(34-35頁)

 田村泰次郎は、戦後、『肉体の門』(1947年)などでよく知られるようになり、「肉体派」などと称されることもあったが、島木健作の満洲開拓にかんする「見識」を高く評価していたのである。それは、田村が1940年に応召し、敗戦までの5年間ほど華北各地を転戦したという体験と結びつくことなのであろう。

おわりに

 島木健作の作家生活はほぼ10年という短いものだったが、その割には多作であった。彼の多くの作品の中でも、香川での農民運動における経験をもとにした『生活の探求』(河出書房、1937年。『続・生活の探求』河出書房、1938年)は当時としては珍しいほどのベストセラーとなった。これらの作品を通して、島木は官憲の「保護観察」下にありながらも、一種の流行作家となっていったのである。

 しかし、島木の多くの文学作品以上に評価されるべきなのは『満洲紀行』という旅行記だと思う。国策として推し進められていた満洲開拓に対して、島木の『満洲紀行』以上に鋭い批判を加えた著作は他には存在しないといってよいであろう。当時の天皇制国家権力による狂暴な言論弾圧下において、「転向作家」・島木がこれだけの国策批判の書を著したということは評価すべきことだと思う。たとえ、満洲開拓そのこと自体を帝国主義的対外侵略として断罪する文言は見られないとしても。

 島木健作は、実質的な日本敗戦の日、1945年8月15日から僅か2日後の8月17日に死去した。当時、島木は鎌倉に住んでいたので、川端康成、小林秀雄、中山義秀、久米正雄、高見順など鎌倉在住の作家たちがその死を看取った。島木のためにいろいろと苦労をかけられた母親の姿も枕頭にあった。

(「世界史の眼」No.60)

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「増谷英樹の歴史学を語る会」記録

 2025年1月25日に、世界史研究所が主催して「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催しました。1942年生まれの増谷英樹さんは、オーストリア史、ユダヤ史を中心に研究を進めてこられ、また、東京外国語大学と獨協大学で長く教鞭を取られました。長く闘病中のところ、残念ながら2024年11月に、逝去されました。

 世界史研究所の研究員は、それぞれに増谷さんと公私に渡る深い交流があり、また、増谷さんの仕事から多くの刺激と啓発を受けてきました。ここに、増谷さんと交流の深かった方と、増谷さんのご家族にもご参加頂き、「増谷英樹の歴史学を語る会」を開催し、増谷さんの仕事を振り返り、増谷さんが私たちに届けたかったものを改めて考える機会としたものです。ご参加頂いたのは、稲野強、小沢弘明、木畑和子、木畑洋一、小谷汪之、清水透、高澤紀恵、藤田進、古田善文、南塚信吾、山崎信一、油井大三郎、吉田伸之、渡邊勲の各氏と、加えてご家族の増谷直子さんと三人のご子息・ご息女の皆さんです。

 会は小谷汪之さんの司会のもと、まず増谷さんに黙祷を捧げ、次いで南塚信吾さんに、増谷さんの今までのお仕事を簡単に振り返って頂きました。その後、古田善文さんから、オーストリア史に関して、また、高澤紀恵さんと吉田伸之さんからウィーン史・都市史に関して、提題をして頂きました。三氏の報告は、それぞれ以下に掲載しています。

 次いで、参加者からの自由な発言と討論が行われました。増谷さんのユダヤ問題に対する立脚点、史料としてのビラの用い方、増谷さんの目指した「民衆史」の展望、フリーメーソンへの関心、移民への関心といった点を中心に議論がありました。その後は、皆さんそれぞれの増谷さんとの親交のあり方も含めて、ざっくばらんに懇談の時間となりました。参加者の皆さんの多くは、大学の同僚として、歴史学研究会において、あるいは読書会・勉強会のメンバーとして増谷さんと交流のあった皆さんでしたが、いずれのお話からも、増谷さんの真摯な学問的態度と、それに加えての気遣いと面倒見の良さ、民衆や労働者に寄せる増谷さんの深い共感、「食」へのこだわり、登山やスキーやテニスを楽しむ姿といった点が浮かび上がりました。いずれのエピソードにおいても、増谷さんとの深い信頼関係が感じられました。また、ご家族の言葉にもありましたが、学問は学問としてきちんと進めた上で、家族との時間も大切にし、スポーツにも取り組むという姿は、研究者の中ではあまり一般的ではなかったかもしれません。この点からも増谷さんのお人柄が偲ばれました。

