4. 「測機舎」
玉屋商店に「23か条」の要求を拒否されたのち、3月18日、細川善治、三上綱男、松崎茂雄らと志を同じくする者13人は「宣誓書」を作成した。それは、今なお因習の久しき資本家が「労務者を蔑視し人格を認めない」のは頗る遺憾であるとし、自分たちは永く資本家に酷使されてきたが、ここに「独立自営を画策」し、「資本主義を排し純然たる労務者主義を樹て、最後の勝利を収めんことを期し、鞏固なる団体を作る」ことにしたと述べていた。こういう団体は、「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」であるので、自分たちは決死の覚悟であると断言していた。「宣誓書」に署名したのは、細川善治、三上綱男、松崎茂雄ら優れた技術者たち11人で、その他に鹿子木直ら見習い2人が加わっていた(松子『測機舎を語る』42-44頁;鹿子木『いのちの軌跡』76-77頁)。これはいわば血判書であった。松子はのちにこれを「互いの血を以て結び、肉を以て綴った誓約書」であるとしたうえで、「資本主義工場の圧迫と搾取とに目覚めたる新進気鋭の労働者の一団が、真と義を求めて進み出た生々しい労働者階級解放の第一声」なのだと言っている(松子『測機舎を語る』44頁、51-52頁)。「宣誓書」作成時には、細川らは西川の家に出入りしていたようであるから、ひょっとして、松子を通して、社会主義の「吐息」が吹き込まれていたのかもしれない。「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」という認識は他からは入ってきそうもないからである。
そのうえで、13人は、新工場の「統帥者」として末三に参加を要請した。3月21日に「推戴書」を作成して、末三に渡し、「貴殿を新設工場の統帥者として推戴」すると表明した(松子『測機舎を語る』45-46頁)。末三は迷った。だが、兄弟や友人からの強い反対があったにもかかわらず、結局末三はこれを受けいれた。末三は、「森林の経営も向上の経営も根本においては一つである」との信念の上に、台湾での「地方人との折り合いの良かった実績」と「7年半の窮乏生活」があるから、何とかやっていけると考えたようである(松子『測機舎を語る』12-13頁;45-47頁;鹿子木『いのちの軌跡』75頁によれば、松子の強い後押しがあったようである)。
早速、末三を含めて同志14人が、出資しあって資金を作った。西川(1480円)、細川(276円80銭)、三上(250円)、松崎茂雄(300円)、以下、150円や100円や60円や20円で、合計3086円80銭であった。組合員たちは玉屋時代には労働者であったから、貯えもなく、皆は財布の底をはたいて出資したのであった。もちろんこれでは、測機舎の建物や機械設備の購入には不足したから、西川の親戚の太宰銀行から1万円の融資を受けた(鹿子木『いのちの軌跡』78-79頁;松子『測機舎を語る』47-48頁は出資金合計1700円というが、間違いか)。この資金によって、港区麻布笄町(こうがいちょう)に48坪ほどの工場兼住宅を買い求めた。2月以降、4月に至るまで、すべての準備は、13人が玉屋に籍を置きながら進めた秘密の工作であった。末三が関与していることも、秘密のことであった(松子『測機舎を語る』12-13頁;49-51頁)。
こういうひそかな準備が進められて、4月16日、ついに測量機械の製造販売をする組合組織「測機舎」が生まれた。5月には、末三が入舎することが発表された(松子『測機舎を語る』75-78頁)。この測機舎は一般の会社とは異なり、資本主義と労使関係を否定して、労働者生産者協同組合という形をとった。1920年6月に定められた「規約」の要点を整理するならば、以下のようになる。
- 「本組合は、労務出資者をもって組織する」が、「必要ある場合には金銭出資者を加うる」ことができる。
- 金銭出資は一口の金額を10円とし、主体となる労務出資は「一事業期の出勤日数を160日」として一人平均800口とする。労務出資口数と金銭出資口数を合わせて総出資口数とする。
- 労務出資者は一定の技術を持った成年とされる。労務出資者は五口以上の金銭出資を持つこととされる。
- 金銭出資には、年7%の利息が払われる。労務出資者には毎月給料が払われるほか、労務出資口数に応じて、剰余金の配当が払われる。
- 金銭出資者の資格は審査され、金銭出資口数は総口数の5分の1に制限される。
- 各事業期の収入から支出を引いた利益金からさらに固定資本の償却や繰越金などを引いた純利益金は、出資の口数に応じて、配当として配分する。
- 組合の経営の責任者は総会で選ばれる理事5人で、うち1人が互選で理事長となる。
