はじめに
坂本多加雄は『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』(以下、『天皇論』とする)で、「国家の来歴」という言葉を用いて、明治維新以降の日本近代国家の歴史を意味づけようとした。端的にいえば、いわゆる「東京裁判史観」批判の文脈で、日本近代国家のあり方を意味づけようとしたのである。アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)における日本の敗北(1945年)の後、日本のA級戦犯たちが裁かれた「極東国際軍事裁判」(いわゆる「東京裁判」)は日本近代史の見方を歪め、「東京裁判史観」ともいうべき偏向した歴史観を生み出した、と批判する風潮が1990年代からとみに強まってきた。西尾幹二と藤岡信勝を中心として1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」はその一つの現れである。坂本の主張も、基本的には、このような風潮に沿うものということができるであろうが、その中では最もまともなものであろう。
1 「人の来歴」
坂本は、「国家の来歴」について語る前提として、「人の来歴」について語っている。「国家の来歴」を「人の来歴」とのアナロジーで説明するためである。
この「人の来歴」と歴史研究(伝記的研究)との相違について、坂本は次のようにいっている。
ここでは、物語すなわち来歴を、当人が自己自身について語るものを指し、歴史については、対象となる人物やその周辺に生じた様々な出来事の相互の関係について、当人が認知していなかった要素をも考慮に入れた、厳密な因果関係の解明を目指すものを指すことにしよう。(『天皇論』28頁)
そのうえで、「人の来歴」、すなわち「当人が自己自身について語るもの」にかんしては、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はないであろう。〔中略〕何よりも、本人が納得して語り、それを聞いた周りの者も、一人の人間の中で起こり得たこととして受け容れるような『筋』があればよいのである」(『天皇論』19頁)、とする。
ある人の「来歴」とは、その人が自分の過去を振り返って、自分が今ある所にどのようにしてたどり着いたかを、ある「筋」をもって語った「物語」というわけである。そして、その「筋」はその人の将来の生き方の方向をも指し示すものとされる。
坂本は、このようなものとしての「人の来歴」にとって、歴史研究は「極めて重要な貢献をする」として、次のようにいう。
ひとつには、まず、歴史研究は〔その人の〕来歴が言及する個々の事実の実在性を確証することで、その「真実性」を高める。次に、それは、来歴の「筋」の理解に奥行きを与える。〔中略〕すなわち、われわれの来歴の理解は、その来歴自身は触れていない様々な背景を歴史研究によって補われることで、より充実したものになるのである。また、来歴は、このように外からの歴史的な説明の補足を受けるまでもなく、自らの筋のなかに、適切な歴史的説明を様々に織り込むことで、その「信頼性」を高めることが出来るのである。(『天皇論』33‐34頁)
「人の来歴」は、自分にとって都合のいい歴史研究の成果を取り込むことによって、「真実性」と「信頼性」を高め、補強されるというわけである。しかし、歴史研究から作用を受けて「来歴」に変化が生まれるということはない。「人の来歴」は、自分にとって都合の悪い歴史研究の成果を取り込むことはしないからである。したがって、ある人の「来歴」が変わるとしたならば、それはその当人が違う「来歴」(物語)を自分にとってより好ましいものとして受け容れた時だけであろう。
2 「国家の来歴」
坂本は、このようなものとしての「人の来歴」と「国家の来歴」とを同じ文脈に置こうとする。坂本のもう一つの著書に、『日本は自らの来歴を語りうるか』というのがある。この「日本」を「国家」に置き換えれば、「国家は自らの来歴を語りうるか」ということになるわけだが、国家(日本)が自分自身について自ら語りうるわけはもちろんない。したがって、「国家の来歴」というのは、坂本なり誰かが国家の名において語ったものということでしかない。その点で、個としての人間が自らについて語る「人の来歴」と「国家の来歴」とは本質的に異なるのだが、坂本は両者の共通性の方を強調して、次のようにいっている。
来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。(『天皇論』242-243頁)
こうして、「人の来歴」と「国家の来歴」を共通項でくくれば、「国家の来歴」にも、「人の来歴」と同様に、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はない」ということになる。