 増谷さん、まだまだやり残したことがたくさんあったのだと思います。しかし、増谷さんが本当に多くを私たちに残してくれたことを、今回改めて理解することができました。増谷さん、本当にありがとうございました。

(山崎信一)

増谷英樹のおもな著作

増谷英樹「60年代歴研における「人民闘争史」研究とその問題点」『歴史学研究』372号《大会特集》安保体制の新段階とわれわれの歴史学―世界史認識と人民闘争史研究の課題、1971年5月

良知力編『共同研究 1848年革命』大月書店、1979年
    増谷英樹「序論 1848年革命の概観と研究の課題」
    増谷英樹「「フランクフルト労働者協会」と9月蜂起」
    増谷英樹『ビラの中の革命:ウィーン・1848年』東京大学出版会〈新しい世界史〉、1987年

増谷英樹『歴史のなかのウィーン:都市とユダヤと女たち』日本エディタースクール出版部、1993年

歴史学研究会編『講座世界史4 資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会、1995年
    増谷英樹「大都市の成立―一九世紀のウィーンと流入民」

増谷英樹、伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年
    増谷英樹「序論」
    増谷英樹「世紀末ウィーンの製靴工―資本主義化と「急進性」の伝統」

増谷英樹『ウィーン都市地図集成』柏書房、1999年

増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生 日本とドイツ/歴史と現状』有志舎、2009年
    増谷英樹「序章 移民・難民・外国人労働者とその受入れ」
    増谷英樹「補論 第二次世界大戦以前ドイツの外国人労働者と強制労働」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年

増谷英樹、富永智津子、清水透『オルタナティヴの歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2013年
    増谷英樹「1848年革命とユダヤの人びと―『オーストリア・ユダヤ中央機関紙』を読む」

研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」編『われわれの歴史と歴史学』有志舎〈21世紀歴史学の創造〉、2012年
    増谷英樹「社会史、そして民衆史について」
    増谷英樹「戦後歴史学からオルタナティヴヘ」

増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2016年

渡邊勲編『37人の著者 自著を語る』知泉書館、2018年
    増谷英樹「30年後の自己書評《ビラの中の革命》」

増谷英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2023年(増補改訂版)

(「世界史の眼」No.60)

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増谷英樹氏とオーストリア史
古田善文

1. 報告者と増谷さんの関係について

 まず増谷さんと私の関係についてお話しします。最初の出会いは、私が東京外国語大学のドイツ語学科3年生の時でした。その後、増谷さんの指導のもと、私は「オーストリアのファシズム」に関する卒論を執筆し、東京外国語大学大学院修士課程に進むことになりました。大学院在学中に私の指導教官はウィーン大学の交換教員として不在(1981〜83)となり、寂しい思いをしたこともありました。もちろん、このウィーン滞在で集められた数々の資料、特に大量のビラのおかげで、名作(1987)『ビラの中の革命』が生まれたことについて、異論はありません。

 修士終了後、私が他大学の大学院博士課程に進学したこともあり、増谷さんとはしばらく疎遠になっていましたが、2004 年以降、今度は獨協大学ドイツ語学科の同僚として10年間の年月を一緒に過ごさせていただきました。増谷さんは、獨協では特任教授として2004年から2010年まで、その後非常勤講師として2014年まで教鞭を取りました。この獨協時代に、増谷さんは通常授業、院生指導の他、2度のオーストリア史に関する「オープンカレッジ特別講座」の講師を努めています。さらに2007年には「ドイツと日本の移民、難民、外国人労働者」と称したインターナショナル・フォーラムの座長として、この催しの人選、企画、実行に多大な貢献をしています。この時の記録は有志舎から(2009)『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–––日本とドイツ/歴史と現状』というタイトルで出版されており、今でもその時の発表や議論の詳細を確認することが可能です。