- 総会の議決には労務出資者および金銭出資者のうち、500口以上を持つものに等しく一票が与えられる。
(規約の全文は松子『測機舎を語る』55-64頁)
この規約は、民法の「組合」の規定(第667条~第688条)にそって作られていた(樋口『労働資本』47-48頁)。だが、民法は、労働出資と金銭出資の相互関係については規定していなかった。測機舎の規約のポイントは、労働の出資を柱としながらも、労働と資本の出資を等しく認めていることである。そうすると、金銭出資と労務出資の口数の計算の仕方が決められていなければならない。金銭出資に対しては、年率7%の利息が払われるほか、年間の純利益から12%の配当が払われることになっていた。労務出資については、毎月の給料のほか、年間の純利益から給料4か月分の配当が支払われることになっていた。こういう条件の下で、労務出資の口数をどう決めるか。労務出資の場合、年間の給料額を平均1200円としているから4か月分の給料は400円で、総額1600円。これが金銭出資の場合の7%プラス12%、計19%に相当すると考えると、1600円を0.19で資本還元して、8400円余り。これにいくらかの調整をかけて労務出資額を8000円とする。一口が10口だから、労務出資口数は800口ということになる。これが2に出てくる数字である。数字はさておいても、この「規約」は資本の機能を抑え、労働する者の価値を活かす論理をしっかりと持っていたのである。
最初の理事5人は、西川末三のほかに誰であったか、明確には分からないが、おそらく細川善治、三上綱男、松崎茂雄の3人は入っていたと考えられる。理事長は西川が選任された。こうして測機舎は船出をした。
松子によれば、これは、工場労働者自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合であった。搾取者も被搾取者もない組織であった。このような組織を松子はさらに次のように特徴づけている。
「工場建築物やその他工作機械、製品あるいは諸般の設備に至るまですべて、何人の独占でなく、測機舎の事業に従事せる組合員全体の共有物であります。それゆえ組合全員はおのれの工場建築物の中において、おのれの仕事に従事するのであります。従業中監督せらるべき要もなければ、また監督すべき人もおりません。ただ従業員各自が各責任を負うて自らを治め、おのが工場を守って行くのであります」(松子『測機舎を語る』53-54頁)。
これは玉屋との労使関係の教訓を生かしたもので、「労働者統制」的な理念をさらに超えた「生産組合」の理念を体現していたわけである。これは日本最初の生産組合といわれている。こういう労働者生産協同組合方式は、20世紀初めのヨーロッパではかなり広がっていたようである(樋口『労働資本』45頁)が、日本ではこの測機舎が最初で、その後1930年ごろにいくつもできることになる(松子『測機舎を語る』55頁)。それにしても、労働者生産協同組合という理念はどこで学んだものだろうか。
この測機舎の組織理念は、「ロバート・オーエン」に学んだものであると、のちに松子は述べている。
「その往時ロバート・オーエンが労働階級の向上と幸福のために労働問題の理想を掲げて世界の労働界に一大警鐘を与えましたが、百年後の今日祖国フランス(=イギリスの誤り)を遠く離れた極東の日本においてわが測機舎が労務出資の生産組合として生まれ、・・・欧米諸国にもその比を見ざる好業績を挙げているとは、地下に眠れる氏の霊はいかばかりか満足するでしょう」(松子『測機舎を語る』 73-74頁)。
測機舎の経営理念には、松子の思想が大きく反映していたといわれる。のちに鹿子木はこう述べている。「彼女(松子)は社会主義や女性解放運動の実践から遠ざかったが、労働者階級への親近感と同情まで捨てたわけではなかった。測機舎が組合組織で労務出資者をもって組織するという旗を掲げたとき、夢の一端が実現するという喜びがあったのではないか」(鹿子木『いのちの軌跡』103頁)。
では、松子にせよ末三にせよ、いつどのようにして「ロバート・オーエン」の思想と実践を学んだのだろうか。ここで「 」を付けたが、上の引用で松子はロバート・オーエンの「祖国フランス」と言っていることに関係がある。これは単なる間違いなのか。それとも、フランスの社会主義者の影響もあったから「祖国フランス」が出たのではなかろうか。そういう疑問がある。ともかく、松子の思想の源泉を探らなければならない。
(続く)
参考文献
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年
(「世界史の眼」No.8)