はじめに
40億年前の地球上における生命の誕生から今日までの歴史といったような、気が遠くなるような歴史を取り扱う「ビッグ・ヒストリー」が話題になっている。しかし、そうなると、生物界の進化と人間社会の歴史とを共に視野に入れた極めて長い射程と広い視野を持つ歴史観が求められることになるであろう。
生物界の進化と人間社会の歴史をひとつながりのものとしようとする考え方は、19世紀半ば頃から、さまざまな形で現れた。それはダーウィン以前の進化の思想、例えばチェンバース『創造の自然史の痕跡』(Robert Chambers, Vestiges of the Natural History of Creation, 1844)などに既に見られるものであり、ダーウィン『種の起源』(1859年)の刊行がそれに拍車をかけた。
しかし、このような考え方には、危険な落とし穴が潜んでいる。ダーウィンの「自然選択」natural selectionという生物学的概念に対応するものとして、「最適者生存」survival of the fittestという社会学的概念を提唱したスペンサー(Herbert Spencer)の「社会進化論」は、その後、人種差別を合理化する機能を果たすことになった。19世紀末葉以降に現れた種々の優生思想は、進化に名を借りて、人種差別のみならず障碍者差別などさまざまな差別を正当化するものとなった。
このような落とし穴に陥ることなく、生物界の進化と人間社会の歴史をひとつの包括的な展望において捉える方法はないのであろうか。ここでは、それをダーウィンとマルクス・エンゲルスとの関係の中に探っていきたいと思う。といっても、マルクスとエンゲルス、特にエンゲルスがダーウィンの進化論を自己の学説に何とか取り込もうとしたという一方通行的な関係で、ダーウィンの方はマルクスやエンゲルスの学説に何の関心も持たなかったのであるが。富裕なジェントルマンであるダーウィンの世界には、「亡命革命家」マルクスやエンゲルス商会の「商人」エンゲルスの入る余地はなかったのである。
1 ダーウィン『種の起源』の衝撃
1850年代から60年代にかけて、マルクスのロンドンの家にしょっちゅう出入りしていたドイツ人亡命者ヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)はダーウィンに関わる思い出を次のように書いている(引用文中の〔 〕は引用者による補足。以下同様)。
マルクスはダーウィンの研究の重要性を最初に認めた人々のうちの一人であった。『種の起源』が出版された1859年―この年は偶然にもマルクスの『経済学批判』が出版された年でもあった―以前に既に、マルクスはダーウィンの画期的な重要性を認識していた〔後略〕。
マルクスは、特に、物理と化学を含む自然科学と歴史学の分野において、新たに出現してくるすべてのものを注意深くフォローしており、〔それらの分野における〕あらゆる進歩を確認していた。〔中略〕ダーウィンが彼の研究の結論を出し、それを〔『種の起源』として〕世に問うたとき、私たちは何か月ものあいだ、ダーウィンと彼の科学的な成果の革命的な重要性以外には何も話さなかった。1
このリープクネヒトの思い出に見られるように、マルクスは一時期いわばダーウィンに夢中になっていたし、エンゲルスの方はダーウィンに生涯多大な関心を持ちつづけていた。そこで、後論のために、これら三者に関する略年譜を以下に掲げておく。
1809年 ダーウィン生。父は富裕な医師で投資家。母はウエッジウッド家の出。
1818年 マルクス生。父はキリスト教に改宗したユダヤ人弁護士。
1820年 エンゲルス生。父はドイツの紡績工場主で、エンゲルス商会を設立。
1831年12月 ダーウィン、ビーグル号に私費で乗船し、調査航海に出発。
1836年10月 ビーグル号、帰還。
1839年 ダーウィン、『ビーグル号航海記』刊行。
1859年
6月11日 マルクス、『経済学批判』刊行(Berlin: Franz Duncker. 1000部)。
11月22日 ダーウィン、『種の起源』刊行。Charles Darwin, On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, London: John Murray, 1859.(初版1250部、1860年第2版3000部、1861年第3版2000部、1866年第4版1500部、1869年第5版2000部、1872年第6版3000部、その後増刷、1876年最終版)
1867年 マルクス、『資本論』第1巻刊行(Hamburg: Otto Meissner.初版1000部)。