 前置きが長くなりましたが、今日私が発題者としてお話ししなければならないのは、増谷さんとオーストリア史についてです。ご存知の通り、増谷さんの研究の土台がウィーン・1848年革命であることに疑いの余地はありません。しかしながら、増谷さんの関心は1848年とウィーンに限定されることなく地域的にも、時空的にも非常に多岐にわたります。この点について最もわかりやすいエピソードは、2004 年の東京外国語大学での最終講義でした。そこで語られたのはウィーン・1848年ではなく、何とブラジルのドイツ系移民社会についてでした(増谷さんは最終講義の直前の2003年末から04年初頭にかけて当時の同僚であった鈴木茂氏と、ブラジル南部ブルーメナウと周辺のドイツ系移民社会のフィールドワークに赴いています)。通常、最終講義の場では、積年の研究成果のまとめが語られることが多いのですが、あえてこれからの新しい研究の方向性を示唆する増谷さんの講義には私も度肝を抜かれました。このエピソードは、増谷さんの関心のあり方を理解するのに大いに役立ちます。常にアンテナを高く張り巡らし、もし興味をそそられるテーマや人間を見つけると、躊躇なくそちらに向かう行動力も増谷さんの特徴と言えるでしょう。実際、この最終講義を境にして、増谷さんの関心は、1848年革命を意識しつつも、新たに移民・難民問題にも向かうことになります。

2. ウィーンの1848年革命とユダヤ

 限られた時間で効率的に説明を施すため次の資料(図1)を提示させていただきます。これは増谷さんの主要研究業績の研究領域と私の推測に基づく増谷さんの関心の動きを大まかにまとめてみたものです。

図1

 この資料を見てまず気づくことは、増谷さんは最初からウィーンを研究の対象にはしていなかったという点です。まず増谷さんが関心を持ったのは、ドイツの大都市、特にベルリンの1848年革命分析でした。そこからウィーンの1848年に研究対象が変化した背景には、(1979)『<共同研究>1848年革命』執筆時に出会った良知力先生の存在が大きかったと推測しています。良知さんと増谷さんの信頼関係は、良知さんのご遺作、(1985)『青きドナウの乱痴気』の「あとがき」と、増谷さんの(1987)『ビラの中の革命』の「あとがき」の中にはっきりと見て取れます。増谷さんの言葉を借りれば、ウィーン滞在前に「僕のできなかったことをやってこいよ」という良知さんの言葉と、良知さんが増谷さんに渡した史料・文献類のカードのコピーは、良知さんの先駆的業績と合わせて、その後の増谷さんのウィーン革命史研究の発展を大きく後押しすることになったのでしょう。

 もちろん、良知さんの存在以外にも、1981年以降の最初のウィーン滞在中に出会った人たちが、その後の増谷史学の形成に大きな役割を果たすことになりました。特にウィーン滞在中に、初めて参加したリンツ会議の場で、増谷さんが「事実上の指導教官」西川正雄さんの紹介によって、自ら「革命史研究の指導教官」と呼ぶヘルバート・シュタイナー氏と知己の関係になったことも、その後のウィーン革命史研究の進展を確固たるものにしたと思われます。最初のウィーン滞在以降、ウィーン・1848年革命史研究が最後まで増谷さんの研究のメインストリームだったことは、この資料からも明らかでしょう。

