6.「測機舎村」-日本のニュー・ラナーク
では、発足後の測機舎の実際の動きを見てみよう。当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、それを前代未聞の工場組織によって実現しようという理想を掲げて測機舎は生まれたのであるが、当初は生みの苦しみを味わうことになった。
港区麻布笄町の48坪ほどの土地にある工場兼住宅で新生の測機舎が動き始めた。階下の14坪の工場に機械室から火造室までが設けられ、二階は時によって事務室、会議室、製図室、あるいは寄宿舎となった。いずれも優れた技術者であった細川、三上、松崎らは狭い工場で創意を発揮して制作に取り掛かった。ただ一人の非技術者であった末三は事務と外交をすべて引き受けた。また、夫人たちは昼の弁当作りに立ち働いた(松子『測機舎を語る』96-99頁)。
あいにく、1920年に測機舎が発足してすぐにこの春には戦後不況が襲ってきた。理想の高い新しい組織がスタートし、高い技術力をほこる製品ができても、新興の工場の製品を買ってくれる市場もなく、苦しい立ちあがりであった。末三は測量機を担いで、売り込みに歩き回った。それでも初年は製品は売れず、機械の修理代がいくらか入っただけだった。組合員に給料は支払われることになってはいたが、実際にそこから支給を受ける人は少なく、みなが測機舎のために資金を残した。したがって、組合員たちの生活は苦しかった(松子『測機舎を語る』81頁;鹿子木『いのちの軌跡』82-86、88頁)。
融資を受けるはずの太宰銀行は倒産してしまった(鹿子木『いのちの軌跡』88頁)。松子は金策に走り回った。松子は、「借金苦」であったと、金策の苦しさを吐露している(松子『測機舎を語る』111-122頁)。1920年の測機舎の様子について、鹿子木は、松子の『語る』(96-99)をも基礎にしつつ、こう回想していた。
「松子夫人の金策の苦労は続き、末三氏は一人で外交から事務員、小使いまで兼任し、便所の汲み取り口の修繕までやってのけた。重たい機械や資材を組合員と市電に持ち込んだり、手車で運んだり。私たちも組合員としての誓約を守り、月に5円か10円の生活費でも文句ひとつ言わず夢中で働いた」(鹿子木『いのちの軌跡』109頁)。
この時期のことと思われるが、松子はこう語っている。「数年来専念してきたロシア文学研究もその他あらゆる私の趣味或いは欲望を抛って、測機舎の擁立――測機舎の目的貫徹のために腐心したのであります。而して常に泰然自若として従容迫らざる西川の後に従いて焦燥しながら、ある時は資金の調達に、ある時は販路の開拓に狂奔したのであります。「あんたのやうに気ばかり焦燥っても事業の大成は出来ぬ」と、西川はいつも落着いて私に忠告するのでありました。しかし騎虎の如き私の心は測機舎の危機に直面して、西川の云うが如く泰然自若としては居られませんでした。私は自分の力の及ぶ限りあらゆるチャンスを捕らえて測機舎の進歩発展に資せんとしました」(松子『測機舎を語る』143頁)。松子は自分の家の中の改革も断行し、節約にこれ務め、幼子たちに泣かれるほどであった。
1921、22年はおそらく「地獄」の日々であったことであろう。これが耐えられたのは、測機舎が同志的な結合に支えられた組合組織であったからであろう。舎員全員の頑張りにより、しだいにいくつか注文が入り、借金もすることが出来るようになった。そして、14坪の工場ではあまりにも狭いので、1921年には測機舎は渋谷区猿楽町(天狗山)に移転し、いくらか広い工場になった。しかし、1922年の8月には、測機舎の創立に多大な貢献をした細川善治が2年の闘病生活の末、36歳で死去した(鹿子木『いのちの軌跡』110-111頁)。
そこへ、1923年9月に関東大震災が襲ったのである。猿楽町の工場は無事であった。この大震災は測機舎には幸いし、「飛躍の契機」となった。東京市内では測量機メーカーはほとんど壊滅したが、測機舎は被害を免れた。しかも生産が軌道に乗り始めていたので測量機のストックは豊富にあった。したがって震災後の復興に際して測量機械の需要が激増すると、注文が殺到した。この際、末三は、価格を吊り上げたりせず、被災地の需要家には逆に一割の値下げをして「お見舞いの徴意」とした(松子『測機舎を語る』138-139頁)。「こうした正直さ、誠実さが、西川社長夫妻以下の我々が団結を保つ原動力となった」と鹿子木は回顧している(鹿子木『いのちの軌跡』120-123頁)。