1873年 マルクス、『資本論』第1巻第2版をダーウィンに献本(「心からの崇拝者カール・マルクス」という署名付)。ダーウィン、礼状を10月1日付で送る(これが両者の間の唯一の直接的交渉である)。
1882年 ダーウィン死去。
1883年 マルクス死去。
1895年 エンゲルス死去。
2 「目的論的自然観」の打破
『ビーグル号航海記』で、ダーウィンの名前は既によく知られていたからであろう、『種の起源』が出版されると、エンゲルスは早速読んで、次のような感想をマルクスに書き送った(エンゲルスからマルクスへの手紙。1859年12月11日か12日)。
ところで、いまちょうどダーウィンを読んでいるが、これはなかなかたいしたものだ。「目的論」はこれまである一面にたいしてまだうちこわされていなかったが、これがいまなしとげられた。そのために、自然における史的発展を立証するという、これまでにないほど壮大な試みが行われたのだが、またそのような試みがこれほど成功している例もまたとない。2
マルクスの方は、このエンゲルスの手紙の約一年後になって『種の起源』を読み、エンゲルス宛に次のように書き送っている(マルクスからエンゲルスへの手紙。1860年12月19日付)。
僕の試練期間――最近の四週間――に僕はいろいろのものを読んだ。なかでもダーウィンの「自然選択」にかんする本。これは、大ざっぱに英語で述べられたものだとはいえ、我々の見解のための博物学的な基礎を含んでいる本だ。3
マルクスはこのすぐ後にも、ラサール(Ferdinand Lassalle, 1825-64)宛の手紙(1861年1月16日付)に同じような感想を書いている。
ダーウィンの著作はすばらしいものだ。これは歴史的な階級闘争の、自然科学的基礎として僕の気にいっている。〔中略〕ここではじめて、自然科学のなかの「目的論」が、致命的な打撃を受けただけではなく、その合理的な意義を経験的に分析されたのだ。4
これらの手紙から、マルクスとエンゲルスがダーウィンの学問的貢献としてもっとも高く評価したのが「目的論〔teleology〕的自然観」に最終的な打撃を与えたという点であったことが分かる。「目的論的自然観」とは、自然界のすべての現象にはあらかじめ目的が与えられているとみなす自然観であるが、これを逆転させると、すべての自然現象に目的を与えることのできるのは神しかいないから、神は存在するということになる。こうして、神の「デザイン」による「天地創造」が弁証され、あらゆる生物は「創造」されたときの姿のままに、今日なお存在するというキリスト教学的生物観が生まれる。
このような「目的論的自然観」に対する批判として、18世紀後半になると、ラマルク(Jean-Baptiste de Monet Lamarck, 1744-1829)らによりさまざまな進化の学説が出されるようになったが、ダーウィンの進化論はそのいわば総仕上げのような位置にあった。それで、マルクスとエンゲルスはダーウィンの『種の起源』によって「目的論」は「致命的な打撃を受けた」と評価したのである。自然界にしろ、人間の社会にしろ、絶えず変化し、弁証法的な展開を遂げてきたとする立場に立つマルクスとエンゲルスは、ダーウィンが「自然における史的発展」を証明したことによって、自分たちの学説(史的唯物論)に自然科学的根拠が与えられたとして歓迎したのである。
3 「自然における史的発展」と人間社会の歴史
エンゲルスは『反デューリング論』(1876-1878年に雑誌に分載後、1878年に刊行)を書いた後、その一部を抜粋した一般向け「入門書」として『空想から科学への社会主義の発展』を書いた(『反デューリング論』の序説・総論、第3篇第1 章、第2章を抜き出し若干の手入れをして、独立の小冊子としたもので、1880年に作成)。さらに、それらと同時進行的に、未刊に終わった草稿「自然の弁証法」の執筆を断続的に続けていた(1873-1882年)。これら三つの作品において、エンゲルスはしばしばダーウィンに言及している。
『反デューリング論』では、エンゲルスは次のようにのべている。
個々の資本家のあいだでも、また全体としての産業と産業、国と国のあいだでも、自然的または人為的な生産諸条件が有利であるかないかが、生死を決定する。敗れたものは容赦なく駆逐される。これは、ダーウィンのいう個体間の生存闘争が、幾層倍にも狂暴なものとなって自然から社会に移されたものである。動物の自然のままの立場が人間の発展の頂点に現われる。5