 では増谷さんの1848年革命分析のカギは何かという問題が浮上します。みなさんもご存知の通り、それは革命の中のユダヤという存在になります。増谷さんは、(1984)『社会史研究』に発表した論文、「革命とアンティゼミティスムス」において、ウィーンのユダヤの居住区と職種によってユダヤの人々を「裕福なユダヤ」、「ユダヤ知識人およびユダヤ学生」、「プロレタリアートのユダヤ」という三つのグループに分類し、革命の中でのそれぞれの役割を緻密に分析します。この論文では、ウィーン市内区の「ブルジョア革命」においては解放の対象であったユダヤ教徒が、市外区の「プロレタリア革命」においては、一転して打倒の対象として考えられていたとする興味深い結論が実証的に導きだされます。さらに革命の見方として次のような重要な指摘もなされます。曰く、革命・反革命のヴェクトルで見た場合、革命の中においてその両方向に向きうる可能性を持っていた民衆の両義性の分析が、これまでは、民衆の革命性を強調するがために触れられて来なかった、という指摘です。

 このように1848年革命の分析の主題にユダヤを据え、さらにそこから1848年革命像の新しい見取り図を提供したという点において、増谷さんの研究は、ウィーン革命におけるスラブ系流入民の役割に着目した良知さんの研究を、さらに一歩進めたと言えるのではないか、と考えます。

このようにユダヤ問題への関心が深かった増谷さんですが、通例、ユダヤ人と呼ばれている集団を自分でどう呼ぶかについては色々と葛藤があったように思います。ちなみに、その変遷の跡を辿ってみましょう。

 まず(1984)『社会史研究』掲載論文の中ではユダヤ人と記述しています。(1987)『ビラの中の革命』でも同じくユダヤ人という呼称が使用されています。これに対して、論文集(1992)『感覚変容のディアレクティク』に掲載された論文では、ユダヤ教徒および改宗したユダヤ教徒をカッコ付きで「ユダヤ系」と形容しています。(1993)『歴史のなかのウィーン』に掲載された論文、これは前に紹介した『社会史研究』掲載論文の改訂版なのですが、ここでは以前使用していたユダヤ人を、ユダヤ教徒とカッコ付きの「ユダヤ人」という2つの言葉に使い分けています。その理由について、増谷さんは、「ドイツ語のJudenという言葉が、本来はユダヤ教徒を意味するにもかかわらず、それを使用する人によって意味している内容が違うからであって、その意味内容を汲んでのことである」と説明しています。同じ『歴史のなかのウィーン』の別の書き下ろし論文では初めてユダヤの人びとという呼び方も登場しており、1冊の本の中に複数の呼び方が混在するという状況が見られます。一方、訳本(1999)『ドイツ戦争責任論争』では、主題がユダヤを「民族」とみなすナチの強制労働政策のためか、カッコ付きの「ユダヤ人」が迷うことなく選択されています。

 さて、こうしたユダヤへのこだわりは2000年代に出版された一般の読者向けのオーストリア・ウィーン通史の中にもはっきりと見て取れます。増谷さんは(2011/2023)『図説 オーストリアの歴史』と、(2016)『図説 ウィーンの歴史』を上梓しています。そのうち後者の『図説 ウィーンの歴史』では、中世のユダヤの人々をめぐる生活実態と中世から近現代に至る反ユダヤ主義の変遷を、本文に巧みに織り込みながら整理しています。そうしたユダヤ関連の記述は本文、178ページ中、実に計20ページほどに及びます。

 ちなみに、この著作の5年前に出された『図説オーストリアの歴史』でもユダヤ関連テーマはコラムとして扱われていますが、そこでのユダヤ関連の記述は全部(135ページ)で7ページほどにすぎません。つまり、歳を重ねるにつれ、増谷さんの終生のテーマであるユダヤへのこだわりはますます強くなっていったのでしょう。

