拙稿「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」(上・下)が「世界史の眼」に掲載された後、『真珠の世界史』(中公新書)の著者、山田篤美さんから、南洋庁の「部外秘」文書である『世界主要地に於ける眞珠介漁業』(1937年)のコピーを恵与いただいた。大変な苦労をして「発掘」されたこの「部外秘」文書のコピーを恵与いただいたことに深く感謝する。
前記の拙稿は乏しい文献に依拠して書かれた部分があり、『世界主要地に於ける眞珠介漁業』に照らしてみると不正確あるいは不十分な点がいくつかある。以下では、真珠貝採取業と真珠養殖業に分けて、修正と補足を行いたい。
1 真珠貝採取業にかんして
拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。
1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。
この一文を以下のように修正する。
1931〔昭和6〕年末はじめて、日本の一隻の真珠貝採取船がパラオ諸島コロール島からアラフラ海方面に出漁した。その後、日本の真珠貝採取船の数は急増し、1936(昭和11)年には81隻に上った。水揚げされた真珠貝は三井物産株式会社神戸支店に委託販売され、大部分が神戸からニューヨークに輸出された(『世界主要地に於ける眞珠介漁業』2-3頁)。こうして、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(山田篤美『真珠の世界史』126頁)。
2 真珠養殖業に関して
拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。
他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。
この一文を以下のように修正する。
他方、真珠養殖業では、1918年に南洋産業株式会社がパラオで真珠養殖試験を開始した。1926年、御木本真珠がこれを買収し、始めはアコヤ貝と黒蝶貝を使用していたが、1935年より白蝶貝(シロチョウガイ)の試験的養殖を始めた。これがパラオにおける白蝶貝養殖の始まりである。翌1936年、本稿の主題となる南洋真珠株式会社がパラオ諸島ウルクタベール(ウルクターブル)島の北岸(マラカル港岸)に白蝶貝を母貝とする真珠養殖場を設立した。
拙稿の「1 石川達三のパラオ行」中に次のような記述がある。
南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。
石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。
この一文を以下のように修正する。
南洋真珠は、1936年には、パラオ諸島のウルクタベール(ウルクターブル)島に真珠養殖場を開設した。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。
石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のパラオ真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。