坂本は、「来歴」という概念を、先の戦争中に「大東亜共栄圏」のイデオローグとして「活躍」した京都学派、特に高山岩男の「系譜」という概念からヒントを得て構想したようで、この「系譜」について、次のようにいっている。京都学派の企図した「世界史の哲学」にとって、「現在と過去の双方に対して、単なる歴史研究とは異なった特有の考察の方法」が必要であった。こうした考察の方法の根底にあるのは「創造的構想力」であり、それに導かれて歴史を再構成したのが「系譜」である(『日本は自らの来歴を語りうるか』228頁)、と。そのうえで、坂本は次のようにいう。
そもそも不確実な未来に向けてわれわれの来歴を確認しようとする場合には、実証主義的な考察と並んで、「京都学派」が掲げたような「創造的構想力」に立脚する考察もまた必要とされるのではないだろうか。(『日本は自らの来歴を語りうるか』237頁)
坂本のいう「われわれの来歴」、すなわち近代日本の「国家の来歴」とは、それを語る人間が自らの「実証主義的な考察」から導き出した(帰納した)ものではなく、それとはまったく別に、「創造的構想力」によって構想したものだということである。過去から現在に続く歴史の流れの先に、未来を展望しようとするのが実証主義的歴史学の立場であるが、それだけでは「不確実な未来」を見通すことはできない。それとは、次元の異なる「創造的構想力」によって、未来を透視することが必要だというわけである。したがって、この「創造的構想力」とは何かということが問題になるが、この点について、坂本は十分な説明をしていない。
3 歴史と「来歴」はどこが、どう違うのか?
前にも引用したが、坂本は次のようにいっている。「来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有する」。しかし、このことは、「来歴」だけではなく、実証的歴史研究に依拠して書かれた歴史にもあてはまる。書かれた歴史というものは、「過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づける」ことによって成り立つものだからである。その意味で、クローチェが言うように、すべての歴史は「現代史」なのである(カー『歴史とは何か』24‐25頁)。それでは、このようなものとしての歴史と、坂本のいう「来歴」とはどこが、どう違うのであろうか。
書かれたものとしての歴史は、実証的歴史研究が進展して、新しい歴史的事実が発見されたり、時代の流れと共に、新しい「歴史の見方」が生まれたりすれば、それにともなって、変化し、多様化していく。逆に、歴史の書き方が変化し、多様化していけば、そのことが実証的歴史研究の方向を多様化したり、新たな「歴史の見方」を生み出したりすることにもなる。このように、実証的歴史研究と「歴史の見方」と書かれたものとしての歴史は、それらの間の相互作用を通して、つねに変化し、新しくなっていくものなのである。
しかし、「来歴」の場合はそうではない。前にも指摘したように、「来歴」は歴史研究の成果を取り入れて、自己を補強することはあっても、歴史研究から作用を受けて変化するということはない。「来歴」は歴史研究からは独立した、まったく別個の「創造的構想力」によって構想されたものだからである。この「創造的構想力」は、もっとも広い意味では、一つの「歴史の見方」といえるであろうが、それが実証的歴史研究との間に相互作用をもたないという点で、あるべき「歴史の見方」とは異なる。「歴史の見方」は、実証的歴史研究によって、つねに再検証され、変化していくべきものだからである。
以上の点において、「実証的歴史研究―「歴史の見方」―書かれた歴史」という関係と、「実証的歴史研究―創造的構想力―来歴」という関係は、相互にまったく異質のものということができる。
おわりに
「東京裁判史観」批判を旗印とする人たちの多くが、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったとか、南京大虐殺は虚構であるとか、実証的歴史研究の成果を頭から全面的に否定するのとは異なり、坂本多加雄は実証的歴史研究と「共存」し、その成果を利用しようとする。坂本によれば、「国家」(具体的には日本近代国家)はそれに固有の「来歴」(自分自身の物語)を持つのであり、「来歴」は歴史とは異質なものであるが、実証的歴史研究の成果に依拠することによって「真実性」や「信頼性」を高めることができるというわけである。
坂本のいう「国家の来歴」というのは、一種の構築主義的「国家論」ということができるであろう。その点では、今日の思想状況に即応しているのであり、頭から無視したり、「非科学的」などと言って排斥したりするわけにはいかないものだと思う。
参考文献
カー、E. H.(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。
坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房、1994年。
坂本多加雄『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』文春学芸ライブラリー、2014年(『象徴天皇制度と日本の来歴』都市出版、1995年、を改題して、再刊)。
(「世界史の眼」No.4)