 とは言え、この2冊を読んで疑問に思った箇所も存在します。それは、ユダヤへの並々ならぬこだわりを随所に見せているにもかかわらず、何故、シオニズムについての記述が皆無なのかという問題です。『図説 ウィーンの歴史』で、ユダヤ関連記述が増えたことについては既に指摘しましたが、ユダヤの歴史ひいては世界の歴史のなかで重要な意味を持つと思われるウィーンのジャーナリスト、テオドーア・ヘルツルとそのシオニズム運動の起源に関する記述は、この2冊に登場することはありません。この点はどう説明されるべきなのでしょうか。シオニズムに関心がなかった訳ではないが、オーストリアに残るユダヤの人びとの状況分析と、彼らに向けられた反ユダヤ主義研究に主眼をおいた自分の研究スタンスのため、オーストリアからの国外脱出を目的とするシオニズムをとりあえずは研究対象外とせざるを得なかったのでしょうか。今となっては、残念ながら本人に確認することは叶いません。

 増谷さんの研究の主要領域と問題関心をまとめた先ほどの資料をよくみてみると、ユダヤの次に主要なテーマとなったのは、「国民国家」の相対化に通ずる「人の移動」あるいは「越境者」と呼ばれる人々に関する問題です。これとあわせて重要視されるべきウィーンという都市の構造をめぐる問題については、次の高澤さん、吉田さんのご報告と被ってしまう可能性があると思いますので、ここでは割愛させていただきます。

3. 「ヴァルトハイム問題」とオーストリア現代史について

 資料を見てみなさんもお気づきかとは思いますが、増谷さんのオーストリア史におけるユダヤや「越境者」と並んで重要なテーマとなっているのがオーストリア現代史に関するテーマです。具体的には、ナチ支配下のオーストリアにおける「土着的反セム主義運動」の問題と、その延長線上にある1938年3月のアンシュルス(独墺合邦)以降、アドルフ・アイヒマンによって進められたユダヤの財産収奪および追放モデル、いわゆる「ウィーン・モデル」の研究です。この論文(2002)「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)を今回改めて読ませていただきましたが、その中心的主張、つまりオーストリアの粗暴な「土着的反セム主義運動」(あるいは「民衆的反セム主義運動」、「野放しの反ユダヤ運動」)の存在こそが、ユダヤ追放計画の責任者であったアイヒマンに、合理的で秩序ある「解決法」を模索させた、という指摘はとても重要で興味深いものでした。

 オーストリアの戦争犯罪研究の一環として、さらに増谷さんは、第二次世界大戦中のユダヤおよび外国人労働者、ソ連兵捕虜に対する強制労働の問題にも取り組みます。その成果が、(2004)「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』所収)という論文です。そして2007年の獨協大学インターナショナル・フォーラムにおける基調報告の中で、増谷さんはオーストリアの枠を超えてドイツの強制労働の事例にも踏み込んでいくのです。

 この時期、増谷さんが戦争犯罪研究に向かった動機ですが、私の考えではおそらく次の二つが関係していると思います。一つは、ドイツ・シュレーダー政権が立案し、2000年に連邦議会で可決された強制労働補償基金「記憶・責任・未来」設立の動きです。もう一つは、当時、ハーバード大学歴史学准教授であったダニエル・ゴールドハーゲンが、1996年に『普通のドイツ人とホロコースト:ヒトラーの自発的死刑執行人』を発表したことです。この有名な著作は、反響の大きかったドイツで新たな「歴史家論争」を引き起こすことにもなりました。周知のようにこの著作はドイツにおける「土着的反ユダヤ主義」とホロコーストの関係を大胆に論じたものです。現代史家なら誰でもこのゴールドハーゲンの著作をめぐる論争から大きな刺激を受けたと思いますが、増谷さんも同じで、ゴールドハーゲン論争は当時の東京外国語大学大学院増谷ゼミの検討テーマになったのです。そこで読まれたヴォルフガング・ヴィッパーマンの本は、当時の院生のみなさんと増谷さんによって(1999)『ドイツ戦争責任論争』という名前で訳出されています。