このあと、こうした誠実な経営・営業と優れた技術によって測機舎は大きく成長していった。猿楽の工場も手狭になったので、1925年には、世田谷区三宿に新工場を建てて移転した。三宿では、670坪の敷地があり、地下一階、地上二階建ての鉄筋コンクリートの工場ができた。二階は娯楽室、集会場となっていた(鹿子木『いのちの軌跡』126頁)。ここで測機舎は業績を拡大し、全国的な測量機メーカーとなっていくのである。
『東洋経済新報』は、こうした測機舎の動きに注目した記事を載せた。1926年8月21日の同紙は、「生産組合『測機舎』の発展と其悩み」という記事を載せ、その成立から始めて現在の成功を紹介し、その独特の組織を特筆した。記事は、舎が資本家によってではなく、工場労務者自身が管理・経営する生産組合であることを詳細に説明し、その成立からの歴史を追って、西川末三の手腕を高く評価し、また舎の技術力の高さを評価して、現在の業績が目覚ましいものがあると称賛した。ただし、記事は、舎はいつまでこの組合組織を維持できるのか、将来的には、株式会社などの組織に変更せざるを得なくなるのではないかと危惧していた。これは優れた記事であった。
さて、1929年10月に始まる世界恐慌は、日本をも襲い、測機舎も一時は緊縮に努め、末三はいち早く手を打って、組合員の月給を5%削減したりした。しかし、他の経済界に比べれば被害は軽微であったし、すでにかなりの内部留保金も持っていた(鹿子木『いのちの軌跡』146-147頁)。1931年には業績は回復していた。この時期、『大阪朝日新聞』(1931年12月30日号)は測機舎について、次のように報道していた。
≪不景気をよそに栄ゆる我等の「工場」-協力の実は結ぶ、ボーナス三十五割、我国最古の従業員管理工場、東京世田ヶ谷の測機舎≫
「従業員が協力して経営する共同管理の工場で、不景気なこの歳末に平均三十五、六割のボーナスを分配したという耳よりな話—一般工場界が火の消えたような不振に四苦八苦している折柄、この羨ましい好話題を生んだ工場は、全国で最古の管理工場として知られている東京市世田ヶ谷町三宿の測機舎だ。」
「工場の組織は出資組合員二十五名、准組合員十七名が中堅となり、各自一切の責任を分担して、「我々の工場を盛り立てろ」との意気込みで健闘している、工場創立以来功労のある従業員は理事長西川末三氏を始め九人で、一万円以上二万円の出資者が八人、組合員が分配する毎月の給料は平均百十円内外、ほかの工場では見られない素晴らしい待遇に恵まれている、各組合員の共有となっている現在の工場資産は三十万円に達し、この外十一万円の純益積立金があるという状態だ。」
つまり、組合組織の利点が見事に発揮されているというのである。しかも新聞はこう続けている。
「一昨年以来従業員の工場共同管理が滅切り殖え、全国に三十余を算えるに至ったが、東京では星協力組合、中島鋳工場、五木田の丸一木工、砂町奥村などの各製材所があり、神奈川県鶴見にも吉野製材所があり、何れも昭和四年以来の経営でまだ創業時代にあるため、測機舎の如く好成績を挙げていないが、比較的好調をたどって「我々の工場」を盛り立てている。」
先駆的な測機舎に続いて、生産協同組合方式の企業が日本で次々と生まれていたことがわかる。中島鋳工場というのは、中島製鋼所(1930年1月創立)のことであろう。
そして、1932年からの高橋是清の財政政策により、緊急の公共土木事業が開始されると、測機舎はその独特の組織のゆえもあって、急速に回復した(鹿子木『いのちの軌跡』148頁)。1934年ごろには、1500坪の敷地と400坪の建物、分工場を加えて、百数十人の従業員を有する「日本第一等の測量機械工場」になった(松子『測機舎を語る』160頁)。