ここでは、エンゲルスは資本主義世界を、国籍を持たないインターナショナルな階級としての資本家と労働者が直接的に戦いあう世界としてではなく、資本家同士や諸産業間において激しい「生存闘争」が行われるだけではなく、さらには国家に統合された資本家階級・労働者階級が一体となって、他国の資本家階級・労働者階級と生死をかけて戦いあう世界として捉えている。資本主義世界は「ダーウィンのいう個体間の生存闘争が、幾層倍にも狂暴なものとなって自然から社会に移された」世界であり、そこでは「自然的または人為的な生産諸条件が有利であるかないかが、生死を決定する」というわけである。
このような観点から、エンゲルスは、「自然における史的発展」と人間社会の歴史を同じ「弁証法的運動法則」によって捉えることができるのではないかという課題意識を発展させた。エンゲルスは『空想から科学への社会主義の発展』の中で、次のようにのべている。
自然は弁証法の試金石である。そして、近代の自然科学は〔中略〕、自然ではけっきょくすべてが形而上学的ではなく、弁証法的におこなわれているということ、自然は永遠に一様な、たえず繰りかえされる循環運動をしているのではなく、ほんとうの歴史を経過しているのだということを証明した、とわれわれは言わなければならない。この点ではだれよりもさきにダーウィンの名をあげなければならない。彼は、今日の生物界の全体が、植物も動物も、従ってまた人間も、幾百万年にわたっておこなわれた発展過程の産物であるということを証明することによって、形而上学的な自然観に最も強力な打撃を与えたのである。6
エンゲルスが長期にわたって「自然の弁証法」を書き続けていたのは、このような観点からであった。「自然の弁証法」中の「弁証法」という項目(1879年9月執筆)で、エンゲルスは次のように書いている。
要するに、自然および人間社会の歴史から、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これは、まさに、歴史的発展のこの二つの局面の、ならびに、思考そのものの、最も一般的な諸法則にほかならないのである。詳しく言うと、実質的には次の三つの法則に帰着する:
量の質への急転またその逆の急転という法則、
対立物の相互浸透という法則、
否定の否定という法則。7
しかし、「弁証法」の後の方では、エンゲルスは次のように一定の留保をつけている。
生物学においても人間社会の歴史においてもこの同じ法則〔量の質への急転またその逆の急転という法則〕は一歩ごとに確証されているが、我々は、ここでは精密(自然)諸科学からとってきた例証にとどまろう。ここでは諸量が厳密に測定でき追跡できるからである。8
ここでは、さしあたりただ生命のない物体についてだけ述べることにする。生命のある物体についても同じ法則〔量の質への急転またその逆の急転という法則〕が当てはまるのであるが、この場合その法則は非常に複雑な諸条件のもとに置かれていて、定量的測定がこんにちでもなおわれわれにできない場合が多い〔からである〕。9
エンゲルスは、自然界においても人間社会の歴史においても同じ弁証法的運動法則が働いていると考えていたのだが、「弁証法」を書いた時点では、その例証を「生命のない物体」に限らざるをえなかったのである。
『反デューリング論』第2 版(1885 年)「序」では、エンゲルスは次のように書いている。
私にとって肝心なことは、いうまでもなく、歴史において諸事件の外見上の偶然をつうじて支配している弁証法的運動法則と同じものが、自然のうちでも、無数のもつれあった変化をつうじて自己を貫徹しているということを〔中略〕個々の点についても確かめることであった。10
この時点(1885年)になっても、エンゲルスは、自然界においても人間社会の歴史においても同じ弁証法的運動法則が貫徹しているということを「個々の点についても確かめること」ができていなかったのである。
1895年、エンゲルスは、結局、その壮図を実現することなくこの世を去った。
おわりに
日本におけるダーウィン研究の第一人者、松永俊男は次のようにいっている。
進化論から特定の立場の社会思想が必然的に導かれるということはない。生物学に基づく人間論や社会論は、しばしば大きな過ちを犯す。生物進化論と社会思想は厳しく区別すべきである。11
スペンサー以後の「社会ダーウィニズム」が果たした否定的役割を想起するとき、この指摘は正鵠を射ている。しかし、それでは、エンゲルスが「自然の弁証法」などで試みたこともまた同じように否定されるべきものなのであろうか。「ビッグ・ヒストリー」が喧伝される今日、生物界の進化と人間社会の歴史との関係については、改めて検討する必要があるのではないかと思う。
注
(「世界史の眼」No.2)