 そもそも、増谷さんが現代オーストリアの「土着的反セム主義運動」とは呼べないまでも、その前提となる「土着的反ユダヤ思想」の存在に気づいたのは、ゴールドハーゲン論争から10年ほど遡る1986年頃のことであり、決して90年代の新たな論争の登場を待っていた訳ではありません。具体的に増谷さんの目をこの問題に向けるきっかけとなったのが、1986年に勃発した「ヴァルトハイム問題」でした。これは、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、1986年のオーストリア大統領選挙に保守派の国民党候補として選挙戦に臨んだ際、彼のナチ時代の「戦犯」としての過去が、アメリカの世界ユダヤ会議から暴露されたことに端を発する一連の騒動のことです。選挙戦への世界ユダヤ会議の介入に猛反発したオーストリア国民は、世界中から寄せられた激しいヴァルトハイム批判にもかかわらず、彼を自国の大統領に選出したのでした。これとの関連でオーストリアにおける現代の「土着的反ユダヤ思想」の存在が指摘され、さらにオーストリアの国民が戦争責任をすべてドイツのナチに押し付けることを可能にする戦後の歴史認識、いわゆる「犠牲者神話」のレトリックも改めて注目を集めることになりました。

 「ヴァルトハイム問題」が報道されると、どの局であったかは失念してしまいましたが、増谷さんは某民放テレビ局の緊急特番で専門家としてコメンテータを務めることになりました。あくまで私見ですが、この時の経験が、増谷さんの「ヴァルトハイム問題」およびオーストリア現代政治に対する関心をその後も継続させたのではないか、と密かに考えています。さらに増谷さんは、この問題についての所感を1989年に雑誌『人民の歴史学』にまとめます( (1993)『歴史のなかのウィーン』に再録)が、この頃から、増谷さんは「ヴァルトハイム問題」とならんで、オーストリアの極右自由党の党首に就任したイェルク・ハイダーにも強い関心を持ち始めます。ハイダーについての論説は『図説 オーストリアの歴史』内のコラム「ハイダー現象」で読むことが可能です。若干補足しておけば、この極右政党は元オーストリア・ナチ党員と支持者を中心にして大戦後に結成された「独立者同盟」をルーツの一つにしています。本年(2025年)1月初旬以降、この自由党が第一党として、歴史上初めてオーストリアの首相ポストを握りそうな現状を、増谷さんならどう分析して見せるでしょうか。

 増谷さんの研究業績をまとめた資料を見て、少々異質な存在に思えるのが(2015)『フリーメイソンの歴史と思想』というタイトルの翻訳書です。最初、私もこの本を訳した増谷さんの真意がどこにあるのかよくわからなかったのですが、今回、この報告に備えてもう一度増谷さんの著作を読み直してみたところすべてが腑に落ちました。同書の「あとがき」に公刊理由がはっきりと書かれています。

 「何度となく訪れているウィーンには、フリーメイソンの知人友人もいるが、僕の頭の中では、フリーメイソンは歴史的存在でしかなかった。しかし1990年代に極右排外主義者のハイダーの自由党が政治的に台頭してきたときに、それを批判し抵抗する運動の中心的存在をフリーメイソンが担っていたことを教えられた。」

 つまり、このフリーメイソン翻訳書はその裏で思いがけずハイダーおよび自由党ともつながっていたのです。

 以上みてきたように、増谷さんのオーストリア史への関わり方は実に多様でした。出発点である1848年革命とユダヤの他にも、ウィーンの都市構造、ウィーンのチェコ系流入民、フリーメイソン、両大戦間期の社会民主党市政「赤いウィーン」と労働者住宅、ナチス支配期のアイヒマンによるユダヤ財産の収奪とユダヤ追放計画、大戦中のナチによる外国人強制労働、「ヴァルトハイム問題」および戦後オーストリア国民の歴史認識と残存する「土着的反ユダヤ思想」、極右自由党を中心とする現代オーストリア政治、などがオーストリア関連の主要テーマとして挙げられます。その他にも、ドイツにおけるゴールドハーゲン論争(あるいは戦争責任論争)から、広くドイツ語圏諸国の移民・難民・外国人問題を紹介した(2021)『移民のヨーロッパ史』まで、増谷さんが研究論文や専門書、あるいは翻訳書で残した成果は実に多岐に渡ります。