測機舎の新しい三宿の工場は、青山、渋谷から通じる大山街道から北へ上ったところで、三宿神社の先の、小高い丘の上にあった。その測機舎を中心に従業員の住宅が次々と新築された。当時としてはスマートな家がたくさん建ったので、地元の人はこれを「測機舎村」と呼び、先の『東洋経済新報』は「新しい村」と呼んだ。いずれも「敷地百坪内外、建坪三十坪前後」といった「至極好適な住宅」であった。「いはば測機舎という労働団体を中心とした一瞬美しい自由平等の村」が営まれていたのだった。松子は十数年前の「資本主義工場」時代の貧弱な生活に比し、従業員たちの生活はくらべものにならなかったと自負していた(松子『測機舎を語る』180-181頁)。これは、当時としては先進的な住宅資金貸出制度を測機舎が持っていたから可能だったのである。1926年に実施されたこの制度によると、「労務出資者にして一家を構え、かつ貸出額10分の5以上の金銭出資を有する者」は、3000円を限度として、年7分の利子で、貸付を受けることができた(松子『測機舎を語る』70-71頁)。これによって、測機舎の周りには、13軒のスマートな住宅ができたのである。
松子は、こういう平等のほかに、さらに別の平等についても指摘している。をれは、「各組合員の資本の独占の制限」であった。松子は、それは、測機舎への金銭出資を、一人につき2万円以上所有することはできないとする制限であったという。こういう規定はいつできたのか不明である。これは1920年の規約の第8条にある「各組合員の金銭出資額は資金総額の五分の一を超ゆることを得ず」を指しているのではないかとも思われるが、定かではない。現状は、一万円以上の金銭出資をする人が十人以上もいて、出資の平等が実現していた。だから「測機舎で働いて居る誰もが、漸次肥り得る可能性を持って居る」のだと松子は言っている。しかも、「こうした利潤の独占を防ぐために、西川が創案したことが、偶然にして労農ロシアの私有財産制、すなはち「法定及び遺言による相続は・・・死亡者の債務を差引いた相続財産の総額が一万ルーブルを超えない範囲内に於いて許されるのである」と略一致せるところは、共産主義国にあらざる一小労働団体測機舎が、はるかに労農ロシアに冠たるものがありまして、一種の愉快と満足とを感ずるのであります」と自慢していた(松子『測機舎を語る』182頁)。
1932年4月、測機舎の創業12周年を祝う会が開かれた。この会で、挨拶した末三は、1920年の「宣誓書」を読み上げて確認し、測機舎は、他の企業のように毎年の利益の増大を目指すのではなく、「利益を度外に置き、精神の結び付きである協力一致」を目指してきたのであり、「利益が皆無になっても心が固く結ばれて居れば我測機舎は決して滅びない」と断言した(これは最後に述べるが、今日でいうワーカーズ・コレクティヴの考えそのものであった)。その他多くの人の挨拶の後、最後に松子が挨拶して、こう述べた。測機舎は「偉大な使命を帯びて生まれた」のである。その使命とは何か。
「それは申すまでもなく、産業の独立―工場の自治、それでございます。言い換えまするなれば、横暴非道な資本家の重圧の下から逃れ出た新進気鋭の皆さんが、自ら産業の独立を標榜して、雄々しくも労働戦線に勇猛邁進された、偉大なる事実でございます。しかもこの事実は、行き悩んでいる現今の我労働界のために、大なる教訓となり、まつ有益なる研究資料であるとともに、我労働界に先づ第一に特筆すべき、異彩ある労働の収穫であると、私は信ずるのでございます」(松子『測機舎を語る』185、189頁)。
こういう松子の社会主義的な発言がなんら抵抗なく受け入れられていたようであるが、そのことは重要なことであった。末三をはじめ舎内外の人々はこういう理解を程度の差はあれ共有していたのであろう。測機舎という特異な組織をうらで思想的に取りまとめていたのが、松子であったことが推測される。そして実際、測機舎の経験は「有益なる研究資料」となっているのである。先の労農ロシアとの比較といい、ここでの労働戦線への言及といい、測機舎が創立後の苦境の時期を乗り越えたあとの松子は、舎の歩みを社会主義という視線から見続けていたように思われる。彼女は社会主義を捨て去ったのではなかった。