 増谷さんは、こうした様々なテーマをその都度都度の関心に沿って、あるいは必要に迫られて研究していたのでしょう。しかし、そうした一見無関係に見える個々のテーマは、増谷さんの中では当然のように深いところで繋がっている問題でもありました。私がそう感じているだけなのかもしれませんが、資料で示した矢印の流れを見る限り、増谷さんの関心の動きとテーマ同士の相互連動性が十分に理解できるのではないでしょうか。

4. 再びユダヤへ〜ウィーンからホーエンエムスへ

 最後に再び1848年革命とユダヤの話題に戻りましょう。新しい関心領域と次々に向かい合いながらも、増谷さんがその生涯で、最後の最後まで意識し続けた最大のテーマは、やはり、オーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究でした。晩年の2020年には『メトロポリタン史学』に60ページに及ぶ「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む –新発見の一八四八年革命史料–」を掲載し、1848年革命とユダヤの研究に対する情熱が依然として衰えていないことを、自ら証明しています。

 増谷さんにとって、この生涯をかけたテーマを研究する目的とは何だったのでしょうか。ご自身の言葉を借りれば、ユダヤ研究の最終目的は、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだすことにある、とされます。2013年に出版された『オルタナティブの歴史学』の座談会記録に残っている増谷さんの発言を使って説明すれば、どうやらそれは次のような意味なのでしょう。増谷さんは座談会の席上次のように述べています。

 一つ、自分の大きな研究方向は、ヨーロッパ自身がもっている極めてキリスト教的な社会のあぶりだしということにある。
 一つ、そして、この問題を最も深いところからあぶりだす上で、ユダヤというものが鍵になる。
 一つ、ユダヤを弾圧し続けていく歴史がキリスト教ヨーロッパの歴史であるわけだが、ヨーロッパというものを考えていくには、そうしたユダヤの側から見ていくことが非常に効果的である。

 この言葉の中にこそ、増谷史学の核心が端的に見て取れるのではないでしょうか。

 いずれにしても、編集者をして「なぜそんなにユダヤにこだわるのですか?」と言わしめるほど、増谷さんのユダヤへのこだわりは最後まで強いものでした。今回、この懇談会の直前に増谷さんのPC 内から未発表原稿「ホーエンエムスのユダヤ」が見つかりました。そこにはウィーンではなく、スイスと国境を接するオーストリア西部のフォアアールベルク州のユダヤの人びとと当地の反ユダヤ主義の歴史が、ホーエンエムスのユダヤ博物館が発行したカタログに依拠しつつまとめられていました。さらに、草稿には増谷さん独自の鋭い分析も併記されていました。ご家族のお話しによると、この3万字を超える草稿は、どうやら2015年の半年間におよぶウィーン滞在後に書かれ始めたようです。これまでに報告者が得た情報を整理してみると、この原稿は2011年に公刊された『図説 オーストリアの歴史』の増補改訂版追加コラム用の原稿として想定されたものだったようです。しかし、2023年に実現した増補改訂版には、増谷さんの体調悪化もあり、残念ながらこのコラムが掲載されることはありませんでした。つまり、体調が万全であれば、増谷史学の根幹をなすオーストリアのユダヤと反ユダヤ主義の研究は、考察の舞台をオーストリア東部の大都市ウィーンから西部地方の小都市へと移しつつ、さらなる理論的広がりと厚みを増していたのではないでしょうか。

 増谷さんの分析によれば、ウィーンの宮廷ユダヤとは異なり、ホーエンエムスのユダヤ住民は、その活発な経済活動を通じてアジアや新大陸とも通商関係を持っており、支配者から招請された17世紀初頭以来、当地の市民とは比較的良好な関係にあった、とされます。さらに、増谷さんはウィーンとの比較の中で、反ユダヤ思想の現れ方の違いについても以下を重要な差異として指摘します。

 「ユダヤに対する敵対的思想や運動の現れ方も、当然ながらウィーンおよび東方と異なる傾向を持つ。ウィーンという都市が社会歴史的に多民族都市として、特に東方のスラブ系ないしハンガリー、ルーマニアなどの諸『民族』との関係が強く、19世紀には彼らとの様々な問題を抱えていたことにより、ウィーンの住民の自己意識、他者認識は強く民族意識に支えられ、反ユダヤの発想や運動も明らかに民族主義的な色合いを持っていた。シェーネラーなどの運動が、ドイツ民族主義的傾向を持ち、ユダヤを民族主義的に位置づけ、さらには人種主義的に差別しようとする傾向が強くみられるのはある意味で必然とみられる。それに対し『ホーエンエムスのユダヤ』は住民との融合が進んでいた御蔭で、民族的ないし人種的に位置づけられることはすくなかったと考えられる。」

 つまり、この「ホーエンエムスのユダヤ」研究は、先ほど紹介した増谷さんのユダヤ研究の最終目的、ユダヤとキリスト教社会の「対抗と融合」をあぶりだす上で、これまでの研究ではあまり考察されることがなかった両者の「融合」の可能性を理解するための重要な素材を提供してくれるのではないでしょうか。こうした新たな研究の方向性が示されたにもかかわらず、道半ばでその可能性が閉ざされたことは本当に残念でなりません。

参考文献

増谷英樹「革命とアンティゼミティスムス ウィーン・一八四八年」『社会史研究』日本エディタースクール出版部1984所収
良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社1985
増谷英樹「世紀転換期のウィーン 都市社会構造の変化と文化」『感覚変容のディアレクティク』平凡社1992所収
増谷英樹『歴史のなかのウィーン』日本エディタースクール出版部1993
増谷英樹「大都市の成立 –一九世紀のウィーンと流入民」歴史学研究会編『講座世界史4  資本主義は人をどう変えてきたか』東京大学出版会1995所収
伊藤定良/増谷英樹編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会1998
ヘルバート・シュタイナー(増谷英樹訳・解説)『1848年ウィーンのマルクス』未来社1998
ヴォルフガング・ヴィッパーマン(訳者代表 増谷英樹)『ドイツ戦争責任論争』未来社1999
増谷英樹「アイヒマンの『ウィーン・モデル』」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第4号 2002所収
増谷英樹「ナチ支配下のオーストリアにおける強制労働」(東京外国語大学海外事情研究所『Quadrante』)第6号 2004所収
増谷英樹編『移民・難民・外国人労働者と多文化共生–日本とドイツ/歴史と現状』有志舎 2009
増谷英樹/古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011(2023増補改訂版)
増谷英樹/富永智津子/清水透『21世紀歴史学の創造6 オルタナティブの歴史学』有志舎 2013
ヘルムート・ラインアルター(増谷英樹/上村敏郎訳・解説)『フリーメイソンの歴史と思想 –「陰謀論」批判の本格的研究』三和書籍2015
増谷英樹『図説 ウィーンの歴史』河出書房新社2016
増谷英樹「『ユダヤ学生ジャーナリストの革命日記』を読む–新発見の一八四八年革命史料 –」『メトロポリタン史学』第16号2020所収
クラウス・バーデ編(増谷英樹/穐山洋子/東風谷太一監訳)『移民のヨーロッパ史 ドイツ・オーストリア・スイス』東京外国語大学出版会2021
増谷英樹「ホーエンエムスのユダヤ」2015?未発表草稿
Hanno Loewy (Hrsg.), Heimat Diaspora. Das Jüdische Museum Hohenems, Hohenems 2008

(「世界史の眼」No.60)

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