この12周年記念会の後、松子は社員の妻たちに積極的に働きかけた。そして、「測機舎婦人会」を作り、「婦人懇親会」を開き、社内給食を始めた。まず、1933年4月に「測機舎婦人会」を作った。それは、家族のものが集まって、各自の障壁を取り除き、相親しみ相助け合い、固い一団となって測機舎を表玄関からではなく、裏に回って台所の方から擁立しようという趣旨からであった。「組合員の夫人達は食事の世話から、或は資金の調達に、時には販路の開拓に粉骨砕身して働いた」。「測機舎の成功の陰には尊い測機舎夫人の力があった」ことを踏まえてのことであった。この「測機舎婦人会」の主催で「測機舎婦人懇親会」が翌5月に開かれ、会には会員と子供たちが100人も集まり、大いに楽しんだ。末三も挨拶し、各組合の家庭の人たちも測機舎の「心持ち」に共感してくれていることを「少なからず愉快に感ずる」と述べた(松子『測機舎を語る』212-225頁)。
さらに松子は今日の「社内食堂」の先駆けを作った。すでに測機舎設立時の苦しい時に「昼の弁当は一つの釜の飯を食べよう」と呼びかけ、社員の妻たちによる食事作りが行われていたが、1933年10月から昼の弁当を「婦人会」が組織的に提供することになったのである。毎日当番を決めて50-60人分の昼食を準備したのだった(松子『測機舎を語る』256-275頁)。婦人会にせよ、社内食堂にせよ、松子は、女性の生き方を具体的な測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。
このような特異な労働者の生産協同組合である測機舎は、まず、ロバート・オーエンの理想にどこか通じるものがあった。すでにみたように、オーエンはニュー・ラナークで労働者の賃金や労働環境を整備して、生産を高めただけでなく、さらに、協同組合を作ろうとして、アメリカにおいて、自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニュー・ハーモニー村)の実現を目指したのであった。
しかしオーエンだけではない。それは、フ-リエのファランステールの考えにもいくらか通じている。これもすでにみたように、共同農場「ファランジュ」では、土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所「ファランステール」に居住するということになっていた。
測機舎はオーエンのニュー・ハーモニーやフーリエのファランステールほどの共同性を持ってはいなかったが、協同組合であるという点で、オーエンのニュー・ラナークよりは共同性が進んでいた。明確なことは言えないが、松子らは、オーエンやフーリエの思想を学んでいて、無意識のうちにそこから取り入れられるものを取り込んだのではないだろうか。
さて、1933年12月に末三と松子は趣旨を明記しない招待状を「近親知己及び測機舎関係者」85人に送った。集まってみると、これは末三50歳、末三の社会人生活30年、末三と松子の結婚25年を記念する会であった。ここには、末三の長兄の一男、次兄の順之も参加、ロシア文学の昇直隆らも参加して、それぞれお祝いのあいさつをした。とくに、昇は、松子がロシアの自然詩人として有名なブーニンの作品の翻訳をしていたが、「丁度数日前」ブーニンがノーベル賞を取ったことが新聞で報道されたと紹介し、25年も前にブーニンを理解し紹介した松子を褒め、彼女の名前も新聞で報道すべきだと述べた。末三の結婚や測機舎入りに反対していた長兄、次兄とも和解し、松子は「長い間心掛かりであった重荷を下ろしたような」爽やかな気分になったという(松子『測機舎を語る』226-250頁)。
測機舎は、1934年8月に合名会社に組織変更した。西川末三以下28人が合名会社の社員となった。変更の理由については、鹿子木は、組合組織では社会的に不便な点があることと、組合員個々の所有権等も法的な保証を得られないからであったという。樋口は、第三者との取引上の障害があったからだという。つまり、組合では法人格が得られないので、融資を受けるにしても組合を代表する個人が代行せざるを得なくなるからであった。いずれにせよ、法人格化されても、労働者生産協同組合の本質は不変であった(鹿子木『いのちの軌跡』151頁;樋口『労働資本』56-57頁)。
松子は1935年9月に『測機舎を語る』という著書を刊行した。それは検閲を考慮して測機舎が発行所となる私家本の形をとった。しかしこれは今日、日本最初の生産協同体・測機舎の歴史を知るための貴重な資料となっている。だが、松子はこの本の刊行の翌年1936年10月17日に、悪性リンパ腺肉腫のために逝去した。享年51歳であった(鈴木『広島県女性運動史』67頁)。松子は貧しい人や病気の人たちへの思いやりの大変厚い人であったから、その葬儀には会葬の人が絶えず、葬儀は一週間も続いたという(浅野豊和氏からの聞き取り)。
鈴木は、松子の生涯を次のように評価している。「初期社会主義運動への参加、結婚、ロシア文学の研究。測機舎創立というようにいくつかのふしめがあったが、松子の生涯を貫いたものは、“平民社の女性”として培われた”明治社会主義“の理想であり、思想であった」(鈴木、67頁)。先に見たように、鈴木は、1909年における松子の「転向」を断定してはいなかった。ここに見るような評価が鈴木の本音であるようだ。筆者も同じ見方をしていて、松子の初期の活動と測機舎での活動を切り離して考えるべきではないと考えている。
おわりに―世界史の凝縮としての測機舎
以上に見てきたように、測機舎は、ロバート・オウエンやシャルル・フーリエの社会主義思想を根本に持ったものであリ、ロシアのナロードニキ以来の社会主義思想や、ロシア革命のあとの「労働者統制」の実践にもなにがしかの影響を受けていたかもしれない。これらは松子の存在なくしては考えられなかったことであった。当時のいろいろな雑誌を見ればわかるように、世界の動きは積極的に紹介されており、社会主義についても様々な情報が入ってきていた。そういう中で、初期社会主義に入りこんできていたヨーロッパやロシアの社会主義思想という19世紀以来の一つの世界史の動きが、測機舎という存在に「土着化」したのであった。また組合運営における末三の忍耐強さと経営センスは、ほかならぬ台湾時代に培われたものであった。こういう意味で、資本の論理を抑え、労働者の価値を最大限に生かそうとした測機舎はまさに世界史の「土着化」に他ならないのである。
一方、このような測機舎の独特の組織は、その後の世界史の中では、第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理につながっているともいえ、さらに最近では、ワーカーズ・コレクティブの考えにもつながってきているのである。1950年代のユーゴスラヴィアでは、国有企業ではあるが労働者が評議会を作って経営についての決定をし、自ら自主管理・実行をするシステムが樹立されていた。またワーカーズ・コレクティヴというのは、「働く者が集団を形成して労働と知恵を出し合い、資金を出し合い、集団で運営(経営)する事業体」で、「労働、出資、支配が三位一体となった働く人々による集団所有の事業体」である。その目的は、株式会社などのような「利潤極大化」ではなく、「集団を形成する仲間(ソサエティー)の協同目標」である。多くは、「生産協同組合」や「労働者協同企業」と呼ばれている。諸外国では早くから注目されていたが、日本では、1980年代から関心が高まってきている(樋口『労働資本』5-6頁)。本稿で見たように、1920年代の測機舎の組織、目的などはまさにこのワーカーズ・コレクティヴに他ならなかった。
忘れてならないのは、松子が測機舎において作った婦人会や社内食堂のことである。1920年まで世界の動きを学びながら女性解放のために戦ってきていた松子は、具体的な女性の生き方を測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。女性解放という面でも世界史の「土着化」の試みを見ることができるということである。
その後の測機舎は、軍の指示により1943年には株式会社になった。しかし、株式会社になっても、生産協同組合の要素を色濃く残した株式会社として存続した。確かに労務出資という概念はなくなり、組合員はたんなる持ち株労働者となった。しかし、株式会社になっても株主は労働に従事し、支配株主も存在しなかった。資本の支配に単純に順応することは潔しとしなかったのである(樋口『労働資本』58-59頁)。平等主義は続いていて、1963年に東京証券取引所市場第二部に上場するまで、会社には部長職、課長職などは存在しなかったという(浅野氏からの聞き取り)。 【完】
参考文献
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
(「世界史の眼」No.10)